こんにちは。
6月になり、梅雨空から一気に夏空が続いている今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
雨の日も日差しの強い日も、外出は億劫になってしまいがちですが、貴重な晴れ日には遠くに出かけてみるのも良いと思います。
古代ローマの時代、地中海世界を制覇し「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を創出した五賢帝の頃には、街道や海路が整備され政情も安定していたことから、観光目的の旅行を楽しむ人々も出現していたそうです。
皇帝も遠征などでローマから遠く離れた土地へ赴くことがありましたが、その中でもハドリアヌス帝(在位:AD117年~AD138年)は「旅する皇帝」と呼ばれるほど帝国各地を巡りました。自らが統治するローマ帝国の隅々を視察することで、帝国の現状を把握していたといわれています。一方で好奇心旺盛で知的な欲求を満たす目的もあったとされ、首都ローマの煩わしさから逃れるためでもあったと考えられています。
治世の多くを旅に費やしたハドリアヌス帝が発行したコインには、彼が旅した先を示す図柄が多く登場します。特定の地域を神像や女神像として擬人化、具現化して表現すること(ローマ神など)は珍しくありませんでしたが、ハドリアヌス帝の治世にはそのバラエティが際立って多く、帝国の各地がコイン上に表現されました。これらは「トラベルシリーズ」とも呼ばれ、旅する皇帝ハドリアヌスを象徴するコインコレクションとして注目されています。
2世紀半ばのローマ帝国最大版図
2世紀に最大版図を出現させたローマ帝国は、その領土の1/3がヨーロッパ、1/3がアジア、1/3がアフリカに該当しました。コインに表現された属州の姿は、ローマ市民に自らが生きる帝国の多様性と広大さを知らしめる目的もありました。
ハドリアヌス帝の治世には各属州でも興味深いコインが発行されていましたが、今回は本国ローマで発行されていたものをご紹介します。
・イタリア
イタリアは首都ローマを中心とする、まさにローマ帝国の心臓部でした。地中海帝国の真中に突き出たイタリア半島から、ハドリアヌスの旅は始まりました。皇帝による巡幸といっても仰々しいものではなく、あくまで視察を目的としたものだったため、移動しやすいように随行員、警備も最小限度だったそうです。三回に分けられた帝国巡幸の旅には、不仲が噂されていた妻サビーナも同行することがあり、後にはハドリアヌスの寵愛を受ける美青年アンティノウスも加わることになります。
AD136年 デナリウス銀貨
イタリアを具現化した女神像は、長杖とコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ姿で表現されています。周囲には「ITALIA」銘が刻まれています。
・ガリア (現在のフランス)
第一回の巡幸でハドリアヌス帝が最初に訪れたのはガリアでした。AD121年のガリア訪問では植民都市の政庁や軍駐屯地を訪問し、その実態を把握しようと努めました。受け入れる側の役人達は連絡からすぐに皇帝一行が到着するため、普段の様子をそのまま見せることしかできなかったようです。
AD136年 デナリウス銀貨
ハドリアヌス帝に跪くガリア人。女神像ではなく男性として表現されています。右側には「GALLIAE」銘が確認できます。
・ゲルマニア (現在のドイツ)
ガリアからゲルマニアに移動したハドリアヌスは、ゲルマン人との最前線であるライン川の国境地帯を軍事視察。このときハドリアヌス帝は国境沿いの数ヶ所で柵を切れ間無く建てるよう命じました。
AD136年 デナリウス銀貨
長槍と円盾を支えるたくましい女神像。周囲には「GERMANIA」銘。このゲルマニア女神像は近代ドイツで復活し、19世紀以降は国威発揚のために盛んに表現されました。
・ブリタニア(現在のイギリス)
海を渡ってブリテン島のロンディニウム(現在のロンドン)に到着したハドリアヌスは、そこから北へ進み、現在のイングランドとスコットランドの境界まで到達しました。そこはローマ帝国最北端の国境であり、北からの蛮族による侵入が絶え間ない地でした。北の国境を視察したハドリアヌスは、蛮族とローマ領を隔てる防御壁を建設するよう命じました。
