【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりですがまだまだ寒いですね。今年の2月は一日多く、少し得をした気分になりますね。その分、春の訪れも先延ばしになったように感じられます。一日も早く暖かい、過ごしやすい陽気になることを願うばかりです。
本日は古代ローマ帝国の皇妃ルキラとそのコインについてご紹介します。
ルキラ/コンコルディア女神
(AD166-AD169, デナリウス銀貨)
アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキラ(*Lucilla, ルッシラとも呼ばれる)はローマ帝国の黄金時代とされる2世紀半ばに生まれました。父親は哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、母親のファウスティナは五賢帝の一人アントニヌス・ピウスの娘でした。
マルクス・アウレリウスとファウスティナの間には14人の子が生まれましたが、その多くは成人前に病没しました。ルキラの双子の兄ゲメルス・ルシラエも幼くして没しています。
アントニヌス・ピウス帝治世下に発行されたアウレウス金貨 (AD149, ローマ)
裏面には交差する二本のコルヌ・コピア(=豊穣の角)が表現され、上部には幼児の頭部が確認できます。これはルキラとゲメルス・ルキラエを表現したものとされ、皇帝の孫の誕生を記念する意匠となっています。
祖父アントニヌス・ピウス帝が崩御し、父のマルクス・アウレリウスが帝位を継承した161年、弟コンモドゥスが誕生します。アントニヌス朝の皇子として大切に育てられたコンモドゥスは、将来の皇帝として生まれた時から期待されていました。
一方でルキラもアントニヌス朝を盤石にするための役割を与えられました。
父マルクス・アウレリウスは即位にあたり、義理の弟であるルキウス・ウェルスを共同統治帝に指名し、兄弟共に即位しました。ルキウス・ウェルスはかつてハドリアヌス帝の後継者とされたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子であり、マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウス帝の養子となっていました。
マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウス帝は義弟ルキウス・ウェルスに自らの娘であるルキラを嫁がせることにより、二人の皇帝による共同統治体制を盤石なものにしようとしました。164年に結婚が成立。この時ルキウスは34歳、ルキラは15歳でした。
この結婚によりルキラは母親であるファウスティナと同じアウグスタ(=皇妃)の称号を得、彼女の姿を表現したコインが発行されるようになりました。
ルキラのデナリウス銀貨 (AD166-AD169, ローマ)
ルキラのコインはルキウス・ウェルス帝と結婚した直後の164年から、夫が亡くなる169年までのおよそ5年間発行されました。
すべてのコインには「AVGVSTA(=皇妃)」の称号が刻まれ、彼女が皇妃であった時期にのみ製造されたことが分かります。そのため確認されているコインの種類はファウスティナと比べて少なく、発行数も父や夫と比べると少なかったことが窺えます。
金貨・銀貨・銅貨もすべて同じ肖像のスタイルが採用されています。母親のファウスティナとよく似た髪形をしていますが、やや丸顔で幼さを残した印象です。
母ファウスティナのデナリウス銀貨 (AD161-AD164)
ルキラは夫のパルティア遠征にも付き従い、ローマを離れてシリアで過ごすようになります。この間に3人の子供を授かり、夫婦としての関係性は保たれていましたが、結婚から5年後の169年2月ルキウス・ウェルスは外征先で脳溢血に倒れ、そのまま崩御してしまいました。
ルキウス・ウェルスは神格化され丁重に葬られましたが、夫の死によってルキラは皇妃の称号を失うことになります。父マルクス・アウレリウスは後添えとしてティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌスというシリア出身の貴族と再婚させますが、これによって皇妃の身分を再び得ることはできず、格下げのような形になりました。
180年に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、帝位は息子コンモドゥスに継承されました。哲人皇帝と称えられた父親と異なり、コンモドゥスは暴力的で自己顕示欲が強く、誇大妄想の傾向がみられました。この頃から姉ルキラと弟コンモドゥスの不和と対立が始まったと推測されています。
さらにコンモドゥスの妻であるクリスピナとも不仲であり、皇妃の称号を失ったルキラは宮廷から遠ざけられる状況に危機感を覚えていました。この頃からアウグスタの称号を添えたクリスピナのコインも発行され始めています。
コンモドゥスとクリスピナ
コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスと似た風貌ですがやや目蓋が重い印象です。クリスピナはファウスティナやルキラと比べると細面で、首元が長く表現されています。
皇帝一族内の確執は単なる御家騒動に収まらず、やがてクーデターの陰謀として多くの人々を巻き込んでいきました。ルキラと夫クィンティアヌスを軸とし、元近衛長官パテルヌス、ルキラの娘プラウティア、夫クィンティアヌスの甥などが関与し、コンモドゥス帝暗殺計画が練られました。皇帝暗殺後はクィンティアヌスが皇帝に即位し、ルキラが再び皇妃の称号を得て復権する予定でした。
182年、皇妃クリスピナが妊娠したことを契機とし、コンモドゥス帝暗殺計画が実行に移されました。クィンティアヌスの甥が物陰に隠れ、近づいてきたコンモドゥス帝を短剣で刺し殺そうとしたものの、その際に「これが元老院からの贈り物だ!」と叫んだことですぐさま近衛兵に捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
コンモドゥス帝は傷ひとつ負いませんでしたが、ただちに計画に関与した姉ルキラと夫クィンティアヌス、その子供たちを逮捕し、カプリ島に追放した後に当地で処刑しました。
こうしてルキラの復権の野望はあえなく潰えましたが、実姉に命を狙われたことや暗殺者の掛け声(=これが元老院からの贈り物だ!)はコンモドゥス帝の人間不信感情をより悪化させ、ますます政治から遠のき暴君・暗君の道を辿ることになったのです。
暗殺未遂事件から10年後の192年、コンモドゥス帝は近習の近衛隊長と愛人の策略によって暗殺され、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いたアントニヌス朝は終焉しました。
権力闘争によって最期を遂げたルキラですが、暴君となった弟に処刑された悲劇性からか、後世の映画ではヒロインとして描かれることも多くあります。
『ローマ帝国の滅亡』(1964)
『グラディエーター』(2000)
『ローマ帝国の滅亡』ではソフィア・ローレン、『グラディエーター』ではコニー・ニールセンがルキラを演じました。どちらの作品でも弟コンモドゥスによって虐げられ、その暴政を止めようと尽力し、主人公によって救われるヒロイン像として表現されています。
伝わっている史実とはイメージが大きく異なりますが、映画作品としては見応えがありますので、気になる方はぜひご覧ください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
最近はようやく涼しくなってきたように感じます。蒸し暑い日から少しでも過ごしやすい日々になることを願ってやみません。
季節の変わり目は気温の変化も激しいので、体調管理には気をつけていきたいものです。
現在、上野公園の東京都美術館では『永遠の都 ローマ展』が開催中です。
ローマのカピトリーノ美術館より、古代から近代に至るまでの美術品の数々が来日しています。
↓クリックすると公式サイトへ
カピトリーノ美術館はローマの七つの丘の一つ、カピトリーノの丘に建てられた歴史ある美術館であり、古代から近現代に至るローマの美術品が収蔵展示されています。
カピトリーノは古代ローマではカピトリヌスと呼ばれ、七つの丘の内で最も高い丘として最高神ユーピテルやユノー、ミネルヴァの神殿が建立されていました。共和政時代~帝政時代に至るまでローマの中心として神聖視され、ローマ帝国消滅後も都市の中心部であり続けました。
英語で首都を意味するキャピタル(Capital)の語源になった場所とされ、現在ではミケランジェロが設計した美しい広場を中心に、美術館やローマ市庁舎が建ち並んでいます。
