【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。相変わらず夏の暑さは堪えますね。
8月も半ばを過ぎても、日中の外気温の高さは相変わらずです。
都内だけでしょうか、今年の夏はセミの鳴き声が少ないように感じられます。大量発生するとうるさく感じますが、全く聞こえないのも物足りなく感じますね。
今年は終戦から80年目となりました。20世紀を象徴する節目と言える第二次世界大戦は、甚大な被害と影響をもたらし、現代世界のあり方を決定づけた戦争です。年々あの戦争が遠い時代の記憶となり、まさに「歴史」の中の出来事として語られているように思います。
今回は当時のアメリカで発行された戦時コイン、銀で造られた5セントについてご紹介します。
総力戦が本格化した第一次世界大戦以来、使える資源は全て戦争に回され、平時のように自由に物資が利用できなくなりました。国民生活、経済活動に欠かせないコインも例外ではなく、貴金属で造られていたコインは卑金属に置き換えられました。特にニッケルは弾薬や兵器を製造する際に必要となるため、ニッケルで造られていた小額のコインは回収され、代わりにアルミや錫などに変更される例が多くみられます。
こうした戦時コインは第二次世界大戦中、参戦していた世界各国で発行されました。特に戦局が逼迫していたドイツや日本で顕著でしたが、戦勝国のアメリカでもみられました。
1941年12月の真珠湾攻撃をきっかけにアメリカ合衆国が参戦すると、ニッケルは重要な軍需物資となり、造幣局はニッケルの使用削減を迫られました。
当時、ニッケルを素材に使用していたコインは5セントのみでした。実際には銅75%、ニッケル25%の合金=白銅貨でしたが、一般的な通称として広く「ニッケル」と呼ばれていました。
1942年3月27日、議会は従来のコインに他の金属を添加する権限を造幣局に与えました。造幣局は研究を重ねた末、銅56%+銀35%+マンガン9%の合金が適しているとし、1942年10月から実際に製造を開始しました。
戦時発行の5セント。デザインやサイズ、重量は変わらず、素材だけ変更。肖像は第三代大統領トマス・ジェファーソン。
ニッケルは兵器の大量生産に必要な原料でしたが、銀は物資が豊富なアメリカにとって戦争遂行に必要な金属とは見なされず、ニッケルの代用品として用いられたのです。
同時期でも10セント、25セント、50セントの銀貨(Silver90%)は増産が図られており、当時の日本やドイツが銀貨を製造できなくなった状況と比べると、物量と国力の差がコインにも表れているようです。
アメリカ 1942年 50セント銀貨「ウォーキングリバティ」
従来の白銅貨と区別しやすく、終戦後に選別・回収しやすくするため、裏面のトマス・ジェファーソンの邸宅「モンティチェロ」の上部に大きなミントマーク(*造幣局を示す印)を示しました。なお、フィラデルフィアを表す「P」銘は、アメリカのコインにこのミントマークが登場した最初の事例でした。
上部にサンフランシスコのミントマーク「S」が配されています。従来は建物の右側に小さく配されていました。
この銀で造られた5セントは1942年から戦争終結の1945年まで、フィラデルフィア、サンフランシスコ、デンヴァーの各造幣局で製造されました。
総計で8億6989万6100枚が製造され、アメリカ国内で流通しました。当時の公衆電話や、バス・地下鉄など市内公共交通機関の基本料金が5セントからだったこともあり、日常生活での需要は大きく、戦時下のアメリカの市民生活に大いに役立ちました。
ただし銀とマンガンが含まれていたため、流通の過程でこれまでの白銅貨より黒くくすみ、見栄えが良くないといった問題もありました。
白っぽい白銅貨と比べると、戦時発行貨との色合いの差は一目瞭然です。
戦争が終結した翌年の1946年、戦前の白銅貨が再び製造されるようになり、ミントマークも以前の小さなものになりました。(*フィラデルフィアのミントマークPは消滅)
銀の代用によって、本来5セントに使用される分のニッケルは節約されましたが、実際どの程度まで兵器の増産体制に貢献したかは不明瞭です。
2000年に貨幣収集専門誌『The Numismatist』の記事においてマーク・A・ベンヴェヌート氏は「この変更によって節約されたニッケルの量は戦争遂行には大きくは影響しなかったが、戦時貨幣は勝利のために必要な犠牲を日常的に思い起こさせるものとして機能した」と述べています。
物量的には豊かで不足に悩まされなかったアメリカの市民生活において、現在が戦時下であることを喚起する上では、ある程度意味のあるものだったといえるでしょう。
その後、戦時発行の5セントは随時回収され、再び大量生産された白銅貨に置き換わっていきました。特に60年代~70年代の銀価格高騰に際しては、額面より素材の金属価値がはるかに高くなったため、わずかに流通していた分も消えていきました。
(*現在でも5セントの製造コストは一枚当たり13セントを上回り、素材価値も額面以上となっているため、1セントに続き廃止論の対象となっています)
4年間の製造枚数が膨大だったため、収集市場では現在も入手は容易です。アメリカでは第二次世界大戦の歴史の証として、コレクター市場でも広く知られています。
コイン収集家以外にも、戦時中の史料として販売されています。
コインは日常の経済活動で使用されるいわば消耗品ですが、その時々の世相を、歴史として後世に伝え残す役割も担っています。身近なものである一方、社会や時代の変化が明瞭に反映され、後の時代の人々に当時を思い起こさせる貴重な史料でもあります。
今後、逼迫した状況を反映するコインが再び登場しないことを、切に願うばかりです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。相変わらず夏の暑さは堪えますね。
