【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月も終わりに近づき、本格的に寒くなってまいりました。
世の中は少しずつクリスマスの雰囲気に近づいています。色々なことがあった今年も残すところあと一ヶ月。心穏やかに新しい年を迎えたいものです。
さて、今回は来年初めに東京国立博物館で開催される特別展『ポンペイ展』をご紹介します。古代ローマのポンペイ遺跡をテーマにした展覧会は過去に何度か日本で開催されていますが、今回もナポリ国立考古学博物館の協力によって充実した内容になりそうです。
数々の素晴らしいモザイク画から人々が実際に使用していた日用品まで、150点に及ぶ多種多様な出土品が展示される予定です。またポンペイで見つかった邸宅を再現展示するなど、2000年前のローマ人の生活ぶりを目の当たりにできる、大変貴重な機会と言えるでしょう。
詳細は以下の特設ページにてご確認ください。
ご周知のとおり、ポンペイはイタリアを代表する古代ローマの都市遺跡であり、当時の都市生活がそのまま残された稀有な遺跡として知られています。
79年のヴェスヴィオ火山大噴火によって埋没したポンペイには1万人~2万人ほどが生活していたとされ、劇場や神殿、公衆浴場や広場といった公共施設が存在していました。ローマ時代のイタリア半島の市民社会を知る上で、大変重要な場所です。
ポンペイ最後の日
(アンリ=フレデリック・ショパン, 1850年)
ポンペイが壊滅した直後、当時の皇帝ティトゥスは復興支援のためにローマから人と救援物資・義援金を送り、自らも直接現地を視察しました。しかしポンペイがあった場所に同規模の都市が再建されることはなく、また掘り返されることもなかったため、ポンペイの遺構は火山灰の下に埋没し続けることになりました。その後もヴェスヴィオ山は幾度か噴火を繰り返し、その度に周辺一帯は火山灰が降り積もりました。長い年月が過ぎ、ポンペイの存在は歴史書の上に記録されているのみとなり、正確な位置は忘れ去られていきました。
しかしイタリア・ルネサンスによって古代ローマの文化芸術に再び脚光があたると、当時の遺跡や遺物に対する関心が高まりました。知識人や王侯貴族はこうした遺物を高値で買い取ってくれるため、イタリアの各地で遺跡探しが盛んに行われました。
歴史書に記されたポンペイも当然注目されましたが、その正確な場所を特定することは困難でした。当時、ポンペイのあった周辺には民家が建ち並び、火山灰に埋まった面積の大半はブドウ畑になっていました。しかし開墾や工事の度に地中から建築物の断片が見つかっていたため、価値を知らない地元の人々は出土した遺物を石材として再利用していました。18世紀に入るとこのことが外部に知られるようになり、やがて王や貴族の主導で本格的な発掘調査が開始されました。
当初、学者たちはどの辺りを発掘すべきか悩んでいましたが、地元の人々がブドウ畑のある一帯を「チヴィタ」と呼んでいることに着目しました。チヴィタとはローマ時代のラテン語で「都市」を意味する「Civitas」からきているのではないか。早速チヴィタと呼ばれたブドウ畑の下を掘り進めると、見事な壁画や青銅器、さらにはネロ帝やウェスパシアヌス帝のアウレウス金貨が発見されました。
発掘開始から15年後の1763年には男性の大理石像が発見され、その台座に「ウェスパシアヌス帝の名において、この土地をポンペイ市に返還する」という一文が刻まれていたことから、この地こそ間違いなくポンペイであることが確認されたと伝えられています。
その後、ポンペイの発掘は大々的に進められ、学術的な調査が進んだ18世紀末~19世紀にはイタリア観光の名所のひとつにもなっていました。発掘によって現れたローマ時代の都市はヨーロッパの文人たちにインスピレーションを与え、ドイツの文豪ゲーテも『イタリア紀行』にその情景を記録しました。
また歴史画の主題としても描かれるようになり、失われた古代都市ポンペイの認知度はますます高まっていきました。
ポンペイの発掘
(エドゥアール・アレクサンドル・セイン, 1865年)
19世紀のポンペイ遺跡を描写した作品にゴーチエの『ポンペイ夜話』(原題:Arria Marcella)があります。1852年に書かれた短編小説ですが、ポンペイを題材にした小説としてお奨めの作品です。岩波文庫から出版されているゴーチエの短編集に収録されており、手軽に読むことができます。
ナポリを訪れたフランス人青年オクタヴィアンは博物館を見学し、ポンペイから出土した噴火の犠牲者たちの石膏押し型を目の当たりにしました。
そこに展示されていた女性の胸の押し型に心を奪われたオクタヴィアンは、友人たちと実際にポンペイ遺跡を訪れてもそのことばかり考えていました。眠れないオクタヴィアンは一人宿を抜け出し、夜のポンペイ遺跡を彷徨いますが、気が付くと壊滅前のポンペイの街路に立っていた―というあらすじです。
幻想小説と呼ばれるゴーチエの作風が表されており、夢なのか現実なのか、不思議な世界観が描かれています。人気のない夜の街を散策して、過去にタイムスリップしていたという設定は様々な作品(映画『ミッドナイト・イン・パリ』(2011)など)にみられますが、ゴーチエの作品は19世紀半ばに書かれていることを考えると、当時としては斬新な切り口だったことでしょう。
ロマンチックな儚い恋物語として描かれた作品ですが、19世紀半ばのポンペイ遺跡の様子や周辺の雰囲気、古代ローマの街中が詳しく、リアルに描写されています。作者ゴーチエが単なる想像ではなく、しっかりと下調べをしていたことがうかがえます。発掘途中の寂しい遺跡が、人々の行き交う活きた都市に甦っていく描写は幻のようであり、現実のようにも思えます。
なお作中に登場する女性の胸の押し型は実在し、当時はナポリの博物館で展示されていましたが、戦争中に失われてしまいました。
翻訳者である田辺貞之助氏の訳も素晴らしく、読みやすく活き活きとした光景が展開されています。この作品を読めば、ポンペイに対するイメージも強まり、特別展への期待も高まると思われます。
特別展は来年1月14日から4月3日まで東京・上野の国立博物館で開催され、その後は京都(京セラ美術館, 4月21日~7月3日)と福岡(九州国立博物館, 10月12日~12月4日)を巡回予定です。ぜひ足を延ばしていただき、ありし日のポンペイに思いを馳せてみてください。
ポンペイの発掘
(フィリッポ・パリッツィ, 1870年)
こんにちは。
10月も終わりに近づき、すっかり肌寒くなってまいりました。日が暮れるのもどんどん早くなっていますね。今年は秋がなく、いきなり冬に移り変わったようです。
世間では新型コロナウィルスの感染者が減ったことで、さまざまな経済活動も再始動する流れになっているようです。これから寒くなっていく分、風邪やインフルエンザにも気をつけなければならず、油断は禁物です。すべてが元通りとはいきませんが、せめて今年は楽しい年末を過ごしたいものです。
当店、ワールドコインギャラリーは来週の水曜日(11月3日)「文化の日」は祝日営業として、11時~19時まで通常営業をいたします。
感染症対策も採りながら営業を行いますので、文化の日はぜひともご来店ください。冬に近づきつつ気温ですが、コインで「文化の秋」を愉しみましょう。
【古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店】
11月といえば、新しい500円硬貨がお目見えする予定ですね。11月1日(月)より日本銀行から金融機関に払い出しが始まる為、市中に出回るのは少し遅れてからになると思いますが、今から現物を手にするのが楽しみです。
新500円硬貨 11月1日から発行へ 21年ぶり | NHKニュース
中央部は白銅、周囲はニッケル黄銅になっており、さらに内部には銅がはさまれているバイカラー・クラッド方式です。海外では一般的なバイメタルコイン(二種類の金属を組み合わせた硬貨)ですが、日本では記念の500円硬貨でしか使用されていませんでした。ようやく一般流通貨幣にも活用される為、日本貨幣にとっては画期的な出来事になります。
バイメタルコインでよく知られるのがユーロコインです。ユーロ圏では1ユーロと2ユーロがバイメタルとなっており、材質や重量、大きさは統一されているものの、デザインは発行国によって異なります。アメリカの50州25セントや日本の47都道府県500円のように、額面を統一して発行国ごとに収集するコレクターも多いそうです。
