【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月は秋らしい日が続いておりますが、台風や大雨による天候不順・災害も多い月でした。
被害に遭われた方々へは、心よりお見舞いを申し上げます。
今回は古代ローマの皇帝 マルクス・アウレリウスのコイン肖像を取り上げたいと思います。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:AD161-DA180)はローマ五賢帝の一人として知られ、高校世界史などでは『自省録』を著した哲人皇帝として有名です。
彼は2世紀後半のローマ帝国を20年近く統治しましたが、その治世は疫病や戦争も多く、哲人皇帝にとっては必ずしも平穏な時代とはいえませんでした。
統治期間中、それまでの皇帝たちと同じように多様なコインが発行されていましたが、マルクス・アウレリウスの場合、義父である皇帝アントニヌス・ピウスの時代 (在位:AD138-AD161)に後継者となったため、既にコインにその姿が表現されていました。
マルクス・アウレリウスのコインは周囲の称号と肖像の推定年齢が大まかに一致するため、コインが新たに製造される際には肖像が年齢相応のものに更新されていたとみられます。
初代皇帝アウグストゥスや二代皇帝ティベリウスは70代までその地位にありましたが、コインの肖像は常に30代の若い姿で固定されていました。対して非常に若々しい青年時代~晩年・死後の発行貨まであるマルクス・アウレリウスのコインは、当時のローマ人の年齢変化、人生観を鑑みる上で大変貴重な史料です。
尚、共同統治帝として共に即位した義弟ルキウス・ウェルス(在位:AD161-AD169)は即位前のコインは無く、在位期間も短かったため、コインの肖像はほとんど変化をみせませんでした。
また、マルクス・アウレリウスの妻ファウスティナは、父帝アントニヌス・ピウスの時代からコインが発行されていますが、髪形に多様な変化が見られる一方で顔つきは大きく変化しておらず、少女のように若々しいままでした。
【青年期 (副帝時代)】
AD140-AD144 デナリウス銀貨
AD140-AD144 デュポンディウス貨
マルクス・アウレリウスが初めてコインに表現されたのはAD140年、義父アントニヌス・ピウス帝の治世下でした。その前年には義父によって副帝(CAESAR)の地位に就けられています。
表面に冠を戴くアントニヌス・ピウス帝、裏面に無冠の青年マルクス・アウレリウスが表現されています。発行年代から考えると18歳~20歳頃の肖像とみられます。哲人皇帝の象徴といえる髭はまだなく、青年というよりは少年のような幼さを残しています。しかし豊かな巻毛は年を経ても変化せず、現存する彫像の特徴とも一致しています。
同時期に製作されたマルクス・アウレリウスの彫像
AD140-AD144 デナリウス銀貨
マルクス・アウレリウス単体で表現されたコイン。若々しく利発そうな青年として表現されています。裏面には儀式で使用する神器群が表現され、神祇官としての権威を象徴しています。
微笑むような優しげな表情は、将来の皇帝の人徳に対する期待感の表れかもしれません。
AD144 デナリウス銀貨
AD143 デナリウス銀貨
20歳以降の青年像。顔つきは大人として変化し、頬と口の周りには若干の髭が生えているのが確認できます。マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者を意識して顎鬚を伸ばしたとされていますが、既にこの頃から少しづつ髭を伸ばし始めていたことがわかります。
同時期の彫像にも、同様に若干の髭が見受けられます。
AD151-AD152 デナリウス銀貨
30歳頃の肖像。既に髭は生えそろい、良く知られるマルクス・アウレリウス像に近い顔つきになりました。
【壮年期 (治世初期)】
AD161 デナリウス銀貨
アントニヌス・ピウス帝が崩御し、マルクス・アウレリウスが皇帝に即位した直後の時期に発行されたコインの肖像。即位時の年齢から39歳~40歳頃を表現したものとみられます。聡明そうな目つきと立派な髭は、まさに哲人を思わせる風貌です。
皇帝となっても副帝時代と同様、無冠の姿で表現されています。これ以降、月桂冠を戴く姿で表現されるようになります。
AD166 デナリウス銀貨
AD166 アウレウス金貨
対パルティア戦争の戦勝記念コイン。マルクス・アウレリウス帝の治世はその初期から対外戦争の遂行に費やされました。東方のパルティアを攻めるため、マルクス・アウレリウスは義弟で共同統治帝のルキウス・ウェルスを派遣し、自らは首都ローマで帝国内の統治を行いました。
髭が増え瞼の表現が変化したせいか、肖像も即位当初より老けて見え、心なしか疲れたような印象を受けます。先帝アントニヌス・ピウス帝の治世とは異なり、コインにも軍事色が強い意匠が多く採用されるようになりました。
【中年期 (治世中期)】
AD172 セステルティウス貨
AD172 デナリウス銀貨
50歳頃の肖像になると、即位当初より明らかに老け、顔つきも快活なものから老練で落ち着きのある人物像に変化しています。
パルティア戦争後は疫病の流行やルキウス帝の死去、ゲルマニアでの反乱、信頼する忠臣の謀反、さらに妻ファウスティナの不貞や息子コンモドゥスの不品行によってマルクス・アウレリウスの心身は疲弊していきました。首都ローマを離れ、奥深い森が広がるゲルマニアを転戦する陣中で『自省録』が著され、現代に至るまでマルクス・アウレリウスの考えが伝えられています。
生来生真面目なマルクス・アウレリウスは厳しい陣中にあるときでさえ政務をこなし、辺境の地で戦いながら帝国を統治しようと努めていました。しかし身体の不調を抑えるために服用していた薬にはアヘンが含まれていたため、徐々に身体を蝕まれていたと云われています。
【晩年期 (治世後期)】
AD173-AD174 デナリウス銀貨
AD178-AD179 デナリウス銀貨
50歳代末、晩年に発行されたコインの肖像は、目の表現に差異が見られるものの、より年老いているように見えます。既にこの頃、皇帝がローマに常時滞在することはほぼなくなっていました。そのためローマ造幣所の彫刻師は、なるべく最新の彫像などを参考にしながら新コインを作成したと考えられています。
AD180年、マルクス・アウレリウスはドナウ川方面で戦っている軍を指揮するために赴いたウィンドボナ(現在のオーストリア,ウィーン)で体調を崩し、側近や息子に囲まれながら60年の生涯を閉じました。
【没後 (コンモドゥス帝治世下)】
AD180 デナリウス銀貨
息子コンモドゥスがローマに帰還した後、元老院はマルクス・アウレリウスを神格化しました。このコインは神格化されたマルクス・アウレリウスを顕彰する為、コンモドゥス帝によって発行されました。
60歳で亡くなったマルクス・アウレリウスの肖像。従来の肖像と比べると最も老齢になっていますが、顔つきは凛凛しさを取り戻しています。また、即位前の青年時代と同じように無冠の姿です。皇帝という重責を全うして解放され、神となった哲人皇帝の姿を見事に表わしています。
マルクス・アウレリウスは副帝時代を20年、皇帝時代を20年経験しているため、合計40年分のコインが存在します。肖像も10代後半~60歳までと幅広く変化が見られます。一連のコインを並べて比較すると成長と変化を追うことができるので、収集にも最適なテーマといえるでしょう。
肖像から千年以上前を生きた人間の人生を辿ることができるという点で、コインの史料的価値の高さが改めて実感できます。
こんにちは。
9月になり、秋らしい空気を感じるようになりました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、皆様もどうかお気をつけて。
さて、今回はアレキサンダーコインについてお話したいと思います。
とはいってもマケドニア王国やその後のギリシャ諸都市が発行したものではなく、ローマ人によって発行されたアレキサンダーコインです。
画像のコインは紀元前95年~紀元前70年頃にかけて、マケドニアの都市テッサロニカで造られたテトラドラクマ銀貨です。いわゆる「アレキサンダーコイン」の中では比較的新しく、アレキサンダー大王の没後200年以上を経て発行されたタイプです。
表面にはかつてのマケドニア王アレクサンドロス3世(在位:BC336-BC323)の横顔肖像が打ち出されています。また、下部には分かりやすく発行地マケドニアを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ」銘が配され、左側には「Θ」銘が確認できます。
このアレキサンダー像は、大王配下の将軍リシマコスが発行したコインを基に作成されたとみられ、側頭部には大王の神聖性を示す巻角(=アモン神の象徴)が確認できます。
リシマコスによって発行されたテトラドラクマ(BC288-BC281)
しかしオリジナルのコインと比べると頭部は縮れ毛になっており、巻角もほぼ同化しています。凛凛しく逞しい顔つきは中性的になり、女性にも見える表現です。
これとよく似た表現は、同時代のローマで発行されたデナリウス銀貨にみられ、ローマとマケドニア、両地域の関係性がうかがえます。
ローマで発行されたデナリウス銀貨(BC55)。ローマ人の守護神ゲニウスとされる。
一方、裏面のデザインは従来のアレキサンダーコイン(=ゼウス神、アテナ神など)とは大きく異なり、独自性が溢れたデザインになっています。
左側には徴税などで使用された金庫、中央には棍棒、右側には椅子が表現され、上部にはギリシャ文字ではなくラテン文字で「AESILLAS」銘と「Q」銘が配されています。さらに周囲部はオリーヴのリースによって囲まれています。
これらのデザインには、コインが発行された背景が明確に反映されています。
このコインが発行された当時、マケドニアはローマの支配下にありました。第三次マケドニア戦争の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国はローマ軍によって滅ぼされ、王国は四つの自治領に分割されました。ローマの属領になったマケドニアは、アンフィポリスやテッサロニカなどの都市を中心としながら分割統治されたのです。
