こんにちは。6月になってから毎日蒸し暑く、いきなり夏がやってきたようです。
全国的にはまだ梅雨明けしていないようですが、気温と湿度の変化に身体がついていきません。これからさらに猛暑の日々がやってくるのを思うと、今から恐ろしくなります。
さて、先月ヴァチカン市国では教皇選挙「コンクラーヴェ」が行われ、世界中の注目が集まりました。ヴァチカンは世界で最も小さい国でありながら、キリスト教カトリックの総本山として、ヨーロッパと世界に大きな影響力を有しています。
イタリアにはヴァチカンと並んでもうひとつの小さな独立国があります。
イタリア半島中東部のティターノ山に築かれた「サンマリノ共和国」です。
ヴァチカンがローマ・カトリックの総本山であるのに対し、サンマリノは「世界最古の共和国」として知られています。
その起源は4世紀初頭の古代ローマ帝国時代にまで遡り、初期キリスト教の聖人であるマリヌスが深く関わっています。
サンマリノ共和国は国土面積がおよそ61.2平方キロメートル、静岡県熱海市とほぼ同じであり、ヴァチカン、モナコ、ナウル、ツバルに続いて世界で5番目に小さな国です。
首都は標高739メートルのティターノ山山頂に築かれたサンマリノ市であり、その周囲の街も含めた人口は34,000人ほど。イタリアの中に存在する内陸国であり、宗教と言語はイタリアと同じです。政治体制は古代ローマに倣い、60人制の大評議会、そこから選出される二名の執政官(半年任期)が元首となります。
サンマリノ(San Marino)の国名は、かつてティターノ山に隠遁したキリスト教の聖人マリヌスに由来します。
聖マリヌス
(バルトロメオ・ジェンナーリ作)
マリヌス(Marinus, 海の意)は275年頃、ローマ帝国ダルマティア属州のアルバ島(*現在のクロアチア,ラブ島)に生まれ、石工職人として働いていました。当時ローマ帝国中に広まっていたキリスト教の洗礼を受け、熱心なキリスト教徒になりました。
当時、同じくダルマティア出身のローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)によるテトラルキア(四帝分治)体制が始まり、ドミナトゥスと呼ばれる専制的な政治体制が強化されていました。
その過程で皇帝個人を神格化し、権威を集中させる個人崇拝を推進。世俗の人間である皇帝への礼拝や供物を拒否するキリスト教徒たちは国家の敵として迫害され、各地で大規模な取り締まりが始まりました。
ディオクレティアヌス帝のフォリス銅貨
マリヌスはこうした弾圧の嵐から逃れるため、生まれ故郷のアルバ島を離れ、アドリア海の対岸であるイタリア半島に渡ります。上陸したリミニで司教ガウデンティウスの助けを得、助祭として働くことになりました。
リミニではかつて高い地位にあったキリスト教たちが、皇帝への供物を拒否したために迫害され、町の修繕など重労働に就かされていました。石工だったマリヌスは彼らと共に働き、経験と腕を活かして助けたと伝えられています。
助祭としての生活が定着したころ、ダルマティアからやってきたある女性がマリヌスの前に現れ、彼は自分と結婚する約束をしたと主張しました。マリヌスは否定しましたが、その女性がしつこく訴えたため、彼はリミニに近いティターノ山に逃れて身を隠すことにしました。
(*このことから聖マリヌスは不当に告発された者の守護聖人とされます)
ティターノ山に籠っていた期間、彼は石工職人として手仕事を行いながら、世俗を離れて瞑想を行いました。この隠遁生活は他のキリスト教徒の間にも密かに知られるようになり、やがて彼に付き従ってきた人々と共同生活をはじめました。こうして険しいティターノ山の地形に守られた、キリスト教徒の秘密のコミュニティが形成されました。
教会を建設するマリヌス
伝説によるとマリヌスはティターノ山を領有する未亡人フェリチータのため、夫の石棺を作製しました。その出来栄えに感動したフェリチータはキリスト教に改宗し、山をマリヌスに寄進したと云われています。
マリヌスは自ら石造りの修道院と教会を建設し、ここを終の棲家と定めました。これが301年9月3日の出来事とされ、サンマリノ建国の日として今も国家の祝日に定められています。