8月も半ばを過ぎても、日中の外気温の高さは相変わらずです。
都内だけでしょうか、今年の夏はセミの鳴き声が少ないように感じられます。大量発生するとうるさく感じますが、全く聞こえないのも物足りなく感じますね。
今年は終戦から80年目となりました。20世紀を象徴する節目と言える第二次世界大戦は、甚大な被害と影響をもたらし、現代世界のあり方を決定づけた戦争です。年々あの戦争が遠い時代の記憶となり、まさに「歴史」の中の出来事として語られているように思います。
今回は当時のアメリカで発行された戦時コイン、銀で造られた5セントについてご紹介します。
総力戦が本格化した第一次世界大戦以来、使える資源は全て戦争に回され、平時のように自由に物資が利用できなくなりました。国民生活、経済活動に欠かせないコインも例外ではなく、貴金属で造られていたコインは卑金属に置き換えられました。特にニッケルは弾薬や兵器を製造する際に必要となるため、ニッケルで造られていた小額のコインは回収され、代わりにアルミや錫などに変更される例が多くみられます。
こうした戦時コインは第二次世界大戦中、参戦していた世界各国で発行されました。特に戦局が逼迫していたドイツや日本で顕著でしたが、戦勝国のアメリカでもみられました。
1941年12月の真珠湾攻撃をきっかけにアメリカ合衆国が参戦すると、ニッケルは重要な軍需物資となり、造幣局はニッケルの使用削減を迫られました。
当時、ニッケルを素材に使用していたコインは5セントのみでした。実際には銅75%、ニッケル25%の合金=白銅貨でしたが、一般的な通称として広く「ニッケル」と呼ばれていました。
1942年3月27日、議会は従来のコインに他の金属を添加する権限を造幣局に与えました。造幣局は研究を重ねた末、銅56%+銀35%+マンガン9%の合金が適しているとし、1942年10月から実際に製造を開始しました。
戦時発行の5セント。デザインやサイズ、重量は変わらず、素材だけ変更。肖像は第三代大統領トマス・ジェファーソン。
ニッケルは兵器の大量生産に必要な原料でしたが、銀は物資が豊富なアメリカにとって戦争遂行に必要な金属とは見なされず、ニッケルの代用品として用いられたのです。
同時期でも10セント、25セント、50セントの銀貨(Silver90%)は増産が図られており、当時の日本やドイツが銀貨を製造できなくなった状況と比べると、物量と国力の差がコインにも表れているようです。
アメリカ 1942年 50セント銀貨「ウォーキングリバティ」
従来の白銅貨と区別しやすく、終戦後に選別・回収しやすくするため、裏面のトマス・ジェファーソンの邸宅「モンティチェロ」の上部に大きなミントマーク(*造幣局を示す印)を示しました。なお、フィラデルフィアを表す「P」銘は、アメリカのコインにこのミントマークが登場した最初の事例でした。
上部にサンフランシスコのミントマーク「S」が配されています。従来は建物の右側に小さく配されていました。
この銀で造られた5セントは1942年から戦争終結の1945年まで、フィラデルフィア、サンフランシスコ、デンヴァーの各造幣局で製造されました。
総計で8億6989万6100枚が製造され、アメリカ国内で流通しました。当時の公衆電話や、バス・地下鉄など市内公共交通機関の基本料金が5セントからだったこともあり、日常生活での需要は大きく、戦時下のアメリカの市民生活に大いに役立ちました。
ただし銀とマンガンが含まれていたため、流通の過程でこれまでの白銅貨より黒くくすみ、見栄えが良くないといった問題もありました。
白っぽい白銅貨と比べると、戦時発行貨との色合いの差は一目瞭然です。
戦争が終結した翌年の1946年、戦前の白銅貨が再び製造されるようになり、ミントマークも以前の小さなものになりました。(*フィラデルフィアのミントマークPは消滅)
銀の代用によって、本来5セントに使用される分のニッケルは節約されましたが、実際どの程度まで兵器の増産体制に貢献したかは不明瞭です。
2000年に貨幣収集専門誌『The Numismatist』の記事においてマーク・A・ベンヴェヌート氏は「この変更によって節約されたニッケルの量は戦争遂行には大きくは影響しなかったが、戦時貨幣は勝利のために必要な犠牲を日常的に思い起こさせるものとして機能した」と述べています。
物量的には豊かで不足に悩まされなかったアメリカの市民生活において、現在が戦時下であることを喚起する上では、ある程度意味のあるものだったといえるでしょう。
その後、戦時発行の5セントは随時回収され、再び大量生産された白銅貨に置き換わっていきました。特に60年代~70年代の銀価格高騰に際しては、額面より素材の金属価値がはるかに高くなったため、わずかに流通していた分も消えていきました。
(*現在でも5セントの製造コストは一枚当たり13セントを上回り、素材価値も額面以上となっているため、1セントに続き廃止論の対象となっています)
4年間の製造枚数が膨大だったため、収集市場では現在も入手は容易です。アメリカでは第二次世界大戦の歴史の証として、コレクター市場でも広く知られています。
コイン収集家以外にも、戦時中の史料として販売されています。
コインは日常の経済活動で使用されるいわば消耗品ですが、その時々の世相を、歴史として後世に伝え残す役割も担っています。身近なものである一方、社会や時代の変化が明瞭に反映され、後の時代の人々に当時を思い起こさせる貴重な史料でもあります。
今後、逼迫した状況を反映するコインが再び登場しないことを、切に願うばかりです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
