こんばんは!
今週で第五回を迎える「ギリシャコインの世界」・・・
どうぞ楽しんでください!
ギリシャ史概論と貨幣の発展⑤
本来のマケドニア王国の他に、『ディアドコイ(後継者戦争)』から、アレキサンダーの領地の大部分を占めるふたつの大きな王国が誕生した。プトレマイオスを祖とするエジプト王国と、セレウコスの治めるセレウコス王国である。
セレウコス王朝は、前3世紀の中頃に東方のバクトリア州とパルシェ州がそれぞれ独立するに至って分裂する。パルシェは、ローマ帝国の東隣に位置して、ほぼ5世紀間にわたってローマ帝国にとって厄介な隣人となった。
一方、西方ではローマの勢力が急速に成長した。ローマは、第一次ポエニ戦争(BC241年)でカルタゴに勝利した後シシリーを最初の属州にし、さらに前2世紀末にはスペインを属州とした。同じ頃、野心に燃えるフィリップ5世が治めるマケドニアとの最初の戦いが始まった。
前197年、ローマは、キュノスケファライの戦いでフィリップ5世に大打撃を与えた。ローマの将軍フラミニウスは、翌年のイストモス祭典で“ギリシャの自由”を宣言した。しかし、実際には、ギリシャは新しい強力な支配者に従属させられたに過ぎなかった。かつての誇り高きマケドニア王国は、フィリップ5世とその子ペルセウスの下でさらに30年間細々と生き長らえたが、前168年、ついにローマによって滅亡させられた。
前146年、マケドニアは四つの共和国に分けられ一介の属州の地位に没落した。
ローマは、他のヘレニズム王国とも戦争をした。キュノスケファライでマケドニアを破った後は、セレウコス王国が次の相手となった。ローマと激しく対立したアンティオコス3世(BC223〜187)は、アイトリア人の誘いを受けて前92年にギリシャに侵攻した。しかし、テルモフィの戦いで敗北し、アンティオコス3世は小アジアに逃れた。ローマは、容赦なく彼を追跡し、前190年にマグネシア(カリア)の戦いでセレウコスの戦力は壊滅させられた。
小アジア半島のセレウコスの属国の多くは、ローマの同盟国ペルガモンのエウメネス王に譲られた。この一連の戦いでシリアとその周辺だけとなったセレウコス王国は、もう1世紀ほど細々と存続したが、前64年にボマリー王の治世の時に降伏した。
もう一つのヘレニズム王国エジプトは、地理的にローマから遠く離れていた。しかし、2世紀初頭から東地中海を支配していたローマにとって、ギリシャ系のエジプトの権力者と友好関係を維持することは必要なことであった。この政策のおかげで、プトレマイオス朝は、ヘレニズム世界で最も長く続いたギリシャ王朝となった。ローマは直接エジプトに干渉する事は無かったが、前48年にシーザーがポンペイウスを追跡しアレキサンドリアに入り、女王クレオパトラと弟プトレマイの王座争いに巻き込まれた。この後のクレオパトラとシーザーそしてマーク・アントニウスの物語は、よく知られているのでここで詳しく話す必要はないであろう。この出来事の結果、300年続いたエジプトに於けるギリシャ系王朝は終末を迎えた。それ以降、エジプトはローマ帝国の一部となり皇帝の個人的な領地として治められた。
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
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