分割時代のマケドニア、アンフィポリスで発行されたテトラドラクマ銀貨 (BC167-BC149)。棍棒と共に、四分割された第一管区であることを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ ΠΡΩΤΗΣ (マケドニアの第一)」銘が配されている。
しかしアンティゴノス朝滅亡から20年後、マケドニアの住民はローマに対して反乱を起こし、第四次マケドニア戦争が勃発します。軍事力によってこれを制圧したローマはマケドニアに残されていた自治権を剥奪し、紀元前146年に「マケドニア属州」に再編、完全な直轄支配下に置きました。
これによってローマの東方拡大が本格化し、後のローマ帝国への大きな一歩となりました。
最初にご紹介したアレキサンダーコインは、ローマによって属州化された時代に発行され、その発行にはローマ軍の戦略的な意図が込められていました。
マケドニア戦争を経てバルカン半島~ギリシャに本格的に進出したローマ軍は、イタリアとマケドニアを結ぶ街道を整備しました。この「エグナティア街道」はデュラッキウムからペラ、テッサロニカ、アンフィポリスを経てトラキア、ビザンティウムへ至る重要な街道であり、小アジア進出の足がかりとなる地理的重要性を有していました。
後にスッラやポンペイウス、ブルートゥス、カエサルやマルクス・アントニウスなどの英雄が行き来し、数々の決定的会戦の舞台となった、ローマ史にとっても欠かせない要衝となります。
エグナティア街道
テッサロニカはこの街道沿いにあり、マケドニア属州の州都となった。
紀元前88年、小アジア北部ポントス王国のミトリダテス6世はローマ軍と戦端を開き、三次にわたる「ミトリダテス戦争」が勃発します。小アジア北部への通路であるエグナティア街道はローマ軍の往来がより激しくなり、軍団にとって安全な進路を確保することが重要課題となりました。
当時、ビザンティオンにいたるトラキア南部は好戦的な部族が多くおり、しばしばローマ軍と戦いになることもありました。しかしミトリダテスとの戦いに戦力を温存しておきたいローマ軍は、戦いによってトラキア人を殲滅するのではなく、より経済的な方法で解決しようとしました。
ローマ軍はトラキア人に金銭を支払うことで彼らを懐柔し、むしろ有力な協力者とすることにしました。その際、用いられたのが「アレキサンダーコイン」でした。ローマ人にとってこの銀貨は単なる決済手段ではなく、矢にも匹敵する強力な武器でした。
ビザンティウムからヘレスポントス海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えた先にはビテュニア王国があり、ローマは同盟国として支援していました。紀元前95年頃にポントス王国がビテュニアを攻撃した際、ローマはビテュニアを支援し、ポントスとの対立を明確なものにしていきました。
それ以降、このアレキサンダーコインは継続的に造られるようになり、さらにミトリダテスとの戦争が本格的に始まると、戦略上の理由から大量に製造されるようになったと考えられています。
アレキサンダー大王の肖像はトラキアで古くから流通していたリシマコス発行のものを踏襲し、トラキアの部族にとって馴染み深いものとしました。
裏面に自治領時代のアンフィポリスで発行されたコインに採用されていた「棍棒」を使用し、馴染み深さを増して価値の信用度を高めました。
重量はアテネで発行され、アレキサンダーコインにも採用されていたアッティカ基準を採用、裏面のオリーヴのリースはそれを象徴しています。
アテネ テトラドラクマ (BC136-BC135)
裏面に表現された金庫と椅子は、属州に派遣され軍団の物資調達、給与支払いに権限を持っていた「財務官」を象徴しており、椅子の上の「Q」銘はローマの財務官(=Quaestor)を示します。
つまり、上部に刻まれている「AESILLAS」銘は、コインを発行した当時の財務官アエシラスの名銘であることが分かります。
この新しいタイプのアレキサンダーコインは、当時のトラキア人に広く受け入れられたようで、マケドニア~トラキアのあらゆる地域で出土しています。トラキア人の信用度が非常に高く、広範囲で流通したことから、財務官アエシラスが任地を去ってからも「AESILLAS」銘でコインは製造され続けたとみられています。
ローマ軍の作戦は功を奏し、安全な進路を確保したことで軍団と物資はスムーズに輸送されました。紀元前63年にミトリダテス戦争はローマ軍の勝利によって終結し、小アジアの大半がローマの支配下に入りました。
その後もローマは東方への拡大を続け、アレキサンダー大王の後継者達が建てた国々(セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を次々と征服してゆきました。
マケドニアを征服したローマ人が、さらなる東方進出に用いた武器がアレキサンダーコインだったとは、まさに歴史の皮肉といえるでしょう。
アレキサンダー大王はカエサルやオクタヴィアヌス、トラヤヌスやカラカラも憧れた歴史上の英雄でした。ローマ人は壮大なアレキサンダーの征服事業を、そのままローマ帝国の拡大と繁栄に重ね合わせたのだと思われます。
こんにちは。
まもなく6月は終わりですが、梅雨空の今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日はコインに関する新著をご紹介させていただきます。
来月17日、古代ギリシャ・ローマコインに関する新書籍が発刊されることとなりました。
著者の方は普段からお世話になっているお客様で、古代のギリシャ~ローマ~オリエントで発行された豊富なコインを紹介しながら、当時の文化や歴史、神話を巡る内容です。
『アンティークコインマニアックス コインで辿る古代オリエント史』
著者:Shelk
出版社:エムディエヌコーポレーション
発売日:2019年7月17日(水)
価格:¥1,300 (+税)
※画像をクリックするとAmazonの詳細ページにリンクします。
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紀元前の小アジアからギリシャ、エジプト、ローマなどで発行された多種多様なコインの画像と共に、イラストを交えながら、その図像に込められた意味や背景が紹介されています。当時の地中海世界を旅しながらコインを紹介する形式となっており、実際にコインが使われていた古代ギリシャ・ローマ世界を俯瞰的に感じられます。
古代コインには神話の神々が表現されていますが、それらがなぜアポロ神やアテナ神などと断定されているのか、その象徴となるモティーフや、またコインに刻まれている銘文も解説されており、古代の神話や文字を学ぶ方にとっても一助になることでしょう。
コインを通して古代ギリシャ・ローマの歴史や文化、神話、伝説、文字も学べ、考古学的な視点も盛り込まれています。
著者の方は、小中高生をはじめとする若い人たちが、コインを通じて古代ギリシャ・ローマの文化や歴史に興味を持つきっかけになって欲しいという思いを込めて書かれたそうです。
そのため価格を低く抑えつつも、掲載画像や解説内容は充実しており、小中高生だけでなくコインを収集している方も満足できる一冊になっています。
作成に当ってはコインを原寸大で掲載し、古代コインの彫刻のような立体感や、オリジナルの色を極力再現できるようこだわったため、完成まで大変苦労されたそうです。本著の約200ページの中に、当店が納めさせていただいたコインも掲載されていますが、それらを上手く撮影するのも技術が必要だったようです。
コインの写真撮影は多くの方が苦労されているようで、撮影してみると肉眼で実際に見た雰囲気と微妙に異なることもあります。当店のホームページにもコインの画像を掲載しておりますが、接写撮影に慣れているカメラマンであっても難しい場合があります。
この本では色調やサイズなど、なるべく忠実に再現し、読む人が実物のコインをイメージしやすいような工夫がなされています。
欧米ではギリシャ・ローマコインに関する著作は数多くありますが、日本ではコインに関する著作そのものが少ないのが現状です。その中で、モティーフや銘文の解説が図像つきで分かりやすく、なおかつ詳しく網羅されている本著はとても貴重な一冊といえるでしょう。図像や解説も美しく明確にまとめられているので、オークションカタログのように各ページを眺めているだけで楽しい本です。
この本を通じて、若い世代の方々へコインの魅力を発信し、新しい世代へと裾野が広がっていけば幸いです。日本でより一層、古代ギリシャ・ローマ文化への関心が高まり、古代コインという文化遺産の価値が再認識されると嬉しく思います。
また、この本をきっかけに将来の研究者を志す方が一人でもいれば、とても意義のある一冊になると思います。
古代ギリシャ・ローマの歴史や文化、神話に興味がある方は当時の世界に思いを巡らせ、コインに興味がある方はデザインの豊富さや新しい知識を得ることができるでしょう。
小中高生から大人まで楽しめる一冊ですので、この初夏の読書にオススメの新著です。
・目次
・コインで学ぶ古代ローマ史
人物の相関図やそれぞれのエピソードも充実しており、コインを通して古代ギリシャ・ローマの歴史的流れが分かります。
3月も終わりに近づき、各地で桜が開花しています。
まだ肌寒さも感じられますが、着実に春の訪れを感じることができます。
いよいよ4月1日には「平成」の次の元号が発表されます。どのような元号になるのか非常に気になるところです。
30年を越えた平成も残すところあと1ヶ月、来る新しい時代が、穏やかで楽しい御世になって欲しいものです。
さて、今回はクレオパトラの娘「クレオパトラ・セレネ」のコインをご紹介します。
プトレマイオス朝エジプト最後の女王となったクレオパトラ7世は「絶世の美女」の代名詞として、今なお世界中でその名が知られています。
しかしその娘がクレオパトラの死後も生き残り、後に異国の女王となったことはあまり知られていません。
クレオパトラ・セレネと伝わる頭像