それが現在でも知られる「ハドリアヌスの長城」です。AD122年夏、当地滞在中に発せられたこの命令は、その後10年の歳月を要して実現されました。
ブリタニアを旅している途中、一人の老婦人が財産所有の件で皇帝に直訴しようとしました。先を急いでいたハドリアヌス帝は「私には時間がない」といって無視しようとしましたが、老婦人が「それならば皇帝など辞めてしまいなさい!」と泣き叫ぶのを聞き、立ち止まって話しを聞いたという逸話が残されています。
AD136年 セステルティウス貨
岩の上に足を載せ、考え込むようにして座るブリタニア女神像。周囲には「BRITANNIA」銘。
・ヒスパニア (現在のスペイン)
ブリテン島を発ったハドリアヌスは再びガリアを抜け、そこからヒスパニアへ入りました。ハドリアヌスはヒスパニアの出身であり、当地には思い入れがあったようです。この滞在中には暴漢に襲われて危うく命を落としかけるというトラブルに見舞われるも、何とか故郷の視察を遂行することができました。(ハドリアヌスを襲った暴漢はすぐに取り押さえられたため、皇帝に危害は加えられなかった。その後ハドリアヌスの温情からか、この男は精神状態の不安定さを理由に釈放されている。)
AD136年 デナリウス銀貨
様々な姿のヒスパニア女神像。ハドリアヌスに跪く姿や、寝そべる姿など様々。共通してヒスパニア特産のオリーヴを持ち、足下にはウサギを配しています。かつてフェニキア人がイベリア半島の沿岸部に入植した際、畑を作ってもすぐに野兎に荒らされてしまうことから、この土地を「イセファニン(フェニキア語で「ウサギの地」の意)」と名付けました。その後ローマ人はラテン語風に「ヒスパニア」とし、そのまま現在の「スパーニャ」「スペイン」になったと云われています。
・マウレタニア (現在のモロッコ)
ジブラルタル海峡をわたってアフリカ大陸に入ったハドリアヌス一行は、地中海と大西洋の境を目の当たりにし、ローマ帝国の最西端を視察しました。鬱蒼とした森が広がる北ヨーロッパから乾燥する砂漠地帯への旅。当時としてはまさに地の果てへの旅でした。
AD136年 セステルティウス貨
女神として表されたマウレタニア。右手を挙げるハドリアヌス帝に杯を捧げている姿。右端には「MAVR(ETANIAE)」銘。
・地中海
マウレタニアを発ったハドリアヌスは、ローマ海軍のガレー船で一気に地中海を横断し、帝国東部の小アジアへ向かいます。
AD122年 デナリウス銀貨
海洋神オセアヌス(Ocean)が表現されたコイン。ポセイドンとよく似た姿で、三叉矛の代わりに船の錨を持っています。オセアヌス神の左ひじを支えているのは、背もたれのようになったイルカです。
・小アジア (現在のトルコ)
帝国最西端から再東端へ移動したハドリアヌスは、上陸したアンティオキアからパルティアとの国境最前線視察を開始。そのまま北上して黒海沿岸部に到達します。
AD136年 デナリウス銀貨
ガレー船に足を載せ、舳先とオールを携えるアシア女神。周囲には「ASIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
カッパドキアは小アジア内陸の地域。男性として表されたカッパドキアは、特徴的な帽子を被りローマ軍の記章を支えています。右手で差し出しているのはカッパドキアの名所「アルガエウス山(現在のエルジェス山)」です。周囲には「CAPPADOCIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
フリギアは小アジア内陸部の地域。このコインではフリギアを象徴する男性がハドリアヌス帝に忠誠を誓っています。フリギア特有の帽子を被った男性は右手を皇帝に差し出し、左手で羊飼いの杖を持っています。右側には「PHRYGIAE」銘。
AD136年 セステルティウス貨
ビテュニアは小アジアの北西部、黒海沿岸の一帯。コインには跪きハドリアヌス帝に忠誠を誓うビテュニア女神が表現されています。右側には「BITHYNIAE」銘。
