【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
春らしい陽気になったと思えば、急に気温が下がったりと、三寒四温は継続中です。
それでも梅から桜へと移り変わり、花の咲き加減など、日々の変化を楽しめる時期になりました。今年も四分の一が過ぎ、季節の移ろいを感じます。
今回はコインの歴史を語る上で欠かせないリディアのクロイソス王についてご紹介します。
個々のエピソードは主にヘロドトスの『歴史』を準拠にしています。
高校世界史にも登場するリディア王国は、世界史上初めて金属貨幣=コインを発行した国として知られています。特にクロイソスは初めて金貨・銀貨を発行した王とされています。
リディア王国は現在のトルコ西部、サルデス(*現在のマニサ県サルト)を首都として発展しました。
アッシリア帝国崩壊後のオリエント四大国(エジプト,新バビロニア,メディア,リディア)の一角を占め、紀元前7世紀には小アジアの大半を影響下に置きました。
最盛期のリディア王国版図
(Wikipedia)
ヘロドトスの『歴史』によれば、リディアはサルデスを統治したリュドス王の名に由来しており、その後は神話上の英雄ヘラクレスを始祖とするヘラクレス朝が500年以上にわたって統治したとされています。
ある時、ヘラクレス朝のカンダウレス王は妃の美しさを自慢するため、臣下のギュゲスに寝所に忍んでその裸体を見るよう命じました。しかし妃に見つかってしまい、激怒した妃から今すぐ自死するか、王を殺して王位と自分を我がものにするかを迫られました。こうしてカンダウレス王を殺したギュゲスは妃を妻とし、新たなリディア王になったと語られています。
カンダウレス王と王妃とギュゲス
(ウィリアム・エティ, 1830)
こうして紀元前680年頃から始まったメルムナス朝の時代、リディアは周辺諸国や諸民族との戦いを通じて大国化し、古代オリエントの一角を占める帝国として繁栄しました。その過程でリディアでは交易、商業が盛んになり、莫大な富を蓄えるようになったのです。
首都サルデスを流れるパクトロス川では古くから砂金が採れ「金の砂を運ぶ川」として知られていました。近郊のトモロス山でも金が産出され、これがリディア王国の富の源泉になっていました。集められた砂金は溶かして重量ごとに分けられ、領内での商取引から周辺諸国との交易、神殿への献納、傭兵への報酬として用いられました。
そしてアリュアッテス王治世下の紀元前600年頃、この金塊に発行者である王の象徴としてライオンの刻印が押されるようになりました。これが歴史上における「コイン」の始まりとされ、世界史の教科書でも紹介されています。
表面にはライオンの頭部と太陽、裏面には打刻跡とみられる陰刻印があります。ライオンの頬にはバンカーズマーク(Bnaker's mark)が打たれています。
「スターテル」とは古代ギリシャ語で「重さ」を意味し、ドラクマやオボルが登場する以前の基準となる貨幣単位でした。リディアでは最大のコイン(約14.2g)を1スターテルとし、そこから1/2、1/3、1/6、1/12、1/24、1/48、1/96と重量によって細分化されています。最も小さい1/96スターテルは0.15gほどしかなく、極小の粒のようですが、それでもライオンの刻印はしっかりと打たれています。
ここまで細分化されているのは、市中の小規模な商取引でも用いられたことを示し、貨幣経済が確実に定着していたことを表しています。
ヘロドトスは『歴史』の中で「リディア人は金属貨幣を製造・使用した最初の民族であり、小売制度をはじめたのも彼らであった」と言及しており、コインの発明と貨幣経済の発展を評価していました。
なお、1スターテルは傭兵の一か月分の給与に相当したとされ、相当な価値を有していたことが分かります。
サイズ:7mm 重量:1.13g
発行者を示して信頼性を上げた最初のコインでしたが、流通上で問題もありました。パクトロス川やトモロス山から採れる砂金は琥珀金、エレクトラム(Electrum)と呼ばれる金銀の自然合金であり、その配合割合はおよそ30%~70%程と、大きなばらつきがありました。現存しているエレクトラムコインの表面には、当時の検査跡であるバンカーズマーク(Bnaker's mark)がみられるものが多くあります。
さらに重量によって細分化されているため、小規模な商取引において端数のやりとりには不便も生じていたと考えられます。
アリュアッテスの息子であるクロイソス(在位:BC561-BC547)が王位を受け継ぐと、その支障を解消するため重大な改革が行なわれました。
それまでのエレクトラムから金と銀を分離し、純度98%の金貨と銀貨をそれぞれ発行し始めたのです。
リディア王国 BC553-BC550 スターテル金貨
(サイズ:16mm 重量:10.76g)
クロイソスの時代には金銀を分離する方法が確立され(*塩と一緒に800℃程まで熱し、純度の高い金を採り出したと考えられている)、その重量に対する交換比率も定めたとみられます。
(*スターテル金貨1枚は同重量のスターテル銀貨13枚ほどに相当か)
金属の種類を分けることによって価値の差=額面を明示したことは、流通貨幣体系の基本であり、経済の歴史上画期的な転換点でした。
当時はまだ銅貨は造られず、最も小さい貨幣は1/12スターテル銀貨(約0.9g)でした。それでもエレクトラム貨の時代よりは大きくなっており、使いやすさはわずかに向上しています。
リディア王国 BC561-BC546 1/3スターテル銀貨
(サイズ:13mm 重量:3.44g)
刻印も従来のエレクトラム貨と区別するため、ライオンに加えて牡牛も表現されるようになりました。この牡牛はリディア王国の肥沃=富そのものを象徴していると考えられています。ここに国家の権威(=ライオン)と物質的価値(=牡牛)が一体となった、後世にまで続くコインの形が出来上がったのです。
高純度の金銀素材と、それを保障する王の刻印はリディア国外でも信用を得、通商取引で広く受け入れられました。サルデスはオリエントとエーゲ海域(ギリシャ)を繋ぐ要衝にあり、人と富の交流はより一層盛んになりました。安定した通貨の発行は新たな富を呼び寄せることになり、リディアの国力を高めることになったのです。
クロイソス治世下でリディアは経済大国となり、莫大な富を得ることになります。クロイソス王は大富豪・大金持ちの代名詞となり、現在でも英語やフランス語の慣用句として定着しています。
ヘロドトスの『歴史』で言及されるクロイソス王は金持ちであることを誇示し、デルフォイのアポロ神殿やエフェソスのアルテミス神殿に豪華絢爛な献納を行なってその富を示したことになっています。実際、エフェソスの神殿遺跡からはリディアで発行されたとみられる初期の貨幣が多く出土しています。
一方、各地で出土するコインの中には、ライオン&牡牛の意匠はそのままに、銅素材に金メッキや銀メッキを施したものが発見されています。
貨幣の誕生とほぼ同時に、贋金造りの歴史も始まったことを示しています。
銅素材に銀メッキが施されたスターテル銀貨
一部が剥落して下地の腐食した銅が露出している。
莫大な富を得、権勢を誇ったクロイソスはリディア最盛期の王とされますが、同時にリディア最後の王となりました。
紀元前550年に隣国メディアがアケメネス朝に征服され、大王キュロス2世(在位:BC559-BC529)の下でペルシアが統一されました。キュロス大王がその先にある豊かなリディアに手を伸ばすのは必至でした。
クロイソス王はデルフォイにあるアポロ神殿に多額の献納を行い、神託を受けて戦争の行く末を計ろうとしました。神官の答えは「クロイソス王がハリュス川を越えれば帝国が滅ぶ」というものであり、クロイソス王はペルシアに勝てると信じて戦うことを決意した、と云われています。
しかしこの答えはリディアとペルシアどちらとも解釈でき、結果がどうなっても責任を回避できるものでした。
クロイソス王は豊富な金貨銀貨を用いて傭兵を集め、さらにスパルタとエジプト、新バビロニアにも援軍を要請してペルシアとの戦いに挑みました。
紀元前547年のプテリアの戦いにおいて両軍は甚大な被害を被り、リディア軍は一旦サルデスに引き上げました。クロイソス王は冬になればペルシア軍は進軍を止め、その間にエジプトやスパルタからの援軍が到着すると考えていました。しかしクロイソス王の目論見は外れ、冬が到来しても援軍は来ず、キュロス大王はそのままサルデスに向けて進軍を続けました。
紀元前547年12月、サルデス近郊のテュンブラ平原で行なわれた会戦で、ペルシア軍は兵糧を運んでいたラクダを前面に配置。リディア軍が誇る騎兵の馬はラクダを恐れて混乱し、その隙を突いて弓兵が矢を次々と射掛けました。
テュンブラの戦い
敗れたリディア軍はサルデス城に立て篭もって抵抗を続けましたが、14日間の包囲の後に陥落。こうして神託通り小アジアの「帝国」リディアは滅び、クロイソス王の栄華も終わりを迎えたのでした。
