【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
8月も終わりだというのに本当に暑い日が続いております。
秋の涼しさが待ち遠しいですね。
さて、今回はコインに関する本のご紹介です。
来月、9月19日に中央公論新社さんから、ローマコインに関する新書が発売されるそうです。
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著者:比佐篤
出版社:中央公論新社
価格:¥886 (税込)
発売予定:9月19日(水)
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Amazonに掲載されている内容コメントによると、
貨幣は一般的に権力の象徴とされ政府や中央銀行などが造幣権を独占するが、古代ローマでは様相が異なる。政界に登場したばかりの若手や地方の有力者らも発行しており、現在までに発掘されたものだけでも数千種類にのぼる。ローマ神話の神々の肖像、カエサルや皇帝たちの肖像、花びらや儀式の道具など、描かれた図像も多岐にわたる。貨幣の図像と刻まれた銘文から一千年の歴史を読み解いた、新しい古代ローマ史入門。
(以上 掲載紹介文)
248ページの中でコインの図像を紹介しながら、古代ローマの歴史を体系的に紹介しているようです。おそらく代表的なコインの図像を取り上げ、その歴史的背景やまつわる人物のエピソードを分かりやすくまとめられたのではないかと想像します。「コイン」という切り口で、古代ローマ史を著した興味深い一冊です。
中公新書ではかつて、『紙幣が語る戦後世界―通貨デザインの変遷をたどる』 (冨田昌宏,1994)という本を出版しています。紙幣のデザインや発行背景と、歴史・国際情勢をリンクさせた、読みやすくかつ専門性も高い内容でした。今回のタイトルからも、同様のコンセプトが伺えます。
ローマコインが歴史学の研究で注目されはじめたのはルネサンス期のヨーロッパからです。以降、各地で出土したコインのデザインや材質をデータ化し、カタログとしてまとめる地道な作業が続けられてきました。その過程で図像学や言語学の観点から注目され、コインがローマの政治的、経済的状況を示す重要な史料だと確信された長い歴史があります。
欧米ではローマ史の資料や書籍も多く、その中でコインの図像を紹介したものも多岐に渡って出版されてきました。しかしながら、日本ではこうした書籍がなかなか世に出ませんでした。
この度、中公新書として出版されることで、多くのコイン収集家、ローマ史愛好家の双方にとって刺激になると思われます。また、それまでローマ史やコインに馴染みがなかった方にとっても、興味を持つきっかけになるのではないでしょうか。
9月は秋の夜長、「読書の秋」に相応しい一冊として、ぜひ手にとってみては?
こんにちは。
豪雨に台風、さらに暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
連日35度を越え、夜になっても熱が冷めない空気で、眠れない日も多いのではないでしょうか。
今日は気分だけでも爽やかになろうと、「イルカ」のコインについてご紹介させていただきます。
イルカのコインは「クリスチャン・ラッセンのイルカ金貨」に代表されるように、現代でも人気のテーマです。
現実のイルカも水族館ではアイドル的な存在として人気を集めています。それだけ「イルカ=かわいい生き物」というイメージが、広く認識されているからでしょう。また、爽やかで美しい海をイメージさせる存在であるといえます。
2000年以上前の古代ギリシャ人にとって、海はとても身近な存在でした。海上交易や植民活動が活発だった時代、エーゲ海を中心に黒海やアドリア海など、地中海の隅々までが彼らの活動範囲でした。当時作成された陶器や壁画には、神話の物語や活き活きとした人々の生活と共に、多種多様な魚介類も表現されています。
クレタ島 クノッソス宮殿の壁画
ワイン用の陶器 (BC520-BC510)
古代ギリシャ文化においてイルカはポセイドン神やその妻アンフィトリテ女神の聖獣であり、海を象徴する動物として認識されていました。イルカは聖なる生き物として、各地で造られたコインにも表現されました。中でも港湾都市で発行されたコインには頻繁にモティーフとして取り入れられました。
紀元前5世紀に黒海沿岸の都市オルビアで造られた銅貨。イルカの形をした珍しいコインであり、打刻ではなく鋳造によって造られています。円形や四角形ではなく、 モティーフそのものをコインの形にしているという点で、非常に興味深い存在です。
パフラゴニア シノペ BC333-BC306 ドラクマ銀貨
トラキア イストロソス BC400-BC350 ドラクマ銀貨
黒海沿岸の都市ではイルカが表現された特徴的なコインが発行され、海鷲がイルカを掴むという構図で表現されました。
黒海とエーゲ海の境に位置した都市ビザンティオン(現在のイスタンブール)のコインにもイルカがみられます。こちらは牡牛がイルカの上に乗っています。
ビザンティオン BC340-BC320 シグロス銀貨
一方でエーゲ海沿岸の都市でもイルカが表現されたコインがみられます。
リュキア地方 ファセリス 4th Century BC スターテル銀貨
両面でガレー船の舳先と船尾が表現されたコイン。イルカは海の象徴として、ガレー船の下を泳いでいます。
ギリシャ人が多く移住した南イタリア~シチリア島では、イルカにまつわる伝説が各地に存在したことから、コインにも神話の要素として登場しています。イタリア半島 カラブリアの都市タレントゥムでは、ポセイドンの息子タラスが父神の遣わしたイルカに乗って難破船から脱出し、辿り着いた海岸にタレントゥムの町が建てられたという伝説がありました。そのため同都市のコインには、「イルカに乗るタラス」が多様なバラエティによって表現されました。
紀元前4世紀~紀元前3世紀頃、ローマの支配下に入る前に造られたノモス銀貨には、バラエティ豊かなタラスとイルカの組み合わせが見られます。中にはイルカに乗ったタラスが、右手で小さなイルカを持つという珍しいタイプも造られています。こうした違いは刻印彫刻師の個性を示し、また造幣所ごとの仕事を見分ける重要な目印にもなっていたと考えられていますが、当時のタレントゥムの豊かさや自由さがそのまま表現されているようです。
またシチリア島のシラクサで発行されたコインには美しい泉のニンフ、アレトゥーサが表現されていることで有名ですが、その周囲には必ず四頭のイルカが回遊していました。この配置は、現在にも通じるほどの高いデザイン力です。
シチリア島 シラクサ BC475-BC470 テトラドラクマ銀貨
シチリア島 シラクサ BC340-BC310 テトラドラクマ銀貨
このようにギリシャ文化圏ではイルカを表現したコインが数多くみられました。当時のギリシャ人たちにとって海、そしてそこで見られるイルカはとても身近な存在だったことが分かります。
一方でローマによって発行されたコインのイルカには、ギリシャには無かった変化が見られます。
ローマ BC74 デナリウス銀貨
ローマ ポンペイウス派発行 BC49 デナリウス(※デュラキウムで発行)
ローマ AD37-AD41 アス銅貨
裏面のネプチューン神が右手でイルカを差し出しているのが確認できます。
ローマ AD69 デナリウス銀貨
ローマ AD80 デナリウス銀貨
ローマ時代のコインに表現されたイルカは頭部が丸く大きくなり、さらに尾の部分を異様にくねらせる傾向にあります。上に示したティトゥス帝のコインでは、船の錨に絡みつくイルカという、自然では到底ありえないような構図で表現されています。
不思議なことにギリシャコインに表現されたイルカは、現代の我々が見ても違和感がないほどに写実的なのに対し、ローマコインのイルカは魚か爬虫類のような、全く別の生き物のように見えるのです。
この傾向はローマ時代に造られた彫像やモザイク画にもみられます。
モザイク画 (BC120-BC80)
ネプチューンの彫像のイルカ像 (ハドリアヌス帝時代 AD117-AD138)
ローマ時代の芸術作品に登場するイルカは鋭い牙があるものや、複数の背びれ・尾びれがあるもの、さらには鱗があるものまでみられます。このことから、ローマ人はイルカを魚の一種と認識していたのかもしれません。
しかしイルカはローマの時代にも地中海に多く生息し、人々の生活にも比較的近い存在の生き物だったはずです。海上交易が発達していた時代であれば実際のイルカを目にした人も多く、また網にかかって引き揚げられるイルカもいたと思われます。