マリヌスは366年の冬に亡くなったとされ、その際に「Relinquo vos liberos ab utroque homine(=私はお前を両方の男から解放する)」と言い残したとされています。二人の男とは当時のローマ皇帝と教皇、聖俗の権威と解釈され、後にサンマリノが民主制と独立を堅持する根拠となりました。
中世のイタリア半島はローマ教皇領をはじめ、数多くの領邦や都市国家が分立し、サンマリノもその一国として存続しました。キリスト教徒の共同体から始まった国家でしたが、政体は自由を重んじる民主制を固辞し続けました。
隣町のリミニより人口が少なく、住民共同体の結束が保ちやすかったこと、また険しい山の上に築かれた内陸の小国に対し、侵攻するメリットが皆無だったことも独立を保てた要因でした。
ティターノ山
見晴らしの良い標高739メートルの頂上にはグアイタ塔があり、サンマリノの防衛を担いました。山の三つの峰にはそれぞれグアイタ、チェスタ、モンターレの塔があり、サンマリノ共和国の象徴として国章にも採用されています。2008年には「中世以来の独立共和国の継続を示す証」として世界文化遺産に登録されました。
18世紀末にイタリア半島を征服したナポレオンは、小国でありながら強大な軍事力を前に屈しようとしないサンマリノの姿勢に感服したと伝えられています。また、フランス革命の精神である自由主義と共和政を古来より保つ政体に感銘し、併合することなく独立を保証したと伝えられています。
その際、聖マリヌスに所縁深い隣町リミニをサンマリノ領として割譲する案が提示されましたが、サンマリノ議会はナポレオンの提案を拒絶し、あくまで中立を保つことを示したのです。
19世紀にはウィーン会議を経てヨーロッパ列強諸国に中立と独立が承認され、イタリア統一戦争では英雄ガリバルディを匿った御礼としてイタリア王国に組み込まれず、小さな独立国家として現在に至っています。
サンマリノは19世紀から独自のコインを発行していましたが、製造はローマ造幣局が請け負い、その価値と規格はイタリア・リラと同じでした。
サンマリノおよびヴァチカンではイタリア・リラが法定通貨として流通し、また一方で両国が発行したコインもイタリア国内では有効とされました。そのためイタリアではお釣りの中にヴァチカンやサンマリノのコインが混じって流通するケースも度々見られました。
そのデザインは聖マリヌスの姿はもちろん、共和国の精神である自由や正義を象徴する寓意などが表現されています。
サンマリノ 1875年 10チェンテジミ青銅貨
国章にはティターノ山の三つの峰にあるグアイタ、チェスタ、モンターレの塔が表現されています。それぞれにはダチョウの羽を模した金属製の風見鶏があり、コインでもそれらが確認できます。
サンマリノ 1935年 10リレ銀貨 正義の女神ユースティティア
サンマリノ 1935年 5リレ銀貨 自由の女神リベルタス
第二次世界大戦後は独自コインの発行を停止していましたが、1970年代に世界的なコイン収集ブームが到来すると、新たに通貨局を設立し、収集家向け記念コインの事業を開始しました。
サンマリノが発行する多種多様な記念コインと記念切手は、資源の無い小国の重要な外貨収入源のひとつになっています。
サンマリノ 1975年 500リレ銀貨
サンマリノ通貨局の設立を記念して発行。聖マリヌスの石工仕事が表現されたデザイン。
サンマリノ 1979年 500リレ銀貨
三つの塔を持つ聖マリヌス像と、トリガ(三頭立て馬戦車)を駆ける自由の女神リベルタス。サンマリノ共和国を体現するデザイン。
サンマリノ 2000年 10000リレ銀貨
サンマリノの建国1700周年を記念して発行。冒頭のバルトロメオ・ジェンナーリが手掛けた肖像を基に表現された聖マリヌス像。
サンマリノは中立保持の観点からヨーロッパ連合(EU)には加盟していませんが、現在でも独自デザインのユーロコインを発行しています。現代では自国だけでなく世界中の記念意匠も多く取り入れ、コインコレクター向けの記念コインを多く発行しています。
1700年前に一人の石工が開いた小さな国は、今では世界中のコインコレクターの間ではお馴染みの国として知られています。
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