【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
雨模様の日も多く気温が一気に下がってまいりました。この時期は特に風邪を引きやすいので注意が必要です。
今月はコインにまつわるこんなニュースがありました。目にした方も多いと思います。
読売新聞記事ページ
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太平洋戦争の末期、金属不足に対応するため苦肉の策として登場した「陶製のコイン」は、流通する前に戦争が終結したため世に出回ることはありませんでした。
苦しい戦争の時代を象徴するコインとして、日本貨幣収集界では有名なものでしたが、戦後80年を経ようとしている現在に50万枚も現存していたことは驚きです。
陶製のコインは第一次世界大戦後のドイツに登場し、地域通貨ノートゲルトの一種として各地で盛んに発行されました。多くはマイセンで造られ、デザインや大きさ、色も多種多様でコレクターズアイテムの一種として人気がありました。日本でもドイツの陶貨を参考にし、民間の陶器企業に研究と製造が委託されたのです。
ドイツ アイゼナハ市 1921 1マルク陶貨 マルティン・ルター
陶製のコインは100年前から存在していましたが、近年ではプラスチック製のコインも登場しています。
モルドバとウクライナの間に存在する未承認国家「沿ドニエストル共和国」では2014年にカラフルなプラスチック製コインが発行されました。
同国を支援しているロシアで製造され、半ば実験的に導入されたようです。1ルーブルから10ルーブルまでの四額面が発行され、サイズと重量はほぼ同じながら、形状と色を変えることで混同しないように配慮されています。
このコインは実際に沿ドニエストル国内で流通していたようですが、継続的な発行はされなかったようです。その後ロシアをはじめ他国が導入したという例はなく、現在では外国人向けのお土産のようになっています。コストは金属より安いのかもしれませんが、耐久性や自動販売機での使用など、実用面では問題があったのかもしれません。
コインといえば金属製で完全な円形のイメージが定着していると思います。製造方法や貨幣経済のあり方が代わっても、コイン=円形という固定されたイメージが変わることは無いように見受けられます。
貨幣価値が金属の素材とその重量によって決まる時代では、形状はあまり問題にならなかったといえるでしょう。
ブラジル 1869年 20レイス銅貨
スウェーデン 1939年 2クローナ銀貨
しかし長い貨幣の歴史では様々な素材、形状のコインが存在しました。古代中国では刀銭、ギリシャのスパルタでは針金状の貨幣など、円形の枠に留まらない形で作られていました。こうした形状の違いは価値観の変化もありますが、他額面のコインと区別しやすくするためや、他国のコインとの混同を避けるといった実用的な意味もありました。
《四角形》
2000年以上前のバクトリア王国(*現在のアフガニスタン~パキスタン北部)では四角形のコインが登場しました。四角形のコインは現在まで世界中で度々登場しており、円形に次いで例が多いように思われます。
バクトリア王国 紀元前180年-紀元前160年 ドラクマ銀貨
文字だけのコインの場合、四角形は収まりがよく、スペースを有効に活用できます。そのため偶像が禁じられているイスラーム諸国や、江戸時代の日本などでも四角形のコインが発行されていました。
ムワッヒド朝 1121-1269 ディルハム銀貨
インド ムガール帝国 1580-1581 ルピー銀貨
同じ四角形でも菱形にしたデザインのコインも発行されています。20世紀以降はイギリスの海外植民地で多く見られます。
英領バハマ 1969年 15セント白銅貨
流通用の四角形コインは角があるため、円形に比べて欠けやすいという難点がありました。
近年では流通を目的としない記念コインとして四角形のコインが採用されています。一目で通常のコインとは異なる形状であるため、特別な存在感が際立ちます。
トンガ 1977年 1パアンガ白銅貨
オーストラリア 2002年 50セント銀貨
《六角形》
六角形のコインは例が少なく、エジプトやインド、ビルマなどで発行されています。
エジプト王国 1944 2ピアストル銀貨
《七角形》
イギリスでは十二進法から十進法(1ポンド=100ペンス)に移行した際、新たに発行された50ペンス貨を七角形にしました。以降、イギリス本国とその属領で発行された50ペンスは七角形がトレードマークとして定着しました。1982年に発行された20ペンス貨も七角形です。
かつてイギリス領だった国々でも七角形コインが発行されています。
マン島 1979年 50ペンス銀貨
英領セイシェル 1972 5ルピー銀貨
バルバドス 1979年 1ドル白銅貨
《八角形》
インド アッサム王国 1696 1ルピー銀貨
この形状は中世のアッサムに存在したカーマルーパ王国が、仏教の経典『ヨーギニータントラ』の一節において「八面の地」と表現されていることに由来します。
《十角形》
十角形のコインも比較的例が少なく、マルタやベリーズ、英領香港などで発行されました。
マルタ 1972年 50セント白銅貨
《十二角形》
オーストラリアでは50セントが銀貨から白銅貨に切り替わった際、従来の円形から十二角形にして差別化を図りました。現在に至るまでオーストラリアの50セントは十二角形で統一されています。
またフィジーやアルゼンチン、コロンビアでも十二角形コインが発行されました。
オーストラリア 1988年 50セント銀貨
《楕円形》
楕円形、卵型のコインといえば、日本では小判や天保銭が思い浮かびます。円形に近いですが、世界的には珍しい形状であり、近年では記念コインとして見られる程度です。
特にクック諸島やニウエで発行されている「イースターエッグ」シリーズでは、そのテーマ性にぴったりな形として定着しています。
クック諸島 2013 5ドル銀貨
トルコ 2002年 7,500,000リラ銀貨
《星形》
現代記念コインは流通を目的としていないため、奇抜で珍しい形が多く登場しています。星型は特に人気のある形状ですが、高い技術力がないと製造できません。
オーストラリア 2001 1ドル銀貨&25セント銀貨
オーストラリア連邦100周年記念コイン。中央部の星型がはめ込み式になっており、その部分が25セント、外側が1ドルになっています。
《ホタテ貝型》
縁が波打った形状のコインはインドやイラク、スーダンや香港など旧イギリス領の国々に多く見られます。小額貨幣に多く用いられた形状でしたが、現在では記念コインとしても製造されています。
トンガ 1999年 1パアンガ銀貨
技術の進歩に伴い、多種多様な形のコインを製造できるようになりましたが、自動販売機など扱いにくさの問題や、製造コストの高さなどから結局は「円形」が最もポピュラーなコインの形として落ち着いています。
形を変えて識別しやすくする工夫も、現在は金属の色や大きさを変えることで対応することが一般的です。
形を変えずに中央に穴を開けることで識別しやすくする工夫は古くからあり、現在でも日本をはじめいくつかの国で採用されています。
ベルギー王領コンゴ自由国 1888 10サンティーム銅貨
今後はキャッシュレス化の進展により、日常的に小銭を使う機会は減少するかもしれませんが、記念コインの需要は変わらないように思われます。流通を目的しない貨幣であれば、奇抜な形状のコインもより一層増えていくことでしょう。
従来の枠に囚われない形のコインが次々と登場し、コイン収集の世界も賑やかになっていくことを期待しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:56 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続きますね。この頃は猛暑に加えて台風や地震があり、なかなか落ち着かないお盆休みになってしまいました。
もう少し暑さが和らいで、過ごしやすい日常になってくれると良いのですが・・・。
夏休みを利用して旅行に行かれた方も多いと思います。昨今は円安の影響で海外に行くのも大変ですね。海外旅行の代名詞だったハワイも、以前ほど気軽に行けなくなってしまいました。
今回はハワイで発行されていた「フラガール・トークン」をご紹介します。
