こんにちは。
梅雨明けしたとたんに毎日のように厳暑が続き、夏本番の到来ですね。先週から東京オリンピックがついに開幕し、メディアでもメダル獲得の話題一色です。
コロナのワクチン接種も進展していますが、それでも感染の勢いは衰える様子がありません。昨年同様、帰省や夏祭りも中止・延期が相次いでいるようです。
今年の夏はコロナと猛暑を避けて、自宅のテレビでオリンピック観戦する日常になりそうです。
今回はアメリカコイン、ケネディのハーフダラー(1/2ドル=50セント)をご紹介します。
おそらくコインを収集していない方であっても、広く知られているアメリカコインのひとつではないでしょうか。
アメリカ合衆国 1964年 1/2ドル銀貨
周知の通り、ジョン・F・ケネディ(1917-1963)はアメリカ合衆国の第35代大統領であり、1961年~1963年のおよそ3年間在任しました。43歳の若さで大統領に就任したケネディは妻のジャクリーンと共に大衆的人気を博し、幅広い層から支持を得ていました。当時は東西冷戦の真っ只中であり、ソ連との対立が先鋭化した時期に当ります。その任期中に生じたベルリンの壁建設やキューバ危機はその象徴的事件であり、その度にケネディは重大な決断を迫られました。また、米ソの軍拡・宇宙開発競争の過程で「アポロ計画」を打ち立てたことでも有名です。
しかし1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中に凶弾に倒れ、志半ばで短い任期を終えることとなりました。3年に満たない在任期間だったにも関わらず、若さとカリスマ性を備えた大統領の非業の死は多くのアメリカ国民に記憶され、今なお歴代大統領の中では特に人気の高い人物の一人です。
暗殺事件直後からホワイトハウスと合衆国造幣局には、ケネディを称える記念コインの製造を求める声が多く寄せられました。アメリカでは個人崇拝を防ぐ目的から存命中の人物を通貨デザインに使用することを禁じており、暗殺直後とはいえ亡くなっている以上、コインにすること自体に問題はありませんでした。
そこで造幣局は未亡人となったジャクリーンに、ケネディをコインのデザインにしたい旨を伝え、了承を得ました。この時、コインの候補には1/2ドル銀貨(*従来のデザインはベンジャミン・フランクリン&自由の鐘)と1/4ドル銀貨(*クォーター=25セント。デザインは初代大統領ジョージ・ワシントン)の二種類が挙がっていましたが、ジャクリーンは初代大統領に取って代わるのは夫の望むところではないと考え、1/2ドル銀貨が好ましいと意見表明しました。
早速、後任であるリンドン・ジョンソン大統領は1/2ドル銀貨のデザインを変更する法案を連邦議会下院へ提出し、12月30日には通過しました。
しかし新たなコインの製造は原画の作成や極印彫刻の制作、製造工程の調整など高度な準備があり、法律上可能になったからといってすぐに実施できるものではありません。議会で法案提出と審議が進められている頃、既に造幣局では作業が進められていました。特にこの新コインの打ち初めは1964年1月を目標としており、急ピッチで作業を進める必要がありました。
そこで造幣局は生前のケネディ大統領が自ら承認し、銅メダル用として用意されていたものをベースに準備を進めることにしました。
1/2ドル銀貨の基となったブロンズメダル
表面のケネディ像は造幣局の彫刻師ギルロイ・ロバーツ(1905-1992)、裏面の大統領紋章はロバーツの弟子フランク・ガスパロ(1909-2001)が手掛けました。大統領が就任する度に造幣局で製造されるシリーズのひとつであり、ロバーツはケネディ本人と面会してデザインを提示し、承認を得ています。
メダル→コインへと用途が変わる過程でもロバーツはこだわりを持ってケネディの肖像に修整を加え続け、より良い完成品に仕上げるべく努力しました。試作品ができると妻ジャクリーンと弟のロバート・F・ケネディに提示し、意見を求めました(*この時ジャクリーンは髪形について意見を述べ、彫刻に修整が加えられたと云われています)。
こうして出来上がった1/2ドル銀貨のケネディ像はメダルの肖像より歳を重ねているものの、就任当初の若々しさの面影がありながら、最高指導者としての威厳も加わった見事な仕上がりになりました。実際のケネディの横顔像と比べても遜色がないほどです。
メダルにあったケネディの名銘は取り除かれ、代わりに発行年銘と、全てのアメリカコインに刻むことが義務付けられている「LIBERTY(=自由)」銘と「IN GOD WE TRUST(=我らは神を信じる)」銘が配されています。