紀元前39年頃、クレオパトラ7世とローマの英雄マルクス・アントニウスとの間に双子が誕生します。それぞれ男子と女子だったことから、男子は「アレクサンドロス・ヘリオス」、女子は「クレオパトラ・セレネ」と名付けられました。ヘリオスはギリシャ神話の太陽神、セレネは月の女神とされ、神話上でも兄と妹の関係で語られます。
この時、二人の兄としてカエサルとクレオパトラの間に生まれた男子カエサリオンがおり、後に弟としてプトレマイオスが誕生します。四人の子供たちはプトレマイオス朝の宮廷が置かれたアレクサンドリアで育ち、唯一の女子だったセレネも王女として大切に育てられたとみられています。
しかし紀元前31年、マルクス・アントニウスとエジプト軍はローマのオクタヴィアヌスとの戦いに敗れ、エジプトはローマ軍によって占領されます。マルクス・アントニウスと女王クレオパトラ7世は自決し、エジプトはローマに併合されたことでプトレマイオス王朝は終焉を迎えます。
アントニウスとクレオパトラの最期
この顛末は映画や演劇の古典としてよく知られていますが、もっぱらクレオパトラとアントニウスの最期をクライマックスとしている為、その後二人の子供たちがどうなったのかはほとんど語られていません。
クレオパトラとアントニウス亡き後、遺児である四人の子供たちは、両親の政敵であるオクタヴィアヌス(後のアウグストゥス)に引き取られローマへ移送されました。
この際、長子カエサリオンはカエサルの息子であるため、カエサルの後継者として権力を手にしたオクタヴィアヌスによって殺害されたと云われています。残された三人はオクタヴィアヌスの姉であり、かつてマルクス・アントニウスの妻だったオクタヴィアのもとに預けられました。
オクタヴィアとオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)
オクタヴィアは最初の夫マルケッルス、二番目の夫アントニウスとの間にも子どもをもうけていたため、総勢十人近い子供たちの面倒を見ることになりました。傍目から見ればオクタヴィアの生涯は苦労の連続のように見えますが、こうした振る舞いからローマ女性の美徳の象徴して見做されるようになります。
セレネは兄ヘリオス、弟プトレマイオスと共にローマ市民として養育され、オクタヴィアヌスの庇護の下、教養高い貴人として成長します。しかし母クレオパトラや父アントニウスとは異なり、容姿や人柄に関する伝承の類はほとんど残されていません。
そのため、少女時代のセレネが過ごしたローマでの生活は不明な点が多く、また不思議なことに、双子の兄ヘリオスと弟プトレマイオスの消息はいつしか不明となり、いつ頃亡くなったのかも定かではありません。
この時代、領土を拡大したローマは各地の首長や王の子弟をローマで教育し、ローマ人の高等教育を身につけさせる方策が採られました。これは人質の意味合いも含まれていましたが、各地の土着勢力を完全排除するのではなく、その後継者にローマ的教育を施すことで親ローマの政権を配置させる狙いです。
ちょうど同じ頃、アフリカから連れてこられた一人の王子がローマで教育を受けていました。北アフリカ、ヌミディア王国のユバ2世です。
父親のユバ1世はポンペイウスの同盟者であり、内戦期にカエサル軍と対峙した後に敗北、第二次ポエニ戦争時のマシニッサ王以来続いたヌミディア王国は滅亡します。ユバ2世はやはりローマへ引き取られ、カエサル、続くオクタヴィアヌスの庇護の下で英才教育を受けていました。ユバ2世はギリシャ・ローマ文化への造詣を深め、自然科学の研究や詩作も行う教養深い文化人として成長します。
北アフリカの王家出身であり、親を殺し王朝を滅ぼした敵であるローマで養育されたユバ2世とセレネは、この時点で既に多くの共通点がみられます。
紀元前27年、オクタヴィアヌスが「アウグストゥス(尊厳者)」として帝政を確立した頃、北アフリカの統治者としてユバ2世を配置する計画が持ち上がります。かつてヌミディアと同じく北アフリカの同盟国だったマウレタニアは、現在のアルジェリア北部~モロッコ北部にまたがる領域を占める、原住民のムーア人(マウリ人)が建てた王国でした。ローマの属国となるも現地の王系が断絶したため、この統治をユバ2世に任せる計画でした。
黄色の範囲がマウレタニア王国の版図
ルーツを北アフリカに持ち、王家の血統も申し分ないユバ2世は、高貴なローマ市民として育てられた理想的人物でした。何より、彼はアウグストゥスの側近の一人として信頼されていることから、ローマ属国の王として、また北アフリカの原住民を統治する上で相応しい存在だったのです。
紀元前25年、マウレタニア王となったユバ2世はおよそ20年ぶりにローマから北アフリカへ戻ります。
ユバ2世はマウレタニアの首都イオルをカエサルに因み「カエサレア」と改称し、ギリシャ・ローマ風の都市への再編を推進しました。地中海に面したカエサレアにはローマ風の円形劇場や神殿が建設され、宮廷には彫刻をはじめとする芸術作品が集められました。王自身も創作や自然科学研究に携わり、カエサレアは短期間で風光明媚な文化都市となりました。
カエサレアは現在のアルジェリア、シェルシェルにあたり、同都市からはギリシャ・ローマ風の遺構やモザイク画が大量に出土しています。
期待通りローマの忠実な同盟者となったユバ2世の地位をさらに強化するため、アウグストゥスは王とよく似た背景を持つセレネをユバ2世と結婚させました。紀元前20年頃に結婚したセレネは、そのままローマを離れてマウレタニア王国の宮廷へ移住しました。
セレネがマウレタニアでどのような活動を行ったかは定かではありませんが、夫と共にギリシャ・ローマ文化の普及に尽力した可能性は充分に考えられます。地中海世界で最も教養高い女王と云われたクレオパトラの娘であり、ギリシャ系であるプトレマイオス王朝の血統を引いています。幼少期はエジプトの宮廷、少女期はローマの上流社会で育てられたセレネは、母親や夫にも劣らないほどの教養人だったのではないでしょうか。
ユバ2世の治世中に発行されたコインはローマと同じくデナリウス銀貨であり、ここでもローマとの近しい関係性が伺えます。表面にユバ2世の肖像、裏面に宗教的デザインを表現した、帝政ローマスタイルのコインです。
紀元前20年にセレネがマウレタニアに入ると、コインの裏面にはセレネの肖像と「BACIΛICCA KΛEOΠATPA(女王クレオパトラ)」の銘文が刻まれるようになります。このことから、セレネはマウレタニアの女王、共同統治者と見做されていた可能性もあります。
ユバ2世とクレオパトラ・セレネを表現したデナリウス銀貨。このコインには大きく分けて二つのタイプがあり、ひとつはギリシャ・ローマ風の写実的な表現の肖像、もうひとつはケルトコインやアラビアコインなどの模造コインにみられる抽象化された肖像です。また、肖像が右向き、左向きなどの違いもみられます。
①抽象化された表現のデナリウス銀貨
②より抽象化が進んだタイプ
③さらに抽象化されたデザイン
これらは全て彫刻師が異なると推定されていますが、おそらく最初に腕のよい職人がギリシャ・ローマ風のデザインを彫刻し、その後現地人の職人がそれを手本として型を彫刻したため、バラエティが見られると思われます。上記の4点は全て1907年にモロッコのエル・クサールから出土したものであり、同時期に多様な造型のデナリウス銀貨が流通していたことを示しています。
いずれにせよ、ギリシャ・ローマ文化に造詣が深かった夫婦のコインとして、最初のタイプの肖像が本人に最も似ていると推定されます。絶世の美女と謳われた女王の娘は、コインの肖像を一見する限りローマの貴婦人であり、際立った特徴は見られません。しかしこの肖像から、母親であるクレオパトラ女王の姿を想像することもできそうです。
裏面には象の毛皮を頭に被る女性像が表現されています。これはローマでよくみられた「アフリカを象徴化した女神像」と解釈されますが、一方でセレネの肖像がもとになっていると考えられます。
同時代にローマで作成された、クレオパトラ・セレネと伝わる銀製の胸像。アフリカの女王として表現され、上のコイン肖像と類似しています。
一方でセレネの肖像はなく名前だけ刻んだコインも確認されており、代わりに彼女の出自であるエジプトに関係するようなモティーフが配されています。
裏面には「BACIΛICCA KΛEOΠATPA (女王クレオパトラ)」の銘文と共に、エジプトの女神イシスの冠とシストラム(古代エジプトの楽器)が表現されています。
月と星が表現されたタイプ。セレネの名が月に由来することを示しています。
クロコダイルが表現されたタイプ。おそらくナイルワニと見られています。エジプト出身の女王をワニに例えるのは不敬に感じられますが、かつてオクタヴィアヌスがローマで発行したデナリウス銀貨にも同じデザインが用いられています。
ローマ BC28 デナリウス銀貨
ワニと共に「AEGVPTO CAPTA (エジプト捕囚)」銘が配されたコイン。オクタヴィアヌスによるエジプト征服を記念したデザインであり、ユバ2世のコインはこのデザインをそのまま取り入れているとみられます。これ以外にも、ユバ2世はオクタヴィアヌス(アウグストゥス帝)が発行したコインのデザインを数多く取り入れ、自らが発行したコイン上に忠実に再現しています。ユバ2世とアウグストゥス帝、マウレタニアとローマの深い関係性をそのまま反映しています。
裏面にセレネの名銘はありませんが、古代エジプトの聖牛アピスが表現されています。ユバ2世のコインの特徴は、ローマコインを完全に模倣したとみられるものと、古代エジプトの信仰が表現されたものが同時期に発行されている点です。当時のマウレタニア王国の宮廷はユバ2世の影響により、ギリシャ・ローマ文化によって彩られていたとされていますが、セレネは母国であるエジプトの文化を取り入れ、普及していた可能性もあります。また当時のマウレタニアの民衆の間でも、エジプトの信仰が浸透していたのかもしれません。
ちなみに表面のユバ2世はライオンの毛皮を被っており、自らをヘラクレスに模していたことが分かります。これはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)にもみられる表現であり、自身を神話上の神に重ねています。ローマのオクタヴィアヌスの場合はアポロ神に重ねていました。
