【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い陽気が続いていますね。6月後半の猛暑よりはましですが、それでも蒸し暑さは身体に堪えます。
昨今はコロナの感染者数が再び増え始めている様子で、気が休まる暇が全くありません。今回は社会活動を極力止めないそうですが、そうなると必然的に感染は拡大していくので、これまでとは異なる対応が必要です。
コロナと暑さ、両方の対策を心掛けて、自分の身は自分で守る他ないようです。今年の夏も何とか健康で過ごしたいものです。
今回は古代ギリシャで造られた鳩(ハト)のコインをご紹介します。
シキュオーン BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
表面には神話に登場する合成獣キマイラ(キメラ)、裏面には滑空するハトが表現された印象深いデザイン。ギリシャコインの中でもコレクションとして、またジュエリーとしても人気がある一種です。
キマイラはライオンの身体に蛇の尻尾を持ち、肩から山羊の頭が生えた奇妙な姿です。下部には発行都市シキュオーンを示す「ΣI」銘が配されています。
このコインが造られたのはペロポネソス半島北部の都市国家シキュオーン、現在のギリシャ,シキオナにあたる地域です。(*地図の左上)
シキュオーンはコリント湾から3kmほど離れた小高い台地の上に建設され、周辺地域にはオリーヴ畑や果樹園が点在していました。
長らく専制国家体制が続いていましたが、紀元前556年にスパルタが統治者を追放すると民主政に移行し、以降はスパルタや近隣のコリントと同盟関係になりました。
シキュオーンの劇場遺跡
神殿跡
古代ギリシャにおけるシキュオーンは芸術の都であり、数多くの優れた芸術家たちを輩出したことでその名が広く知られていました。シキュオーンの職人が手掛けた陶器や青銅器、木器は遠くエトルリアにまで輸出されたことから、当時より高く評価されていたことが伺えます。また芸術家たちを養成する美術学校も存在し、ギリシャ各地から彫刻家・画家志望の若者たちが集いました。後にアレキサンダー大王のお抱え絵師となるアペレスもシキュオーンで修業した画家の一人でした。
この地で発行されたコインもまた、現在の感性から見ても優れたデザインであることが分かります。
空を飛ぶハトは下から見上げた時の姿そのままであり、極めて写実性の高い表現です。また丸い形状の外枠に合うような構図は収まりがよく、現代の我々が目にしても違和感の無い、デザインとしての完成度も高い意匠です。
発行された年代や型によって細部が異なるのは、当時の彫刻師たちが個性を発揮した、技術の見せ所だったのかもしれません。
BC340-BC335 ドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ(=1/2ドラクマ)銀貨
この姿はシキュオーン(Σικυῶνος)の頭文字である「Σ」を見立てたものと言われ、翼の動きや身体の向きも一致しています。シキュオーンではこのハトが象徴というように、コインには滑空するハトの姿が表現され続けました。
ギリシャ神話におけるハトは美女神アフロディーテの聖鳥であり、また帰巣本能から伝書鳩として飼育されていました。しかし神聖かつ身近な鳥でありながら、シキュオーン以外にハトを大きく取り上げたコインを発行した都市はありませんでした。
当時の人々はハトがデザインされたコインを手にすれば、一目でシキュオーンのコインであることが分かったと思われます。
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ銀貨
「Σ」とは逆向きに飛ぶハトが表現された珍しいタイプ。嘴でヘビを咥える姿も他には無い表現です。
紀元前3世紀半ば以降、シキュオーンはコリントなどアカイア地方の諸都市から成る「アカイア同盟」に加盟し、統一規格の銀貨の発行・流通に伴って独自のコインは減少し続けました。紀元前1世紀に小さな単位の銀貨が再び発行されましたが、ギリシャを征服したローマの支配が強まるとついに造られなくなり、その後ハトのコインは流通から姿を消していきました。
アカイア同盟規格のヘミドラクマ銀貨 (BC196-BC146)
しかし2000年の時を経た今もなお、シキュオーンで発行されたコインは「芸術の都」に相応しい、優れた美術品として多くの人を魅了しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:13 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
関東はすっかり梅雨明けして真夏の陽気です。今年の夏は例年よりも早く到来したようにも感じられますね。
急激な気温の変化に身体はついていかない感覚です。体調にはくれぐれも気をつけて、この夏を乗り越えていきたいものです。
今回はスフィンクスのコインをご紹介します。
スフィンクスと言えばエジプトのギザのピラミッド前に鎮座する巨像が有名ですが、本来スフィンクス(Sphinx, スピンクス)はギリシャ神話に登場する怪獣の名であり、神話の姿とは若干異なるのです。
ギザのスフィンクスは男性像であり、建設年代や本来の呼称は不詳です。後世にエジプトを訪問したギリシャ人が、自分たちの神話に登場する怪獣スフィンクスに似ていることから仮称し、そのまま定着したと云われています。
エジプト 1957年 10ピアストル銀貨
スフィンクスは古代オリエントが起源とされ、エジプトやメソポタミアでも類似の壁画や像が造られました。エジプトでは神殿や聖域の守護像として設置され、東洋の獅子像(狛犬)に似た性質の存在でした。
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは上半身が人間の女性、下半身がライオンであり、背には大きな翼がつけられています。これはキメラやグリフィンなどギリシャ神話に登場する他の合成獣に似通った姿であり、一種の様式が確立していたことが窺えます。また、人間と動物を組み合わせた姿は、ケンタウロスやパーン、人魚などを連想させます。
神話に登場するスフィンクスは幼子を餌にするなど、人間に危害を加える恐ろしい怪獣と見做されていました。
最もよく知られた英雄オイディプスの神話では、スフィンクスはテーバイ近くのピキオン山に棲み、山を越えようとする者になぞなぞを出して、解けない者を食い殺してしまう怪獣とされました。
オイディプスはスフィンクスから問われた「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になり、足の数が多いほど弱いものは何か」という出題に「人間 (*幼児⇒成人⇒杖をつく老人)」と答え、スフィンクスを打ち負かすことに成功したと伝えられます。
こうした印象のためか、古代ギリシャやローマでコインに表現された例は多くありませんでした。
しかし小アジア西部にはスフィンクスを守護獣と見做していた都市もあり、それらの都市ではコインのデザインに取り入れていました。そこに残されている姿は神話に忠実な女性像です。
キジコス 紀元前550年-紀元前450年 スターテル貨
キオス島 紀元前490年-紀元前435年 スターテル銀貨
レスボス島 紀元前412年-紀元前378年頃 1/6スターテル貨
古代ローマ 紀元前46年 デナリウス銀貨
ローマのコインに表現されたスフィンクスも頭部は人間女性ですが、乳房がライオンと同じく腹部に複数あり、より動物に近い姿です。
イベリア カストゥロ 紀元前2世紀初頭 銅貨
ギリシャやローマとも交流があったイベリア(*現在のスペイン)のコインに表現されたスフィンクスは、帽子を被った男性像として表現されています。
翼の形状は麦穂のようになっており、独特な雰囲気を醸し出しています。
現在においてスフィンクスは世界中のコインに表現されていますが、やはりエジプト、ギザのスフィンクス像が用いられる場合が多く、古代ギリシャ・ローマ風の女性スフィンクスが登場する機会はほとんどありません。
エジプト 1986年 5ポンド銀貨
フランス 1998年 10フラン銀貨
「スフィンクス」は猫の品種名としても知られています。見た目や名前から古代エジプトが発祥と誤解されやすいですが、実際にはカナダが原産地です。
この全身無毛の猫は1970年代に繁殖に成功し、新しい品種として認知されるようになりました。この特異な姿が、猫を神聖視した古代エジプトを連想させることや、座る姿勢がスフィンクス像に似ていたことから「スフィンクス」と名付けられたそうです。
バヌアツ 2015年 5バツ
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
5月に入ってからは雨模様の日も多かったですが、ようやく五月晴れの陽気になってきました。この度は爽やかな初夏に相応しいイベントをご紹介。
当店ワールドコインギャラリーが入る、東京・御徒町のJR高架下に所在する商業施設「2k540」では、今月末にイベント『2k540ファンファーレ~made in 高架下~』を開催します。
5月27日(金)、28日(土)、29日(日)の三日間、ご来場いただいた皆様の思い出になるような企画をご用意しております。
■イベント名:2k540ファンファーレ~made in 高架下~
■開催日時:2022年5月27日㈮、28日㈯、29日㈰
■開催時間:11:00~19:00
期間中は以下のイベントを予定しております。
☆蚤の市
2k540内の各お店で使用していた道具や加工の素材、サンプル商品など、ものづくりに関する品々を販売。
普段販売している商品とは異なる、掘り出し物が多数出揃います。
各お店の前に並べてあるアイテムの中から、お宝をぜひ探し当ててください!
