こんにちは。蒸し暑い雨模様の日が増えてまいりました。梅雨が明ければ夏本番です。
いよいよ来週の7月3日(水)には新紙幣が発行されます。現在の一万円札、五千円札、千円札は2004年から発行されており、20年ぶりの一新となります。今となってはすっかり見慣れてしまいましたが、五千円札の肖像が樋口一葉ということで、女性が紙幣肖像に採用された点が大きな話題になりました。
今回の新紙幣も数字が大きくなったり、英語表記や3Dホログラムが採用されたりと注目点は多いようです。実物を手にするのが今から楽しみです。
今回は古代アルメニア王国の大王ティグラネス2世についてご紹介します。
アルメニアは現在のカフカース(コーカサス)地方に位置する内陸国です。
古代にはアケメネス朝ペルシアの州のひとつであり、その立地からアルメニア商人はカスピ海~黒海~地中海に至るまで活動範囲を広げました。
紀元前189年、セレウコス朝シリアの支配から独立したアルメニアは初代王アルタクシアス1世の下で領土を拡大させ、カフカース地方の要衝国として地位を固めます。
しかし東の大国パルティアは西に向けて勢力を拡大させ、強大な軍事力と経済力を背景にアルメニアにも干渉しました。
パルティアの大王ミトラダテス2世はアルメニアに侵攻し、和平の条件として王子を人質に差し出すよう要求しました。王子だったティグラネスはパルティアへ連行され、その間アルメニアはミトラダテス2世の影響下に置かれることになったのです。
パルティア王 ミトラダテス2世
(在位:紀元前124年-紀元前88年)
紀元前95年にティグラネスは故国アルメニアに返され、アルメニア王ティグラネス2世として即位します。ティグラネス2世は領土の一部を割譲しただけでなく、娘アリヤザデ(アウトマ)をミトラダテス2世に嫁がせるなどしてパルティアとの同盟関係を保ちました。しかし紀元前88年にミトラダテス2世が没するとパルティア内で内紛が勃発し、アルメニアに対するパルティアの影響力は低下しました。
するとティグラネス2世はこの期に乗じて黒海沿岸のポントス王国と同盟を結び、パルティアから自立する動きを見せ始めます。
さらに大軍勢を整えるとパルティアが支配していたメディア地方に侵攻し、メソポタミア北部、小アジアのキリキア地方、さらにはシリアにまで進軍しました。当時のセレウコス朝では王位を巡る内紛が激化しており、混乱に耐えかねた首都アンティオキアの市民たちは安定を期待してティグラネス2世を歓迎しました。その他のシリア諸都市も従属し、弱体化したセレウコス朝に代わる新たな守護者として認めました。
ティグラネス2世時代のアルメニア
国境線は現代のもの。アルメニアを中心に現在のジョージアやアゼルバイジャン、イラン、イラク、トルコ、シリア、レバノンに跨る広大な領域が版図に収まりました。
ティグラネス2世はパルティア王ミトラダテス2世と同じく「大王」「諸王の王」を称し、その力関係が逆転したことを周辺諸国に示しました。
当時のアルメニアはギリシャ、ペルシア両文化の影響を色濃く受け、宮廷ではゾロアスター教が信奉される一方でギリシャ語が公用語のひとつとして採用されていました。
諸王を従えるティグラネス2世
アルメニア周辺の小王国を征服したティグラネス2世は、公の場に赴く際はその王たちを従えていたと伝わります。「諸王の王」として神格化された君主像を演出し、多様な民族からなる征服地の人々の畏怖を集めて統治にあたりました。
短期間にカスピ海から黒海、地中海に跨る大アルメニア帝国を実現させたティグラネス2世はさらに自信をつけ、自らの名を冠した新首都ティグラノセルタをティグリス川上流に建設し始めます。紀元前83年頃から建設が開始され、紀元前77年に旧首都アルタクサタから遷都しました。
新都市は外部の攻撃に耐えられるよう強固な城壁に囲まれ、中には劇場や市場、豪華な神殿が建設されました。手っ取り早く文化的・経済的に充実させるためアルメニア人のみならず、征服した各地からアラブ人やユダヤ人、ペルシャ人、ギリシャ人を半ば強制的に移住させたと伝えられています。そのためアルメニア語の他に様々な言語が入り乱れ、短期間に国際色豊かな都市として発展しました。
この時期には、ティグラネス2世を表現したコインが発行され始めました。新首都ティグラノセルタや商業が盛んなシリアのアンティオキアで製造され、広い範囲で流通していたとみられています。
アルメニア王国 紀元前80年-紀元前68年 テトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨
