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台風が通過しましたが、皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたでしょうか。
台風一過で、少しずつ冷え込みが深まっていくように感じられます。
御身体には十分お気をつけ下さい。
さて、今回は「近代コインに描かれた人々」シリーズ第3弾です。
今回は、アメリカの建国の父達の一人に数えられている、ベンジャミン・フランクリンの御紹介です。
フランクリンといえば、理科の教科書でも御馴染のエピソード、「雷雨の夜に凧揚げ⇒雷を凧に落とす⇒雷は電気であると証明⇒避雷針を発明」で有名ですね。
また、先日アメリカで新100ドル紙幣が発行されましたが、アメリカの紙幣や切手には古くからフランクリンの肖像が描かれていました。
今回は、マルチな才能を発揮し、独立前後のアメリカに貢献したフランクリンと、彼の描かれたコインのお話です。
<近代コインに描かれた人々>
第3回:アメリカン・ドリームの体現者
ベンジャミン・フランクリン (アメリカ合衆国)
Benjamin Franklin
(1706年~1790年)
ベンジャミン・フランクリンは、1706年1月17日、ボストンの蝋燭・石鹸職人の家庭に生まれました。
彼は17人兄弟・姉妹の15番目として育ち、父のように職人となる為、実務的な教育を受けました。
ベンジャミン・フランクリンはわずか2年しか学校教育を受けていませんでしたが、本を読むことが大好きで、その気性に向いた仕事として兄ジェイムズの営む「印刷屋」を選び、弟子入りしました。
大柄で肩幅も広く、頑丈だったベンジャミンは、印刷のきつい仕事に向いており、将来的には印刷屋として大成すると父親は思っていたようです。
印刷工見習いとして働く若き日のベンジャミン・フランクリン
しかし、この「印刷屋」という仕事は、彼のその後の人生と、まだ英国の植民地だったアメリカの運命を変えることになります。
1721年、兄ジェイムズは自身の新聞『ニューイングランド・クーラント』を創刊。ベンジャミン・フランクリンは、その新聞の中で評論の執筆を任されます。
これによって、彼の作家人生が始まり、多方面に興味を持った彼は独学ながら、言論、哲学、政治、自然科学等の学問を学び始めたのです。
印刷業という仕事柄、様々な主張・趣旨の新聞、雑誌、専門書、パンフレットの類に至るまで、数多くの書物に触れる機会に恵まれたことも、若き日のフランクリンにとって最良の環境でした。
その後、フランクリンは様々な社会的活動にも関心を示し、多くの著作や論評を発表したことで、次第に植民地アメリカ社会でも注目される存在となります。
1731年には、フィラデルフィアにアメリカ初の公立図書館を開設。幼いころから自然や人間、社会、科学等に興味を持ち、本を愛していたフランクリンらしい事業ですが、この図書館が成功事例となり、その後続々と図書館が開設されることになります。
また、前述の避雷針発明だけでなく、フランクリンはロッキングチェア(揺り椅子)、遠近両用眼鏡、改良ストーブ等を発明しており、「発明家」としての一面をみせていました。
しかし、これらの発明品を見ても分かる通り、彼は実用的なものを重視する性格で、質素・倹約を重んじる性質の持ち主でした。
印刷業者として経営者としての一面もあったフランクリンは、自らを律し、社会に貢献することを常に考えていました。
前述の図書館開設もその一環だったのです。
また、常日頃から摂生を心掛る菜食主義者でもありました。ただ、彼は大きな魚が捌かれ、その腹の中から小さな魚が出てきたのを見て、「魚が共食いをしているのだから、私が我慢する理由はないだろう」という理屈になり、魚(特に鱈)だけはよく食べていたという、人間らしいエピソードもあります。
自らに厳しく、社会への貢献を重視する知識人フランクリンに対する人々の評価は高まっていきました。
やがて公職に意欲を示すようになったフランクリンは、1748年に植民地議会議員に転身。
公職にある身として、学校建設や郵政事業等、様々な社会事業を推進します。
それまでフランクリンは、植民地アメリカにあって地元の名士として活躍していた訳ですが、彼は基本的に「英国紳士」としての意識を持っており、宗主国である英国と英国国王に対して敬意を払っていたようです。
しかし、地元社会をより良くする為、公職の地位を経験し、様々な社会事業に携わったことで、政治家としてのフランクリンは「英国人」ではなく、地元を愛し、地元の利益の為に行動する「アメリカ人」としての意識を向上させていきました。
1750年代以降、植民地アメリカと本国イギリスは税金を巡る問題等から対立を引き起こすようになります。
フランクリンは植民地の立場を代表して英国政府と交渉する為、英国の首都ロンドンに渡ります。
印刷工時代に、修行の一環で英国に滞在した経験のあるフランクリンでしたが、この時から本格的な「外交官」として、ネゴシエーターの役割を体得していきました。
1760年代になると、本国からかけられる税が増えたことで植民地の反英世論はより過激になり、ついに英国からの「独立」を求める声も高まりました。