(*エコバッグ持参をオススメします)
☆2k540クイズ&スタンプマップ
配布されている専用マップにスタンプを押すスタンプラリー。
各店のスタンプはそれぞれのお店の前に設置してあります。
マップには2k540にまつわるクイズもあります。
☆絵馬デコ
2k540のものづくりのお店で出た端切れやアクセサリーパーツを集め、それらでデコレーションしたオリジナル絵馬を作成できます。
お願い事を書いていただくと、後に神田明神様でお焚き上げいたします。
(*イベントスペースにて開催 *参加費用 110円)
《詳細ページ》
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
☆メイクPOP
2k540のお店や商品など、オススメのポイントやレビューをご記入ください。
書いていただいたPOPはイベント期間中、2k540の各所に掲示いたします。
(4月1日~受付中)
☆作業場見学
ものづくりのお店が立ち並ぶ職人の街 2k540の、普段見ることのできない「ものづくりの現場」をお見せします。
(*各お店ごとに企画)
☆商品化ワークショップでideaコンテスト
アイデアを商品化する講習&ワークショップ型コンテストを実施します。
講習~デザイン制作を行い、後日採用された案を発表します。受賞者にはプレゼントもございます。
商品化~ショップ販売まで、参加ブランド共に学び、ものづくりの発想を楽しめるイベントです。
《詳細ページ&お申し込み》
↓↓↓↓↓↓↓↓↓
ものづくりに興味のある方はぜひ参加してみてください!!
五月晴れのお出かけに、ぜひ2k540へ遊びに来てください。皆様のご来場をお待ち申し上げております。
東京都台東区上野5-9 (JR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下)
当店は2k540内の北端(JR御徒町駅寄り)に位置しております。遊びに来た際にはぜひお立ち寄りください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
4月末になると暖かさが増し、むしろ暑く感じる日も増えてまいりました。初夏の陽気も目の前です。
今年のゴールデンウィーク-大型連休は4月29日(金)の祝日「昭和の日」から始まり、長ければ5月8日(日)までの10日間に及びます。
昨年と一昨年はコロナによる自粛の影響で旅行や外出が控えられましたが、今年は難なく連休を満喫できると良いですね。
皆様にとって充実したゴールデンウィークになることを願っております。
さて、今回は古代エジプト「クレオパトラ」のコインをご紹介します。
とは言っても世界三大美女に数えられるクレオパトラ7世ではなく、彼女より100年以上前の「クレオパトラ1世」に関するコインです。
プトレマイオス朝エジプト 銅貨
(BC163-BC145, アレクサンドリア造幣所製)
クレオパトラ1世は紀元前204年頃に、セレウコス朝シリアの大王アンティオコス3世の娘として生まれ、首都アンティオキアの宮廷で幼少期を過ごしました。
紀元前202年、プトレマイオス朝エジプトで幼いプトレマイオス5世が即位すると、父アンティオコス3世は政変の隙を衝いてエジプト領に侵攻。ユダヤやパレスチナなどを占領して勢力圏を拡大した後、紀元前195年にローマの仲介によって和議が結ばれました。
この和議の一環として、クレオパトラはエジプトのプトレマイオス5世の妃として嫁ぐことが決まり、彼女はアンティオキアからアレクサンドリアの宮廷へ移り住むことになったのです。当初の約束では持参金として占領地の一部が返還されることになっていましたが、あくまで名目上の返還に過ぎず、セレウコス朝は実効支配し続けました。
プトレマイオス朝エジプトの領域
(緑色がセレウコス朝シリアに占領された地域)
また、クレオパトラがプトレマイオス朝に嫁いだことはセレウコス朝との友好関係を象徴するのみならず、婚姻関係を通じてシリアがエジプトに一定の影響力を及ぼすことを意味していました。
この結婚によってエジプト史上では「クレオパトラ1世」と称されることになり、プトレマイオス朝の歴史に登場する女王としては最初のクレオパトラとなったのです。なお、王朝最後の女王となった最も有名なクレオパトラは、正式には「クレオパトラ7世」に数えられています。
クレオパトラ1世が嫁いだプトレマイオス朝は、アレキサンダー大王(マケドニア王 アレクサンドロス3世, 在位:BC336-BC323)の部下 プトレマイオスの系譜を引き継ぐマケドニア系の王朝でしたが、現地エジプトの風習や宗教を尊重し、ギリシャ文化とエジプト文化を融和させた特異な国家を形成していました。
首都アレクサンドリアは地中海世界の経済・学問の拠点となり、ナイル川を中心に肥沃な耕作地にも恵まれ、周辺諸国にも穀物を輸出するほど繁栄していました。
しかしプトレマイオス朝の内部では権力争いが絶えず、また宮廷の浪費や無計画な出費によって財政は悪化の一途を辿っていました。
クレオパトラ1世の夫となったプトレマイオス5世は、外交・軍事・財政面での支援をローマから受け、セレウコス朝の脅威を和らげるべく努めました。
一方で戦争での出費や失った領土からの貢納を補填するため、エジプトの農民たちに重税を課したことから全土で叛乱が勃発。プトレマイオス5世はエジプト人たちの支持を繋ぎとめるため、より一層エジプト宗教への優遇を強めていき、自らを「エピファネス(顕神者)」と称して統治の正統性を示しました。
クレオパトラと結婚する前の紀元前196年、プトレマイオス5世は歴代ファラオたちに倣い古都メンフィスで即位式を催行。エジプトの神々に対する伝統的な儀式を終え、祝儀として神官たちの税を免除する旨を発布しました。
この儀式内容と免税布告が記されたのが、ヒエログリフ解読の糸口となった有名な「ロゼッタ・ストーン」です。
ロゼッタ・ストーン
(大英博物館蔵)
上からヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字による文章
プトレマイオスとクレオパトラの間には二男一女が生まれ、アレクサンドリアの宮廷で育てられました。王子たちの母となったクレオパトラの権威は増し、宮廷での影響力をより一層強めていきました。
ちなみに彼女の娘は「クレオパトラ2世」となり、孫娘は「クレオパトラ3世」としてそれぞれ女王となります。
紀元前180年にプトレマイオス5世が崩御すると、クレオパトラは長男を「プトレマイオス6世」としてファラオに即位させ、自らは摂政として後見役になりました。政治の実権を握ったクレオパトラ1世は事実上の女王となり、エジプトを支配することとなったのです。この期間、実家であるセレウコス朝との平和関係は継続され、領土を巡る緊張関係は緩和されました。