中でも人気のデザインのひとつは、バルト三国のラトビアで発行されているユーロコインです。
1991年にソ連から独立したラトビアは2004年にEU(ヨーロッパ連合)に加盟し、10年後の2014年からユーロを導入しました。その際に発行された1ユーロと2ユーロのデザインには、ラトビアを代表するコインのデザインがそのまま採用されました。
2ユーロコインは中央がニッケル黄銅、周囲が白銅になっており、1ユーロはその逆になっています。
このコインはラトビア人にとって非常に思い入れのあるコインです。
第一次世界大戦が終結した1918年、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国はロシアから独立。第二次世界大戦までのおよそ20年間、小国ラトビアは独立国家として存在していました。
独立後は各国で独自通貨が発行され、ラトビアでは1922年にルーブルに代わって新通貨「ラッツ(*複数形ではラティ)」が発行されました。
1920年代になると、ラトビアは諸外国に劣らない大型銀貨の発行を計画します。クラウンサイズで発行されることが決まった5ラティ銀貨は、独立国家ラトビアの顔となるコインとして品格のある仕上がりが求められました。製造はイギリス、ロンドンのロイヤルミント(英国王立造幣局)が請け負うこととなり、デザインはラトビア独自のものとする方針が定まりました。
共和国だったラトビアは実在の人物ではなく、フランスのマリアンヌやアメリカのリバティのような、不特定の女性像を表現する方針となり、ラトビアを体現するような若い女性像が求められました。デザインはロシア帝国印刷局で20年間勤務していたラトビア人デザイナー リハルツ・ザリヴシュ(1869-1939)が担当することとなり、モデルとなる女性が選定されました。
リハルツ・ザリヴシュの記念切手(2019年)
ラトビアの象徴として選ばれたのは、首都リガの国家証券印刷局に勤めていたヅェルマ・ブラーレイ(1900-1977)でした。リハルツ・ザリヴシュは外部にモデルを求めず、手近な身内の職員からモデルを選出したのでした。残されている彼女のスケッチから、ザリヴシュがこの仕事に情熱をもって取り組んでいたことが読み取れます。
ヅェルマ・ブラーレイ
1929年2月、ザリヴシュが手掛けた新銀貨の発行が開始されました。実際に多くの人々の手に渡ると、デザインの良さと風格からその評判は上々であり、すぐさまラトビアを代表するコインの地位を得ました。発行されてすぐに「ミルダ(*ラトビア人に多い女性名)」の愛称で呼ばれ、人々から親しまれました。流通コインであるにも関わらず多くのラトビア人は記念品のように大切にし、結婚式や洗礼式でも配られました。
「ミルダ」5ラティ銀貨
Silver83.5%、25g、37mmのクラウンサイズ銀貨。1929年、1931年、1932年の各年銘で合計360万枚が製造されました。裏面の国章もザリヴシュが手掛けています。
エッジ(側縁)にはラトビア語で「DIEVS SVĒTĪ LATVIJU (神はラトビアを祝福する)」銘が刻まれており、現在の2ユーロコインにも再現されています。
民族衣装をまとった乙女が微笑みながら遠くを見つめる姿は、独立して間もない小国ラトビアを体現する理想的な姿でした。このコインを手掛けたザリヴシュの名声も高まり、現在でもラトビアを代表する歴史的文化人のひとりに数えられています。
しかしラトビアの独立は突如終わりを迎えます。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、中立を宣言していたラトビアは1940年にソ連軍の進駐を受け、そのままソ連に併合されることとなったのです。ラトビア共和国は事実上消滅し、ラッツに代わってソ連ルーブルが流通するようになりましたが、しばらくはラッツも並行して使用されていました。戦争の危機が近づいた時期から、ラトビア国内では銀貨が退蔵されるようになり、結果的に多くの「ミルダ」5ラティ銀貨が残されることになりました。
しかし1941年3月25日、ソ連はラッツの完全無効化を突如宣言し、一夜にして通貨ラッツは無価値となりました。紙幣は通用価値を失い、銀貨は金属的価値だけ保証されたものの、額面価値は完全に消滅しました。推定で5000万ラティがルーブルに交換されることなく無価値となり、多くのラトビア市民が損害を被りました。
それでも「ミルダ」5ラティ銀貨はラトビア人にとって思い入れの深いコインであり、多くの市民が手放さず少なくとも一枚は家に保管していました。いつしかこの銀貨は愛国者を象徴するものとなり、シベリアへ送還される人々や西側への亡命者などが手にしていました。ブローチやペンダントしても加工され、幸運のお守りとして子から孫へと引き継がれていきました。
一方で、皮肉にもソ連側もこの見事な銀貨に利用価値を見出していました。
ラッツが無価値なった際、ソ連はルーブルとの交換や接収などで得た大量の5ラティ銀貨を保持していました。1960年代、ソ連国立銀行(コズバンク)は既に無価値となった古い金貨や銀貨の買い入れを行い、5ラティ銀貨は60コペイクで交換されることとなりました。こうして集められたソ連以前のコインは海外、特に西側諸国の貨幣業者へと流され、貴重な外貨獲得手段になっていたのです。特にラトビアの5ラティ銀貨は人気があり、西ドイツでは28マルクで販売されたと云われています。
ソ連による併合から半世紀を経た1991年、バルト三国は再び独立し、ラトビアは独自通貨ラッツを回復しました。その際、人々は自宅に仕舞いこんでいたミルダのコインブローチやコインペンダントを再び身に付け、独立と祖国の復活を喜びました。
独立後新たに発行された紙幣の肖像や、記念コインとしても度々「ミルダ」のデザインが再現され続けました。ソ連による支配を受けていた時代、ラトビアの人々が独立の希望に対する証として持ち続けていたミルダのコインは、独立国家ラトビアの通貨として再び登場したのです。
独立後に発行された500ラティ紙幣
そして2014年のユーロ導入に際し、ついにミルダを通常コインのデザインとして復活させました。ラトビア政府が新しいコインの顔として相応しいデザインを世論調査したところ、圧倒的な人気を得たのが「ミルダ」でした。独自通貨ラッツは再び消滅しましたが、ミルダは生き残ることができたのです。
時代に合わせてバイメタルのコインとして表現されたミルダは、80年以上の時を経て再び人気を得ています。ユーロコインは国境を越えてヨーロッパ中で使用することができるため、ラトビアに留まらずより多くの人々の手に渡ります。
激動の歴史を経てもなお愛されるコインとして、特筆すべき存在と言えるでしょう。
来月から発行される日本の新500円硬貨は、昭和57年(1982年)の発行から3代目になります。最初は白銅貨でしたが、平成12年(2000年)に登場した2代目はニッケル黄銅貨、今回は白銅とニッケル黄銅を組み合わせたバイメタルです。素材とセキュリティ技術は変化していても、基本的なデザインは変わっていません。
昭和・平成・令和と変化している500円硬貨も、時代を経て愛されているコインといえるでしょう。
令和版500円硬貨のお目見えを、心待ちにしたいと思います。
投稿情報: 14:07 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月も終わりに近づき、段々と涼しくなり秋らしくなってまいりました。
今回は世界七不思議のひとつ『マウソロスの霊廟』をご紹介します。
世界七不思議とは古代ギリシャ~オリエントに存在した七つの巨大建築物を指し、「ギザの大ピラミッド」「バビロンの空中庭園」「エフェソスのアルテミス神殿」「オリンピアのゼウス神像」「ロードス島のヘリオス神像」「アレクサンドリアの大灯台」などが挙げられています。
それらに並ぶ「マウソロスの霊廟」は紀元前4世紀、小アジアの古代都市ハリカルナッソス(*現在のトルコ,ムーラ県の港湾都市ボドルム)に建立された巨大な霊廟です。
マウソロスの霊廟(16世紀の想像図)