1774年、アメリカにある英国植民地の代表が集まる「大陸会議」がフィラデルフィアで発足し、本国との関係を巡る議論が行われるようになります。フランクリンは翌年の第2回大陸会議から参加しました。
会議には、ジョージ・ワシントン(後の初代大統領)、ジョン・アダムズ(後の第2代大統領)、トマス・ジェファーソン(独立宣言起草者、後の第3代大統領)、ジェイムズ・マディソン(後の第4代大統領)、アレクサンダー・ハミルトン(後の初代財務長官)といった、後に「建国の父達」と呼ばれる人々が集まり、議論を交わしていましたが、フランクリンはその中でも最年長でした。
ワシントンよりも26歳、ジョン・アダムズより29歳、ジェファーソンより37歳、マディソンやハミルトンより50歳近く年上のフランクリンは、この時既に70歳になろうとしていました。
しかし、アメリカの市民兵とイギリス軍は既に武力衝突しており、第2回大陸会議ではジョージ・ワシントンを軍の最高司令官に任命する決議が行われました。アメリカ独立戦争が本格的に始まったのです。
フランクリンは初代郵政長官に任命されますが、ジェファーソンと共に独立宣言の起草と署名を行い、1776年7月4日に「アメリカ独立宣言」を発布します。
これが、現代も続くアメリカ合衆国の「独立記念日」です。
『独立宣言の署名』(ジョン・トランブル 画 1819年)
書類を議長に差し出す赤いベストの人物がジョージ・ワシントン。
その右奥の、白髪・長髪の人物がベンジャミン・フランクリン。
場所はフィラデルフィアのペンシルヴェニア州議事堂(現:独立記念館)。
フランクリンは劣勢のアメリカ軍への援助を得るため、ルイ16世治世下のフランスに渡ります。
老練で巧みな交渉術によって、1778年2月にフランスから援助と独立承認を引き出したばかりでなく、スペインやロシアの武装中立宣言も獲得し、英国を欧州内で孤立させることに成功します。
フランス滞在中のフランクリン
毛皮の帽子に丸メガネという野暮ったい装いは、フランス宮廷人のイメージする「アメリカ人」そのものだった。フランクリンは、そのイメージに忠実に沿うことで、彼らの人気を得ることができた。
激しい戦いの末、1783年9月、米英両国はパリで平和条約を締結。米国は独立を達成したばかりでなく、アパラチア山脈からミシシッピ河流域に至る広大な英国領、カナダ沿岸の漁業権までを獲得します。
このとき、フランクリンは、米国側全権として英国との交渉にあたりました。
アメリカ合衆国の独立後も、フランクリンは議会の中心的役割を担い、新生国家中枢の調整役として務めました。
1787年の合衆国憲法制定にも尽力したフランクリンは、1790年4月17日、84歳でこの世を去りました。
彼は遺言で、縁あるボストンとフィラデルフィアの両市に対して、「若い職人が、自身の人生を見習うように」という願いから、遺産の一部を寄付しました。
両市は、フランクリンの寄付金を元手に、若い機械工職人が商売を始めるための貸付財源基金を立ち上げ、現在も尚続いています。
街角の印刷職人から、文筆家、起業家、発明家、科学者、思想家、政治家、外交官になったフランクリンは、まさに「アメリカン・ドリーム」の先駆けといえるでしょう。
フランクリンはその生涯を通じ、知的好奇心と社会貢献に対して活発な働きをみせましたが、常に謙虚な立ち振る舞いであり、自らに権力を集中させることを嫌っていました。
強いリーダーシップを発揮するというよりも、最年長として組織内外の「調整役」に適した人格者だったのです。
それは、ジョージ・ワシントンをはじめとする他の建国の父達や、アメリカ人の理想のリーダー像とは違い、庶民的で目立たない一面もありますが、飾らず親しみやすいインテリのフランクリンは、一般庶民に人気がありました。
特に、貧しい職人の子だったフランクリンが、独学によって様々な知識と機会、そして多くに人の信頼を得て、国家を動かし、歴史に名を残す大人物となったストーリーは、後世のアメリカ人の道徳的理想、アメリカン・ドリームの体現者に他なりませんでした。
「自由と平等と権利」を標榜して建国されたアメリカですが、実際には植民地時代から明確なヒエラルキーが存在しており、ワシントンやジェファーソン等、独立の立役者となった軍人、または政治家たちは、奴隷を多く所有し、広大な農場と資産を持った「大地主」、つまり事実上の貴族階級の出身者でした。
フランクリンのように、自身の才覚と機会のみで出世した人物は、当時では珍しい存在だったのです。
アメリカ合衆国初代郵政長官のフランクリンは、19世紀からアメリカの郵便切手の肖像に頻繁に登場した。
後の世代のことまで考えた彼の生き方は、社会的成功を収めた者の義務としての社会貢献を重んじる、アメリカの美学の模範として、現代も尚尊敬され続けているのです。
フランクリンが描かれたコインは、1948年から1963年にかけて発行されたハーフダラー(50セント)銀貨が有名です。
アメリカ合衆国 ハーフダラー銀貨(KM199) 1957年銘
サイズは30,6mm、重量12,34g、銀含は900/1000。