しかしクレオパトラ1世の治世は長くは続かず、4年後の紀元前176年に彼女も崩御。長男プトレマイオス6世は母親を神格化しその敬愛を絶やさなかったため、後に「フィロメトル(母愛者)」の称号で呼ばれることになります。
彼の治世中には複数種類のコインが発行されましたが、その中にクレオパトラ1世を模したものと伝えられるコインが存在します。それが冒頭で紹介した銅貨です。
この肖像は頭部に麦穂を戴いており、豊穣の女神であるイシスを表現したものとされています。エジプトで広く信仰されていたイシス女神は、神格化された王妃や女王と重ねて表現されることも多くありました。ファラオは天空神ホルスの化身とされ、ホルス神の母がイシス女神だったからです。
プトレマイオス6世の時代にも神格化されたクレオパトラ1世をモデルに、イシス女神として表現したと考えられます。かつてアレキサンダー大王がヘラクレスに重ねてコインに表現されたように、ギリシャ・ヘレニズムコインの伝統が引き継がれています。
クレオパトラ1世の彫像や壁画はほとんど残されていないため、彼女の姿を現代に伝える貴重な史料でもあります。
プトレマイオス朝では女性たちの権威が強く、アルシノエやベレニケなどの大型金貨が発行されています。しかしクレオパトラ1世の場合はこの銅貨(*オボル~4オボルと推定されるも正確な額面価値は不祥)しか発行されていないようです。
アルシノエ2世のオクタドラクマ金貨
(BC285-BC246)
プトレマイオス2世&アルシノエ2世/プトレマイオス1世&ベレニケ
(テトラドラクマ金貨,BC272-BC260)
最後の女王であるクレオパトラ7世は、在世中から自らの姿をコインに表現していました。その姿は理想化された女神としてではなく、より写実的な君主として表現されており、クレオパトラ1世の時代から情勢が大きく変化したことが窺えます。絶世の美女と云われたクレオパトラ7世ですが、エジプトで作成された彫像はほとんど現存せず、在世中に作成された肖像として確かであるのはコインのみとされています。
クレオパトラ7世の銅貨
(BC48-BC47)
クレオパトラ7世も、かつてのクレオパオラ1世と同じく金貨は発行されず、主に銀貨と銅貨だけが現存しています。プトレマイオス朝300年の歴史に於いて「クレオパトラ」と名のつく女性は少なくとも7人存在しましたが、その姿が金貨に刻まれることは無かったのです。
クレオパトラの金貨が発行されたのは20世紀になってからのことでした。2000年間培われてきた知名度の高さにより、現在ではモダンコインの中でも特に人気のあるコインになっています。
エジプト 1984年 100ポンド金貨 クレオパトラ7世
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
桜も満開となり、いよいよ春本番。暖かく過ごしやすい日も増えてまいりました。
昨今はコロナだけでなく、ウクライナ情勢が世界中の注目を集めています。日本も他人ごとではなく、物流の変化やエネルギー価格の上昇が物価に影響しています。何より多くの人々が不安定な状況下にあることは心配ですね。
気候だけでなく、人間の社会も早く穏やかになるように願っております。
今回は古代ギリシャ、セレウコス朝シリアの「アンティオコス大王」についてご紹介します。
「大王」としてまず思い浮かぶのはマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)ですが、後世において大王(the Great)と称される偉大な君主は、歴史上でも数少ない稀有な存在です。
古代史上においてアレキサンダーと共に「大王」と称される数少ない人物の一人が、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(在位:BC223-BC187)です。
彼の治世はかつてのアレキサンダー大王の再来を思わせるほど、征服戦争による領土拡大に費やされました。
アンティオコス3世
(パリ, ルーヴル美術館蔵)
セレウコス朝シリアはアレキサンダー大王の部下だったセレウコス1世(在位:BC305-BC281)が建てた王国であり、大王の東方遠征によって征服された小アジア~ペルシア~バクトリアにいたる広大なアジア部を継承していました。
しかし広大な領域をまとめることは容易ではなく、多様な民族をギリシャ系王朝が統治し続けるのは困難でした。さらに隣国プトレマイオス朝エジプトとの長年の対立や、セレウコス朝内部の権力抗争によってますます衰退が進んでいました。
紀元前223年、18歳で王位を継承したアンティオコスはすぐに困難な状況に直面することとなりました。即位後まもなくメディアの総督であるモロンが王を自称し、セレウコス朝からの離反を宣言したのです。モロンはメソポタミア地方の中心都市であるバビロンを拠点とし、ペルシス総督のアレクサンドロスやアトロパテネ王国、アルサケス朝パルティアなど東方勢力を味方につけていました。
対するアンティオコスはアンティオキア(*現在のトルコ,アンタキヤ)宮廷内の権力闘争のためすぐには動きがとれず、軍を率いてティグリス川を渡ったのは紀元前221年のことでした。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※治世最初期の紀元前223年~紀元前210年頃に首都アンティオキアで製造されたものとみられ、即位当初の若々しい青年像(もみあげが特徴的)として表現されています。
裏面は、世界の中心とされた聖石オンファロスに腰掛けるセレウコス朝の守護神アポロ。
若きアンティオコスはティグリス河畔の主要都市セレウキア近くのアポロニアでモロンの軍勢と対決し、重装歩兵や騎兵、ガラティアやギリシャ、クレタ島から招集した弓兵や傭兵、戦象を投入してこれを打ち破りました。勢いを失った反乱軍は敗走し、モロンは自ら命を絶ったとされています。敗北を知ったペルシスのアレクサンドロスもやがて自決し、アトロパテネ王国の老王アルタバザネスは戦わずしてアンティコスに降伏しました。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※裏面の一部が磨耗しているため発行年代は定かではありませんが、アンティオコスのダイアデム(王権を示す帯)のうねりの形状からセレウキアの造幣所で造られたとみられます。
緒戦において大戦果をあげたアンティオコスは宮廷内での権威を高め、本国を留守にしても王位を脅かす者がないよう準備を整えると、本格的にセレウコス朝の失地回復に乗り出します。
プトレマイオス朝エジプトに対する攻撃(第四次シリア戦争)は失敗したものの、小アジアで王を宣していた従兄アカイオスを倒すことには成功し、小アジアでの領土回復を成し遂げました。