セレネは結婚からおよそ25年後に亡くなったとされ、マウレタニアの地に葬られました。しかしセレネのコインは彼女が亡くなった後も造られたとみられており、亡くなった後に事実上神格化されたとも解釈できます。
マルクス・アントニウスとクレオパトラの娘に生まれ、マウレタニアの女王として激動の生涯を終えたセレネについての記録は非常に少なく、生活ぶりや人柄は計り知れません。しかし残されたコインの肖像を見ると、様々なことが想像できます。エジプト、ギリシャ、ローマという多様なルーツを持つセレネは、教養人である夫を支え、かつ新しい文化の薫りをもたらしたことでしょう。共通の境遇を背景に持つユバ2世とセレネは、共に様々なことを語り合える、仲の良い夫婦だったと思いたいものです。
ユバ2世とセレネのものとされる陵墓 (アルジェリア)
マウレタニア王家の墓と伝わる巨大な陵墓。ユバ2世とセレネも共に葬られたとされますが、19世紀にフランスの調査隊が入った時点では既に盗掘されていました。
セレネが亡くなった17年後、夫であるユバ2世も亡くなり、二人の子であるプトレマイオスが王国を引き継ぎました。クレオパトラ7世の孫として、プトレマイオスの名が再び王として登場したのです。しかしローマの属国であることに変わりはなく、プトレマイオス王は40年頃にカリグラ帝によって殺害されます。カリグラ帝の後継となったクラウディウス帝はマウレタニアを再編し、二つの属州に分割して統治することを決定します。こうしてマウレタニア王国はセレネの子を最後にして消滅しました。
ユバ2世とセレネが築いた王国の威光は、現在はモロッコとアルジェリアの各地に散らばる遺跡によって目にすることができます。コインもそうした遺物の一種ですが、現存するコインはどれも希少であり、特にセレネの横顔を刻んだものは母親クレオパトラ7世のコインに劣らないほど高値で取引されています。
なおマウレタニア(Mauretania)の名は地理的名称として時を経ても生き残り、現在アフリカ西部の国名「モーリタニア」に引き継がれています。
2月も終わりに近づき、少しずつ暖かくなってまいりました。
年明けの厳しい寒さは落ち着いてきましたが、季節の変わり目は体調にも影響が出やすいので、
どうかご自愛いただきたいと思います。
今回は年明けに更新した干支コインのご紹介「猪コイン」の続きです。
先月は古代ギリシャ編をご紹介しましたので、今回は「古代ローマ編」です。
イタリア半島でもイノシシが生息していたことから、古代ローマの人々にとってもイノシシは身近な動物の一種でした。特に狩猟の対象といえば鹿かイノシシとされ、有史以前から食用としても好まれてきました。野生のイノシシを家畜としたブタもローマでは飼育され、当時の人々のご馳走として饗宴にのぼりました。
こうしたイノシシの姿は度々コインのデザインとしても取り上げられています。古代ギリシャと比較するとメインとして表現されず、裏面のデザインとして採用されることが多かったようです。ローマの場合、イノシシの扱いは「狩猟の対象」と認識されているためか、狩りにおいて追い立てられるような姿で表現されています。
デナリウス銀貨 BC206-BC195
裏面の双子神ディオスクロイ騎馬像の下部、「ROMA」銘の上に小さなイノシシが配されています。この時代、コインに発行者の名銘を刻む慣習がまだ無かった為、発行者(または型の区別)を示すモティーフとして入れられたとみられています。
イノシシ以外にもイルカややフクロウ、ハエ、エビ、グリフィン、犬など様々なバラエティがみられます。
デナリウス銀貨 BC137
裏面中央のしゃがみ込む人物は、両手で子豚を抱きかかえています。表面が軍神マルスであることから、軍団への入隊儀式を表現したものとされ、子豚はマルス神に捧げる犠牲獣とみられます。古代ギリシャでも軍神アレス(マルスと同一視)の聖獣はイノシシとされていました。
デナリウス銀貨 BC106
納戸と世帯の守護神ペナテスが表現されたコイン。巨大なイノシシを仕留めた姿が表現されています。トロイから脱出したアエネアスがラウィニウムに上陸した際、巨大な白い豚の吉兆を見たという伝説の場面と解釈されることもあります。
デナリウス銀貨 BC79
裏面 グリフィンの下部にイノシシの頭部が配されています。この印は型を判別する為のものとみられ、イノシシ以外にもアヒルなど他の動物の頭部もみられます。
デナリウス銀貨 BC78
表面はヘラクレス、裏面には「エリュマントスの猪」が表現されています。エリュマントス山に生息した獰猛な大猪を生け捕りにしたという、ヘラクレスの功業伝説を示すモティーフです。全身の毛を逆立てながら威嚇するイノシシの姿は、巻いた尻尾の造型までリアルそのものです。
デナリウス銀貨 BC68
表面は狩猟の女神ダイアナ、裏面はイノシシが表現されています。イノシシの背中にはダイアナ女神が放った矢が刺さり、左下からは細長い猟犬に追い立てられています。表面と裏面で一つの場面を表現した、芸術性の高いデザインです。
デナリウス銀貨 BC19-BC18
帝政時代初期に発行されたコインにもイノシシが登場します。
アウグストゥス帝(在位:BC27年~AD14年)治世に発行されたこのコインには、槍で突き刺されたイノシシが表現されており、狩猟で仕留められた姿とみられます。前述のダイアナ女神のコインと非常によく似た構図です。毛並みは野性味に溢れ、巻いた尻尾も確認できます。
デナリウス銀貨 AD78
ウェスパシアヌス帝(在位:AD69年~AD79年)の治世末に発行されたコイン。表面には副帝ティトゥス、裏面にはブタの親子が表現されています。アエネアスの伝説にもブタの親子が登場しますが、ローマではブタが子沢山であることから子孫繁栄の象徴と見做されていました。ここでは大きな親ブタを「ウェスパシアヌス」、足元の小さな三匹の子ブタは息子「ティトゥス」「ドミティアヌス」と娘「ドミティラ」を示し、フラウィウス朝の繁栄を示していると解釈されています。
クァドランス銅貨 AD98-AD102
トラヤヌス帝(在位:AD98年~AD117年)の治世初期に発行されたクァドランス(=1/4アス)銅貨。表面にはヘラクレス、裏面にはイノシシが表現されています。
BC78年に発行されたデナリウス銀貨と同じ構図ですが、ヘラクレスは壮年になり、イノシシは単純化されたデザインになっています。
ペンタサリオン銅貨 AD202-AD203
モエシア(現在のブルガリア)の都市 ニコポリス・アド・イストルムで発行された銅貨。表面はカラカラ帝の皇妃プラウティラ。
裏面には武装したカラカラ帝の騎馬像が表現され、槍を持った皇帝がイノシシを追いかける様子が表現されています。狩猟の様子を表現することで、ローマ皇帝の武勇を表現しているとみられます。
銅貨 AD244-AD247
パフラゴニアの都市ラオディケイアで発行された銅貨。表面には副帝フィリッポス2世の肖像、裏面には犬と向かい合うイノシシが表現されています。狛犬のような左右対称性がユニークです。
アントニニアヌス銀貨 AD260-AD262
ガリエヌス帝(在位:AD253年~AD268年)の治世下、メディオラヌム(現:ミラノ)で発行されたコイン。裏面には度々登場する構図と同じイノシシ像が表現されています。
ガリエヌス帝の時代、メディオラヌムでは各軍団の象徴を示したコインが多く発行され、その多くは動物のモティーフでした。イノシシもその中の一つであり、ヒョウやライオン、鹿、牛、狼、グリフィン、ペガサス、カプリコーン、ケンタウロスなど様々なモティーフがみられます。
二回にわたって古代ギリシャ・ローマ時代の猪コインの一部をご紹介しましたが、西洋世界でもイノシシが身近な野生動物であったことがよく分かります。日本や中国でも干支になるほど親しまれた動物であり、東西の文化が異なる地域で愛された生き物であったことを物語っています。
イノシシと共に犬が度々表現されていますが、戌年の次が亥年であるように、何とも奇遇な組み合わせです。
今年は猪突猛進、元気良く走りぬく年になりますことを、心よりお祈り申し上げます。
11月に入りすっかり寒さが増してまいりました。
今年も残すところあとわずか、風邪など召されませんようご自愛ください。
今回は現代のコインに表現された「古代ギリシャ・ローマの神々」をご紹介します。
20世紀以降のヨーロッパでは様々なデザインの通常コインが発行され、造幣局・彫刻師たちは競うように独創的なデザインを表現しました。
国の産業(農業・工業・商業)を象徴する意味から、自国の歴史を顕彰する意味から、古代ギリシャ・ローマ時代の神々がデザインに登場しています。必然的に地中海の南ヨーロッパの国々にその傾向がみられます。
【アテナ (ラテン名:ミネルヴァ)】
アルバニア 1927年 1フランカ・アリ
古代ギリシャ神話のアテナは知恵・戦術・手工業・紡績・建築・造船技術などを司る処女神であり、ゼウス神の娘とされる。オリンポス十二神のひとつ。装飾羽がついた兜を被り、聖鳥フクロウを従える勇ましい姿で表現される。ギリシャの都市国家アテネの守護神であり、パルテノン神殿はこの女神を祀るために建立された。ローマでは「ミネルヴァ」の名で呼ばれ、国家守護神のひとつとして信奉された。
【ヘルメス (ラテン名:メルクリウス 英名:マーキュリー)】
フランス 1922年 2フラン
ヘルメス(フランス語ではエルメス)はオリンポス十二神に数えられる神。青年の姿をし、翼が据えられた帽子とサンダル、伝令使の杖(ケリュケイオン)を携帯した姿で表現される。神々の伝令使を務めることから、通信と旅の守護神とされる。また生まれてすぐにアポロ神の牛を盗み、巧みな交渉で言い逃れたという伝説から、商売人や交渉事、盗賊の守護神とされた。その他、数字や交易を人間にもたらし、サイコロを発明した神とされ、賭博の守護神とも云われた。
近代以降は通信や交易・交通・商業の面が注目され、企業の紋章や証券、紙幣やコインのデザインとして多く用いられた。
ベルギー 1924 2フラン
ヘルメス神の象徴 ケリュケイオン(カドゥケウスとも)は翼と二匹の蛇が巻きついた伝令使の杖。それ自体が商業上の縁起物として認識され、古代ローマ時代からコインに表現された。近現代ではベルギーとボリビアの通常貨にみられる。
【ポセイドン (ラテン名:ネプトゥヌス 英名:ネプチューン)】
