【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
コロナウィルス騒動で世の中が落ち着かない昨今、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
日本をはじめ、世界各国でお互いの人の行き来を制限、または停止し、事実上の鎖国状態になっております。
国内でも東京をはじめ、都市圏では週末遊びに出ることも自粛しなければならない現状です。
こうした動きにコインの世界も無縁ではなく、世界各国で開催される予定だったイベントやオークションは中止または延期となっています。海外へコインを送る、受け取るにあたっても航空便が減便し、また欧米では会社自体が休業または少人数体制になっているため、通常よりも遅れが生じています。
ただ店舗への来店が減少する一方で、インターネットでの注文を受け付けている会社は通常よりも受注数を伸ばしている模様です。
インターネットや電話入札を受け付けているオークションでは、通常と変わらないか普段以上の価格で落札されている例もあり、巣篭り需要が分かりやすく反映されているようです。
待ちに待った東京オリンピックは延期され、株価や金価格、為替も日々激しく動き続けるこの御時世は、まさに非常時と言ってよいと思われます。もしかすると現在の時期は、ペストや天然痘やコレラ、スペイン風邪が流行した時代と同じように、後世まで長く語られるようになるかも知れません。
外出も憚られる昨今では、自宅で過ごす時間が多くなると思われます。
撮り貯めてあるDVDや積んである本を消化したり、インターネットやテレビで興味のある分野の情報を得たり、名前だけは知っている名作を鑑賞してみるなど、このような時だからこそできる、贅沢な時間の使い方をして戴きたいと思います。また、お手持ちのコインを見返して整理・調査してみたり、それが造られ、実際に流通した時代にも思いを馳せてみて下さい。
何よりもご自身の大切な体を守るためにも、この局面を乗り切って頂ければ幸いです。
さて、今回はそれと関連して古代ローマの健康・衛生の守護女神サルースをご紹介します。
今この時にもイタリアはコロナウィルスで大変な状況に置かれていますが、現在より医療技術・制度が未発達だった古代ローマでは頻繁に疫病が流行し、その度に甚大な被害をもたらしてきました。上下水道が発達し、公衆大浴場が多数存在したローマ市内といえど、決して衛生的な環境とは言えませんでした。都市の人口過密と帝国の版図拡大による交通網の広がりによって、伝染病が拡散しやすい状況にあったのです。
そのような状況下で人々は神の力によって少しでも難を逃れようとし、健康を守護してくれる神を盛んに奉りました。
中でもラテン語で「健康」を意味するサルース(Salus)は分かりやすく、人々に受け入れられやすい女神像でした。
紀元前91年 デナリウス銀貨 サルース女神
サルースはもともと農耕や豊穣を司る女神とされていましたが、やがて健康と衛生、病気の予防を具現化した女神像として認識されるようになりました。
ギリシャ神話における医術の神アスクレピオスが信仰されるようになると、その娘であるヒュギエイアと同一視されるようになり、紀元前302年頃にはローマのクィナリウス丘に神殿が建立されました。8月5日がサルースの祝祭日とされ、神殿では祭事が行われていたと考えられています。
サルースにまつわるとされた泉の水は重宝され、それを飲んで病を治癒した人々は御礼品を献納したとも云われています。
紀元前49年 デナリウス銀貨 サルース女神
このコインでは両面にサルース女神が表現されています。表面には若き娘の姿をしたサルース、裏面には蛇を手にしたサルースが表現されています。
医神アスクレピオスの杖には薬師蛇(クスシヘビ)が巻きついており、娘ヒュギエイアはその世話を任されているとされていました。そのため、コインで表現されるサルースは蛇に餌を与える容姿で示されています。この蛇は脱皮する姿から「生まれ変わり=蘇生」の象徴とされ、ギリシャではアスクレピオスの神殿で実際に飼育されていました。
医神アスクレピオスが表現されたブロンズメダル (フランス,1805年)
蛇が巻きついた杖を携えているのが確認できます。傍らにいるフードを被った少年は息子テレスフォルス。
やがてローマでもアスクレピオス信仰が広まると、ギリシャの神殿で飼われていた蛇が分けられ、各地の神殿でも大切に飼育されるようになります。本来の生息地であるヨーロッパから遠く離れたカフカスにもクスシヘビがみられるのは、一説にはローマ人がこの地に進出した際にアスクレピオス神殿を建設し、蛇が持ち込まれた証と云われています。
WHO(世界保健機関)のシンボルマーク「アスクレピオスの杖」
杯に巻きついているタイプはヒュギエイアの杯と呼ばれ、薬学の象徴とされています。
帝政時代になると、市民達の健康を守る女神=国家安寧の女神として重要視されるようになりました。歴代のローマ皇帝たちも公衆衛生は共通の関心事であったようで、多くのコイン裏面にサルース女神像が登場しています。
ネルヴァ帝 デナリウス銀貨 (AD96年)
玉座に腰掛ける女神と「SALVS PVBLICA (公共の衛生)」銘。蛇はおらず、代わりに薬草を携えた姿。
ハドリアヌス帝 デナリウス銀貨 (AD134-AD138)
籠から立ち上がった蛇に餌を与える姿。
カラカラ帝 デナリウス銀貨 (AD199-AD200)
蛇が巻きついた杖を持つ女神像。父神の象徴を携えた珍しい姿。左下にはローマ市民(または皇帝)が跪き、女神の手を取っています。
マクシミヌス帝 セステルティウス貨 (AD235-AD236)
玉座上のサルース女神が蛇に給餌する姿。他の時代も含め、歴代皇帝・皇妃たちのコインで最も多い表現パターン。
ちなみにローマの一大観光地として知られる「トレヴィの泉」にもサルース女神の像が見られます。トレヴィの泉はもともと初代皇帝アウグストゥスが、ローマ市民の公衆衛生のため、清潔な水を供給する目的で造らせた人工泉でした。18世紀にローマ教皇クレメンス12世が宝くじの販売などで得た収益金をもとに、現在のような豪華な形に生まれ変わらせたのです。
三体の内の右側、蛇が巻きついた支えを有しているのがサルース女神
コインを投げ込むと再びローマを訪れる機会が巡ってくると云われているトレヴィの泉。
再びローマへ、そして世界の様々な場所へ、心置きなく訪れられる日が来ることを願ってやみません。
皆様もどうか健康にはお気をつけいただき、御自愛いただければ幸いです。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
こんにちは。
そろそろ寒さが和らぎ始める頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
現在コロナウィルスの影響により、人が集まる行事や大規模なイベントも自粛傾向にあります。経済への影響と健康への不安とが重なり、日常生活も落ち着かないような感じがいたします。
春の訪れと共に、事態が収束することを願うばかりです。何より健康第一で、御自愛いただきたく思います。
さて今回は少し視点を変えて、現代の紙幣に描かれた古代ギリシャコインをご紹介します。
統一通貨ユーロの導入後は、ヨーロッパ各国の紙幣やコインの独自性が消えてしまいましたが、それ以前は各国の特色が表現されたデザインが数多く見られました。
特にギリシャでは古代の建築物や風俗・文化・歴史が豊かに表現されていました。
その中でもお金つながりで古代ギリシャのコインも多数の種類が表現されています。今回はそのうちの幾つかをご紹介します。
19世紀初頭にオスマン帝国からの独立を果たしたギリシャでは多種類の紙幣が発行されましたが、その多くはイギリスやフランスなど他国の印刷企業に委託されていました。
それらの多くは古代の遺跡や彫像、女性像などが表現されていましたが、1940年に銀貨の代用として小額紙幣が発行されると、そこに古代ギリシャコインのデザインがそのまま採り入れられました。
もともと銀貨のデザインは古代ギリシャ時代のコインを再現したものだったため、結果的に古代コインが紙幣のデザインに採用されることになりました。
1940年にギリシャ政府によって発行された10ドラクマ紙幣。 ↓は1930年代に発行された10ドラクマ銀貨。豊穣の女神デメーテールの横顔が表現され、ギリシャ語によりデメーテールを示す「ΔΗΜΗΤHP」の文字も確認できます。