後方の備えを万全にした紀元前212年、アルメニアへの侵攻を皮切りに本格的な「東方遠征」を開始しました。大軍を率いたアンティオコスは軍事力で小国を圧倒しながらもその独立は認め、セレウコス朝の宗主権を承認させること(=献納と軍役)で次々と服属させてゆきました。
紀元前211年にアルサケス朝パルティアのティリダテス王が没すると、その年の暮れにはアルサケス朝の夏季の首都エクバタナに進軍します。
エクバタナ占領後、アンティオコスは神殿の柱を覆っていた金箔や銀製の瓦を集めさせ、全て溶かして自らの肖像を刻んだ金貨銀貨に作り変えました。その総額は4000タラント相当(*1タラント=6000ドラクマ)に上るとされ、兵士への給与や恩賞としてこの後の進軍で活用されました。
ティリダテスの後継者となったアルサケス2世はアンティオコスと戦いましたが、最終的には和議を結び、再びセレウコス朝に服属することで決着。
紀元前209年、アンティオコスはさらに東へ軍を進め、バクトリア(*現在のアフガニスタン)へと攻め込みました。
バクトリア王エウテュデモスはかつてこの地を征服したアレキサンダー大王の曾孫とされ、王位を簒奪してバクトリアを統治していました。首都バクトラに篭城したエウテュデモスはアンティオコスの軍勢に対して地の利を活かしたゲリラ戦を展開、苦戦したセレウコス朝軍は2年もこの土地に足止めされることとなります。膠着状態の後に両者は和議を結び、バクトリアはセレウコス朝の宗主権を承認することとなったのです。
勢いに乗るアンティオコスはかつてのアレキサンダー大王と自らを重ねるようになり、彼に倣ってそのままインドへと進軍。ヒンドゥークシュ山脈を越えてマウリヤ朝の領域に侵入し、現地で戦象や食糧、金貨を得ました。これは紀元前206年のこととされ、かつて王朝の始祖セレウコス1世がチャンドラグプタ王と和議を結んでから99年後の出来事でした。
紀元前205年、アンティオコスは首都アンティオキアへと凱旋帰国を果たします。東方の失地をほぼ回復し、インドにまで到達したアンティオコスはアレキサンダー大王の再来と云われるようになり、ここから「メガス(大王)」と称されるようになったのです。
アンティオコス大王治世下のセレウコス朝
※紫色がアンティオコスによって征服された領域
名実共についに大王となり権威の頂点を迎えたアンティオコスですが、これ以降、彼の快進撃は勢いを失い始めます。
翌年の紀元前204年、エジプトでプトレマイオス5世が5歳で王位を継承すると、かつての雪辱を晴らそうと再びエジプト侵攻を計画。紀元前202年には第五次シリア戦争が勃発し、ユダヤを含めたパレスチナの大半を征服することに成功します。しかしこのことは、第二次ポエニ戦争を経て勢力を拡大していたローマと対立するきっかけになりました。
かつてのアレキサンダー帝国の再現を試みるアンティオコスは、今度はギリシャ本土の征服に乗り出します。紀元前196年に小アジアを経てトラキアへと上陸したアンティオコスは、ギリシャまであとわずかの地点まで迫りました。
これに対しギリシャ諸都市はローマに援軍を求めました。マケドニア戦争によってこの地に進出していたローマは、アンティオコス率いるセレウコス朝との対決姿勢を強めていきました。
対するアンティオコスは、かつての第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたカルタゴの名将ハンニバルを軍事顧問として迎え入れ、対ローマ戦争への準備を整えていました。ハンニバルはカルタゴ本国での政争に敗れて亡命し、セレウコス朝の庇護を受けていました。
スキピオ・アフリカヌスとハンニバル・バルカ
紀元前192年、アンティオコスはテッサリア平原に軍を進め、これにローマ軍が応戦したことでローマ・シリア戦争が勃発しました。紀元前191年 テルモピュライの戦いでセレウコス朝軍はローマ軍に破れ、アンティオコスは小アジアへと撤退。ローマ軍はこれを追撃し、小アジアへの上陸を開始してアンティオコスを追い詰めました。セレウコス朝軍は海戦ではローマ軍に善戦しましたが、やがて一進一退を繰り返すようになります。ローマ軍はセレウコス朝のハンニバルに対抗してスキピオ・アフリカヌスを戦線に派遣し、第二次ポエニ戦争の延長戦の様相を呈しました。
なお、ハンニバルの活躍がどれほどセレウコス朝軍の戦いに影響を与えたかは定かではなく、アンティオコスや他の指揮官たちに疎まれていたとも云われています。
セレウコス朝軍は小アジアに上陸したローマ軍の拠点を攻略しようとしますが上手くいかず、何度和議を申し入れても交渉は折り合いをつけることができませんでした。
その後、小アジアを舞台にした両軍の戦いは続き、最終的に紀元前188年のアパメイアの和約によって和議が成立。戦争はローマ軍の勝利に終わり、セレウコス朝はタウロス山脈(*現在のトルコ南部)より西のアジア領土を喪失し軍備も縮小、そして莫大な賠償金を課せられることになったのです。
この敗戦によって小アジアから排除されることになったばかりか、軍事的威信が削がれたことで、服属させていたはずのパルティアやバクトリアではすぐさま離反の動きが相次ぎました。わずか一代で王朝の失地を回復したアンティオコスは、自らその功績を無に帰してしまったのです。
ローマから課せられた賠償金を支払うため、アンティオコスはかつてのように征服地の神殿から富を略奪しますが、これが命取りとなり、紀元前187年に暗殺されて波乱の治世を終えました。アレキサンダー大王の再来と云われた「大王」としては悲しい最期だったと言わざるを得ません。
即位当初は脆弱だったセレウコス朝は、彼の活躍によって再び大帝国の威信を回復しつつありましたが、その治世が終わる頃には以前より脆弱な王国になっていました。この後、各地の離反や権力闘争、内乱が相次ぎ、他のヘレニズム王朝と同じく衰退、滅亡してゆくこととなるのです。
もしアンティオコスがエジプト・ギリシャなど西方に侵攻しなければローマと対決することはなく、領土と威信は維持されていたかもしれません。そうすれば王朝を再興した名君として、アレキサンダーに並ぶ正真正銘の「大王」として歴史に名を遺したことでしょう。皮肉にもこの「大王」の尊称が呪縛となり、運命を狂わせて晩節を汚すことになってしまったのです。
似たような事例は古今東西、いくらでもあるように思われます。いつの時代も「歴史は繰り返す」といわれますが、過去の出来事を知識として知っていても、現状の中に置かれた立場になれば、客観視することは難しいのかもしれません。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 13:39 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
