こんにちは。
すっかり春めいてきました。雨風激しい春の嵐の日もあれば、桜が舞う心地よい日和もあり、新しい季節の到来を感じます。
ちょうど一年前、世の中は未曾有の事態で騒然とし、落ち着いて春を感じることもなかったように思います。
昨今は聖火リレーもはじまり、変化しながらも色々なことが動き始めているようです。今年の春が平穏な季節になることを祈りばかりです。
さて、今回は古代ギリシャのテッサリアで発行されたスターテル銀貨をご紹介したいと思います。
テッサリア スターテル銀貨 (BC196-BC146)
表面にはギリシャ神話世界でお馴染みの大神ゼウス、裏面には武装したアテナ女神立像が打ち出されたコイン。古代ギリシャコインのデザインとして特に人気のあった二つの神が表現されています。およそ6.5g~6g前後、23mmほどの銀貨であり、裏面には発行地であるテッサリアを示す「ΘΕΣΣΑΛΩΝ」銘が配されています。
ちなみにこの武装した女神像は「アテナ・イトニア」と称され、テッサリア地方の都市イトンで祀られていたアテナ女神像に由来すると云われています。槍を構えるアテナ女神像は一般的に「パラス・アテナ」と呼ばれ、アテナイの神殿に祀られていた立像のほか、多くのギリシャコインのデザインとして一般的です。
テッサリア地方 (現在のギリシャの区分)
テッサリアは現在のギリシャ中部に位置する広い地域であり、険しい山並みが多いペロポネソス半島とは異なり平原が広がることから、古くより穀倉地帯として開発されていました。古代ギリシャ時代には牧畜が盛んであり、馬の名産地としてギリシャ諸都市に優れた軍馬や騎兵を送り出していました。こうした背景から、半人半馬のケンタウロスの伝説もテッサリアで生まれました。
また、ギリシャ神話の神々が住まうとされた聖なる山 オリンポス山があり、その北部にはマケドニアが位置していました。
テッサリア平原
南西から見たオリンポス山
広大なテッサリア地方には多くの都市がありましたが、特にラリッサ(現在のギリシャ、ラリサ県の首府)は中心都市として栄え、ニンフ「ラリッサ」の美しい正面像と馬が表現された芸術的コインでよく知られています。
ラリッサ ディドラクマ銀貨 (BC350-BC325)
ラリッサを中心とするテッサリア地方は、紀元前344年にマケドニア王国のフィリッポス2世(*テッサリアの「アルコン=保護者、統治者」を称した)によって征服され、息子アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の東方遠征にあたっては騎兵を供給して貢献しました。大王亡き後はマケドニア~ギリシャを支配したアンティゴノス朝に服属し、ある程度の自治権を有しながら伝統的な社会体制を維持していました。
アンティゴノス朝下の時代は100年以上にわたって続きますが、西から現れた新たな大国によって状況が変化します。紀元前197年、ティトゥス・クィントゥス・フラミニヌス率いるローマ軍と、フィリッポス5世のアンティゴノス朝マケドニア軍がテッサリア平原のキュノスケファライで激突。ローマ軍の勝利によってギリシャにおけるアンティゴノス朝の優位が崩れました。
紀元前200年頃のマケドニア~ギリシャ
ラリッサの南部にある赤い点がキュノスケファライ。アンティゴノス朝マケドニア王国はギリシャ諸都市を従属下に置き、アテナイやエリスなど独立を保った都市国家に対しても介入を深めていました。
ギリシャに進出したローマは「ギリシャ諸都市の解放」を謳い、反マケドニア感情の強い都市の支持を得ます。紀元前196年にイストミア祭の競技大会に出席したフラミニヌスは、この場でギリシャ人の自由を宣言しました。
宣言に当たってギリシャ諸都市はローマの同盟市となり、クリエンテス関係(=庇護者と被保護者の関係性)を結んだ後ローマ軍はギリシャから撤退しました。これは来るセレウコス朝シリアとの戦いに備えて後援を得たいという思惑があったにせよ、この宣言によって多くのギリシャ諸都市は100年以上にわたるマケドニア支配から解放されたのです。
ただ、ローマ軍に敗れたとはいえアンティゴノス朝マケドニアは未だギリシャ支配を諦めておらず、軍事力に乏しい諸都市はローマの庇護に頼らざるを得ませんでした。ローマはギリシャを直接支配することはなかったものの、社会的・経済的な再編成を迫って影響力を残し続けました。
こうした例の一つが、マケドニア支配から解放されたテッサリアの再編成でした。テッサリアにはラリッサやファキオン、ファルサロスやトリッカ、ラミア、スコトッサ、クランノンなど数多くの都市が存在しましたが、紀元前196年にローマは同盟関係を結んだ諸都市に緩やかな連合体を結成させ、統合された一つの共同体に再編成しました。形式上は独立した都市国家の連合体でしたが、実際にはローマがテッサリア地方を管理しやすくするためのまとまりでした。当初はラリッサをはじめとするいくつかの都市からスタートしましたが、徐々に加盟国を拡大させ、紀元前30年頃までにほぼ全てのテッサリア諸都市が連合に加盟しました。
