今回で連載3回目となります、「アール・クラシック」。かの有名なアレキサンダー大王がギリシャに現れて以後、ギリシャは空前の大帝国となります!最盛期のギリシャでどのような文化が生まれ、どのように成熟したのかを今回は追ってみましょう!
“すべての美術はギリシャへとつながる”
ペルシアの支配下におかれた小アジアのポリスを、再び解放するというギリシヤ人の悲願を叶える為ため、アレクサンドロスは紀元前334年、東征に出発します。
逃げるグレイオス3世を討ち果たした時、大王はさらなる野望を持ち始め、ついにインダス川に達するほどに支配を広げました。史上空前の大帝国の誕生です。しかし、彼の死は突然訪れました...紀元前323年、東征の帰途にバビロンで急死し、彼の帝国は武将たちによって分割されることになりました。
この頃、ギリシヤ文化はエジプト・ペルシヤはもちろん、北西インドに至る全オリエントに波及していました。アレクサンドロスはオリエント諸族を思い通りに動かし、東西の宥和を試みましたが、次第に逆にオリエントからの影響をギリシャは受け始めてしまいました。ギリシャには当時、絶対的権力を持つ王を神格化する風習があり、アレクサンドロスを神格化した彼の武将たちは、やがて自らをも神格化しはじめました。ギリシヤではその文化をオリエントに輸出しましたが、思想は受け入れられず、逆にオリエントの文化の影響を受けることになってしまいました。
この時代から、ローマの覇者オクタヴィアヌス(前27年、アウグストゥス帝)によるローマ帝国成立までをヘレニズム期といいます。この時代はギリシヤ(ヘラス)文化の全世界への拡散の時代でもありました。ギリシヤ文化の広がりの結果、皆さんもご存じの通り、数世紀を経てインドから日本の文化にまで影響を与えることになったのです。
神格化されたヘレニズム諸王は、専制君主となり、諸ポリスの権利より国家の権利を優先するようになりました。この時期においても有力ポリスは、独立あるいは半独立状態にありましたが、もはや大領土を効率的に支配する王国には対抗しえず、ポリスは自由を喪失することとなりました。その後、紀元前2世紀初期、ローマの力を借りて一時的にマケドニアやセレウコス朝からの束縛を離れ、ポリスは再独立を果たしますが、やがてローマに全てを奪われることになります。
マグナ・グラエキア(南イタリアのギリシヤ植民地)は、アレクサンドロスの征服戦争、戦後を通じ独立を保ちましたが、これを狙うローマとカルタゴとの2度にわたる戦争を通じ、紀元前3世紀の末、第2ポエニ戦争ですべての領土をローマに占領され、一足先に歴史の表舞台から去ることになりました。
ヘレニズム期の彫刻の特徴はクラシック期にも増して緻密、繊細になり、神々だけでなく、実在の人物も多く彫刻に残したのです。彼らは神々と違い個人的特徴を持っており、よりリアルに表現されました。反面、あまりにも感情的な興奮や、激しく奮闘的な動作は完全な美しさと共に、しばしば作為的な印象を与えます。これ以上改良の余地がほとんどなくなった時、ギリシヤ時代に終わりを告げる出来事が起きます。
ティベール川ほとりの7つの丘から興ったローマは、紀元前3世紀初めには南イタリアのギリシヤ植民地と国境を接するようになります。軍事的、政治的には大国になったローマですが、文化的には依然として後進的な農業国だったのです。ギリシヤ美術に絶対的な憧憬の念を抱いていたローマ人はギリシヤの世界を征服しつつ、その富と人材を奪っていきました。ローマ美術が、ギリシヤ美術とよく似ているゆえんですが、ローマ人は模倣するだけでなく、自らの必要に応じてギリシヤの形式を変化させたので、そこは紛れもなくローマ美術の特徴があります。ギリシヤ人は創造性に富んだ思索家ですが、ローマ人は実用性を重んじる技術者だったのです。ギリシヤの理想主義とローマの実証主義との結合は、新しい価値観を生み出し、古代からのメッセージを後世に伝えたのです。眠っていた種は、ルネッサンス以降、再び芽をだし、全ヨーロッパ、そして全世界に花を咲かせるのです。
その人類の遺産“アール・クラシック”は、今日、その建築物、彫像の多くは朽ち果て、絵画はほとんど消失しました。また、残る名品はそのほとんどが国宝に指定され、多くの博物館、美術館の門外不出のコレクションとなっています。その中で唯一例外的に往時を偲ぶ完全な形態を保っているのがコインです。コインは一国の威信にかけて製造され、年代の特定がある程度可能なため、歴史を調べる手がかりになるだけでなく、彫刻の技術と感性に深く関連していることから失われた作品に代れる文化遺産であり、美術品なのです。
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