基となったコインは、紀元前4世紀にデルフォイで発行されたスターテル銀貨とみられます。しかし裏面はルカニアのメタポンティオンで発行されたコインの麦穂が表現され、異なる古代コインを表裏で組み合わせた意匠です。↓
【表面】デルフォイのスターテル銀貨 (BC338-BC333)
【裏面】メタポンティオンのノモス銀貨 (BC330-BC290)
同じくデメーテールですが、こちらはヴェールを被らない横顔像です。
同じく1940年に発行された20ドラクマ紙幣。↓は1930年代の20ドラクマ銀貨。共に海神ポセイドンが表現され、その名を示す「ΠΟΣΕΙΔΩΝ」銘も配されています。
基となったコインはアンティゴノス朝マケドニア王国で発行された↓のテトラドラクマ銀貨です。
マケドニア王国のテトラドラクマ銀貨 (BC227-BC225)
構図の美しさから古代ギリシャコインの名品に数えられる一種です。アンティゴノス3世ドーソン王の治世下、アンドロス島での戦いにおいてセレウコス朝シリアの海軍と連携し、プトレマイオス朝エジプト軍の艦隊に勝利したことを記念して造られたとされます。
ギリシャの紙幣に古代コインが描かれるようになった時期は、戦争の影がヨーロッパを覆っていた期間と重なります。銀貨の製造から紙幣へと切り替えられたのも、緊迫する経済状況を反映しています。
1940年、イタリア軍がギリシャへ侵攻し、それを助ける形でドイツも参戦。敗北したギリシャはドイツ、イタリア、ブルガリアの三国によって分割され、1944年まで占領統治下に置かれました。
イタリアはペロポネソス半島~テッサリア平原にいたる広大な地域を獲得した一方、ドイツは戦略的に重要なアテネやテッサロニキ、クレタ島などを占領しました。
ヒトラーをはじめナチスの幹部達は古代ギリシャをヨーロッパ文明の源として崇拝し、ギリシャ占領に大きな歴史的意味を見出していました。占領中はハインリヒ・ヒムラーなどの要人も視察に訪れ、アテネのアクロポリスはさながらドイツ兵の記念撮影スポットになったほどでした。
1941年4月27日、パルテノン神殿の前には鉤十字旗が翻り、ドイツ軍が撤退した1944年10月12日まで掲げられていました。
アテネにはドイツによって傀儡の政府が立てられ、ドイツ軍によるギリシャ支配の協力機関とされました。ドイツは占領期間中の費用を全てギリシャ持ちとし、資源や食糧の徴発、パルチザン掃討作戦によって多くのギリシャ人が命を落としました。
同時期に発生した冷害の影響による農作物の不足や連合国による経済封鎖も重なり、一説には占領期間中に30万人が餓死したとも云われています。
占領時代の過酷な統治は現代にまで尾を引き、現在もギリシャ政府はドイツに戦時中の賠償を請求し続けています。
苛烈な占領統治はギリシャの経済を破綻させ、物資不足による激しいインフレーションを引き起こしました。アテネの傀儡政府はインフレ紙幣を発行し続け、通貨ドラクマの価値は下落の一途を辿りました。皮肉なことに、この時期のインフレ紙幣には古代ギリシャ時代の美しいコインが数多くデザインに採用されています。
占領期間中の紙幣印刷はドイツのギーゼッケ&デブリエント社が担い、占領下のギリシャに大量供給しました。ギーゼッケ&デブリエント社は後年ジンバブエの100兆ドル紙幣を印刷・供給し、現在ではユーロ紙幣を製造しています。
ドイツでは古代ギリシャコインの収集が盛んであったことから、原画の参考元になるコインも豊富に揃っていたと思われ、通貨のデザインとして採用しやすかったのかもしれません。
1941年 2ドラクマ紙幣
リュシマコス発行のアレキサンダーコインが表現された小型紙幣。
1941年 1000ドラクマ紙幣
マケドニアで発行されたテトラドラクマ銀貨(BC95-BC70)が表現され、アレキサンダー大王の横顔像が再現されています。
1944年 100,000ドラクマ紙幣
アテネのテトラドラクマ銀貨「フクロウコイン」が表現された大型紙幣。表面のアテネ神と裏面のフクロウが並んで表現されています。
1944年 25,000,000ドラクマ紙幣
エペイロスのディドラクマ銀貨(BC238-BC168)の両面図。表面はゼウス神とディオネ女神、裏面は牡牛。
1944年 10,000,000,000ドラクマ紙幣
シラクサの名品コイン、アレトゥーサのデカドラクマ銀貨が表現。コインが魚網にかかっているかのような構図。
100億ドラクマに相応しいデザインですが、ギリシャ本土から遠く離れたシチリア島のコインを採用した経緯が興味深いです。
あまりのインフレーションの進行によって発行された紙幣の多くは無価値となり、1944年には新1ドラクマ=旧500億ドラクマのデノミネーションが実施されますが、同年末にドイツ軍は撤退し、ようやくギリシャは解放されました。
戦後になると新紙幣が発行されますが、占領時代の名残か、そこにも古代コインがデザインとして採用されました。
1950年 1000ドラクマ紙幣
デザインに使用されたコインはエリス(オリュンピア)で発行されたスターテル銀貨(BC271-BC191)、ゼウス神と大鷲、蛇が表現されています。
ギリシャで印刷された紙幣ですが、構図は占領時代の紙幣を彷彿とさせます。
1950年 500ドラクマ紙幣
ビザンチン帝国の椀型(カップ)コインが表現されていますが、額面は現代風にアレンジされています。構図からコンスタンティノス9世の時代(1042-1055)に発行されたコインを基にしているとみられます。
1953年、再度デノミネーション(新1ドラクマ=旧1000ドラクマ)によって新ドラクマが導入され、2002年のユーロ導入まで使用され続けました。その後の50年間にも、古代コインを基にしたデザインが度々採用されました。
1964年 50ドラクマ紙幣 アレトゥーサ
1978年 50ドラクマ紙幣 ポセイドン神
1987年 1000ドラクマ紙幣 アポロ神
下にはエリス(オリュンピア)で発行されたスターテル銀貨の時代違い(BC323-BC271)が配されています。
数年後には日本でも新紙幣がお目見えしますが、今は無き過去のコインが表現された通貨は興味深いテーマだと思われます。
自分達が持つ歴史と、その連続性を重要視していることがうかがえるようです。特にギリシャの場合、昔からコイン=先人達が残した芸術遺産として評価していたことが分かります。
ちなみにご紹介したギリシャの紙幣は、インフレーション期の発行ということもあり、現代でも比較的安価に入手することができます。古代ギリシャコインの参考として、一枚お手元に置いておくのも良いかもしれません。
投稿情報: 17:10 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
1月も今週でおしまいですが、今年のお正月はいかがだったでしょうか。
暖冬といわれておりますが、外はまだまだ寒く感じられます。
インフルエンザ等も流行しておりますので、くれぐれも体調の変化にはお気をつけ下さい。
さて、今回は毎年恒例ですが、干支の動物にまつわる古代コインです。
今年は「子年」ですのでネズミのコインですが、古代のコインでネズミが表現されているものは殆ど無く、探すのに苦労しました。ようやく見つけたのが下のコインです。
ギリシャ神話には多くの動物が登場しますが、ネズミはアポロ神の聖獣とされている反面、あまり出番がありません。毒をもって毒を制す、ではありませんが、疫病の元であるネズミと、治癒の神アポロを組み合わせて崇拝の対象とすることで、現状以上の被害を食い止めようという発想かもしれませんね。
当時のギリシャ人にとっても身近な動物だったはずですが、身近であるが故に神聖性よりも、疫病をもたらすなど実害が目立ってしまったのかもしれません。。。
ノモス銀貨 BC340-BC330
イタリア半島南部の植民都市メタポンティオンで造られたノモス銀貨には、都市の象徴として麦穂が表現されていました。
シチリア島~イタリア半島南部は紀元前8世紀頃からギリシャ人植民者が移住し、豊かな土壌に恵まれた地を開拓して一大穀倉地帯へと発展させました。各植民都市はギリシャ本土を上回る豊かさと繁栄をみせ、やがてマグナ・グラエキア(大ギリシャ)と呼ばれるほど発展しました。
メタポンティオンはルカニア地方に建設された植民都市であり、現在のイタリア,マテーラ県のベルナルダにあたる地域です。近隣のヘラクレアやタレントゥムなどと同様、紀元前3世紀にローマの支配下に入るまで独立を保ち続けました。