梅雨明けしてから一気に猛暑の毎日です。毎年危険な暑さは当たり前になっていますが、熱中症のような命に係わる事態は避けたいものです。
晴天時は日差しが強く、外出時は目や肌を守る対策も必要です。ここまで暑いと、外でのレジャーすら命懸けですね。なんとか今年の夏も乗り切っていきたいです。
今回は古代ギリシャの天罰の女神ネメシスのコインをご紹介します。
ネメシスはギリシャ神話でも比較的マイナーな女神のため、コインに表現された例も少ないのですが、人間世界にとっては大変重要な役割を持つ神とされていました。
ネメシス女神像
運命を象徴する車輪を持ち、罪人を踏みつける姿
ヘシオドスの『神統記』の記述によれば、原初の神々のひとつであるニュクス(=夜)は多くの子を産み、それらが人間の在り様を運命づける概念となりました。
ヒュノプス(睡眠)、エリス(不和)、アーテー(迷妄)、モイラ(運命の三女神=クロートー,ラケシス,アトロポス)が娘たちであり、その内のひとつがネメシスでした。
ネメシスはもともと「分配者」を意味し、人間の運勢を再分配する女神と捉えられていました。やがて人間の傲慢や思い上がり、無礼な行いに対する神々の怒り=天罰を下す存在へと役割を発展させました。
その姿は勝利の女神ニケのように背翼を持つ若い女性像として表現されています。コインや残されている図像では様々な象徴物を持ち、あまり一貫性がありません。ギリシャ~小アジアの諸都市で崇拝されていましたが、都市によってその性質も異なります。
コインの場合はクラウディウス帝時代のローマでみられますが、他の皇帝のコインにはほとんど表現されていません。また、属州統治下の小アジアで僅かな例があるのみであり、比較的希少な存在です。
ローマ帝国 AD51-AD52 デナリウス銀貨
表面にはクラウディウス帝、裏面には背翼を広げるネメシス女神像。キトンの端を摘まみ、左手で伝令使の杖カドゥケウスを携えています。足元には蛇が配され、女神の行く手を先導しています。銘文から平和の女神パックスと合一した姿とされています。
イオニア スミルナ AD54-AD59 青銅貨
表面には皇太后アグリッピナと息子ネロ帝、裏面にはネメシスの立像が表現されています。同時代のローマ本国で発行された上のコインと全く同じ構図で表現されています。
フリギア ヒエラポリス AD100-AD225 青銅貨
表面には医術神アスクレピオス、裏面には有翼のネメシスが表現されています。しおらしく右手でキトンの端を摘まみながら、左手で馬の轡を持っています。轡は悪を戒め、力を押さえつけて制御する象徴と見做されました。
イオニア スミルナ AD128-AD132 キストフォルス銀貨
表面にはハドリアヌス帝、裏面には二人のネメシス女神像が表現されています。背翼はありませんが、ヒエラポリスの青銅貨と同じくキトンの端を摘まみ、馬の轡を持っています。
二人の女神像はスミルナでの独特なネメシス崇拝を象徴し、女神の二面性(=恩恵と懲罰)を示しています。
起源の古い神でありながらその神話は少なく、人間的な要素が強い他の神々とは異なり、具体的な性質を伺わせるエピソードは限られています。
特徴的なエピソードは、ゼウスが美しいネメシスを見惚れて迫り、それから逃れるためガチョウに変身したところ、ゼウスは白鳥に変身して交わったというものです。その際にネメシスが産んだ卵からは双子神ディオスクロイ(=カストルとポリュデウケス)と、後にトロイア戦争の原因となる美女ヘレネが誕生したとされています。
(*別パターンではスパルタ王妃レダがゼウス=白鳥と交わり卵を産む。前述のパターンでは卵はレダに預けられ、生まれたヘレネを育てる)
またナルキッソスを狂わせて自己愛に陥らせたり、アウラをディオニソスに襲わせたのもネメシスの仕業とされました。
神話の物語性は少ない一方で、女神本来の役割は重要視されていました。
幸運の女神テュケ(ローマ名:フォルトゥナ)は縁起の良い福の神とされ、時代や地域を問わず人気がありました。一方で気まぐれな女神とされ、人間性の善悪を問わず、その時々に気に入った者に幸運を与えると云われました。
ために不正直不遜でありながら運に恵まれ、正直誠実でありながら報われない人がいるとされたのです。
セレウケイア BC100-BC99 4ドラクマ銀貨 テュケ女神
テュケ女神はフェニキア地方(*現在のシリア~レバノンの沿岸部)で特に信奉され、都市の守護神として城塞冠を被る姿でコインに表現されました。
その際に調整を加えるのがネメシスであり(*テュケの姉とされる例もある)、テュケが気ままに幸運を与えた人間が、恩恵に感謝することなく奢り高ぶっていると、その幸運を取り上げ、代わりに罰を下すと考えられました。
そして取り上げた幸運は見過ごされていた誠実な者に与え、世の中のバランスを保つとされていました。
ただ無慈悲に天罰を下すだけでなく、ネメシス本来の役割である「再分配」の性質が、神々の勧善懲悪、正しい行いへの褒賞として期待されたようです。
天罰を与えるという役割は、人間が見えない神々の存在を意識し、誠実さを重んじる社会を維持する上にも必要だったのでしょう。その役割は時代を経た現代人にも理解でき、古来から人間の価値観や概念がさほど変化していない証に思われます。
『正義と懲罰に追われる罪人』
1808年にパリ刑事法廷の壁を飾るためピエール=ポール・プリュードンによって作成(*現在はルーヴル美術館所蔵)。殺人を犯した盗賊が、正義の女神ユースティティア(またはテミス)とネメシスに追われている姿。ネメシスは剣と轡を手にしています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。6月になってから毎日蒸し暑く、いきなり夏がやってきたようです。
