こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日が暮れると少し涼しくなったようにも感じますが、やはり日中は暑いですね。まだ夏は続きます。
今回はローマ帝国屈指の暴君として悪名高い「カラカラ」のコインをご紹介します。
ローマ帝国 216年頃 デナリウス銀貨
カラカラは3世紀初頭のローマ帝国に君臨したセウェルス朝の皇帝であり、父は北アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルス、母はシリア出身のユリア・ドムナです。有名な胸像は日本でも美術室のデッサン見本として置かれており、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。
カラカラ帝胸像
(ナポリ美術館)
188年に生まれたカラカラは当初ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスと名付けられ、10歳のときに父親が政敵たちを打ち破って皇帝に即位すると、過去の偉大な皇帝たちにあやかりマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名しました。
現在広く知られている「カラカラ」という呼び名は渾名であり、本人が好んで着用していたフード付きチェニックの名に由来しています。
そのため、当時発行されたコインには「カラカラ」という名は刻まれず、正式名称のアントニヌスが称号銘文として使用されていました。銘文だけでは五賢帝時代のコインと混同してしまいますが、特徴的な肖像によって区別することが可能です。当時発行されていたコインの肖像と上の胸像を見比べると、この個性的で気性の荒そうな外見が見事に表現されていることが判ります。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
カラカラ帝はこの胸像から受ける印象の通り、気性が荒く粗野な人物だったようで、歴史書からは散々な評価がなされています。コインの銘文には「敬虔」を意味する「PIVS (ピウス)」の称号も添えられていますが、その実態は尊い称号には程遠いものでした。
彼には一歳違いの弟ゲタがいましたが、兄弟仲は子供の頃より不仲であり、やがて成長するにつれて帝位継承を巡る確執にまで発展します。両親は兄弟の不仲を長く心配していましたが、周囲の取り巻きたちはそれぞれの側に付いて対立を煽ったため、関係が修復する見込みはありませんでした。
ゲタの肖像が表現されたデナリウス銀貨 (199年-202年)
211年に父帝セプティミウス・セウェルスがカレドニア遠征の最中に没すると、兄弟はさっさと遠征を切り上げてローマに帰還し、共に皇帝として即位しました。かつてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが兄弟で皇帝に即位したのと同じく、権威を分け合うことでセウェルス朝の安定を図りましたが、両者の対立はすぐに再燃してしまいました。
皇帝に即位したゲタのデナリウス銀貨(210年)
兄カラカラとよく似た印象の肖像。皇帝としての発行貨はわずか一年ほどでした。
カラカラは母親ユリア・ドムナを交えてゲタと会見し、その場で弟を刺殺して葬りました。さらにゲタの支持者や従者、彼に弔意を示したと見做された者まで、数多くの人々が粛清されました。その数はおよそ2万人に及び、中には自らの名の由来となった賢帝マルクス・アウレリウスの娘や、自らの妻プラウティラまで含まれていました。
プラウティラとカラカラの結婚を祝すデナリウス銀貨 (202年)
父セプティミウス・セウェルスによって決められた政略結婚でしたが、カラカラはプラウティラを忌み嫌い、陰謀の嫌疑をかけてカプリ島に追放しました。
そしてゲタの肖像や銘文をあらゆる公共の場から削除したほか、ゲタの姿が刻まれたコインすら回収して溶かしてしまったと云われています。
セプティミウス・セウェルス帝一家の肖像
(ベルリン博物館蔵)
左下の肖像が消されている人物はゲタとみられ、211年の大粛清後に手が加えたとみられています。
血塗られた粛清の嵐の後、単独の皇帝となったカラカラは後世に知られる大浴場(カラカラ浴場)の建設や、帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令)を発するなど、絶大な権力を誇示する施策を実施します。
しかしやはりローマは居づらくなったのか、213年にカラカラは東方属州への巡幸へ出発し、以降二度とローマへ戻ることはありませんでした。
カラカラはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世, BC336-BC323)を崇拝しており、大王の真似をして東方へ足を延ばすことで現実逃避していたという説もあります。しかしカラカラはアレキサンダー大王と同じく兵士たちと共に行動し、その要望をよく聞きいれたため、結果的に軍団の支持を確固たるものにしてゆきました。
小アジアのペルガモンでは医術の神アスクレピオスの神殿に参詣し、さらに同時期のコインにもアスクレピオス神が表現されていることから、カラカラがこの医神を特に深く崇敬していたことが伺えます。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