1世紀に記されたプリニウスの『博物誌』には、湖に迷い込んだイルカと友情を育んだ少年の物語が記録されており、決して珍しい動物ではなかったことが分かります。
たとえ作品の製作者や注文者が海で生きたイルカを見たことがなくても、実際に見た人物の意見や、ギリシャ時代の作品に表現されたイルカ像を基にして修正が加えられても不思議ではありません。
にも関わらずローマ時代のコインをはじめ、芸術作品に表現されたイルカ像は現実とあまりにもかけ離れたものになっており、さらにそのイメージは修正されないまま、中世~ルネサンス期まで続いていきます。
ギリシャ・ローマ時代には様々な動植物が表現されましたが、それらは身体の模様や動きなどがリアルに表現されています。ギリシャ時代のイルカ像も、たとえデフォルメされていても基本的な姿は維持され、本物の特徴を踏まえて表現されていることが分かります。しかしローマ時代のイルカ像は、そもそもイルカを見たことの無い人が想像で生み出した怪物のような姿で表現され、そのまま酷くなりながら継承されているようにも見えるのです。
イルカのように時代の変遷と共に、本物からかけ離れてしまった事例は稀といえるでしょう。
アリオンとイルカ
(1899年『Stories of the olden time』より)
近代ヨーロッパでは「現実のイルカ」と「古代神話世界のイルカ」を明確に区別して表現しています。
「イルカに乗った少年」という題材は様々なパターンで各地の神話に残されており、イルカも後世の芸術作品に盛んに表現されましたが、その姿はまるでシャチホコのような姿です。
古代のギリシャ人とローマ人の間に、イルカに対するどのような認識の差があったのか、コインの変遷を見るだけでも様々なことを想像させられます。少なくともローマ人がギリシャ人ほど、イルカに愛着を抱いていなかったことは間違いないようです。
こんにちは。
6月になり、梅雨空から一気に夏空が続いている今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
雨の日も日差しの強い日も、外出は億劫になってしまいがちですが、貴重な晴れ日には遠くに出かけてみるのも良いと思います。
古代ローマの時代、地中海世界を制覇し「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を創出した五賢帝の頃には、街道や海路が整備され政情も安定していたことから、観光目的の旅行を楽しむ人々も出現していたそうです。
皇帝も遠征などでローマから遠く離れた土地へ赴くことがありましたが、その中でもハドリアヌス帝(在位:AD117年~AD138年)は「旅する皇帝」と呼ばれるほど帝国各地を巡りました。自らが統治するローマ帝国の隅々を視察することで、帝国の現状を把握していたといわれています。一方で好奇心旺盛で知的な欲求を満たす目的もあったとされ、首都ローマの煩わしさから逃れるためでもあったと考えられています。
治世の多くを旅に費やしたハドリアヌス帝が発行したコインには、彼が旅した先を示す図柄が多く登場します。特定の地域を神像や女神像として擬人化、具現化して表現すること(ローマ神など)は珍しくありませんでしたが、ハドリアヌス帝の治世にはそのバラエティが際立って多く、帝国の各地がコイン上に表現されました。これらは「トラベルシリーズ」とも呼ばれ、旅する皇帝ハドリアヌスを象徴するコインコレクションとして注目されています。
2世紀半ばのローマ帝国最大版図
2世紀に最大版図を出現させたローマ帝国は、その領土の1/3がヨーロッパ、1/3がアジア、1/3がアフリカに該当しました。コインに表現された属州の姿は、ローマ市民に自らが生きる帝国の多様性と広大さを知らしめる目的もありました。
ハドリアヌス帝の治世には各属州でも興味深いコインが発行されていましたが、今回は本国ローマで発行されていたものをご紹介します。
・イタリア
イタリアは首都ローマを中心とする、まさにローマ帝国の心臓部でした。地中海帝国の真中に突き出たイタリア半島から、ハドリアヌスの旅は始まりました。皇帝による巡幸といっても仰々しいものではなく、あくまで視察を目的としたものだったため、移動しやすいように随行員、警備も最小限度だったそうです。三回に分けられた帝国巡幸の旅には、不仲が噂されていた妻サビーナも同行することがあり、後にはハドリアヌスの寵愛を受ける美青年アンティノウスも加わることになります。
AD136年 デナリウス銀貨
イタリアを具現化した女神像は、長杖とコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ姿で表現されています。周囲には「ITALIA」銘が刻まれています。
・ガリア (現在のフランス)
第一回の巡幸でハドリアヌス帝が最初に訪れたのはガリアでした。AD121年のガリア訪問では植民都市の政庁や軍駐屯地を訪問し、その実態を把握しようと努めました。受け入れる側の役人達は連絡からすぐに皇帝一行が到着するため、普段の様子をそのまま見せることしかできなかったようです。
AD136年 デナリウス銀貨
ハドリアヌス帝に跪くガリア人。女神像ではなく男性として表現されています。右側には「GALLIAE」銘が確認できます。
・ゲルマニア (現在のドイツ)
ガリアからゲルマニアに移動したハドリアヌスは、ゲルマン人との最前線であるライン川の国境地帯を軍事視察。このときハドリアヌス帝は国境沿いの数ヶ所で柵を切れ間無く建てるよう命じました。
AD136年 デナリウス銀貨
長槍と円盾を支えるたくましい女神像。周囲には「GERMANIA」銘。このゲルマニア女神像は近代ドイツで復活し、19世紀以降は国威発揚のために盛んに表現されました。
・ブリタニア(現在のイギリス)
海を渡ってブリテン島のロンディニウム(現在のロンドン)に到着したハドリアヌスは、そこから北へ進み、現在のイングランドとスコットランドの境界まで到達しました。そこはローマ帝国最北端の国境であり、北からの蛮族による侵入が絶え間ない地でした。北の国境を視察したハドリアヌスは、蛮族とローマ領を隔てる防御壁を建設するよう命じました。
それが現在でも知られる「ハドリアヌスの長城」です。AD122年夏、当地滞在中に発せられたこの命令は、その後10年の歳月を要して実現されました。
ブリタニアを旅している途中、一人の老婦人が財産所有の件で皇帝に直訴しようとしました。先を急いでいたハドリアヌス帝は「私には時間がない」といって無視しようとしましたが、老婦人が「それならば皇帝など辞めてしまいなさい!」と泣き叫ぶのを聞き、立ち止まって話しを聞いたという逸話が残されています。
AD136年 セステルティウス貨
岩の上に足を載せ、考え込むようにして座るブリタニア女神像。周囲には「BRITANNIA」銘。
・ヒスパニア (現在のスペイン)
ブリテン島を発ったハドリアヌスは再びガリアを抜け、そこからヒスパニアへ入りました。ハドリアヌスはヒスパニアの出身であり、当地には思い入れがあったようです。この滞在中には暴漢に襲われて危うく命を落としかけるというトラブルに見舞われるも、何とか故郷の視察を遂行することができました。(ハドリアヌスを襲った暴漢はすぐに取り押さえられたため、皇帝に危害は加えられなかった。その後ハドリアヌスの温情からか、この男は精神状態の不安定さを理由に釈放されている。)
AD136年 デナリウス銀貨
様々な姿のヒスパニア女神像。ハドリアヌスに跪く姿や、寝そべる姿など様々。共通してヒスパニア特産のオリーヴを持ち、足下にはウサギを配しています。かつてフェニキア人がイベリア半島の沿岸部に入植した際、畑を作ってもすぐに野兎に荒らされてしまうことから、この土地を「イセファニン(フェニキア語で「ウサギの地」の意)」と名付けました。その後ローマ人はラテン語風に「ヒスパニア」とし、そのまま現在の「スパーニャ」「スペイン」になったと云われています。
・マウレタニア (現在のモロッコ)
ジブラルタル海峡をわたってアフリカ大陸に入ったハドリアヌス一行は、地中海と大西洋の境を目の当たりにし、ローマ帝国の最西端を視察しました。鬱蒼とした森が広がる北ヨーロッパから乾燥する砂漠地帯への旅。当時としてはまさに地の果てへの旅でした。
AD136年 セステルティウス貨
女神として表されたマウレタニア。右手を挙げるハドリアヌス帝に杯を捧げている姿。右端には「MAVR(ETANIAE)」銘。
・地中海
マウレタニアを発ったハドリアヌスは、ローマ海軍のガレー船で一気に地中海を横断し、帝国東部の小アジアへ向かいます。