ハリカルナッソスを中心とするカリア地方を統治したマウソロスを祀るこの大霊廟は、名建築家ピュティオスとサテュロスによって設計され、均整の取れた形と豪華なレリーフによって装飾された建築物でした。
この霊廟はハリカルナッソスを見下ろす丘の上に建立され、エーゲ海を航行する船から確認することができたほど壮大な建物でした。近づいて見ると側面部分には、小アジア西部一帯に残る女戦士アマゾネスの伝説が、美しいレリーフ彫刻によって表現されていました。こうしたレリーフはギリシャから招聘された名彫刻家たちによって作成され、莫大な富を費やして建設されたことが分かります。
霊廟を飾ったレリーフ彫刻
(大英博物館蔵)
巨大な規模と高い芸術性から霊廟の評判は広く知られるようになり、ギリシャやローマの知識人たちの興味をかき立てました。様々な書物の記述にも登場し、当地へ赴いた際には訪れるべき場所として紹介されました。そうした古代世界での高い評判から、世界七不思議のひとつにまで数えられるようになったのです。
マウソロスの霊廟を表現したコイン
(キューバ 1997年 10ペソ銀貨-世界七不思議シリーズ)
マウソロスの一族は代々カリア地方を治める家系であり、アケメネス朝ペルシアに従属して同地方のサトラップ(太守)に任じられていました。ペルシアから遠く離れギリシャに近いカリアは、表面上はアケメネス朝の服属下にありましたが、実質的に独立した王国としての地位を確立させていました。
マウソロスの胸像
マウソロスは紀元前377年にカリアの太守となり、以降は国力を高めるため積極的に周辺地域、特にギリシャへの介入を深めていきました。小アジア沿岸部のギリシャ系植民都市を次々に影響下に置いたばかりでなく、ギリシャ本土の戦争に介入してキオス島やコス島、ロードス島などの島々まで属国化し、勢力を拡大させたのです。
マウソロスは西方に勢力圏を拡大させ、島嶼部の都市を従属させました。
マウソロスがハリカルナッソスを新たな首都に定めたのもこの頃であり、入り組んだ港湾都市を難攻不落の城塞都市にして外敵の侵入に備えました。
ハリカルナッソスはドーリア人が建設した植民都市とされ、歴史家ヘロドトスの出身地としても知られたギリシャ系の都市でした。ギリシャ文化に対する強い思い入れがあったマウソロスはハリカルナッソスをさらに壮麗なギリシャ都市に改造し、豪華な宮殿や劇場、神殿や広場を整備していきました。さらに優れた技術者を招聘して造幣所も建設し、カリアの国力を誇示するような、ギリシャ本土に劣らない芸術的コインを生産させました。
テトラドラクマ銀貨 BC377-BC353 アポロ神/ゼウス神
ゼウス神の右側にはマウソロスの名を示す「ΜΑΥΣΣΩΛΛΟ」銘
彫刻のような立体感。正面像は最も盛り上がった鼻が磨耗しやすいため、コインの意匠としては本来不向きです。
テトラドラクマ銀貨 BC377-BC353
ドラクマ銀貨 BC377-BC353
紀元前353年にマウソロスが亡くなると、カリアの統治権は妻のアルテミシアが引き継ぎました。アルテミシアはマウソロスの妹でしたが、カリアの伝統に基づき形式上の結婚を成立させて一族の権力を保持していました。
霊廟の建設計画は既にマウソロスの存命中に進んでいたとされ、後継者となったアルテミシアは名君である兄の偉業を後世に伝えるため、さらに壮麗な霊廟の建立を推進しました。葬礼ではマウソロスを称えるための追悼演説大会が催され、名だたる弁論家たちが各地から集まりました。時同じくして建築家や彫刻家もギリシャ各地から集められ、霊廟建設を進めたのです。
アルテミシア
(1630年頃, フランチェスコ・フリーニ作)
アルテミシアは兄にも劣らない優れた統治者であり、指導力を発揮してよくカリアを統治しました。ハリカルナッソスに攻め込んできたロードス島の反乱軍を、兄が築いた要塞を巧みに利用して撃退し、逆にロードス島に反撃を仕掛けて反乱を鎮圧するなどの実績を残しています。
しかし兄の死からわずか2年後にアルテミシアも亡くなり、兄と同じく霊廟に葬られることになります。しかしこの時点ではまだ霊廟は完成しておらず、依頼主である兄妹二人の遺灰を納めた数年後に完成したと考えられています。
その後、アケメネス朝がアレキサンダー大王の東方遠征によって滅ぼされ、カリアの統治権が移り変わった後も、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟は都市のランドマークとして存在し続けました。世界七不思議に並べられたことから広く存在が知られ、各地からの訪問者も多かったことでしょう。
時が経てハリカルナッソス自体が衰退してもなお、霊廟は朽ちつつも丘の上に建ち続けていたようです。建設から1800年後の1494年、当地を征服した十字軍、聖ヨハネ騎士団が要塞を建設する際、霊廟の残骸をその資材に転用し、多くの彫刻や石柱は撤去されてしまいました。
現在、マウソロス霊廟は土台だった部分が遺跡として残されるのみとなり、かつて世界七不思議に数えられたほどの壮麗さは見る影もありません。残されたわずかな痕跡と2000年以上前の記述から、ありし日の様子を想像するのみです。
ボドルム城
建設資材としてマウソロス霊廟の大理石が用いられているとされます。
投稿情報: 15:15 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続いていますね。パラリンピックも始まり、選手の皆様は猛暑の中で大変だと思います。どうか気をつけながら力を発揮し、素晴らしいプレーにしていただきたいと思います。
今月はニュースでアフガニスタンの話題が大きく取り上げられています。
20年に及んだ米軍のアフガニスタン駐留は、最終的にタリバンの復権を許す形で終了することになりました。今なおアフガニスタンは混乱の渦中にありますが、米軍が撤退した後も先行きは不透明です。
アフガニスタンの中央銀行にあたる「アフガニスタン銀行」の行章は、かつてこの地で造られていたコインのデザインが取り入れられています。
1939年に設立されたアフガニスタン銀行は日本銀行と同じく発券銀行であり、紙幣の発行と監理を行っています。設立以降、アフガニスタンは王政、共和政、共産主義政権、タリバン政権、米軍による占領とめまぐるしく政府が変わりましたが、アフガニスタン銀行は一貫してその業務を継続しています。
同国で発行された紙幣に共通して配されているこの行章は、かつてアフガニスタンの地に栄えたバクトリア王国最盛期のコインをそのままメインデザインに取り入れています。
バクトリア王国(グレコ=バクトリア王国)は現在のアフガニスタン~パキスタン北部に存在したギリシャ系王朝であり、アレキサンダー大王(マケドニア王アレクサンドロス3世)による東方遠征の後、現地に残留したギリシャ人たちによって建設された植民都市から形成されました。紀元前3世紀の中頃にセレウコス朝から分離独立すると、シルクロード交易の要衝として繁栄し、東西文化の融合と発展が進みました。
基となったコインは紀元前170年~紀元前145年頃、エウクラティデス1世の時代に発行されたテトラドラクマ銀貨です。
エウクラティデスはセレウコス朝の血統を有する名門とされ、隣国パルティアの支援を得て王位に登りました。自ら軍を率いてインド方面への遠征を行い、領土拡大に邁進したことから「大王」の尊称で呼ばれることもあります。
このコインはエウクラティデス1世が建設し自らの名を冠した都市「エウクラティデア」で造られたと考えられています。
最盛期―エウクラティデス1世治世下のグレコ=バクトリア王国版図
エウクラティデス1世は良質なギリシャ式のコインを発行し、自らの権力と富を誇示しました。その多くはギリシャ本土にも劣らない、最盛期にふさわしい見事な造形です。
王の肖像には多数のバラエティが存在しますが、裏面のデザインは一貫して「双子神ディオスクロイの騎馬像」が表現されています。この裏面デザインが、現在のアフガニスタン銀行行章にそのまま取り入れられています。
バクトリア王国のコインはヘレニズム諸王朝のコインと同様に、表面には王の肖像、裏面にはギリシャ神話に登場する神を表現していました。
特にバクトリアの場合、王によって守護神が異なるため、裏面の神も王と共に変化しました。
(*デメトリオス:ヘラクレス、アンティマコス:海神ポセイドン、ヘリオクレス:ゼウス神、メナンドロス:アテナ女神.....)