今回来日している美術品の中には、古代ローマの象徴として知られる「牝狼とロムルス&レムス」もあります。ポスターとして使用されるほど有名なカピトリーノの牝狼像、今回は複製ではありますが、本物の大きさや毛並み、質感を忠実に再現したブロンズ像です。
カピトリーノの牝狼
(ローマ展公式サイトより)
なおオリジナルの像も狼は古代エトルリア製で、ロムルス&レムスはずっと後の15世紀後半 ルネサンス期に付け加えられたものであり、古代ローマ人の手はほとんど入っていない作品と考えられています。
今回の展覧会では門外不出といわれた「カピトリーノのヴィーナス」が展示されています。
カピトリーノのヴィーナス像
(wikipediaより)
紀元前4世紀にギリシャの彫刻家プラクシテレスが手がけた作品を基に、2世紀 五賢帝時代のローマで作成された大理石像。数多く作成された古代ギリシャ・ローマのヴィーナス像の中でも特に有名な作品の一つです。
傑作と名高いプラクシテレスの作品は後世にも人気を博し、ローマ帝国では富裕層の邸宅を飾るために複製(ローマンコピー)が作成されました。オリジナルは失われてしまいましたが、こうした複製のおかげでその芸術性が後世に残されることとなりました。
この作品はカピトリーノ美術館でも多角形の特別な部屋に展示されていますが、今回の展覧会ではその空間まで再現されています。展示品本体が持つ空気をも魅せる、こだわりの工夫が為されています。
さらに今回はローマ皇帝の肖像も多数展示されています。
ユリウス・カエサルや初代皇帝アウグストゥスをはじめ、トラヤヌスやハドリアヌス、カラカラといった有名な皇帝たちの胸像が多く見られます。
当時を生きた皇帝たちの姿を模った肖像は、それぞれに個性と人間性があり、対面すると存在感と質量が伝わってきます。当時、実際に対面していない人々にも皇帝の存在を実感させる効果があったと思われます。
アウグストゥス像
(ローマ展公式サイトより)
コンスタンティヌス帝像 (複製)
(毎日新聞 2023/9/16 記事より)
今回のメインのひとつでもあるコンスタンティヌス大帝の巨像は、頭部だけで高さ1.8mという巨大なもので、足や手のパーツ部分だけでも見るものを圧倒させる巨大さです。複製であるとはいえ、実際に相対すると威圧感があり、コンスタンティヌス大帝が掌握した権力の強大さが想像できます。
大仏のようなサイズ感ですが、顔つきは生きている人間のようにリアルであり、1700年前にこれだけの巨像を製作できるローマの技術力の高さには驚くばかりです。この像が完全な形で後世に残されなかったのが悔やまれます。
この他にもトラヤヌス記念柱のレリーフ展示や種々の大理石像、ルネサンス期以降の絵画など、長い歴史を持つローマだからこそ生み出せた貴重な作品が数多く展示されています。
イッポリート・カッフィ『フォロ・ロマーノ』(1841)
カヴァリエル・ダルビーノ『狩人としての女神ディアナ』(1600-1610)
ちなみにコインは「牝狼とロムルス&レムス」を表現した金貨・銀貨・銅貨が並んでいます。カピトリーノ美術館所蔵のコレクションだけあって、どれもすばらしい状態です。
『永遠の都ローマ展』は上野公園の東京都美術館で12月10日(日)まで開催中です。
※土日・祝日は日時指定予約制 (*当日の空きがあれば入場可能)
※2024年1月5日~3月10日は福岡市美術館に巡回予定
ローマ史に少しでも興味関心がある方はぜひ足をお運びください。日本ではなかなかお目にかかれない展示物の数々、行って損はないと思います。
近くの御徒町には当店 ワールドコインギャラリーもございます。展覧会見学の帰り道に、ぜひお立ち寄りくださいますと幸いです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
まもなく大型連休、ゴールデンウィークの時期です。今年はコロナの規制がほぼ無くなり、3年ぶりに例年通りの賑やかさが戻ってきそうです。人の移動も盛んになり、観光地も忙しくなりそうですね。
ワールドコインギャラリーの定休日は水曜日ですが、憲法記念日の5月3日(水)は通常営業を行います。
5月最初の一週間は休まず営業しておりますので、連休中はぜひお越しください。皆様のご来店・お問い合わせをお待ちしております。
今回は小アジア(*現在のトルコ)のカッパドキアで造られたコインをご紹介します。
紀元前281年のカッパドキア王国
カッパドキアといえば奇岩群で有名な世界遺産があり、トルコを代表する名所として世界中から観光客が集まります。アナトリア高原の中央部に位置し、冬の寒さは厳しく降雪量の多い土地でもあります。
カッパドキアの奇岩群
またギリシャ~ペルシアの中間地点である地理的条件から、古代より大国間の交流・衝突の場にもなりました。紀元前6世紀に小アジアの大半がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、カッパドキアには太守が派遣され、独立した行政州として統治されました。太守をはじめとする支配層の多くはペルシア人であり、アケメネス朝の支配下ではペルシア文化が根付いてゆきました。
なおカッパドキアの名称はペルシア語で「美しい馬の国」を意味する「カトパトゥク (Katpatuk)」が由来になっているとされ、同州の特産品として本国に献上されていたと考えられています。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征が始まると、カッパドキアのペルシア人はマケドニア軍に反抗しましたが、アケメネス朝そのものが滅ぼされると太守アリアラテスは王を自称し、アリアラテス朝カッパドキア王国が成立しました。その後はマケドニアやセレウコス朝に従属するも、紀元前3世紀後半には再び自立しました。
カッパドキア王国はアケメネス朝支配下で設置されたカッパドキア州に由来する経緯から、ペルシア文化が根強く残された点が特徴でした。王や貴族はペルシア貴族の末裔であり、アケメネス朝で信奉されていたゾロアスター教(拝火教)の神殿が国内に多く建立された他、独自の暦も制定しました。首都のマザカ(*現在のトルコ,カイセリ)はペルシア風都市として建設され、周辺には複数の砦が築かれて強固な防衛線を成していました。
王名「アリオバルザネス」「アリアラテス」はペルシアの名であり、その血統のルーツを示しています。ペルシア語やアラム語が広く用いられ、さながらペルシアの内陸飛び地の様相を呈していました。
一方でセレウコス朝やペルガモン王国といった周辺のギリシャ系王朝の影響も受け、時代が経るとヘレニズム文化が定着するようになりました。
特にヘレニズム文化が顕著に反映された例がコインでした。
表面には王の横顔肖像、裏面にはアテナ女神とギリシャ文字による称号という、典型的なヘレニズム様式のコインが多く生産されるようになりました。
ここで示された称号は王を表すペルシア語の「シャー」ではなく、ギリシャ語の「バシレイオス」が用いられました。
アリアラテス5世のドラクマ銀貨
表面にはダイアデム(王権を示す帯)を巻いたアリアラテス5世の横顔肖像、裏面には武装したアテナ女神像が表現されています。右手上には勝利の女神ニケを乗せ、周囲部には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΑΡΑΘΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ (=王たるアリアラテス 敬虔者)」銘が配されています。
下部の「ΓΛ」銘は王の治世33年目(=紀元前130年)を示し、製造年の明記がカッパドキアのコインの特徴として継承されました。王の肖像は代が替わると変更されましたが、アテナ女神像はそのままだったことから、王家はアテナ女神を守護神として崇敬していたようです。
アリアラテス5世はペルガモン王国と同盟して領土を拡大させた王であり、首都マザカはコインにも示されている王の敬称「ΕΥΣΕΒΟΥΣ」に因み一時的に「エウセベイア」に改称されました。
アリアラテス7世のドラクマ銀貨 (BC108-BC107)
紀元前2世紀末になると小アジアのヘレニズム諸国の紛争は激しさを増し、カッパドキア王国を統治してきたアリアラテス朝の内部でも権力闘争が行われました。若くして即位したアリアラテス7世は隣国ポントス王国のミトリダテス6世の後ろ盾で王位に就いたものの、傀儡になることに反抗したため暗殺されました。
アリアラテス9世のドラクマ銀貨 (BC89)
アリアラテス7世を排除したミトリダテス6世はカッパドキア国内の混乱に乗じ、弱冠8歳の王子を送り込みアリアラテス9世として王に即位させました。
コインの肖像も父親であるミトリダテス6世に似せた造型になっています。