1810年にカメハメハ大王がハワイ諸島を統一して以降、ハワイ王国は独立国として発展しましたが、1893年にアメリカからの入植者たちによるクーデターが勃発し王政は廃止。1898年、アメリカ合衆国に併合されハワイ準州が発足しました。
その後ハワイはアメリカからの投資とアジア太平洋地域からの移民によって開発が進み、オアフ島南部に位置する州都ホノルルは近代的な都市として発展しました。
アメリカはハワイに太平洋艦隊の基地を置き、アジア太平洋における重要な戦略拠点としました。一方でワイキキビーチの整備などリゾート観光開発も積極的に進められ、アメリカ本土からの観光客や太平洋を横断する船舶の寄港地として賑わいをみせました。
ホノルル市内を走る路面電車(1900年代初頭)
人口の急増に伴い都市内の人の移動、交通も整備され、ハワイ準州が発足した1898年にはホノルル・ラピッド・トランジット(HRT)が設立。
1901年に路面電車、1925年にモーターバス、1937年にはトロリーバスの運行を開始し、ホノルルの都市圏交通を担いました。交通の発達によりホノルルは郊外へと拡大し、周辺地域の開発も進められました。
1934年のホノルル市内路線図
1941年12月7日、日本軍がホノルル近くのパールハーバー(真珠湾)を攻撃し太平洋戦争が勃発すると、ハワイは対日戦の前線基地として多くのアメリカ兵が駐留。
戦後、アメリカ本土に帰った兵士たちは温暖なハワイの思い出話を持ち帰り、ハワイ=南国の楽園というイメージを広めました。
日本でも1948年に歌謡曲『憧れのハワイ航路』がヒットし、1950年には岡晴夫、美空ひばり主演による映画(新東宝)が公開され、戦後日本人のハワイに対する羨望感を高めました。
太平洋の前線基地として戦時体制下に置かれていたハワイは多くの規制がありましたが、アメリカ兵が多く駐留したことで戦争特需に沸きました。
そして戦争終結後は軍の特需に代わる産業として、観光事業に力を入れ始めたのです。かつての最前線は平和なリゾート地としてイメージを脱却させ、アメリカ本土からの観光客を呼び込みました。
人口の増加とモータリゼーションの進展によって、ホノルルの都市交通も変化していきました。複数の路線や交通機関への乗り換えをスムーズに行うため、交通トークンが盛んに利用され始めました。
ホノルル市内のトロリーバス(1950年代)。路面電車のように架線から流れる電気を動力にして走るバス。排ガスを生じさせない電気自動車として、かつては世界中の都市で運用されていました。
まだ交通系ICが無かった時代、アメリカの地下鉄や市電では切符の代わりにトークンを発行し、乗客の出入場や乗り換えを行っていました。
使用されたトークンは回収され、次の乗客のために再利用されました。こうしたトークンは多種多様であり、アメリカでは収集対象にもなっています。
1951年にホノルル・ラピッド・トランジットが発行したトークンは、楽園ハワイのイメージを体現するようなデザインでした。
両面には踊るフラガールの姿が表現され、ハワイらしさを体現しています。通常、こうしたトークンは文字だけの極めてシンプルなデザインが多く、コインのように図像化された意匠が表現されることは稀でした。当時のホノルル・ラピッド・トランジットがコストをかけてでも観光客を喜ばせようとしていた遊び心と言えるでしょう。
重量は4.1g、サイズは23mm、材質は白銅(Copper Nickel)です。現在の百円玉とほぼ同じ規格で製造されています。通常のコインと混同されないよう、左右には半月状の切込み孔が開けられています。一部は風にあおられたフラガールの腰蓑が重なっており、デザインと技術のこだわりを感じさせます。
このフラガールトークンは大成功となり、ホノルル市民だけでなく観光客にも大好評でした。
しかしあまりにも成功しすぎた故、思わぬ誤算が生じてしまいました。
このトークンを手にした観光客が可愛らしいデザインに惹かれてしまい、お土産として持ち帰ってしまったのです。交通トークンは回収して再利用することを目的としており、紙の切符よりコストが高い金属を使用しているのはそのためです。しかし使用されないトークンは回収されることなく、循環することもありません。ただ高い製造コストがかかる一方では、トークン本来の意味がないのです。
デザインが良すぎるが故の弊害によって、このフラガールトークンはたった一年ほどで製造中止となりました。
しかし使用されなくなったにも関わらず、このフラガールトークンはハワイのお土産品として、またコレクターズアイテムとして、70年以上を経た今もなお人気があります。1950年代のヴィンテージとしてアクセサリーにも多く加工され、ハワイを象徴するアイテムとして定着しています。
発行数や現存数は不明ですが、比較的入手しやすい価格で取引されています。しかし70年前の一年だけ発行され、交通機関でのみ使用されたもののため、入手するのは意外と容易ではありません。
こうした交通トークンをコイン=貨幣のカテゴリに分類していいのかは迷いますが、アメリカ併合によって独自の通貨を発行できなくなったハワイの数少ないオリジナルコインに数えても良いかもしれません。
現在では路面電車もトロリーバスも廃止され、交通トークンを使用する機会もなくなりました。それでもハワイを訪れ、ホノルル市内を走るバスを目にすることがあれば、ぜひ当時の様子にも思いを馳せてみてください。
現在のホノルル市内バス
現在でもバスはホノルル市内の重要な公共交通機関のひとつ。市民と観光客の足として重宝されています。なお2021年に交通系ICカードが導入されたことにより、乗り換えもより一層スムーズになりましたが、導入に伴って紙の乗車券は廃止されました。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:50 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
7月に入ってから、毎日のように猛暑の日が続きますね。夕方になると激しい雷雨が降るなど、一日のスケジュールも立てにくいほど極端な気候です。
外出するにも命がけですが、この暑さは日本全国どこも変わらないようです。8月になって少しは和らいでくれるとありがたいのですが・・・。
今年の11月15日(金)よりハリウッド映画『グラディエーターII』が公開されます。2000年『グラディエーター』の続編となる作品であり、前作で少年だったルキウスが成長し、剣闘士として戦う物語です。
前作の時代設定はコンモドゥス帝の時代でしたが、今回はそこから時を経たカラカラ&ゲタの時代になるようです。
古代ローマ帝国のイメージを広く根付かせた映像作品の続編であり、今から公開が楽しみです。
今回の作品では主人公ルキウスを支援する大商人としてマクリヌス(演:デンゼル・ワシントン)という人物が登場しますが、同時代に実在したマクリヌス帝(在位:AD217-AD218)をモデルにしたキャラクターだと思われます。
マクリヌスが帝位にあった期間は短く、その間に残した功績は必ずしも多くはありませんが、多くの点で異例のローマ皇帝でした。
マクリヌス帝肖像
(セルビアのベオグラード近郊で出土した青銅製頭像)
マルクス・オペッリウス・マクリヌスは164年頃に北アフリカのマウレタニア属州都市カエサレア(*現在のアルジェリア北部,シェルシェル)に生まれました。一族は騎士階級身分でしたがムーア人の血をひいていたと伝わります。
*ムーア人は北アフリカの先住民を指し、後世にはベルベル人と同一視されています。
(*中世ヨーロッパでは北アフリカのイスラーム教徒全般を指す言葉となった)
彫りの深い顔つき、浅黒い肌、耳にはピアスを通して数多くの宝石類を身に着けた、異郷人的風貌が伝えられています。現存する肖像では豊かな顎鬚を蓄えていますが、これは賢帝として名高かったアントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスのイメージを踏襲しているとみられます。
マクリヌスは法律を修めてローマ政界に進出、やがて同じく北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルス帝の近衛隊に引き立てられました。帝位が息子のカラカラに移ると近衛隊長に昇格し、最側近のひとりとして政権を支えました。