表面にはティグラネス2世の横顔が表現されています。ティグラネス2世の姿を留めた数少ない例です。耳あてがついたアルメニアの王冠を被り、ギリシャやパルティアとは異なる独自性がうかがえます。王冠にはアルメニア王国の紋章である、輝く星と二羽の鷲(=ゾロアスター教の象徴)が表現されています。
アルメニア王国の紋章
裏面には幸運の女神テュケと泳ぐ河神(=アンティオキアを流れるオロンテス川、またはアルメニアのアルタハタ川)が表現され、左右には「BAΣIΛEΩΣ TIΓPANOY (=王たるティグラネス)」銘が配されています。
この意匠はアンティオキアの象徴となり、後の時代に発行されたコインにも再び表現されています。
アンティオキアのテュケ女神とオロンテス河神像
(ヴァチカン美術館蔵)
ローマ帝国 アウグストゥス帝時代に発行されたテトラドラクマ銀貨
(シリア属州アンティオキア, 紀元前4年-紀元前3年)
我が世の春を謳歌するティグラネス大王でしたが、同盟国ポントスとローマの戦争によって繁栄に翳りが生じ始めます。ポントス王国のミトラダテス6世は小アジアの支配権を巡ってローマと戦うも敗北し、同盟国のアルメニアへ亡命。ローマはミトラダテス6世の引渡しを要求しますが、ティグラネス大王はこれを拒否してローマと戦う意志を示しました。
紀元前69年夏、ローマの将軍ルキウス・リキニウス・ルクッルスはアルメニアの首都ティグラノセルタを目指して進軍を開始。対するティグラネス大王はトロス山脈でこれを迎え撃ちますが別動隊に阻まれ、その隙にルクッルスの本隊はまっすぐティグラノセルタに迫りました。ティグラノセルタを包囲したローマ軍は攻城戦を開始し、攻城兵器を投入して城壁の破壊を試みました。城内のアルメニア軍はナフサと呼ばれる粗製のガソリンを投下して抵抗したため、化学兵器が登場した最初の戦場とも云われています。
(紀元前118年-紀元前56年)
多数の彫像や金銀を戦利品としてローマに持ち帰り、莫大な富を得て悠々自適の余生を送ったといわれています。
ティグラネス大王率いるアルメニア軍とルクッルス将軍率いるローマ軍は郊外の川を挟んで対峙し、一大会戦が行なわれました。騎馬隊と重装歩兵による激しい戦闘の末、ローマ軍が勝利を収め、ティグラネス大王は戦場から離脱して逃走しました。
アルメニア軍の敗北は篭城中のティグラノセルタ市民にも伝わり、やがて強制移住させられた外国人市民の手によって城門が開かれました。なだれ込んだローマ軍は略奪と破壊を行い、ギリシャ風の劇場や神殿に火が放たれました。まだ建設途上にあったティグラノセルタは壊滅的打撃を受け、多くの市民は難を逃れるため都市の外に逃れていきました。
征服地の各地から移住させられていた市民たちは故郷へと戻され、破壊されたティグラノセルタは二度と再建されることはありませんでした。
ルクッルス将軍は逃走したティグラネス大王を追うもアルメニア軍は決戦を拒み、決定的勝利を収めるまでには至りませんでした。
紀元前68年、ローマ軍は王妃と王子が住む旧首都アルタクサタに迫り、これを阻もうとしたティグラネス大王のアルメニア軍と衝突。ローマ軍の猛攻に対してアルメニア軍は奮戦するも、突き崩され敗北。再びティグラネス大王は逃亡し、かつての宗主国パルティアに支援を求めるも叶いませんでした。
ティグラネス大王に対するパルティアの不信感は強く、逆に王子を支援して王位簒奪をけしかけました。ティグラネスは王子の反乱を押さえ込むも、今度はローマのポンペイウス将軍が王子を支援し、アルメニアは内乱状態に陥りました。
結局ローマの介入によって内乱は収束するも、アルメニアはティグラネスが得た征服地の大半を放棄させられました。さらにローマの同盟国という位置づけで影響下に置かれ、二度と大国として勢力を拡大することは許されなかったのです。
その後もティグラネスはアルメニア王の地位を維持し続け、紀元前55年に85歳で没するまでアルメニアを統治しました。その後のアルメニアはローマとパルティアの干渉を受け続けることになり、両大国の対立に左右される情勢が続きました。
1991年のソ連解体によって独立した現代のアルメニアは、歴史上最も版図を広げたティグラネス2世を神格化し、最盛期を築いた大王として民族国家の象徴に採り入れています。
現存するティグラネス大王の肖像は当時のコインのみであり、様々な場面でコインの肖像が再現されています。
500ドラム紙幣(1993年)
ティグラネス大王勲章
(アルメニア共和国国家勲章)
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
最近のコメント