表面にはベンジャミン・フランクリンの肖像、裏面には大陸会議が開催された、フィラデルフィア市の旧ペンシルヴェニア州議会議事堂、現在の「独立記念館」にある「自由の鐘」と、小さなハクトウワシが描かれています。
尚、表面には「Liberty」「In God We Trust」、裏面には「E Pluribus Unum」という、アメリカ合衆国のモットーが刻印されています。
裏面の自由の鐘をよく観察すると、真ん中にヒビがはいっていることが分かります。これは、コインに傷がついているわけではなく、実際の自由の鐘に大きなヒビが入っていることから、忠実に再現した結果なのです。
このヒビ割れた「自由の鐘」は、植民地時代にイギリスで製造され、アメリカに持ち込まれたものでした。
アメリカ独立200周年の1976年7月4日、イギリスから独立200周年を記念して、新しい「自由の鐘」がアメリカに贈られ、米英の新しい関係を象徴する友好のしるしになりました。(実は1958年に、イギリスはフィラデルフィア市役所に対して「無償でひび割れを修繕する。」と申し出ていたのですが、市役所が「誰も望んでいない」という理由で断っていました。)
この独立200周年記念の際、オリジナルの「自由の鐘」を製造したイギリスの会社前で、約30人のアメリカ人が「ひび割れた鐘の保証」を求める抗議活動を行いましたが、製造元の会社側は、「発送時の梱包のまま、送料を御負担頂けるのであれば、返品に応じます。」と回答し、アメリカ人達を追い返したと言われています。
この自由の鐘がある独立記念館は世界遺産に登録され、フランクリンが描かれている100ドル紙幣の裏面にデザインされています。また、先日流通が開始された新100ドル紙幣には、「自由の鐘」のモチーフが偽造防止技術の一環として利用されています。
ちなみに、フランクリンが活躍した建国当初のアメリカでは、コインの肖像をどうするか、激しい議論がありました。
議会上院は初代大統領ワシントンを描く方針を主張しましたが、下院は旧宗主国英国コインの「国王」を連想させ、共和制の国家には相応しくないとして「自由の女神」を描くことを主張しました。
アメリカコインの「自由の女神」
左から、1セント銅貨(1826年 KM45)、ハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、1ドル銀貨(1921年 通称“モルガン・ダラー”)
左から1ドル銀貨(1923年 通称“ピース・ダラー”)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142 通称“ウォーキング・リバティ”)、20ドル金貨(1927年 “ウォーキング・リバティ”別タイプ)
このように、時代やデザイナーの変化によって、様々なタイプの「自由の女神」が存在します。
結局、コインの肖像は「自由の女神」で決着し、その後女神像のデザインを変更しつつも、20世紀前半に至るまでその慣習が継続されました。
また、裏面はアメリカの国鳥「ハクトウワシ」がデザインされましたが、「表面=自由の女神」「裏面=ハクトウワシ」という組み合わせは、銀貨と金貨の上では約1世紀にわたって守られ続けていました。
ちなみに、アメリカの国鳥を決定する際、フランクリンは「勇猛果敢に侵入者を撃退する鳥」という主張を以って「七面鳥」を推していたようですが、ハクトウワシの前に却下されてしまいました。
もし、フランクリンの意見がさいようされていれば、コインの裏面はハクトウワシではなく七面鳥だったのかもしれません。
アメリカコインの「ハクトウワシ」
左からハーフダラー銀貨(1871年 KM99)、ハーフダラー銀貨(1942年 KM142)、20ドル金貨(1927年)
左から1ドル銀貨(1921年)、1ドル銀貨(1923年)、20ドル金貨(1896年)
さらにアメリカのコインには、決まって「Liberty(自由)」という単語が入っていますが、これは1792年に制定された貨幣法に、「鋳貨の表面には、自由という語の刻銘とともに、自由を象徴する図案を入れる」ことを定めた条文がある為であり、自由の女神像とともにコインの上で、アメリカの理念を示すものとなっていました。
現在でもこの慣習はコインの上で継承されており、「Liberty(自由)」と共に「In God We Trust(我々は神を信ずる)」「E Pluribus Unum(ラテン語で“多数から成る一つ”の意味。アメリカ合衆国の国是)」も、全てのコインに刻銘されています。
フランクリンは、節約家であり、勉強家でもあったわけですが、彼の名言に「Time is Money(時は金なり)」という有名な格言があります。まさに、彼の行動原理と信念、そして生き様を端的に表現した一言といえます。
立身出世には常日頃から、自らを厳しく律し、意識的に生活することが必要不可欠であることを、自身の行動と言葉によって説いたフランクリンの教えは、現代の私達にとっても重要な心得となりえるでしょう。
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