この点からカラカラは身体に何らかの不調を感じており、そこから精神へ影響し、激しい怒りの感情を抑えられなくなったとみる説もあります。
幼少期のカラカラが熱病に罹った際、父セプティミウス・セウェルスは名医セレヌス・サンモニクスに診せたところ、彼はカラカラの首に呪文が書かれた布を巻き付け、これを治癒したといわれています。この呪文は今日「Abracadabra (アブラカタブラ)」として知られ、サンモニクスはその功績からカラカラとゲタの家庭教師・専属医に取り立てられました。
そのためカラカラ自身も医学に対する関心が高かったと考えられます。
なおサンモニクスはゲタ亡き後の大粛清に巻き込まれたとされ、この点からもカラカラが父の代の忠臣たちを一掃したことが伺えます。
エジプトのアレキサンドリアではアレキサンダー大王の墓を詣でた後、何らかの理由で数千人もの市民を虐殺しています。ローマを離れても医術の神や偉大な大王に詣でても、カラカラの狂気と凶暴性に変化がなかった様子が伺えます。
カラカラによる東方遠征の最大の目的は、父の代から続いていた東方の大国パルティアとの戦争に決着をつけることでした。これはローマのアレキサンダー大王を自認するカラカラにとって、ぜひ自らの手で成し遂げたい偉業でした。
各部隊は対パルティア戦に向けた演習訓練を繰り返し、8個軍団に及ぶ多くの兵力と物資が国境のシリア~メソポタミアへ集められました。
さらにアンティオキアやエデッサ、カルラエなどには兵士に支給するための貨幣を増産するため、新たな造幣所も設けられました。特に215年~217年にかけて多くのテトラドラクマ銀貨が製造され、いまなおシリアやイラクの砂漠地帯でまとまった状態で出土しています。流通痕跡の少ないコインは兵士たちへの給与として造られ、受け取った兵士がその後帰還できず、回収されずに残されたと見做されます。
キュレスティカ地方の都市ベロエア(※現在のシリア北部 アレッポ)で造られたテトラドラクマ銀貨。カラカラ帝の珍しい左向き肖像タイプ。
216年から始まったパルティア侵攻においてカラカラは有利に軍を進め、順調に目的を遂げようとしていた矢先、側近によって暗殺されこの世を去りました。行軍中、用を足していたカラカラは背後から近づいてきた近衛兵に背中を一突きされ、あっけなく治世を終えたのです。
カラカラの名は今日、有名なローマ皇帝の一人として知られていますが、単独の皇帝としての治世は5年ほどであり、そのうちローマに滞在していたのはたった1年でした。暗殺されたときは29歳であり、アレキサンダー大王が亡くなった年齢とほぼ同じでした。
不思議なことにカラカラ以降、パルティアやペルシアなど東方へ親征した皇帝は二度とローマへ帰還することなく、戦地で命を落とす例が続きました。
セプティミウス・セウェルス~アレクサンデル・セウェルスに至るセウェルス朝時代の皇帝たちのコインは比較的多く現存していることから、完集が容易なテーマとして知られています。
特にカラカラのコインは子供時代~単独皇帝時代まで数多くの種類が発行されており、肖像の変化を目で楽しむことが可能です。デナリウス銀貨だけでも豊富な種類があり、財政状況の悪化から銀の純度は50%ほどに下がったものの、その彫刻技術はそれを補って余りあるほどのクオリティです。
また東方属州で造られた属州のコインも、デザイン上興味深いものが多くみられます。
カラカラ 幼少肖像タイプ デナリウス銀貨
父帝セプティミウス・セウェルスによる対パルティア戦役の勝利を記念したタイプ
カラカラ 少年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 青年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 皇帝肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ帝と母親ユリア・ドムナが表現された銅貨
下モエシア属州(*現在のブルガリア)のマルキアノポリスで発行(198年-217年)
カラカラによる軍団への大判振る舞いや、軍事力の肥大化からくる財政支出は、コインの発行量を短期間で増加させました。このことが、現在の我々がカラカラのコインを入手しやすくしている要因でもあります。
215年にカラカラは貨幣の改革を実施し、深刻化する財政状況を改善しようとしました。一枚でデナリウス銀貨二枚の価値に相当すると称された銀貨は、実質的にデナリウス銀貨の1.5倍の重量しかなく、完全な名目貨幣でしたが、その後の軍人皇帝時代にはデナリウス銀貨を駆逐して主要貨幣にとって代わりました。
この銀貨は当時の正式な名称が判明していませんが、現在の貨幣学上ではカラカラの名にちなみ「アントニニアヌス」と呼ばれています。
デナリウスなど他のコインとは異なり、皇帝は月桂冠ではなく放射状の冠を戴いています。この伝統は後の皇帝たちが発行したアントニニアヌス銀貨にも継承され、視覚的にデナリウスとアントニニアヌスを見分ける一助になっています。
若き暴君としてローマ人の夥しい血を流したカラカラですが、短い治世の間に数多くの業績も残し、アレキサンダー大王と同じく様々な方面で語り継がれる皇帝となったのでした。
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