全国的にはまだ梅雨明けしていないようですが、気温と湿度の変化に身体がついていきません。これからさらに猛暑の日々がやってくるのを思うと、今から恐ろしくなります。
さて、先月ヴァチカン市国では教皇選挙「コンクラーヴェ」が行われ、世界中の注目が集まりました。ヴァチカンは世界で最も小さい国でありながら、キリスト教カトリックの総本山として、ヨーロッパと世界に大きな影響力を有しています。
イタリアにはヴァチカンと並んでもうひとつの小さな独立国があります。
イタリア半島中東部のティターノ山に築かれた「サンマリノ共和国」です。
ヴァチカンがローマ・カトリックの総本山であるのに対し、サンマリノは「世界最古の共和国」として知られています。
その起源は4世紀初頭の古代ローマ帝国時代にまで遡り、初期キリスト教の聖人であるマリヌスが深く関わっています。
サンマリノ共和国は国土面積がおよそ61.2平方キロメートル、静岡県熱海市とほぼ同じであり、ヴァチカン、モナコ、ナウル、ツバルに続いて世界で5番目に小さな国です。
首都は標高739メートルのティターノ山山頂に築かれたサンマリノ市であり、その周囲の街も含めた人口は34,000人ほど。イタリアの中に存在する内陸国であり、宗教と言語はイタリアと同じです。政治体制は古代ローマに倣い、60人制の大評議会、そこから選出される二名の執政官(半年任期)が元首となります。
サンマリノ(San Marino)の国名は、かつてティターノ山に隠遁したキリスト教の聖人マリヌスに由来します。
聖マリヌス
(バルトロメオ・ジェンナーリ作)
マリヌス(Marinus, 海の意)は275年頃、ローマ帝国ダルマティア属州のアルバ島(*現在のクロアチア,ラブ島)に生まれ、石工職人として働いていました。当時ローマ帝国中に広まっていたキリスト教の洗礼を受け、熱心なキリスト教徒になりました。
当時、同じくダルマティア出身のローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)によるテトラルキア(四帝分治)体制が始まり、ドミナトゥスと呼ばれる専制的な政治体制が強化されていました。
その過程で皇帝個人を神格化し、権威を集中させる個人崇拝を推進。世俗の人間である皇帝への礼拝や供物を拒否するキリスト教徒たちは国家の敵として迫害され、各地で大規模な取り締まりが始まりました。
ディオクレティアヌス帝のフォリス銅貨
マリヌスはこうした弾圧の嵐から逃れるため、生まれ故郷のアルバ島を離れ、アドリア海の対岸であるイタリア半島に渡ります。上陸したリミニで司教ガウデンティウスの助けを得、助祭として働くことになりました。
リミニではかつて高い地位にあったキリスト教たちが、皇帝への供物を拒否したために迫害され、町の修繕など重労働に就かされていました。石工だったマリヌスは彼らと共に働き、経験と腕を活かして助けたと伝えられています。
助祭としての生活が定着したころ、ダルマティアからやってきたある女性がマリヌスの前に現れ、彼は自分と結婚する約束をしたと主張しました。マリヌスは否定しましたが、その女性がしつこく訴えたため、彼はリミニに近いティターノ山に逃れて身を隠すことにしました。
(*このことから聖マリヌスは不当に告発された者の守護聖人とされます)
ティターノ山に籠っていた期間、彼は石工職人として手仕事を行いながら、世俗を離れて瞑想を行いました。この隠遁生活は他のキリスト教徒の間にも密かに知られるようになり、やがて彼に付き従ってきた人々と共同生活をはじめました。こうして険しいティターノ山の地形に守られた、キリスト教徒の秘密のコミュニティが形成されました。
教会を建設するマリヌス
伝説によるとマリヌスはティターノ山を領有する未亡人フェリチータのため、夫の石棺を作製しました。その出来栄えに感動したフェリチータはキリスト教に改宗し、山をマリヌスに寄進したと云われています。
マリヌスは自ら石造りの修道院と教会を建設し、ここを終の棲家と定めました。これが301年9月3日の出来事とされ、サンマリノ建国の日として今も国家の祝日に定められています。
マリヌスは366年の冬に亡くなったとされ、その際に「Relinquo vos liberos ab utroque homine(=私はお前を両方の男から解放する)」と言い残したとされています。二人の男とは当時のローマ皇帝と教皇、聖俗の権威と解釈され、後にサンマリノが民主制と独立を堅持する根拠となりました。
中世のイタリア半島はローマ教皇領をはじめ、数多くの領邦や都市国家が分立し、サンマリノもその一国として存続しました。キリスト教徒の共同体から始まった国家でしたが、政体は自由を重んじる民主制を固辞し続けました。
隣町のリミニより人口が少なく、住民共同体の結束が保ちやすかったこと、また険しい山の上に築かれた内陸の小国に対し、侵攻するメリットが皆無だったことも独立を保てた要因でした。
ティターノ山
見晴らしの良い標高739メートルの頂上にはグアイタ塔があり、サンマリノの防衛を担いました。山の三つの峰にはそれぞれグアイタ、チェスタ、モンターレの塔があり、サンマリノ共和国の象徴として国章にも採用されています。2008年には「中世以来の独立共和国の継続を示す証」として世界文化遺産に登録されました。
18世紀末にイタリア半島を征服したナポレオンは、小国でありながら強大な軍事力を前に屈しようとしないサンマリノの姿勢に感服したと伝えられています。また、フランス革命の精神である自由主義と共和政を古来より保つ政体に感銘し、併合することなく独立を保証したと伝えられています。
その際、聖マリヌスに所縁深い隣町リミニをサンマリノ領として割譲する案が提示されましたが、サンマリノ議会はナポレオンの提案を拒絶し、あくまで中立を保つことを示したのです。