ギリシャ 1930年 20ドラクマ
オリンポス十二神に数えられるポセイドンは、大神ゼウスと冥界神ハデスの兄弟にあたる。海を支配する荒ぶる神として畏れられ、地震や津波を引き起こすとされた。古代ギリシャではポセイドンの怒りを鎮めて海の安全を願うと共に、海戦での勝利や海運の成功を祈願した。
【ヘファイストス (ラテン名:ウルカヌス 英名:ヴァルカン)】
イタリア 1978年 50リレ
オリンポス十二神の中では珍しくものづくりに特化した鍛冶の神。鉄鋼をはじめ金属加工を司る職人の守護神とされる。神話上では神々の武器や神器を製作する役割を与えられ、「クリュトテクネス(名匠)」の異名で呼ばれることもある。また動く人形や首飾りなどの宝飾品、最初の人間の女性「パンドラ」を作り出したとされる。
【デメテル (ラテン名:ケレス 英名:セレス)】
ギリシャ 1930年 10ドラクマ
デメテル(セレス)は豊穣をもたらす農業の守護女神。オリンポス十二神の中では大地母神としての役割を果たす。その象徴として穀物が絶えず湧き出るコルヌ・コピア(豊穣の角)を持ち、麦穂で編んだリースを頭に巻いている。一年の内、娘であるペルセポネーが冥界神ハデスのもとに行ってしまう数ヶ月間は、悲しみのあまり働かないため「冬」になる、と云われる。農業と穀物の供給を司る女神として重要視され、古代ローマでは頻繁にコインのデザインに用いられた。19世紀には農業国フランスをはじめ、ヨーロッパ各国のコインやメダルに表現された。
【ヘラクレス】
アルバニア 1926年 1/2レク
ヘラクレスは半神半人の英雄であり、豪神として男性から人気があった。歴史上では、アレクサンドロス大王やコンモドゥス帝などが憧れ、ヘラクレスに模した自らの肖像をコインに刻ませた。1920年代にアルバニアで発行されたコインには、ヘラクレス十二功業のひとつ「ネメアのライオン退治」が表現されている。
【テティス】
ギリシャ 1911 2ドラクマ
テティスは海の女神であり、海馬ヒッポカンポスを従える姿で表現される。英雄アキレウスの母親であり、トロイア戦争は女神の結婚式が発端になったとされる。1911年のギリシャで発行されたディドラクマ(2ドラクマ)銀貨には、海馬ヒッポカンポスに乗り、息子アキレウスの円盾を見つめるテティスが表現されている。
【リベルタス (英名:リバティ)】
ポルトガル 1965年 50センタヴォ
リベルタス(リバティ)は古代ローマにおいて自由と解放を象徴する女神だった。その姿は解放奴隷が被っていたフリジア帽を持つ姿で表現された。古代ローマ時代にはコイン上に度々表現されたが、フランス革命以降、共和政国家を象徴する女神像として頻繁に用いられた。近現代のヨーロッパとアメリカ大陸では最もよく表現された女神像。
【ペンテシレイア】
マルタ 1977年 2セント
女戦士部族アマゾネスの女王ペンテシレイアは、トロイア戦争においてアキレウスと戦い敗れたとされる。黒海沿岸部を支配したというアマゾネスは古代ギリシャの様々な神話に登場し、小アジアの植民都市名の由来として伝承される場合も多い。
【エウロペー (ラテン名:エウロパ)】
キプロス 1991年 50セント
ギリシャ 2008年 2ユーロ
エウロペーはテュロス王の娘とされ「ヨーロッパ」の語源になった。海辺で戯れていたエウロペーを見初めたゼウス神が白い牛に変身し、気を許したエウロペーを乗せて走り去ったと伝承される。このとき、エウロペーを乗せた牛(ゼウス神)が西方の海へ走り去った為、その地域一帯が「ヨーロッパ」と呼ばれるようになったとされる。
【ペガソス (ラテン名:ペガスス 英名:ペガサス)】
ギリシャ 1973年 10ドラクマ
天空を飛ぶ有翼の馬として知られるペガサスは、ペルセウスやベレロポーンなど英雄達の愛馬として登場する。ペルセウスに討ち取られたメドゥーサの首から飛び出したとされ、その父親は海神ポセイドンとされる。天に昇ったペガサスは星座「ペガサス座」となり、「不死」「名誉」「教養」の象徴となった。
ここでは記念コインではなく、20世紀以降に発行された、一般流通用の通常貨に表現された神々をご紹介しました。ご紹介したコインの中には、古代ギリシャ・ローマ時代に造られたコインを模してデザインされたものもあります。2000年以上の時を経てもデザイン性に大きな隔たりが無いことは驚きです。
近年発行されたコインは比較的入手しやすいので、「古代ギリシャ・ローマ神話」をテーマにしてコレクションされると面白いかと思います。また自身に関係のあることを守護してくれる神様(学問や職業、星座など)のコインをペンダントやストラップ、財布の種銭にして、お守りにされるのも良いでしょう。
古代ギリシャ・ローマで発行された当時のコインを入手し、あらゆる点で現在のコインと見比べてみるのもまた楽しいはずです。古代の手打ちで一枚一枚作成されたコインと、機械で大量生産されたコイン、古代ギリシャ・ローマの末裔達が作り出したコインにもまた、物語や背景があります。
お手持ちのコインのデザインから古代の神話の世界に興味を持ち、本や映画で調べることもあると思います。また古代神話の物語からコインに魅力を感じ、思い入れのある一枚をコレクションされる方もいらっしゃるでしょう。それぞれの魅力や良さ、楽しさが、少しでも伝われば幸いです。
こんにちは。
すっかり秋らしくなってきましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。夕方以降は涼しくなり、また冷たい秋雨も多くなってまいりました。
そういう日は「読書の秋」ということで、家の中でゆっくり本を読まれる方も多いのではないでしょうか。
前回のブログ記事でもご紹介しましたが、中公新書より『貨幣が語る ローマ帝国史 権力と図像の千年』 (820円+税)が出版されました。手頃なサイズとページ数、価格でありながら、たいへん読み応えのある内容になっています。著者の比佐篤さんは古代ローマ史の研究者ですので、歴史的背景や観点、考察を加えた詳しい解説が見どころです。
早速拝読しましたが、ローマコインの基礎的カタログ『The Roman Imperial Coinage』掲載の画像を多数使用し、そのデザインと発行された時代背景についてとても詳しく、そして分かりやすく解説されていました。ローマ史に興味のある方、コインを収集されている方にはオススメの一冊です。
こうした「コイン」に関する本といえば、David R. Sear氏の『Greek Coins and their values』やFriedbergの『Gold Coins of the World』、Krauseの『Standard Catalog of World Coins』といったカタログが真っ先に思い浮かびますが、読み物としてのコインに関する本は、特に日本語で書かれたものは少ないのが現状です。
そのため海外の作品にわずか一行ほど登場する貨幣名が、かろうじてその存在を印象付けているといってもよいでしょう。普通の読者ならあっさりと読み飛ばしてしまう箇所も、コインを収集している人であれば注目すると思います。
『新約聖書』に登場するイエスの逸話「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに帰せ」で用いられたデナリ銀貨は、当時の皇帝ティベリウスの一般的なデナリウス銀貨と推定され、ユダがイエスを裏切った報酬である「銀貨三十枚」も、フェニキアのティールで造られていたシェケル銀貨(テトラドラクマ)であると考えられています。
また『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』に度々出てくる「金貨」や「銀貨」といった表現も、当時のアラビアで使用されていた「ディナール」「ディルハム」であることが分かります。様々な王にまつわる物語 (※ササン朝のホスロー2世やアッバース朝のハールーン・アッラシードなど)の中で用いられる貨幣は、彼らの時代に発行されたものであると想定することが可能です。
ただ書かれた時代やその土地での呼び名が、後世の古銭学上の呼称と少し異なっていたり、日本語訳の時点で上手く翻訳できていない場合もあります。例えば新約聖書のマルコ伝に「レプトン銅貨二枚の賽銭」という説話があります。金持ちによる多額の賽銭よりも、貧しい人の手持ちの賽銭のほうが価値があると説いたイエスの話です。
ここで記された「レプトン(レプタ)」とはギリシャで使用されていた単位であり、ユダヤには「プルタ」という小額単位のコインが存在しました。初期の聖書がギリシャ語で記されたことから、当時の編纂時点で誤認された、または意図的に修整された可能性もあります。
ユダヤのプルタ銅貨
しかしマルコ伝には「レプトン銅貨二枚すなわち一コドラント」とあり、当時のユダヤでは現地の2プルタがローマのクァドランス銅貨の価値に等しかったことが分かります。聖書を読み解くと支配者であるローマの貨幣と、ユダヤ現地民が使用する貨幣とが混在して流通し、交換比率や用途もある程度決まっていたことが分かります。(ローマの貨幣単位=税、ユダヤの貨幣単位=神殿への賽銭など)
ローマ皇帝の逸話の中でも様々な形でコインが登場しますが、中には裏付け不明な怪しい記述もみられます。内容の信用性や作者の存在、成立年代の不詳性から史料的価値が疑われる古典『ヒストリア・アウグスタ (ローマ皇帝群像)』では、ある皇帝がこのようなコインを発行させた、という記述が散見できますが、実際にはそのようなコインは確認されていないという例も多々みられました。また皇帝の逸話とその中で使用されている貨幣単位の時代にズレがあるといった例もあります。
(※例えばエラガバルス帝の浪費を説明するのに「~万アルゲンティウス、~万フォリス」という表現がみられるが、これらはエラガバルスの時代より半世紀以上経過して新たに登場した貨幣の単位である)
1951年に出版されたマルグリット・ユルスナール著の古典的歴史小説『ハドリアヌス帝の回想』では、ハドリアヌス帝の愛人だったアンティノウスの貨幣は彼の出身地ビテュニアで御守りとして人気があり、現地では「穴を開けて紐を通し、生まれたばかりの赤子の首から下げたり、人が亡くなると墓標に打ち付けたりした」との記述があります。しかし実際にそのような使用がなされていたかは確かめようがなく、何か裏付けとなる史料があるのか、あくまで作者の創作表現なのかは定かでありません。