この内乱状態に際し、有力貴族のアリオバルザネス家はローマの支援を受けて反攻し、紀元前96年にアリオバルザネス1世が王位を宣言しました。
その後ビテュニア王国やアルメニア王国も干渉しカッパドキアの内乱は激しさを増しましたが、最終的にポントス王国がローマに敗れた(第一次ミトリダテス戦争)ためアリアラテス9世は追放され、アリオバルザネスの王権が確立されました。(=アリオバルザネス朝)
アリオバルザネス1世(在位:B96-BC63)のドラクマ銀貨
アリオバルザネスは先のアリアラテス朝の様式を踏襲してコインを発行しました。アリオバルザネス1世は在位期間が長かったことから、肖像も若年像⇒中年像⇒老年像と変化がみられます。
裏面のアテナ女神像も継承されていますが、アリオバルザネスがローマの後援を受けて王位に就いたことを示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス ローマの友)」銘が配されています。
「ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=ローマの友)」はアリオバルザネス朝のコインの特徴的銘文であり、その後100年のカッパドキア王国は周辺諸国との安全保障上、常にローマの同盟国であり続けました。
アリオバルザネス3世(在位:BC51-BC42)のドラクマ銀貨
裏面には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ ΚΑΙ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス・エウセベス 敬虔にしてローマの友)」銘が配されています。この頃になるとカッパドキア王はローマ元老院の認証をもって王位を宣するようになり、名目上は同盟国でも事実上は属国となっていました。
アリオバルザネス3世はローマ内戦において当初ポンペイウスを支持したものの、勝敗が決するとカエサルに鞍替えして領土を拡大させました。そのため後にブルートゥスが小アジアへ拠点を移した際、裏切り者の王としてカッシウスによって処刑されました。
同時代のローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、まだゾロアスター教の神殿や風習、社会身分制度が色濃く残されており、かつてこの地を支配したアケメネス朝の名残がみられる独特な王国として知られていたようです。アリオバルザネス朝もペルシアにルーツを持つ貴族の出身であり、その古い文化を尊重しつつも政治的な思惑も絡み、ギリシャ・ローマ化を推進していました。
紀元前1世紀、アリオバルザネス朝時代のカッパドキアは事実上ローマの属国でしたが、名目上は独立した王国として存続していました。しかし最後の王となるアルケラオスはローマ皇帝ティベリウスの弾劾を受け、その直後の紀元17年に没すると、ローマは王国を廃して「カッパドキア属州」として直接統治下に組み込みました。首都のマザカはカエサルの名を冠する「カエサレア」と改称され、東方への交通要衝として二個軍団と補助部隊が常駐しました。この改称名は現在の都市名「カイセリ」として定着しています。
独立を喪失した後のカッパドキアでは、ローマ本国とは異なる独自のコインが発行されました。カッパドキアの地理的重要性から、ローマ軍団やローマ人が多数常駐したため、彼らへの大量の給与を現地で生産・支払う必要があったこと、さらに交易の要衝として経済的にも発展したため、経済活動が活発化したことがその理由です。一国並みの大きな経済圏を有していたため、ローマは自国の通貨をそのまま供給せず、現地に定着したドラクマ幣制を維持して属州内で独自コインを流通させました。
コンモドゥス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD181-AD182)
カッパドキア属州で発行されたドラクマ銀貨には、表面に皇帝の横顔肖像、裏面にはカッパドキアの名峰アルガエウス山(=エルジェス山)が抽象的に表現されています。周囲部にはカッパドキアの奇岩群、頂上部には輝く星があることから、当時の山岳信仰を象徴する意匠とみられます。
皇帝の称号は全てギリシャ語で表記され、裏面の下部には製造年が配されており、王国時代のコインを部分的に継承しています。ただしコインの重量は軽減されており、インフレーションの緩やかな進行が垣間見えます。
アルガエウス山 (=エルジェス山, 標高3,916m)
カイセリから南に25kmの位置に聳える火山であり、カッパドキアの独特な奇岩群はこの火山の噴火によって形成されたと考えられています。ギリシャ神話に登場する百目の巨大怪物アルゴス(*ラテン語でアルガエウス)からその名が付けられました。
セプティミウス・セウェルス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD206)
裏面アルガエウス山の上部には属州都市カエサレアで製造されたことを示す「MHTΡ KAICAΡ (=首都カエサレア)」銘が配されています。
ゴルディアヌス3世治世下のドラクマ銀貨 (AD240-AD241)
3世紀末にディオクレティアヌス帝の貨幣改革が実施されると、共通規格の銅貨が帝国各都市で大量に製造され、属州毎に製造されていた多種多様なコインは造られなくなりました。カッパドキアも同じく独自コインは製造されなくなり、王国時代の名残は消えていったのでした。
カッパドキア王国~属州時代のコインはドラクマ銀貨が主流であり、日常的に使用するコインだったことから大量に生産されました。そのため現在でも年代順に集めることが可能であり、コレクションや研究対象として面白いテーマになりそうです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
3月になり一気に暖かくなってきましたね。今年は桜の開花も早く、各地でお花見日和です。コロナの規制も緩和され、マスク無しで外出される方も増えたように感じられます。花粉症の方々には厳しい季節ですが、春の訪れとともに明るい空気が戻ってくれば幸いです。
今回は3月ということで、3月=Marchの語源となった「マルス」とそのコインをご紹介します。
マルスは古代ローマの軍神であり、特に兵士たちに崇敬されていました。当時の男性名「マルクス」「マリウス」「マルティヌス」などはマルス神にあやかってつけられた名前です。
ローマの主神のひとつとして篤く信奉されましたが、もともとは田畑を守る農耕神とされていました。そのため農耕が始まる季節がマルス神の月とされ、そこから3月=Martius=Marchとして定着するようになりました。
また、火星を示す「Mars」もマルス神が由来になっています。火星を示す惑星記号「♂」はマルス神の槍を図案化したものとされ、現在では男らしさ=雄を示す記号としても定着しています。
雪解けの季節は軍事行動を開始する時期とも重なることから、ギリシャ神話のアレス神と同一視されて軍神としての性格も帯びるようになりました。
しかし戦闘の狂気を引き起こし、暴力的性格の強いアレスとは異なり、ローマにおけるマルスは都市国家と兵士たちの守護神として大切に信奉されていました。その神像は筋骨隆々とした男性(主に青年像)として表現され、兜を被る姿が多く見られます。
また、ローマ建国神話では建国者ロムルス&レムス兄弟の父親とされ、ローマのルーツとなった神として認識されていました。
マルスとレア・シルウィア
(ルーベンス作, 1617年頃)
アルバ・ロンガの王女レア・シルウィアは巫女として生涯独身を運命付けられるも、マルス神に見初められて軍神の子を懐妊。生まれた双子の男児ロムルスとレムスはティベリス川に流されますが、流れ着いた岸辺で雌狼に助けられ命を繋ぎました。この伝承はマルス神の聖獣が狼であることも大きく関係しているようです。
マルス神の姿は共和政時代からコインの図像として盛んに表現されていました。その姿は兜を被った青年の姿であり、本来の農耕神としての性格はほとんど見受けられません。征服戦争が盛んだった紀元前2世紀以降、デナリウス銀貨が兵士への給与として支払われたことを鑑みると、軍神が貨幣の意匠に取り入れられるのは極めて自然なことでした。そのため、裏面には兵士たちの勇ましい姿が多く表現されていました。
紀元前137年に発行されたデナリウス銀貨には兜を被るマルス神が表現されています。その兜には麦穂の飾りがあり、農耕神としての性格を併せ持つことを示しています。
裏面には「ROMA」銘の下に三人の男たちが表現されています。中央の男が軍に入隊するに伴い、二人の兵士が立会人(*左側の兵士は髭を生やし、腰も曲がっていることから古参兵、または年長の老兵とみられる)として儀式を執り行う様子とみられます。抱かれた子豚はマルス神に捧げられる犠牲獣と解釈できます。