ヘロドトスの『歴史』には、その後のクロイソスについて興味深いエピソードが語られています。
サルデスに入城したキュロス大王はクロイソスを捕らえ、市の中心で火刑に処そうとしました。いざ火が放たれたとき、クロイソスがアポロ神に祈りを捧げると雨が降り出し、火を消し止めました。それを見たキュロス大王はクロイソスの縄を解いて助命したと伝わります。
火刑に処されるクロイソス王
(紀元前5世紀初頭, ルーヴル美術館所蔵)
クロイソス王の肖像は現存せず、全て後世の想像で描かれています。
またペルシア兵に略奪される王宮を見ても動じず、その理由をキュロス大王が尋ねると、「負けた今となっては私の財産ではない。全てあなたのものになった。あの者たちはあなたの財産を奪っているのだ」と答えました。機知に富んだクロイソスに感心したキュロス大王は助命するのみならず、厚遇で迎え入れて相談役に抜擢したとされています。
ヘロドトスが伝えるエピソードはあくまで伝承であり、歴史的な事実とは異なるとみられています。しかしクロイソスが生き延びてキュロス大王の知恵袋となったとする希望も捨てきれません。
事実、リディアを征服したペルシアはサルデスでの金貨、銀貨発行をそのまま継続しています。デザインも変えず、重量もほとんど変化しませんでした。自らの治世の証である金貨・銀貨の恩恵をリディアに残すため、クロイソスが進言したのかもしれません。
この後、アケメネス朝ペルシアはリディアの貨幣制度を基にしたダリック金貨・シグロス銀貨を発行し、強大な中央集権力を背景に帝国全土に行き渡らせました。こうして「貨幣」はオリエント世界に広く普及していきます。
また、リディアの影響下に置かれていたエーゲ海沿岸の経済活動を通じて、ギリシャにも貨幣製造が伝播し、やがて各都市で多種多様なコインが造られるようになります。こうして地中海を通して西方のヨーロッパにも貨幣経済は浸透、発展していきました。
リディアが生み出したコイン、そしてクロイソス王の栄華を支えた金貨・銀貨の登場は、現在を形作る貨幣経済の始まりでした。現存するリディアコインは、人類史の重要な一歩の証拠として大切にされています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が明けてあっという間に3週間が経ちました。お正月気分もだいぶ薄れてきました。
寒さは日に日に厳しくなっており、最近はインフルエンザが猛威を振るっています。つい2年ほど前まではコロナ対策一色でしたが、すっかり遠い過去の出来事のようです。
くれぐれも油断せず、新年の最初の月を健やかに過ごしていきましょう。
今年は巳年ということで、蛇が表現された古代ギリシャをご紹介します。
元旦の挨拶でご紹介したコインは、ローマ帝国統治下のエジプトで発行された4ドラクマ貨でした。コインにはアガトダイモンと呼ばれる神話上の大蛇が表現されています。
表面はネルヴァ帝(在位:AD96-AD98)、裏面にはアガトダイモンが表現されています。このコインは属州都市アレクサンドリアで造られた低品位銀貨であり、エジプト属州内で流通しました。
アガトダイモンは幸運と健康の神とされ、ギリシャでは蛇の姿で表現されました。ローマ時代のアレクサンドリアではエジプトの神シャイと同一視されるようになり、豊穣や幸運、富を象徴する持物と共に表現されています。
古来より蛇は神秘性を帯びた生物として特別視され、古代ギリシャでは脱皮する姿から再生の象徴と捉えられていました。しかし地中海地域にもコブラをはじめ、毒性を有した蛇が分布しており、人間にとって恐るべき存在でもありました。
小さいながら人間の生死も左右する足のない生物は、神話世界の物語に度々登場します。旧約聖書の失楽園のエピソードでは狡猾と邪悪の象徴のように描かれていますが、ギリシャ神話では神々の使いとして登場しています。
その姿は、当時各地で発行されていたコインにも多く表現されています。
ローマ帝国 エジプト属州 4ドラクマ
同じくエジプト属州のアレクサンドリアで発行された4ドラクマ貨には、ハドリアヌス帝(在位:AD117-AD138)の肖像と、蛇に牽かせた車に乗るトリプトレモスが表現されています。
トリプトレモスは豊穣の女神デメーテールの使者とされ、二匹の大蛇に牽かせた車に乗って空を飛び、世界中に農業を伝播したとされています。
通常ギリシャ芸術では大蛇に翼がつけられていますが、このコインでは翼は無く、代わりに頭部に冠を戴いています。
この特徴は古代エジプトの女神ハトホルにみられ、ハトホルと同一視されていたレネヌテト女神を示しているとみられます。レネヌテトは穀物と豊穣の女神であり、アレクサンドリアをはじめとするナイル川下流域のデルタ地帯の都市で広く信奉されていました。
またレネヌテト女神はコブラの姿で表現されることから、コイン上の蛇との共通性が指摘されています。
ローマ デナリウス銀貨 バッカス神/セレス女神
紀元前1世紀のローマで発行されたコインには、上の4ドラクマ貨とよく似た構図が表現されています。
バッカス(=ディオニソス)とセレス(=デメ-テール)はそれぞれ豊穣を司る神であり、どちらも蛇が象徴とされています。
デメーテールは地上で娘ペルセフォネを探している途中、エレウシスの王子トリプトレモスに出会い、彼に穀物の種子と蛇のビガ(二頭立て戦車)を与えて世界中に農耕を広めるよう命じたとされています。
リディア トラレス BC166-BC67 キストフォリ銀貨
キストフォリ銀貨は4ドラクマの価値に相当し、表面のCISTAE(籠)に由来する名称。蛇が這い出すこの籠は酒神ディオニソスの秘儀に用いられた神器とされ、周囲部はワインの神を象徴する葡萄の蔦で囲まれています。裏面にも絡み合う二匹の蛇が表現されています。
エフェソス BC39 キストフォリ銀貨
表面は小アジアを統治したマルクス・アントニウスとその妻オクタヴィア、裏面は籠の上に乗るディオニソス神と二匹の蛇。
小アジアを支配したローマはこのキストフォリ銀貨を各都市で大量に発行し、現地に駐屯する兵士への給与支払いに使用、その為ローマ支配下の小アジアではこのキストフォリ銀貨が広く流通しました。
ミュシア ペルガモン 紀元前2世紀半ば 銅貨
表面には医術の神アスクレピオス、裏面は聖石オンファロスに巻きつくクスシヘビ(薬師蛇)が表現されています。
脱皮=再生と捉えられた蛇は医術の象徴としてアスクレピオス神の従者となりました。当時各地に建立されたアスクレピオス神殿では、実際にクスシヘビが大切に飼育されていました。
伝承ではアスクレピオスが杖で蛇を叩いた際、仲間の蛇が打たれた蛇に薬草を与え回復させたことから、その蛇を杖に巻きつけて持物にしたと云われています。現在でもWHO(世界保健機関)をはじめ、多くの医療関係団体のシンボルマークとして、蛇が巻きついたアスクレピオスの杖が採用されています。
ローマ BC64 デナリウス銀貨 ジュノー女神/サルース女神
サルースは健康と衛生の守護女神とされ、アスクレピオスの娘ヒュギエイアと同一視されました。特にローマでは国家安寧の守護神として奉られたこともあり、共和政時代~帝政時代を通してコインに多く表現されています。
その姿は父神の従者であるクスシヘビに餌を与える姿であり、その属性を分かりやすく示しています。構図の違いはありますが、この組み合わせはほぼ全てのコインに共通して見られます。
ローマ帝国 AD74 デナリウス銀貨 ウェスパシアヌス帝/カドゥケウス
アスクレピオスの杖と並んで有名な杖はカドゥケウス(*ケリュケイオン)と呼ばれる伝令使の杖です。
伝令神ヘルメス(*マーキュリー)の持物であり、商業や交通の象徴とされました。アスクレピオスの杖と異なり、蛇は二匹巻きついています。もともとは二本の枝だったとされていますが、それが蛇に変わり、翼が付け足されたと考えられています。
カドゥケウスは通商を象徴していることから、ギリシャやローマのコインにも度々登場します。帝政ローマではウェスパシアヌス帝(在位:AD69-AD79)のコインにみられ、皇帝が帝国内の物流や商業、経済を重視していた表れと捉えられています。
ミュシア パリオン BC350-BC300 1/2ドラクマ銀貨 ゴルゴン
神秘性を有する蛇も、現実世界では恐れの対象であり、危険な生物としても見做されていました。
神話に登場するゴルゴン三姉妹のひとりメデューサは美しい髪を持つ美女でしたが、アテナ女神の怒りを買い、髪の毛を毒蛇に変えられてしまいました。
コインには舌を出して威嚇するメデューサの正面像が表現され、周囲部には多数の蛇がとぐろを巻いています。
怪物となったメデューサの顔を見たものは恐怖で石化するといわれ、英雄ペルセウスによって討ち取られた後は盾(アイギス)に取り付けられました。