暦の上では春ですが、まだまだ寒さは厳しいですね。冬から春への移り変わりを実感できず、衣替えももう少し先のようです。
今月は英国の女王エリザベス2世が即位されて70周年を迎えられました。
英国史上最長であることはもちろん、現在の世界中の君主でも最長在位期間を誇ります。この記録は当面塗り替えられることはないでしょう。世界の歴史上、在位期間が70年を超えた君主は指折りで数えるほどしかいません。
日本で言う銀婚式や金婚式と同じく、イギリスでは25周年をシルバージュビリー、50周年をゴールデンジュビリーと表現しますが、エリザベス女王はさらに超えて60周年=ダイヤモンドジュビリーを過ぎ、70周年となる今年は「プラチナジュビリー(Platinum Jubilee)」を迎えます。
イギリス 2002年 御在位50周年(ゴールデンジュビリー) 5ポンド銀貨
この記念すべき節目の年、イギリスと英連邦諸国では数々の祝賀行事が予定されています。歴史に残るセレモニーとして、大規模なイベントや記念式典、記念コインや切手の発行が計画されているようです。
70年前の1952年2月6日、父王ジョージ6世は56歳で崩御。長女のエリザベス王女は体調不良の父王に代わってケニアを訪問中でした。父王の崩御により、25歳の王女はアフリカの地で英国女王となったのです。
この経緯はNetflixのドラマ『The Crown』(2016~)でも描かれています。
出発する際は王女だったエリザベスが女王としてイギリスに帰国して以降、現在に至るまで君主としての務めを継続しています。1953年6月2日にウェストミンスター寺院で催行された戴冠式はテレビ中継され、英国中の人々が自宅から新時代の幕開けを見守りました。
イギリス 1953年 女王戴冠記念 5シリング白銅貨
20世紀半ばから2022年に至るまで、イギリスと世界はめまぐるしく変化し続けています。その中で常に女王として君臨するエリザベス2世の姿は、多くの人に変わらない秩序を感じさせ、安心感を与えてきました。イギリスをはじめ世界中で発行されるコインや紙幣にエリザベス女王の肖像が表現されていることは、そこに権威と信用、不動の価値が付与されていることを視覚的に示しています。
オーストラリア 1999年 1ドル銀貨
歴代四種類のコイン肖像。1980年代~1990年代に採用されていた三代目の肖像(*←画面の右端)はラファエル・デイヴィッド・マクルーフ氏による作品であり、威厳と気品にあふれた妙齢のエリザベス2世を表現した、女王らしい肖像として人気があります。またイアン・ランク=ブロードリー氏による四代目の肖像も、老齢に達した女王を写実的に表現した作品として高く評価されています。
伝統的で厳格なイメージとは異なり、女王は自ら自動車を運転したり、競馬に親しむなどプライベートな面も広く知られています。人間的な部分が知られていることも、女王が敬愛を集める大きな要因となっています。
毎日多くの人々と接する女王は英国的なユーモアに富んだ人柄も知られています。
かつてスコットランドのバルモラル城に滞在した際にお忍びで散策していたところ、アメリカ人観光客に地元住民と間違われ「あなたは女王に会ったことはありますか?」と問われると、傍らにいた護衛官を指さし「私はないけど、この人は会ったことがあるわよ」と答えたそうです。
(デイリーメール紙, 女王の元警護官リチャード・グリフィン氏の回想)
1926年生まれの女王は今年4月21日に96歳となります。英国の歴史上、最高齢の君主であるエリザベス2世は、過去のエリザベス1世やヴィクトリア女王と同じく英国史に残る偉大な女王として記録されるでしょう。
日本でも今年の6月には、女王の生涯を追ったドキュメンタリー映画『エリザベス 女王陛下の微笑み』が公開される予定です。
昨今は新型コロナウィルスに感染されるなど健康面での不安もみられますが、それでも宮殿内ではできる限りの公務を継続されているようです。どうか末永くお元気で、変わらぬお姿を拝見したいものです。
そして多くの人々と共に、この歴史的な年をお祝いできれば幸いです。
エリザベス2世
(ナショナルポートレイトギャラリー, 1952)
投稿情報: 18:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が始まって早一ヶ月が経とうとしています。時が過ぎるのは本当に早いものですね。お正月気分もあっという間に消えてしまいました。
昨今はオミクロン株の影響で感染者が増加し、また以前のような自粛傾向になりつつあります。今年は寒さが例年以上に厳しいこともあり、体調管理には一段と気をつけていきましょう。
せめて暖かくなる頃にはピークアウトして、落ち着いてくれていれば良いのですが・・・。
今回は「寅年」に因み、古代ギリシャ・ローマ時代のトラについてご紹介します。
古代ギリシャでは地中海や小アジアを通じてライオンやヒョウの存在が広く知られており、神話やそれに付随した芸術作品にも多く登場します。
しかし黒海よりも北方のシベリアや、ペルシア~インドなどに生息するトラは地理的な遠さもあり、その存在はあまり浸透しませんでした。
したがってトラを表現した古代ギリシャコインはほとんど無く、ライオンの地位には遠く及びませんでした。
カスピトラ
1899年ドイツのベルリン動物園で飼育されていた個体。ヨーロッパに最も近い地域に生息していた種であり、かつては黒海の北岸部=現在のウクライナでもみられました。毛皮などは海路を通じてギリシャにも輸出されていたと考えられ、存在そのものはかなり古くから認知されていたとみられます。
カスピトラはシベリアや東南アジアに生息するトラの亜種とされ、巨体と豊かな体毛が特徴です。ペルシアやインド、中央アジア、トルコの草原や山岳地帯にも分布していましたが、牧畜を守るため、毛皮や骨を採取するために乱獲され続け、数を減らしていきました。20世紀末に中央アジアで目撃されたのを最後に野生種は確認されておらず、既に絶滅したと考えられています。
ライオンに対してトラは東方=アジアを象徴する猛獣とされ、インドへ遠征した酒神ディオニソスの従者としても表現されています。ただしあまり馴染みがないせいか、よく似た色合いをしたヒョウが描かれる例が多くみられます。
不思議なことにコイン上に表現されたディオニソス神の象徴はほぼ「ヒョウ」であり、トラを表現したものは皆無である点は興味深く思われます。
この点は当時のギリシャ世界における毛皮の輸入・流通量がヒョウ>トラだった可能性も考えられます。
リュキアのトロスで発行されたスターテル銀貨(BC450-BC380)
表面はライオンの頭部(毛皮)、裏面はヒョウ。狛犬のように対に表現されています。
セレウコス1世のテトラドラクマ銀貨(BC305-BC295)
セレウコスが被る兜には、ヒョウの毛皮が使用されています。また首周りにもヒョウ柄の毛皮が巻きつけられています。