19世紀にはウィーン会議を経てヨーロッパ列強諸国に中立と独立が承認され、イタリア統一戦争では英雄ガリバルディを匿った御礼としてイタリア王国に組み込まれず、小さな独立国家として現在に至っています。
サンマリノは19世紀から独自のコインを発行していましたが、製造はローマ造幣局が請け負い、その価値と規格はイタリア・リラと同じでした。
サンマリノおよびヴァチカンではイタリア・リラが法定通貨として流通し、また一方で両国が発行したコインもイタリア国内では有効とされました。そのためイタリアではお釣りの中にヴァチカンやサンマリノのコインが混じって流通するケースも度々見られました。
そのデザインは聖マリヌスの姿はもちろん、共和国の精神である自由や正義を象徴する寓意などが表現されています。
サンマリノ 1875年 10チェンテジミ青銅貨
国章にはティターノ山の三つの峰にあるグアイタ、チェスタ、モンターレの塔が表現されています。それぞれにはダチョウの羽を模した金属製の風見鶏があり、コインでもそれらが確認できます。
サンマリノ 1935年 10リレ銀貨 正義の女神ユースティティア
サンマリノ 1935年 5リレ銀貨 自由の女神リベルタス
第二次世界大戦後は独自コインの発行を停止していましたが、1970年代に世界的なコイン収集ブームが到来すると、新たに通貨局を設立し、収集家向け記念コインの事業を開始しました。
サンマリノが発行する多種多様な記念コインと記念切手は、資源の無い小国の重要な外貨収入源のひとつになっています。
サンマリノ 1975年 500リレ銀貨
サンマリノ通貨局の設立を記念して発行。聖マリヌスの石工仕事が表現されたデザイン。
サンマリノ 1979年 500リレ銀貨
三つの塔を持つ聖マリヌス像と、トリガ(三頭立て馬戦車)を駆ける自由の女神リベルタス。サンマリノ共和国を体現するデザイン。
サンマリノ 2000年 10000リレ銀貨
サンマリノの建国1700周年を記念して発行。冒頭のバルトロメオ・ジェンナーリが手掛けた肖像を基に表現された聖マリヌス像。
サンマリノは中立保持の観点からヨーロッパ連合(EU)には加盟していませんが、現在でも独自デザインのユーロコインを発行しています。現代では自国だけでなく世界中の記念意匠も多く取り入れ、コインコレクター向けの記念コインを多く発行しています。
1700年前に一人の石工が開いた小さな国は、今では世界中のコインコレクターの間ではお馴染みの国として知られています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
五月晴れの日々が続き、初夏の陽気も感じられる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ゴールデンウィークは過ぎましたが、梅雨入り前のお出かけ日和はまだ続く模様です。
今月末はワールドコインギャラリーが入る東京・御徒町の商業施設 2k540にて、今年も『2k540ファンファーレ~made in 高架下~』を開催します。
↑クリックすると特設告知ページ
■イベント名:2k540ファンファーレ~made in 高架下~2025
■開催日時:5月23日㈮、24日㈯、25日㈰
■開催時間:11:00~19:00
期間中は以下のイベントを予定しております。
☆蚤の市
2k540内の各お店で使用していた道具や加工の素材、サンプル商品等、ものづくりに関する品々を販売。普段販売している商品とは異なる、この期間限定の掘り出し物が出揃います。
各お店前に並べてあるアイテムの中から、お宝を探し当ててください!
ワールドコインギャラリーの店頭にも色々と掘り出し物を並べる予定です。
(*エコバッグ持参をオススメします)
☆2k540クイズ&スタンプマップ
配布されている専用マップにスタンプを押すスタンプラリー。各店のスタンプはそれぞれのお店に設置してあります。
マップには2k540にまつわるクイズもあり、クイズに答えてキーワードを完成させると、オリジナルグッズをプレゼント!!ぜひご参加下さい!!
☆作業場見学
ものづくりのお店が立ち並ぶ職人の街 2k540の、普段見ることのできない「ものづくりの現場」をお見せします。各店の素敵な商品が形になる過程を、ぜひ見に来てください。
(*各お店ごとに企画)
☆2k540 商品 idea コンテスト
アイデアを商品化する、参加型コンテストを実施します。お客様と作り手の発想で新しい商品が生み出されます。
今年のテーマは"LOVE"!皆様のアイデアを募集中です!!
☆想いを"贈る" デコレーションワークショップ
2k540のさまざまなお店から提供されたカードやタグ、ワンポイントアイテムを組み合わせ、オリジナルのメッセージカードを作成。
大切な方への特別なメッセージカードを作れるワークショップです。
参加無料ですのでぜひご参加下さい!
※一部有料素材あり
さらに東京都内各所で開催されている2k540の建築や高架橋に関する展示コーナーも併設!こちらもぜひお立ち寄り下さい。
展示期間:5月17日-25日
同じ日程で台東区南部エリアのものづくり&街歩きイベント「モノマチ2025」も開催されます。
モノマチは製造・卸の集積地としての歴史をもつ御徒町~蔵前~浅草橋にかけてのおよそ2km四方の地域にて開催されます。
100を超えるアトリエや店舗、事務所、工場が参加し、限定ワークショップや特別販売が予定されています。繊維や皮革、ガラス、金属から食品、火薬、木材、陶器、花木、紙、樹脂などなど、扱う素材も多種多様です。
その他、お店ごとにスペシャルイベントやワークショップ、フードショップ等々が企画されています。詳しくは各お店のSNSなどでチェックしてみてください!