この邪視の力は魔除けと捉えられ、古代ギリシャでは盾や鎧などの武具、神殿や家庭内の装飾、コインなどに多く表現されました。こうした正面像はゴルゴネイオンと呼ばれ、シルクロードを通じて日本にも伝わり、鬼瓦に発展したという説もあります。
エウボイア島 BC338-BC308 ドラクマ銀貨
コインには蛇を捕らえる鷲が表現されています。蛇を獲物=敵と捉え、打ち倒す相手として表されています。
よく似た表現は近現代のコインにも見られ、恐ろしい蛇を倒す存在としての勇ましい鷲が強調されています。
ドイツ帝国 プロイセン王国 1913年 3マルク銀貨
1813年 ライプツィヒの戦い100周年を記念して発行。裏面に表現された大蛇は邪悪の象徴、すなわち敵であるナポレオンを象徴し、それを捕えるのはプロイセンの国章である大鷲です。
メキシコ 1968年 25ペソ銀貨
メキシコシティ五輪記念コイン。国章の鷲は古代アステカ人が定住地を決める際、神託によって「サボテンの上で蛇を食べる鷲の土地」と告げられ、テスココ湖に浮かぶ島でその鷲を見つけて新首都テノチティトラン(*現在のメキシコシティ)を建設したという伝説に基く意匠。
ローマ BC49-BC48 デナリウス銀貨
類似の意匠はローマでも見られます。ローマ史上特に有名なこのコインは、内戦期にユリウス・カエサルの軍団によって発行されました。象が前足で蛇を踏みつける印象的な図像です。
象はユリウス・カエサルの軍団を示し、踏みつけられる蛇はその敵であるポンペイウス、および元老院派を象徴しています。カエサル軍はこの銀貨を兵士たちに配ることで、その士気をより一層高めたとみられます。
時に恐れられる蛇ですが、古来より再生や医療、生命力、金運上昇など神聖な力を秘めた生き物として世界中で特別視されてきました。
巳年である今年はどんな一年になるのでしょうか。蛇のように細く長く、新しく脱皮できるような年になると良いですね。
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なお、今月29日にはワールドコインギャラリーがあるJR高架下の商業空間『2k540』にて《特別ご招待会》を開催します。
通常は休館日の水曜日に、特別な時間をお過ごしいただけます。
当日は各店舗にて各店舗でお得なサービスをご用意しております。
ワールドコインギャラリーでは当日ご来店いただいたお客様限定、全商品定価より20%OFFでご提供いたします。
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≪2k540 特別招待会≫
【2025年1月29日(水) 12:00~20:00】
▼場所:2k540 AKI-OKA ARTISAN
東京都台東区上野5-9
JR山手線 秋葉原駅と御徒町駅間の高架下
▼入り口は秋葉原寄り、蔵前橋通り近くの「特別入場門」の一箇所のみです。
※受付終了 19:30
▼ご入場時には「特別ご招待会DMはがき」、または「下の画像を印刷した紙」もしくはスマホやタブレットでこの「ページ画面」を入り口で提示して下さい。
是非とも2k540、そしてワールドコインギャラリーに遊びにいらしてください。
皆様の御来店、心よりお待ちしております!
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
明けましておめでとうございます
昨年も当ブログをお読みいただきありがとうございました。篤く御礼を申し上げます。
本年もコインに関する様々な情報を発信していく所存です。古代~現代に至るまで、多種多様なコインが発行されています。コインの歴史は人間の歴史、ひとつでも多くご紹介できれば幸いです。
21世紀が始まって既に四半世紀が経過、ついこの前と思っていた改元も、令和になって七年目に入りました。2025年の本年はどのような出来事があるのでしょうか。
皆様にとって平穏で良い年になりますことを心より願っております。
都内に御用の際は、ぜひ当店ワールドコインギャラリーにお立ち寄りくださいますと幸いです。お待ちしております。
まだまだ寒い日が続きますので、どうか暖かくしてご自愛下さい。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ローマ帝国 エジプト属州 4ドラクマ 神蛇アガトダイモン
(アレクサンドリア, AD96-AD97)
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
あっという間にクリスマス、年の瀬になりました。
寒さ厳しい日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。ついこの前まで猛暑、酷暑と言っていたのが遠い昔のようです。
今年は前年に引き続いて地金価格の高騰、ドル高傾向が続きました。純金1gは小売で15,000円超え、1ドルは150円超えが定着してしまったようにも感じられます。
もちろん金や為替の相場は世界の情勢に左右されるため、その先を見通すのは簡単ではありません。来る2025年にはどうなっているのか、なかなか予想がつきませんね。
コインの取引でもそれは反映されており、金と銀の高騰は金貨・銀貨の販売価格上昇に直結しています。昔つけた販売価格よりも、コインが含む地金価値の方が高くなっているなんてこともあるようです。
古代コインは希少性や保存状態など、アンティークとしての価値が価格に大きく反映されているので、地金相場の変動は本来あまり関係ないのですが、それでも徐々に相場が上がっているようにも感じます。
もちろん海外から輸入する場合、円安と関税は避けて通れませんが、それでも海外の市場で品薄傾向・値上がり傾向が続いていることも事実です。
現在はインターネットを通して情報を手に入れやすくなり、若い人も新規参入しやすい環境が整っています。専門的な内容の英語文章も簡単に日本語翻訳でき、その精度も年々上がっているように感じます。AIによる学習の恩恵ですね。
またSNSを通じて収集家同士がつながり、情報交換や共有が24時間できるようになりました。この傾向は分野や国を問わず、世界中どの収集市場でも起こっている現象であり、各分野・市場に変化をもたらしています。
新規参入者が多いと、入手しやすいコインが品薄になって価格が上昇するといった事例も多くなります。それまでは限られた空間で定められていた評価が、新規参入者が増えたことで再評価され、価値が見直されるようになっています。
今年沢山見かけたコインが、来年には姿を消す、といった状況もあるかもしれません。しかしこのトレンド予想もまた、地金相場や為替と同じく、なかなか読めないものです。
結局は現時点で興味のある分野、一目惚れしたコインを手に入れ、その時々で心から満足することが、一番楽しくお得な生活なのかもしれません。
今年も一年間、このブログを御覧いただき本当にありがとうございました。
何とか月一回の更新を続けられたのも、こうして貴重なお時間を割いてまでお読みいただいている方々のおかげです。
改めまして、心より御礼を申し上げます。
どうぞ皆様、素敵なクリスマスを、そして良い御年をお迎え下さい。
なおワールドコインギャラリーは12月25日(水)のクリスマスは通常通り営業しております。
年内の営業は12月28日(土)まで、年末年始はお休みをいただき、1月5日(日)から営業開始予定です。
皆様にとって素晴らしい年末年始になりますことを心から願っております。
マン島 1980年 50ペンス白銅貨
マン島で毎年発行されていた「クリスマス」コインシリーズ。ポブジョイミント社が製造し、世界中のコイン収集家に向けて販売されました。当時クリスマスをテーマにした記念コインはほとんど無く、その珍しさからクリスマスプレゼントとしても購入されました。額面は50ペンスで白銅貨、銀貨、金貨、プラチナ貨がそれぞれ製造されています。
毎年デザインが異なり、マン島の風景に溶け込む伝統的な交通機関がテーマになっています。クリスマスを祝う人々の中には、マン島の象徴であるマンクスキャットが隠れており、毎年その姿を探すのも楽しみのひとつでした。
マン島 1981年 50ペンス銀貨
マン島 1987年 50ペンス白銅貨
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:14 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり寒くなってきました。秋をすっ飛ばして一気に冬模様です。
今年もあと一ヶ月。時の流れはあっという間です。健康に冬を乗り切るためにも、体調管理にはくれぐれもお気を付けください。
今回はローマ五賢帝の筆頭である「ネルヴァ帝」のご紹介です。
ネルヴァはローマ帝国の最盛期とされる「五賢帝時代」を切り開いた人物でありながら、その治世はわずか16ヶ月の短命な政権でした。