しかし、粛清を繰り返した暴君カラカラが自身をも排除しようとしていると察すると、マクリヌスは先手を打つことを画策しました。
パルティア遠征途中の217年4月8日、メソポタミアを進軍中、用を足すために隊列から離れた皇帝を近衛兵が刺殺。実行犯のマルティアリスはその場で殺害され、表面上は個人的恨みを持った一兵士による犯行とされました。
マクリヌスは無関係であることを示すように、カラカラの遺体を丁重に扱い、他の兵士たちと共にその悲劇を嘆きました。
事件から3日後の4月11日、最前線の指揮権を引き継ぐという名目の下、近衛隊長のマクリヌスが推戴され皇帝に即位。すぐさまローマ本国の元老院に知らせを送り、これを追認させました。
マクリヌスは元老院議員を経験せず即位した初めての皇帝であり、その出自民族から考えても異例のローマ皇帝でした。歴代の皇帝たちに倣い、マクリヌスも即位後に執政官の地位を得、パテル・パトリアエ(国父)の称号も授かりました。さらに9歳の息子ディアドゥメニアヌスをカエサル(副帝)とし、権威付けのためアントニヌスの名も加えました。
マクリヌス帝とディアドゥメニアヌスの銅貨
下モエシア属州のマルキアノポリス(*現在のブルガリア東部)で発行。マクリヌス帝の即位は迅速にローマと各属州に伝達され、新皇帝を表現したコインが各地で発行されました。
一方、セウェルス朝の外戚として権勢をふるっていたシリアのバッシアヌス家はマクリヌス帝にとって複雑な存在となりました。
当時、シリアのアンティオキアにはカラカラ帝の母ユリア・ドムナが滞在しており、マクリヌス帝は敬意を持って待遇しましたが、すぐさま事実上の幽閉状態に置きます。同年中にユリア・ドムナが病で没するとバッシアヌス一族は故郷のエメサに戻り、権力中枢の座から追われました。
シリア属州で発行されたマクリヌス帝のテトラドラクマ銀貨
カラカラ帝が始めたパルティア遠征はメソポタミアで膠着状態が続いていましたが、マクリヌス帝は早期に講和を結んで本国に帰還する選択をします。双方の撤退に際してローマは2億セステルティウスの賠償金を支払いましたが、この措置は前線で戦う兵士たちの士気を下げるものでした。
軍を退却させたマクリヌス帝はアンティオキアに入り、この都市から皇帝としての施策を指示しました。
そのひとつとして貨幣の改善が挙げられます。膨張する軍事費を賄うための貨幣増発と品位低下はカラカラ帝の時代まで度々行なわれ、それに伴いインフレーションが進行していました。マクリヌス帝はデナリウス銀貨の品位を50%前後からおよそ60%にまで引き上げ、品質を改善するよう指示しました。通貨と物価の安定を考慮した施策であり、財政の改革に真剣に取り組もうとしたことが分かります。
マクリヌス帝のデナリウス銀貨
皇帝不在のローマ市内で製造。肖像は彫像を参考に作成されたとみられます。
そしてパルティア遠征が終わったことで軍事費を圧縮できると考えたマクリヌス帝は、膨大していた軍の削減と特権の廃止を検討し始めました。
すると当初は支持していた軍もマクリヌス帝に対する不満を募らせていき、やがて軍隊内で人気のあったカラカラ帝を懐かしむ声が高まってゆきました。
潮目の変化を感じ取ったのはユリア・ドムナの妹ユリア・マエサでした。
ユリア・ドムナ没後は故郷のエメサに戻っていたバッシアヌス一族は、復権の時勢を窺っていました。マクリヌス帝に対する軍の不平不満が高まっていることを知ると、マエサは孫のウァリウス・アウィトゥスをエメサ近郊のラファナエアにあった第三軍団ガリカ兵営に連れ込み、軍団の支持を得て帝位を宣言させました。218年5月16日に始まった反乱は瞬く間にシリア属州の他の軍団にも波及し、マクリヌス帝の立場を危ういものにしました。
エラガバルス帝とユリア・マエサの銅貨
即位後の220年頃に下モエシア属州のマルキアノポリスで発行。皇帝と並んで祖母マエサの肖像が表現され、実権を握る存在であることが示されています。
当時14歳のウァリウス・アウィトゥスはエメサで太陽神エル・ガバルの神官を務めていたことから、後世には「エラガバルス」「ヘリオガバルス」などと呼ばれています。
母親のユリア・ソエミアスはマエサの娘であり、夫の元老院議員セクストゥス・ウァリウス・マルケルスとの間にエラガバルスが生まれました。しかし蜂起に際しては亡きカラカラ帝と密通して生まれた落胤と主張し、軍隊の支持を得ようとしました。
マエサ、ソエミアス母娘の目論見は成功し、カラカラ帝を慕う多くの軍団兵士の支持を取り付け、新たに登場した少年皇帝に忠誠を誓わせたのです。
この動きを知ったマクリヌス帝はローマの元老院に手紙を送り、反乱軍討伐のお墨付きを得て進軍を開始。さらに息子ディアドゥメニアヌスを正帝に格上げし、それを口実に兵士たちに祝い金を配りました。
しかし忠誠を繋ぎ留めることは難しく、マクリヌス陣営からもエラガバルス側に寝返り、反乱軍に加勢する兵士が続出しました。
マクリヌス帝は自ら軍を率いて打って出ることを決意し、アンティオキアに迫りくる反乱軍を迎え撃ちますが、マエサによる買収工作を受けた軍団の離反によって敗北。マクリヌス帝はアンティオキアに逃げ帰り、そのまま行方をくらませました。
この218年6月8日の戦いはマクリヌス帝の失脚を決定的なものにし、エラガバルス帝の確立とセウェルス朝の復興を明らかにしました。シリア属州での出来事ではあるものの、ローマの元老院は大勢が決したことを受けてエラガバルス帝を承認せざるを得ませんでした。
アンティオキアで造られたエラガバルス帝のテトラドラクマ銀貨
アンティオキアを脱出したマクリヌスはローマを目指して西へと逃避。幼い息子ディアドゥメニアヌスは危険を避けるため、パルティアへの亡命を目指して東へと送られていきました。
髭を剃り落として変装しながら逃避行を続けましたが、アジアとヨーロッパを隔てるボスポロス海峡を渡る直前、側近の裏切りによって捕まります。捕縛されたマクリヌスは逃げて来た道を連れ戻され、218年7月、カッパドキア属州のアルケライスで処刑。53歳だっと云われています。
そしてパルティアを目指していた息子のディアドゥメニアヌスも国境近くのゼウグマで捕らえられ、助命されず父と同じ運命を辿りました。
マクリヌス帝の在位はわずか一年、ローマ皇帝でありながら、ついにローマの地を踏むことなく短い治世を終えました。
北アフリカにルーツを持つ皇帝の出現は、領土拡大によって多様化したローマ帝国を象徴しています。一方で元老院議員でもなく、ローマに滞在していなくても軍の支持があれば皇帝になれるという前例は、武力による皇帝位の奪取を正当化する先駆けとも言えるでしょう。
マクリヌス帝亡き後、エラガバルス帝によってセウェルス朝は再興されますが、次のアレクサンデル・セウェルス帝を最後に断絶。ローマ帝国は軍人皇帝たちが目まぐるしく交代する混迷の時代へと入っていくのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
五月晴れの日々が続き、初夏の陽気も感じられる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。ゴールデンウィークは過ぎましたが、梅雨入り前のお出かけ日和はまだ続く模様です。
来週末はワールドコインギャラリーが入る東京・御徒町の商業施設 2k540にて、今年も『2k540ファンファーレ~made in 高架下~』を開催します。
↑クリックすると特設告知ページ
■イベント名:2k540ファンファーレ~made in 高架下~
■開催日時:5月24日㈮、25日㈯、26日㈰
■開催時間:11:00~19:00
期間中は以下のイベントを予定しております。
☆蚤の市
2k540内の各お店で使用していた道具や加工の素材、サンプル商品等、ものづくりに関する品々を販売。普段販売している商品とは異なる、この期間限定の掘り出し物が出揃います。
各お店前に並べてあるアイテムの中から、お宝を探し当ててください!
(*エコバッグ持参をオススメします)
☆2k540クイズ&スタンプマップ
配布されている専用マップにスタンプを押すスタンプラリー。各店のスタンプはそれぞれのお店に設置してあります。
マップには2k540にまつわるクイズもあり、スタンプを集めてクイズに正解するとオリジナルグッズをプレゼント!!ぜひご参加下さい!!