エウクラティデスの場合は双子神ディオスクロイであり、コインには棕櫚の葉と槍を持って馬を駆ける双子神が表現されています。両者は共にピロス帽(*円錐形の帽子)を被り、互いに顔を向けて意思疎通している様子で表現されています。
上下には発行者を示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ MEΓAΛOY ΕΥΚΡΑΤΙΔΟΥ (大王 エウクラティデス)」銘が配されています。
ディオスクロイはギリシャ神話に登場するカストールとポリュデウケス(ポルクス)の兄弟であり、白鳥に姿を変えた大神ゼウスと交わったレダが生んだ子とされました。この兄弟は戦争と拳闘に優れた能力を発揮し、各地の遠征や戦闘で活躍した神話が語られています。こうした神話は後にローマへ伝わり、独自の解釈が加わりローマ騎士の守護神としても奉られました。
紀元前147年頃 デナリウス銀貨
神話ではポリュデウケスがゼウス神によって不死身にされかけた時、先にカストールが戦死してしまったため自分だけ不死身になっても仕方がないとして固辞しました。兄弟愛に感心したゼウス神は双子を天上に上らせ、夜空の「双子座」にしたと云われています。
このコインに表現された双子神ディオスクロイは勝利・武勇の象徴であると共に、インド方面へ領土を拡大したエウクラティデスによるギリシャ文化圏(バクトリア)とインド文化圏の統合・協調を示唆するものと考えられています。インド=グリーク朝の文化融合を象徴する意匠といえるかもしれません。
現在のアフガニスタン銀行の行章にはコイン内の一部デザインとはいえ、エウクラティデスの名銘が、古代ギリシャ文字で大きく明記されています。
かつてアフガニスタンの地に、ギリシャ文化を有した王国が存在した歴史を明示しています。2000年以上の時を経た今も、現行通貨のデザインとして生き続けている稀有な例といえるでしょう。
バクトリア王国の最盛期を築いた大王エウクラティデスでしたが、遠征からの帰途、息子ヘリオクレスによって殺害され、栄光に満ちた華々しい治世を突然終えることになりました。その遺骸は戦車によって轢かれ、これを埋葬して弔うことすら禁じられたと云われています。
エウクラティデス亡き後、バクトリアは隣国パルティアや匈奴など遊牧民族の介入に悩まされ、内部では豪族たちによる王位争いから群雄割拠の状態になりました。こうしてバクトリア王国は徐々に分裂・衰退し、やがて歴史の中へ埋もれていくことになったのです。
かつてこの地を征服したアレキサンダー大王も複雑な地形と独立心の強い部族たちの抵抗に手を焼き、自らも傷を負い、多くの将兵を失いました。
後にはセレウコス朝、イスラーム帝国、モンゴル帝国、大英帝国、ソ連、そしてアメリカがアフガニスタンに軍を送り込みましたが、これらの大国であっても完全に平定することはついに叶いませんでした。
「帝国の墓場」とも称されるアフガニスタンが今後どのように変化するか定かではありませんが、かつてこの地に存在した豊かな歴史と文化を大切にし、後世に守り伝えて欲しいと思います。長い苦難の歴史を乗り越え、アフガニスタンに平和と安定が定着することを願うばかりです。
こんにちは。
梅雨明けしたとたんに毎日のように厳暑が続き、夏本番の到来ですね。先週から東京オリンピックがついに開幕し、メディアでもメダル獲得の話題一色です。
コロナのワクチン接種も進展していますが、それでも感染の勢いは衰える様子がありません。昨年同様、帰省や夏祭りも中止・延期が相次いでいるようです。
今年の夏はコロナと猛暑を避けて、自宅のテレビでオリンピック観戦する日常になりそうです。
今回はアメリカコイン、ケネディのハーフダラー(1/2ドル=50セント)をご紹介します。
おそらくコインを収集していない方であっても、広く知られているアメリカコインのひとつではないでしょうか。
アメリカ合衆国 1964年 1/2ドル銀貨
周知の通り、ジョン・F・ケネディ(1917-1963)はアメリカ合衆国の第35代大統領であり、1961年~1963年のおよそ3年間在任しました。43歳の若さで大統領に就任したケネディは妻のジャクリーンと共に大衆的人気を博し、幅広い層から支持を得ていました。当時は東西冷戦の真っ只中であり、ソ連との対立が先鋭化した時期に当ります。その任期中に生じたベルリンの壁建設やキューバ危機はその象徴的事件であり、その度にケネディは重大な決断を迫られました。また、米ソの軍拡・宇宙開発競争の過程で「アポロ計画」を打ち立てたことでも有名です。
しかし1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中に凶弾に倒れ、志半ばで短い任期を終えることとなりました。3年に満たない在任期間だったにも関わらず、若さとカリスマ性を備えた大統領の非業の死は多くのアメリカ国民に記憶され、今なお歴代大統領の中では特に人気の高い人物の一人です。
暗殺事件直後からホワイトハウスと合衆国造幣局には、ケネディを称える記念コインの製造を求める声が多く寄せられました。アメリカでは個人崇拝を防ぐ目的から存命中の人物を通貨デザインに使用することを禁じており、暗殺直後とはいえ亡くなっている以上、コインにすること自体に問題はありませんでした。
そこで造幣局は未亡人となったジャクリーンに、ケネディをコインのデザインにしたい旨を伝え、了承を得ました。この時、コインの候補には1/2ドル銀貨(*従来のデザインはベンジャミン・フランクリン&自由の鐘)と1/4ドル銀貨(*クォーター=25セント。デザインは初代大統領ジョージ・ワシントン)の二種類が挙がっていましたが、ジャクリーンは初代大統領に取って代わるのは夫の望むところではないと考え、1/2ドル銀貨が好ましいと意見表明しました。
早速、後任であるリンドン・ジョンソン大統領は1/2ドル銀貨のデザインを変更する法案を連邦議会下院へ提出し、12月30日には通過しました。
しかし新たなコインの製造は原画の作成や極印彫刻の制作、製造工程の調整など高度な準備があり、法律上可能になったからといってすぐに実施できるものではありません。議会で法案提出と審議が進められている頃、既に造幣局では作業が進められていました。特にこの新コインの打ち初めは1964年1月を目標としており、急ピッチで作業を進める必要がありました。
そこで造幣局は生前のケネディ大統領が自ら承認し、銅メダル用として用意されていたものをベースに準備を進めることにしました。
1/2ドル銀貨の基となったブロンズメダル
表面のケネディ像は造幣局の彫刻師ギルロイ・ロバーツ(1905-1992)、裏面の大統領紋章はロバーツの弟子フランク・ガスパロ(1909-2001)が手掛けました。大統領が就任する度に造幣局で製造されるシリーズのひとつであり、ロバーツはケネディ本人と面会してデザインを提示し、承認を得ています。
メダル→コインへと用途が変わる過程でもロバーツはこだわりを持ってケネディの肖像に修整を加え続け、より良い完成品に仕上げるべく努力しました。試作品ができると妻ジャクリーンと弟のロバート・F・ケネディに提示し、意見を求めました(*この時ジャクリーンは髪形について意見を述べ、彫刻に修整が加えられたと云われています)。
こうして出来上がった1/2ドル銀貨のケネディ像はメダルの肖像より歳を重ねているものの、就任当初の若々しさの面影がありながら、最高指導者としての威厳も加わった見事な仕上がりになりました。実際のケネディの横顔像と比べても遜色がないほどです。
メダルにあったケネディの名銘は取り除かれ、代わりに発行年銘と、全てのアメリカコインに刻むことが義務付けられている「LIBERTY(=自由)」銘と「IN GOD WE TRUST(=我らは神を信じる)」銘が配されています。
ケネディ像の首部分には彫刻師ギルロイ・ロバーツのイニシャルである「GR」銘がモノグラムで刻まれていますが、発行後に共産党のシンボルである「鎌とハンマー」に見えるという苦情が寄せられました。