それゆえにローマコイン、五賢帝のコインを揃える上では最も入手し難い皇帝です。
マルクス・コケイウス・ネルヴァは35年11月にイタリア中部のナルニアで生まれました。家は共和政時代から続く由緒あるローマ貴族であり、元老院議員や法律家を輩出していました。
彼自身も法律を修め、ローマの政治中枢へと進んでいきました。ネロ帝の時代には詩の才覚によって皇帝に気に入られたと云われています。
ネロ帝亡き後の権力争いに勝利したウェスパシアヌス帝の治世下でも執政官などを歴任し、ローマ元老院において確固たる地位を築いていきました。
長年の政界での経験はネルヴァの政治能力と名声を高め、次々と代わる皇帝たちとの関係も円滑にしたと推察されます。
転機が訪れたのは96年に起きた皇帝ドミティアヌスの暗殺でした。9月18日、ドミティアヌス帝は粛清を恐れる側近たちの手で刺殺されたのです。
ドミティアヌス帝の独裁的・独善的な統治姿勢は元老院の反発を買い、両者の対立は激化していました。皇帝暗殺未遂事件が度々起こったことにより、猜疑心を強めたドミティアヌス帝は元老院を敵対視し、多くの名士を迫害、粛清していきました。さらには自らを現人神として扱うよう要求し、こうした特徴からネロ帝の再来と見做されました。
そうした最中であっても、ネルヴァ自身は皇帝の同僚執政官に選出されるなど信頼と尊敬を得ていました。父帝の代から信頼されていたことに加え、既に60歳を超えた高齢であったこと、また軍事経験もない文官だったことから、競合相手として警戒されなかったとみられます。
ドミティアヌス帝のデナリウス銀貨
ドミティアヌス帝の近くにありながら恐怖政治の時代を生き抜いたネルヴァでしたが、皇帝暗殺の計画を知っていたという説もあり、皇帝に対する忠誠心があったのかは疑問です。
いずれにせよ、ネロ帝・ドミティアヌス帝といった猜疑心の強い暴君の信頼を勝ち得ていたという点において、老練なネルヴァが優れた政治感覚を持ち合わせていたことは間違いないでしょう。
暗殺の報せに歓喜した元老院は、すぐさまドミティアヌス帝の神格化拒否と記録抹消(ダムナティオ・メモリアエ)を決定。そして元老院議員の中で最も尊敬を集めていたネルヴァを新たな皇帝に推戴しました。斃された暴君に近い存在でありながら、元老院での支持も維持していたネルヴァの人徳評判の高さが覗えます。
即位直後の時期に発行されたネルヴァ帝のデナリウス銀貨
顔の輪郭や鼻の形状から、先帝ドミティアヌスの肖像に手を加えて急遽作成されたとみられます。皇帝暗殺という不測の事態に、ローマの中枢が目まぐるしく変化していたことが覗えます。
当時のローマ人から見れば高齢の域に達していたネルヴァ帝は、ドミティアヌス暗殺によって生じた混乱を収めるという難しい舵取りを任されました。
ドミティアヌス帝によって迫害されていた人々には恩赦や名誉回復がなされた一方、恐怖政治に協力した密告者たちに対する報復が始まったからです。
ネルヴァ帝と元老院は抑圧からの解放と和解を謳い、伝統的なローマ社会の秩序回復を宣伝しました。
解放と自由の女神リベルタスが表現されたデナリウス銀貨
女神は解放奴隷が被るピレウス帽を携えており、左右には「LIBERTAS PVBLICA (=公共の解放)」銘が配されています。
ネルヴァ帝の即位は直ちに帝国属州各地へ伝えられ、総督や軍団には新皇帝への忠誠を求めました。ネロ帝の最期のように政治的空白を生じさせず、反乱を防ぐ方策でもありました。
彼の公式肖像も帝国中に伝達されました。首が長く、特徴的な鷲鼻は高貴さを醸し出す反面、やせ細った神経質そうな老人といった印象も受けます。
この肖像を手本にして、東方の属州では現地発行の新たなコインが製造されました。ローマ本国から遠く離れた属州のコインであってもドミティアヌス帝は追放され、新皇帝ネルヴァに置き換えられたのです。
2000年近く前でありながら、首都ローマから発せられた情報が、迅速に帝国中に伝達されるシステムには驚くばかりです。
シリア属州都市アンティオキアの4ドラクマ銀貨
エジプト属州都市アレクサンドリアの4ドラクマ貨
即位後に発行されたコインを見ると、ネルヴァ帝がどのような治世を志向していたかが分かります。先の恐怖政治時代から転換するため、市民の公正と福祉、そしてローマの伝統を重視する姿勢を示しました。温和で堅実、慎重なネルヴァの性格が表れているような治世であり、元老院では即位後すぐに「元老院議員を殺さぬ誓い」を立てて政治の変化を示しました。
公正の女神アエキタスが表現されたデナリウス銀貨
健康・衛生・国家安寧の守護女神サルースが表現されたデナリウス銀貨
儀式で用いる神器が表現されたデナリウス銀貨
幸運の女神フォルトゥーナが表現されたデュポンディウス貨
しかしそうした政治は軟弱・優柔不断とも批判される危険性がありました。ドミティアヌス帝暗殺の余波はなかなか収束せず、特に軍隊には不穏な空気が付きまとっていました。
ネルヴァ帝自身はドミティアヌス帝の政権に協力したこともあり、支持派・不支持派の対立に肩入れすることはありませんでした。しかし軍隊や近衛隊にはドミティアヌス帝を支持する者が多く、先帝を惜しむ声が日に日に高まっていたのです。
ネルヴァ帝の政治的な弱点は軍隊の支持を得られていない点にありました。文官として出世したネルヴァは軍隊との関係を構築する機会に恵まれず、皇帝になったが故にその溝に悩まされたのです。
軍隊との協調関係を示したデナリウス銀貨
軍旗、握手図と共に「CONCORDIA EXERCITVVM (=軍隊との協調)」銘が配されています。皇帝と軍隊の協調関係を示し、兵士たちに皇帝への忠誠を訴えた意匠です。
97年夏、ついに近衛兵たちの不満が爆発し、皇帝の宮廷に押し入る事件が勃発しました。兵士たちはドミティアヌス帝を暗殺した実行犯二人の身柄を引き渡すよう要求。これに対してネルヴァ帝は自らの首を突き出し、要求を拒否したと伝えられています。
しかし老皇帝の威厳ある行動にも関わらず、兵士たちは実行犯であるペトロニウスとパルテニウスを捕らえて勝手に処刑してしまいます。
ネルヴァ帝自身は無事でしたが、この事件は皇帝が軍隊を制御できておらず、武力の前には為す術が無いことを露見しました。皇帝の権威は大きく傷つけられ、ネルヴァ帝も自らの身の安全を図るために策を講じました。
高齢のネルヴァには息子がおらず、血縁者にも適当な後継者がいませんでした。そこで軍隊内で人望が厚く、軍事行政の両面で能力が高かったマルクス・ウルピウス・トラヤヌスに白羽の矢を立てました。
97年10月27日、カピトリウム丘のユピテル神殿においてネルヴァ帝はトラヤヌスを養子にすると宣言。事実上の後継者指名であり、次の皇帝が決定した瞬間でした。
この時トラヤヌスは軍を率いてゲルマニアで活動しており、ローマにはいませんでしたが、彼の支持者や友人たちが活発に運動し、根回しを図っていたと考えられています。
複数の軍団を率いていた有力者を後継者に据えることで軍隊内は落ち着き、ネルヴァ帝の延命にも役立ちました。
トラヤヌス帝の治世最初期に発行されたデナリウス銀貨
裏面には握手するトラヤヌスとネルヴァが表現され、平和的かつ正統に帝位が継承されたことを宣伝しています。
この決定によって、有能な人物を養子に迎えて後継者とするローマ五賢帝の性格が特徴づけられました。事実ネルヴァが後継者に指名したトラヤヌスは即位後優れた統治者として能力を発揮し、その治世下でローマ帝国の版図は史上最大となったのです。
後継者指名から3ヵ月後の98年1月28日、皇帝として最大の仕事を果たしたように、ネルヴァ帝は息を引き取りました。熱病とも脳卒中ともいわれています。
すぐさま元老院はネルヴァ帝の神格化を決定。国葬後に遺灰はアウグストゥス廟に安置され、その功績が讃えられました。
ローマから離れたゲルマニアで帝位を継承したトラヤヌスはすぐに帰国せず、一年ほどを任地での後仕事に集中します。その間、トラヤヌスが皇帝として最初に行なった決定は、前年にネルヴァ帝への反乱を扇動した近衛隊長をゲルマニアに呼びつけ、その職を解任(または処刑)したことでした。
ネルヴァ帝の治世はわずか16ヶ月と大変短いものであり、ゆえに彼の皇帝としての功績は「トラヤヌスを後継に指名したこと」と言われるほど、五賢帝の中では影の薄い存在でした。しかしその政治的決断によって、後に続くローマ帝国繁栄の時代を決定付けたことも事実です。
また、短い治世の間にも市民への食糧配給や免税措置、公共施設建設の指示など、市民のための施策を数多く行ないました。こうした事業は後継のトラヤヌス帝にも引き継がれており、ネルヴァ帝が有能な施政者、名君であり賢帝であったことを示しています。
もし彼の治世がもう少し長ければ、後世の評価も変わっていたかもしれません。
トラヤヌス帝時代に発行されたアリメンタ制度を讃えるデナリウス銀貨