メタポンティオンのヘラ神殿遺跡
穀物の輸出が盛んだったメタポンティオンは経済的にも繁栄し、紀元前6世紀頃からコインを発行し始めています。造型やサイズは時代と共に変化しましたが、都市の繁栄を支えた「麦穂」とメタポンティオンを示す「META」銘の組み合わせは、欠かすことのできない意匠として採用され続けました。
ノモス銀貨 BC500-BC480
冒頭でご紹介したノモス銀貨には、豊穣の女神デメーテールが表現されており、麦と豊穣の女神を組み合わせた代表的なデザインです。その他、表面は様々な神像が用いられましたが、裏面はほとんど共通して麦穂でした。しかし麦穂と共に小さなモティーフが配される場合があり、何らかの意図が込められていたと思われます。
ご紹介したコインには、麦穂の葉の上を這うように、可愛らしいネズミが一匹乗せられています。コイン自体は20mmほどですので、ここまで小さくリアルなネズミを刻み込むには相当な技を要したと思われます。このネズミは全てのコインに配されている訳ではなく、コインの型によって他の動物だったり神の姿、トングや金庫などコインを連想させるものなど、多様なモティーフが配されています。
コインの型を区別するため、または型の製作者を示すためなど、様々な推測ができますが、その意味は確定されていないようです。
しかし麦穂にネズミというのは不思議な組み合わせで、普通であれば収穫した麦を食べてしまう害獣のはずです。日本でも弥生時代に稲作が広まった際には、鼠返しがつけられた高床式倉庫が普及したほど、穀物生産はネズミとの戦いでした。
麦とネズミに身近な関係性があったとはいえ、わざわざコインに表現した理由は非常に興味深いと思われます。ちなみにイナゴが麦にかぶりつく姿もコインにされており、メタポンティオンのコイン製作現場は寛容で、遊び心が溢れていたのかもしれません。
ノモス銀貨 BC540-BC510
表面の陽刻で表現されたイナゴは、裏面の陰刻ではなぜかイルカになっています。
ネズミやイナゴが集まってくるほど豊作という意味もあるのかもしれません。日本でも縁起物として、米俵や打ち出の小槌と合せてネズミが表現されていることもあるため、転じて言えば豊かさの象徴といえるのでしょう。
ちなみにおよそ2300年を経た今年のネズミコインは、やはり「麦穂」と「ネズミ」が組み合わせされています。時代と地域が変わっても、意外と人間の考え方や連想というものは変わっていないのかもしれませんね。
オーストラリア 100ドルプラチナコイン 2020年「子年」
メタポンティオンのコインにはネズミ以外にも沢山の動物が表現されています。ここに一部をご紹介します。こうして見ると十二支に入っている動物が多く見られ、東西の文化の共通点やつながり、伝播も想像できます。
【牛】
【蛇】
【羊】
【ブタ(イノシシ)】
【グリフィン】
【ハト】
【フクロウ】
アテナ女神の象徴であるフクロウは他地域のコインにも表現されていますが、メタポンティオンの場合は表面に大きく表現された、珍しいタイプも発行されています。
ドラクマ銀貨 BC325-BC275
子年の今年も良い年になることを願っております。
本年も何卒よろしくお願いいたします。
投稿情報: 13:16 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
【謹賀新年】
明けましておめでとうございます
昨年中は沢山の方に当ブログを読んでいただきました。本当にありがとうございます。
今年も昨年中のようなペースで変わらず、ゆっくりと確実に更新していけたら良いなぁと思っております。
何卒お付き合いのほど、宜しくお願い申し上げます。
昨年は「平成」から「令和」に変わり、今年はあっという間に「令和二年」です。日常生活で元号を使う機会は多くありませんが、お釣りで手にした五百円玉や百円玉、十円玉に「令和元年」と刻まれているのを発見すると、ちょっとした感動を覚えます。
しかし昭和二十年代のギザ十円玉も時々現役で流通しているのを発見すると、少しだけ嬉しいような気分になります。光陰矢のごとしと言いますが、令和元年のコインも、あっという間に感慨深いコインになってしまうのかもしれません。
今年はオリンピックイヤーということで、56年前の東京オリンピック記念コインを掲載します。
「富士山」と「桜」という日本のお正月・新春にふさわしいデザインです。
今年のオリンピックも盛り上がると良いですね。
令和二年、2020年が皆様にとって幸多き年になりますことを、心より願っております。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
投稿情報: 00:05 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
本日はクリスマスですね。
歳の瀬が近づいて何かと忙しなく、寒さも厳しい今日この頃ですが、気分だけでも楽しくありたいものです。
さて、本日はクリスマスということで、イエス・キリストが表現されたビザンチン金貨をご紹介します。
ビザンチン帝国は東ローマ帝国とも呼ばれ、その名の通りローマ帝国が東西に分裂した後に発展した東側の帝国です。ビザンティウムに建設された都市コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に首都が置かれたため、「ビザンツ」「ビザンチン」などの通称で呼ばれています。
ビザンチン帝国はキリスト教の帝国であり、首都の位置関係からギリシャ文化の根強い風土でもありました。ローマ、キリスト教、ギリシャ文化、そしてオリエントの影響が交じり合いながら発展し、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまでの千年以上存続しました。
ヒスタメノン・ノミスマ金貨 1068年~1071年
11世紀、日本では平安時代にあたるこの当時、ビザンチンでは写真のお椀のような形状のカップコイン「サイフォス」(=Scyphos, ギリシャ語の「杯」に由来)が多く造られました。従来発行されていたソリダス金貨は純度が高く、帝国領内外で広く流通する国際決済通貨でしたが、ビザンチン帝国の領土縮小や財政悪化、さらにイスラーム帝国が発行したディナール金貨の席巻などから、次第に地位が低下しつつありました。
カップコインの製造は金の純度を低下させる一方で、少しでも通用度を維持する為、薄く延ばしてサイズを大きく見せる目的があったとも云われています。表面積が拡大した分、図像の繊細さや表現の幅も拡大し、皇帝とその一家、キリストや聖母マリアなどの聖人が組み合わせされて表現されるようになったのです。
このコインの場合、皇帝家族の5人と、崇拝の対象であるイエス・キリストが並んで表現されています。このような図像は支配者である皇帝が、神の子イエスからの信任と祝福を得ていることを示す目的があったと考えられます。
表面には皇子三兄弟の立像が打ち出されています。
非常に分かりづらいのですが、三人の周囲にはそれぞれ「KωN」「MX」「ANΔ」と配されており、左からコンスタンティオス、ミカエル7世、アンドロニコスであることを示しています。三人はそれぞれロロスと呼ばれる、刺繍飾りが施された長い上着を羽織り、宝飾の冠を戴いています。中央のミカエル7世はラバルム(キリストを象徴する記章)、二人の兄弟は十字架が付けられた宝珠を持っています。
裏面は両親である皇帝ロマノス4世と皇妃エウドキア、中央にはイエス・キリストが表現されています。左側にはロマノスを示す「PωMAN」、右側にはエウドキアを示す「εVΔΟKIA」、キリストの左右にはギリシャ語でイエス・キリストを示す「IC XC」銘が配されています。
キリストは両側の夫婦の頭に手をかざし、戴冠するような姿で表現されています。これは皇帝と皇妃の地位が、キリスト(=神)によって授けられたことを視覚的に示すものです。聖人によって戴冠される姿の皇帝像は他の時代にも表現され、キリスト教の神聖性と皇帝の権力・権威が密接に結びついていたことが窺えます。
この一枚のコインに表現された皇帝一家は、複雑な権力闘争によって数奇な運命を辿ることになります。
もともとエウドキアは先帝コンスタンティノス10世の皇妃でしたが、コンスタンティノス10世亡きあと、幼い息子ミカエルを皇帝に即位させ、自らも女帝として権力を手中に納めました。しかし当時切迫していた軍事面での脅威に対応することは難しく、すぐにカッパドキア方面の将軍ロマノスと再婚。皇帝ロマノス4世はエウドキアと前夫コンスタンティノスとの間に生まれた三人の息子達を共同統治者にし、即位の正統性を示しました。