AD122年 デナリウス銀貨
海洋神オセアヌス(Ocean)が表現されたコイン。ポセイドンとよく似た姿で、三叉矛の代わりに船の錨を持っています。オセアヌス神の左ひじを支えているのは、背もたれのようになったイルカです。
・小アジア (現在のトルコ)
帝国最西端から再東端へ移動したハドリアヌスは、上陸したアンティオキアからパルティアとの国境最前線視察を開始。そのまま北上して黒海沿岸部に到達します。
AD136年 デナリウス銀貨
ガレー船に足を載せ、舳先とオールを携えるアシア女神。周囲には「ASIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
カッパドキアは小アジア内陸の地域。男性として表されたカッパドキアは、特徴的な帽子を被りローマ軍の記章を支えています。右手で差し出しているのはカッパドキアの名所「アルガエウス山(現在のエルジェス山)」です。周囲には「CAPPADOCIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
フリギアは小アジア内陸部の地域。このコインではフリギアを象徴する男性がハドリアヌス帝に忠誠を誓っています。フリギア特有の帽子を被った男性は右手を皇帝に差し出し、左手で羊飼いの杖を持っています。右側には「PHRYGIAE」銘。
AD136年 セステルティウス貨
ビテュニアは小アジアの北西部、黒海沿岸の一帯。コインには跪きハドリアヌス帝に忠誠を誓うビテュニア女神が表現されています。右側には「BITHYNIAE」銘。
AD124年に訪れたビテュニアで出会った現地の美青年アンティノウスを気に入ったハドリアヌスは、そのまま彼を旅に連れてゆくことにします。美しい愛人を新たに加え、憧れだった古代ギリシャ文化の地、エーゲ海に到達したハドリアヌスは上機嫌だったことでしょう。
アンティノウスの胸像
・トラキア (現在のブルガリア)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とトラキア女神。右側には「THRACIAE」銘があった。
ギリシャ文化を愛好したハドリアヌスは憧れだったアテネを訪問し、記念の神殿建設や修復を行いました。一方で北部のトラキアに足を伸ばし、軍の防衛体制を確認しています。
その後デュラキウム(現在のアルバニア)に移動したハドリアヌス帝はまっすぐ対岸のイタリア半島へは向かわず、南へ迂回してシチリア島へ上陸します。
・シチリア島
ローマへ帰還する前にシチリア島のシラクサへ立ち寄ったハドリアヌス帝は、穀物の重要な生産地であるシチリアを視察します。
AD136年 セステルティウス貨
跪きハドリアヌス帝を迎えるシチリアの女神。左手には麦穂を持っています。頭にはシチリア島の象徴であるトリナクリア(三脚巴紋)をつけています。トリナクリアはシチリア島の三つの岬を示し、シチリア島の形状そのものを象徴しているとされます。右側には「SICILIAE」銘があります。
ハドリアヌスが首都ローマへ帰還したのは、旅に出てから4年後のAD125年でした。しかし長らくローマを留守にし、通常の政務を優れた官僚組織に任せて自らは遠方から指示を出すハドリアヌスは、元老院での評判をすっかり落としていました。
ローマにいるのが苦痛になったのか、未踏の地への欲求が抑えられなくなったのか、帰還から3年後に再び巡幸の旅へ再出発します。次にハドリアヌスが目指したのは、前回の旅では船で通り過ぎてしまったアフリカ属州でした。
・アフリカ (現在のチュニジア)
アフリカ属州はカルタゴ征服後に設置された属州であり、オリーヴや麦などの農地開発が盛んに行われました。また闘技場での見世物に供される珍しい動物たちをローマへ輸出するなどし、経済的・文化的にも繁栄しました。アフリカの名はその後、大陸全体を表す名称になりました。
ハドリアヌス帝はシチリア島を経由してカルタゴに上陸しました。内陸部の各地を巡幸し、その後は再び海路でローマへ帰還しています。
AD136年 デナリウス銀貨
アフリカを象徴する女神像。足下には小麦の入った壺が置かれ、穀物の供給を示しています。女神は頭に象の毛皮を被り、右手でサソリを差し出すというアフリカらしい姿です。上部には「AFRICA」銘が刻まれています。
ローマへの帰還から束の間、すぐに三回目の巡幸に出発したハドリアヌス。三回目は国境の視察よりも、むしろハドリアヌス個人の好奇心を満足させる旅でした。愛人アンティノウスを伴ったハドリアヌス帝はまずギリシャのアテネに滞在し、その後小アジアを経てシリア、アラビア方面へ向かいます。
・アラビア (現在のヨルダン)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とアラビア女神。右側には「ARABIAE」銘。
アラビアの砂漠地帯を抜けて訪れたのは、ハドリアヌス帝が最も気に入った滞在地、エジプトでした。
・アエギュプトゥス (現在のエジプト)
AD136年 セステルティウス貨
女神エジプトは果物が入った籠に寄りかかりながら、古代エジプトの葬用楽器シストラムを掲げています。左側には聖鳥トキが配され、上部には「AEGYPTOS」銘が刻まれています。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプト属州の州都アレクサンドリアを表現したコイン。商業・学問の中心として栄えたアレクサンドリアにはハドリアヌス帝も滞在しました。コインのアレクサンドリア女神は右手でシストラムを掲げ、左手で籠を持っています。その籠からは一匹のコブラが這い出しています。周囲には「ALEXANDRIA」銘。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプトを流れるナイル川の神を表現。古代ローマでは川を表現する際、年老いた男性の姿で表現されました。エジプトの場合も例外ではなく、現地で発行されたコインにも同様の意匠が見られます。このコインではナイル神の足元にカバが配されています。この姿は古代エジプトのナイル川の神ハピが基になっているとみられます。上部には「NILVS」銘。
AD130年にエジプト入りしたハドリアヌスはナイル川をクルーズし、古代エジプトの壮大な神殿群を目の当たりにしました。殊の外エジプト滞在を気に入ったらしく、愛人のアンティノウスがいるにも関わらず、ローマにいた妻のサビーナをアレクサンドリアにわざわざ呼び寄せたそうです。
しかしこの地で悲劇が起こります。ナイル川をクルージング中に、アンティノウスが船から転落して溺死してしまったのです。当時から若いアンティノウスが簡単に溺死したのは不自然として、犠牲の生贄にされたという説や暗殺されたという説もあったそうです。 寵愛していたアンティノウスの死はハドリアヌスにとって予期せぬことであり、上機嫌から一転して深い悲しみに包まれました。
亡くなったアンティノウスを顕彰するため「アンティノポリス」という街を建設し、アンティノウスの像を建てても悲しみは晴れず、エジプトを離れてローマへ帰還しました。
・ユダヤ (現在のイスラエル)
AD136年 セステルティウス貨
女性として表現されたユダヤの像。二人の子どもを伴いながらハドリアヌス帝に対しています。右側には「IVDAEAE」銘。
エジプトからローマへ帰ってきたハドリアヌスに、最後の苦しい旅が待っていました。かつて大規模な反乱が勃発したユダヤ属州のイェルサレムは、1世紀にティトゥスの攻撃によって破壊されて以降、まともに復興されないままでした。ハドリアヌスはエジプトへ向かう途中でイェルサレムに立ち寄り、ここを新都市として生まれ変わらせることを宣言します。しかしその計画はイェルサレムの名を消し、かつてソロモン神殿があった場所にユーピテル神殿を建設するという、ユダヤ人の聖地を完全に作り変えるものでした。
計画に激怒したユダヤ人たちが起した反乱(第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱)はローマ軍を圧倒し、ついにハドリアヌス自らが鎮圧に赴くことになりました。皇帝指揮下のローマ軍はAD135年、反乱軍の拠点だった聖地イェルサレムを陥落させ、ユダヤの反乱を鎮圧することに成功します。
反乱鎮圧後、怒りに満ちたハドリアヌス帝が下した処分は厳しいものでした。イェルサレムのユダヤ人は全て追放され、各地に離散(ディアスポラ)することになります。ユダヤ属州はペリシテ人のシリアを意味する「シリア・パレスティナ属州」(現在のパレスティナ呼称のはじまり)と改名され、ユダヤ文化の破壊が行われました。
