まもなく大型連休、ゴールデンウィークの時期です。今年はコロナの規制がほぼ無くなり、3年ぶりに例年通りの賑やかさが戻ってきそうです。人の移動も盛んになり、観光地も忙しくなりそうですね。
ワールドコインギャラリーの定休日は水曜日ですが、憲法記念日の5月3日(水)は通常営業を行います。
5月最初の一週間は休まず営業しておりますので、連休中はぜひお越しください。皆様のご来店・お問い合わせをお待ちしております。
今回は小アジア(*現在のトルコ)のカッパドキアで造られたコインをご紹介します。
紀元前281年のカッパドキア王国
カッパドキアといえば奇岩群で有名な世界遺産があり、トルコを代表する名所として世界中から観光客が集まります。アナトリア高原の中央部に位置し、冬の寒さは厳しく降雪量の多い土地でもあります。
カッパドキアの奇岩群
またギリシャ~ペルシアの中間地点である地理的条件から、古代より大国間の交流・衝突の場にもなりました。紀元前6世紀に小アジアの大半がアケメネス朝ペルシアの支配下に入ると、カッパドキアには太守が派遣され、独立した行政州として統治されました。太守をはじめとする支配層の多くはペルシア人であり、アケメネス朝の支配下ではペルシア文化が根付いてゆきました。
なおカッパドキアの名称はペルシア語で「美しい馬の国」を意味する「カトパトゥク (Katpatuk)」が由来になっているとされ、同州の特産品として本国に献上されていたと考えられています。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征が始まると、カッパドキアのペルシア人はマケドニア軍に反抗しましたが、アケメネス朝そのものが滅ぼされると太守アリアラテスは王を自称し、アリアラテス朝カッパドキア王国が成立しました。その後はマケドニアやセレウコス朝に従属するも、紀元前3世紀後半には再び自立しました。
カッパドキア王国はアケメネス朝支配下で設置されたカッパドキア州に由来する経緯から、ペルシア文化が根強く残された点が特徴でした。王や貴族はペルシア貴族の末裔であり、アケメネス朝で信奉されていたゾロアスター教(拝火教)の神殿が国内に多く建立された他、独自の暦も制定しました。首都のマザカ(*現在のトルコ,カイセリ)はペルシア風都市として建設され、周辺には複数の砦が築かれて強固な防衛線を成していました。
王名「アリオバルザネス」「アリアラテス」はペルシアの名であり、その血統のルーツを示しています。ペルシア語やアラム語が広く用いられ、さながらペルシアの内陸飛び地の様相を呈していました。
一方でセレウコス朝やペルガモン王国といった周辺のギリシャ系王朝の影響も受け、時代が経るとヘレニズム文化が定着するようになりました。
特にヘレニズム文化が顕著に反映された例がコインでした。
表面には王の横顔肖像、裏面にはアテナ女神とギリシャ文字による称号という、典型的なヘレニズム様式のコインが多く生産されるようになりました。
ここで示された称号は王を表すペルシア語の「シャー」ではなく、ギリシャ語の「バシレイオス」が用いられました。
アリアラテス5世のドラクマ銀貨
表面にはダイアデム(王権を示す帯)を巻いたアリアラテス5世の横顔肖像、裏面には武装したアテナ女神像が表現されています。右手上には勝利の女神ニケを乗せ、周囲部には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΑΡΑΘΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ (=王たるアリアラテス 敬虔者)」銘が配されています。
下部の「ΓΛ」銘は王の治世33年目(=紀元前130年)を示し、製造年の明記がカッパドキアのコインの特徴として継承されました。王の肖像は代が替わると変更されましたが、アテナ女神像はそのままだったことから、王家はアテナ女神を守護神として崇敬していたようです。
アリアラテス5世はペルガモン王国と同盟して領土を拡大させた王であり、首都マザカはコインにも示されている王の敬称「ΕΥΣΕΒΟΥΣ」に因み一時的に「エウセベイア」に改称されました。
アリアラテス7世のドラクマ銀貨 (BC108-BC107)
紀元前2世紀末になると小アジアのヘレニズム諸国の紛争は激しさを増し、カッパドキア王国を統治してきたアリアラテス朝の内部でも権力闘争が行われました。若くして即位したアリアラテス7世は隣国ポントス王国のミトリダテス6世の後ろ盾で王位に就いたものの、傀儡になることに反抗したため暗殺されました。
アリアラテス9世のドラクマ銀貨 (BC89)
アリアラテス7世を排除したミトリダテス6世はカッパドキア国内の混乱に乗じ、弱冠8歳の王子を送り込みアリアラテス9世として王に即位させました。
コインの肖像も父親であるミトリダテス6世に似せた造型になっています。
この内乱状態に際し、有力貴族のアリオバルザネス家はローマの支援を受けて反攻し、紀元前96年にアリオバルザネス1世が王位を宣言しました。
その後ビテュニア王国やアルメニア王国も干渉しカッパドキアの内乱は激しさを増しましたが、最終的にポントス王国がローマに敗れた(第一次ミトリダテス戦争)ためアリアラテス9世は追放され、アリオバルザネスの王権が確立されました。(=アリオバルザネス朝)
