前回に引き続き、『ビザンチン帝国の歴史』について書いていきたいと思います。
今回はビザンチン帝国の歴史全体を通した政治体制、文化などの特徴を説明していきます。
ビザンチン帝国の特徴
初期、名君アナスタシウス1世のもとで、力を蓄えたビザンツ帝国こと東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス1世の時代にアフリカのヴァンダル王国、北イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、西ゴート王国からスペインの一部を奪って、ローマ帝国の旧領を回復させました。
この時から東ローマ帝国再びローマ帝国と自らを称するようになります。
ビザンツ帝国の全盛期とも思えるこのユスティニアヌス1世の時代に、帝は「ローマ法大全」を編纂させました。また、首都コンスタンティノープルにはハギア=ソフィア聖堂も建設するなど、その時代の叡智ともいうべき素晴らしい時代を作り上げました。
ハギア=ソフィア聖堂は「神聖なる叡智」を意味し、この大聖堂をユスティニアヌス帝は532年よりわずか5年で完成させました。この時に、帝は「ソロモンよ、われ汝に勝てり」といったといわれており、帝の自信の大きさを知ることができます。時代と共にこの大聖堂は、イスラム教のモスクとなり、アヤ=ソフィアと呼ばれるようになりました。
東ローマ帝国の政治体制は、中央集権的な官僚制度が敷かれ、その時代の西ヨーロッパ諸国が封建制度だったことと比べると、その違いが分かります。
また、東ローマ皇帝はギリシャ正教会の頭を兼ねていて、政権と教権とが同一にある時代でした。経済は、商工業が盛んで、そのためもありコンスタンティノープルは大都市になったといっても過言ではありません。
文化は地理的にギリシャ・オリエントと近かったせいもあり、ギリシャ文化を継承し、西ヨーロッパ諸国とは違うビザンツの文化」が作り上げられました。
宗教面では、前述したとおりギリシャ正教の台頭がしてきました。このギリシャ正教というのは正式には東方正教という名前ですが、ギリシャ文化を背景とした正当なキリスト教という意味でギリシャ正教と呼ばれます。帝国滅亡後は、総主教座はモスクワへと移されてしまいます。
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