アリメンタ(alimenta)は福祉政策の一環であり、孤児をはじめとする子供たちを経済的に援助する制度でした。この公的養育制度はネルヴァ帝によって創設され、トラヤヌス帝に引き継がれました。
コインには食糧供給の女神アンノナと少年像、「ALIM・ITAL」銘が表現され、イタリアにおけるアリメンタ制度を示す意匠です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:05 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
雨模様の日も多く気温が一気に下がってまいりました。この時期は特に風邪を引きやすいので注意が必要です。
今月はコインにまつわるこんなニュースがありました。目にした方も多いと思います。
読売新聞記事ページ
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太平洋戦争の末期、金属不足に対応するため苦肉の策として登場した「陶製のコイン」は、流通する前に戦争が終結したため世に出回ることはありませんでした。
苦しい戦争の時代を象徴するコインとして、日本貨幣収集界では有名なものでしたが、戦後80年を経ようとしている現在に50万枚も現存していたことは驚きです。
陶製のコインは第一次世界大戦後のドイツに登場し、地域通貨ノートゲルトの一種として各地で盛んに発行されました。多くはマイセンで造られ、デザインや大きさ、色も多種多様でコレクターズアイテムの一種として人気がありました。日本でもドイツの陶貨を参考にし、民間の陶器企業に研究と製造が委託されたのです。
ドイツ アイゼナハ市 1921 1マルク陶貨 マルティン・ルター
陶製のコインは100年前から存在していましたが、近年ではプラスチック製のコインも登場しています。
モルドバとウクライナの間に存在する未承認国家「沿ドニエストル共和国」では2014年にカラフルなプラスチック製コインが発行されました。
同国を支援しているロシアで製造され、半ば実験的に導入されたようです。1ルーブルから10ルーブルまでの四額面が発行され、サイズと重量はほぼ同じながら、形状と色を変えることで混同しないように配慮されています。
このコインは実際に沿ドニエストル国内で流通していたようですが、継続的な発行はされなかったようです。その後ロシアをはじめ他国が導入したという例はなく、現在では外国人向けのお土産のようになっています。コストは金属より安いのかもしれませんが、耐久性や自動販売機での使用など、実用面では問題があったのかもしれません。
コインといえば金属製で完全な円形のイメージが定着していると思います。製造方法や貨幣経済のあり方が代わっても、コイン=円形という固定されたイメージが変わることは無いように見受けられます。
貨幣価値が金属の素材とその重量によって決まる時代では、形状はあまり問題にならなかったといえるでしょう。
ブラジル 1869年 20レイス銅貨
スウェーデン 1939年 2クローナ銀貨
しかし長い貨幣の歴史では様々な素材、形状のコインが存在しました。古代中国では刀銭、ギリシャのスパルタでは針金状の貨幣など、円形の枠に留まらない形で作られていました。こうした形状の違いは価値観の変化もありますが、他額面のコインと区別しやすくするためや、他国のコインとの混同を避けるといった実用的な意味もありました。
《四角形》
2000年以上前のバクトリア王国(*現在のアフガニスタン~パキスタン北部)では四角形のコインが登場しました。四角形のコインは現在まで世界中で度々登場しており、円形に次いで例が多いように思われます。
バクトリア王国 紀元前180年-紀元前160年 ドラクマ銀貨
文字だけのコインの場合、四角形は収まりがよく、スペースを有効に活用できます。そのため偶像が禁じられているイスラーム諸国や、江戸時代の日本などでも四角形のコインが発行されていました。
ムワッヒド朝 1121-1269 ディルハム銀貨
インド ムガール帝国 1580-1581 ルピー銀貨
同じ四角形でも菱形にしたデザインのコインも発行されています。20世紀以降はイギリスの海外植民地で多く見られます。
英領バハマ 1969年 15セント白銅貨
流通用の四角形コインは角があるため、円形に比べて欠けやすいという難点がありました。
近年では流通を目的としない記念コインとして四角形のコインが採用されています。一目で通常のコインとは異なる形状であるため、特別な存在感が際立ちます。
トンガ 1977年 1パアンガ白銅貨
オーストラリア 2002年 50セント銀貨
《六角形》
六角形のコインは例が少なく、エジプトやインド、ビルマなどで発行されています。
エジプト王国 1944 2ピアストル銀貨
《七角形》
イギリスでは十二進法から十進法(1ポンド=100ペンス)に移行した際、新たに発行された50ペンス貨を七角形にしました。以降、イギリス本国とその属領で発行された50ペンスは七角形がトレードマークとして定着しました。1982年に発行された20ペンス貨も七角形です。
かつてイギリス領だった国々でも七角形コインが発行されています。
マン島 1979年 50ペンス銀貨
英領セイシェル 1972 5ルピー銀貨
バルバドス 1979年 1ドル白銅貨
《八角形》
インド アッサム王国 1696 1ルピー銀貨
この形状は中世のアッサムに存在したカーマルーパ王国が、仏教の経典『ヨーギニータントラ』の一節において「八面の地」と表現されていることに由来します。
《十角形》
十角形のコインも比較的例が少なく、マルタやベリーズ、英領香港などで発行されました。
マルタ 1972年 50セント白銅貨
《十二角形》
オーストラリアでは50セントが銀貨から白銅貨に切り替わった際、従来の円形から十二角形にして差別化を図りました。現在に至るまでオーストラリアの50セントは十二角形で統一されています。
またフィジーやアルゼンチン、コロンビアでも十二角形コインが発行されました。
オーストラリア 1988年 50セント銀貨
《楕円形》
楕円形、卵型のコインといえば、日本では小判や天保銭が思い浮かびます。円形に近いですが、世界的には珍しい形状であり、近年では記念コインとして見られる程度です。
特にクック諸島やニウエで発行されている「イースターエッグ」シリーズでは、そのテーマ性にぴったりな形として定着しています。
クック諸島 2013 5ドル銀貨
トルコ 2002年 7,500,000リラ銀貨
《星形》
現代記念コインは流通を目的としていないため、奇抜で珍しい形が多く登場しています。星型は特に人気のある形状ですが、高い技術力がないと製造できません。
オーストラリア 2001 1ドル銀貨&25セント銀貨
オーストラリア連邦100周年記念コイン。中央部の星型がはめ込み式になっており、その部分が25セント、外側が1ドルになっています。
《ホタテ貝型》
縁が波打った形状のコインはインドやイラク、スーダンや香港など旧イギリス領の国々に多く見られます。小額貨幣に多く用いられた形状でしたが、現在では記念コインとしても製造されています。
トンガ 1999年 1パアンガ銀貨
技術の進歩に伴い、多種多様な形のコインを製造できるようになりましたが、自動販売機など扱いにくさの問題や、製造コストの高さなどから結局は「円形」が最もポピュラーなコインの形として落ち着いています。
形を変えて識別しやすくする工夫も、現在は金属の色や大きさを変えることで対応することが一般的です。
形を変えずに中央に穴を開けることで識別しやすくする工夫は古くからあり、現在でも日本をはじめいくつかの国で採用されています。
ベルギー王領コンゴ自由国 1888 10サンティーム銅貨
今後はキャッシュレス化の進展により、日常的に小銭を使う機会は減少するかもしれませんが、記念コインの需要は変わらないように思われます。流通を目的しない貨幣であれば、奇抜な形状のコインもより一層増えていくことでしょう。
従来の枠に囚われない形のコインが次々と登場し、コイン収集の世界も賑やかになっていくことを期待しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:56 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続きますね。この頃は猛暑に加えて台風や地震があり、なかなか落ち着かないお盆休みになってしまいました。
もう少し暑さが和らいで、過ごしやすい日常になってくれると良いのですが・・・。
夏休みを利用して旅行に行かれた方も多いと思います。昨今は円安の影響で海外に行くのも大変ですね。海外旅行の代名詞だったハワイも、以前ほど気軽に行けなくなってしまいました。
今回はハワイで発行されていた「フラガール・トークン」をご紹介します。