紀元前108年頃に発行されたデナリウス銀貨には、勝利の女神ウィクトリアとマルス神が表現されています。裸のマルス神は兜を被り、戦勝トロフィーと長槍を携えています。腹筋が割れた姿で表現され、男性的な肉体美を強調しています。一方で右側には麦穂が配され、農耕神としての性格も示されています。
紀元前103年発行のデナリウス銀貨にはマルス神の横顔像と、戦う兵士たちの姿が表現されています。中央には膝から崩れ落ちる兵士も表現され、細かい部分までリアリティを追及している構図です。
ガリア戦争中の紀元前55年に発行されたデナリウス銀貨。表面のマルス神はトロフィーを背負い、戦勝を誇示する姿です。裏面にはローマの騎兵と打ち倒されるガリア兵たちが表現されています。
紀元前76年のデナリウス銀貨にはマルス神と羊が表現されました。牡羊座の守護神はマルスとされ、星座との関係性を示す意匠です。
紀元前88年のデナリウス銀貨には肩越しのマルス神が表現されています。肩には革紐を襷がけし、槍を持って遠くを見据える凛々しい青年像です。
裏面は馬戦車を駆ける勝利の女神ウィクトリアが表現されています。
帝政時代以降もマルス神は国家守護の主神として篤く信奉されました。
皇帝のコインには度々マルス神の姿が登場し、皇帝個人の武勇と兵士たちの長久を祈念しました。外征などの大規模な戦役が行われた場合、コイン上にマルス神が多く表現されたようです。
初代皇帝アウグストゥスの治世下に発行されたデナリウス銀貨。紀元前19年頃に造られたこのコインには、敵から奪った戦車が納められたマルス神殿が表現されています。アウグストゥスはユリウス・カエサルを暗殺したブルートゥスたちを打ち破った記念として、ローマ市内中心部のフォルム(広場)にマルス・ウルトル(復讐のマルス)神殿を建立しました。最終的な完成と奉納は紀元前2年5月12日とされることから、コインには計画段階の姿が表現されたとみられます。
トラヤヌス帝は積極的な領土拡大策によってローマ帝国の版図を史上最大にしました。ダキア征服後の114年~116年頃に発行されたデナリウス銀貨には、戦勝トロフィーを担いで堂々と歩むマルス神の姿が表現されています。当時はパルティア遠征の最中であり、ローマの軍事的成功を祈念する意匠として採用されました。
ハドリアヌス帝治世下の121年頃に製造されたデナリウス銀貨。裏面のマルス神像は先帝トラヤヌスのコインをそのまま継承した構図。ハドリアヌス帝はトラヤヌス時代の領土拡大路線を見直し、現状維持に努めたことで知られます。この年代はハドリアヌス帝が属州巡幸を開始した時期と重なり、各地の駐留軍団への視察が影響した意匠ともみられます。
投稿情報: 18:02 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりに近づき、段々と暖かくなってまいりました。梅や河津桜があちこちで咲き始め、春の足音を感じます。
今回は古代ローマ帝国で流行したコインジュエリーについてご紹介します。
現代でもコインを使用したペンダントやリング、ブレスレットなどのジュエリーは人気がありますが、古今東西コインをジュエリーの素材として用いる文化は広く見られました。
西洋でコインジュエリーが定着したのは、2000年前のローマ帝国からだと考えられています。初代皇帝アウグストゥスは古代ギリシャのコインを趣味的に収集していたと伝えられることから、既にこの時代にはコインが経済的意味だけでなく、歴史・文化・デザインの面から評価されていたことが窺えます。
アウグストゥス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
(大英博物館所蔵)
2世紀の五賢帝時代、ローマ帝国は安定的な繁栄によって市民生活にも余裕ができ、貴族や富裕層の間で華美な装飾が流行しました。より手軽な色ガラスや色石、輝石、カメオを使用したブローチなどは幅広い階層で用いられましたが、より富裕層は金を用いて存在感を示したのです。こうしたジュエリーの着用は男女を問わず、メダルや勲章など政治的な意味合いを持つ記念品も多く作成されています。
ジュエリーの素材として最も人気があったのは金でした。現代以上に金の採取が難しくコストがかかり、また経済的な資材としての役割が大きかった金は、身に着ける資産としても重要であり、着用者の社会的地位と経済力を誇示しました。
貴重な素材を加工する彫金技術は、現代の進んだ技術力と比べても非常に高度でした。コインという小さな素材に枠を巻き、周囲に輝石をはめ込む技術は、照明すら不完全な2000年前の工房を想像すると驚異的な技術です。
デキウス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
裏面の縁は伏せ込み型の金枠になり、周囲には縄目紋様の装飾枠が追加で巻かれています。
セプティミウス・セウェルス帝のデナリウス銀貨を使用したペンダント
上図の金貨と同じように伏せ込み型の枠が巻かれています。金具がつけられていた位置から推定すると、裏面(=月と星)を表面にして使用していたとみられます。
表面と裏面から銀枠を重ね合わせており、コインの大きさに合わせた二つの枠を作製⇒貼り合わせていたことが分かります。
ジュエリーにコインが使用されている点は、その作品の制作年代を推定するのに非常に役立ちます。現存しているコインジュエリー、特に金貨を用いたものの多くは3世紀以降に造られています。
フィリップス・アラブス帝のアウレウス金貨を用いたブローチ
(3世紀後半に作成か, 大英博物館所蔵)
金の安定的な供給によって金貨の発行数が増えても、その多くは資産として退蔵されたり、東方との交易決済用として国外に流出していました。そのため金貨を用いたジュエリーがどれほど贅沢な装飾品だったか、想像に難くありません。ローマ人にとってジュエリーは単なるおしゃれとしてではなく、資産の保全であり、また護符(お守り)として一生身に着けるものでした。そのため貴重な金貨をジュエリーに加工することも抵抗は無かったかもしれません。
しかし当時のコインジュエリーと現在のコインジュエリーについて決定的に違う点は、ローマ時代のコインに表現された皇帝・皇妃たちはリアルタイムの権力者だった可能性が高い点です。
一般的に金貨のジュエリーを身に着けていたのは高位の人物だったと考えられており、一説には現皇帝に対する忠誠を示すための意味もあったとされています。
現存するコインジュエリーの多くが、豪奢で一族専制的なセウェルス朝以降に作成されていることから考えても、決して無関係でないように思われます。使用されているコインだけでなく、それらを用いた作品も時代の空気を反映させています。
エラガバルス帝のアウレウス金貨を使用したペンダント
フランスのボーレン, またはアラスで出土。発見時は8つの金貨ペンダントとセットになっており、他にハドリアヌス帝、小ファウスティナ妃、コンモドゥス帝、カラカラ帝、ユリア・ドムナ妃、ポストゥムス帝のアウレウス金貨が使用されていました。
政治的なアピールや宗教的な意味合いもさることながら、コインに美術的価値を見出していた点は、現代人との感性の共通を感じさせます。輝石や貴金属、カメオと並んでコインもジュエリーの素材として用いる文化は、帝政時代の古代ローマで定着したといえるでしょう。
現在作成されているコインジュエリーも、今後は貴重な作品として評価される日がやってくるかもしれません。職人による手作業の工芸作品である点もさることながら、電子決済・キャッシュレスの時代におけるコインの存在義について、後世に形として伝える意義もあると考えられます。また、金を常日頃から身に着ける資産保全性は、古代も現代も、そして将来も変わらないでしょう。
コインジュエリーは「貨幣」として生み出されたコインを装飾品に生まれ変わらせた芸術作品です。古代ローマ人のようにお守りとして、身に着ける資産として大切にする精神を重んじたいと思います。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日が暮れると少し涼しくなったようにも感じますが、やはり日中は暑いですね。まだ夏は続きます。
今回はローマ帝国屈指の暴君として悪名高い「カラカラ」のコインをご紹介します。
ローマ帝国 216年頃 デナリウス銀貨
カラカラは3世紀初頭のローマ帝国に君臨したセウェルス朝の皇帝であり、父は北アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルス、母はシリア出身のユリア・ドムナです。有名な胸像は日本でも美術室のデッサン見本として置かれており、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。