反乱鎮圧に成功したハドリアヌス帝はローマへ戻りましたが、その後二度と巡幸の旅に出かけることはありませんでした。ユダヤでの戦いから、ハドリアヌス帝は体調を崩すようになっていました。
長旅に耐えられなくなった老体を休める為、ローマ近郊に建設した別荘で過ごすことが多くなったハドリアヌス帝は、そこで自らの理想の庭園作りに専念します。
それらデザインや意匠は、かつて旅の途中で自らが目にした各地の風土や、印象を反映させたものでした。
ハドリアヌスの別荘―ナイルワニの像
今回ご紹介したハドリアヌス帝の旅コインのほとんどは、治世末期のAD136年頃に造られたとみられています。60歳となったこの頃には体の衰えが進み、再び旅に出ることを諦めていたであろうハドリアヌス。せめてかつて旅した各地に想いを馳せ、後世に伝えられるよう、コインのデザインに投影させていたのかもしれません。
近年、旅のコインはハドリアヌス帝を象徴する史料として再注目されています。
古代ローマコイン収集の世界でも一連のシリーズになっていることから、収集する上で興味深いテーマです。今後のコレクション対象として参考にされてみてはいかがでしょうか。
4月になりすっかり春らしくなってまいりました。
今年の桜は咲き始めるのが早く、今月はじめには上野公園の桜はほとんど散っていました。
先日、上野の東京国立博物館で催されている企画展
『アラビアの道―サウジアラビア王国の至宝』を観覧して来ました。
サウジアラビア国立博物館をはじめ、サウジアラビア王国の各研究機関が所蔵する品々が展示されています。石器時代から現代までの貴重な宝物の数々は、知られざるアラビアの歴史を身近に感じさせます。観覧した際も多くの人で賑わっており、沢山の人が興味深そうに展示品を見ていました。
本来は先月までに終了する予定でしたが、好評のためか5月13日(日)まで期間が延長されています。ゴールデンウィーク中、上野に足をのばされた際にはぜひ立ち寄ってみて下さい。通常の入館料で観覧できる上、写真撮影も自由ですので、大変オススメです。
イスラーム以前のアラビアは交易を通じ、エジプトやペルシア、ギリシャ、ローマの文化が流入しており、展示品もそれらを物語る芸術品が多くみられました。そして、交易で繁栄したアラビアで使用されたコインもたくさん展示されていました。
中世のアラビア半島はインド洋、アフリカ、アジア、ヨーロッパを結ぶ交易路として発展し、イスラーム教の誕生と拡大によって独自の貨幣システムも確立しました。
初期のイスラーム帝国であるウマイヤ朝(シリア、ダマスカス)やアッバース朝(イラク、バグダード)が発行した「ディナール金貨」「ディルハム銀貨」は、イスラーム色を前面に出した品質の高いコインであり、アラビアで広く流通しました。
展示品の中にも、古い都市から出土したディナール金貨やディルハム銀貨が並べて展示してあります。
今回は同じく展示されていた、建国間もない時期のサウジアラビア王国が発行した「1リヤル銀貨」をご紹介します。
発行国:サウジアラビア王国
発行年:AH1354年(=AD1935年)
額面:1リヤル
重量:11.6g
サイズ:30.5mm
品位:Silver917
※上のコインの画像は展示品そのものではありません。
コイン表面
コイン自体は機械で製造されていますが、そのデザインは偶像崇拝を禁ずるイスラームの教義に則り、アラビア文字による銘文が全体にびっしりと刻まれています。
表面には発行者である国王を示す銘文が刻まれています。
ملك المملكة العربية السعودية
عبد العزيز بن عبد الرحمن السعود
=サウジアラビア王国の王
アブドゥル=アズィズ・ビン・アブドゥル=ラフマーン・アル=サウド
アブドゥル=アズィズ(1876年~1953年)は現在の首都リヤドを拠点に勢力を拡大し、小国や部族による分裂状態だったアラビア半島の統一を推し進めた王です。1926年にヒジャーズ王国を征服したことでイスラーム教の二大聖都メッカとメディナの守護者となりました。このときメッカにあったヒジャーズの造幣局を獲得し、1928年から大型の1リヤル銀貨を製造しています。
中東に影響力を持っていたイギリスの後ろ盾を得たアブドゥル=アズィズはアラビアにおける権力と権威を確固たるものにし、1932年に「サウド家のアラビア」を意味する「サウジアラビア王国」を建国。初代国王として、イスラーム二大聖地の庇護者として絶対的な指導力を発揮し、新生国家の発展を主導しました。
現在のサウジアラビア王国
武勇とカリスマ性に秀でたアブドゥル=アズィズは広大なアラビア半島の諸部族を一代でまとめ、統一王国を築き上げた名君であり、現在のサウド王家にとっても絶対的な存在です。正妻とはじめ多くの女性を結婚したため90人近い子どもがおり、アブドゥル=アズィズ以後の国王は現在のサルマン王(第7代)を含め全てアブドゥル=アズィズの息子です。
身長が2m以上あったとされる初代国王の衣装をはじめとする各種遺品は、今回の上野の展覧会にも展示されています。国王が実際に身にまとっていた衣装は大人物に相応しく、非常に大きかったことが印象に残っています。
アラビア銘文ばかりのコインにあって、例外的なのは王名の下に刻まれたデザインです。二本の刀剣が交差し、左右には椰子の木が配されています。
この刀剣は「シミター(またはシャムシール)」と呼ばれるアラビアの伝統的な刀で、ヨーロッパのサーベルの基になったとも云われています。この交差刀剣はサウジアラビアの国章になっており、二本ある意味はサウド家がメッカとメディナを守護していることの証や、イスラームにおける正義と信仰、または力と忍耐の象徴、サウジアラビア建国に携わったサウド家とワッハーブ家、もしくはナジェドとヒジャーズの二王国を示すなど、様々な説があります。
一方で椰子の木は砂漠における生命力の象徴であり、国の成長と繁栄を象徴しているとされます。
サウジアラビア王国の国章
コインに刻まれたデザインとほぼ同じ構成であることが分かります。
サウジアラビア王国国旗
聖典コーラン(クルアーン)の重要な一節である聖句「アラーの他に神はなし、
ムハンマドはアラーの使途である」と共に、同じく刀剣が配されています。
ちなみに展覧会では、かつてアブドゥル=アズィズ王が下げていた立派な刀剣も展示されています。初代国王の貴重な遺品であり、サウジアラビアにとっては国宝級の重要な宝物ですので、ぜひ直接ご覧いただきたいと思います。
なお、コインの裏面も同じくアラビア文字銘文が細かく刻まれていますが、こちらも伝統的なイスラーム様式コインと同じく、額面と発行年、発行地などの基本情報が示されています。
ريال عربي سعودي واحد
ضرب في
المكرمة
مكة
١٣٧٠
١
1サウジアラビアリヤル
聖都メッカで製造
1370(=イスラームのヒジュラ暦。西暦では1935年)
1
1920年代に発行された1リヤル銀貨は37.3mm、24.1gと、クラウンサイズの大型銀貨でした。デザインは全く同じでしたが、このとき正式国名は「ヒジャーズ・ナジェド王国」だったため、サウジアラビア国銘で発行された1リヤル銀貨は1935年の縮小版が最初です。
実は1935年から発行されたこの縮小1リヤル銀貨は、銀の品位から重量、サイズまでが、当時の英領インド帝国で発行されていた1ルピー銀貨と全く同じに造られています。このことから、英領インド帝国の1ルピーと新生サウジアラビアの1リヤルは等価で流通していたことが分かります。
・20世紀初頭の英領インド帝国の1ルピー銀貨
英領インド帝国 1906年 1ルピー銀貨
当時の1ルピーはイギリス本国の1シリング4ペンスに固定されていました。
肖像は英国王にしてインド皇帝 エドワード7世(在位:1901年~1910年)。王侯から農民に至るまでターバン等で頭部を覆うのが一般的であった当時のインド民衆にとって、王冠を戴かず禿げ頭を露出したエドワード7世の肖像は、インド皇帝の権威を損ねるものとして懸念されたそうです。
英領インド帝国 1918年 1ルピー銀貨
肖像のジョージ5世は植民地スタイルとして王冠を戴いています。しかし今度は王が首から下げる頸飾(チェーン)にあるインド象の鼻が短く、イスラーム教徒から豚に見えると苦情が相次ぎ、急遽鼻を伸ばして象と分かるよう修正しました。
裏面の銘文を囲む草花群は、それぞれバラ(イングランド)、アザミ(スコットランド)、クローバー(アイルランド)、ハス(インド)を示し、これらの組み合わせで「大英帝国」を象徴しています。