ものづくりやまち歩きに興味のある方はオススメのイベントです。皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております。
皆様にとって素敵な五月晴れの週末になることを願っております。
東京都台東区上野5-9 (JR秋葉原駅~御徒町駅間の高架下)
当店は2k540内の北端(JR御徒町駅寄り)に位置しております。遊びに来た際にはぜひお立ち寄りください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
ゴールデンウィークが始まりました。今年の連休は途中に間を空けるため「大型連休」とはいかないようですが、寒くなく暑過ぎず、お出かけには最適な気候です。
水曜日が定休日のワールドコインギャラリーも、4月30日(水)は通常営業(11:00-19:00)いたします。
連休中は休まず営業いたしますので、都内にお出かけの際はぜひお立ち寄り下さい。
今回は100年前のドイツで発行された磁石にくっ付くコイン、鉄製コインをご紹介します。
古代リディアで本格的なコインが発行されて以降、その素材は金・銀・銅といった貴金属が用いられてきました。ギリシャのスパルタでは他国との交易を制限するため、鉄製の串が貨幣として用いられましたが、大半の国では「貨幣=貴金属」という原則が守られていました。
日本でも江戸時代に鉄製の寛永通宝が製造されたことがありましたが、あくまで銅の代用として発行されたものでした。粗雑で錆びやすいため市中での評判は悪く、鐚銭扱いされ銅銭よりも低い価値で受け取られていたようです。
鉄は先史時代から武器や農耕、建築など工業分野で用いられた金属でしたが、錆びる特徴から貴金属としては扱われず、貨幣の素材としては不向きとされてきました。
1914年に勃発した第一次世界大戦はヨーロッパ諸国の総力戦として知られ、国民生活の隅々に至るまで戦争の影響を受けることになりました。
特にドイツではあらゆる資源が政府の管理下に置かれ戦争に動員されたことにより、物資の不足とインフレーションが顕著に現れていました。
コインの素材である銅やニッケル、銀は軍需材として回収され、代わって紙幣や鉄などの卑金属の貨幣が登場しました。ドイツ西部のルール地方は伝統的に鉄鋼業が盛んな地域であり、良質な鉄を多く生産する基盤があったことから、鉄をコインの素材として利用する研究も進められました。
戦況が厳しさを増した1915年以降、5ペニヒや10ペニヒなど小額のコインが鉄製となり、本格的に流通市場に投入されました。
ドイツ軍東部総司令部発行 1916年 3コペイカ鉄貨
ドイツ軍が占領したロシア帝国領(*現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト三国に相当する地域)で流通させる為に発行。ベルリン造幣局とハンブルク造幣局で製造され、鉄錆による腐食を防ぐためニッケルメッキが施されています。
戦争勃発直後から、資産を守るため銀貨や銅貨が退蔵されるようになりました。そのため慢性的に小銭が不足し、市民の日常取引にも支障が生じるようになりました。
こうして市町村単位で発行される地域通貨「ノートゲルト(Notgeld)」が登場します。
ノートゲルトは帝国銀行(ライヒスバンク)の認可を得て自治体レベルで発行され、各地域内でのみ有効とされました。額面は基軸通貨マルクの補助単位であるペニヒであり、あくまで釣銭不足を解消するための代用品として発行されました。
類似の事例は18世紀末~19世紀初頭のイギリス(トークン=代用貨幣)でもみられましたが、ドイツの場合は紙幣からアルミニウム、鉄、錫、陶土、革、布によるコインなど多種多様な素材で発行された点が特徴です。
1918年に戦争が終結しても経済の混乱は収まりをみせず、国家財政の破滅的状況は通貨マルクの価値を下落させていきました。1919年以降ノートゲルトの発行は企業や商店、個人事業主レベルでも行なわれるようになり、多種多様なノートゲルトが登場するようになります。国家による制約がないため、デザインは地域性とユーモアに溢れ、困難な時代であることを感じさせないほど自由でした。
ヴェストファーレン州立銀行 1921年 5マルク アルミニウム貨
ニュルンベルク 1921-1922 20ペニヒ 八角形アルミニウム貨
アルテンブルク市 1921 1マルク陶貨
表面にはマイセン窯元のマークが入っています。後に第二次世界大戦末期の日本でも陶貨の製造が計画され、この時代のドイツ陶貨を参考に研究が進められました。
初期に製造されたノートゲルトコインは主に鉄を素材として用いていました。コストと耐久性を考慮すると実用的な素材であり、小額コインとしては有用でした。また戦後は破損した鉄兜や兵器がスクラップされて民間に払い下げられたこともあり、比較的入手しやすい金属でした。鉄錆びを防ぐためのコーティングは戦時中から確立されていたため、各自治体も利用しやすかったと考えられます。
ノートゲルトの多くは国立の造幣局ではなく民間の企業によって製造されていました。鉄貨は金属加工業者が製造を請け負い、発行元の自治体に納入していたようです。
ボン市 1920年 25ペニヒ鉄貨
ボン市出身の音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の生誕150周年を記念して発行。ドイツ西部リューデンシャイトの金属加工クーゲル&フィンク兄弟商会(*主にベルトのバックルや兜を製造)が10ペニヒ、25ペニヒ、50ペニヒの各額面(*各500,000枚)を製造しました。
ベートーヴェンの異なる肖像タイプが他に3種確認されています。鉄錆による腐食を防ぐため、コイン全体にはニッケルメッキが施されています。
流通目的より記念コインとしての性格が強いノートゲルトの一例。この鉄貨は国によって発行されたものではありませんが、歴史上初めて音楽家を表現したコインとされています。
女神が携えている棒はヴォルフスアンゲル(=オオカミ用の罠)と呼ばれる二重鈎であり、マンハイム市の伝統的な象徴として標石や紋章に表現されました。
デューレン市 1919年 1/2マルク鉄貨