こうして急ピッチで進められた結果、当初の目標通り1964年1月30日にデンヴァー造幣局で最初のケネディ1/2ドル銀貨が打ち出されました。この時点ではプルーフ貨のみが製造され、本格的な大量生産が開始されたのは2月11日以降でした。
そしてケネディ暗殺からわずか4か月後の1964年3月24日より、新1/2ドル銀貨は一般市場への流通が開始されました。急ピッチで仕上げられたコインであるにも関わらず、ケネディ暗殺の衝撃から間もない時期だったこともあって、アメリカ国民の受け入れは上々でした。当初は追悼の意を込めた記念コインと見なされたためか、初日には交換を求める人々が金融機関の窓口に殺到し、大都市の銀行では翌日までに準備していたコインがなくなってしまいました。
造幣局は国民的な需要にこたえるため生産目標数を引き上げた結果、1964年銘の1/2ドル銀貨はデンヴァー、フィラデルフィア両局合わせて433,460,212枚という膨大な発行数となりました。これは先代のフランクリン1/2ドル銀貨の16年間の発行総数より多い数です。
この大量発行の背景には、人々が記念品として大切に保管し使用しなかったため、ほとんど市場に流通しなかったこと、ディーラーなどが海外でのケネディ人気に便乗して販売するために大量両替したことなどが挙げられます。皮肉にもあまりに良い出来上がりだったため、コイン本来の役割である「流通」に投じられず、退蔵されることになったのです。
さらに1960年代には銀価格が高騰し、投機的な動きもあって今後上昇してゆくという憶測がありました。そのため、銀品位90%、12.5gの1/2ドル銀貨を額面の50セントで両替しておけば、将来的に含まれる銀の価値が額面を上回ると考える人々がいたため、市場流通に乗らなかったという側面もありました。
事実、アメリカ政府は翌年の1965年に新たに法律を制定し、それまで銀で製造されていたダイム(10セント)とクォーター(1/4ドル)をニッケル銅に、1/2ドル銀貨の純度を90%から40%に引き下げる対策を行いました。
造幣局はクラッドによる製造(*表裏面と内側で異なる金属を組み合わせるサンドウィッチ式)でそれまでの銀の輝きを保ちつつ、銀を節約する対策を講じました。
左は1976年の記念1/2ドル銀貨 右は1964年の1/2ドル銀貨
左の淵部分が少し茶色くなっています。面の部分には80%の銀が使用されましたが、内部には79.1%の銅が使用されたため、このように色が異なっているのです。
しかし世界的に流通用コインとしての銀貨が白銅貨に切り替わる中で、1/2ドルも1971年以降はニッケル銅による製造に切り替わりました。
以降、現在に至るまで1/2ドル貨は毎年製造され続けていますが、一般の市中で流通している例は非常に稀です。理由は様々ありますが、30mm、11gの大型コインは財布にもポケットにも入れづらく、額面価値に対して使いづらさがあるようです。また、アメリカの自動販売機はクォーター(25セント)までしか受け付けないケースが多く、最も一般的に使用されてるコインも100円玉サイズのクォーターであるため、50セントを出す際にはクォーターを2枚出しても不便ではないようです。
もしケネディが暗殺された後の打ち合わせでジャクリーンがクォーターを選択していれば、運命は大きく変わっていたでしょう。
そして早くからカード決済が普及したアメリカ社会では、大きなコインが徐々に流通市場から消えていくのも無理はないでしょう。発行当初はケネディに対する人気、銀素材に対する投機狙い需要という積極的な理由から姿を消した1/2ドル貨は、時代の流れとともに消極的な理由で流通市場から消えていきました。日本の二千円札に似た立場なのかもしれません。
それでもケネディの1/2ドルは現代アメリカを代表するコインとして認識され、毎年発行されるミントセットの中央を飾っています。また、今なおアメリカだけでなく世界中のコインコレクターに愛されており、2014年に発行50周年を記念する金貨バージョンが発行された際は発売直後に売り切れ、すぐさまコイン市場やオークションで高値で取引されました。
ケネディの時代から半世紀以上が経過し、暗殺事件自体も歴史になりつつある現在もケネディの人気が衰えていない証であるようです。
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり桜も散り、春から初夏へ移り変わろうとしていますが、コロナの話題は相変わらずですね。
先日、4月25日より三度目の緊急事態宣言が出されました。
それに伴い、当店ワールドコインギャラリーが入る東京・御徒町の商業施設「2k540」も、5月12日(水)まで臨時休館となりました。
この臨時休業期間中も、インターネットでのご注文やメール・お電話でのお問い合わせには随時対応しておりますが、外出するのにちょうど良い気候、そしてゴールデンウィークにも関わらずお店に直接お客様をお招きできないのは、残念な限りです。
詳細は以下をご参照ください。
ちょうど一年前と全く同じ状況ですが、一年経ってもほとんど状況が好転していないことに暗い気分になります。
それでも日々変化する状況に応じて、臨機応変に努めていきたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。宣言が解除されましたら、お店にもお越しいただけますと幸いです。
さて、今回は古代ギリシャの極小コインである「オボル銀貨」を取り上げます。
「オボル」は古代ギリシャの通貨において最小の単位であり、6オボルで1ドラクマとなります。発行された地域によって基準が異なりますが、おおむね0.6g前後、サイズ1cm以下というとても小さな銀貨であり、紀元前3世紀初め頃までギリシャ文化圏の各都市で発行・使用されていました。
時代を経ると小さな単位のコインは銅貨や青銅貨にとって代わられ、やがてヘミドラクマ(=1/2ドラクマ)以下のコインは銀で作られなくなっていきました。
しかし青銅貨が普及する以前には、貨幣といえば「銀」が基準であったため、基本的な単位であるドラクマ銀貨の1/6の重さにあたる小額貨幣として、非常に小さな銀貨が造られていたのです。比較的小規模な都市ではテトラドラクマ(=4ドラクマ)のような大型銀貨は造られなくとも、市民が日常の取引で使用するオボル銀貨は発行されていました。古代ギリシャの人々にとって、最も身近で馴染み深い銀貨だったのです。
市民たちは都市のアゴラ(市場)での買い物で頻繁にオボル銀貨を使用していたとみられます。とても小さな銀貨だったため、当時は紛失しないよう口の中に入れて持ち運び、買い物時は吐き出して支払っていたようです。
古くから銅貨が使用されていた中国や日本などの東洋から見れば、とても使いづらそうな貨幣です。逆に銅貨のみの流通が一般的だったため、高額の支払いには大量の貨幣が必要になるという不便さがありましたが・・・。
ドラクマ銀貨以上の銀貨や金貨は高価値だったため蓄財として退蔵されましたが、小さなオボル銀貨は普段使いの貨幣として流通し続けました。そのため、摩耗していない状態で現存しているものは希少です。
テッサリア ファルカドン 紀元前5世紀末~紀元前4世紀初頭
タソス島 紀元前412年~紀元前404年頃
キリキア タルソス 紀元前380年頃
キリキア タルソス 紀元前380年頃
リカオニア ラランダ 紀元前324年頃
ミュシア キジコス 紀元前525年~紀元前475年頃
コインの意匠も、ドラクマ銀貨をそのまま縮小したようなものだったため、1cmほどのスペース内に刻印を打ち出す時点で熟練の技術が求められました。当時から両面ともに完全に打ち出されたものは少なかったことでしょう。その小ささ、意匠の細かさから短期間流通しただけでも摩耗しやすかったはずです。
奇跡的に美しい状態で現存したものは、古代の技術で作られたとは思えないほど微細であり、ルーペで覗いてもその細かさには驚かされます。現代のような彫金技術や照明器具、ルーペもなかった時代に造られたとは思えないほどです。