11世紀初めのビザンチン帝国版図
ロマノス4世が即位した頃、既にイタリア半島南部のビザンチン領はノルマン人に侵食され、ブルガリアでは反乱が勃発、イスラーム勢力であるセルジューク・トルコが東方から押し迫っていました。軍人皇帝ロマノスは西方や北方の勢力とは和睦し、東方のセルジュークと対決する方針を採ります。
1071年、ロマノスは大軍を率いて出撃し、一気にセルジューク軍を駆逐しようと試みました。しかしマラズギルトで行われた会戦において味方の裏切りに合い、数に劣るセルジューク軍に敗北。ロマノスは捕えられ、セルジュークのスルタンの前に引き立てられました。ローマ皇帝が敵軍の捕虜となったのは、3世紀半ばにウァレリアヌス帝がササン朝に捕えられて以来でした。
捕らわれたロマノスはスルタンに足蹴にされ、コンスタンティノポリスへは身代金の要求がなされました。しかし皇妃エウドキアは敵の捕虜となった夫に見切りをつけ、息子たちを立てて新体制の確立を図りました。しかし再び権力を得たエウドキアもすぐに退位、修道院入りを余儀なくされてしまいます。
結局ロマノスは金貨150万枚で釈放され、コンスタンティノポリスへ帰されましたが、息子ミカエル7世を新皇帝とする臣下たちによって捕らえられ、失明させられた後に追放されてしまいました。(※当時、皇帝は五体満足の者という条件があった)
こうした混乱はビザンチン帝国の衰退を象徴する出来事であり、小アジアの大半はセルジューク・トルコの支配下に入ることとなりました。この後、小アジアのトルコ化が進み、キリスト教徒による失地奪回を目的とした十字軍が結成されることになったのです。
今回は2019年最後の更新となります。
平成から令和へ移り変わった本年も残すところあと僅か。来る2020年が、皆様にとって良い年であることを心より願っております。
今年も1年間ご覧いただき、誠にありがとうございます。
来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
投稿情報: 18:48 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
11月も末になり、寒さも厳しくなって参りました。
「令和元年」の今年も残りあと一ヶ月。健康第一で新しい年を迎えたいものです。
さて、今回はローマコイン・・・に含まれるのか曖昧な古代コイン、「ガリア帝国」で発行されたコインをご紹介します。
この時代、地域のコインはマイナーなため扱いも難しく、ローマコインを収集している方でも対象外にしている場合が多いようです。
しかしDavid Sear氏のローマコインカタログ『ROMAN SILVER COINS』『ROMAN COINS AND THEIR VALUES』、さらに『THE ROMAN IMPERIAL COINAGE』でも掲載されていることから、ローマコインの一種として見做されているようです。
3世紀の軍人皇帝時代、ローマ帝国各地では皇帝を称する軍人達が名乗りを上げ、まさに混乱状態にありました。多くの自称皇帝たちはすぐに鎮圧されるか、内部の裏切り・反乱によって短い治世を終えましたが、ガリア~ゲルマニアを拠点としたポストゥムスはその地位を一応確固たるものにし、彼の築いた「ガリア帝国」は15年にわたって独立国家であり続けました。
「ガリア帝国」とはその名の通り、ガリア地方(現在のフランス)を中心とした国家であり、その領域はガリアをはじめヒスパニア、ブリタニア、ゲルマニアの一部にまで及びました。現在の地図に当てはめるとポルトガル、スペイン、フランス、イングランド、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、ドイツの一部を含んだ、西ヨーロッパ諸国を包括する広大な領域です。
263年頃のガリア帝国版図 (赤色の部分)
首都は当初コロニア(コロニア・アグリッピナ、現在のドイツ西部 ケルン市)と定められ、ローマと同じく宮廷と元老院、毎年選出される執政官職が設けられました。皇帝の称号もローマ皇帝とほぼ同じでしたが、ローマ本国へ攻め上ることはせず、並立する政権の一つとされていました。
ガリア帝国内ではローマ時代の造幣所が多数存在したことから、それらを活用して独自のコインも多く発行していました。後世にはライン川流域をはじめ、ドイツやフランスで多く出土しています。
今回はガリア帝国で発行されたコインを通し、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』やクリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』などを基にしながら、その歴史を辿ります。
・初代皇帝ポストゥムス (在位:AD260年~AD269年)
アントニニアヌス銀貨
ガリエヌス帝治世下の260年秋、下ゲルマニア総督だったポストゥムスはローマ中央に対して反乱を起こし、ライン方面の軍の支持によって皇帝を宣言。これをもって「ガリア帝国」が成立したと見做されています。彼自身ローマ人ではなくガリア人とされ、これが事実ならばカエサルとヴェルチンジェトリクスの戦い以降、ようやくガリア人がローマに対して一矢報いたことになります。
反乱に際してガリエヌス帝の息子サロニヌスが逮捕・処刑されたにも関わらず、ローマ軍はすぐには反乱鎮圧に動きませんでした。その間、ポストゥムスはライン川を越えてくるゲルマニアの蛮族対策に注力し、国境防衛の確立、自らの基盤固めを推進することができました。AD265年になってようやくガリエヌス帝が失地奪回に動き出しましたが、戦いの最中に皇帝自身が負傷した為、すぐに中止されました。
ポストゥムスは軍人としても統治者としても才覚があったらしく、この不安定な地域を纏め上げて国家として確立させ、その地位を10年近くにわたって保持しました。
特に彼の治世では貨幣の発行にも力が入れられていたことが、残されたコインから分かります。ローマ本国のコインはインフレーションの進行から年々質を低下させ、刻印自体も繊細さを欠くようになっていました。ポストゥムスが発行したコインはローマが発行したコインより明らかに質が高いことから、造幣所の改良が行われていたとみられます。
アウレウス金貨 (大英博物館収蔵)
ポストゥムスのコインは治世の長さ、最盛期だったこともあり種類が豊富です。その多くは従来のローマコインと同じく、表面に皇帝の肖像、裏面にローマの神々が表現されたものです。
しかし金貨に関してはそれまでのローマの皇帝たちとは異なる、正面像のコインが造られました。古代ギリシャでは正面像のコインがみられますが、ローマのコインではほとんど例がありません。特に金貨は材質の柔かさから磨耗しやすく、皇帝の肖像が摩滅する恐れがある為、まず採用されてきませんでした。
ポストゥムスはメダルのようなアウレウス金貨を発行し、技術力と芸術性の高さを見せつけました。かつてのハドリアヌス帝の彫像を思わせるような、写実的で立体感にあふれる表現です。
2セステルティウス貨
ポストゥムスが発行したコインで注目すべきは「2セステルティウス」と呼ばれる大型銅貨を発行したことです。ローマ本土ではトラヤヌス・デキウス帝(在位:AD249年~AD251年)の治世に発行された以来であり、大変珍しい存在です。肖像は月桂冠の代わりに「光の冠」を戴き、通常のセステルティウスより若干重いことが特徴です。また、元老院権限による発行を示す「S C」銘が省略されているものもみられます。
なお、ガレー船の意匠はポストゥムスのコインに盛んに見られ、これはポストゥムスがブリタニアへ遠征したことを示すと云われています。
それ以外のコインはアントニニアヌス銀貨が多く発行され、多様なバラエティがみられます。実際、埋蔵量の多さ、出土品などから、兵士への給与や都市での流通ではアントニニアヌスが主要な地位を占めていたと考えられます。
幸いなことに、そのためポストゥムスのアントニニアヌスは現在でも比較的入手しやすく、バラエティごとに収集しやすい古代コインの一種です。わずか15年だけ存在した古代の国でも、コインはしっかりと残されている点が面白いところです。
ポストゥムスの治世は、彼自身の厳格さが仇となって終わることになります。