ケネディ像の首部分には彫刻師ギルロイ・ロバーツのイニシャルである「GR」銘がモノグラムで刻まれていますが、発行後に共産党のシンボルである「鎌とハンマー」に見えるという苦情が寄せられました。
こうして急ピッチで進められた結果、当初の目標通り1964年1月30日にデンヴァー造幣局で最初のケネディ1/2ドル銀貨が打ち出されました。この時点ではプルーフ貨のみが製造され、本格的な大量生産が開始されたのは2月11日以降でした。
そしてケネディ暗殺からわずか4か月後の1964年3月24日より、新1/2ドル銀貨は一般市場への流通が開始されました。急ピッチで仕上げられたコインであるにも関わらず、ケネディ暗殺の衝撃から間もない時期だったこともあって、アメリカ国民の受け入れは上々でした。当初は追悼の意を込めた記念コインと見なされたためか、初日には交換を求める人々が金融機関の窓口に殺到し、大都市の銀行では翌日までに準備していたコインがなくなってしまいました。
造幣局は国民的な需要にこたえるため生産目標数を引き上げた結果、1964年銘の1/2ドル銀貨はデンヴァー、フィラデルフィア両局合わせて433,460,212枚という膨大な発行数となりました。これは先代のフランクリン1/2ドル銀貨の16年間の発行総数より多い数です。
この大量発行の背景には、人々が記念品として大切に保管し使用しなかったため、ほとんど市場に流通しなかったこと、ディーラーなどが海外でのケネディ人気に便乗して販売するために大量両替したことなどが挙げられます。皮肉にもあまりに良い出来上がりだったため、コイン本来の役割である「流通」に投じられず、退蔵されることになったのです。
さらに1960年代には銀価格が高騰し、投機的な動きもあって今後上昇してゆくという憶測がありました。そのため、銀品位90%、12.5gの1/2ドル銀貨を額面の50セントで両替しておけば、将来的に含まれる銀の価値が額面を上回ると考える人々がいたため、市場流通に乗らなかったという側面もありました。
事実、アメリカ政府は翌年の1965年に新たに法律を制定し、それまで銀で製造されていたダイム(10セント)とクォーター(1/4ドル)をニッケル銅に、1/2ドル銀貨の純度を90%から40%に引き下げる対策を行いました。
造幣局はクラッドによる製造(*表裏面と内側で異なる金属を組み合わせるサンドウィッチ式)でそれまでの銀の輝きを保ちつつ、銀を節約する対策を講じました。
左は1976年の記念1/2ドル銀貨 右は1964年の1/2ドル銀貨
左の淵部分が少し茶色くなっています。面の部分には80%の銀が使用されましたが、内部には79.1%の銅が使用されたため、このように色が異なっているのです。
しかし世界的に流通用コインとしての銀貨が白銅貨に切り替わる中で、1/2ドルも1971年以降はニッケル銅による製造に切り替わりました。
以降、現在に至るまで1/2ドル貨は毎年製造され続けていますが、一般の市中で流通している例は非常に稀です。理由は様々ありますが、30mm、11gの大型コインは財布にもポケットにも入れづらく、額面価値に対して使いづらさがあるようです。また、アメリカの自動販売機はクォーター(25セント)までしか受け付けないケースが多く、最も一般的に使用されてるコインも100円玉サイズのクォーターであるため、50セントを出す際にはクォーターを2枚出しても不便ではないようです。
もしケネディが暗殺された後の打ち合わせでジャクリーンがクォーターを選択していれば、運命は大きく変わっていたでしょう。
そして早くからカード決済が普及したアメリカ社会では、大きなコインが徐々に流通市場から消えていくのも無理はないでしょう。発行当初はケネディに対する人気、銀素材に対する投機狙い需要という積極的な理由から姿を消した1/2ドル貨は、時代の流れとともに消極的な理由で流通市場から消えていきました。日本の二千円札に似た立場なのかもしれません。
それでもケネディの1/2ドルは現代アメリカを代表するコインとして認識され、毎年発行されるミントセットの中央を飾っています。また、今なおアメリカだけでなく世界中のコインコレクターに愛されており、2014年に発行50周年を記念する金貨バージョンが発行された際は発売直後に売り切れ、すぐさまコイン市場やオークションで高値で取引されました。
ケネディの時代から半世紀以上が経過し、暗殺事件自体も歴史になりつつある現在もケネディの人気が衰えていない証であるようです。
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