銀の価値を基準にしている以上、小さくせざるを得なかったオボル銀貨は、製造の難しさから、大量に発行されることはなかったと考えられます。都市内の市民による、限られた範囲での経済活動で使用されたため、貿易で用いるテトラドラクマ銀貨のように必要以上製造する理由もなかったでしょう。
こうしたオボル銀貨は古代ギリシャ人が埋葬された古墳墓から発見される例が多くあります。ギリシャ神話では人間は死後、冥界を流れるステュクス川を渡らなければならないとされ、渡し守であるカロンの船に乗る必要があると考えられていました。カロンは気難しい老人であり、渡し賃として1オボルを支払わなければ船には乗せてくれないと云われていたため、遺族たちは生きているときと同じように死者の口内にオボル銀貨を入れて葬ったのです。
日本でも「三途の川の六文銭」としてお馴染みですが、洋の東西を問わず死後の世界でもお金が要るという考え方が根付いている点はとても興味深く感じられます。こうした副葬品として用いられる貨幣は「冥銭」と称され、古代ギリシャや中世ヨーロッパ、現代の中国や日本でもみられます。貨幣経済が浸透するにつれ、現世と同じような仕組みが死後の世界にもある、または死出の旅という観点から旅費が要るという発想が根底にあったとみられています。
日本における六文銭は、江戸時代の民間信仰の一種として広まったとみられ、興味深いことに古代ギリシャの老人カロンのように、懸衣翁と奪衣婆という老人が三途の川におり、六文銭を払わないと衣服をはぎ取って川を渡らせてもらえないと云われていたようです。(または六道の地蔵尊に供えるためとも)
現代では火葬が一般的になったため、金属である貨幣を入れることが難しくなり、代わって六文銭を模した紙を入れています。事実上の「紙幣」といえるでしょう。なお、真田家の家紋として有名な六文銭は、死出の準備はできている=命を惜しまないという意味が込められているとされています。
中国では線香などともに仏具の一種として冥銭が売られています。形式は現代の紙幣に準じており、金額はとにかく高額面になっています。道教の祖霊信仰が関係しているとされ、あの世で先祖たちが生活に困らないように葬儀の際だけでなく、墓参りの際にも燃やしてあの世に送金します。こうした風習は台湾やベトナム、沖縄でも「ウチカビ」という名称で残されています。
古代ギリシャのオボル銀貨や日本の六文銭が、冥界へ渡る際の渡し賃=旅費という使用目的があるのに対し、中国の場合は死後の世界=現世と同じように生活費が要る、と見做されている点が根本的に異なります。そのため、ギリシャや日本では一般庶民が日常的に使用できる(=副葬品として埋葬できる)金額の貨幣が設定されていたのでしょう。
古代ギリシャの人々の日常生活、そして死後の世界でも必要とされたオボル銀貨は、現在では古代の人々の経済活動と技術力の高さを知るうえで重要な史料となっています。非常に小さなコインですが、その繊細な彫刻に魅力を感じるコイン収集家も多いようです。
こんにちは。
すっかり春めいてきました。雨風激しい春の嵐の日もあれば、桜が舞う心地よい日和もあり、新しい季節の到来を感じます。
ちょうど一年前、世の中は未曾有の事態で騒然とし、落ち着いて春を感じることもなかったように思います。
昨今は聖火リレーもはじまり、変化しながらも色々なことが動き始めているようです。今年の春が平穏な季節になることを祈りばかりです。
さて、今回は古代ギリシャのテッサリアで発行されたスターテル銀貨をご紹介したいと思います。
テッサリア スターテル銀貨 (BC196-BC146)
表面にはギリシャ神話世界でお馴染みの大神ゼウス、裏面には武装したアテナ女神立像が打ち出されたコイン。古代ギリシャコインのデザインとして特に人気のあった二つの神が表現されています。およそ6.5g~6g前後、23mmほどの銀貨であり、裏面には発行地であるテッサリアを示す「ΘΕΣΣΑΛΩΝ」銘が配されています。
ちなみにこの武装した女神像は「アテナ・イトニア」と称され、テッサリア地方の都市イトンで祀られていたアテナ女神像に由来すると云われています。槍を構えるアテナ女神像は一般的に「パラス・アテナ」と呼ばれ、アテナイの神殿に祀られていた立像のほか、多くのギリシャコインのデザインとして一般的です。
テッサリア地方 (現在のギリシャの区分)
テッサリアは現在のギリシャ中部に位置する広い地域であり、険しい山並みが多いペロポネソス半島とは異なり平原が広がることから、古くより穀倉地帯として開発されていました。古代ギリシャ時代には牧畜が盛んであり、馬の名産地としてギリシャ諸都市に優れた軍馬や騎兵を送り出していました。こうした背景から、半人半馬のケンタウロスの伝説もテッサリアで生まれました。
また、ギリシャ神話の神々が住まうとされた聖なる山 オリンポス山があり、その北部にはマケドニアが位置していました。
テッサリア平原
南西から見たオリンポス山
広大なテッサリア地方には多くの都市がありましたが、特にラリッサ(現在のギリシャ、ラリサ県の首府)は中心都市として栄え、ニンフ「ラリッサ」の美しい正面像と馬が表現された芸術的コインでよく知られています。
ラリッサ ディドラクマ銀貨 (BC350-BC325)
ラリッサを中心とするテッサリア地方は、紀元前344年にマケドニア王国のフィリッポス2世(*テッサリアの「アルコン=保護者、統治者」を称した)によって征服され、息子アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の東方遠征にあたっては騎兵を供給して貢献しました。大王亡き後はマケドニア~ギリシャを支配したアンティゴノス朝に服属し、ある程度の自治権を有しながら伝統的な社会体制を維持していました。
アンティゴノス朝下の時代は100年以上にわたって続きますが、西から現れた新たな大国によって状況が変化します。紀元前197年、ティトゥス・クィントゥス・フラミニヌス率いるローマ軍と、フィリッポス5世のアンティゴノス朝マケドニア軍がテッサリア平原のキュノスケファライで激突。ローマ軍の勝利によってギリシャにおけるアンティゴノス朝の優位が崩れました。
紀元前200年頃のマケドニア~ギリシャ
ラリッサの南部にある赤い点がキュノスケファライ。アンティゴノス朝マケドニア王国はギリシャ諸都市を従属下に置き、アテナイやエリスなど独立を保った都市国家に対しても介入を深めていました。
ギリシャに進出したローマは「ギリシャ諸都市の解放」を謳い、反マケドニア感情の強い都市の支持を得ます。紀元前196年にイストミア祭の競技大会に出席したフラミニヌスは、この場でギリシャ人の自由を宣言しました。
宣言に当たってギリシャ諸都市はローマの同盟市となり、クリエンテス関係(=庇護者と被保護者の関係性)を結んだ後ローマ軍はギリシャから撤退しました。これは来るセレウコス朝シリアとの戦いに備えて後援を得たいという思惑があったにせよ、この宣言によって多くのギリシャ諸都市は100年以上にわたるマケドニア支配から解放されたのです。
ただ、ローマ軍に敗れたとはいえアンティゴノス朝マケドニアは未だギリシャ支配を諦めておらず、軍事力に乏しい諸都市はローマの庇護に頼らざるを得ませんでした。ローマはギリシャを直接支配することはなかったものの、社会的・経済的な再編成を迫って影響力を残し続けました。
こうした例の一つが、マケドニア支配から解放されたテッサリアの再編成でした。テッサリアにはラリッサやファキオン、ファルサロスやトリッカ、ラミア、スコトッサ、クランノンなど数多くの都市が存在しましたが、紀元前196年にローマは同盟関係を結んだ諸都市に緩やかな連合体を結成させ、統合された一つの共同体に再編成しました。形式上は独立した都市国家の連合体でしたが、実際にはローマがテッサリア地方を管理しやすくするためのまとまりでした。当初はラリッサをはじめとするいくつかの都市からスタートしましたが、徐々に加盟国を拡大させ、紀元前30年頃までにほぼ全てのテッサリア諸都市が連合に加盟しました。
このテッサリア諸都市連合では共通通貨としてのコインが新たに導入され、連合内の諸都市で流通させました。経済圏を統合し、地域全体の発展と統合を促す目的でしたが、これによって諸都市が有していた独自の通貨発行権は消滅し、ローマの経済圏に組み込まれることになりました。