カラカラ帝胸像
(ナポリ美術館)
188年に生まれたカラカラは当初ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスと名付けられ、10歳のときに父親が政敵たちを打ち破って皇帝に即位すると、過去の偉大な皇帝たちにあやかりマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名しました。
現在広く知られている「カラカラ」という呼び名は渾名であり、本人が好んで着用していたフード付きチェニックの名に由来しています。
そのため、当時発行されたコインには「カラカラ」という名は刻まれず、正式名称のアントニヌスが称号銘文として使用されていました。銘文だけでは五賢帝時代のコインと混同してしまいますが、特徴的な肖像によって区別することが可能です。当時発行されていたコインの肖像と上の胸像を見比べると、この個性的で気性の荒そうな外見が見事に表現されていることが判ります。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
カラカラ帝はこの胸像から受ける印象の通り、気性が荒く粗野な人物だったようで、歴史書からは散々な評価がなされています。コインの銘文には「敬虔」を意味する「PIVS (ピウス)」の称号も添えられていますが、その実態は尊い称号には程遠いものでした。
彼には一歳違いの弟ゲタがいましたが、兄弟仲は子供の頃より不仲であり、やがて成長するにつれて帝位継承を巡る確執にまで発展します。両親は兄弟の不仲を長く心配していましたが、周囲の取り巻きたちはそれぞれの側に付いて対立を煽ったため、関係が修復する見込みはありませんでした。
ゲタの肖像が表現されたデナリウス銀貨 (199年-202年)
211年に父帝セプティミウス・セウェルスがカレドニア遠征の最中に没すると、兄弟はさっさと遠征を切り上げてローマに帰還し、共に皇帝として即位しました。かつてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが兄弟で皇帝に即位したのと同じく、権威を分け合うことでセウェルス朝の安定を図りましたが、両者の対立はすぐに再燃してしまいました。
皇帝に即位したゲタのデナリウス銀貨(210年)
兄カラカラとよく似た印象の肖像。皇帝としての発行貨はわずか一年ほどでした。
カラカラは母親ユリア・ドムナを交えてゲタと会見し、その場で弟を刺殺して葬りました。さらにゲタの支持者や従者、彼に弔意を示したと見做された者まで、数多くの人々が粛清されました。その数はおよそ2万人に及び、中には自らの名の由来となった賢帝マルクス・アウレリウスの娘や、自らの妻プラウティラまで含まれていました。
プラウティラとカラカラの結婚を祝すデナリウス銀貨 (202年)
父セプティミウス・セウェルスによって決められた政略結婚でしたが、カラカラはプラウティラを忌み嫌い、陰謀の嫌疑をかけてカプリ島に追放しました。
そしてゲタの肖像や銘文をあらゆる公共の場から削除したほか、ゲタの姿が刻まれたコインすら回収して溶かしてしまったと云われています。
セプティミウス・セウェルス帝一家の肖像
(ベルリン博物館蔵)
左下の肖像が消されている人物はゲタとみられ、211年の大粛清後に手が加えたとみられています。
血塗られた粛清の嵐の後、単独の皇帝となったカラカラは後世に知られる大浴場(カラカラ浴場)の建設や、帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令)を発するなど、絶大な権力を誇示する施策を実施します。
しかしやはりローマは居づらくなったのか、213年にカラカラは東方属州への巡幸へ出発し、以降二度とローマへ戻ることはありませんでした。
カラカラはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世, BC336-BC323)を崇拝しており、大王の真似をして東方へ足を延ばすことで現実逃避していたという説もあります。しかしカラカラはアレキサンダー大王と同じく兵士たちと共に行動し、その要望をよく聞きいれたため、結果的に軍団の支持を確固たるものにしてゆきました。
小アジアのペルガモンでは医術の神アスクレピオスの神殿に参詣し、さらに同時期のコインにもアスクレピオス神が表現されていることから、カラカラがこの医神を特に深く崇敬していたことが伺えます。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
この点からカラカラは身体に何らかの不調を感じており、そこから精神へ影響し、激しい怒りの感情を抑えられなくなったとみる説もあります。
幼少期のカラカラが熱病に罹った際、父セプティミウス・セウェルスは名医セレヌス・サンモニクスに診せたところ、彼はカラカラの首に呪文が書かれた布を巻き付け、これを治癒したといわれています。この呪文は今日「Abracadabra (アブラカタブラ)」として知られ、サンモニクスはその功績からカラカラとゲタの家庭教師・専属医に取り立てられました。
そのためカラカラ自身も医学に対する関心が高かったと考えられます。
なおサンモニクスはゲタ亡き後の大粛清に巻き込まれたとされ、この点からもカラカラが父の代の忠臣たちを一掃したことが伺えます。
エジプトのアレキサンドリアではアレキサンダー大王の墓を詣でた後、何らかの理由で数千人もの市民を虐殺しています。ローマを離れても医術の神や偉大な大王に詣でても、カラカラの狂気と凶暴性に変化がなかった様子が伺えます。
カラカラによる東方遠征の最大の目的は、父の代から続いていた東方の大国パルティアとの戦争に決着をつけることでした。これはローマのアレキサンダー大王を自認するカラカラにとって、ぜひ自らの手で成し遂げたい偉業でした。
各部隊は対パルティア戦に向けた演習訓練を繰り返し、8個軍団に及ぶ多くの兵力と物資が国境のシリア~メソポタミアへ集められました。
さらにアンティオキアやエデッサ、カルラエなどには兵士に支給するための貨幣を増産するため、新たな造幣所も設けられました。特に215年~217年にかけて多くのテトラドラクマ銀貨が製造され、いまなおシリアやイラクの砂漠地帯でまとまった状態で出土しています。流通痕跡の少ないコインは兵士たちへの給与として造られ、受け取った兵士がその後帰還できず、回収されずに残されたと見做されます。
キュレスティカ地方の都市ベロエア(※現在のシリア北部 アレッポ)で造られたテトラドラクマ銀貨。カラカラ帝の珍しい左向き肖像タイプ。
216年から始まったパルティア侵攻においてカラカラは有利に軍を進め、順調に目的を遂げようとしていた矢先、側近によって暗殺されこの世を去りました。行軍中、用を足していたカラカラは背後から近づいてきた近衛兵に背中を一突きされ、あっけなく治世を終えたのです。
カラカラの名は今日、有名なローマ皇帝の一人として知られていますが、単独の皇帝としての治世は5年ほどであり、そのうちローマに滞在していたのはたった1年でした。暗殺されたときは29歳であり、アレキサンダー大王が亡くなった年齢とほぼ同じでした。
不思議なことにカラカラ以降、パルティアやペルシアなど東方へ親征した皇帝は二度とローマへ帰還することなく、戦地で命を落とす例が続きました。
セプティミウス・セウェルス~アレクサンデル・セウェルスに至るセウェルス朝時代の皇帝たちのコインは比較的多く現存していることから、完集が容易なテーマとして知られています。
特にカラカラのコインは子供時代~単独皇帝時代まで数多くの種類が発行されており、肖像の変化を目で楽しむことが可能です。デナリウス銀貨だけでも豊富な種類があり、財政状況の悪化から銀の純度は50%ほどに下がったものの、その彫刻技術はそれを補って余りあるほどのクオリティです。
また東方属州で造られた属州のコインも、デザイン上興味深いものが多くみられます。
カラカラ 幼少肖像タイプ デナリウス銀貨
父帝セプティミウス・セウェルスによる対パルティア戦役の勝利を記念したタイプ
カラカラ 少年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 青年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 皇帝肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ帝と母親ユリア・ドムナが表現された銅貨
下モエシア属州(*現在のブルガリア)のマルキアノポリスで発行(198年-217年)