1810年にカメハメハ大王がハワイ諸島を統一して以降、ハワイ王国は独立国として発展しましたが、1893年にアメリカからの入植者たちによるクーデターが勃発し王政は廃止。1898年、アメリカ合衆国に併合されハワイ準州が発足しました。
その後ハワイはアメリカからの投資とアジア太平洋地域からの移民によって開発が進み、オアフ島南部に位置する州都ホノルルは近代的な都市として発展しました。
アメリカはハワイに太平洋艦隊の基地を置き、アジア太平洋における重要な戦略拠点としました。一方でワイキキビーチの整備などリゾート観光開発も積極的に進められ、アメリカ本土からの観光客や太平洋を横断する船舶の寄港地として賑わいをみせました。
ホノルル市内を走る路面電車(1900年代初頭)
人口の急増に伴い都市内の人の移動、交通も整備され、ハワイ準州が発足した1898年にはホノルル・ラピッド・トランジット(HRT)が設立。
1901年に路面電車、1925年にモーターバス、1937年にはトロリーバスの運行を開始し、ホノルルの都市圏交通を担いました。交通の発達によりホノルルは郊外へと拡大し、周辺地域の開発も進められました。
1934年のホノルル市内路線図
1941年12月7日、日本軍がホノルル近くのパールハーバー(真珠湾)を攻撃し太平洋戦争が勃発すると、ハワイは対日戦の前線基地として多くのアメリカ兵が駐留。
戦後、アメリカ本土に帰った兵士たちは温暖なハワイの思い出話を持ち帰り、ハワイ=南国の楽園というイメージを広めました。
日本でも1948年に歌謡曲『憧れのハワイ航路』がヒットし、1950年には岡晴夫、美空ひばり主演による映画(新東宝)が公開され、戦後日本人のハワイに対する羨望感を高めました。
太平洋の前線基地として戦時体制下に置かれていたハワイは多くの規制がありましたが、アメリカ兵が多く駐留したことで戦争特需に沸きました。
そして戦争終結後は軍の特需に代わる産業として、観光事業に力を入れ始めたのです。かつての最前線は平和なリゾート地としてイメージを脱却させ、アメリカ本土からの観光客を呼び込みました。
人口の増加とモータリゼーションの進展によって、ホノルルの都市交通も変化していきました。複数の路線や交通機関への乗り換えをスムーズに行うため、交通トークンが盛んに利用され始めました。
ホノルル市内のトロリーバス(1950年代)。路面電車のように架線から流れる電気を動力にして走るバス。排ガスを生じさせない電気自動車として、かつては世界中の都市で運用されていました。
まだ交通系ICが無かった時代、アメリカの地下鉄や市電では切符の代わりにトークンを発行し、乗客の出入場や乗り換えを行っていました。
使用されたトークンは回収され、次の乗客のために再利用されました。こうしたトークンは多種多様であり、アメリカでは収集対象にもなっています。
1951年にホノルル・ラピッド・トランジットが発行したトークンは、楽園ハワイのイメージを体現するようなデザインでした。
両面には踊るフラガールの姿が表現され、ハワイらしさを体現しています。通常、こうしたトークンは文字だけの極めてシンプルなデザインが多く、コインのように図像化された意匠が表現されることは稀でした。当時のホノルル・ラピッド・トランジットがコストをかけてでも観光客を喜ばせようとしていた遊び心と言えるでしょう。
重量は4.1g、サイズは23mm、材質は白銅(Copper Nickel)です。現在の百円玉とほぼ同じ規格で製造されています。通常のコインと混同されないよう、左右には半月状の切込み孔が開けられています。一部は風にあおられたフラガールの腰蓑が重なっており、デザインと技術のこだわりを感じさせます。
このフラガールトークンは大成功となり、ホノルル市民だけでなく観光客にも大好評でした。
しかしあまりにも成功しすぎた故、思わぬ誤算が生じてしまいました。
このトークンを手にした観光客が可愛らしいデザインに惹かれてしまい、お土産として持ち帰ってしまったのです。交通トークンは回収して再利用することを目的としており、紙の切符よりコストが高い金属を使用しているのはそのためです。しかし使用されないトークンは回収されることなく、循環することもありません。ただ高い製造コストがかかる一方では、トークン本来の意味がないのです。
デザインが良すぎるが故の弊害によって、このフラガールトークンはたった一年ほどで製造中止となりました。
しかし使用されなくなったにも関わらず、このフラガールトークンはハワイのお土産品として、またコレクターズアイテムとして、70年以上を経た今もなお人気があります。1950年代のヴィンテージとしてアクセサリーにも多く加工され、ハワイを象徴するアイテムとして定着しています。
発行数や現存数は不明ですが、比較的入手しやすい価格で取引されています。しかし70年前の一年だけ発行され、交通機関でのみ使用されたもののため、入手するのは意外と容易ではありません。
こうした交通トークンをコイン=貨幣のカテゴリに分類していいのかは迷いますが、アメリカ併合によって独自の通貨を発行できなくなったハワイの数少ないオリジナルコインに数えても良いかもしれません。
現在では路面電車もトロリーバスも廃止され、交通トークンを使用する機会もなくなりました。それでもハワイを訪れ、ホノルル市内を走るバスを目にすることがあれば、ぜひ当時の様子にも思いを馳せてみてください。
現在のホノルル市内バス
現在でもバスはホノルル市内の重要な公共交通機関のひとつ。市民と観光客の足として重宝されています。なお2021年に交通系ICカードが導入されたことにより、乗り換えもより一層スムーズになりましたが、導入に伴って紙の乗車券は廃止されました。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:50 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
7月に入ってから、毎日のように猛暑の日が続きますね。夕方になると激しい雷雨が降るなど、一日のスケジュールも立てにくいほど極端な気候です。
外出するにも命がけですが、この暑さは日本全国どこも変わらないようです。8月になって少しは和らいでくれるとありがたいのですが・・・。
今年の11月15日(金)よりハリウッド映画『グラディエーターII』が公開されます。2000年『グラディエーター』の続編となる作品であり、前作で少年だったルキウスが成長し、剣闘士として戦う物語です。
前作の時代設定はコンモドゥス帝の時代でしたが、今回はそこから時を経たカラカラ&ゲタの時代になるようです。
古代ローマ帝国のイメージを広く根付かせた映像作品の続編であり、今から公開が楽しみです。
今回の作品では主人公ルキウスを支援する大商人としてマクリヌス(演:デンゼル・ワシントン)という人物が登場しますが、同時代に実在したマクリヌス帝(在位:AD217-AD218)をモデルにしたキャラクターだと思われます。
マクリヌスが帝位にあった期間は短く、その間に残した功績は必ずしも多くはありませんが、多くの点で異例のローマ皇帝でした。
マクリヌス帝肖像
(セルビアのベオグラード近郊で出土した青銅製頭像)
マルクス・オペッリウス・マクリヌスは164年頃に北アフリカのマウレタニア属州都市カエサレア(*現在のアルジェリア北部,シェルシェル)に生まれました。一族は騎士階級身分でしたがムーア人の血をひいていたと伝わります。
*ムーア人は北アフリカの先住民を指し、後世にはベルベル人と同一視されています。
(*中世ヨーロッパでは北アフリカのイスラーム教徒全般を指す言葉となった)
彫りの深い顔つき、浅黒い肌、耳にはピアスを通して数多くの宝石類を身に着けた、異郷人的風貌が伝えられています。現存する肖像では豊かな顎鬚を蓄えていますが、これは賢帝として名高かったアントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスのイメージを踏襲しているとみられます。
マクリヌスは法律を修めてローマ政界に進出、やがて同じく北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルス帝の近衛隊に引き立てられました。帝位が息子のカラカラに移ると近衛隊長に昇格し、最側近のひとりとして政権を支えました。
しかし、粛清を繰り返した暴君カラカラが自身をも排除しようとしていると察すると、マクリヌスは先手を打つことを画策しました。
パルティア遠征途中の217年4月8日、メソポタミアを進軍中、用を足すために隊列から離れた皇帝を近衛兵が刺殺。実行犯のマルティアリスはその場で殺害され、表面上は個人的恨みを持った一兵士による犯行とされました。
マクリヌスは無関係であることを示すように、カラカラの遺体を丁重に扱い、他の兵士たちと共にその悲劇を嘆きました。