アンティノウスのコイン (またはメダリオン、フリギアで発行)
ただリアルタイムで書かれた本(日誌や回想録)に登場する貨幣であれば、内容の信憑性はより高いといえます。
19世紀初頭に出版された『セント=ヘレナ覚書』は、大西洋の孤島セント・ヘレナへ流刑になったナポレオンについて記した日誌形式の作品です。作者のラス・カーズはナポレオンの回想録を記すためナポレオンに付き従い、船での護送から島での生活までを細かく記しました。日付け順にナポレオンがどのように振る舞い、何を語ったのかが詳細に記録されています。
この本では度々ナポレオン発行の20フラン金貨が登場します。ナポレオン本人やつき従った側近達は、この金貨をそのまま「ナポレオン」という単位で呼んでいたことも書かれています。また「ターラー」「クラウン」「エキュ」「リーヴル」といった単位の貨幣も登場します。
ナポレオンは自らの肖像が刻まれた20フラン金貨を気に入っていたらしく、島へ向かう船上でイギリス軍の水兵たちに配ろうとしてイギリス将校に止められたり、島を散策中に出会った農夫にあいさつ代わりに渡したこともあったそうです。作者のラス・カーズが帰国する際にも幾らか渡していたかもしれません。
両角 良彦著『セント・ヘレナ落日-ナポレオン遠島始末』 (朝日選書)によればナポレオンは生活費に窮し、屋敷で使用していた銀食器から自らの紋章を削り取った上で売却したと記述されています。
しかし一方で島へ寄港した船の船長がローマ王(ナポレオンの息子)の胸像を持っていることを知ったナポレオンは、1000フラン近い金貨を支払って入手して毎日眺めていたとも書かれており、ナポレオンの金銭事情には矛盾した記述も多くあるように感じられます。配るほど多額の金貨をどうやって持ち込んだのかも不思議な点です。(なお、後にこの胸像はまったくの別人であることが分かった)
ナポレオンは最期を迎えるとき、自らの遺体の周りにフランスとイタリアのナポレオン金貨を数枚並べるよう遺言し、それは実行されたと記されています。つまりフランスの20フラン金貨と、自らがイタリア王となったイタリア王国の20リレ金貨の二種類を持っていたことになります。
イタリア王国の20リレ金貨
金の純度や重さ、サイズはフランスの20フランと同じだが、肖像の雰囲気は異なる。
様々な古典作品を読んでいると、人々がコインを手にし、あれやこれやをやり取りする場面が多く見受けられます。今も昔も変わらず、お金が人の生活にとって欠かせない存在だったことの証でもあります。
それらの作品は書かれた時代、まだそうしたコインが「古銭」ではなく、実際に流通した「現行貨幣」だった時代の重要な史料でもあります。アンティークコインとなってしまった現在ではコインの状態や希少性で価値が決まりますが、それらが純粋に決済の手段だった時代に想いを馳せることができます。なにより現在まで形として残っているコインが、当時どれほどの価値で人々から認識されていたのか、またどのように使用され何を買うことができたのかを知る手立てになりうるのです。
ただ作者が小さなコインにまで注意を払わない場合は、不正確さや事実誤認がみられることもしばしばです。歴史を扱った作品は多々ありますが、多くの人々が目にするものは歴史学ではなく、あくまで「物語」として描かれた作品が多いため、仕方のないことではあると思います。
秋の夜長に本を読まれる際には、その中に登場するコインにもぜひ注目してみて下さい。そこから様々なことを想像し、本物のコインを手にすることで、物語の世界により入り込みやすくなるかもしれません。
こんにちは。
8月も終わりだというのに本当に暑い日が続いております。
秋の涼しさが待ち遠しいですね。
さて、今回はコインに関する本のご紹介です。
来月、9月19日に中央公論新社さんから、ローマコインに関する新書が発売されるそうです。
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著者:比佐篤
出版社:中央公論新社
価格:¥886 (税込)
発売予定:9月19日(水)
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Amazonに掲載されている内容コメントによると、
貨幣は一般的に権力の象徴とされ政府や中央銀行などが造幣権を独占するが、古代ローマでは様相が異なる。政界に登場したばかりの若手や地方の有力者らも発行しており、現在までに発掘されたものだけでも数千種類にのぼる。ローマ神話の神々の肖像、カエサルや皇帝たちの肖像、花びらや儀式の道具など、描かれた図像も多岐にわたる。貨幣の図像と刻まれた銘文から一千年の歴史を読み解いた、新しい古代ローマ史入門。
(以上 掲載紹介文)
248ページの中でコインの図像を紹介しながら、古代ローマの歴史を体系的に紹介しているようです。おそらく代表的なコインの図像を取り上げ、その歴史的背景やまつわる人物のエピソードを分かりやすくまとめられたのではないかと想像します。「コイン」という切り口で、古代ローマ史を著した興味深い一冊です。
中公新書ではかつて、『紙幣が語る戦後世界―通貨デザインの変遷をたどる』 (冨田昌宏,1994)という本を出版しています。紙幣のデザインや発行背景と、歴史・国際情勢をリンクさせた、読みやすくかつ専門性も高い内容でした。今回のタイトルからも、同様のコンセプトが伺えます。
ローマコインが歴史学の研究で注目されはじめたのはルネサンス期のヨーロッパからです。以降、各地で出土したコインのデザインや材質をデータ化し、カタログとしてまとめる地道な作業が続けられてきました。その過程で図像学や言語学の観点から注目され、コインがローマの政治的、経済的状況を示す重要な史料だと確信された長い歴史があります。
欧米ではローマ史の資料や書籍も多く、その中でコインの図像を紹介したものも多岐に渡って出版されてきました。しかしながら、日本ではこうした書籍がなかなか世に出ませんでした。
この度、中公新書として出版されることで、多くのコイン収集家、ローマ史愛好家の双方にとって刺激になると思われます。また、それまでローマ史やコインに馴染みがなかった方にとっても、興味を持つきっかけになるのではないでしょうか。
9月は秋の夜長、「読書の秋」に相応しい一冊として、ぜひ手にとってみては?
こんにちは。
豪雨に台風、さらに暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
連日35度を越え、夜になっても熱が冷めない空気で、眠れない日も多いのではないでしょうか。
今日は気分だけでも爽やかになろうと、「イルカ」のコインについてご紹介させていただきます。
イルカのコインは「クリスチャン・ラッセンのイルカ金貨」に代表されるように、現代でも人気のテーマです。
現実のイルカも水族館ではアイドル的な存在として人気を集めています。それだけ「イルカ=かわいい生き物」というイメージが、広く認識されているからでしょう。また、爽やかで美しい海をイメージさせる存在であるといえます。
2000年以上前の古代ギリシャ人にとって、海はとても身近な存在でした。海上交易や植民活動が活発だった時代、エーゲ海を中心に黒海やアドリア海など、地中海の隅々までが彼らの活動範囲でした。当時作成された陶器や壁画には、神話の物語や活き活きとした人々の生活と共に、多種多様な魚介類も表現されています。
クレタ島 クノッソス宮殿の壁画
ワイン用の陶器 (BC520-BC510)
古代ギリシャ文化においてイルカはポセイドン神やその妻アンフィトリテ女神の聖獣であり、海を象徴する動物として認識されていました。イルカは聖なる生き物として、各地で造られたコインにも表現されました。中でも港湾都市で発行されたコインには頻繁にモティーフとして取り入れられました。
紀元前5世紀に黒海沿岸の都市オルビアで造られた銅貨。イルカの形をした珍しいコインであり、打刻ではなく鋳造によって造られています。円形や四角形ではなく、 モティーフそのものをコインの形にしているという点で、非常に興味深い存在です。
パフラゴニア シノペ BC333-BC306 ドラクマ銀貨
トラキア イストロソス BC400-BC350 ドラクマ銀貨
黒海沿岸の都市ではイルカが表現された特徴的なコインが発行され、海鷲がイルカを掴むという構図で表現されました。
黒海とエーゲ海の境に位置した都市ビザンティオン(現在のイスタンブール)のコインにもイルカがみられます。こちらは牡牛がイルカの上に乗っています。
ビザンティオン BC340-BC320 シグロス銀貨
一方でエーゲ海沿岸の都市でもイルカが表現されたコインがみられます。
リュキア地方 ファセリス 4th Century BC スターテル銀貨
両面でガレー船の舳先と船尾が表現されたコイン。イルカは海の象徴として、ガレー船の下を泳いでいます。
ギリシャ人が多く移住した南イタリア~シチリア島では、イルカにまつわる伝説が各地に存在したことから、コインにも神話の要素として登場しています。イタリア半島 カラブリアの都市タレントゥムでは、ポセイドンの息子タラスが父神の遣わしたイルカに乗って難破船から脱出し、辿り着いた海岸にタレントゥムの町が建てられたという伝説がありました。そのため同都市のコインには、「イルカに乗るタラス」が多様なバラエティによって表現されました。
紀元前4世紀~紀元前3世紀頃、ローマの支配下に入る前に造られたノモス銀貨には、バラエティ豊かなタラスとイルカの組み合わせが見られます。中にはイルカに乗ったタラスが、右手で小さなイルカを持つという珍しいタイプも造られています。こうした違いは刻印彫刻師の個性を示し、また造幣所ごとの仕事を見分ける重要な目印にもなっていたと考えられていますが、当時のタレントゥムの豊かさや自由さがそのまま表現されているようです。
またシチリア島のシラクサで発行されたコインには美しい泉のニンフ、アレトゥーサが表現されていることで有名ですが、その周囲には必ず四頭のイルカが回遊していました。この配置は、現在にも通じるほどの高いデザイン力です。