アラビア半島ではイスラーム教の厳格な解釈によって「紙幣」が否定され、20世紀半ばまでコインだけが正式な通貨による決済手段でした。再鋳造されたマリア・テレジアターレル銀貨をはじめ、イギリスが保護下に置いていた湾岸地域(現在のUAE、カタール、バーレーンなど)からインド洋沿岸部では、インドで製造されたルピー銀貨が広く流通していました。
そのため、サウジアラビアでも1ルピーと等価の1リヤル銀貨を発行し、国内と周辺地域で流通させました。1リヤル銀貨は戦後1955年まで製造され、サウジアラビアの国民だけでなく聖地へ巡礼に訪れた世界中のイスラーム教徒の手に渡りました。
しかし毎年世界中から訪れる巡礼者の数が増加すると、両替できるコインの数が不足し、また旅費を全て銀貨で持ち運ぶのは不便として問題が生じました。イギリスから独立したインドでは湾岸地域向けだけのルピー紙幣を発行し、実際にカタールやドバイなどで流通したそうです。こうした時代の変化から厳格なイスラーム教国のサウジアラビアも、1960年になってようやく正式な紙幣を発行し、金貨と銀貨の製造を停止したのでした。
こうして役目を終えた1リヤル銀貨ですが、20世紀に建国されたサウジアラビアの発展の歴史を鑑みると、非常に重みがある銀貨のように思えてきます。
上野の展覧会でガラスケースの中に展示されていた1リヤル銀貨も、かつては建国間もないサウジアラビアに生きた人々、砂漠に生きた遊牧民か、または巡礼に訪れた人の手に渡っていたのかもしれません。
投稿情報: 17:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
昨年末に発売された塩野七生女史の新刊『ギリシア人の物語3』は反響が大きく、当店のお客様からも「読みました」という声や感想を多くいただき、あらためてその影響力の大きさを感じました。
今回の作品ではアレキサンダー大王の生涯が取り上げられ、若き英雄の死と共に物語は終わりを迎えます。塩野さんご自身は今後、歴史長編は書かないと宣言しておられるので、この続編は出ないのでしょう。
アレキサンダー大王死後、部下達によるディアドコイ(後継者)戦争がはじまり、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアなどが群雄割拠する時代になります。
このヘレニズム時代は彫刻などの芸術文化が昇華し、より洗練された華やかなものになりました。そしてコインの世界にも変革がもたらされます。
アレキサンダー大王によって発行されたコイン、いわゆる「アレキサンダーコイン」は、大王亡き後も征服地の各都市で発行されていました。一方で新しい王朝を創設した部下たちも独自のコインを発行しています。それらには古代ギリシャの伝統である神話の神々ではなく、生きた君主の姿が刻まれました。民主政を重んじたギリシャの伝統は変化し、強大な権力を持つ君主が神聖な存在であると宣伝されるようになったのです。
アレキサンダーコイン
(マケドニア王国 テトラドラクマ銀貨 BC320-BC317)
プトレマイオス1世
(エジプト ※プトレマイオス6世発行のテトラドラクマ銀貨)
多くの君主たちは自らの肖像を美化・神格化してコインに刻みましたが、中には個人的な特徴を存分に表現した、個性溢れる肖像を残した王もいます。代表的なのはエジプトを統治したプトレマイオス1世の肖像コインですが、さらに印象深く特徴的なのは、セレウコス朝シリアの第二代君主アンティオコスのコインです。
アンティオコス1世/アポロ神
(セレウコス朝シリア テトラドラクマ銀貨 BC280-BC261)
アンティオコスはアレキサンダー大王の部下だったセレウコスの息子であり、大王による東方遠征の過程で誕生しました。アレキサンダー大王はギリシャ世界とオリエント世界の融合を推進する為、ギリシャ人兵士達とペルシア人女性達による大規模な合同結婚式を開催しました。アレキサンダー自身もアケメネス朝ペルシアの王女を妻として迎え、忠臣たちの多くもペルシア貴族の娘を妻としました。
セレウコスはソグド人(中央アジア)のアパメーという女性を妻とし、その間に生まれた子がアンティオコスでした。大王の死後、多くのギリシャ人たちはペルシア人の妻と離縁しましたが、セレウコスとアパメーの結婚生活はその後も続きました。
その後、セレウコスはシリア、ペルシア、中央アジアを包括する広大な東方地域を手にし、いわゆる「セレウコス朝シリア」を創建します。セレウコス治世下ではアレキサンダーコインの発行は継続されたものの、自らの肖像を刻んだコインは発行されませんでした。
※以下はセレウコス1世の時代に発行されたコイン
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘がセレウコスのもの「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」になっている)
ゼウス神/象のクァドリガ
(テトラドラクマ銀貨 裏面の名銘は「ΣΕΛΕΥΚΟΥ」)
スターテル金貨
(アテナ女神とニケ女神。名銘はアレキサンダーのもの「ΑΛΕΞΑΝΔΡΟΥ」)
しかし紀元前281年にセレウコスが暗殺されると、息子であるアンティオコスは自らの肖像を表現したコインを各都市で造らせました。その治世の間に肖像は年相応に変化してゆくという、古代コインには珍しい変遷をみせています。
アンティオコス1世/アポロ神
(※息子アンティオコス2世の時代に発行されたテトラドラクマ銀貨)
どの肖像も共通して目は大きく、困ったような垂れ眉と大きな鼻、少し突き出た口元など、一度見たら忘れられない個性的な顔つきです。この姿はマケドニア人を父に、ソグド人を母にもつ混血の王アンティオコスの写実的な姿だとされています。
ギリシャ風に理想化することなく、自らの特徴ある顔をコインに刻ませたという事実は、大変興味深い点です。
アンティオコスの死後、息子アンティオコス2世の時代になってからもこのコインは造られていたことから、王の個性的な顔が刻まれたコインはセレウコス朝の領内でかなり広く流通していたようです。
アンティオコスは父セレウコスの路線をおおむね引き継ぎ、ギリシャ系住民の内陸への入植を奨励しながら、経済圏の拡大を推進しました。アッティカ基準の銀貨による通貨の統一は、広大な領土を纏め上げる為にも必要不可欠な施策だったのです。セレウコス朝が東西文化交流の上に成り立つ王朝であり、アレキサンダー大王の理想によって誕生した国であることを示すように、君主自身の出自もその理念を体現していたのでした。
アンティオコスはその治世中にセレウコス朝の基礎を固めながら周辺諸国と戦い、ガリア人の侵入を防いで「ソーテール(救世者)」の称号を得るなど華々しい業績が語られますが、後世に伝えられる逸話としてよく知られるのが「若き日の恋煩い」です。この伝承は、古代ローマの史家プルタルコスが著した『英雄伝』のデメトリオスの章で、面白おかしく取り上げたことで広く知られるようになり、今に伝わっています。
まだアンティオコスが王子だった時代、父セレウコスが新しい妃ストラトニケを迎えることとになりました。ストラトニケはマケドニア王デメトリオスの娘であり、まだ17歳という若さでした。事実上の政略結婚として嫁いできたストラトニケは大変美しく、若きアンティオコスは彼女に恋心を抱くようになりました。
しかし義理の母親にあたる女性に対する恋心は誰にも告げることができず、苦悶したアンティオコスは飲食を断って衰弱してゆきました。心配した父セレウコスは、名医エラシストラトスを呼び、アンティコスを治療するよう命じます。エラシストラトスはアンティオコスが恋の病を患っていることをあっさり見抜くも、その相手が誰かまでは分かりませんでした。
そこでエラシストラトスは常時アンティオコスの傍につき、対面する人物とアンティオコスの反応を観察することにしました。年頃の少年少女が入ってきても特に変化は見られませんでしたが、父セレウコスが若き義母ストラトニケを連れ立って見舞いに訪れると、アンティオコスは声を詰まらせ、顔を真っ赤にして汗だくになってしまいました。ついには興奮のあまり脈が乱れ、目眩まで引き起こしたので、エラシストラトスは原因を突き止めることができたとされています。
病床のアンティオコスを見舞うストラトニケ
※この物語は14世紀にペトラルカの詩作で登場して以降、近代のヨーロッパで広く知られた為、人気ある古典テーマのひとつとなりました。多くの画家達が独自の解釈とアレンジを施し、様々な形で作品に残しました。ここではフランスの画家 ジャック=ルイ・ダヴィッドの作品(1774年)を掲載しています。