事件から3日後の4月11日、最前線の指揮権を引き継ぐという名目の下、近衛隊長のマクリヌスが推戴され皇帝に即位。すぐさまローマ本国の元老院に知らせを送り、これを追認させました。
マクリヌスは元老院議員を経験せず即位した初めての皇帝であり、その出自民族から考えても異例のローマ皇帝でした。歴代の皇帝たちに倣い、マクリヌスも即位後に執政官の地位を得、パテル・パトリアエ(国父)の称号も授かりました。さらに9歳の息子ディアドゥメニアヌスをカエサル(副帝)とし、権威付けのためアントニヌスの名も加えました。
マクリヌス帝とディアドゥメニアヌスの銅貨
下モエシア属州のマルキアノポリス(*現在のブルガリア東部)で発行。マクリヌス帝の即位は迅速にローマと各属州に伝達され、新皇帝を表現したコインが各地で発行されました。
一方、セウェルス朝の外戚として権勢をふるっていたシリアのバッシアヌス家はマクリヌス帝にとって複雑な存在となりました。
当時、シリアのアンティオキアにはカラカラ帝の母ユリア・ドムナが滞在しており、マクリヌス帝は敬意を持って待遇しましたが、すぐさま事実上の幽閉状態に置きます。同年中にユリア・ドムナが病で没するとバッシアヌス一族は故郷のエメサに戻り、権力中枢の座から追われました。
シリア属州で発行されたマクリヌス帝のテトラドラクマ銀貨
カラカラ帝が始めたパルティア遠征はメソポタミアで膠着状態が続いていましたが、マクリヌス帝は早期に講和を結んで本国に帰還する選択をします。双方の撤退に際してローマは2億セステルティウスの賠償金を支払いましたが、この措置は前線で戦う兵士たちの士気を下げるものでした。
軍を退却させたマクリヌス帝はアンティオキアに入り、この都市から皇帝としての施策を指示しました。
そのひとつとして貨幣の改善が挙げられます。膨張する軍事費を賄うための貨幣増発と品位低下はカラカラ帝の時代まで度々行なわれ、それに伴いインフレーションが進行していました。マクリヌス帝はデナリウス銀貨の品位を50%前後からおよそ60%にまで引き上げ、品質を改善するよう指示しました。通貨と物価の安定を考慮した施策であり、財政の改革に真剣に取り組もうとしたことが分かります。
マクリヌス帝のデナリウス銀貨
皇帝不在のローマ市内で製造。肖像は彫像を参考に作成されたとみられます。
そしてパルティア遠征が終わったことで軍事費を圧縮できると考えたマクリヌス帝は、膨大していた軍の削減と特権の廃止を検討し始めました。
すると当初は支持していた軍もマクリヌス帝に対する不満を募らせていき、やがて軍隊内で人気のあったカラカラ帝を懐かしむ声が高まってゆきました。
潮目の変化を感じ取ったのはユリア・ドムナの妹ユリア・マエサでした。
ユリア・ドムナ没後は故郷のエメサに戻っていたバッシアヌス一族は、復権の時勢を窺っていました。マクリヌス帝に対する軍の不平不満が高まっていることを知ると、マエサは孫のウァリウス・アウィトゥスをエメサ近郊のラファナエアにあった第三軍団ガリカ兵営に連れ込み、軍団の支持を得て帝位を宣言させました。218年5月16日に始まった反乱は瞬く間にシリア属州の他の軍団にも波及し、マクリヌス帝の立場を危ういものにしました。
エラガバルス帝とユリア・マエサの銅貨
即位後の220年頃に下モエシア属州のマルキアノポリスで発行。皇帝と並んで祖母マエサの肖像が表現され、実権を握る存在であることが示されています。
当時14歳のウァリウス・アウィトゥスはエメサで太陽神エル・ガバルの神官を務めていたことから、後世には「エラガバルス」「ヘリオガバルス」などと呼ばれています。
母親のユリア・ソエミアスはマエサの娘であり、夫の元老院議員セクストゥス・ウァリウス・マルケルスとの間にエラガバルスが生まれました。しかし蜂起に際しては亡きカラカラ帝と密通して生まれた落胤と主張し、軍隊の支持を得ようとしました。
マエサ、ソエミアス母娘の目論見は成功し、カラカラ帝を慕う多くの軍団兵士の支持を取り付け、新たに登場した少年皇帝に忠誠を誓わせたのです。
この動きを知ったマクリヌス帝はローマの元老院に手紙を送り、反乱軍討伐のお墨付きを得て進軍を開始。さらに息子ディアドゥメニアヌスを正帝に格上げし、それを口実に兵士たちに祝い金を配りました。
しかし忠誠を繋ぎ留めることは難しく、マクリヌス陣営からもエラガバルス側に寝返り、反乱軍に加勢する兵士が続出しました。
マクリヌス帝は自ら軍を率いて打って出ることを決意し、アンティオキアに迫りくる反乱軍を迎え撃ちますが、マエサによる買収工作を受けた軍団の離反によって敗北。マクリヌス帝はアンティオキアに逃げ帰り、そのまま行方をくらませました。
この218年6月8日の戦いはマクリヌス帝の失脚を決定的なものにし、エラガバルス帝の確立とセウェルス朝の復興を明らかにしました。シリア属州での出来事ではあるものの、ローマの元老院は大勢が決したことを受けてエラガバルス帝を承認せざるを得ませんでした。
アンティオキアで造られたエラガバルス帝のテトラドラクマ銀貨
アンティオキアを脱出したマクリヌスはローマを目指して西へと逃避。幼い息子ディアドゥメニアヌスは危険を避けるため、パルティアへの亡命を目指して東へと送られていきました。
髭を剃り落として変装しながら逃避行を続けましたが、アジアとヨーロッパを隔てるボスポロス海峡を渡る直前、側近の裏切りによって捕まります。捕縛されたマクリヌスは逃げて来た道を連れ戻され、218年7月、カッパドキア属州のアルケライスで処刑。53歳だっと云われています。
そしてパルティアを目指していた息子のディアドゥメニアヌスも国境近くのゼウグマで捕らえられ、助命されず父と同じ運命を辿りました。
マクリヌス帝の在位はわずか一年、ローマ皇帝でありながら、ついにローマの地を踏むことなく短い治世を終えました。
北アフリカにルーツを持つ皇帝の出現は、領土拡大によって多様化したローマ帝国を象徴しています。一方で元老院議員でもなく、ローマに滞在していなくても軍の支持があれば皇帝になれるという前例は、武力による皇帝位の奪取を正当化する先駆けとも言えるでしょう。
マクリヌス帝亡き後、エラガバルス帝によってセウェルス朝は再興されますが、次のアレクサンデル・セウェルス帝を最後に断絶。ローマ帝国は軍人皇帝たちが目まぐるしく交代する混迷の時代へと入っていくのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
五月晴れの日々が続き、初夏の陽気も感じられる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。ゴールデンウィークは過ぎましたが、梅雨入り前のお出かけ日和はまだ続く模様です。
来週末はワールドコインギャラリーが入る東京・御徒町の商業施設 2k540にて、今年も『2k540ファンファーレ~made in 高架下~』を開催します。
↑クリックすると特設告知ページ
■イベント名:2k540ファンファーレ~made in 高架下~
■開催日時:5月24日㈮、25日㈯、26日㈰
■開催時間:11:00~19:00
期間中は以下のイベントを予定しております。
☆蚤の市
2k540内の各お店で使用していた道具や加工の素材、サンプル商品等、ものづくりに関する品々を販売。普段販売している商品とは異なる、この期間限定の掘り出し物が出揃います。
各お店前に並べてあるアイテムの中から、お宝を探し当ててください!
(*エコバッグ持参をオススメします)
☆2k540クイズ&スタンプマップ
配布されている専用マップにスタンプを押すスタンプラリー。各店のスタンプはそれぞれのお店に設置してあります。
マップには2k540にまつわるクイズもあり、スタンプを集めてクイズに正解するとオリジナルグッズをプレゼント!!ぜひご参加下さい!!
☆【レザつく】選べる革バッグづくり
2k540内の革専門店による「わたしだけのレザーアイテムをつくろう」オリジナルワークショップ。
今回は「マルチポシェット」or「ハンドバッグ」づくり!好きな色や種類で、自分だけの素敵なオリジナル革バッグをつくれます!
(*25日~26日の開催 *事前予約制)
《詳細&お申し込みはこちらから》
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☆作業場見学
ものづくりのお店が立ち並ぶ職人の街 2k540の、普段見ることのできない「ものづくりの現場」をお見せします。各店の素敵な商品が形になる過程を、ぜひ見に来てください。
(*各お店ごとに企画)
☆2k540 商品 idea コンテスト
アイデアを商品化する、参加型コンテストを実施します。お客様と作り手の発想で新しい商品が生み出されます。
その他、お店ごとにスペシャルイベントやワークショップ等々が企画されています。詳しくは各お店のSNSなどでチェックしてみて下さい!!