炭鉱夫が表現された鉄貨。鉄製のコインに相応しいデザイン。無骨ながらも堂々とした人物像です。対して文字銘は可愛らしいフォントです。
メンデン市 1919年 50ペニヒ鉄貨
メンデン市の紋章が表現された鉄貨。デザイン、刻印と共にコインらしい重厚さと細かさです。
ザクセン州ガルデレーゲン市 1921年 50ペニヒ鉄貨
オットー・ロイター(1870-1931)は当時活躍していた喜劇俳優・歌手でした。存命中のコメディアンが表現された珍しい鉄貨です。流通目的以上に、収集市場を意識して製造されたと考えられます。
ドイツでは古くからコイン収集が行なわれ、食べるものに事欠く状況であっても収集市場は存在しました。収集家たちはドイツ各地で発行されるノートゲルトに早くから注目し、額面以上の付加価値をつけて古銭商や書店を通じて購入しました。
こうした状況は一般市民にも知られ、ノートゲルトは手軽な投機対象としても購入されるようになりました。給与として受け取るライヒスバンク発行のマルク紙幣は日々価値が目減りしていくため、一刻も早く現物に変えておく必要がありました。ノートゲルトは中央銀行発行の紙幣よりもましな資産とみられていたのです。
すると珍しいデザインや素材によって作成されたノートゲルトが続々と登場し、額面以上の価格で販売されるようになったのです。それらは最初から収集家向けに販売する目的で発行されたため、実際に流通したものはほとんどありませんでした。
多種多様なノートゲルト紙幣
マッチ箱のラベルを思わせるカラフルさであり、印刷や文字の装飾、デザインはポスターのイラストのようです。
1923年1月にフランス・ベルギー軍が賠償差し押さえのためルール地方を占領すると、ドイツの物資不足は深刻化し、インフレーションは驚異的なスピードで進行しました。物価は毎日改訂され、人々は札束を抱えて買い物に出なればなりませんでした。ハイパーインフレーションの進行は天文学的指数を示し、マルク紙幣は紙くず同然となったのです。
当初は地域通貨として役割を果たしたノートゲルトは、もはや通貨としての価値を持たなくなっていました。
そして1923年11月に新通貨レンテンマルクが発行されるとノートゲルトは通用禁止となり、新規発行も行われなくなりました。多くのノートゲルト紙幣は古紙として回収され、鉄貨も多くがスクラップにされてしまいました。
鉄貨も発行当初は補助貨幣としての役割を果たしていましたが、社会の劇的な変化によってわずか数年で価値を失いました。鉄で作られたコインは100年を経て錆びつき始めていますが、そのデザインは苦しい社会背景を感じさせないほど多種多様です。困難な時代にあっても、人々が芸術性や文化を大切にしていた証といえるでしょう。
ノートゲルトはドイツのコイン収集家を中心に人気があり、今も数多く取引されています。特に鉄貨は実際に流通したノートゲルトとして、当時の世相を反映する素材として、歴史的な価値も再認識されています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 11:15 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
春らしい陽気になったと思えば、急に気温が下がったりと、三寒四温は継続中です。
それでも梅から桜へと移り変わり、花の咲き加減など、日々の変化を楽しめる時期になりました。今年も四分の一が過ぎ、季節の移ろいを感じます。
今回はコインの歴史を語る上で欠かせないリディアのクロイソス王についてご紹介します。
個々のエピソードは主にヘロドトスの『歴史』を準拠にしています。
高校世界史にも登場するリディア王国は、世界史上初めて金属貨幣=コインを発行した国として知られています。特にクロイソスは初めて金貨・銀貨を発行した王とされています。
リディア王国は現在のトルコ西部、サルデス(*現在のマニサ県サルト)を首都として発展しました。
アッシリア帝国崩壊後のオリエント四大国(エジプト,新バビロニア,メディア,リディア)の一角を占め、紀元前7世紀には小アジアの大半を影響下に置きました。
最盛期のリディア王国版図
(Wikipedia)
ヘロドトスの『歴史』によれば、リディアはサルデスを統治したリュドス王の名に由来しており、その後は神話上の英雄ヘラクレスを始祖とするヘラクレス朝が500年以上にわたって統治したとされています。
ある時、ヘラクレス朝のカンダウレス王は妃の美しさを自慢するため、臣下のギュゲスに寝所に忍んでその裸体を見るよう命じました。しかし妃に見つかってしまい、激怒した妃から今すぐ自死するか、王を殺して王位と自分を我がものにするかを迫られました。こうしてカンダウレス王を殺したギュゲスは妃を妻とし、新たなリディア王になったと語られています。
カンダウレス王と王妃とギュゲス
(ウィリアム・エティ, 1830)
こうして紀元前680年頃から始まったメルムナス朝の時代、リディアは周辺諸国や諸民族との戦いを通じて大国化し、古代オリエントの一角を占める帝国として繁栄しました。その過程でリディアでは交易、商業が盛んになり、莫大な富を蓄えるようになったのです。
首都サルデスを流れるパクトロス川では古くから砂金が採れ「金の砂を運ぶ川」として知られていました。近郊のトモロス山でも金が産出され、これがリディア王国の富の源泉になっていました。集められた砂金は溶かして重量ごとに分けられ、領内での商取引から周辺諸国との交易、神殿への献納、傭兵への報酬として用いられました。
そしてアリュアッテス王治世下の紀元前600年頃、この金塊に発行者である王の象徴としてライオンの刻印が押されるようになりました。これが歴史上における「コイン」の始まりとされ、世界史の教科書でも紹介されています。
表面にはライオンの頭部と太陽、裏面には打刻跡とみられる陰刻印があります。ライオンの頬にはバンカーズマーク(Bnaker's mark)が打たれています。
「スターテル」とは古代ギリシャ語で「重さ」を意味し、ドラクマやオボルが登場する以前の基準となる貨幣単位でした。リディアでは最大のコイン(約14.2g)を1スターテルとし、そこから1/2、1/3、1/6、1/12、1/24、1/48、1/96と重量によって細分化されています。最も小さい1/96スターテルは0.15gほどしかなく、極小の粒のようですが、それでもライオンの刻印はしっかりと打たれています。