AD124年に訪れたビテュニアで出会った現地の美青年アンティノウスを気に入ったハドリアヌスは、そのまま彼を旅に連れてゆくことにします。美しい愛人を新たに加え、憧れだった古代ギリシャ文化の地、エーゲ海に到達したハドリアヌスは上機嫌だったことでしょう。
アンティノウスの胸像
・トラキア (現在のブルガリア)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とトラキア女神。右側には「THRACIAE」銘があった。
ギリシャ文化を愛好したハドリアヌスは憧れだったアテネを訪問し、記念の神殿建設や修復を行いました。一方で北部のトラキアに足を伸ばし、軍の防衛体制を確認しています。
その後デュラキウム(現在のアルバニア)に移動したハドリアヌス帝はまっすぐ対岸のイタリア半島へは向かわず、南へ迂回してシチリア島へ上陸します。
・シチリア島
ローマへ帰還する前にシチリア島のシラクサへ立ち寄ったハドリアヌス帝は、穀物の重要な生産地であるシチリアを視察します。
AD136年 セステルティウス貨
跪きハドリアヌス帝を迎えるシチリアの女神。左手には麦穂を持っています。頭にはシチリア島の象徴であるトリナクリア(三脚巴紋)をつけています。トリナクリアはシチリア島の三つの岬を示し、シチリア島の形状そのものを象徴しているとされます。右側には「SICILIAE」銘があります。
ハドリアヌスが首都ローマへ帰還したのは、旅に出てから4年後のAD125年でした。しかし長らくローマを留守にし、通常の政務を優れた官僚組織に任せて自らは遠方から指示を出すハドリアヌスは、元老院での評判をすっかり落としていました。
ローマにいるのが苦痛になったのか、未踏の地への欲求が抑えられなくなったのか、帰還から3年後に再び巡幸の旅へ再出発します。次にハドリアヌスが目指したのは、前回の旅では船で通り過ぎてしまったアフリカ属州でした。
・アフリカ (現在のチュニジア)
アフリカ属州はカルタゴ征服後に設置された属州であり、オリーヴや麦などの農地開発が盛んに行われました。また闘技場での見世物に供される珍しい動物たちをローマへ輸出するなどし、経済的・文化的にも繁栄しました。アフリカの名はその後、大陸全体を表す名称になりました。
ハドリアヌス帝はシチリア島を経由してカルタゴに上陸しました。内陸部の各地を巡幸し、その後は再び海路でローマへ帰還しています。
AD136年 デナリウス銀貨
アフリカを象徴する女神像。足下には小麦の入った壺が置かれ、穀物の供給を示しています。女神は頭に象の毛皮を被り、右手でサソリを差し出すというアフリカらしい姿です。上部には「AFRICA」銘が刻まれています。
ローマへの帰還から束の間、すぐに三回目の巡幸に出発したハドリアヌス。三回目は国境の視察よりも、むしろハドリアヌス個人の好奇心を満足させる旅でした。愛人アンティノウスを伴ったハドリアヌス帝はまずギリシャのアテネに滞在し、その後小アジアを経てシリア、アラビア方面へ向かいます。
・アラビア (現在のヨルダン)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とアラビア女神。右側には「ARABIAE」銘。
アラビアの砂漠地帯を抜けて訪れたのは、ハドリアヌス帝が最も気に入った滞在地、エジプトでした。
・アエギュプトゥス (現在のエジプト)
AD136年 セステルティウス貨
女神エジプトは果物が入った籠に寄りかかりながら、古代エジプトの葬用楽器シストラムを掲げています。左側には聖鳥トキが配され、上部には「AEGYPTOS」銘が刻まれています。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプト属州の州都アレクサンドリアを表現したコイン。商業・学問の中心として栄えたアレクサンドリアにはハドリアヌス帝も滞在しました。コインのアレクサンドリア女神は右手でシストラムを掲げ、左手で籠を持っています。その籠からは一匹のコブラが這い出しています。周囲には「ALEXANDRIA」銘。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプトを流れるナイル川の神を表現。古代ローマでは川を表現する際、年老いた男性の姿で表現されました。エジプトの場合も例外ではなく、現地で発行されたコインにも同様の意匠が見られます。このコインではナイル神の足元にカバが配されています。この姿は古代エジプトのナイル川の神ハピが基になっているとみられます。上部には「NILVS」銘。