☆【レザつく】選べる革バッグづくり
2k540内の革専門店による「わたしだけのレザーアイテムをつくろう」オリジナルワークショップ。
今回は「マルチポシェット」or「ハンドバッグ」づくり!好きな色や種類で、自分だけの素敵なオリジナル革バッグをつくれます!
(*25日~26日の開催 *事前予約制)
《詳細&お申し込みはこちらから》
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☆作業場見学
ものづくりのお店が立ち並ぶ職人の街 2k540の、普段見ることのできない「ものづくりの現場」をお見せします。各店の素敵な商品が形になる過程を、ぜひ見に来てください。
(*各お店ごとに企画)
☆2k540 商品 idea コンテスト
アイデアを商品化する、参加型コンテストを実施します。お客様と作り手の発想で新しい商品が生み出されます。
その他、お店ごとにスペシャルイベントやワークショップ等々が企画されています。詳しくは各お店のSNSなどでチェックしてみて下さい!!
同じ日程で台東区南部エリアのものづくり&街歩きイベント「モノマチ2024」も開催されます。
モノマチは製造・卸の集積地としての歴史をもつ御徒町~蔵前~浅草橋にかけてのおよそ2km四方の地域にて開催されます。
100を超えるアトリエや店舗、事務所、工場が参加し、限定ワークショップや特別販売が予定されています。繊維や皮革、ガラス、金属から食品、火薬、木材、陶器、花木、紙、樹脂などなど、扱う素材も多種多様です。
さらに、5月25日-26日はすぐ近くの湯島天神で例大祭が実施される予定ですので、そちらもぜひ訪れてみて下さい。今年は四年に一度の大祭にあたり、神馬も繰り出されるなど例年以上に盛り上がる予定です。
ものづくりやまち歩きに興味のある方はぜひ参加してみてください!!皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております。
皆様にとって素敵な五月晴れの週末になることを願っております。
東京都台東区上野5-9 (JR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下)
当店は2k540内の北端(JR御徒町駅寄り)に位置しております。遊びに来た際にはぜひお立ち寄りください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
桜の季節が過ぎると急に暑くなってきました。春から初夏への急な移り変わりですね。
今年のゴールデンウィークは皆様いかがお過ごしでしょうか。
ワールドコインギャラリーは通常定休日の水曜日(5月1日)も営業します。この大型連休中は休まず営業しておりますので、近くにお越しの際はぜひお立ち寄り下さい。
ご来店を心よりお待ち申し上げております。
今回は古代ギリシャを代表する歴史家ヘロドトスをご紹介します。
ヘロドトス
Ἡρόδοτος
(ギリシャ 2018年 200ユーロ金貨)
ヘロドトスは紀元前484年頃に小アジアの都市ハリカルナッソスの名家に生まれました。当時のハリカルナッソスはカリア王国の首都として栄え、女王アルテミシアによって統治されていました。ヘロドトスの一族は女王の血縁だったと推測されています。
彼自身はギリシャ系入植者の家系でしたが、当時のカリアはアケメネス朝ペルシアに従属し、ペルシア戦争(紀元前499年-紀元前449年)ではギリシャ連合軍と戦っていました。こうした複雑な背景から、彼はギリシャ人と周辺民族に関する知見を深めていったと考えられています。
またこの時代にイオニア哲学やホメロスの叙事詩に触れ、歴史観・世界観の基礎を発展させていきました。
しかし女王亡き後の権力争いに巻き込まれ、紀元前460年頃にカリアを追われることになります。
サモス島を経て紀元前445年頃にアテナイ(アテネ)に渡ったヘロドトスは、この地でペリクレスやソフォクレスといった当時の有力者、文化人たちと交流を持つようになります。さらに歴史に関する講義を自ら行い、その度にアテナイから多額の礼金を得ていたと伝えられます。
ペリクレス
(ギリシャ 1984年 20ドラクマ)
ペリクレス(紀元前495年-紀元前429年)は最盛期のアテナイを率いた将軍。市民中心の民主政を尊重する一方、類稀な指導力を発揮してアテネの黄金時代を築いた英雄として知られます。
その後、ペリクレスの政策によってイタリア半島への入植活動が進められると紀元前443年に植民都市トゥリオイに移住し、紀元前425年頃に当地で生涯を終えました。
ヘロドトスはその人生で北アフリカのリビア~エジプト、フェニキア~バビロン、さらには黒海北岸までを旅し、各地で見聞を得ていきました。旅先で得た様々な情報や知識をヘロドトスは詳細に記録しました。
こうして得られた知識・知見によって叙述されたのが、現代でも知られる『ヒストリアイ(ἱστορίαι)』、日本語で『歴史』と訳された書物です。
内容は同時代のペルシア戦争が主軸に置かれ、それに関わった英傑たち個人から民族・都市・王朝について細かく記録されています。文章はイオニア方言が用いられ、自ら旅して得た見聞録を織り込むことで説得性を高めています。
その構成はホメロスの『イリアス』の影響を受けており、ギリシャ世界と非ギリシャ世界の対立を通して両者の功業やエピソードを伝えるものになっています。長大な原典はヘレニズム時代に9巻に分割され、現代まで伝わる形式に整えられました。
第1巻はペルシアの興隆と滅ぼされたリディア、メディア、バビロニアに関して、第2巻はヘロドトスの訪問記を基にしたエジプトの地誌・歴史、第3巻はカンビュセス王によるエジプト征服とダレイオス王の登場、第4巻はダレイオス王による諸地域への遠征が綴られます。
第5巻にしてようやくイオニアのギリシャ人反乱に端を発するペルシア戦争が始まり、第6巻はペルシアを迎え撃つギリシャ諸都市国家の成り立ちについて、第7巻~第9巻で重要な個々の戦いについて語られ、最終的にギリシャ連合軍がペルシア軍を撃退する結びとなっています。
サラミスの海戦
(ヴィルヘルム・フォン・カウルバッハ, 1868)
紀元前480年9月に勃発したペルシア軍とギリシャ連合軍による一大海戦。詳細は『歴史』第8巻に綴られており、ヘロドトスと由縁あるカリアの女王アルテミシアの活躍も記述されています。丘の上には海戦を見守るペルシア王クセルクセスがおり、下には矢を射るアルテミシア女王の姿が描かれています。
タイトルの「ヒストリアイ」はラテン語でhistoria、英語のhistory(ヒストリー)の語源となり、そのまま歴史を意味する単語となりました。
しかしもともとギリシャ語では調査や探求、尋問といった意味であり、ヘロドトス自身の調査研究をまとめた内容であることが示されています。
コインに関する事象では、リディア王国は「金銀の貨幣を鋳造して使用した最初の人々であり、また最初の小売り商人でもあった。」と記述していることから、リディアは史上初めてコインを発行した国とされました。
リディアのエレクトラム貨
またペルシア支配下のエジプトを訪問し、当時の文化・風俗や、現地で語り継がれていた歴史を記録したことで後世のエジプト学発展にも貢献しました。ナイル川の肥沃さを語った「エジプトはナイルの賜物」という一文は今でも広く知られています。