アリオバルザネス1世(在位:B96-BC63)のドラクマ銀貨
アリオバルザネスは先のアリアラテス朝の様式を踏襲してコインを発行しました。アリオバルザネス1世は在位期間が長かったことから、肖像も若年像⇒中年像⇒老年像と変化がみられます。
裏面のアテナ女神像も継承されていますが、アリオバルザネスがローマの後援を受けて王位に就いたことを示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス ローマの友)」銘が配されています。
「ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=ローマの友)」はアリオバルザネス朝のコインの特徴的銘文であり、その後100年のカッパドキア王国は周辺諸国との安全保障上、常にローマの同盟国であり続けました。
アリオバルザネス3世(在位:BC51-BC42)のドラクマ銀貨
裏面には「ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΑΡΙΟΒΑΡΖΑΝΟΥ ΕΥΣΕΒΟΥΣ ΚΑΙ ΦΙΛΟΡΩΜΑΙΟΥ (=王たるアリオバルザネス・エウセベス 敬虔にしてローマの友)」銘が配されています。この頃になるとカッパドキア王はローマ元老院の認証をもって王位を宣するようになり、名目上は同盟国でも事実上は属国となっていました。
アリオバルザネス3世はローマ内戦において当初ポンペイウスを支持したものの、勝敗が決するとカエサルに鞍替えして領土を拡大させました。そのため後にブルートゥスが小アジアへ拠点を移した際、裏切り者の王としてカッシウスによって処刑されました。
同時代のローマの地理学者ストラボンの『地理誌』によると、まだゾロアスター教の神殿や風習、社会身分制度が色濃く残されており、かつてこの地を支配したアケメネス朝の名残がみられる独特な王国として知られていたようです。アリオバルザネス朝もペルシアにルーツを持つ貴族の出身であり、その古い文化を尊重しつつも政治的な思惑も絡み、ギリシャ・ローマ化を推進していました。
紀元前1世紀、アリオバルザネス朝時代のカッパドキアは事実上ローマの属国でしたが、名目上は独立した王国として存続していました。しかし最後の王となるアルケラオスはローマ皇帝ティベリウスの弾劾を受け、その直後の紀元17年に没すると、ローマは王国を廃して「カッパドキア属州」として直接統治下に組み込みました。首都のマザカはカエサルの名を冠する「カエサレア」と改称され、東方への交通要衝として二個軍団と補助部隊が常駐しました。この改称名は現在の都市名「カイセリ」として定着しています。
独立を喪失した後のカッパドキアでは、ローマ本国とは異なる独自のコインが発行されました。カッパドキアの地理的重要性から、ローマ軍団やローマ人が多数常駐したため、彼らへの大量の給与を現地で生産・支払う必要があったこと、さらに交易の要衝として経済的にも発展したため、経済活動が活発化したことがその理由です。一国並みの大きな経済圏を有していたため、ローマは自国の通貨をそのまま供給せず、現地に定着したドラクマ幣制を維持して属州内で独自コインを流通させました。
コンモドゥス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD181-AD182)
カッパドキア属州で発行されたドラクマ銀貨には、表面に皇帝の横顔肖像、裏面にはカッパドキアの名峰アルガエウス山(=エルジェス山)が抽象的に表現されています。周囲部にはカッパドキアの奇岩群、頂上部には輝く星があることから、当時の山岳信仰を象徴する意匠とみられます。
皇帝の称号は全てギリシャ語で表記され、裏面の下部には製造年が配されており、王国時代のコインを部分的に継承しています。ただしコインの重量は軽減されており、インフレーションの緩やかな進行が垣間見えます。
アルガエウス山 (=エルジェス山, 標高3,916m)
カイセリから南に25kmの位置に聳える火山であり、カッパドキアの独特な奇岩群はこの火山の噴火によって形成されたと考えられています。ギリシャ神話に登場する百目の巨大怪物アルゴス(*ラテン語でアルガエウス)からその名が付けられました。
セプティミウス・セウェルス帝治世下のドラクマ銀貨 (AD206)
裏面アルガエウス山の上部には属州都市カエサレアで製造されたことを示す「MHTΡ KAICAΡ (=首都カエサレア)」銘が配されています。
ゴルディアヌス3世治世下のドラクマ銀貨 (AD240-AD241)
3世紀末にディオクレティアヌス帝の貨幣改革が実施されると、共通規格の銅貨が帝国各都市で大量に製造され、属州毎に製造されていた多種多様なコインは造られなくなりました。カッパドキアも同じく独自コインは製造されなくなり、王国時代の名残は消えていったのでした。
カッパドキア王国~属州時代のコインはドラクマ銀貨が主流であり、日常的に使用するコインだったことから大量に生産されました。そのため現在でも年代順に集めることが可能であり、コレクションや研究対象として面白いテーマになりそうです。
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