一方ローマ帝国では、拡大した版図と莫大な富を背景に、帝国の内外から多くの珍獣が生きたまま集められました。闘技場では剣闘士試合の他に、闘獣士(ベスティアリイ,動物相手に戦う専門の剣闘士)による動物狩りや罪人の処刑が行われ、観客の好奇心を満足させるため、猛獣たちが各地より連れてこられました。
虎狩りの様子 (5世紀頃のモザイク画)
猛獣を用いた処刑
ここでは俊敏で凶暴なヒョウが罪人を襲っています。
特に巨体で目立つ模様のトラはライオンに次ぐ人気があり、富豪たちの別荘に飾られたモザイク画にも多く登場しています。剣闘士とトラの闘い、異なる猛獣同士の闘いに当時の人々は熱狂しました。現代のような動物園が無い時代、異国の珍しい動物を生きたまま見られる貴重な機会でした。それにインスピレーションを受けた芸術家たちによって、リアルで動きのある作品が生み出されました。
ローマ帝国 シリア属州で作成されたモザイク画
パルミラ遺跡から出土したモザイク画
獰猛なトラを生け捕りにするすることは至難の業でした。しかし需要が高い分、毛皮よりはるかに高値で取引されることは確実です。輸送にかかるコストを差し引いても余りある利益が得られたことでしょう。
当時、熟練の狩人たちはまず子トラを捕らえて囮としました。母トラは我が子を取り返すため、馬に乗った狩人を必死に追いかけますが、そのまま船着場の船に誘導されてしまい、親子ともども捕らえられてしまうという手法です。そのため闘技場で供されるトラの多くはメスであり、子供のうちに飼いならされたトラは富豪のペットとしても売られました。
(出典:Winniczuk Lidia, Ludzie, zwyczaje i obyczaje starożytnej Grecji i Rzymu, PWN, Warszawa)
ロバを襲うトラのモザイク画
腹部にある乳房からメスであることが分かります。
生きたトラは高価な輸入品だったこともあり、簡単に殺されることは無かったと思われますが、それでも数多くのトラが捕獲され、ローマ人の娯楽のために消費されていたことは間違いないようです。闘技場で殺された後は、毛皮も再利用されたと考えられます。
2000年公開の映画『グラディエーター』でもコロッセオでトラが登場するシーンがあり、実際のローマでも似たような光景が繰り広げられていたことでしょう。
映画『グラディエーター』(2000年,アメリカ)
ローマやその属州で発行されたコインにも、トラが表現されている例はやはりみられず、ディオニソス=バッカスの聖獣としてはヒョウが配されました。
多くのモザイク画にも表現され、その姿形が一般化していたにも関わらず、ついにコイン上にお目見えする機会はありませんでした。
バッカス神とヒョウのデナリウス銀貨(BC42)
ミュシア属州のキジコスで発行された8アッサリア銅貨(2世紀末頃)
ディオニソス神の行列が表現されており、車を二頭の猛獣が牽いています。模様からヒョウと判別されますが、手前はトラかライオンのようにも見えます。
トラキア属州のセルディカで発行された5アッサリア銅貨(3世紀初頭)
ヒョウにまたがるディオニソス神が表現されており、独特なヒョウ柄もしっかり再現されています。表面はゲタ。
トラはコインには表現されませんでしたが、派手な毛皮は豪華な衣装として愛されていました。当時のモザイク画には獰猛なトラの姿が表現されており、力強さと東洋の神秘性を象徴するトラは、古代のギリシャ・ローマ文化でも重要な役割を果たしていました。しかし剣闘士試合が禁止されて以降、珍獣に対する需要は急速に衰えてしまい、生きたトラをヨーロッパまで輸出することはほとんどなくなってしまいました。中世のヨーロッパでは、書物や挿絵の中に描かれる、異国の猛獣の一種として認知されるようになったのです。
一方で中国やインド、東南アジアでは近場に生息する猛獣ということもあり、長く文化的影響を与え続けました。トラが生息していない日本でも多くの故事成語や慣用句に登場し、盛んに屏風絵などに描かれ、また干支の「寅年」でもなじみ深い動物になりました。
日本ではトラの逞しいイメージから、寅年生まれは力強く、生命力にあふれた人と云われているそうです。
寅年である今年が、活力に満ちた良い年になることを祈っております。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
11月も終わりに近づき、本格的に寒くなってまいりました。
世の中は少しずつクリスマスの雰囲気に近づいています。色々なことがあった今年も残すところあと一ヶ月。心穏やかに新しい年を迎えたいものです。
さて、今回は来年初めに東京国立博物館で開催される特別展『ポンペイ展』をご紹介します。古代ローマのポンペイ遺跡をテーマにした展覧会は過去に何度か日本で開催されていますが、今回もナポリ国立考古学博物館の協力によって充実した内容になりそうです。
数々の素晴らしいモザイク画から人々が実際に使用していた日用品まで、150点に及ぶ多種多様な出土品が展示される予定です。またポンペイで見つかった邸宅を再現展示するなど、2000年前のローマ人の生活ぶりを目の当たりにできる、大変貴重な機会と言えるでしょう。
詳細は以下の特設ページにてご確認ください。
ご周知のとおり、ポンペイはイタリアを代表する古代ローマの都市遺跡であり、当時の都市生活がそのまま残された稀有な遺跡として知られています。
79年のヴェスヴィオ火山大噴火によって埋没したポンペイには1万人~2万人ほどが生活していたとされ、劇場や神殿、公衆浴場や広場といった公共施設が存在していました。ローマ時代のイタリア半島の市民社会を知る上で、大変重要な場所です。
ポンペイ最後の日
(アンリ=フレデリック・ショパン, 1850年)
ポンペイが壊滅した直後、当時の皇帝ティトゥスは復興支援のためにローマから人と救援物資・義援金を送り、自らも直接現地を視察しました。しかしポンペイがあった場所に同規模の都市が再建されることはなく、また掘り返されることもなかったため、ポンペイの遺構は火山灰の下に埋没し続けることになりました。その後もヴェスヴィオ山は幾度か噴火を繰り返し、その度に周辺一帯は火山灰が降り積もりました。長い年月が過ぎ、ポンペイの存在は歴史書の上に記録されているのみとなり、正確な位置は忘れ去られていきました。
しかしイタリア・ルネサンスによって古代ローマの文化芸術に再び脚光があたると、当時の遺跡や遺物に対する関心が高まりました。知識人や王侯貴族はこうした遺物を高値で買い取ってくれるため、イタリアの各地で遺跡探しが盛んに行われました。