しかし相手が王の妃でしかも義理の母親では、決して報われない恋心だと察した名医エラシストラトスは、一計を案じてセレウコスに報告しました。
エラシストラトスはセレウコスに対し、「ご子息は恋の病です。しかしその恋は決して遂げられない故、私には治すことができませぬ」と言上しました。驚いたセレウコスがその相手を問いただすと、エラシストラトスは私の妻、と答えました。セレウコスは息子を治すためならばと、無理を承知でどうか息子の願いを叶えてやってはくれまいか、とエラシストラトスに頼み込みました。
エラシストラトスは頑なに王の願いを断り、「それは道理に合いませぬ。もしご子息が王様のお妃様を慕っておいでだとすれば、決して王様はそれを許さないでしょう」と答えました。するとセレウコスは涙を流しながら「もしそれで済むのならば、神でも人でも構わぬ。私はアンティオコスが助かるのならば、たとえ自らの王国を手放したって満足だ」と答えました。
こうして、望み通りの答えを巧みに引き出した医師は全てを話し、息子の想い人を知ったセレウコスは若い二人が一緒になることを認めます。この後、アンティコスはホラサン地方の王(現在の中央アジア一帯、事実上の共同統治王)、ストラトニケはその女王に任じられました。王の命令という形で二人は結婚し、体面を保ちながら共に暮らすことを許されたのです。
そして見事にアンティオコスの不治の病を治したエラシストラトスは、「恋の病まで治せる名医」として名声を高め、後にヘレニズム時代を代表する医師として歴史に名を残したのでした。
投稿情報: 12:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (1)
こんにちは。
いよいよ12月も残すところあと僅か。例年よりも寒い日が続いていますが、御自愛いただき楽しい新年を迎えていただきたく思います。
寒い日、年末年始のお休みには、お家の中でゆっくり本を読むのも良いですね。
先日、塩野七生女史の最新作『ギリシア人の物語 Ⅲ』(新潮社)がついに発売となりました。
今回は三年にわたって続いた『ギリシア人の物語』シリーズの最終巻であり、塩野さん自身、歴史長編では最後の作品であると明言しています。
本作はマケドニア王国の大英雄 アレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)が主人公であり、この若き英雄の生涯と足跡を辿る壮大な物語になっています。塩野女史は多数の歴史書を読み込み、長期間調査を行ったうえで自分なりの考察、推考を行って執筆されているので、物語としてだけでなく一つの歴史書としても読ませる一冊になっています。
古代世界史に興味をお持ちの方も、ギリシャコインを収集している方にとっても面白い内容だと思います。父王フィリッポス2世や、アレキサンダー大王が発行したコインについても言及されています。この冬ぜひ手にとってお読みいただきたい一冊です。
・新潮社『ギリシア人の物語 Ⅲ』特設ページ 塩野女史インタビュー映像
ワールドコインギャラリーでもアレキサンダー大王のコインを多数扱っております。
こちらもご覧いただければ幸いです。
・「アレキサンダー大王コイン」 特設ページ
さて、今回は来年が幸先の良い年になるように、「幸運の女神」について書いていきたいと思います。
古代ギリシャ・ローマコインには数多くの女神が表現されてきましたが「幸運の女神」とされたテュケとフォルトゥナも頻繁に表現されています。
もともとテュケ女神は地中海の東方地域で広く信奉されていた神であり、小アジア南部やフェニキアの諸都市では守護女神として受け入れられていたようです。
シリア、アンティオキア市の守護神としてのテュケ女神を表現した像。女神の足下にはアンティオキア市を流れるオンテロス川の神が泳いでいます。紀元前3世紀にエウテュキデスが作成したブロンズ像とされ、その後ローマにコピーが作成されました。
その姿は城塞の形をした冠をいただく姿として表現され、そのままコインのデザインとして取り入れられたのでした。
ドラクマ銀貨 小アジア アミソス BC400-BC350
フェニキア アラドス テトラドラクマ銀貨 BC89-BC88
セレウコス朝シリア セレウキア テトラドラクマ銀貨 BC100-BC99
セレウコス朝シリア アンティオキア テトラドラクマ銀貨 BC162-BC154
セレウコス朝シリアが滅亡し、地中海東方地域がローマの勢力圏に収まると、テュケ女神は「フォルトゥナ(運命)」の名で広く受け入れられるようになりました。現在の英語の「フォーチュン(fortune)」にも連なる意味合いです。フォルトゥナは運命を司り幸運と好機をもたらしてくれる女神として、また「運命」そのものの象徴として、個人から国家のレベルに至るまで認識されてゆきました。
ヴァティカーノ美術館が所蔵するこの像は、ローマ外港オスティアで奉られていたフォルトゥナ女神像であり、古典ローマの服装を纏った高貴な婦人のように表現されています。右手で舵を支え、左手でコルヌ・コピア(豊穣の角)を抱えています。
ローマ時代に確立されたフォルトゥナ女神のイメージは、恵みと豊穣を象徴するコルヌ・コピアを持ち、一方の手で舵を握る姿です。舵は運命の流れを変える意味を持ち、また人間の「人生の舵をとる」のは他ならぬ「運命」であるとされたからでした。
ローマの近郊ではプラエネステ(現在のイタリア中部 パレストリーナ市)にフォルトゥナを奉る神殿が存在しました。紀元前2世紀頃に建設されたこの神殿には神官がおり、「プラエネステの神託」と呼ばれる神秘的な文字によって回答する神託所があったと伝えられています。
フォルトゥナはローマ国家にとっても重要な女神像とされ、歴代の皇帝たちは黄金のフォルトゥナ女神像を代々引き継ぎ、寝所など身近に安置したとされています。
五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝は崩御する直前、黄金のフォルトゥナ女神像を自らの枕元から、後継者マルクス・アウレリウスの寝所に移すよう側近に指示したとされ、これがアントニヌス・ピウス帝の最後の命令となった、と伝えられています。
そのため各皇帝の時代に発行されたコイン裏面にも、頻繁にフォルトゥナ女神の像が表現されました。また東方の属州の都市でも、現地通用のコインにはフォルトゥナ(現地ではテュケとして)がデザインとして採用されていました。
アウグストゥス帝 シリア属州アンティオキア発行 テトラドラクマ銀貨 BC4-BC3
大ファウスティナ妃 デナリウス銀貨 AD147-AD161
小アジア アレクサンドリア・トロアス AD253-AD268
※帝政ローマ時代、主に小アジアの都市で発行された銅貨の内、皇帝や皇族を表面に刻まず土着の神や女神を打ち出したタイプのコインを「Pseudo-autonomous(擬似自治)」と称します。
ローマで人気のあったフォルトゥナ女神は様々な芸術作品において、「運命」の寓意として表現されました。その過程でフォルトゥナは幸運と好機をもたらす側面がある一方で、一つのところに落ち着かない、移り気な性格の女神であるとされました。
幸運を与える人間の性質を問わず、女神が気に入った人間に好機を与えることもあれば、気まぐれに奪い去ることもあると云われたのです。人間にとって「運命」は自分の意志だけでは思い通りに行かず、先行きが分からないものであるが故、その女神もまた御しがたい存在であると捉えられたのでしょう。
ローマ時代以降、特に近代に表現されたフォルトゥナ女神は目隠しをされていたり、不安定なことを象徴する球に乗せられている例が見受けられるのはそうした背景があるのです。
フォルトゥナ (タデウツ・クンツェ作 1754年 ワルシャワ国立美術館)
読者の皆様は本年も1年間、このブログにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
2018年/平成30年も皆様にとって良い年になりますよう、幸運の女神に気に入られて、素晴らしい一年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
P.S. 来年1月27日放送予定のNHK-BSドキュメンタリー番組『グレートネイチャー』で、ワールドコインギャラリーで撮影されたローマコインが放送される予定です。ほんの一瞬ですが、もし機会がありましたらぜひご覧下さい。
こんにちは。
11月も半ばに入り、すっかりと寒くなって参りました。