AD269年、ポストゥムスに反旗を翻したラエリアヌスの軍を鎮圧した際、反乱軍の拠点だった都市モグンティアクム(現在のドイツ、マインツ市)で略奪を働くことを自軍兵士に認めませんでした。命がけの勝利後の略奪を楽しみにしていた兵士たちは憤り、それが原因となってポストゥムスは暗殺されたと云われています。
卓越した指導者の死によって、彼によって支えられていたガリア帝国は急速に瓦解していくことになります。
・反乱皇帝ラエリアヌス
アントニニアヌス貨
自称皇帝ポストゥムスに対して皇帝位を自称して対抗したラエリアヌスは、モグンティアクムを拠点として軍団を保持していました。しかしそれ以外の地域ではポストゥムスに対する支持があつく、結果的にポストゥムスに敗れてしまいます。皮肉にもこの自称皇帝同士の戦いは、共に命を奪われる悲劇的な結末を迎えました。
ラエリアヌスも皇帝としてコインを発行し、自軍の兵士達に配ったようですが、その品質はライバルであるポストゥムスのものと比べて劣ります。しかし現在となっては、長い治世で比較的安定して発行されたポストゥムスのコインよりも希少価値があり、高値で取引されています。
・第二代皇帝マリウス (在位:AD269年)
アントニニアヌス貨
勝者亡き戦いの後、ポストゥムスの後継者となったマリウスは軍人出身であり、もとは鍛冶屋だったとも云われています。その治世は短く、極端なものでは2日間、長いもので3ヶ月と記述にばらつきがあります。その最期は個人的な口論の末、部下に絞め殺されたとも、鍛冶屋だったマリウス自身が作った刃物で刺し殺されたとも伝えられています。
しかしマリウスのコイン自体は現存していることから、治世はそこまで短くなかったとみられます。
・第三代皇帝ウィクトリヌス (在位:AD269年~AD271年)
アウレウス金貨
ポストゥムスの腹心だった軍人ウィクトリヌスの治世は、まさにガリア帝国崩壊の期間でした。ウィクトリヌスの即位を認めないヒスパニアはローマへ帰順し、反攻に転じローマ軍も失地を奪還しつつありました。また国内でも部族による反乱が相次ぎ、ウィクトリヌスはその対応を迫られていました。まさにローマのガリエヌス帝のミニ再現のような状況でした。
史書の伝えるところによれば、ウィクトリヌスは優秀な軍人である反面、好色淫乱を好み、部下の妻達に関係を強いたとさえ云われています。そして高官アッティティアヌスの妻と関係した後、怒りに燃える夫と側近達によって斬殺されたと伝わります。
後継者無きあと、崩壊に向かうガリア帝国でこれを押し留めたのはウィクトリヌスの母親ウィクトリアでした。彼女は息子亡き後も権力の座を保持するため、軍団に金をばら撒いて支持をとりつけ、崩壊を何とか遅らせることに成功します。ウィクトリアは「アウグスタ」「軍団の母」などの称号で飾られ、ポストゥムス亡き後のガリア帝国の影の実力者でした。
エドワード・ギボン著書『ローマ帝国衰亡史』の記述に寄れば、「彼女の名を刻した銅貨、銀貨、金貨が鋳造され・・・」とありますが、ローマコインのカタログ・資料には記載がありません。
ウィクトリアは軍の支持を得られ、自らの思い通りに動く傀儡皇帝としてテトリクスを指名します。この決断が、ガリア帝国の崩壊・消滅につながります。
・第四代皇帝テトリクス (在位:AD271年~AD274年)
アウレウス金貨
テトリクスはガリアの名家出身とされ、ガリア帝国成立後はアクイタニア総督の地位に在りました。皇帝に指名された後は同名の息子(テトリクス2世)をカエサル(副帝)にし、後に共同統治帝にしました。首都をコロニアからアウグスタ・トレウェロルム(現在のドイツ,トリーア)に遷都するなど、国内の建て直しに尽力しました。
テトリクス2世のアントニニアヌス貨
しかしウィクトリアの傀儡であることに変わりなく、またいつ軍が反旗を翻すか分からない状況では、テトリクスも不安を増していったと思われます。この時期、ローマでは武帝アウレリアヌスによって帝国の再統一が推し進められており、何とか分離独立状態を保っていたガリア帝国への侵攻も時間の問題となっていました。
この頃に発行された金貨は高品質を維持していましたが、大量に造られるアントニニアヌスはポストゥムス時代と比べて劣化し、ほぼ銅貨といってよい状態でした。これほどまでガリア帝国は外部・内部から追いつめられていたのです。
末期のガリア帝国版図 (緑色)
武帝アウレリアヌスによるガリア侵攻が目前に迫る中、テトリクスはアウレリアヌスに密使を送ります。その内容は自身と息子の安全を保障する代わりとして、「ガリア帝国」を引き渡すというものでした。
また言説によると、ローマ軍によるガリア侵攻を持ちかけたのはテトリクス自身であり、自軍のプレッシャーに脅かされている現在の境遇から救ってもらうよう、アウレリアヌス帝に懇願したとまで云われています。これが漏れ伝わればそれこそテトリクスは血祭りに上げられそうです。
そのような密約が本当にあったのか、AD274年、シャロン・スュル・マルヌでのガリア軍とローマ軍の決戦が始まるや否や、ガリア軍最高司令官テトリクスはあっさりと敵陣中に向かって逃走。ガリア軍は混乱しながらも奮戦しますが、テトリクスの指示によって不利な陣形が取られていた為、ローマ軍を相手に壊滅的敗北を喫します。
こうしてポストゥムスからはじまり、15年にわたって存続したガリア帝国は儚く消滅し、全土は再びローマ帝国に統合されたのでした。
現在の西ヨーロッパ諸国を統合していた「ガリア帝国」ですが、もし首尾よくこのまま独立状態を保ち続けていたらどうなっていたのでしょうか。現在のヨーロッパ、そして世界の地図は大きく変わっていたかもしれません。
アウレリアヌス帝のアントニニアヌス貨
最後のガリア皇帝 テトリクスの物語には後日談があります。
アウレリアヌスは分裂状態にあったローマ帝国の再統一を果たし、「世界の復興者」という尊称を得、その集大成というべき盛大な凱旋式をローマで執り行いました。
数々の戦利品、捕虜、戦車、軍団のパレードの列に混じり、捕虜となったテトリクス親子も参加させられていました。ガリア人のズボンを履き、サフラン色の短上着、そして皇帝の象徴である紫の衣を纏った姿でローマ市内を行進させられたのです。
誇示心を満足させたアウレリアヌス帝は約束どおり、テトリクス親子の身の安全を保障するだけでなく、地位と財産を回復させることまで許しました。名誉回復後、テトリクスはカエリウスの丘に建てた新居にアウレリアヌス帝を招き、晩餐を共にしながら親しく談笑したそうです。
テトリクスはルカニア地方の行政官に、息子は元老院議員となり、数奇な生涯の余生を平和に過ごしたと云われています。
投稿情報: 17:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月は秋らしい日が続いておりますが、台風や大雨による天候不順・災害も多い月でした。
被害に遭われた方々へは、心よりお見舞いを申し上げます。
今回は古代ローマの皇帝 マルクス・アウレリウスのコイン肖像を取り上げたいと思います。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:AD161-DA180)はローマ五賢帝の一人として知られ、高校世界史などでは『自省録』を著した哲人皇帝として有名です。
彼は2世紀後半のローマ帝国を20年近く統治しましたが、その治世は疫病や戦争も多く、哲人皇帝にとっては必ずしも平穏な時代とはいえませんでした。
統治期間中、それまでの皇帝たちと同じように多様なコインが発行されていましたが、マルクス・アウレリウスの場合、義父である皇帝アントニヌス・ピウスの時代 (在位:AD138-AD161)に後継者となったため、既にコインにその姿が表現されていました。
マルクス・アウレリウスのコインは周囲の称号と肖像の推定年齢が大まかに一致するため、コインが新たに製造される際には肖像が年齢相応のものに更新されていたとみられます。
初代皇帝アウグストゥスや二代皇帝ティベリウスは70代までその地位にありましたが、コインの肖像は常に30代の若い姿で固定されていました。対して非常に若々しい青年時代~晩年・死後の発行貨まであるマルクス・アウレリウスのコインは、当時のローマ人の年齢変化、人生観を鑑みる上で大変貴重な史料です。
尚、共同統治帝として共に即位した義弟ルキウス・ウェルス(在位:AD161-AD169)は即位前のコインは無く、在位期間も短かったため、コインの肖像はほとんど変化をみせませんでした。