古代ローマのキケローによって「歴史の父」と称されたヘロドトスは、後世の歴史観に大きな影響を及ぼしました。特にギリシャ、エジプト、ペルシアの古代史を語る上での主要原典として『歴史』は用いられていました。それはヘロドトスが当時を生きた同時代人というだけでなく、実際に各地を旅して見聞を集めた説得力があったからでした。
ただしヘロドトスの『歴史』には当時から批判的な見方もありました。
当時ギリシャ人から野蛮で専制的と見做されていたエジプトやペルシアの文明を称えたことも理由のひとつでした。
また各地で聞き及んだ荒唐無稽な逸話を多く織り交ぜていることから、歴史的事実と民間伝承が混在している点も批判の対象となりました。『歴史』が長く広く読み継がれた要因はこうした多彩な逸話故でもありましたが、原資料や信憑性の欠如、数量や戦いに関する記述の正確性に対する疑問が常につきまとっていました。
当時のヘロドトスは叙述を講演という形で人々に語り聞かせていました。
聴衆が集まるアゴラ(広場)やオリンピア大祭にまで赴き、自らがまとめた成果を発表していたとされています。
その最中では聴衆受けの良さそうな分かりやすい逸話や、下世話で人間味あるエピソードが多く語られたと思われます。『歴史』の記述に本筋からの逸脱や説話のようなエピソードが多いのは、こうした語り聞かせも影響しているように考えられます。
イソップ(アイソポス)が動物の姿を借りて人間の因果を語ったのと同じく、ヘロドトスは古の英雄たちを通して当時の世情を風刺し、聴衆を沸かせていたのかもしれません。
もちろんヘロドトスも聞き集めた話全てを信用していた訳ではなく、明らかに事実とは思えないような内容については「お伽話」と断じ、あくまでそうした話が伝わっているという旨の前置きを入れています。ヘロドトスに様々な逸話を語り聞かせた人々も、聞かせるために面白おかしく誇張していたと考えられ、彼自身それを認識しつつ書き残さずにはいられなかったのでしょう。
ヘロドトスが生涯をかけて著した『歴史』は古の出来事をそのまま記録したものではなく、彼が生きた時代の価値観や風俗、人々の興味関心までもを伝えるものでした。今や彼の残した著作そのものも歴史になりましたが、人の営みに対する知的好奇心が「歴史」の基軸にあることを思い起こさせてくれます。
詳しい内容に興味を持たれた方は、ぜひこの『歴史』を手にとってみてください。古代史だけでなくヘロドトスの飽くなき好奇心も伝える古典の名作、この連休のお供にもぴったりな一冊です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
今年の3月もあっという間に最終日です。今年の春は早いのではないかとも言われていましたが、3月後半は寒い日が続きました。
結果的に桜の開花時期も例年並みとなり、久しぶりに桜咲く4月上旬となりそうです。春爛漫の陽気が楽しみです。
今回はイギリスの小島ランディ島で発行された特殊なコインとその物語についてご紹介します。
ランディ島はイギリスのデボン州、トーリッジの沖合いに位置する小さな島です。イングランドとウェールズを隔てるブリストル海峡(またはブリストル湾)では最大の島でもあります。
面積は4.45平方kmであり、南北に5km、東西に1.2kmの細長い形状をしています。
島の人口は2007年時点で30人ほどであり、その多くが本土から訪れる観光客の対応に従事しています。
海岸線のほとんどは崖になっており、様々な海鳥の繁殖地になっています。島全体が海洋保護区に指定され、希少な海鳥を観察するツアーは人気の観光資源になっています。
本土とは船で結ばれており、日帰りでも訪問することができます。短時間で一周できるほどのコンパクトさから、トレッキングや週末の休暇で訪れる人も多いようです。イギリスのメジャーな観光地とは趣を異にする、素朴な自然を楽しめる島として知られています。
ランディ島南部の桟橋と灯台
この島は歴史上、貴族の所領として受け継がれましたが、度々所有者が変わっていきました。人口と資源に乏しいことから開発や投資も進められず、政府にも重要視されていませんでした。ランディ島はイギリス領内でありながら個人の私有地という、一風変わった地位に置かれ続けました。
1925年にランディ島が売りに出された際、ロンドン在住の実業家マーティン・コールズ・ハーマンが購入しました。
彼はまだ会社員だった1903年、初めてこの島を訪れてからすっかり気に入り、その帰り道に「いつの日かランディ島を買いたい」と口にしました。それ以降度々ランディ島を訪れており、その景観や静かさを気に入り、ますます所有欲を高めていきました。
その後実業家として成功したハーマンはついに念願だったランディ島を購入する機会に恵まれ、迷わず購入を決断。名実共にランディ島はハーマンのものとなりました。
マーティン・コールズ・ハーマン
(1885-1954)
ハーマンは代理人として友人のフェリックス・ゲイドを雇い、島の実際の管理を委託しました。ハーマン自身も休暇には家族と島を訪れ、穏やかなひと時を過ごしました。
フェリックス・ゲイドと妻ルネ
夫妻はランディ島に移住し、小さなホテルを運営しながら島を訪れる観光客を受け入れました。
当初は休暇を家族と過ごす保養地として購入しましたが、当時、島には40人ほどの住民がいました。ハーマンは住民のいる島の「統治」にも関わることになったのです。
1928年、島唯一の郵便局が閉鎖され、郵便物のやり取りに支障が出る恐れがありました。ハーマンは民間郵便として事業の継続を決め、1929年11月にはランディ島独自の切手を発行しました。
イギリスで発行されている切手と異なり、英国王の肖像の代わりにランディ島に生息する海鳥パフィン(ニシツノメドリ)が表現されています。
上部には「Lundy」、さらに額面は「PENNY」ではなく「PUFFIN」となっており、イギリス本国発行の郵便切手とは異なる、私的なラベルであることが強調されています。
このパフィンはイギリスの1ペニーと等価であることが示され、ハーマン氏が独自に導入した通貨単位でした。もともと島の住民たちが物々交換を行なう際、パフィンの羽を用いていたことに由来しています。
パフィン
和名はニシツノメドリ。ウミスズメ科の海鳥で体長は30cmほど。北大西洋の広い範囲に分布する渡り鳥です。その派手な見た目から「海のピエロ」などとも呼ばれています。
そして同年中には、パフィン単位の独自コインも発行しています。
表面にはハーマンの横顔肖像、裏面には岩の上に立つパフィンが表現されています。材質は青銅です。
シンプルなデザインですが、造型は力強く写実的であり、一国家が正式に発行したコインとしても遜色ない出来栄えです。
側面部にはランディ島の灯台からインスピレーションを得たと思われる銘文「LUNDY LIGHTS AND LEADS (=ランディの灯は導く)」が配されています。
このコインはバーミンガムの民間造幣企業ラルフ・ヒートン社によって製造され、デザインと金型作成も含めて100ポンド以上の費用がかかりました。
世界中のコイン製造を請け負う企業ということもあり、偽造防止対策も施された本格的な仕上がりです。
ハーマンは1パフィンと1/2パフィンをそれぞれ50,000枚製造し、それぞれ1ペニーと1/2ペニーに相当するコインとしてランディ島で有効としました。
しかし当時イギリスで流通していた1ペニーが9.45g/30.8mmに対し、1パフィンは10g/29.29mmとサイズに差がありました。あくまでランディ島でのみ有効な代用貨幣(トークン)として発行していたことが覗えます。
しかし人口40人にも満たない小さな島で、果たして50,000枚ものコインが必要なのでしょうか?