歴史書に記されたポンペイも当然注目されましたが、その正確な場所を特定することは困難でした。当時、ポンペイのあった周辺には民家が建ち並び、火山灰に埋まった面積の大半はブドウ畑になっていました。しかし開墾や工事の度に地中から建築物の断片が見つかっていたため、価値を知らない地元の人々は出土した遺物を石材として再利用していました。18世紀に入るとこのことが外部に知られるようになり、やがて王や貴族の主導で本格的な発掘調査が開始されました。
当初、学者たちはどの辺りを発掘すべきか悩んでいましたが、地元の人々がブドウ畑のある一帯を「チヴィタ」と呼んでいることに着目しました。チヴィタとはローマ時代のラテン語で「都市」を意味する「Civitas」からきているのではないか。早速チヴィタと呼ばれたブドウ畑の下を掘り進めると、見事な壁画や青銅器、さらにはネロ帝やウェスパシアヌス帝のアウレウス金貨が発見されました。
発掘開始から15年後の1763年には男性の大理石像が発見され、その台座に「ウェスパシアヌス帝の名において、この土地をポンペイ市に返還する」という一文が刻まれていたことから、この地こそ間違いなくポンペイであることが確認されたと伝えられています。
その後、ポンペイの発掘は大々的に進められ、学術的な調査が進んだ18世紀末~19世紀にはイタリア観光の名所のひとつにもなっていました。発掘によって現れたローマ時代の都市はヨーロッパの文人たちにインスピレーションを与え、ドイツの文豪ゲーテも『イタリア紀行』にその情景を記録しました。
また歴史画の主題としても描かれるようになり、失われた古代都市ポンペイの認知度はますます高まっていきました。
ポンペイの発掘
(エドゥアール・アレクサンドル・セイン, 1865年)
19世紀のポンペイ遺跡を描写した作品にゴーチエの『ポンペイ夜話』(原題:Arria Marcella)があります。1852年に書かれた短編小説ですが、ポンペイを題材にした小説としてお奨めの作品です。岩波文庫から出版されているゴーチエの短編集に収録されており、手軽に読むことができます。
ナポリを訪れたフランス人青年オクタヴィアンは博物館を見学し、ポンペイから出土した噴火の犠牲者たちの石膏押し型を目の当たりにしました。
そこに展示されていた女性の胸の押し型に心を奪われたオクタヴィアンは、友人たちと実際にポンペイ遺跡を訪れてもそのことばかり考えていました。眠れないオクタヴィアンは一人宿を抜け出し、夜のポンペイ遺跡を彷徨いますが、気が付くと壊滅前のポンペイの街路に立っていた―というあらすじです。
幻想小説と呼ばれるゴーチエの作風が表されており、夢なのか現実なのか、不思議な世界観が描かれています。人気のない夜の街を散策して、過去にタイムスリップしていたという設定は様々な作品(映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)など)にみられますが、ゴーチエの作品は19世紀半ばに書かれていることを考えると、当時としては斬新な切り口だったことでしょう。
ロマンチックな儚い恋物語として描かれた作品ですが、19世紀半ばのポンペイ遺跡の様子や周辺の雰囲気、古代ローマの街中が詳しく、リアルに描写されています。作者ゴーチエが単なる想像ではなく、しっかりと下調べをしていたことがうかがえます。発掘途中の寂しい遺跡が、人々の行き交う活きた都市に甦っていく描写は幻のようであり、現実のようにも思えます。
なお作中に登場する女性の胸の押し型は実在し、当時はナポリの博物館で展示されていましたが、戦争中に失われてしまいました。
翻訳者である田辺貞之助氏の訳も素晴らしく、読みやすく活き活きとした光景が展開されています。この作品を読めば、ポンペイに対するイメージも強まり、特別展への期待も高まると思われます。
特別展は来年1月14日から4月3日まで東京・上野の国立博物館で開催され、その後は京都(京セラ美術館, 4月21日~7月3日)と福岡(九州国立博物館, 10月12日~12月4日)を巡回予定です。ぜひ足を延ばしていただき、ありし日のポンペイに思いを馳せてみてください。
ポンペイの発掘
(フィリッポ・パリッツィ, 1870年)
こんにちは。
10月も終わりに近づき、すっかり肌寒くなってまいりました。日が暮れるのもどんどん早くなっていますね。今年は秋がなく、いきなり冬に移り変わったようです。
世間では新型コロナウィルスの感染者が減ったことで、さまざまな経済活動も再始動する流れになっているようです。これから寒くなっていく分、風邪やインフルエンザにも気をつけなければならず、油断は禁物です。すべてが元通りとはいきませんが、せめて今年は楽しい年末を過ごしたいものです。
当店、ワールドコインギャラリーは来週の水曜日(11月3日)「文化の日」は祝日営業として、11時~19時まで通常営業をいたします。
感染症対策も採りながら営業を行いますので、文化の日はぜひともご来店ください。冬に近づきつつ気温ですが、コインで「文化の秋」を愉しみましょう。
【古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店】
11月といえば、新しい500円硬貨がお目見えする予定ですね。11月1日(月)より日本銀行から金融機関に払い出しが始まる為、市中に出回るのは少し遅れてからになると思いますが、今から現物を手にするのが楽しみです。
新500円硬貨 11月1日から発行へ 21年ぶり | NHKニュース
中央部は白銅、周囲はニッケル黄銅になっており、さらに内部には銅がはさまれているバイカラー・クラッド方式です。海外では一般的なバイメタルコイン(二種類の金属を組み合わせた硬貨)ですが、日本では記念の500円硬貨でしか使用されていませんでした。ようやく一般流通貨幣にも活用される為、日本貨幣にとっては画期的な出来事になります。
バイメタルコインでよく知られるのがユーロコインです。ユーロ圏では1ユーロと2ユーロがバイメタルとなっており、材質や重量、大きさは統一されているものの、デザインは発行国によって異なります。アメリカの50州25セントや日本の47都道府県500円のように、額面を統一して発行国ごとに収集するコレクターも多いそうです。
中でも人気のデザインのひとつは、バルト三国のラトビアで発行されているユーロコインです。
1991年にソ連から独立したラトビアは2004年にEU(ヨーロッパ連合)に加盟し、10年後の2014年からユーロを導入しました。その際に発行された1ユーロと2ユーロのデザインには、ラトビアを代表するコインのデザインがそのまま採用されました。
2ユーロコインは中央がニッケル黄銅、周囲が白銅になっており、1ユーロはその逆になっています。
このコインはラトビア人にとって非常に思い入れのあるコインです。