カラカラによる軍団への大判振る舞いや、軍事力の肥大化からくる財政支出は、コインの発行量を短期間で増加させました。このことが、現在の我々がカラカラのコインを入手しやすくしている要因でもあります。
215年にカラカラは貨幣の改革を実施し、深刻化する財政状況を改善しようとしました。一枚でデナリウス銀貨二枚の価値に相当すると称された銀貨は、実質的にデナリウス銀貨の1.5倍の重量しかなく、完全な名目貨幣でしたが、その後の軍人皇帝時代にはデナリウス銀貨を駆逐して主要貨幣にとって代わりました。
この銀貨は当時の正式な名称が判明していませんが、現在の貨幣学上ではカラカラの名にちなみ「アントニニアヌス」と呼ばれています。
デナリウスなど他のコインとは異なり、皇帝は月桂冠ではなく放射状の冠を戴いています。この伝統は後の皇帝たちが発行したアントニニアヌス銀貨にも継承され、視覚的にデナリウスとアントニニアヌスを見分ける一助になっています。
若き暴君としてローマ人の夥しい血を流したカラカラですが、短い治世の間に数多くの業績も残し、アレキサンダー大王と同じく様々な方面で語り継がれる皇帝となったのでした。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 11:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
関東はすっかり梅雨明けして真夏の陽気です。今年の夏は例年よりも早く到来したようにも感じられますね。
急激な気温の変化に身体はついていかない感覚です。体調にはくれぐれも気をつけて、この夏を乗り越えていきたいものです。
今回はスフィンクスのコインをご紹介します。
スフィンクスと言えばエジプトのギザのピラミッド前に鎮座する巨像が有名ですが、本来スフィンクス(Sphinx, スピンクス)はギリシャ神話に登場する怪獣の名であり、神話の姿とは若干異なるのです。
ギザのスフィンクスは男性像であり、建設年代や本来の呼称は不詳です。後世にエジプトを訪問したギリシャ人が、自分たちの神話に登場する怪獣スフィンクスに似ていることから仮称し、そのまま定着したと云われています。
エジプト 1957年 10ピアストル銀貨
スフィンクスは古代オリエントが起源とされ、エジプトやメソポタミアでも類似の壁画や像が造られました。エジプトでは神殿や聖域の守護像として設置され、東洋の獅子像(狛犬)に似た性質の存在でした。
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは上半身が人間の女性、下半身がライオンであり、背には大きな翼がつけられています。これはキメラやグリフィンなどギリシャ神話に登場する他の合成獣に似通った姿であり、一種の様式が確立していたことが窺えます。また、人間と動物を組み合わせた姿は、ケンタウロスやパーン、人魚などを連想させます。
神話に登場するスフィンクスは幼子を餌にするなど、人間に危害を加える恐ろしい怪獣と見做されていました。
最もよく知られた英雄オイディプスの神話では、スフィンクスはテーバイ近くのピキオン山に棲み、山を越えようとする者になぞなぞを出して、解けない者を食い殺してしまう怪獣とされました。
オイディプスはスフィンクスから問われた「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になり、足の数が多いほど弱いものは何か」という出題に「人間 (*幼児⇒成人⇒杖をつく老人)」と答え、スフィンクスを打ち負かすことに成功したと伝えられます。
こうした印象のためか、古代ギリシャやローマでコインに表現された例は多くありませんでした。
しかし小アジア西部にはスフィンクスを守護獣と見做していた都市もあり、それらの都市ではコインのデザインに取り入れていました。そこに残されている姿は神話に忠実な女性像です。
キジコス 紀元前550年-紀元前450年 スターテル貨
キオス島 紀元前490年-紀元前435年 スターテル銀貨
レスボス島 紀元前412年-紀元前378年頃 1/6スターテル貨
古代ローマ 紀元前46年 デナリウス銀貨
ローマのコインに表現されたスフィンクスも頭部は人間女性ですが、乳房がライオンと同じく腹部に複数あり、より動物に近い姿です。
イベリア カストゥロ 紀元前2世紀初頭 銅貨
ギリシャやローマとも交流があったイベリア(*現在のスペイン)のコインに表現されたスフィンクスは、帽子を被った男性像として表現されています。
翼の形状は麦穂のようになっており、独特な雰囲気を醸し出しています。
現在においてスフィンクスは世界中のコインに表現されていますが、やはりエジプト、ギザのスフィンクス像が用いられる場合が多く、古代ギリシャ・ローマ風の女性スフィンクスが登場する機会はほとんどありません。
エジプト 1986年 5ポンド銀貨
フランス 1998年 10フラン銀貨
「スフィンクス」は猫の品種名としても知られています。見た目や名前から古代エジプトが発祥と誤解されやすいですが、実際にはカナダが原産地です。
この全身無毛の猫は1970年代に繁殖に成功し、新しい品種として認知されるようになりました。この特異な姿が、猫を神聖視した古代エジプトを連想させることや、座る姿勢がスフィンクス像に似ていたことから「スフィンクス」と名付けられたそうです。
バヌアツ 2015年 5バツ
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
新年が始まって早一ヶ月が経とうとしています。時が過ぎるのは本当に早いものですね。お正月気分もあっという間に消えてしまいました。
昨今はオミクロン株の影響で感染者が増加し、また以前のような自粛傾向になりつつあります。今年は寒さが例年以上に厳しいこともあり、体調管理には一段と気をつけていきましょう。
せめて暖かくなる頃にはピークアウトして、落ち着いてくれていれば良いのですが・・・。
今回は「寅年」に因み、古代ギリシャ・ローマ時代のトラについてご紹介します。
古代ギリシャでは地中海や小アジアを通じてライオンやヒョウの存在が広く知られており、神話やそれに付随した芸術作品にも多く登場します。
しかし黒海よりも北方のシベリアや、ペルシア~インドなどに生息するトラは地理的な遠さもあり、その存在はあまり浸透しませんでした。
したがってトラを表現した古代ギリシャコインはほとんど無く、ライオンの地位には遠く及びませんでした。
カスピトラ
1899年ドイツのベルリン動物園で飼育されていた個体。ヨーロッパに最も近い地域に生息していた種であり、かつては黒海の北岸部=現在のウクライナでもみられました。毛皮などは海路を通じてギリシャにも輸出されていたと考えられ、存在そのものはかなり古くから認知されていたとみられます。
カスピトラはシベリアや東南アジアに生息するトラの亜種とされ、巨体と豊かな体毛が特徴です。ペルシアやインド、中央アジア、トルコの草原や山岳地帯にも分布していましたが、牧畜を守るため、毛皮や骨を採取するために乱獲され続け、数を減らしていきました。20世紀末に中央アジアで目撃されたのを最後に野生種は確認されておらず、既に絶滅したと考えられています。
ライオンに対してトラは東方=アジアを象徴する猛獣とされ、インドへ遠征した酒神ディオニソスの従者としても表現されています。ただしあまり馴染みがないせいか、よく似た色合いをしたヒョウが描かれる例が多くみられます。
不思議なことにコイン上に表現されたディオニソス神の象徴はほぼ「ヒョウ」であり、トラを表現したものは皆無である点は興味深く思われます。
この点は当時のギリシャ世界における毛皮の輸入・流通量がヒョウ>トラだった可能性も考えられます。
リュキアのトロスで発行されたスターテル銀貨(BC450-BC380)
表面はライオンの頭部(毛皮)、裏面はヒョウ。狛犬のように対に表現されています。
セレウコス1世のテトラドラクマ銀貨(BC305-BC295)
セレウコスが被る兜には、ヒョウの毛皮が使用されています。また首周りにもヒョウ柄の毛皮が巻きつけられています。
一方ローマ帝国では、拡大した版図と莫大な富を背景に、帝国の内外から多くの珍獣が生きたまま集められました。闘技場では剣闘士試合の他に、闘獣士(ベスティアリイ,動物相手に戦う専門の剣闘士)による動物狩りや罪人の処刑が行われ、観客の好奇心を満足させるため、猛獣たちが各地より連れてこられました。
虎狩りの様子 (5世紀頃のモザイク画)
猛獣を用いた処刑
ここでは俊敏で凶暴なヒョウが罪人を襲っています。
特に巨体で目立つ模様のトラはライオンに次ぐ人気があり、富豪たちの別荘に飾られたモザイク画にも多く登場しています。剣闘士とトラの闘い、異なる猛獣同士の闘いに当時の人々は熱狂しました。現代のような動物園が無い時代、異国の珍しい動物を生きたまま見られる貴重な機会でした。それにインスピレーションを受けた芸術家たちによって、リアルで動きのある作品が生み出されました。