19世紀初頭には銅貨が慢性的に不足し、日常の決済に支障が生じたため、イギリス各地で多種多様なトークンが発行されました。しかし20世紀には充分な量の小額貨幣が供給され、国内の隅々まで流通していました。
郵便事業や切手は島の生活を維持するために必要な措置でしたが、その延長線上で発行されたコインはあくまでハーマンの自己満足、記念品のような位置づけで作らせたものと考えられます。それは100ポンドもの費用を投じて、専門の造幣企業に依頼したことからも分かります。もし、あくまで島内での決済上の便宜だけを考えて発行するなら、もっと安価かつ低品質な仕上がりでも良いはずです。
結局は島民の経済活動の為というよりも、島を訪れた観光客へのお土産としての役割があったと見受けられます。
ランディ島を結ぶ本土側の船の発着地ビディフォードの銀行では、パフィンコインをイギリスのペニーに交換することができ、銀行はパフィンコインをまとめてランディ島へ送り返していました。
とはいえ、ハーマンが「ランディ島では有効な貨幣」として発行したことは非常に大きな意味がありました。これは当時のイギリスの通貨法に抵触する恐れがあったからです。
ハーマンはパフィンコインが出来上がると、サンプルを英国王立造幣局に進呈しました。この時、造幣局はこのコインの発行が1870年通貨法第5条に抵触する恐れがあると警告しましたが、ハーマンはランディ島は王室領のマン島やジャージー島などと同じく、イングランドに属していないため問題ないと回答しました。
やがて本土から警察官が視察に訪れ、酒場でイギリスのペニーとハーマンのパフィンコインが混合して使用されている実態を確認します。
アメリカのタイム誌(1930年1月20日付)のランディ島に関する記事は、島民の間でこのパフィンコインが流通し始めている様子を伝えています。
検察は1870年通貨法が個人による私的な代用貨幣(トークン)の発行を禁じているとして、1930年3月5日にハーマンを起訴。ハーマンは罰金とパフィンコインの流通停止を命じられました。
これに対しハーマンは控訴し、1931年1月13日にロンドンの高等法院で控訴審が開かれました。
ここでハーマンは、ランディ島は歴史的に自由港として開かれており、また住民はイングランド王に税を納めたこともない。さらにイギリス本土との往来には税関を通過しなければならない。よってランディ島は高度な自治権を持つ特別な地域であり、イギリスの法は及ばない。この「ポケットサイズの自治領」において、領主である自分は貨幣を発行する権利を有していると主張しました。
しかし控訴審ではランディ島の特別な地位については論点とされず、あくまでイギリスの通貨法に抵触していることが取り上げられました。結局ここでもハーマンは敗訴し、15ギニーの裁判費用、および5ポンドの罰金支払いが確定しました。
その後「パフィンコイン」も一連の騒動を経て通用停止となり、ランディ島の小さな流通市場から回収されていきました。流通していたのはわずか1年ほどと、非常に短命なコインでした。
1954年にハーマンが没するとランディ島は息子に相続されましたが、道路などインフラ設備の維持が徐々に難しくなり、1969年に再び売りに出されます。新たな購入者である富豪ジャック・ヘイワードは15万ポンドで島の所有権を得ると、そのままナショナル・トラストに寄付しました。以降、現在に至るまでランディ島は歴史・自然保護区として公益法人の管理下にあります。
「自分オリジナルのコインを作ってみたい」というのは、コイン収集家なら一度は想像してみる夢ではないでしょうか。ハーマン氏は自らの肖像を刻んだコインを発行し、自分の小さな王国の中で実際に流通させました。
残念ながら法に触れるものでしたが、発行されたコインは興味深い顛末と共に後世に残され、コレクターの間で価値を有し続けています。
ランディ島はハーマン家の所有ではなくなりましたが、この小さな島の歴史を伝える貴重な史料になったのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 15:40 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
2月も終わりですがまだまだ寒いですね。今年の2月は一日多く、少し得をした気分になりますね。その分、春の訪れも先延ばしになったように感じられます。一日も早く暖かい、過ごしやすい陽気になることを願うばかりです。
本日は古代ローマ帝国の皇妃ルキラとそのコインについてご紹介します。
ルキラ/コンコルディア女神
(AD166-AD169, デナリウス銀貨)
アンニア・アウレリア・ガレリア・ルキラ(*Lucilla, ルッシラとも呼ばれる)はローマ帝国の黄金時代とされる2世紀半ばに生まれました。父親は哲人皇帝として知られるマルクス・アウレリウス・アントニヌス、母親のファウスティナは五賢帝の一人アントニヌス・ピウスの娘でした。
マルクス・アウレリウスとファウスティナの間には14人の子が生まれましたが、その多くは成人前に病没しました。ルキラの双子の兄ゲメルス・ルシラエも幼くして没しています。
アントニヌス・ピウス帝治世下に発行されたアウレウス金貨 (AD149, ローマ)
裏面には交差する二本のコルヌ・コピア(=豊穣の角)が表現され、上部には幼児の頭部が確認できます。これはルキラとゲメルス・ルキラエを表現したものとされ、皇帝の孫の誕生を記念する意匠となっています。
祖父アントニヌス・ピウス帝が崩御し、父のマルクス・アウレリウスが帝位を継承した161年、弟コンモドゥスが誕生します。アントニヌス朝の皇子として大切に育てられたコンモドゥスは、将来の皇帝として生まれた時から期待されていました。
一方でルキラもアントニヌス朝を盤石にするための役割を与えられました。
父マルクス・アウレリウスは即位にあたり、義理の弟であるルキウス・ウェルスを共同統治帝に指名し、兄弟共に即位しました。ルキウス・ウェルスはかつてハドリアヌス帝の後継者とされたルキウス・ケイオニウス・コンモドゥスの息子であり、マルクス・アウレリウスと共にアントニヌス・ピウス帝の養子となっていました。
マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウス帝は義弟ルキウス・ウェルスに自らの娘であるルキラを嫁がせることにより、二人の皇帝による共同統治体制を盤石なものにしようとしました。164年に結婚が成立。この時ルキウスは34歳、ルキラは15歳でした。
この結婚によりルキラは母親であるファウスティナと同じアウグスタ(=皇妃)の称号を得、彼女の姿を表現したコインが発行されるようになりました。
ルキラのデナリウス銀貨 (AD166-AD169, ローマ)
ルキラのコインはルキウス・ウェルス帝と結婚した直後の164年から、夫が亡くなる169年までのおよそ5年間発行されました。
すべてのコインには「AVGVSTA(=皇妃)」の称号が刻まれ、彼女が皇妃であった時期にのみ製造されたことが分かります。そのため確認されているコインの種類はファウスティナと比べて少なく、発行数も父や夫と比べると少なかったことが窺えます。
金貨・銀貨・銅貨もすべて同じ肖像のスタイルが採用されています。母親のファウスティナとよく似た髪形をしていますが、やや丸顔で幼さを残した印象です。
母ファウスティナのデナリウス銀貨 (AD161-AD164)
ルキラは夫のパルティア遠征にも付き従い、ローマを離れてシリアで過ごすようになります。この間に3人の子供を授かり、夫婦としての関係性は保たれていましたが、結婚から5年後の169年2月ルキウス・ウェルスは外征先で脳溢血に倒れ、そのまま崩御してしまいました。
ルキウス・ウェルスは神格化され丁重に葬られましたが、夫の死によってルキラは皇妃の称号を失うことになります。父マルクス・アウレリウスは後添えとしてティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌス・クィンティアヌスというシリア出身の貴族と再婚させますが、これによって皇妃の身分を再び得ることはできず、格下げのような形になりました。
180年に父マルクス・アウレリウスが崩御すると、帝位は息子コンモドゥスに継承されました。哲人皇帝と称えられた父親と異なり、コンモドゥスは暴力的で自己顕示欲が強く、誇大妄想の傾向がみられました。この頃から姉ルキラと弟コンモドゥスの不和と対立が始まったと推測されています。
さらにコンモドゥスの妻であるクリスピナとも不仲であり、皇妃の称号を失ったルキラは宮廷から遠ざけられる状況に危機感を覚えていました。この頃からアウグスタの称号を添えたクリスピナのコインも発行され始めています。
コンモドゥスとクリスピナ
コンモドゥスは父マルクス・アウレリウスと似た風貌ですがやや目蓋が重い印象です。クリスピナはファウスティナやルキラと比べると細面で、首元が長く表現されています。