シチリア島 シラクサ BC475-BC470 テトラドラクマ銀貨
シチリア島 シラクサ BC340-BC310 テトラドラクマ銀貨
このようにギリシャ文化圏ではイルカを表現したコインが数多くみられました。当時のギリシャ人たちにとって海、そしてそこで見られるイルカはとても身近な存在だったことが分かります。
一方でローマによって発行されたコインのイルカには、ギリシャには無かった変化が見られます。
ローマ BC74 デナリウス銀貨
ローマ ポンペイウス派発行 BC49 デナリウス(※デュラキウムで発行)
ローマ AD37-AD41 アス銅貨
裏面のネプチューン神が右手でイルカを差し出しているのが確認できます。
ローマ AD69 デナリウス銀貨
ローマ AD80 デナリウス銀貨
ローマ時代のコインに表現されたイルカは頭部が丸く大きくなり、さらに尾の部分を異様にくねらせる傾向にあります。上に示したティトゥス帝のコインでは、船の錨に絡みつくイルカという、自然では到底ありえないような構図で表現されています。
不思議なことにギリシャコインに表現されたイルカは、現代の我々が見ても違和感がないほどに写実的なのに対し、ローマコインのイルカは魚か爬虫類のような、全く別の生き物のように見えるのです。
この傾向はローマ時代に造られた彫像やモザイク画にもみられます。
モザイク画 (BC120-BC80)
ネプチューンの彫像のイルカ像 (ハドリアヌス帝時代 AD117-AD138)
ローマ時代の芸術作品に登場するイルカは鋭い牙があるものや、複数の背びれ・尾びれがあるもの、さらには鱗があるものまでみられます。このことから、ローマ人はイルカを魚の一種と認識していたのかもしれません。
しかしイルカはローマの時代にも地中海に多く生息し、人々の生活にも比較的近い存在の生き物だったはずです。海上交易が発達していた時代であれば実際のイルカを目にした人も多く、また網にかかって引き揚げられるイルカもいたと思われます。
1世紀に記されたプリニウスの『博物誌』には、湖に迷い込んだイルカと友情を育んだ少年の物語が記録されており、決して珍しい動物ではなかったことが分かります。
たとえ作品の製作者や注文者が海で生きたイルカを見たことがなくても、実際に見た人物の意見や、ギリシャ時代の作品に表現されたイルカ像を基にして修正が加えられても不思議ではありません。
にも関わらずローマ時代のコインをはじめ、芸術作品に表現されたイルカ像は現実とあまりにもかけ離れたものになっており、さらにそのイメージは修正されないまま、中世~ルネサンス期まで続いていきます。
ギリシャ・ローマ時代には様々な動植物が表現されましたが、それらは身体の模様や動きなどがリアルに表現されています。ギリシャ時代のイルカ像も、たとえデフォルメされていても基本的な姿は維持され、本物の特徴を踏まえて表現されていることが分かります。しかしローマ時代のイルカ像は、そもそもイルカを見たことの無い人が想像で生み出した怪物のような姿で表現され、そのまま酷くなりながら継承されているようにも見えるのです。
イルカのように時代の変遷と共に、本物からかけ離れてしまった事例は稀といえるでしょう。
アリオンとイルカ
(1899年『Stories of the olden time』より)
近代ヨーロッパでは「現実のイルカ」と「古代神話世界のイルカ」を明確に区別して表現しています。
「イルカに乗った少年」という題材は様々なパターンで各地の神話に残されており、イルカも後世の芸術作品に盛んに表現されましたが、その姿はまるでシャチホコのような姿です。
古代のギリシャ人とローマ人の間に、イルカに対するどのような認識の差があったのか、コインの変遷を見るだけでも様々なことを想像させられます。少なくともローマ人がギリシャ人ほど、イルカに愛着を抱いていなかったことは間違いないようです。
こんにちは。
6月になり、梅雨空から一気に夏空が続いている今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
雨の日も日差しの強い日も、外出は億劫になってしまいがちですが、貴重な晴れ日には遠くに出かけてみるのも良いと思います。
古代ローマの時代、地中海世界を制覇し「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を創出した五賢帝の頃には、街道や海路が整備され政情も安定していたことから、観光目的の旅行を楽しむ人々も出現していたそうです。
皇帝も遠征などでローマから遠く離れた土地へ赴くことがありましたが、その中でもハドリアヌス帝(在位:AD117年~AD138年)は「旅する皇帝」と呼ばれるほど帝国各地を巡りました。自らが統治するローマ帝国の隅々を視察することで、帝国の現状を把握していたといわれています。一方で好奇心旺盛で知的な欲求を満たす目的もあったとされ、首都ローマの煩わしさから逃れるためでもあったと考えられています。
治世の多くを旅に費やしたハドリアヌス帝が発行したコインには、彼が旅した先を示す図柄が多く登場します。特定の地域を神像や女神像として擬人化、具現化して表現すること(ローマ神など)は珍しくありませんでしたが、ハドリアヌス帝の治世にはそのバラエティが際立って多く、帝国の各地がコイン上に表現されました。これらは「トラベルシリーズ」とも呼ばれ、旅する皇帝ハドリアヌスを象徴するコインコレクションとして注目されています。
2世紀半ばのローマ帝国最大版図
2世紀に最大版図を出現させたローマ帝国は、その領土の1/3がヨーロッパ、1/3がアジア、1/3がアフリカに該当しました。コインに表現された属州の姿は、ローマ市民に自らが生きる帝国の多様性と広大さを知らしめる目的もありました。
ハドリアヌス帝の治世には各属州でも興味深いコインが発行されていましたが、今回は本国ローマで発行されていたものをご紹介します。
・イタリア
イタリアは首都ローマを中心とする、まさにローマ帝国の心臓部でした。地中海帝国の真中に突き出たイタリア半島から、ハドリアヌスの旅は始まりました。皇帝による巡幸といっても仰々しいものではなく、あくまで視察を目的としたものだったため、移動しやすいように随行員、警備も最小限度だったそうです。三回に分けられた帝国巡幸の旅には、不仲が噂されていた妻サビーナも同行することがあり、後にはハドリアヌスの寵愛を受ける美青年アンティノウスも加わることになります。
AD136年 デナリウス銀貨
イタリアを具現化した女神像は、長杖とコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ姿で表現されています。周囲には「ITALIA」銘が刻まれています。
・ガリア (現在のフランス)
第一回の巡幸でハドリアヌス帝が最初に訪れたのはガリアでした。AD121年のガリア訪問では植民都市の政庁や軍駐屯地を訪問し、その実態を把握しようと努めました。受け入れる側の役人達は連絡からすぐに皇帝一行が到着するため、普段の様子をそのまま見せることしかできなかったようです。
AD136年 デナリウス銀貨
ハドリアヌス帝に跪くガリア人。女神像ではなく男性として表現されています。右側には「GALLIAE」銘が確認できます。
・ゲルマニア (現在のドイツ)
ガリアからゲルマニアに移動したハドリアヌスは、ゲルマン人との最前線であるライン川の国境地帯を軍事視察。このときハドリアヌス帝は国境沿いの数ヶ所で柵を切れ間無く建てるよう命じました。
AD136年 デナリウス銀貨
長槍と円盾を支えるたくましい女神像。周囲には「GERMANIA」銘。このゲルマニア女神像は近代ドイツで復活し、19世紀以降は国威発揚のために盛んに表現されました。
・ブリタニア(現在のイギリス)
海を渡ってブリテン島のロンディニウム(現在のロンドン)に到着したハドリアヌスは、そこから北へ進み、現在のイングランドとスコットランドの境界まで到達しました。そこはローマ帝国最北端の国境であり、北からの蛮族による侵入が絶え間ない地でした。北の国境を視察したハドリアヌスは、蛮族とローマ領を隔てる防御壁を建設するよう命じました。
それが現在でも知られる「ハドリアヌスの長城」です。AD122年夏、当地滞在中に発せられたこの命令は、その後10年の歳月を要して実現されました。
ブリタニアを旅している途中、一人の老婦人が財産所有の件で皇帝に直訴しようとしました。先を急いでいたハドリアヌス帝は「私には時間がない」といって無視しようとしましたが、老婦人が「それならば皇帝など辞めてしまいなさい!」と泣き叫ぶのを聞き、立ち止まって話しを聞いたという逸話が残されています。
AD136年 セステルティウス貨
岩の上に足を載せ、考え込むようにして座るブリタニア女神像。周囲には「BRITANNIA」銘。
・ヒスパニア (現在のスペイン)
ブリテン島を発ったハドリアヌスは再びガリアを抜け、そこからヒスパニアへ入りました。ハドリアヌスはヒスパニアの出身であり、当地には思い入れがあったようです。この滞在中には暴漢に襲われて危うく命を落としかけるというトラブルに見舞われるも、何とか故郷の視察を遂行することができました。(ハドリアヌスを襲った暴漢はすぐに取り押さえられたため、皇帝に危害は加えられなかった。その後ハドリアヌスの温情からか、この男は精神状態の不安定さを理由に釈放されている。)
AD136年 デナリウス銀貨
様々な姿のヒスパニア女神像。ハドリアヌスに跪く姿や、寝そべる姿など様々。共通してヒスパニア特産のオリーヴを持ち、足下にはウサギを配しています。かつてフェニキア人がイベリア半島の沿岸部に入植した際、畑を作ってもすぐに野兎に荒らされてしまうことから、この土地を「イセファニン(フェニキア語で「ウサギの地」の意)」と名付けました。その後ローマ人はラテン語風に「ヒスパニア」とし、そのまま現在の「スパーニャ」「スペイン」になったと云われています。
・マウレタニア (現在のモロッコ)
ジブラルタル海峡をわたってアフリカ大陸に入ったハドリアヌス一行は、地中海と大西洋の境を目の当たりにし、ローマ帝国の最西端を視察しました。鬱蒼とした森が広がる北ヨーロッパから乾燥する砂漠地帯への旅。当時としてはまさに地の果てへの旅でした。
