こんにちは。
昨年末に発売された塩野七生女史の新刊『ギリシア人の物語3』は反響が大きく、当店のお客様からも「読みました」という声や感想を多くいただき、あらためてその影響力の大きさを感じました。
今回の作品ではアレキサンダー大王の生涯が取り上げられ、若き英雄の死と共に物語は終わりを迎えます。塩野さんご自身は今後、歴史長編は書かないと宣言しておられるので、この続編は出ないのでしょう。
アレキサンダー大王死後、部下達によるディアドコイ(後継者)戦争がはじまり、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアなどが群雄割拠する時代になります。
このヘレニズム時代は彫刻などの芸術文化が昇華し、より洗練された華やかなものになりました。そしてコインの世界にも変革がもたらされます。
アレキサンダー大王によって発行されたコイン、いわゆる「アレキサンダーコイン」は、大王亡き後も征服地の各都市で発行されていました。一方で新しい王朝を創設した部下たちも独自のコインを発行しています。それらには古代ギリシャの伝統である神話の神々ではなく、生きた君主の姿が刻まれました。民主政を重んじたギリシャの伝統は変化し、強大な権力を持つ君主が神聖な存在であると宣伝されるようになったのです。
アレキサンダーコイン
(マケドニア王国 テトラドラクマ銀貨 BC320-BC317)
プトレマイオス1世
(エジプト ※プトレマイオス6世発行のテトラドラクマ銀貨)
多くの君主たちは自らの肖像を美化・神格化してコインに刻みましたが、中には個人的な特徴を存分に表現した、個性溢れる肖像を残した王もいます。代表的なのはエジプトを統治したプトレマイオス1世の肖像コインですが、さらに印象深く特徴的なのは、セレウコス朝シリアの第二代君主アンティオコスのコインです。
アンティオコス1世/アポロ神
(セレウコス朝シリア テトラドラクマ銀貨 BC280-BC261)
アンティオコスはアレキサンダー大王の部下だったセレウコスの息子であり、大王による東方遠征の過程で誕生しました。アレキサンダー大王はギリシャ世界とオリエント世界の融合を推進する為、ギリシャ人兵士達とペルシア人女性達による大規模な合同結婚式を開催しました。アレキサンダー自身もアケメネス朝ペルシアの王女を妻として迎え、忠臣たちの多くもペルシア貴族の娘を妻としました。
セレウコスはソグド人(中央アジア)のアパメーという女性を妻とし、その間に生まれた子がアンティオコスでした。大王の死後、多くのギリシャ人たちはペルシア人の妻と離縁しましたが、セレウコスとアパメーの結婚生活はその後も続きました。
その後、セレウコスはシリア、ペルシア、中央アジアを包括する広大な東方地域を手にし、いわゆる「セレウコス朝シリア」を創建します。セレウコス治世下ではアレキサンダーコインの発行は継続されたものの、自らの肖像を刻んだコインは発行されませんでした。
※以下はセレウコス1世の時代に発行されたコイン
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘がセレウコスのもの「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」になっている)
ゼウス神/象のクァドリガ
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘は「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」)
スターテル金貨
(アテナ女神とニケ女神。名銘はアレキサンダーのもの「ΑΛΕΞΑΝΔΡΟΥ」)
しかし紀元前281年にセレウコスが暗殺されると、息子であるアンティオコスは自らの肖像を表現したコインを各都市で造らせました。その治世の間に肖像は年相応に変化してゆくという、古代コインには珍しい変遷をみせています。
アンティオコス1世/アポロ神
(※息子アンティオコス2世の時代に発行されたテトラドラクマ銀貨)
どの肖像も共通して目は大きく、困ったような垂れ眉と大きな鼻、少し突き出た口元など、一度見たら忘れられない個性的な顔つきです。この姿はマケドニア人を父に、ソグド人を母にもつ混血の王アンティオコスの写実的な姿だとされています。
ギリシャ風に理想化することなく、自らの特徴ある顔をコインに刻ませたという事実は、大変興味深い点です。