皇帝一族内の確執は単なる御家騒動に収まらず、やがてクーデターの陰謀として多くの人々を巻き込んでいきました。ルキラと夫クィンティアヌスを軸とし、元近衛長官パテルヌス、ルキラの娘プラウティア、夫クィンティアヌスの甥などが関与し、コンモドゥス帝暗殺計画が練られました。皇帝暗殺後はクィンティアヌスが皇帝に即位し、ルキラが再び皇妃の称号を得て復権する予定でした。
182年、皇妃クリスピナが妊娠したことを契機とし、コンモドゥス帝暗殺計画が実行に移されました。クィンティアヌスの甥が物陰に隠れ、近づいてきたコンモドゥス帝を短剣で刺し殺そうとしたものの、その際に「これが元老院からの贈り物だ!」と叫んだことですぐさま近衛兵に捕らえられ、計画は失敗に終わりました。
コンモドゥス帝は傷ひとつ負いませんでしたが、ただちに計画に関与した姉ルキラと夫クィンティアヌス、その子供たちを逮捕し、カプリ島に追放した後に当地で処刑しました。
こうしてルキラの復権の野望はあえなく潰えましたが、実姉に命を狙われたことや暗殺者の掛け声(=これが元老院からの贈り物だ!)はコンモドゥス帝の人間不信感情をより悪化させ、ますます政治から遠のき暴君・暗君の道を辿ることになったのです。
暗殺未遂事件から10年後の192年、コンモドゥス帝は近習の近衛隊長と愛人の策略によって暗殺され、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続いたアントニヌス朝は終焉しました。
権力闘争によって最期を遂げたルキラですが、暴君となった弟に処刑された悲劇性からか、後世の映画ではヒロインとして描かれることも多くあります。
『ローマ帝国の滅亡』(1964)
『グラディエーター』(2000)
『ローマ帝国の滅亡』ではソフィア・ローレン、『グラディエーター』ではコニー・ニールセンがルキラを演じました。どちらの作品でも弟コンモドゥスによって虐げられ、その暴政を止めようと尽力し、主人公によって救われるヒロイン像として表現されています。
伝わっている史実とはイメージが大きく異なりますが、映画作品としては見応えがありますので、気になる方はぜひご覧ください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
年が明けて早4週間が経ちました。歳末から新年が明けてお正月気分もあっという間に過ぎてしまいます。
1月1日に発生した能登半島の震災で被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。寒さが強まる時期の避難生活は過酷で厳しいものと察せられます。一刻も早く復興復旧が進み、再び日常生活を取り戻せるよう願っております。
新しい年を迎えてまだ一か月と経っていませんが、国内外では様々なことが起きていますね。今年が平穏で、少しでも過ごしやすい年になることを願ってやみません。
今年最初は辰年に因み「竜」をテーマにしたコインをご紹介します。
十二支の中で唯一神話上の生き物である竜は、古代中国では皇帝の権威を象徴する神獣とされてきました。水と結び付けられることが多く、天空を舞って雷雨をもたらす霊獣ともされたことから、農耕社会において重要な位置づけを占めていました。端午の節句の鯉のぼりにみられるように、出世の象徴としてみられることもあります。
そのため中国では十二支の中で最も人気のある生き物であり、縁起の良さから様々なモティーフに取り入れられています。
中国 2024 20元札(ポリマー製) 辰年記念
見た目は鱗に覆われた大蛇のようでありながら手足があり、ひげと角を有しています。この姿から古代のクジラやワニ、恐竜の化石からインスピレーションを得て生み出されたとも考えられています。
一方ヨーロッパでは竜=ドラゴンは巨大な怪獣の一種と捉えられており、特に中世の騎士物語では正義の騎士によって退治される恐ろしい存在として描かれてきました。見た目は大蛇よりもトカゲに近く、背翼を有しています。また火や毒液を吐く設定も組み込まれ、東洋とは異なり邪悪で凶暴な怪物としてのイメージが定着しています。しかし見た目の特徴は東洋の竜と類似点が多く、西洋と東洋で何らかの文化的接点があったことが窺えます。
その強さから守護獣として紋章に取り入れられることもありましたが、イメージの悪さからか、コインの図像として単体で表現される事例は多くありません。
中国や日本において竜がコインに表現されるようになったのは19世紀以降であり、当初は皇帝や天皇を象徴する意匠として表現されました。また長い体のうねりや細かい鱗は図像を複雑化させ、偽造防止にも役立ちました。
日本 明治4年(1871) 20銭銀貨 (*ペンダントトップ)
清国 1890-1908 一銭四分四厘銀貨
構図は日本の竜図と似ていますが、竜の顔は正面を向いています。
清国 1900-1906 10文銅貨
銀貨と異なり顔は横を向いており、日本の竜と類似した表現になっています。
現代では中華圏を中心に竜の意匠が記念コインに多く表現されています。特に辰年に合わせて発行される記念コインは人気があり、他の干支コインより高値で取引される傾向にあります。
英領香港 1976 1000ドル金貨
北朝鮮 1999 10ウォン銀貨 青龍
青龍は古代中国において東西南北を守護する神獣のひとつ。朱雀、玄武、白虎と並んで吉兆と見做されていました。東方を守護し、春を齎す霊力を信じられていました。
一方、ヨーロッパでは竜=ドラゴンは不吉な存在とされたため、騎士に退治される姿で表現されました。特にドラゴン退治の伝説で知られる聖ゲオルギオスはイギリスやドイツ、ロシアなど各地で守護聖人として崇められたことから、当地で発行されるコインの意匠として多く登場しました。
神聖ローマ帝国 マンスフェルト=ボルンシュテット 1669 1/3ターレル
聖ゲオルギオスは3世紀末にパレスチナのキリスト教徒の家庭に生まれ、後にローマ帝国の軍人となりましたが、キリスト教徒に対する迫害によって殉教したと伝えられています。
中世には聖人に列せられ、聖人伝『黄金伝説』では人々を悩ませるドラゴンから王女を救い出す物語が広く知られるようになりました。そのため聖ゲオルギオス=ドラゴン退治のイメージが定着するようになりました。
生贄にされた姫を救い出す悪竜退治の英雄伝説は、古代ギリシャのペルセウスとアンドロメダ、日本のヤマタノオロチなど、世界中で類似例がみられます。
イギリス 1889 クラウン銀貨
聖ゲオルギオス(セントジョージ)はイングランドの守護聖人とされ、白地に赤十字のセントジョージクロスはイングランド国旗になっています。
イギリスでは19世紀初頭に名匠ベネデット・ピストルッチの手による図像がコインに採用され、200年以上を経た現代に至るまでイギリスコインを代表するデザインとして定着しています。
イギリス 1935 クラウン銀貨
ジョージ5世の治世25周年を記念して発行されたクラウン銀貨には、新たなセントジョージ像が表現されました。パーシー・メットカルフによって手がけられた新たなセントジョージ像は現代風にアレンジされており、当時の芸術風潮も反映されています。ドラゴンはよりトカゲに近い描写であり、まさに怪物といった風貌です。
カナダ 2014 5ドル銀貨
英領アセンション諸島 2022 2ポンド銀貨
現代のアーティストによって再構築されたセントジョージ像は、より躍動感に溢れた表現になっています。ドラゴンの描写は時代によって変化し、現代では恐竜のイメージに近い描写です。
マン島 1995 1エンジェル銀貨
『ヨハネの黙示録』には大天使ミカエルが悪の象徴であるドラゴンと戦い、これを討ち果たす場面が描写されています。聖ゲオルギオスと類似する描写であり、ドラゴンがキリスト教において悪を象徴するイメージだったことが分かります。
オーストリア 1959 25シリング銀貨
聖書では悪の象徴と捉えられていたドラゴンも、地域によっては守護獣と見做されることもありました。ドイツやオーストリアの伝承ではリントヴルムと呼ばれるドラゴンが登場し、川の主、流域都市の守護獣とされました。いくつかの自治体ではこのリントヴルムが紋章として採用されています。
アイスランド 1974 1000クローナ銀貨
アイスランドの伝承において国の四方を護るとされた牡牛、大鷲、ドラゴン、巨人が表現されています。ドラゴンはアイスランドの北東を守護するとされ、古代中国の四神に類似しています。これはキリスト教が定着する以前のアイスランドの信仰に基づいており、今なお古来からの伝承が重視されている証でもあります。
シンガポール 1968 10セント白銅貨
タツノオトシゴはその名の通り竜から名づけられた魚です。見た目が小さな竜を想起させるため名づけられました。ヨーロッパでは馬を連想させる姿から海馬(Seahorse, Hippocampus)とも呼ばれています。