ローマ帝国 シリア属州で作成されたモザイク画
パルミラ遺跡から出土したモザイク画
獰猛なトラを生け捕りにするすることは至難の業でした。しかし需要が高い分、毛皮よりはるかに高値で取引されることは確実です。輸送にかかるコストを差し引いても余りある利益が得られたことでしょう。
当時、熟練の狩人たちはまず子トラを捕らえて囮としました。母トラは我が子を取り返すため、馬に乗った狩人を必死に追いかけますが、そのまま船着場の船に誘導されてしまい、親子ともども捕らえられてしまうという手法です。そのため闘技場で供されるトラの多くはメスであり、子供のうちに飼いならされたトラは富豪のペットとしても売られました。
(出典:Winniczuk Lidia, Ludzie, zwyczaje i obyczaje starożytnej Grecji i Rzymu, PWN, Warszawa)
ロバを襲うトラのモザイク画
腹部にある乳房からメスであることが分かります。
生きたトラは高価な輸入品だったこともあり、簡単に殺されることは無かったと思われますが、それでも数多くのトラが捕獲され、ローマ人の娯楽のために消費されていたことは間違いないようです。闘技場で殺された後は、毛皮も再利用されたと考えられます。
2000年公開の映画『グラディエーター』でもコロッセオでトラが登場するシーンがあり、実際のローマでも似たような光景が繰り広げられていたことでしょう。
映画『グラディエーター』(2000年,アメリカ)
ローマやその属州で発行されたコインにも、トラが表現されている例はやはりみられず、ディオニソス=バッカスの聖獣としてはヒョウが配されました。
多くのモザイク画にも表現され、その姿形が一般化していたにも関わらず、ついにコイン上にお目見えする機会はありませんでした。
バッカス神とヒョウのデナリウス銀貨(BC42)
ミュシア属州のキジコスで発行された8アッサリア銅貨(2世紀末頃)
ディオニソス神の行列が表現されており、車を二頭の猛獣が牽いています。模様からヒョウと判別されますが、手前はトラかライオンのようにも見えます。
トラキア属州のセルディカで発行された5アッサリア銅貨(3世紀初頭)
ヒョウにまたがるディオニソス神が表現されており、独特なヒョウ柄もしっかり再現されています。表面はゲタ。
トラはコインには表現されませんでしたが、派手な毛皮は豪華な衣装として愛されていました。当時のモザイク画には獰猛なトラの姿が表現されており、力強さと東洋の神秘性を象徴するトラは、古代のギリシャ・ローマ文化でも重要な役割を果たしていました。しかし剣闘士試合が禁止されて以降、珍獣に対する需要は急速に衰えてしまい、生きたトラをヨーロッパまで輸出することはほとんどなくなってしまいました。中世のヨーロッパでは、書物や挿絵の中に描かれる、異国の猛獣の一種として認知されるようになったのです。
一方で中国やインド、東南アジアでは近場に生息する猛獣ということもあり、長く文化的影響を与え続けました。トラが生息していない日本でも多くの故事成語や慣用句に登場し、盛んに屏風絵などに描かれ、また干支の「寅年」でもなじみ深い動物になりました。
日本ではトラの逞しいイメージから、寅年生まれは力強く、生命力にあふれた人と云われているそうです。
寅年である今年が、活力に満ちた良い年になることを祈っております。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
長かった今年も残すところあと一週間。今年も一年間、本当にありがとうございました。
2021年は東京オリンピック・パラリンピックをはじめ様々なことがありましたが、常にコロナの心配はつきまとっていました。「毎年恒例」を予定通り毎年実施できるということが、どれだけありがたいことなのかを実感させられました。
どうか来年は健康の心配のない、平穏で健やかな一年になることを願っております。
なお、年末年始のワールドコインギャラリーは12月29日(水)~1月5日(水)の一週間をお休みとさせていただきます。
来年も皆様にお会いできるのを心より楽しみしております。2022年/令和四年も何卒よろしくお願い申し上げます。
本日はクリスマスイブですので、新約聖書に登場する「ピラト総督」にまつわるコインをご紹介します。
イエス・キリストは西暦30年頃(*西暦33年頃とする説もあり)、イェルサレムで十字架に掛けられ殉教したと伝えられています。当時のイェルサレムはローマ帝国の支配下に置かれ、現地のユダヤ人たちはローマ本国から派遣された総督によって統治されていました。しかし一神教を奉ずるユダヤの戒律はそのまま残され、宗教指導者(祭司長)の権威を認めることで彼らの忠誠を得ていました。
1世紀頃のユダヤ属州
当時のユダヤの周辺はサマリアやガリラヤなどの地域があり、各地域を統治する王族や宗教指導者が存在しました。ローマは彼らに特権を与え、子弟をローマに留学させるなどして懐柔し、間接的な統治体制に組み込んでいました。
その時代を扱った映画に1959年のハリウッド大作『ベン・ハー』があります。60年以上前の映画ですが、今も色褪せることの無い圧巻の映像美が繰り広げられています。この時代のユダヤ属州、ローマ帝国を扱った作品としてオススメのエンターテイメント作品です。
この映画にはローマから派遣された総督ポンティウス・ピラトゥスが登場し、ストーリー上でも重要な役割を演じています。日本では「ピラト」の名で知られるピラトゥスはローマ皇帝ティベリウスによってユダヤ総督に任命され、西暦26年から西暦36年までの10年間に亘ってイェルサレムとユダヤ属州を統治しました。
同時代を生きたフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や、新約聖書の『ルカによる福音書』では、頑迷で融通が利かない性格ゆえユダヤ人たちと対立し、ピラトゥスを解任するようローマ皇帝に陳情が送られたとまで記されています。
ユダヤ教の指導者たちは自分たちの脅威になるイエスを告発し、ピラトゥスに処刑の判断を下すよう迫ります。ピラトゥスはイエスに直接尋問を行いますが、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」(ルカによる福音書)と言って判断を先延ばしします。しかしユダヤ人たちの圧力に押され、不本意ながら最終的には処刑を認めたとされています。
(ムンカーチ・ミハーイ, 1881)
ピラトとイエス
(イグナツォ・ジャコメッティ, 1852)
新約聖書においてイエスが拷問され、茨の冠を被せられた場面。自ら処刑の判断を下すことができなかったピラトゥスは、群集の前に鞭打たれたイエスを引き出してその反応を確かめました。
ピラトゥスはユダヤ教の過越しの祭り(ペサハ)に恩赦を行うと宣言し、イエスと暴漢のバラバ、どちらを赦すかを民衆に問いかけました。群衆はイエスを侮辱し、バラバを赦せ、イエスを処刑しろと叫ぶ中、ピラトゥスはイエスを指して「Ecce homo (*ラテン語で"見よ、この人を"の意)」と問いかけたとされています。最終的な判断をユダヤの民衆に委ねたことで、ピラト=悪役としてのイメージが和らぐ結果となりました。
新約聖書に記されているピラトゥスの複雑な態度は、後世の作家のインスピレーションを掻き立て、様々な派生物語が書かれました。生没年が不詳なことも手伝い、その最期をドラマチックにする例が多いようです。(熱心なキリスト教徒に改心する、皇帝に追放される、自害する等・・・)
軍事力を背景にユダヤを支配した多神教徒であり、イエスの処刑を直接命じた人物であるにも関わらず、後世のキリスト教ではあまり悪役として描かれていない点が特徴的です。
ただしこうした描写の多くは後世に書かれたものが大半であり、どこまでが史実であるかは議論の余地があります。
石碑をはじめローマ側の記録から明らかなのは、ポントゥス・ピラトゥスという騎士階級のローマ人が西暦26年からの10年間、ティベリウス帝の命によりイェルサレムとユダヤ属州を統治したという点のみです。
ピラトゥスの在任期間中、ユダヤ属州ではいくつかのプルタ銅貨が発行されました。それらはイェルサレムの造幣所で製造され、現地のユダヤ人社会で広く一般的に流通したコインでした。
プルタ(*ギリシャ語の聖書では「レプタ」と表記)は大変小さな銅貨ですが、刻まれている銘文や年代は当時を知るうえで貴重な情報源となります。当時のプルタ銅貨にはヘブライ文字は刻まれず、東地中海の共通語であったギリシャ文字が刻まれています。
表面は聖水を汲み取るための柄杓。周囲部には「ΤΙΒΕΡΙΟΥ ΚΑΙCΑΡΟC LIS (ティベリウス・カエサル 治世十六年)」銘。西暦29年~西暦30年に造られたことを示しています。