コインは主に青銅貨やオボル銀貨、ドラクマ銀貨など、日常使いの小額貨幣が多く発行されましたが、特に重要なコインは冒頭でご紹介したスターテル銀貨でした。最高額面のコインであるスターテル銀貨はローマで発行されていたウィクトリアトゥス銀貨2枚の価値・重量に設定され、デザインもこのコインと類似した意匠が採用されました。
また、デナリウス銀貨と同じく二人の発行者名(*テッサリアの諸都市連合の場合はストラテゴス=毎年選出される行政の代表者「将軍」とも訳される)が連名で刻まれている点も特徴です。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨
表面は大神ユーピテル(*ギリシャ神話のゼウス神に相当)、裏面には戦勝トロフィーと勝利の女神ウィクトリア。第二次ポエニ戦争の時期に発行され、裏面のデザインから「ウィクトリアトゥス」と称されました。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨は後に主流となるデナリウス銀貨にとって代わられますが、重量などから2/3デナリウスの価値として流通していました。そのためテッサリアのスターテル銀貨2枚はローマのデナリウス銀貨3枚、ローマが小アジアで発行したキストフォリ銀貨1枚と等価となります。
スターテル銀貨はテッサリアの諸都市連合が共同で発行したという体裁のため、テッサリア名(ΘΕΣΣΑΛΩΝ)と連合のストラテゴス名が刻まれました。
そのため製造地名は刻まれていませんが、都市連合の盟主となった中心都市ラリッサの造幣所で製造されていたとみられます。
発掘数・埋蔵数の多さから長期間大量に製造され、当時のテッサリアではかなり広範囲で流通していたと考えられます。額面価値から傭兵の給与として、または商取引の決済として、蓄財・資産として頻繁に用いられたコインと思われますが、こうした流通性の高さはテッサリアの都市間で人とモノの流れを加速させ、ローマが狙った地域の統合に一役買ったはずです。
デザインは100年以上にわたって変化せず製造が続けられてきましたが、細部には微妙なバラエティの違いがみられ、彫刻造形や打ち出しにも差異がみられることから、収集と研究には尽きないコインでもあります。発行者名やデザインの手変わりを分析することで、ローマのデナリウス銀貨のようにそれぞれの具体的な発行年も推定できるのではないでしょうか。
なお、多くの古代コインは両面の上下が同じ向きになっている例は少ないのですが、テッサリアのスターテル銀貨の場合は、日本のコインと同じくほとんどが同方向です。また図像が縦長であるためか、コインの形状もやや楕円の縦長になっています。
表面に発行者名が刻まれたタイプ。裏面にももう一人の発行者名が配されており、共和政期のローマで発行されたデナリウス銀貨とよく似たスタイル。
かなり写実的に表現されたスタイル。表面はやや二重打ちのようにも見えます。
やや甘い打ちだしですが、図像はずれることなく表現されています。
独特な表現の図像。彫刻師の個性を感じさせる造形です。
アテナ女神が構える槍の先に、女神の象徴であるフクロウがとまっている珍しい構図。アテナ女神とフクロウの組み合わせはよくみられますが、戦いの象徴である槍の先端に、叡智の象徴であるフクロウを配したパターンはまずお目にかかれません。当時の彫刻師の遊び心が出ている、粋なアレンジといえるでしょう。
比較的、図像の線は太いものの、写実性も感じさせるスタイルです。
図像が収縮されたように小さい反面、細部の造型はより細かく表現されています。
表面の左側にモノグラム銘が配されたタイプ。彫刻師、または製造した場所を示すものとみられます。
第四次マケドニア戦争を経た紀元前146年にアカエア属州とマケドニア属州が設置され、ギリシャ~マケドニアはローマによる直接支配下に置かれました。テッサリアはローマの忠実な同盟市の連合体として存続しましたが、連合体の独立性は年々形骸化していきました。当初、ローマは「ギリシャ人の自由」を宣言し、解放者としてギリシャへ乗り込んできましたが、実際には支配者がマケドニアからローマへ移り変わっただけだったのです。
紀元前30年頃にテッサリア地方はアカイア属州に編入(*後にマケドニア属州へ組み換え)され、独自のスターテル銀貨発行は終わりを迎えます。以降、テッサリアでは属州銅貨の発行だけが許され、かつてのようなギリシャらしいデザインのコインを発行することはありませんでした。
なお、テッサリアのスターテル銀貨の発行年代は①都市連合の結成~第四次マケドニア戦争を期間とする「紀元前196年~紀元前146年」とするグループと、②第四次マケドニア戦争~属州編入を期間とするおおまかなグループ(*「Late 2nd-mid 1st centuries BC」などと表記)に分けられているようです。
こんにちは。
2月になってもまだまだ寒い日が続いています。来週以降は少しずつ暖かくなるようですので、もうしばらくの辛抱ですね。
一日も早い春の到来を待ち望んでいる今日この頃です。
今回は前回に引き続き「丑年」ということで「古代の牛コイン」をご紹介します。今回は古代ローマで発行された牛のコインです。
気候と土壌に恵まれたイタリア半島は古くから農耕が盛んであり、都市国家ローマも領域を拡大させるに従い、農地を開墾してゆきました。大都市で消費される食糧を供給する必要性からも、開墾・運搬に欠かせない牛は大切な労働力でした。
ローマの建国者とされるロムルスも自ら牛に鋤を牽かせて開墾し、ローマ建設の一歩を標したとされています。
一方で神々への供物としても頻繁に捧げられていたようで、儀式の最後には屠った牛を焼き、参加者大勢に振舞うことが一般化していたようです。こうした行事はローマの神々に対する祈念や感謝を示す為、国家や都市が主催する公的な宗教儀式でしたが、他方で現在のバーベーキューのようなお祭りとして人々の楽しみにもなっていました。
大神祇官として儀式を執り行うマルクス・アウレリウス帝
レリーフの人々の背後には犠牲獣である牛の姿が確認できます。
なお、牛乳は現在のように保存技術が発達していなかったためかあまり消費されず、主に山羊のミルクが飲まれていたとされています。保存食であるバターやチーズは山羊のミルクと同じく牛乳も使用されて作られ、女性の化粧品としても利用されていたそうです。
ローマにとって経済的・宗教的に欠かせない存在だった牛の姿は、共和政~帝政期にかけて発行されたコインにも頻繁に表現されています。その姿は儀式での犠牲獣として、または畑を耕す労働力として表現され、時には躍動感溢れる力強い姿で刻まれました。
ローマ BC105 デナリウス銀貨
躍動する牡牛像。手綱も無く、自由に飛び跳ねる活き活きとした姿です。表面は女王神ジュノー(ユノー)。山羊の皮を被る姿は「ユノー・ソスピタ(救済のジュノー)」と称され、女性や子どもたちを守護する女神像とされています。
ローマ BC81 デナリウス銀貨
岩の台の上に立つ人物と牡牛。中央部に聖火が灯された祭壇があることから儀式の様子とみられ、牛は神に捧げられる供物とみられます。また、表面のダイアナ女神像の頭上にも、小さな牛の頭が配されています。
ローマ BC81 デナリウス銀貨
表面は豊穣神セレス、裏面は鋤を曳く二頭の牛。右側には農夫が配され、畑を耕す様子であることが分かります。農業が主題となったデザインのコインであり、農業が重要視されていたことが分かります。
また、神話では建国者ロムルスが牡牛と牝牛に鋤を牽かせ、初期ローマの境界線を引いたと云われることから、神話上の場面を表現している可能性もあります。
牛に鋤を牽かせる構図は単なる農耕風景に留まらず、ローマ人にとっては新しい土地(=入植地)の開墾、新都市の建設を想起させました。
ローマ BC45 デナリウス銀貨
