こんにちは。
10月も終わりに近づき、段々と寒くなってきました。冬の到来はもうすぐですね。
季節の変わり目、そしてこのご時勢ですので、体調管理にはくれぐれも気をつけていただきたいと思います。
最近、国際ニュースではアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が話題になっています。先日にはようやく停戦合意が発効しましたが、両国の対立は根深く、まだまだ予断を許さない緊張状態が続いている模様です。
新たな停戦合意が発効 アゼルバイジャンとアルメニア
(Yahoo!ニュース 10/18配信)
カフカース(コーカサス)に位置する両国は、かつては共に旧ソ連の構成国でしたが、独立後はナゴルノ・カラバフ地域の帰属を巡って対立し続けています。ロシアやトルコなど、周辺の大国の影響も複雑に絡み合い、地域的な民族紛争という枠には収まらないようです。
こうした国際情勢の構図は現代だけでなく、古代から存在し続けていました。
黒海とカスピ海の間にあり、北にロシア、南にイラン、西にトルコを控えるカフカース地方は、古来より文明文化の十字路として重要視されていました。
特にアルメニアは紀元前6世紀頃からギリシャのコインが流通するなど、経済的にも繁栄していました。紀元前2世紀にアルメニアは統一王国となり、シリアや小アジアにまで勢力を拡大させるほどの大国に成長します。
しかし紀元前1世紀半ば以降、小アジア~シリアに勢力を伸ばしたローマとの戦いに敗れ、征服地を放棄する代わりにローマの同盟国として存続を許されました。
紀元前69年頃のアルメニア王国
その後、アルメニアはローマとパルティアの緩衝国として存続していましたが、国内はローマ派、パルティア派に分かれ権力闘争が相次ぎ、その度にローマとパルティアの戦争に巻き込まれました。ネロ帝の時代にはパルティア派が推戴する王をローマ皇帝が戴冠する形式が生まれ、ローマ・パルティア両国の属国として平和を維持しました。
しかしトラヤヌス帝の時代になるとパルティアはアルメニアへの干渉を強めたため、ローマ軍はアルメニアを占領し属州化します。その後、トラヤヌス帝の死去に伴いローマ軍は撤退し、アルメニアの独立も回復されますが、マルクス・アウレリウス帝の治世初期、再びパルティアがアルメニアへの干渉を始めたため戦端が開かれることになったのです。
国内外に平穏な時代をもたらしたアントニヌス・ピウス帝が崩御した161年、パルティア王ヴォロガセス4世はアルメニアへ侵攻し、配下の将軍アウレリアス・パコルスを王位に就けました。
ローマにとって東方の国境を脅かす深刻な事態であり、即位したばかりの若きマルクス・アウレリウスは対応を迫られました。マルクスは義弟であり共同統治帝のルキウス・ウェルスを司令官として派遣し、アルメニアからパルティアの勢力を軍事力で駆逐する方針を採りました。
マルクス・アウレリウス帝&ルキウス・ウェルス帝
162年にルキウス率いるローマ軍はシリアに到着し、そのままアルメニアへ向けて進軍。163年には首都アルタクサタ(現:アルメニア,アルタシャト)を陥落させ、アウレリアス・パコルスを追放してローマ派のソハエムスを王に就けました。また、メソポタミア方面へ進軍したローマ軍はパルティアの首都クテシフォンを占領し、目覚しい成功を収めました。
ただこうした成功はルキウス帝によってではなく、配下に優秀な将軍たちが揃っていたためと解釈されました。元来享楽的なルキウス帝は司令官としての役割を半ば放棄し、前線から遠く離れたシリアに滞在し続けていたと云われています。楽観的な性格によって軍の指揮を鼓舞することもありましたが、安全な後方でお気に入りの役者や美女に囲まれているルキウス帝を批判的に見る向きも多かったようです。
それでもアルメニアの回復とパルティアに大打撃を加えるという当初の目的は達成されたため、ローマ軍としては大勝利でした。この功績に対し、ローマの元老院はルキウス・ウェルス帝に「アルメニクス(アルメニア征服将軍)」「パルティクス・マクシムス(パルティア征服大将軍)」の称号を授けます。
それに対し、ルキウスはローマで内政を執る義兄マルクス・アウレリウスにも同じ称号を授けるよう要請し、勝利を分かち合う謙虚な姿勢をみせました。
これは兄に対して遠慮したものか、または自らの功績として大々的に宣言するには後ろめたい気持ちがあったのか定かではありませんが、結果的に遠征には参加していないマルクス・アウレリウスにも「アルメニクス」「パルティクス・マクシムス」の称号が与えられました。
そしてアルメニアでの勝利と功績を讃え、ローマでは記念のコインが発行されました。
ルキウス・ウェルス帝 デナリウス銀貨 (163年)
マルクス・アウレリウス帝 デナリウス銀貨 (164年)
表面にはそれぞれ二人の皇帝、裏面にはアルメニアを象徴する捕虜が表現されています。共通して取り上げられた武器が置かれ、独特な形状の帽子を被っています。下部にはアルメニアを示す「ARMEN」銘が配されています。
裏面は共通のデザインであることから、ローマ市内の同じ場所で、ほぼ同じ工程を経て製造していたと推察されます。
このコインが発行された後の166年、ルキウス帝はローマへ帰国し、市民達から歓喜の声で迎えられました。10月にはトラヤヌス帝以来50年ぶりとなる盛大な凱旋式が挙行され、マルクス帝とルキウス帝はともに勝利の栄華を享受したのでした。
しかしこのアルメニア遠征は思いもよらない結果を引き起こします。東方から帰還した兵士たちによって多くの戦利品がもたらされましたが、それとともに恐ろしい疫病も運ばれて来たのです。この疫病は天然痘だったとみられており、167年以降、ローマを中心に大流行しました。
民衆を見舞うマルクス・アウレリウス帝 (1765年)
皮肉なことに、この疫病は皇帝の名から「アントニヌスの疫病」と呼ばれ、マルクス・アウレリウス帝の治世に暗い影を落とすことになります。ローマを中心に流行した疫病はたちまち帝国全土に広がり、数百万人の人命が犠牲になったと伝えられています。こうした甚大な人的被害は最盛期にあったローマの活力と軍事力を一気に低下させ、結果的にローマ帝国衰亡への序章になっていったのです。
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