アンティオコスの死後、息子アンティオコス2世の時代になってからもこのコインは造られていたことから、王の個性的な顔が刻まれたコインはセレウコス朝の領内でかなり広く流通していたようです。
アンティオコスは父セレウコスの路線をおおむね引き継ぎ、ギリシャ系住民の内陸への入植を奨励しながら、経済圏の拡大を推進しました。アッティカ基準の銀貨による通貨の統一は、広大な領土を纏め上げる為にも必要不可欠な施策だったのです。セレウコス朝が東西文化交流の上に成り立つ王朝であり、アレキサンダー大王の理想によって誕生した国であることを示すように、君主自身の出自もその理念を体現していたのでした。
アンティオコスはその治世中にセレウコス朝の基礎を固めながら周辺諸国と戦い、ガリア人の侵入を防いで「ソーテール(救世者)」の称号を得るなど華々しい業績が語られますが、後世に伝えられる逸話としてよく知られるのが「若き日の恋煩い」です。この伝承は、古代ローマの史家プルタルコスが著した『英雄伝』のデメトリオスの章で、面白おかしく取り上げたことで広く知られるようになり、今に伝わっています。
まだアンティオコスが王子だった時代、父セレウコスが新しい妃ストラトニケを迎えることとになりました。ストラトニケはマケドニア王デメトリオスの娘であり、まだ17歳という若さでした。事実上の政略結婚として嫁いできたストラトニケは大変美しく、若きアンティオコスは彼女に恋心を抱くようになりました。
しかし義理の母親にあたる女性に対する恋心は誰にも告げることができず、苦悶したアンティオコスは飲食を断って衰弱してゆきました。心配した父セレウコスは、名医エラシストラトスを呼び、アンティコスを治療するよう命じます。エラシストラトスはアンティオコスが恋の病を患っていることをあっさり見抜くも、その相手が誰かまでは分かりませんでした。
そこでエラシストラトスは常時アンティオコスの傍につき、対面する人物とアンティオコスの反応を観察することにしました。年頃の少年少女が入ってきても特に変化は見られませんでしたが、父セレウコスが若き義母ストラトニケを連れ立って見舞いに訪れると、アンティオコスは声を詰まらせ、顔を真っ赤にして汗だくになってしまいました。ついには興奮のあまり脈が乱れ、目眩まで引き起こしたので、エラシストラトスは原因を突き止めることができたとされています。
病床のアンティオコスを見舞うストラトニケ
※この物語は14世紀にペトラルカの詩作で登場して以降、近代のヨーロッパで広く知られた為、人気ある古典テーマのひとつとなりました。多くの画家達が独自の解釈とアレンジを施し、様々な形で作品に残しました。ここではフランスの画家 ジャック=ルイ・ダヴィッドの作品(1774年)を掲載しています。
しかし相手が王の妃でしかも義理の母親では、決して報われない恋心だと察した名医エラシストラトスは、一計を案じてセレウコスに報告しました。
エラシストラトスはセレウコスに対し、「ご子息は恋の病です。しかしその恋は決して遂げられない故、私には治すことができませぬ」と言上しました。驚いたセレウコスがその相手を問いただすと、エラシストラトスは私の妻、と答えました。セレウコスは息子を治すためならばと、無理を承知でどうか息子の願いを叶えてやってはくれまいか、とエラシストラトスに頼み込みました。
エラシストラトスは頑なに王の願いを断り、「それは道理に合いませぬ。もしご子息が王様のお妃様を慕っておいでだとすれば、決して王様はそれを許さないでしょう」と答えました。するとセレウコスは涙を流しながら「もしそれで済むのならば、神でも人でも構わぬ。私はアンティオコスが助かるのならば、たとえ自らの王国を手放したって満足だ」と答えました。
こうして、望み通りの答えを巧みに引き出した医師は全てを話し、息子の想い人を知ったセレウコスは若い二人が一緒になることを認めます。この後、アンティコスはホラサン地方の王(現在の中央アジア一帯、事実上の共同統治王)、ストラトニケはその女王に任じられました。王の命令という形で二人は結婚し、体面を保ちながら共に暮らすことを許されたのです。
そして見事にアンティオコスの不治の病を治したエラシストラトスは、「恋の病まで治せる名医」として名声を高め、後にヘレニズム時代を代表する医師として歴史に名を残したのでした。
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