AD130年にエジプト入りしたハドリアヌスはナイル川をクルーズし、古代エジプトの壮大な神殿群を目の当たりにしました。殊の外エジプト滞在を気に入ったらしく、愛人のアンティノウスがいるにも関わらず、ローマにいた妻のサビーナをアレクサンドリアにわざわざ呼び寄せたそうです。
しかしこの地で悲劇が起こります。ナイル川をクルージング中に、アンティノウスが船から転落して溺死してしまったのです。当時から若いアンティノウスが簡単に溺死したのは不自然として、犠牲の生贄にされたという説や暗殺されたという説もあったそうです。 寵愛していたアンティノウスの死はハドリアヌスにとって予期せぬことであり、上機嫌から一転して深い悲しみに包まれました。
亡くなったアンティノウスを顕彰するため「アンティノポリス」という街を建設し、アンティノウスの像を建てても悲しみは晴れず、エジプトを離れてローマへ帰還しました。
・ユダヤ (現在のイスラエル)
AD136年 セステルティウス貨
女性として表現されたユダヤの像。二人の子どもを伴いながらハドリアヌス帝に対しています。右側には「IVDAEAE」銘。
エジプトからローマへ帰ってきたハドリアヌスに、最後の苦しい旅が待っていました。かつて大規模な反乱が勃発したユダヤ属州のイェルサレムは、1世紀にティトゥスの攻撃によって破壊されて以降、まともに復興されないままでした。ハドリアヌスはエジプトへ向かう途中でイェルサレムに立ち寄り、ここを新都市として生まれ変わらせることを宣言します。しかしその計画はイェルサレムの名を消し、かつてソロモン神殿があった場所にユーピテル神殿を建設するという、ユダヤ人の聖地を完全に作り変えるものでした。
計画に激怒したユダヤ人たちが起した反乱(第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱)はローマ軍を圧倒し、ついにハドリアヌス自らが鎮圧に赴くことになりました。皇帝指揮下のローマ軍はAD135年、反乱軍の拠点だった聖地イェルサレムを陥落させ、ユダヤの反乱を鎮圧することに成功します。
反乱鎮圧後、怒りに満ちたハドリアヌス帝が下した処分は厳しいものでした。イェルサレムのユダヤ人は全て追放され、各地に離散(ディアスポラ)することになります。ユダヤ属州はペリシテ人のシリアを意味する「シリア・パレスティナ属州」(現在のパレスティナ呼称のはじまり)と改名され、ユダヤ文化の破壊が行われました。
反乱鎮圧に成功したハドリアヌス帝はローマへ戻りましたが、その後二度と巡幸の旅に出かけることはありませんでした。ユダヤでの戦いから、ハドリアヌス帝は体調を崩すようになっていました。
長旅に耐えられなくなった老体を休める為、ローマ近郊に建設した別荘で過ごすことが多くなったハドリアヌス帝は、そこで自らの理想の庭園作りに専念します。
それらデザインや意匠は、かつて旅の途中で自らが目にした各地の風土や、印象を反映させたものでした。
ハドリアヌスの別荘―ナイルワニの像
今回ご紹介したハドリアヌス帝の旅コインのほとんどは、治世末期のAD136年頃に造られたとみられています。60歳となったこの頃には体の衰えが進み、再び旅に出ることを諦めていたであろうハドリアヌス。せめてかつて旅した各地に想いを馳せ、後世に伝えられるよう、コインのデザインに投影させていたのかもしれません。
近年、旅のコインはハドリアヌス帝を象徴する史料として再注目されています。
古代ローマコイン収集の世界でも一連のシリーズになっていることから、収集する上で興味深いテーマです。今後のコレクション対象として参考にされてみてはいかがでしょうか。
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