AD136年 セステルティウス貨
女神として表されたマウレタニア。右手を挙げるハドリアヌス帝に杯を捧げている姿。右端には「MAVR(ETANIAE)」銘。
・地中海
マウレタニアを発ったハドリアヌスは、ローマ海軍のガレー船で一気に地中海を横断し、帝国東部の小アジアへ向かいます。
AD122年 デナリウス銀貨
海洋神オセアヌス(Ocean)が表現されたコイン。ポセイドンとよく似た姿で、三叉矛の代わりに船の錨を持っています。オセアヌス神の左ひじを支えているのは、背もたれのようになったイルカです。
・小アジア (現在のトルコ)
帝国最西端から再東端へ移動したハドリアヌスは、上陸したアンティオキアからパルティアとの国境最前線視察を開始。そのまま北上して黒海沿岸部に到達します。
AD136年 デナリウス銀貨
ガレー船に足を載せ、舳先とオールを携えるアシア女神。周囲には「ASIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
カッパドキアは小アジア内陸の地域。男性として表されたカッパドキアは、特徴的な帽子を被りローマ軍の記章を支えています。右手で差し出しているのはカッパドキアの名所「アルガエウス山(現在のエルジェス山)」です。周囲には「CAPPADOCIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
フリギアは小アジア内陸部の地域。このコインではフリギアを象徴する男性がハドリアヌス帝に忠誠を誓っています。フリギア特有の帽子を被った男性は右手を皇帝に差し出し、左手で羊飼いの杖を持っています。右側には「PHRYGIAE」銘。
AD136年 セステルティウス貨
ビテュニアは小アジアの北西部、黒海沿岸の一帯。コインには跪きハドリアヌス帝に忠誠を誓うビテュニア女神が表現されています。右側には「BITHYNIAE」銘。
AD124年に訪れたビテュニアで出会った現地の美青年アンティノウスを気に入ったハドリアヌスは、そのまま彼を旅に連れてゆくことにします。美しい愛人を新たに加え、憧れだった古代ギリシャ文化の地、エーゲ海に到達したハドリアヌスは上機嫌だったことでしょう。
アンティノウスの胸像
・トラキア (現在のブルガリア)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とトラキア女神。右側には「THRACIAE」銘があった。
ギリシャ文化を愛好したハドリアヌスは憧れだったアテネを訪問し、記念の神殿建設や修復を行いました。一方で北部のトラキアに足を伸ばし、軍の防衛体制を確認しています。
その後デュラキウム(現在のアルバニア)に移動したハドリアヌス帝はまっすぐ対岸のイタリア半島へは向かわず、南へ迂回してシチリア島へ上陸します。
・シチリア島
ローマへ帰還する前にシチリア島のシラクサへ立ち寄ったハドリアヌス帝は、穀物の重要な生産地であるシチリアを視察します。
AD136年 セステルティウス貨
跪きハドリアヌス帝を迎えるシチリアの女神。左手には麦穂を持っています。頭にはシチリア島の象徴であるトリナクリア(三脚巴紋)をつけています。トリナクリアはシチリア島の三つの岬を示し、シチリア島の形状そのものを象徴しているとされます。右側には「SICILIAE」銘があります。
ハドリアヌスが首都ローマへ帰還したのは、旅に出てから4年後のAD125年でした。しかし長らくローマを留守にし、通常の政務を優れた官僚組織に任せて自らは遠方から指示を出すハドリアヌスは、元老院での評判をすっかり落としていました。
ローマにいるのが苦痛になったのか、未踏の地への欲求が抑えられなくなったのか、帰還から3年後に再び巡幸の旅へ再出発します。次にハドリアヌスが目指したのは、前回の旅では船で通り過ぎてしまったアフリカ属州でした。
・アフリカ (現在のチュニジア)
アフリカ属州はカルタゴ征服後に設置された属州であり、オリーヴや麦などの農地開発が盛んに行われました。また闘技場での見世物に供される珍しい動物たちをローマへ輸出するなどし、経済的・文化的にも繁栄しました。アフリカの名はその後、大陸全体を表す名称になりました。
ハドリアヌス帝はシチリア島を経由してカルタゴに上陸しました。内陸部の各地を巡幸し、その後は再び海路でローマへ帰還しています。
AD136年 デナリウス銀貨
アフリカを象徴する女神像。足下には小麦の入った壺が置かれ、穀物の供給を示しています。女神は頭に象の毛皮を被り、右手でサソリを差し出すというアフリカらしい姿です。上部には「AFRICA」銘が刻まれています。
ローマへの帰還から束の間、すぐに三回目の巡幸に出発したハドリアヌス。三回目は国境の視察よりも、むしろハドリアヌス個人の好奇心を満足させる旅でした。愛人アンティノウスを伴ったハドリアヌス帝はまずギリシャのアテネに滞在し、その後小アジアを経てシリア、アラビア方面へ向かいます。
・アラビア (現在のヨルダン)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とアラビア女神。右側には「ARABIAE」銘。
アラビアの砂漠地帯を抜けて訪れたのは、ハドリアヌス帝が最も気に入った滞在地、エジプトでした。
・アエギュプトゥス (現在のエジプト)
AD136年 セステルティウス貨
女神エジプトは果物が入った籠に寄りかかりながら、古代エジプトの葬用楽器シストラムを掲げています。左側には聖鳥トキが配され、上部には「AEGYPTOS」銘が刻まれています。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプト属州の州都アレクサンドリアを表現したコイン。商業・学問の中心として栄えたアレクサンドリアにはハドリアヌス帝も滞在しました。コインのアレクサンドリア女神は右手でシストラムを掲げ、左手で籠を持っています。その籠からは一匹のコブラが這い出しています。周囲には「ALEXANDRIA」銘。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプトを流れるナイル川の神を表現。古代ローマでは川を表現する際、年老いた男性の姿で表現されました。エジプトの場合も例外ではなく、現地で発行されたコインにも同様の意匠が見られます。このコインではナイル神の足元にカバが配されています。この姿は古代エジプトのナイル川の神ハピが基になっているとみられます。上部には「NILVS」銘。
AD130年にエジプト入りしたハドリアヌスはナイル川をクルーズし、古代エジプトの壮大な神殿群を目の当たりにしました。殊の外エジプト滞在を気に入ったらしく、愛人のアンティノウスがいるにも関わらず、ローマにいた妻のサビーナをアレクサンドリアにわざわざ呼び寄せたそうです。
しかしこの地で悲劇が起こります。ナイル川をクルージング中に、アンティノウスが船から転落して溺死してしまったのです。当時から若いアンティノウスが簡単に溺死したのは不自然として、犠牲の生贄にされたという説や暗殺されたという説もあったそうです。 寵愛していたアンティノウスの死はハドリアヌスにとって予期せぬことであり、上機嫌から一転して深い悲しみに包まれました。
亡くなったアンティノウスを顕彰するため「アンティノポリス」という街を建設し、アンティノウスの像を建てても悲しみは晴れず、エジプトを離れてローマへ帰還しました。
・ユダヤ (現在のイスラエル)
AD136年 セステルティウス貨
女性として表現されたユダヤの像。二人の子どもを伴いながらハドリアヌス帝に対しています。右側には「IVDAEAE」銘。
エジプトからローマへ帰ってきたハドリアヌスに、最後の苦しい旅が待っていました。かつて大規模な反乱が勃発したユダヤ属州のイェルサレムは、1世紀にティトゥスの攻撃によって破壊されて以降、まともに復興されないままでした。ハドリアヌスはエジプトへ向かう途中でイェルサレムに立ち寄り、ここを新都市として生まれ変わらせることを宣言します。しかしその計画はイェルサレムの名を消し、かつてソロモン神殿があった場所にユーピテル神殿を建設するという、ユダヤ人の聖地を完全に作り変えるものでした。
計画に激怒したユダヤ人たちが起した反乱(第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱)はローマ軍を圧倒し、ついにハドリアヌス自らが鎮圧に赴くことになりました。皇帝指揮下のローマ軍はAD135年、反乱軍の拠点だった聖地イェルサレムを陥落させ、ユダヤの反乱を鎮圧することに成功します。
反乱鎮圧後、怒りに満ちたハドリアヌス帝が下した処分は厳しいものでした。イェルサレムのユダヤ人は全て追放され、各地に離散(ディアスポラ)することになります。ユダヤ属州はペリシテ人のシリアを意味する「シリア・パレスティナ属州」(現在のパレスティナ呼称のはじまり)と改名され、ユダヤ文化の破壊が行われました。
反乱鎮圧に成功したハドリアヌス帝はローマへ戻りましたが、その後二度と巡幸の旅に出かけることはありませんでした。ユダヤでの戦いから、ハドリアヌス帝は体調を崩すようになっていました。
長旅に耐えられなくなった老体を休める為、ローマ近郊に建設した別荘で過ごすことが多くなったハドリアヌス帝は、そこで自らの理想の庭園作りに専念します。
それらデザインや意匠は、かつて旅の途中で自らが目にした各地の風土や、印象を反映させたものでした。
ハドリアヌスの別荘―ナイルワニの像
今回ご紹介したハドリアヌス帝の旅コインのほとんどは、治世末期のAD136年頃に造られたとみられています。60歳となったこの頃には体の衰えが進み、再び旅に出ることを諦めていたであろうハドリアヌス。せめてかつて旅した各地に想いを馳せ、後世に伝えられるよう、コインのデザインに投影させていたのかもしれません。
近年、旅のコインはハドリアヌス帝を象徴する史料として再注目されています。
古代ローマコイン収集の世界でも一連のシリーズになっていることから、収集する上で興味深いテーマです。今後のコレクション対象として参考にされてみてはいかがでしょうか。
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