裏面には三本の麦穂が表現され、周囲部にはティベリウス帝の母親リウィアを示す「ΙΟΥΛΙΑ ΚΑΙCΑΡΟC (ユリア皇太后)」銘があります。
表面にはローマの祭儀でも用いられた曲がり杖(卜占官の象徴)が表現され、周囲部には「TIBEPIOY KAICAPOC (ティベリウス・カエサル)」銘が配されています。
裏面にはティベリウス帝の治世18年目(=AD31-AD32)を示す「L HI」銘があります。イエスが十字架に掛けられたとされる時期にはリウィア皇太后も没したため、ティベリウス帝のみを示す銘文へと変化しています。
これらのプルタ銅貨にはピラトゥス自身の名は刻まれていないものの、ティベリウス帝の名とその治世年によって、それがイェルサレムを監督していたピラトゥスの下で発行されたことが分かります。古代コインの大家デイヴィッド・R・シアー氏が、ローマ帝国属州コインをまとめた著書『Greek Imperial Coins and their values』(1982)においても、上記二種類のプルタ銅貨は「Pontius Pilatus」のカテゴリーに分類されています。
芸術性や技術性、金属的価値は乏しい粗末なコインですが、新約聖書に記された時代を文字通り手にできるコインとして欧米では人気があります。もしかしたらイエス・キリストやその弟子たちが手にしたかもしれないコイン、十字架を背負ったイエスが往くイェルサレムの街道沿いの露店で支払われたコインかもしれないからです。
プルタ銅貨は民衆用の貨幣であることから大量に発行されましたが、そのために安価=保存状態には難があるのが常です。銘文・発行年が明確に残されているものは稀であり、オークションでも高値で取引されています。運よく乾燥地帯の砂によって守られた奇跡的な一枚があれば、ぜひ入手するべき一枚といえるでしょう。
今年も一年間このブログをご覧いただきありがとうございました。来年もコインに関する情報を発信できるよう努めたいと思います。
皆様にとって楽しいクリスマス~年の瀬でありますように・・・。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月も終わりに近づき、本格的に寒くなってまいりました。
世の中は少しずつクリスマスの雰囲気に近づいています。色々なことがあった今年も残すところあと一ヶ月。心穏やかに新しい年を迎えたいものです。
さて、今回は来年初めに東京国立博物館で開催される特別展『ポンペイ展』をご紹介します。古代ローマのポンペイ遺跡をテーマにした展覧会は過去に何度か日本で開催されていますが、今回もナポリ国立考古学博物館の協力によって充実した内容になりそうです。
数々の素晴らしいモザイク画から人々が実際に使用していた日用品まで、150点に及ぶ多種多様な出土品が展示される予定です。またポンペイで見つかった邸宅を再現展示するなど、2000年前のローマ人の生活ぶりを目の当たりにできる、大変貴重な機会と言えるでしょう。
詳細は以下の特設ページにてご確認ください。
ご周知のとおり、ポンペイはイタリアを代表する古代ローマの都市遺跡であり、当時の都市生活がそのまま残された稀有な遺跡として知られています。
79年のヴェスヴィオ火山大噴火によって埋没したポンペイには1万人~2万人ほどが生活していたとされ、劇場や神殿、公衆浴場や広場といった公共施設が存在していました。ローマ時代のイタリア半島の市民社会を知る上で、大変重要な場所です。
ポンペイ最後の日
(アンリ=フレデリック・ショパン, 1850年)
ポンペイが壊滅した直後、当時の皇帝ティトゥスは復興支援のためにローマから人と救援物資・義援金を送り、自らも直接現地を視察しました。しかしポンペイがあった場所に同規模の都市が再建されることはなく、また掘り返されることもなかったため、ポンペイの遺構は火山灰の下に埋没し続けることになりました。その後もヴェスヴィオ山は幾度か噴火を繰り返し、その度に周辺一帯は火山灰が降り積もりました。長い年月が過ぎ、ポンペイの存在は歴史書の上に記録されているのみとなり、正確な位置は忘れ去られていきました。
しかしイタリア・ルネサンスによって古代ローマの文化芸術に再び脚光があたると、当時の遺跡や遺物に対する関心が高まりました。知識人や王侯貴族はこうした遺物を高値で買い取ってくれるため、イタリアの各地で遺跡探しが盛んに行われました。
歴史書に記されたポンペイも当然注目されましたが、その正確な場所を特定することは困難でした。当時、ポンペイのあった周辺には民家が建ち並び、火山灰に埋まった面積の大半はブドウ畑になっていました。しかし開墾や工事の度に地中から建築物の断片が見つかっていたため、価値を知らない地元の人々は出土した遺物を石材として再利用していました。18世紀に入るとこのことが外部に知られるようになり、やがて王や貴族の主導で本格的な発掘調査が開始されました。
当初、学者たちはどの辺りを発掘すべきか悩んでいましたが、地元の人々がブドウ畑のある一帯を「チヴィタ」と呼んでいることに着目しました。チヴィタとはローマ時代のラテン語で「都市」を意味する「Civitas」からきているのではないか。早速チヴィタと呼ばれたブドウ畑の下を掘り進めると、見事な壁画や青銅器、さらにはネロ帝やウェスパシアヌス帝のアウレウス金貨が発見されました。
発掘開始から15年後の1763年には男性の大理石像が発見され、その台座に「ウェスパシアヌス帝の名において、この土地をポンペイ市に返還する」という一文が刻まれていたことから、この地こそ間違いなくポンペイであることが確認されたと伝えられています。
その後、ポンペイの発掘は大々的に進められ、学術的な調査が進んだ18世紀末~19世紀にはイタリア観光の名所のひとつにもなっていました。発掘によって現れたローマ時代の都市はヨーロッパの文人たちにインスピレーションを与え、ドイツの文豪ゲーテも『イタリア紀行』にその情景を記録しました。
また歴史画の主題としても描かれるようになり、失われた古代都市ポンペイの認知度はますます高まっていきました。
ポンペイの発掘
(エドゥアール・アレクサンドル・セイン, 1865年)
19世紀のポンペイ遺跡を描写した作品にゴーチエの『ポンペイ夜話』(原題:Arria Marcella)があります。1852年に書かれた短編小説ですが、ポンペイを題材にした小説としてお奨めの作品です。岩波文庫から出版されているゴーチエの短編集に収録されており、手軽に読むことができます。
ナポリを訪れたフランス人青年オクタヴィアンは博物館を見学し、ポンペイから出土した噴火の犠牲者たちの石膏押し型を目の当たりにしました。
そこに展示されていた女性の胸の押し型に心を奪われたオクタヴィアンは、友人たちと実際にポンペイ遺跡を訪れてもそのことばかり考えていました。眠れないオクタヴィアンは一人宿を抜け出し、夜のポンペイ遺跡を彷徨いますが、気が付くと壊滅前のポンペイの街路に立っていた―というあらすじです。
幻想小説と呼ばれるゴーチエの作風が表されており、夢なのか現実なのか、不思議な世界観が描かれています。人気のない夜の街を散策して、過去にタイムスリップしていたという設定は様々な作品(映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)など)にみられますが、ゴーチエの作品は19世紀半ばに書かれていることを考えると、当時としては斬新な切り口だったことでしょう。
ロマンチックな儚い恋物語として描かれた作品ですが、19世紀半ばのポンペイ遺跡の様子や周辺の雰囲気、古代ローマの街中が詳しく、リアルに描写されています。作者ゴーチエが単なる想像ではなく、しっかりと下調べをしていたことがうかがえます。発掘途中の寂しい遺跡が、人々の行き交う活きた都市に甦っていく描写は幻のようであり、現実のようにも思えます。
なお作中に登場する女性の胸の押し型は実在し、当時はナポリの博物館で展示されていましたが、戦争中に失われてしまいました。
翻訳者である田辺貞之助氏の訳も素晴らしく、読みやすく活き活きとした光景が展開されています。この作品を読めば、ポンペイに対するイメージも強まり、特別展への期待も高まると思われます。
特別展は来年1月14日から4月3日まで東京・上野の国立博物館で開催され、その後は京都(京セラ美術館, 4月21日~7月3日)と福岡(九州国立博物館, 10月12日~12月4日)を巡回予定です。ぜひ足を延ばしていただき、ありし日のポンペイに思いを馳せてみてください。
ポンペイの発掘
(フィリッポ・パリッツィ, 1870年)
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