こんにちは。
4月末になると暖かさが増し、むしろ暑く感じる日も増えてまいりました。初夏の陽気も目の前です。
今年のゴールデンウィーク-大型連休は4月29日(金)の祝日「昭和の日」から始まり、長ければ5月8日(日)までの10日間に及びます。
昨年と一昨年はコロナによる自粛の影響で旅行や外出が控えられましたが、今年は難なく連休を満喫できると良いですね。
皆様にとって充実したゴールデンウィークになることを願っております。
さて、今回は古代エジプト「クレオパトラ」のコインをご紹介します。
とは言っても世界三大美女に数えられるクレオパトラ7世ではなく、彼女より100年以上前の「クレオパトラ1世」に関するコインです。
プトレマイオス朝エジプト 銅貨
(BC163-BC145, アレクサンドリア造幣所製)
クレオパトラ1世は紀元前204年頃に、セレウコス朝シリアの大王アンティオコス3世の娘として生まれ、首都アンティオキアの宮廷で幼少期を過ごしました。
紀元前202年、プトレマイオス朝エジプトで幼いプトレマイオス5世が即位すると、父アンティオコス3世は政変の隙を衝いてエジプト領に侵攻。ユダヤやパレスチナなどを占領して勢力圏を拡大した後、紀元前195年にローマの仲介によって和議が結ばれました。
この和議の一環として、クレオパトラはエジプトのプトレマイオス5世の妃として嫁ぐことが決まり、彼女はアンティオキアからアレクサンドリアの宮廷へ移り住むことになったのです。当初の約束では持参金として占領地の一部が返還されることになっていましたが、あくまで名目上の返還に過ぎず、セレウコス朝は実効支配し続けました。
プトレマイオス朝エジプトの領域
(緑色がセレウコス朝シリアに占領された地域)
また、クレオパトラがプトレマイオス朝に嫁いだことはセレウコス朝との友好関係を象徴するのみならず、婚姻関係を通じてシリアがエジプトに一定の影響力を及ぼすことを意味していました。
この結婚によってエジプト史上では「クレオパトラ1世」と称されることになり、プトレマイオス朝の歴史に登場する女王としては最初のクレオパトラとなったのです。なお、王朝最後の女王となった最も有名なクレオパトラは、正式には「クレオパトラ7世」に数えられています。
クレオパトラ1世が嫁いだプトレマイオス朝は、アレキサンダー大王(マケドニア王 アレクサンドロス3世, 在位:BC336-BC323)の部下 プトレマイオスの系譜を引き継ぐマケドニア系の王朝でしたが、現地エジプトの風習や宗教を尊重し、ギリシャ文化とエジプト文化を融和させた特異な国家を形成していました。
首都アレクサンドリアは地中海世界の経済・学問の拠点となり、ナイル川を中心に肥沃な耕作地にも恵まれ、周辺諸国にも穀物を輸出するほど繁栄していました。
しかしプトレマイオス朝の内部では権力争いが絶えず、また宮廷の浪費や無計画な出費によって財政は悪化の一途を辿っていました。
クレオパトラ1世の夫となったプトレマイオス5世は、外交・軍事・財政面での支援をローマから受け、セレウコス朝の脅威を和らげるべく努めました。
一方で戦争での出費や失った領土からの貢納を補填するため、エジプトの農民たちに重税を課したことから全土で叛乱が勃発。プトレマイオス5世はエジプト人たちの支持を繋ぎとめるため、より一層エジプト宗教への優遇を強めていき、自らを「エピファネス(顕神者)」と称して統治の正統性を示しました。
クレオパトラと結婚する前の紀元前196年、プトレマイオス5世は歴代ファラオたちに倣い古都メンフィスで即位式を催行。エジプトの神々に対する伝統的な儀式を終え、祝儀として神官たちの税を免除する旨を発布しました。
この儀式内容と免税布告が記されたのが、ヒエログリフ解読の糸口となった有名な「ロゼッタ・ストーン」です。
ロゼッタ・ストーン
(大英博物館蔵)
上からヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字による文章
プトレマイオスとクレオパトラの間には二男一女が生まれ、アレクサンドリアの宮廷で育てられました。王子たちの母となったクレオパトラの権威は増し、宮廷での影響力をより一層強めていきました。
ちなみに彼女の娘は「クレオパトラ2世」となり、孫娘は「クレオパトラ3世」としてそれぞれ女王となります。
紀元前180年にプトレマイオス5世が崩御すると、クレオパトラは長男を「プトレマイオス6世」としてファラオに即位させ、自らは摂政として後見役になりました。政治の実権を握ったクレオパトラ1世は事実上の女王となり、エジプトを支配することとなったのです。この期間、実家であるセレウコス朝との平和関係は継続され、領土を巡る緊張関係は緩和されました。
しかしクレオパトラ1世の治世は長くは続かず、4年後の紀元前176年に彼女も崩御。長男プトレマイオス6世は母親を神格化しその敬愛を絶やさなかったため、後に「フィロメトル(母愛者)」の称号で呼ばれることになります。
彼の治世中には複数種類のコインが発行されましたが、その中にクレオパトラ1世を模したものと伝えられるコインが存在します。それが冒頭で紹介した銅貨です。
この肖像は頭部に麦穂を戴いており、豊穣の女神であるイシスを表現したものとされています。エジプトで広く信仰されていたイシス女神は、神格化された王妃や女王と重ねて表現されることも多くありました。ファラオは天空神ホルスの化身とされ、ホルス神の母がイシス女神だったからです。
プトレマイオス6世の時代にも神格化されたクレオパトラ1世をモデルに、イシス女神として表現したと考えられます。かつてアレキサンダー大王がヘラクレスに重ねてコインに表現されたように、ギリシャ・ヘレニズムコインの伝統が引き継がれています。
クレオパトラ1世の彫像や壁画はほとんど残されていないため、彼女の姿を現代に伝える貴重な史料でもあります。
プトレマイオス朝では女性たちの権威が強く、アルシノエやベレニケなどの大型金貨が発行されています。しかしクレオパトラ1世の場合はこの銅貨(*オボル~4オボルと推定されるも正確な額面価値は不祥)しか発行されていないようです。
アルシノエ2世のオクタドラクマ金貨
(BC285-BC246)
プトレマイオス2世&アルシノエ2世/プトレマイオス1世&ベレニケ
(テトラドラクマ金貨,BC272-BC260)
最後の女王であるクレオパトラ7世は、在世中から自らの姿をコインに表現していました。その姿は理想化された女神としてではなく、より写実的な君主として表現されており、クレオパトラ1世の時代から情勢が大きく変化したことが窺えます。絶世の美女と云われたクレオパトラ7世ですが、エジプトで作成された彫像はほとんど現存せず、在世中に作成された肖像として確かであるのはコインのみとされています。
クレオパトラ7世の銅貨
(BC48-BC47)
クレオパトラ7世も、かつてのクレオパオラ1世と同じく金貨は発行されず、主に銀貨と銅貨だけが現存しています。プトレマイオス朝300年の歴史に於いて「クレオパトラ」と名のつく女性は少なくとも7人存在しましたが、その姿が金貨に刻まれることは無かったのです。
クレオパトラの金貨が発行されたのは20世紀になってからのことでした。2000年間培われてきた知名度の高さにより、現在ではモダンコインの中でも特に人気のあるコインになっています。
エジプト 1984年 100ポンド金貨 クレオパトラ7世
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