また、マルクス・アウレリウスの妻ファウスティナは、父帝アントニヌス・ピウスの時代からコインが発行されていますが、髪形に多様な変化が見られる一方で顔つきは大きく変化しておらず、少女のように若々しいままでした。
【青年期 (副帝時代)】
AD140-AD144 デナリウス銀貨
AD140-AD144 デュポンディウス貨
マルクス・アウレリウスが初めてコインに表現されたのはAD140年、義父アントニヌス・ピウス帝の治世下でした。その前年には義父によって副帝(CAESAR)の地位に就けられています。
表面に冠を戴くアントニヌス・ピウス帝、裏面に無冠の青年マルクス・アウレリウスが表現されています。発行年代から考えると18歳~20歳頃の肖像とみられます。哲人皇帝の象徴といえる髭はまだなく、青年というよりは少年のような幼さを残しています。しかし豊かな巻毛は年を経ても変化せず、現存する彫像の特徴とも一致しています。
同時期に製作されたマルクス・アウレリウスの彫像
AD140-AD144 デナリウス銀貨
マルクス・アウレリウス単体で表現されたコイン。若々しく利発そうな青年として表現されています。裏面には儀式で使用する神器群が表現され、神祇官としての権威を象徴しています。
微笑むような優しげな表情は、将来の皇帝の人徳に対する期待感の表れかもしれません。
AD144 デナリウス銀貨
AD143 デナリウス銀貨
20歳以降の青年像。顔つきは大人として変化し、頬と口の周りには若干の髭が生えているのが確認できます。マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者を意識して顎鬚を伸ばしたとされていますが、既にこの頃から少しづつ髭を伸ばし始めていたことがわかります。
同時期の彫像にも、同様に若干の髭が見受けられます。
AD151-AD152 デナリウス銀貨
30歳頃の肖像。既に髭は生えそろい、良く知られるマルクス・アウレリウス像に近い顔つきになりました。
【壮年期 (治世初期)】
AD161 デナリウス銀貨
アントニヌス・ピウス帝が崩御し、マルクス・アウレリウスが皇帝に即位した直後の時期に発行されたコインの肖像。即位時の年齢から39歳~40歳頃を表現したものとみられます。聡明そうな目つきと立派な髭は、まさに哲人を思わせる風貌です。
皇帝となっても副帝時代と同様、無冠の姿で表現されています。これ以降、月桂冠を戴く姿で表現されるようになります。
AD166 デナリウス銀貨
AD166 アウレウス金貨
対パルティア戦争の戦勝記念コイン。マルクス・アウレリウス帝の治世はその初期から対外戦争の遂行に費やされました。東方のパルティアを攻めるため、マルクス・アウレリウスは義弟で共同統治帝のルキウス・ウェルスを派遣し、自らは首都ローマで帝国内の統治を行いました。
髭が増え瞼の表現が変化したせいか、肖像も即位当初より老けて見え、心なしか疲れたような印象を受けます。先帝アントニヌス・ピウス帝の治世とは異なり、コインにも軍事色が強い意匠が多く採用されるようになりました。
【中年期 (治世中期)】
AD172 セステルティウス貨
AD172 デナリウス銀貨
50歳頃の肖像になると、即位当初より明らかに老け、顔つきも快活なものから老練で落ち着きのある人物像に変化しています。
パルティア戦争後は疫病の流行やルキウス帝の死去、ゲルマニアでの反乱、信頼する忠臣の謀反、さらに妻ファウスティナの不貞や息子コンモドゥスの不品行によってマルクス・アウレリウスの心身は疲弊していきました。首都ローマを離れ、奥深い森が広がるゲルマニアを転戦する陣中で『自省録』が著され、現代に至るまでマルクス・アウレリウスの考えが伝えられています。
生来生真面目なマルクス・アウレリウスは厳しい陣中にあるときでさえ政務をこなし、辺境の地で戦いながら帝国を統治しようと努めていました。しかし身体の不調を抑えるために服用していた薬にはアヘンが含まれていたため、徐々に身体を蝕まれていたと云われています。
【晩年期 (治世後期)】
AD173-AD174 デナリウス銀貨
AD178-AD179 デナリウス銀貨
50歳代末、晩年に発行されたコインの肖像は、目の表現に差異が見られるものの、より年老いているように見えます。既にこの頃、皇帝がローマに常時滞在することはほぼなくなっていました。そのためローマ造幣所の彫刻師は、なるべく最新の彫像などを参考にしながら新コインを作成したと考えられています。
AD180年、マルクス・アウレリウスはドナウ川方面で戦っている軍を指揮するために赴いたウィンドボナ(現在のオーストリア,ウィーン)で体調を崩し、側近や息子に囲まれながら60年の生涯を閉じました。
【没後 (コンモドゥス帝治世下)】
AD180 デナリウス銀貨
息子コンモドゥスがローマに帰還した後、元老院はマルクス・アウレリウスを神格化しました。このコインは神格化されたマルクス・アウレリウスを顕彰する為、コンモドゥス帝によって発行されました。
60歳で亡くなったマルクス・アウレリウスの肖像。従来の肖像と比べると最も老齢になっていますが、顔つきは凛凛しさを取り戻しています。また、即位前の青年時代と同じように無冠の姿です。皇帝という重責を全うして解放され、神となった哲人皇帝の姿を見事に表わしています。
マルクス・アウレリウスは副帝時代を20年、皇帝時代を20年経験しているため、合計40年分のコインが存在します。肖像も10代後半~60歳までと幅広く変化が見られます。一連のコインを並べて比較すると成長と変化を追うことができるので、収集にも最適なテーマといえるでしょう。
肖像から千年以上前を生きた人間の人生を辿ることができるという点で、コインの史料的価値の高さが改めて実感できます。
こんにちは。
9月も終わり、だんだんと秋らしい空気になっていますね。
10月1日から消費税が8%→10%に値上げされ、今後の消費傾向も気になりますが、古代コイン市場の動きも少しずつ変化しています。
昨年~今年にかけて、海外のコインオークションをみると値上がりがますます大きくなっているように感じられます。
それ以前の問題として、状態の良いもの、ありふれた種類のコインの出物自体が減少し、結果として相場に反映されている印象です。
オークションでなかなか落札・入手することができず、入荷数の減少が最近の悩みですが、古代のコインは現存していること自体貴重であり、数に限りがあるものなので、納得できる傾向でもあります。
どこかの遺跡から大量にコインが出土し、市場に供給されれば別ですが、
今の時代はそれも難しそうです・・・。
さて、今回は古代ギリシャを代表するコインのひとつ、古代都市キュメで発行された女戦士 アマゾネスのコインをご紹介します。
このコインも、大型の古代ギリシャコインとしては比較的入手しやすい一種でしたが、やはり近年は状態が良いものは値上がり傾向が激しく、納得のいくグレードのものが入手し難くなっています。
BC155-BC143 テトラドラクマ銀貨
このコインは紀元前2世紀半ばの小アジア西部、アイオリス地方の古代都市キュメで発行されました。キュメはエーゲ海の近くに位置し、同地方の主要都市のひとつとして繁栄していました。アイオリスの諸都市はペルガモン王国に従属しながら、高度な自治権を認められていました。
この時代のキュメで発行されたテトラドラクマ銀貨は、直径約30mm、重量約16gの大型コインです。こうした大型銀貨はヘレニズム期、小アジア西部の各都市で流行し、類似の例が多くみられます。
アイオリス地方の位置
アマゾネス(またはアマゾン)はギリシャ神話に登場する女戦士部族であり、黒海周辺に住むとされていました。アマゾネスたちは女王を中心としながら集団で狩猟生活を営み、狩猟の女神アルテミスを崇拝しているとされ、その先祖は軍神アレスにつながると位置づけられていました。
また馬術と弓術に長けたことから戦闘に強く、周辺諸国に従属せず独立した勢力を保つ武装集団とされました。こうした特徴は北方のスキタイ人などに類似していることから、実在の騎馬民族集団を基にしてアマゾネス伝説が生まれたと考えられています。
アマゾネス像 (カピトリーニ博物館)
子どもは他部族の男と交わって得るも、生まれた子が男児ならば殺してしまい、女児だけを育て、女だけの集団を維持すると云われました。彼女たちは弓を引くときに邪魔にならないよう乳房を切除したため、「a(否定形)+mazos(乳房)=アマゾン」と呼ばれるようになったと伝えられますが、実際の彫刻や壺絵に表現されたアマゾネスは乳房があり、名称とは相反する表現が大半です。