同じ日程で台東区南部エリアのものづくり&街歩きイベント「モノマチ2024」も開催されます。
モノマチは製造・卸の集積地としての歴史をもつ御徒町~蔵前~浅草橋にかけてのおよそ2km四方の地域にて開催されます。
100を超えるアトリエや店舗、事務所、工場が参加し、限定ワークショップや特別販売が予定されています。繊維や皮革、ガラス、金属から食品、火薬、木材、陶器、花木、紙、樹脂などなど、扱う素材も多種多様です。
さらに、5月25日-26日はすぐ近くの湯島天神で例大祭が実施される予定ですので、そちらもぜひ訪れてみて下さい。今年は四年に一度の大祭にあたり、神馬も繰り出されるなど例年以上に盛り上がる予定です。
ものづくりやまち歩きに興味のある方はぜひ参加してみてください!!皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております。
皆様にとって素敵な五月晴れの週末になることを願っております。
東京都台東区上野5-9 (JR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下)
当店は2k540内の北端(JR御徒町駅寄り)に位置しております。遊びに来た際にはぜひお立ち寄りください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
桜の季節が過ぎると急に暑くなってきました。春から初夏への急な移り変わりですね。
今年のゴールデンウィークは皆様いかがお過ごしでしょうか。
ワールドコインギャラリーは通常定休日の水曜日(5月1日)も営業します。この大型連休中は休まず営業しておりますので、近くにお越しの際はぜひお立ち寄り下さい。
ご来店を心よりお待ち申し上げております。
今回は古代ギリシャを代表する歴史家ヘロドトスをご紹介します。
ヘロドトス
Ἡρόδοτος
(ギリシャ 2018年 200ユーロ金貨)
ヘロドトスは紀元前484年頃に小アジアの都市ハリカルナッソスの名家に生まれました。当時のハリカルナッソスはカリア王国の首都として栄え、女王アルテミシアによって統治されていました。ヘロドトスの一族は女王の血縁だったと推測されています。
彼自身はギリシャ系入植者の家系でしたが、当時のカリアはアケメネス朝ペルシアに従属し、ペルシア戦争(紀元前499年-紀元前449年)ではギリシャ連合軍と戦っていました。こうした複雑な背景から、彼はギリシャ人と周辺民族に関する知見を深めていったと考えられています。
またこの時代にイオニア哲学やホメロスの叙事詩に触れ、歴史観・世界観の基礎を発展させていきました。
しかし女王亡き後の権力争いに巻き込まれ、紀元前460年頃にカリアを追われることになります。
サモス島を経て紀元前445年頃にアテナイ(アテネ)に渡ったヘロドトスは、この地でペリクレスやソフォクレスといった当時の有力者、文化人たちと交流を持つようになります。さらに歴史に関する講義を自ら行い、その度にアテナイから多額の礼金を得ていたと伝えられます。
ペリクレス
(ギリシャ 1984年 20ドラクマ)
ペリクレス(紀元前495年-紀元前429年)は最盛期のアテナイを率いた将軍。市民中心の民主政を尊重する一方、類稀な指導力を発揮してアテネの黄金時代を築いた英雄として知られます。
その後、ペリクレスの政策によってイタリア半島への入植活動が進められると紀元前443年に植民都市トゥリオイに移住し、紀元前425年頃に当地で生涯を終えました。
ヘロドトスはその人生で北アフリカのリビア~エジプト、フェニキア~バビロン、さらには黒海北岸までを旅し、各地で見聞を得ていきました。旅先で得た様々な情報や知識をヘロドトスは詳細に記録しました。
こうして得られた知識・知見によって叙述されたのが、現代でも知られる『ヒストリアイ(ἱστορίαι)』、日本語で『歴史』と訳された書物です。
内容は同時代のペルシア戦争が主軸に置かれ、それに関わった英傑たち個人から民族・都市・王朝について細かく記録されています。文章はイオニア方言が用いられ、自ら旅して得た見聞録を織り込むことで説得性を高めています。
その構成はホメロスの『イリアス』の影響を受けており、ギリシャ世界と非ギリシャ世界の対立を通して両者の功業やエピソードを伝えるものになっています。長大な原典はヘレニズム時代に9巻に分割され、現代まで伝わる形式に整えられました。
第1巻はペルシアの興隆と滅ぼされたリディア、メディア、バビロニアに関して、第2巻はヘロドトスの訪問記を基にしたエジプトの地誌・歴史、第3巻はカンビュセス王によるエジプト征服とダレイオス王の登場、第4巻はダレイオス王による諸地域への遠征が綴られます。
第5巻にしてようやくイオニアのギリシャ人反乱に端を発するペルシア戦争が始まり、第6巻はペルシアを迎え撃つギリシャ諸都市国家の成り立ちについて、第7巻~第9巻で重要な個々の戦いについて語られ、最終的にギリシャ連合軍がペルシア軍を撃退する結びとなっています。
サラミスの海戦
(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ, 1868)
紀元前480年9月に勃発したペルシア軍とギリシャ連合軍による一大海戦。詳細は『歴史』第8巻に綴られており、ヘロドトスと由縁あるカリアの女王アルテミシアの活躍も記述されています。丘の上には海戦を見守るペルシア王クセルクセスがおり、下には矢を射るアルテミシア女王の姿が描かれています。
タイトルの「ヒストリアイ」はラテン語でhistoria、英語のhistory(ヒストリー)の語源となり、そのまま歴史を意味する単語となりました。
しかしもともとギリシャ語では調査や探求、尋問といった意味であり、ヘロドトス自身の調査研究をまとめた内容であることが示されています。
コインに関する事象では、リディア王国は「金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の人々であり、また最初の小売り商人でもあった。」と記述していることから、リディアは史上初めてコインを発行した国とされました。
リディアのエレクトラム貨
またペルシア支配下のエジプトを訪問し、当時の文化・風俗や、現地で語り継がれていた歴史を記録したことで後世のエジプト学発展にも貢献しました。ナイル川の肥沃さを語った「エジプトはナイルの賜物」という一文は今でも広く知られています。
古代ローマのキケローによって「歴史の父」と称されたヘロドトスは、後世の歴史観に大きな影響を及ぼしました。特にギリシャ、エジプト、ペルシアの古代史を語る上での主要原典として『歴史』は用いられていました。それはヘロドトスが当時を生きた同時代人というだけでなく、実際に各地を旅して見聞を集めた説得力があったからでした。
ただしヘロドトスの『歴史』には当時から批判的な見方もありました。
当時ギリシャ人から野蛮で専制的と見做されていたエジプトやペルシアの文明を称えたことも理由のひとつでした。
また各地で聞き及んだ荒唐無稽な逸話を多く織り交ぜていることから、歴史的事実と民間伝承が混在している点も批判の対象となりました。『歴史』が長く広く読み継がれた要因はこうした多彩な逸話故でもありましたが、原資料や信憑性の欠如、数量や戦いに関する記述の正確性に対する疑問が常につきまとっていました。
当時のヘロドトスは叙述を講演という形で人々に語り聞かせていました。
聴衆が集まるアゴラ(広場)やオリンピア大祭にまで赴き、自らがまとめた成果を発表していたとされています。
その最中では聴衆受けの良さそうな分かりやすい逸話や、下世話で人間味あるエピソードが多く語られたと思われます。『歴史』の記述に本筋からの逸脱や説話のようなエピソードが多いのは、こうした語り聞かせも影響しているように考えられます。
イソップ(アイソポス)が動物の姿を借りて人間の因果を語ったのと同じく、ヘロドトスは古の英雄たちを通して当時の世情を風刺し、聴衆を沸かせていたのかもしれません。
もちろんヘロドトスも聞き集めた話全てを信用していた訳ではなく、明らかに事実とは思えないような内容については「お伽話」と断じ、あくまでそうした話が伝わっているという旨の前置きを入れています。ヘロドトスに様々な逸話を語り聞かせた人々も、聞かせるために面白おかしく誇張していたと考えられ、彼自身それを認識しつつ書き残さずにはいられなかったのでしょう。
ヘロドトスが生涯をかけて著した『歴史』は古の出来事をそのまま記録したものではなく、彼が生きた時代の価値観や風俗、人々の興味関心までもを伝えるものでした。今や彼の残した著作そのものも歴史になりましたが、人の営みに対する知的好奇心が「歴史」の基軸にあることを思い起こさせてくれます。
詳しい内容に興味を持たれた方は、ぜひこの『歴史』を手にとってみてください。古代史だけでなくヘロドトスの飽くなき好奇心も伝える古典の名作、この連休のお供にもぴったりな一冊です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
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