表面にはアポロ神、裏面には古代ギリシャの伝説「エウロペの誘拐」が表現されています。フェニキア、テュロスの王女エウロペに見惚れたゼウス神が美しい白牛に変身し、エウロペを背に乗せてクレタ島へ連れ去ったとする伝承はギリシャ・ローマでも広く知られ、壺絵や壁画など様々な芸術作品の題材に取り上げられています。
コイン上に表現される例は稀ですが、牛に乗った乙女像という基本的な構図はそのまま再現されています。
ポンペイの壁画に描かれたエウロペ
エウロペを乗せた牛が渡ったクレタ島はフェニキアから見て西方にあたり、そこから地中海北西の地域をEurope(ヨーロッパ)と称するようになったと云われます。
現在、エウロペ像はユーロ紙幣の透かし部分の共通デザインとして採用されています。
ゼウス神とエウロペの間にはミノスが生まれ、彼はクレタ島の王となります。しかし海神ポセイドンから賜った美しい牡牛を供物として捧げることを拒否したため、罰として王妃はその牡牛に恋心を抱き、やがて牛の頭を持った王子が誕生することとなります。王子ミノタウロスを恐れたミノス王は彼を閉じ込める為、迷宮ラビリンスを建設したのでした。
クレタ島の伝説には「牡牛」が重要な場面で度々登場し、人間界と神々の世界を繋ぐ存在として語られていることが読み取れます。
ローマ BC42 デナリウス銀貨
暗殺されたユリウス・カエサルが神格化された年に発行。カエサルの横顔肖像と跳ねる牡牛が表現されたコイン。
ローマ帝国 BC15 デナリウス銀貨
カエサルの後継者アウグストゥス(オクタヴィアヌス)の治世下に発行。頭を下げて上体を前方に傾け、敵に向かって突進する構えの牡牛が表現されています。ガリアの植民都市であるルグドゥノム(現:フランス,リヨン市)で製造された一枚。
ローマ帝国 AD77-AD78 デナリウス銀貨
皇帝ウェスパシアヌスの治世下に発行。表面には息子ティトゥス、裏面には鋤を牽く二頭の牛が表現されています。共和政期に発行されたコインとほぼ同じ構図です。
ローマ帝国 AD362-AD363 2マイオリナ
ユリアヌス帝の治世下、帝都コンスタンティノポリスで製造。キリスト教が拡大した時代、ユリアヌス帝はギリシャ・ローマの伝統宗教を復興させようとし「背教者」の異名で称されました。軍隊生活を経たユリアヌス帝は、当時兵士たちの間で信仰されていた東方由来のミトラス教に傾倒し、兵士たちと共に儀式に参加していました。
牡牛を屠るミトラス (2世紀頃, 大英博物館蔵)
ミトラス教では牡牛が犠牲獣とされ、ギリシャ・ローマと同じく儀式では牛が屠られました。こうした特徴から、コインに表現された牡牛はミトラス教の犠牲獣として示されているという説が有力です。また、星の下にある構図から、ユリアヌス帝が牡牛座の生まれであることを表しているとする説もあります。
多神教を信奉した最後のローマ皇帝とされるユリアヌス帝が戦死すると、ローマ帝国のキリスト教化は急速に進み、古代ギリシャ・ローマの神殿や聖域は教会へと変えられていきました。テオドシウス帝によってキリスト教がローマの国教に定められると、従来の儀式や信仰は禁止され、多神教は急速に衰退して行きます。
その過程で牛も犠牲獣として供えられることは無くなり、その後は宗教的役割から離れて純粋な経済動物として発展していくことになるのです。
こんにちは。
1月も終わりに近づいてきました。
お正月気分はあっという間ですが、寒さはまだまだ続きそうです。
今年は「丑年」ということで、古代ギリシャ・ローマ時代のコインに表現された牛たちをご紹介します。
世界中で牛は古くから狩猟の対象になり、やがて家畜化されて人間社会には欠かせない動物になりました。肉や牛乳などのたんぱく質を得るだけでなく、畑を耕したり車を牽いたりするための労働力としても重宝されてきました。
多くのものを産み出す牛は経済動物として取引され、貨幣経済が発達する以前の社会では財産そのものとして認識されていました。
世界最初の銀貨とされるリディアのコインにも、ライオンと対峙する牛が表現されています。ライオンは王の権威を示しているのに対し、牛は国土の肥沃さや富を象徴していると考えられています。
リディア サルデス BC545-BC520 シグロス(1/2スターテル)銀貨
古代ギリシャでも牛は重要視され、儀式での神々への供物として用いられた他、ミノタウロスをはじめゼウス神、ポセイドン神、アポロ神やヘルメス神など、数多くの神話にも登場します。
以下では古代ギリシャの各地で発行された、牛のコインをご紹介します。
【イタリア半島~シチリア島】
ルカニア シバリス BC525-BC510 スターテル銀貨
ルカニア トゥリオイ BC443-BC400 ノモス銀貨
イタリア半島に入植したギリシャ人たちは肥沃な土地を開拓し、豊かな穀倉地帯に発展させました。その過程で牛は開墾に必要な労働力とされ、肉はエネルギー源にされました。
ルカニア ポセイドニア BC470-BC445 スターテル銀貨
牛はポセイドン神の聖獣とされ、儀式での供物としても牛が捧げられていました。
カンパニア ネアポリス BC320-BC275 スターテル銀貨
シチリア島 ゲラ BC420-BC415 テトラドラクマ銀貨
古代ギリシャでは川の神を「男性の顔をした牛」として表現する例が多く見られます。スフィンクスや日本の妖怪「件」とよく似た姿であり、動物と人間が合成した珍しい表現です。
【ギリシャ北部】
テッサリア ラリッサ BC370-BC360 ドラクマ銀貨
テッサリア ファルカドン BC440-BC400 ヘミドラクマ銀貨
テッサリア平原は古くから牧畜が行われ、牛を追うために馬の飼育も盛んに行われました。コインには牛を捕まえるテッサロス(*テッサリアの名祖とされる伝説上の王)が表現されています。
イリュリア デュラキウム BC340-BC280 スターテル銀貨
マケドニア アカントス BC470-BC390 テトロボル銀貨
ポーキス BC354-BC352 トリオボル銀貨
アポロ神は牧畜の神でもあり、牛の世話をしていたところヘルメス神に50頭の牛を盗まれてしまった神話が語られました。この時、ヘルメスは見事な竪琴を作成してアポロに贈り、許しを得たとされています。コインにはアポロ神の肖像の横に、小さな竪琴が確認できます。
【黒海】
トラキア ビザンティオン BC340-BC320 ドラクマ銀貨
ビザンティオンが位置するボスポラス海峡の名は「牝牛の渡渉」を意味し、かつてゼウス神が不倫相手のイオを牝牛に変身させた際、正妻のヘラ女神が虻を放ってこれを追わせ、海峡を渡らせた神話に由来しています。
コインにはイルカに乗るような姿で前足を上げる牝牛が表現され、海峡を渡るイオの姿に重ねられています。
ボスポロス王国 パンティカパイオン BC325-BC310 銅貨
【小アジア】
レスボス島 ミュティレネ BC521-BC478 ヘクテ貨
レスボス島 ミュティレネ BC454-BC427 ヘクテ貨
キリキア タルソス BC361-BC334 スターテル銀貨
小アジアのリディアから始まったコインの文化は、その後各地へと伝播しましたが、小アジアでは牛とライオンの組み合わせが様式を変えながら多く表現されました。
【オリエント~インド】
バクトリア王国 BC180-BC160 ドラクマ銀貨
インド・スキタイ王国 BC58-BC12 ウニット銅貨
アレクサンドロス3世による東方遠征後、ギリシャ文化を継承した諸王国によってオリエント~インドでギリシャ風のコインが発行されました。そこにはインドで広く見られる「コブウシ」が表現されたものが多く見られます。
古代インダス文明の時代からコブウシは南アジアで広く飼育され、バラモン教やヒンドゥー教では神の使いとして神聖視されてきました。ヘレニズム時代に生み出されたこれらのコインは、外来のギリシャ文化と現地のオリエント文化が巧みに融合した例といえるでしょう。
次回は古代の牛コイン第二弾【古代ローマ編】をご紹介します。
投稿情報: 17:42 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
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