雄が卵と稚魚を育児嚢で保護する生態から、安産と子育てのお守りとして干物を身につける風習もありました。
パラオ 1995 1ドル白銅貨
パラオ 2005 1ドル白銅貨
ブータン 1979 25チェルタム白銅貨(*ペンダントトップ)
双魚は密教における幸運の象徴であり、西洋の魚座にあたります。チベットや中国では鯉が滝を登って竜になる登竜門の故事から、昇進や仕事運などの立身出世、子孫繁栄を象徴する吉祥のひとつとされています。
鯉の口元にあるひげや鱗の様子、生命力のたくましさなどから、出世すると竜になることを連想させたと思われます。
そして現代の竜といえば「恐竜」です。竜はワニや恐竜など古代生物の化石から連想された生物でしたが、19世紀以降、科学的なアプローチからその正体を探る研究が進められてきました。空想上の生物ではなく、かつて地球に存在した実在の「竜」を解明する研究は今も進められ、日々新しい発見や仮説が登場しています。
古代の地球を想像させるロマンの象徴として、子供から大人まで夢中させる恐竜は、現代では記念コインにおける人気テーマのひとつとなりました。
英語のdinosaurは「恐ろしいトカゲ」を意味するギリシャ語が語源になっています。日本では明治時代に古生物学者の横山又次郎が著した化石に関する書籍で「恐龍」と訳したことが始まりです。あえて「恐蜥」とは訳さず、その巨大さや特徴から竜を想起させるためこの訳になったとされています。
マン島 1993 1クラウン白銅貨
イグアノドンは約1億2000万年前に生息していた大型の草食恐竜です。19世紀初頭にイギリスのギデオン・マンテルによって発見され、歯の特徴がイグアナに似ていることから「イグアノドン(=イグアナの歯)」と名づけられました。マンテルは発見した化石を巨大な爬虫類のものとし、絶滅した巨大生物の存在が知られるようになりました。この発見は恐竜研究史において重要な最初の一歩とされ、マンテルは恐竜を最初に発見した人物、イグアノドンは最初に発見・命名された恐竜とも云われます。
エリトリア 1993 1ドル白銅貨
「三つの角」を意味するトリケラトプスはサイのような見た目をしており、草食性で群れによる集団生活を営んでいたと考えられます。ティラノサウルスやブラキオサウルスと並ぶ恐竜の代表格として人気があります。
リベリア 1993 1ドル白銅貨
プロトケラトプスは体長2mほどと恐竜の中では小型であり、群れをなして生活した痕跡が見つかっていることから「白亜紀の羊」とも称されます。発見数が多くかなりの個体がまとまって生息していたとみられています。また最初に卵や巣の化石が発見された恐竜でもあります。
英領ジブラルタル 1993 1クラウン白銅貨
ステゴサウルスは背中に数多くのパネル状の突起があることから、大型の肉食恐竜から身を守るために進化した特徴とみられていました。しかし近年は血管が通っていた痕跡が見つかったため、体温調節の意味があったと提唱されています。この特徴は怪獣ゴジラのビジュアルの元になっています。
20世紀半ば以降は日本でも恐竜化石の発掘と研究が進み、世界的にも注目されるようになっています。徳に福井県では豊富な化石が発掘されていることから、地方自治法60年を記念したコインのデザインとして表現されました。日本の貨幣に恐竜が登場した稀有な例です。
日本 平成22年(2010) 千円銀貨&五百円貨
福井県内で化石が発見された肉食性のフクイラプトルと、草食性のフクイサウルス(*イグアノドンの一種で通称「福井竜」とも呼ばれる)が大きく表現されています。
明治の竜から始まり、21世紀には恐竜がコインに登場するようになりました。今後は空想の生物ではなく実在の生物として、竜が再びお目見えするかもしれません。
辰年は株式市場では「辰巳天井」とも呼ばれ、昇り竜のように相場も上昇していく年と云われています。景気も運気も右肩上がりで、力強く上向いていくと良いですね。
こんにちは。
11月も終わりすぐに師走。寒さも厳しくなり、一気に冬の様相を呈してまいりました。
今年も残すところあとわずか、暖かくして年越しの準備を進めたいですね。
今回は半鳥半獣の幻獣「グリフィン」のコインをご紹介します。
グリフィンは古代ギリシャ語のグリュプス(γρυπός=鉤)に由来し、その名の通り鋭い嘴の鷲の頭部と翼を持つ、胴体はライオンの合成獣です。
『鳥獣虫魚図譜』に描かれたグリフィン
(ヨハネス・ヨンストン, 1660)
古代ギリシャではヘロドトスやアイスキュロス、クテシアスの書物に記されましたが、そこでは中央アジアやコーカサス、インドといった遥か東方の地域に生息しているとされました。後世のローマではプリニウスが『博物誌』の中で言及し、エチオピアに生息する奇妙な生物として紹介しています。
これらの記述から、グリフィンは遠く離れた異国に生息している実在の生物と認識されていたようです。
ペルセポリスのグリフィン像
グリフィンはペルシアなどオリエントのレリーフに見られる半鳥半獣の図像に由来していると考えられています。これらの図像を目にしたギリシャ人が想像を膨らませ、さまざまな民間伝承を組み入れて実在の生物のように形作っていきました。そのため図像や記述は多く残されていますが、スフィンクスやキマイラのようにギリシャ神話の中にはほとんど登場しませんでした。
(*神々の車を牽く存在として言及される例はある)
神話世界の幻獣と認識されなかったため、キリスト教が浸透した中世以降もヨーロッパではグリフィンが伝承されていきました。鳥類の王と百獣の王が合体した姿から、王侯の紋章に取り入れられたり、キリストや教会の象徴とされる例も多くみられました。グリフィンは獰猛ながらも気高く神々しい生物とされ、西洋文化において好意的な意味合いの図像として定着し、採り入れられてきました。そのため今なお多くのファンタジー作品に登場しています。
ギリシャ神話に登場しないに関わらず、王者の風格を体現するグリフィンは印章のモティーフとして人気がありました。いくつかの都市ではコインの図像として表現され、古代コインの中でも特徴的な雰囲気を醸し出しています。
エーゲ海に臨するテオスはイオニア地方における主要な植民都市のひとつでした。現在のトルコ、イズミル県シアジク近郊に位置し、円形劇場やディオニソス神殿などの遺跡が発見されています。
テオスのディオニソス神殿跡
紀元前544年頃、イオニアへ侵攻したアケメネス朝ペルシアがテオスを占領すると、多くの市民がエーゲ海を渡って国外に脱出。亡命先はトラキア地方のアブデラ(*現在のギリシャ,アヴディラ)であり、多くのテオス人がこの都市に移り住みました。しかし後年、再びテオスに帰還した人々も多くおり、故郷の復興に尽力しました。テオスはアケメネス朝の宗主下に置かれたものの、イオニア地方における主要都市として復活し、長らくその地位を守り続けました。
遠く離れたテオスとアブデラの深い関係性を示す証拠として、当時発行されたコインがあります。二つ都市のコインには共にグリフィン像が表現されています。
テオス BC470-BC450 スターテル銀貨
アブデラ BC530-BC500 スターテル銀貨
両都市で発行されたコインには、当時のギリシャ人が想像したグリフィンの姿が立体的に、まるで実在する生き物のように表現されています。特に、背翼の表現には共通性が見て取れます。
テオスとアブデラでは長期にわたってコインにグリフィンの姿を刻み続けました。グリフィンが両都市の象徴として用いられたことは明らかです。
グリフィンが表現されたコインはテオス・アブデラの銀貨が名品として知られていますが、他の都市でもグリフィンのコインが発行されました。
アブデラ BC365-BC345 テトラドラクマ銀貨
パンティカパイオン BC310-BC303 銅貨
ローマ BC79 デナリウス銀貨
コイン上のグリフィンはさまざまな姿で表現されていますが、鷲の頭に長い耳、ライオンのようにしなやかな身体は不可欠の構成要素です。オリエントに由来する幻獣でありながら、都市や発行者を示す図像として美しく表現されました。ギリシャ・ローマにおいてグリフィンは単なる異国の怪物ではなく、自分たちの文化に取り入れられた存在として認識され、肯定的な意味を付与されました。
現在に至るまで、力強さや神秘性を象徴するグリフィンは創作の世界で生き続けてきました。古代から続くシンボリックな存在として、これから先の時代も受け継がれていくことでしょう。
西ドイツ 1979年 5マルク銀貨
ドイツ考古学協会創設150周年記念コイン
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:31 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
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