今回は古代ギリシャ、アテネの名品コイン「フクロウコイン」についてお話したいと思います。
先日いらっしゃったお客様から、フクロウのコインにみられる「第三の目」についてお話していただきました。その際にお客様から教えていただいたことを踏まえながら、ご紹介いたします。
「フクロウコイン」とは古代ギリシャを代表するコインの一つであり、アッティカ地方の都市国家アテネで発行されたテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨を指します。
BC485-BC480
BC465-BC454
BC465-BC454
BC454-BC404
BC353-BC294
BC136-BC135
紀元前5世紀~紀元前1世紀という長期間にわたって発行されたフクロウコインは、そのデザインの変遷から時代を読み解くことが可能です。表面には守護女神アテナの横顔像、裏面はアテナの聖鳥フクロウという組み合わせは、基本的に変化することはなく、その表現様式が変化しています。
紀元前5世紀半ばのアテネはペルシア戦争の勝利を主導したことで、ギリシャ世界の覇権を握るようになっていました。同時期の指導者ペリクレスの下、アテネは周辺都市国家を包括した「デロス同盟」の盟主となり、「アテネ帝国」と形容されるほどの繁栄を誇っていました。
この時代に造られたタイプのフクロウコインは、アテネの繁栄を象徴するコインでした。圧倒的な経済力を背景に大量に造られたこのコインは、高い銀品位と優れたデザイン性によって多くの都市で受け入れられ、今なお根強い人気を誇っています。一般的に「ミネルヴァのフクロウ」といえば、このモティーフをそのままイメージする方も多いのではないでしょうか。
特に今回注目したいのは、紀元前5世紀半ば~紀元前3世紀頃に造られたフクロウコインです。この期間に造られたフクロウコインの特徴の一つが、フクロウの額部分にある小さな突起物、通称「第三の目」です。
フクロウの大きな目の上に、小さなほくろのような球体が確認できます。この特徴は他の型のコインでも見られることから、毛並みの一部として表現されているものではなく、意図的に付けられていることが分かります。
不思議なことにこの球体は、ペリクレスの時代より前のコインと、アテネがローマの支配下に入った後に造られたコインには見られないのです。この第三の目はなぜ付けられたのか?多くの謎を残しています。
※尚、左上に表現された「小さな三日月」はフクロウの夜行性を象徴しているという説がある一方で、ペルシア戦争中の紀元前480年に勃発した「サラミスの海戦」が新月(二十六夜)の直前に行われていることから、海戦勝利を記念しているという説もあります。
「額にある第三の目」として連想されるのが、古代インド ヒンドゥー教などで登場する「第六チャクラ(アージニャー・チャクラ)」です。チャクラとは人間が本来持っている感覚を表したものであり、視覚や聴覚、嗅覚などが該当します。そして五感を超えた先にあるとされる感覚、通称「第六感」ともいわれるものが第六チャクラだとされています。全てを見通す感覚(直感、勘、高度な思考、本質を見抜く洞察力)とされるこのチャクラは、眉間の奥に位置すると考えられてきました。
ヒンドゥー教の神シヴァの物語では、シヴァの妻であるパールヴァティーが戯れに夫の目を後ろから両手で塞いだところ、額から「第三の目」が現われたとされています。その為、シヴァ神の像は額に第三の目が加えられています。現代でも目を三つ持って生まれた奇形の子牛が、シヴァ神の生まれ変わりとして神聖化されることがあるそうです。
第三の目という考え方は古代インドでは広く認識され、仏陀の額にある「白毫」は毛が収縮したものですが、この第六チャクラ思想が大きく関係しているとされます。
ガンダーラ様式の仏像。眉間に「白毫」が確認できます。シヴァ神と異なり目ではありませんが、全てを見通す第六感を象徴しているとされます。
また古い中国医学では眉間部分のツボを「天目」といい、インドと同じく天上の神の目と捉えられていたようです。
古代エジプトでも「全てを見通す知恵の目」「第三の目」という考え方があったようです。
エジプトの天空神ホルスの両目はそれぞれ「月」と「太陽」を象徴し、月を象徴する左目は「ウジャトの目」と云われ、全てを見通す叡智を持つとされていました。ホルス神がセト神と戦った際、ウジャトの目はホルスの体から離れてエジプト全土を旅し、後に知恵と月の神トートによってホルスに戻されたという伝説があります。このことからウジャトの目は月を象徴し、叡智や再生、回復といった効能が期待されたのです。
ちなみにウジャトは本来、コブラの姿をした女神を示す名です。蛇は暗闇でも獲物を捕えられるよう、「ピット」と呼ばれる器官が備わっており、その器官で熱を感知して赤外線によって形を認識できるようです。そしてそのピット器官は目と鼻の間にある小さな穴だそうで、やはり「第三の目」と称されているそうです。
このように見ると、眉間にあるとされる第三の目は「第六感」「叡智」「全てを見通す目」いう共通認識があるようです。そしてギリシャ神話のアテナ女神は「知恵の女神」として知られています。その従者であるフクロウの眉間に第三の目が備わっているのは、単なる偶然ではないようです。
コインに表現されている「新月」は満ち欠け、回復の象徴とも解釈できます。このことから、ホルスの目を回復させた知恵と月の神トートを連想させます。フクロウがアテナ女神の従者に選ばれたのは、女神が休む夜になってから空を飛びまわり、その間の出来事を朝アテナに報告するから、という伝承があります。このことも、ホルスの左目がエジプトを旅して知見を得た流れと似ているように思います。
こうした神話の類似性から、フクロウの第三の目は古代インド~古代エジプトの影響が反映されているのでないか、と考えられます。
ただ、なぜこの目が最盛期の紀元前460年前後に登場し、ローマ時代の紀元前2世紀に消えたのか、またどのような経緯で当時のインドやエジプトの文明とアテネが接触を持てたのか、その背景は不明な点が多いです。
世界中の人に知られたコインでありながら、まだまだ謎を秘めているフクロウコイン。2400年以上昔のミステリーに考古学者のように思いを馳せ、想像力を掻き立てさせてくれるこのコインは、本当に魅力が尽きない古代遺産だと思います。
こんにちは。
11月に入りすっかり秋らしい陽気になってまいりました。今回は「収穫の秋」にちなんで、古代ギリシャの葡萄酒の神 ディオニソスのコインをご紹介します。
古代ギリシャ・ローマ時代は多神教の時代であり、様々な神が信奉されていました。
その中でも女性達を中心に熱狂的信奉を集めたのが「ディオニソス」でした。
ディオニソスは比較的新しい外来神とされ、豊穣をもたらす神とされていました。
ギリシャに伝来した後、転じて葡萄酒(ワイン)の守護神とされ、酩酊や陶酔、熱狂と興奮を司る快楽の神ともされました。その姿は髭の男性であることもあれば、女性的な美しい青年の姿で表現されることもありました。頭部には葡萄の葉で作ったリースを巻き、松笠が付いたテュルソスの杖を持っています。彫刻や絵画では半人半馬の酔っ払いシレノスや豹、踊る女性たちを引き連れた姿で表されています。
ローマでは「バッカス(バッコス)」の名で知られ、ギリシャと同じように女性達の間で広まりました。また束縛や禁忌、常識からの解放を表す「リーベル」の名で表されることもありました。
「ディオニオスの秘儀」の集会やその快楽性、集団での熱狂性から「退廃的」とみなした元老院が禁止令を出したこともありましたが、魅惑的かつ熱狂的なディオニソス信仰を絶やすことはできませんでした。その後、地方でも豊穣祭としてディオニソス信仰が浸透していきました。男女の別なく仮面をつけて下品な歌を歌いながら路上を練り歩き、羽目を外したお祭り騒ぎが繰り広げられたと伝えられます。
人気のあったディオニソス(バッカス)は、ギリシャやローマで発行された様々なコインにも表現されました。
中でも特徴的なものは、エーゲ海のタソス島で造られたテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨です。
このコインは紀元前90年~紀元前75年頃にタソス島の造幣所で造られました。
表面にはディオニソス神の横顔像が打ち出されています。頭部には葡萄の蔦が巻かれており、ハート型の葉や葡萄実が確認できます。ヘレニズム時代の美術彫刻で流行した女性的な姿ですが、アマゾネスのような逞しさも感じられます。