第一次世界大戦が終結した1918年、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国はロシアから独立。第二次世界大戦までのおよそ20年間、小国ラトビアは独立国家として存在していました。
独立後は各国で独自通貨が発行され、ラトビアでは1922年にルーブルに代わって新通貨「ラッツ(*複数形ではラティ)」が発行されました。
1920年代になると、ラトビアは諸外国に劣らない大型銀貨の発行を計画します。クラウンサイズで発行されることが決まった5ラティ銀貨は、独立国家ラトビアの顔となるコインとして品格のある仕上がりが求められました。製造はイギリス、ロンドンのロイヤルミント(英国王立造幣局)が請け負うこととなり、デザインはラトビア独自のものとする方針が定まりました。
共和国だったラトビアは実在の人物ではなく、フランスのマリアンヌやアメリカのリバティのような、不特定の女性像を表現する方針となり、ラトビアを体現するような若い女性像が求められました。デザインはロシア帝国印刷局で20年間勤務していたラトビア人デザイナー リハルツ・ザリヴシュ(1869-1939)が担当することとなり、モデルとなる女性が選定されました。
リハルツ・ザリヴシュの記念切手(2019年)
ラトビアの象徴として選ばれたのは、首都リガの国家証券印刷局に勤めていたヅェルマ・ブラーレイ(1900-1977)でした。リハルツ・ザリヴシュは外部にモデルを求めず、手近な身内の職員からモデルを選出したのでした。残されている彼女のスケッチから、ザリヴシュがこの仕事に情熱をもって取り組んでいたことが読み取れます。
ヅェルマ・ブラーレイ
1929年2月、ザリヴシュが手掛けた新銀貨の発行が開始されました。実際に多くの人々の手に渡ると、デザインの良さと風格からその評判は上々であり、すぐさまラトビアを代表するコインの地位を得ました。発行されてすぐに「ミルダ(*ラトビア人に多い女性名)」の愛称で呼ばれ、人々から親しまれました。流通コインであるにも関わらず多くのラトビア人は記念品のように大切にし、結婚式や洗礼式でも配られました。
「ミルダ」5ラティ銀貨
Silver83.5%、25g、37mmのクラウンサイズ銀貨。1929年、1931年、1932年の各年銘で合計360万枚が製造されました。裏面の国章もザリヴシュが手掛けています。
エッジ(側縁)にはラトビア語で「DIEVS SVĒTĪ LATVIJU (神はラトビアを祝福する)」銘が刻まれており、現在の2ユーロコインにも再現されています。
民族衣装をまとった乙女が微笑みながら遠くを見つめる姿は、独立して間もない小国ラトビアを体現する理想的な姿でした。このコインを手掛けたザリヴシュの名声も高まり、現在でもラトビアを代表する歴史的文化人のひとりに数えられています。
しかしラトビアの独立は突如終わりを迎えます。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、中立を宣言していたラトビアは1940年にソ連軍の進駐を受け、そのままソ連に併合されることとなったのです。ラトビア共和国は事実上消滅し、ラッツに代わってソ連ルーブルが流通するようになりましたが、しばらくはラッツも並行して使用されていました。戦争の危機が近づいた時期から、ラトビア国内では銀貨が退蔵されるようになり、結果的に多くの「ミルダ」5ラティ銀貨が残されることになりました。
しかし1941年3月25日、ソ連はラッツの完全無効化を突如宣言し、一夜にして通貨ラッツは無価値となりました。紙幣は通用価値を失い、銀貨は金属的価値だけ保証されたものの、額面価値は完全に消滅しました。推定で5000万ラティがルーブルに交換されることなく無価値となり、多くのラトビア市民が損害を被りました。
それでも「ミルダ」5ラティ銀貨はラトビア人にとって思い入れの深いコインであり、多くの市民が手放さず少なくとも一枚は家に保管していました。いつしかこの銀貨は愛国者を象徴するものとなり、シベリアへ送還される人々や西側への亡命者などが手にしていました。ブローチやペンダントしても加工され、幸運のお守りとして子から孫へと引き継がれていきました。
一方で、皮肉にもソ連側もこの見事な銀貨に利用価値を見出していました。
ラッツが無価値なった際、ソ連はルーブルとの交換や接収などで得た大量の5ラティ銀貨を保持していました。1960年代、ソ連国立銀行(コズバンク)は既に無価値となった古い金貨や銀貨の買い入れを行い、5ラティ銀貨は60コペイクで交換されることとなりました。こうして集められたソ連以前のコインは海外、特に西側諸国の貨幣業者へと流され、貴重な外貨獲得手段になっていたのです。特にラトビアの5ラティ銀貨は人気があり、西ドイツでは28マルクで販売されたと云われています。
ソ連による併合から半世紀を経た1991年、バルト三国は再び独立し、ラトビアは独自通貨ラッツを回復しました。その際、人々は自宅に仕舞いこんでいたミルダのコインブローチやコインペンダントを再び身に付け、独立と祖国の復活を喜びました。
独立後新たに発行された紙幣の肖像や、記念コインとしても度々「ミルダ」のデザインが再現され続けました。ソ連による支配を受けていた時代、ラトビアの人々が独立の希望に対する証として持ち続けていたミルダのコインは、独立国家ラトビアの通貨として再び登場したのです。
独立後に発行された500ラティ紙幣
そして2014年のユーロ導入に際し、ついにミルダを通常コインのデザインとして復活させました。ラトビア政府が新しいコインの顔として相応しいデザインを世論調査したところ、圧倒的な人気を得たのが「ミルダ」でした。独自通貨ラッツは再び消滅しましたが、ミルダは生き残ることができたのです。
時代に合わせてバイメタルのコインとして表現されたミルダは、80年以上の時を経て再び人気を得ています。ユーロコインは国境を越えてヨーロッパ中で使用することができるため、ラトビアに留まらずより多くの人々の手に渡ります。
激動の歴史を経てもなお愛されるコインとして、特筆すべき存在と言えるでしょう。
来月から発行される日本の新500円硬貨は、昭和57年(1982年)の発行から3代目になります。最初は白銅貨でしたが、平成12年(2000年)に登場した2代目はニッケル黄銅貨、今回は白銅とニッケル黄銅を組み合わせたバイメタルです。素材とセキュリティ技術は変化していても、基本的なデザインは変わっていません。
昭和・平成・令和と変化している500円硬貨も、時代を経て愛されているコインといえるでしょう。
令和版500円硬貨のお目見えを、心待ちにしたいと思います。
投稿情報: 14:07 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
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