尚、南米のアマゾン川はヨーロッパ人が同地を探検した際、女性だけの部族に襲撃されたことから名付けられたという説があります。
アマゾネスはトロイ戦争やヘラクレスの功業、アレキサンダー大王の伝承にいたる様々な神話・伝説に登場します。特に小アジアには数多くの伝説があり、ホメロスの『イリアス』には小アジア各地を制圧したアマゾネス軍が、英雄たちによって退けられる物語も語られています。
このコインに表現されたアマゾネス像は、都市名の由来になった「キュメ」というアマゾネスとされています。アマゾネス軍が小アジアを南下する過程で、アイオリスで武功を立てたキュメが自らの名を冠した都市を建設し、そのまま都市の象徴になったと伝えられています。
都市の名称に由来する神やニンフ(妖精)をコインに表現する例は多く見られますが、アマゾネスを表現する例は小アジアの幾つかの都市にのみ見られます。
髪の毛は紐によって結い上げられ、短髪のようにも見える姿。動きやすく、活発で逞しい女性像です。
しかしアルテミスのように弓矢を有する姿ではなく、武器をはじめ他のモティーフが排除されたすっきりとした造型です。このコインがキュメで発行されたものと分からなければ、この女性像が勇ましいアマゾネスとは認識できないでしょう。
左のキュメ像には刀傷のような線が見られます。陽刻であることから極印に最初から入っていたものですが、右のキュメ像にはありません。
他のコインにも同様の線があるものがみられることから、製造時のミスではなく、何かの印だった可能性があります。
裏面には月桂樹のリースに囲まれた馬が表現されています。馬には手綱がつけられており、軍馬であることが分かります。当時のキュメの主要産品、またはアマゾネス・キュメの武功を象徴しているといった解釈ができます。
なお、裏面デザインをリースで囲むスタイルはヘレニズム時代に広く流行したスタイルであり、他の都市でもほぼ同時期に多く造られました。
当時のテトラドラクマ銀貨は貿易で多く利用されたことから、他の地域でも流通したと考えられます。当時のギリシャ人たちはコインのデザインから、この銀貨がアイオリスのキュメで造られたことをすぐに理解できたと思われます。
しかしこのコインが造られた紀元前2世紀以降、キュメをはじめ小アジアの大半はローマの支配下に入り、徐々に独立性が失われていきました。ローマ時代は独自の大型銀貨を発行することもなくなり、都市内で流通する小銀貨や銅貨のみになってしまいました。
アマゾネス・キュメのコインは、アイオリスの主要都市キュメが最も繁栄し、華やかだった時代の象徴になっています。
現在では芸術性の高い古代コインの一つとして、多くのコレクターや古代愛好家から注目されています。
出土したキュメのテトラドラクマ銀貨(アンティオキア博物館)
投稿情報: 17:27 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月になり、秋らしい空気を感じるようになりました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、皆様もどうかお気をつけて。
さて、今回はアレキサンダーコインについてお話したいと思います。
とはいってもマケドニア王国やその後のギリシャ諸都市が発行したものではなく、ローマ人によって発行されたアレキサンダーコインです。
画像のコインは紀元前95年~紀元前70年頃にかけて、マケドニアの都市テッサロニカで造られたテトラドラクマ銀貨です。いわゆる「アレキサンダーコイン」の中では比較的新しく、アレキサンダー大王の没後200年以上を経て発行されたタイプです。
表面にはかつてのマケドニア王アレクサンドロス3世(在位:BC336-BC323)の横顔肖像が打ち出されています。また、下部には分かりやすく発行地マケドニアを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ」銘が配され、左側には「Θ」銘が確認できます。
このアレキサンダー像は、大王配下の将軍リシマコスが発行したコインを基に作成されたとみられ、側頭部には大王の神聖性を示す巻角(=アモン神の象徴)が確認できます。
リシマコスによって発行されたテトラドラクマ(BC288-BC281)
しかしオリジナルのコインと比べると頭部は縮れ毛になっており、巻角もほぼ同化しています。凛凛しく逞しい顔つきは中性的になり、女性にも見える表現です。
これとよく似た表現は、同時代のローマで発行されたデナリウス銀貨にみられ、ローマとマケドニア、両地域の関係性がうかがえます。
ローマで発行されたデナリウス銀貨(BC55)。ローマ人の守護神ゲニウスとされる。
一方、裏面のデザインは従来のアレキサンダーコイン(=ゼウス神、アテナ神など)とは大きく異なり、独自性が溢れたデザインになっています。
左側には徴税などで使用された金庫、中央には棍棒、右側には椅子が表現され、上部にはギリシャ文字ではなくラテン文字で「AESILLAS」銘と「Q」銘が配されています。さらに周囲部はオリーヴのリースによって囲まれています。
これらのデザインには、コインが発行された背景が明確に反映されています。
このコインが発行された当時、マケドニアはローマの支配下にありました。第三次マケドニア戦争の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国はローマ軍によって滅ぼされ、王国は四つの自治領に分割されました。ローマの属領になったマケドニアは、アンフィポリスやテッサロニカなどの都市を中心としながら分割統治されたのです。
分割時代のマケドニア、アンフィポリスで発行されたテトラドラクマ銀貨 (BC167-BC149)。棍棒と共に、四分割された第一管区であることを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ ΠΡΩΤΗΣ (マケドニアの第一)」銘が配されている。
しかしアンティゴノス朝滅亡から20年後、マケドニアの住民はローマに対して反乱を起こし、第四次マケドニア戦争が勃発します。軍事力によってこれを制圧したローマはマケドニアに残されていた自治権を剥奪し、紀元前146年に「マケドニア属州」に再編、完全な直轄支配下に置きました。
これによってローマの東方拡大が本格化し、後のローマ帝国への大きな一歩となりました。
最初にご紹介したアレキサンダーコインは、ローマによって属州化された時代に発行され、その発行にはローマ軍の戦略的な意図が込められていました。
マケドニア戦争を経てバルカン半島~ギリシャに本格的に進出したローマ軍は、イタリアとマケドニアを結ぶ街道を整備しました。この「エグナティア街道」はデュラッキウムからペラ、テッサロニカ、アンフィポリスを経てトラキア、ビザンティウムへ至る重要な街道であり、小アジア進出の足がかりとなる地理的重要性を有していました。
後にスッラやポンペイウス、ブルートゥス、カエサルやマルクス・アントニウスなどの英雄が行き来し、数々の決定的会戦の舞台となった、ローマ史にとっても欠かせない要衝となります。
エグナティア街道
テッサロニカはこの街道沿いにあり、マケドニア属州の州都となった。
紀元前88年、小アジア北部ポントス王国のミトリダテス6世はローマ軍と戦端を開き、三次にわたる「ミトリダテス戦争」が勃発します。小アジア北部への通路であるエグナティア街道はローマ軍の往来がより激しくなり、軍団にとって安全な進路を確保することが重要課題となりました。
当時、ビザンティオンにいたるトラキア南部は好戦的な部族が多くおり、しばしばローマ軍と戦いになることもありました。しかしミトリダテスとの戦いに戦力を温存しておきたいローマ軍は、戦いによってトラキア人を殲滅するのではなく、より経済的な方法で解決しようとしました。
ローマ軍はトラキア人に金銭を支払うことで彼らを懐柔し、むしろ有力な協力者とすることにしました。その際、用いられたのが「アレキサンダーコイン」でした。ローマ人にとってこの銀貨は単なる決済手段ではなく、矢にも匹敵する強力な武器でした。
ビザンティウムからヘレスポントス海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えた先にはビテュニア王国があり、ローマは同盟国として支援していました。紀元前95年頃にポントス王国がビテュニアを攻撃した際、ローマはビテュニアを支援し、ポントスとの対立を明確なものにしていきました。