裏面は英雄ヘラクレスの立像が表現されています。筋骨隆々とした逞しい姿です。全裸のヘラクレスは棍棒とライオンの毛皮を持っており、右側にはヘラクレスの名銘「ΗΡΑΚΛΕΟΥΣ」、下部にはタソスを示す「ΘΑΣΙΩΝ」の銘が刻まれています。
このコインが発行された紀元前1世紀、タソス島をはじめトラキア地方やマケドニア地方はローマの支配下にありました。アンティゴノス朝マケドニア王国が滅亡した紀元前168年以降、ローマはアンティゴノス朝が統治していたトラキアやマケドニアを再編し、分割統治を行いました。中でもエーゲ海の北端部に位置しているタソス島は、戦略的にも重要な島とみられていたようです。
※赤い島がタソス島。現在ではギリシャのリゾート地として知られている。
当時、トラキア地方には豊かな銀山が存在していました。ローマはトラキアで産出された銀を大量にタソス島とマロネイア(トラキア南部の港湾都市)の造幣所へ輸送し、同じデザインのテトラドラクマ銀貨を造らせたのです。その際にデザインとして選ばれたのは、トラキアやマケドニアの各地に伝承が残る「ディオニソス」と「ヘラクレス」だったのです。
当時、タソス島は葡萄とワインの名産地とされていたことから、ディオニソスとも浅からぬ縁がありました。
こうしてタソス島とマロネイアで造られたディオニソスのテトラドラクマ銀貨は、エーゲ海各地、トラキア、マケドニアの各都市に広まってゆきます。ローマ支配下では交易決済の手段として盛んに用いられていたとみられ、各地の遺跡から多く発見されています。またトラキアの良質な銀から造られたこのコインは、ローマの影響外にある人々、社会にまで浸透していました。
東ヨーロッパのドナウ川流域に暮らしていたケルト族が造ったとされるコイン。そのデザインはタソス島のコインを模倣していますが、上手く再現できていなかったり、諦めてオリジナルのアレンジを加えているものもみられます。
ルーマニアやブルガリアの遺跡からこうした模倣貨が多く発見されていることから、エーゲ海から離れた地域にまでタソス島のコインが浸透していたことが分かります。
森深い未開の地域に暮らす人々も、ギリシャ・ローマ文化に対して憧れを抱いていたことがうかがえます。
秋も深まり日が短くなっている今日この頃、ディオニソス神のコインを片手に往時に思いを馳せながら、お酒をゆっくり味わうのも良いかもしれません。
投稿情報: 16:32 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月もいよいよ最後となり、すっかり秋が深まってまいりました。
6年前の2011年9月29日、東京・御徒町にクリエイターが集まるモノづくりの街『2k540』が誕生しました。
名前の由来は東京駅から「2km540m」の位置にある為。JR山手線の高架下スペースを活用して作られました。
こうして作られたクリエイターの街。ワールドコインギャラリーが店舗を構える空間ができてから、今年で「6周年」を迎えます。
これも皆様のご愛顧と支えがあっての6年目だと感じております。本当にありがとうございます。
そして本日より、『2k540創業祭』がスタートしました!
9月28日(木)~10月9日(月)の期間限定企画です!
↓↓↓特設ページリンク
上野動物園の赤ちゃんパンダ「香香(シャンシャン)」の誕生を祝し、今年の創業祭はパンダづくしです!
パンダのオリジナルキャラクターが出揃い、お越しいただいた皆様をおもてなしいたします。
この企画に合せて、記念として全48店舗がパンダにちなんだ商品をご用意しました。
ワールドコインギャラリーでは「パンダコイン」を各種入荷致しました。
可愛らしい親子のパンダを表現しています。
中国 2016年 200元 純金貨(15g)
中国 2016年 500元 純金貨 (30g)
中国 2011年 20元 純金貨 (1/20オンス)
中国 2011年 10元 純銀貨 (1オンス)
中国 1996年 10元 純銀貨 (1オンス)
秋になって外出しやすくなったこの一週間、上野・御徒町にお越しの際にはぜひ2k540に足をのばしてみてください。
たくさんのパンダたちが、皆様をお待ちしております!
投稿情報: 17:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
今年の8月は前半が雨模様で、まるで梅雨のようなお天気でした。今では猛暑が戻ってきたこともあり、ようやく例年の夏らしさを感じます。
今回は古代ローマコインで人気のある女神「アバンダンティア」についてお話したいと思います。
帝政時代のローマコインは、表面が皇帝などの人物像、裏面が神々の立像や坐像といった、パターン化した様式が定着していました。今でもこの時代のコインを集める方は、表面の皇帝像で選ばれる方が多いのではないでしょうか。
しかし、その中でも皇帝像ではなく、裏面の神様で購入される方もいらっしゃいます。軍神マルスや知恵の女神ミネルヴァ、医神アスクレピオスなど人気のある神様は多いのですが、実はそれ以上に求められている女神像があります。富と豊穣の女神「アバンダンティア」です。
アバンダンティア(Abundantia)は富と豊穣を齎す女神として、古代ローマでも特に人気のあった女神像のひとつでした。
資産や投資、貯蓄を守護し、成功や繁栄、金銭的豊かさを齎すと共に、富裕を象徴する女神として知られていました。しかしアバンダンティア独自の神話やエピソードは見られず、豊かさの寓意(アレゴリー)としてみなされています。英語の「Abundance (豊富、豊かさ)」は「Abund (満ち溢れる)」の派生語ですが、アバンダンティアはそうした言葉や概念を具現化した女神像だと思われます。
そのためアバンダンティアは後世のヨーロッパ、ルネサンス期やバロック期、ロココ期の芸術にも度々表現されています。上記の絵画は1630年頃、ルーベンスによって描かれたアバンダンティア女神像であり、東京・上野の国立西洋美術館に収蔵されています。
近代絵画に表現されたアバンダンティア女神は多くの場合「コルヌ・コピア」と呼ばれる豊穣の角を携え、その口から果物や穀物を注ぎだす姿で表現されています。この場合は「豊穣」をテーマとし、実り豊かな生活や生産性、安定した豊かな暮らしへの願いを象徴しているようです。
コルヌ・コピア(Cornu Copiae) 「豊穣の角」
ギリシャ神話の大神ゼウスは幼い頃、アマルティアという牝山羊によって育てられたとされています。アマルティアは自らの角をゼウス神に与えると、そこから酒や果物、花や宝石、金銀などの恵みが無限に溢れ出続けたと云われます。そこから西洋では豊かさ、恵みの象徴としてコルヌ・コピアが定着しました。日本の「打ち出の小槌」や「塩吹臼」によく似た性質の神器です。
古代ローマ時代のコインに表現されたアバンダンティア女神像も、例外なくコルヌ・コピアを携えています。しかしそこから注ぎ出されているものは花や果物、穀物よりも、多くの場合「コイン」でした。
エラガバルス帝時代のデナリウス銀貨
立姿のアバンダンティア女神は両手でコルヌ・コピアを抱え、その口から大量のコインを注ぎ出しています。周囲部には女神の名銘「ABVNDANTIA AVG (アバンダンティア女神)」が刻まれています。
座像など多少表現のバラエティはみられますが、類似の構図で表現されたアバンダンティアのコインは他の皇帝の時代にも見られ、ある程度一般化したイメージだったとことが分かります。
マルクス・アウレリウス帝のデナリウス銀貨
デキウス帝のアントニニアヌス銀貨
古代ローマの人々にとって、アバンダンティアは豊穣の女神であると共に、「金銭」「富」を齎してくれる大変ありがたい女神というイメージが定着していたのでしょう。
この時代にコイン上のデザインとしてコインそのものが表現されること自体、稀有なことでした。それだけローマ帝国の社会では貨幣経済が浸透し、蓄財や富といった認識が成熟していた証なのかもしれません。
今尚、このアバンダンティア女神が表現されたコインは欧米のローマコイン収集家の間で人気があり、オークションでも比較的高い値で落札されています。表面の皇帝に人気が無くとも、裏面によって評価されている珍しい事例です。コインをコレクションしていなくとも、お守りやパワーアイテムとして求める方も少なくはありません。
古代ローマ時代も現在も、金銭に対する認識や富への憧れは変わらないような感じがいたします。
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
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