このテッサリア諸都市連合では共通通貨としてのコインが新たに導入され、連合内の諸都市で流通させました。経済圏を統合し、地域全体の発展と統合を促す目的でしたが、これによって諸都市が有していた独自の通貨発行権は消滅し、ローマの経済圏に組み込まれることになりました。
コインは主に青銅貨やオボル銀貨、ドラクマ銀貨など、日常使いの小額貨幣が多く発行されましたが、特に重要なコインは冒頭でご紹介したスターテル銀貨でした。最高額面のコインであるスターテル銀貨はローマで発行されていたウィクトリアトゥス銀貨2枚の価値・重量に設定され、デザインもこのコインと類似した意匠が採用されました。
また、デナリウス銀貨と同じく二人の発行者名(*テッサリアの諸都市連合の場合はストラテゴス=毎年選出される行政の代表者「将軍」とも訳される)が連名で刻まれている点も特徴です。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨
表面は大神ユーピテル(*ギリシャ神話のゼウス神に相当)、裏面には戦勝トロフィーと勝利の女神ウィクトリア。第二次ポエニ戦争の時期に発行され、裏面のデザインから「ウィクトリアトゥス」と称されました。
ローマのウィクトリアトゥス銀貨は後に主流となるデナリウス銀貨にとって代わられますが、重量などから2/3デナリウスの価値として流通していました。そのためテッサリアのスターテル銀貨2枚はローマのデナリウス銀貨3枚、ローマが小アジアで発行したキストフォリ銀貨1枚と等価となります。
スターテル銀貨はテッサリアの諸都市連合が共同で発行したという体裁のため、テッサリア名(ΘΕΣΣΑΛΩΝ)と連合のストラテゴス名が刻まれました。
そのため製造地名は刻まれていませんが、都市連合の盟主となった中心都市ラリッサの造幣所で製造されていたとみられます。
発掘数・埋蔵数の多さから長期間大量に製造され、当時のテッサリアではかなり広範囲で流通していたと考えられます。額面価値から傭兵の給与として、または商取引の決済として、蓄財・資産として頻繁に用いられたコインと思われますが、こうした流通性の高さはテッサリアの都市間で人とモノの流れを加速させ、ローマが狙った地域の統合に一役買ったはずです。
デザインは100年以上にわたって変化せず製造が続けられてきましたが、細部には微妙なバラエティの違いがみられ、彫刻造形や打ち出しにも差異がみられることから、収集と研究には尽きないコインでもあります。発行者名やデザインの手変わりを分析することで、ローマのデナリウス銀貨のようにそれぞれの具体的な発行年も推定できるのではないでしょうか。
なお、多くの古代コインは両面の上下が同じ向きになっている例は少ないのですが、テッサリアのスターテル銀貨の場合は、日本のコインと同じくほとんどが同方向です。また図像が縦長であるためか、コインの形状もやや楕円の縦長になっています。
表面に発行者名が刻まれたタイプ。裏面にももう一人の発行者名が配されており、共和政期のローマで発行されたデナリウス銀貨とよく似たスタイル。
かなり写実的に表現されたスタイル。表面はやや二重打ちのようにも見えます。
やや甘い打ちだしですが、図像はずれることなく表現されています。
独特な表現の図像。彫刻師の個性を感じさせる造形です。
アテナ女神が構える槍の先に、女神の象徴であるフクロウがとまっている珍しい構図。アテナ女神とフクロウの組み合わせはよくみられますが、戦いの象徴である槍の先端に、叡智の象徴であるフクロウを配したパターンはまずお目にかかれません。当時の彫刻師の遊び心が出ている、粋なアレンジといえるでしょう。
比較的、図像の線は太いものの、写実性も感じさせるスタイルです。
図像が収縮されたように小さい反面、細部の造型はより細かく表現されています。
表面の左側にモノグラム銘が配されたタイプ。彫刻師、または製造した場所を示すものとみられます。
第四次マケドニア戦争を経た紀元前146年にアカエア属州とマケドニア属州が設置され、ギリシャ~マケドニアはローマによる直接支配下に置かれました。テッサリアはローマの忠実な同盟市の連合体として存続しましたが、連合体の独立性は年々形骸化していきました。当初、ローマは「ギリシャ人の自由」を宣言し、解放者としてギリシャへ乗り込んできましたが、実際には支配者がマケドニアからローマへ移り変わっただけだったのです。
紀元前30年頃にテッサリア地方はアカイア属州に編入(*後にマケドニア属州へ組み換え)され、独自のスターテル銀貨発行は終わりを迎えます。以降、テッサリアでは属州銅貨の発行だけが許され、かつてのようなギリシャらしいデザインのコインを発行することはありませんでした。
なお、テッサリアのスターテル銀貨の発行年代は①都市連合の結成~第四次マケドニア戦争を期間とする「紀元前196年~紀元前146年」とするグループと、②第四次マケドニア戦争~属州編入を期間とするおおまかなグループ(*「Late 2nd-mid 1st centuries BC」などと表記)に分けられているようです。
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