それ以降、このアレキサンダーコインは継続的に造られるようになり、さらにミトリダテスとの戦争が本格的に始まると、戦略上の理由から大量に製造されるようになったと考えられています。
アレキサンダー大王の肖像はトラキアで古くから流通していたリシマコス発行のものを踏襲し、トラキアの部族にとって馴染み深いものとしました。
裏面に自治領時代のアンフィポリスで発行されたコインに採用されていた「棍棒」を使用し、馴染み深さを増して価値の信用度を高めました。
重量はアテネで発行され、アレキサンダーコインにも採用されていたアッティカ基準を採用、裏面のオリーヴのリースはそれを象徴しています。
アテネ テトラドラクマ (BC136-BC135)
裏面に表現された金庫と椅子は、属州に派遣され軍団の物資調達、給与支払いに権限を持っていた「財務官」を象徴しており、椅子の上の「Q」銘はローマの財務官(=Quaestor)を示します。
つまり、上部に刻まれている「AESILLAS」銘は、コインを発行した当時の財務官アエシラスの名銘であることが分かります。
この新しいタイプのアレキサンダーコインは、当時のトラキア人に広く受け入れられたようで、マケドニア~トラキアのあらゆる地域で出土しています。トラキア人の信用度が非常に高く、広範囲で流通したことから、財務官アエシラスが任地を去ってからも「AESILLAS」銘でコインは製造され続けたとみられています。
ローマ軍の作戦は功を奏し、安全な進路を確保したことで軍団と物資はスムーズに輸送されました。紀元前63年にミトリダテス戦争はローマ軍の勝利によって終結し、小アジアの大半がローマの支配下に入りました。
その後もローマは東方への拡大を続け、アレキサンダー大王の後継者達が建てた国々(セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を次々と征服してゆきました。
マケドニアを征服したローマ人が、さらなる東方進出に用いた武器がアレキサンダーコインだったとは、まさに歴史の皮肉といえるでしょう。
アレキサンダー大王はカエサルやオクタヴィアヌス、トラヤヌスやカラカラも憧れた歴史上の英雄でした。ローマ人は壮大なアレキサンダーの征服事業を、そのままローマ帝国の拡大と繁栄に重ね合わせたのだと思われます。
こんにちは。
梅雨空から一転、太陽が照りつける蒸し暑い日が続いておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
まだ昨年よりは暑さが和らいでいるように感じますが、それでも暑いことには変わりありません。
熱中症等にならないよう十分注意していただき、令和最初の夏を楽しいものにしていただきたいと思います。
「夏」を感じるもの、風物詩といえば様々ありますが、音でイメージできるものといえば「セミの鳴き声」ではないでしょうか。
東京都内は樹が少ないからか、または暑過ぎて虫も活動できないのか、今年はまだセミの声が少ないように感じます。
そこで今回は夏の虫、「セミ」が表現された古代ギリシャのコインをご紹介します。
古代ギリシャ人にとってセミはかなり身近な昆虫だったようで、多産の象徴であるミツバチに次いでよく登場する昆虫です。多くは構図の一部分に小さく表現されていることから、作成した彫刻師や、型を区別するために配された可能性もあります。
ケルソネソス BC400-BC350 ヘミドラクマ銀貨
裏面の一部に小さなセミが確認できます。このコイン裏面は多様なモティーフが配され、他にもミツバチやブドウ、カドゥケウス(伝令使の杖)などが表現されています。セミは全てのコインに見られるわけではありませんが、比較的よく表現されているモティーフです。
もしこのコインをお持ちの方は、ぜひ裏面を確認してみてはいかがでしょうか。
ファセリス 紀元前4世紀 スターテル銀貨
ガレー船にはゴルゴンの顔、海中にはイルカの姿が確認できます。船に対して異様に大きなセミが表現されており、リアルな存在感を放っています。
アンブラキア BC360-BC338 スターテル銀貨
アテナ女神の隣に配されたセミ。女神の顔の大きさと比べると存在感があります。
テネドス 紀元前5世紀末~紀元前4世紀初頭 ドラクマ銀貨
ヘラ女神とゼウス神が表現されたコイン。裏面の斧の下には、葡萄と並んでセミが表現されています。かなり抽象化されており、可愛らしい印象を受けます。
アテネ BC165-BC148 テトラドラクマ銀貨
フクロウの左下にセミが確認できますが、羽がない様にも見えます。
ラリッサ BC479-BC460 ドラクマ銀貨
テッサリア平原の象徴である馬の上に、一匹のセミが配されています。
アブデラ BC395-BC360 スターテル銀貨
筋肉質なグリフィンとヘラクレスに並んで、羽を閉じたセミが表現されています。
フォカイア BC468 ヘクテ
小さなエレクトラムコインに表現されたセミ。デザインとして大きく表現されており、かなり丸みがあります。
セミは世界各地に分布し、その種類は確認されているだけで2000種に及ぶといわれています。ヨーロッパではギリシャをはじめイタリア、スペイン、ポルトガルやフランス南部など、地中海の温暖な空気に満ちた南欧に生息しています。しかしアルプス以北の冬の寒さが厳しい地域ではセミは生息できず、ドイツやイギリス、北欧諸国にはいません。
(※近年の温暖化の影響によって、セミが生きられる地域も拡大し、徐々に生息域も北上しているそうですが・・・。)
実際セミに馴染みがない人にとって、その存在は相当不快なものらしく、トラブルの種にもなっているようです。
↓昨年の記事です。
ウソか誠か分かりませんが、日本のドラマやアニメが海外で放送される際、夏のシーンでセミの鳴き声が入っているとテレビが故障したと思われてしまうため、その部分をカットして放送することもあったと聞いたことがあります。確かに日本では「セミの鳴き声=夏」と連想できますが、セミを知らない人からすれば虫の鳴き声だとすら認識されないと思います。
先入観が無ければかなり異様な雑音なのですが、身近で当たり前のものであれば「季節の風物詩」になるのですから不思議なものです。
しかし古代ギリシャでは「歌う虫」と呼ばれ、神話や詩作にも登場する神聖な虫として認識されていました。
セミは幼虫時代の3年~7年を地中で暮らし、成虫として地上に出ると1週間~3週間ほどで死んでしまうことは広く知られています。地中から這い出て天高く飛び立ち、樹液だけを吸って大きな鳴き声を出し、すぐに息絶えてしまうセミの姿に、古代のギリシャ人は神秘性を見出したことでしょう。
コインには神々の姿が刻まれていますが、それらと共に表現されていることも、セミが特別な虫として認識されていた証です。
特に有名なものでは『イソップ童話』でも取り上げられています。
作者のアイソポス(イソップ)は紀元前6世紀頃の小アジア西部で活躍した人物とされ、歴史家ヘロドトスも言及しています。現代でも子供向けの童話として広く知られている『イソップ物語』は、もともと古代ギリシャの説話集のようなものであり、動物たちの物語を通して人間社会を風刺しています。
その中の一つ、『アリとセミ』はギリシャの人々には認知されましたが、後世にヨーロッパで翻訳された際、セミを知らない読者にはイメージしづらいため「キリギリス」に置き換えられました。後に日本に伝わった際には『アリとキリギリス』となり、そのまま定着しています。
『アリとセミ』では夏の間中、アリはせっせと食糧を蓄え、セミは木の上でずっと歌っていました。冬になるとセミはアリに助けを求めますが、備えをせず歌ばかり歌っていたことを責められ、ついには死んでしまうという物語です。
基本的にアリとキリギリスと同じ流れですが、セミが夏の間しか歌わず、冬にはその鳴き声が全く聞こえなくなることを考えると、とても理解しやすい物語になります。セミの鳴き声は多くの人が思い出せますが、キリギリスの鳴き声をイメージできる人は少ないと思います。
古代ギリシャ人も現代の日本人と同じように、セミの声で夏を感じ、その短い命に儚さや季節の移ろいを投影させていたのでしょう。
今年の夏もセミの元気な鳴き声を聞きながら、暑い日々を乗り切っていきたいものです。
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