ここまで細分化されているのは、市中の小規模な商取引でも用いられたことを示し、貨幣経済が確実に定着していたことを表しています。
ヘロドトスは『歴史』の中で「リディア人は金属貨幣を製造・使用した最初の民族であり、小売制度をはじめたのも彼らであった」と言及しており、コインの発明と貨幣経済の発展を評価していました。
なお、1スターテルは傭兵の一か月分の給与に相当したとされ、相当な価値を有していたことが分かります。
サイズ:7mm 重量:1.13g
発行者を示して信頼性を上げた最初のコインでしたが、流通上で問題もありました。パクトロス川やトモロス山から採れる砂金は琥珀金、エレクトラム(Electrum)と呼ばれる金銀の自然合金であり、その配合割合はおよそ30%~70%程と、大きなばらつきがありました。現存しているエレクトラムコインの表面には、当時の検査跡であるバンカーズマーク(Bnaker's mark)がみられるものが多くあります。
さらに重量によって細分化されているため、小規模な商取引において端数のやりとりには不便も生じていたと考えられます。
アリュアッテスの息子であるクロイソス(在位:BC561-BC547)が王位を受け継ぐと、その支障を解消するため重大な改革が行なわれました。
それまでのエレクトラムから金と銀を分離し、純度98%の金貨と銀貨をそれぞれ発行し始めたのです。
リディア王国 BC553-BC550 スターテル金貨
(サイズ:16mm 重量:10.76g)
クロイソスの時代には金銀を分離する方法が確立され(*塩と一緒に800℃程まで熱し、純度の高い金を採り出したと考えられている)、その重量に対する交換比率も定めたとみられます。
(*スターテル金貨1枚は同重量のスターテル銀貨13枚ほどに相当か)
金属の種類を分けることによって価値の差=額面を明示したことは、流通貨幣体系の基本であり、経済の歴史上画期的な転換点でした。
当時はまだ銅貨は造られず、最も小さい貨幣は1/12スターテル銀貨(約0.9g)でした。それでもエレクトラム貨の時代よりは大きくなっており、使いやすさはわずかに向上しています。
リディア王国 BC561-BC546 1/3スターテル銀貨
(サイズ:13mm 重量:3.44g)
刻印も従来のエレクトラム貨と区別するため、ライオンに加えて牡牛も表現されるようになりました。この牡牛はリディア王国の肥沃=富そのものを象徴していると考えられています。ここに国家の権威(=ライオン)と物質的価値(=牡牛)が一体となった、後世にまで続くコインの形が出来上がったのです。
高純度の金銀素材と、それを保障する王の刻印はリディア国外でも信用を得、通商取引で広く受け入れられました。サルデスはオリエントとエーゲ海域(ギリシャ)を繋ぐ要衝にあり、人と富の交流はより一層盛んになりました。安定した通貨の発行は新たな富を呼び寄せることになり、リディアの国力を高めることになったのです。
クロイソス治世下でリディアは経済大国となり、莫大な富を得ることになります。クロイソス王は大富豪・大金持ちの代名詞となり、現在でも英語やフランス語の慣用句として定着しています。
ヘロドトスの『歴史』で言及されるクロイソス王は金持ちであることを誇示し、デルフォイのアポロ神殿やエフェソスのアルテミス神殿に豪華絢爛な献納を行なってその富を示したことになっています。実際、エフェソスの神殿遺跡からはリディアで発行されたとみられる初期の貨幣が多く出土しています。
一方、各地で出土するコインの中には、ライオン&牡牛の意匠はそのままに、銅素材に金メッキや銀メッキを施したものが発見されています。
貨幣の誕生とほぼ同時に、贋金造りの歴史も始まったことを示しています。
銅素材に銀メッキが施されたスターテル銀貨
一部が剥落して下地の腐食した銅が露出している。
莫大な富を得、権勢を誇ったクロイソスはリディア最盛期の王とされますが、同時にリディア最後の王となりました。
紀元前550年に隣国メディアがアケメネス朝に征服され、大王キュロス2世(在位:BC559-BC529)の下でペルシアが統一されました。キュロス大王がその先にある豊かなリディアに手を伸ばすのは必至でした。
クロイソス王はデルフォイにあるアポロ神殿に多額の献納を行い、神託を受けて戦争の行く末を計ろうとしました。神官の答えは「クロイソス王がハリュス川を越えれば帝国が滅ぶ」というものであり、クロイソス王はペルシアに勝てると信じて戦うことを決意した、と云われています。
しかしこの答えはリディアとペルシアどちらとも解釈でき、結果がどうなっても責任を回避できるものでした。
クロイソス王は豊富な金貨銀貨を用いて傭兵を集め、さらにスパルタとエジプト、新バビロニアにも援軍を要請してペルシアとの戦いに挑みました。
紀元前547年のプテリアの戦いにおいて両軍は甚大な被害を被り、リディア軍は一旦サルデスに引き上げました。クロイソス王は冬になればペルシア軍は進軍を止め、その間にエジプトやスパルタからの援軍が到着すると考えていました。しかしクロイソス王の目論見は外れ、冬が到来しても援軍は来ず、キュロス大王はそのままサルデスに向けて進軍を続けました。
紀元前547年12月、サルデス近郊のテュンブラ平原で行なわれた会戦で、ペルシア軍は兵糧を運んでいたラクダを前面に配置。リディア軍が誇る騎兵の馬はラクダを恐れて混乱し、その隙を突いて弓兵が矢を次々と射掛けました。
テュンブラの戦い
敗れたリディア軍はサルデス城に立て篭もって抵抗を続けましたが、14日間の包囲の後に陥落。こうして神託通り小アジアの「帝国」リディアは滅び、クロイソス王の栄華も終わりを迎えたのでした。
ヘロドトスの『歴史』には、その後のクロイソスについて興味深いエピソードが語られています。
サルデスに入城したキュロス大王はクロイソスを捕らえ、市の中心で火刑に処そうとしました。いざ火が放たれたとき、クロイソスがアポロ神に祈りを捧げると雨が降り出し、火を消し止めました。それを見たキュロス大王はクロイソスの縄を解いて助命したと伝わります。
火刑に処されるクロイソス王
(紀元前5世紀初頭, ルーヴル美術館所蔵)
クロイソス王の肖像は現存せず、全て後世の想像で描かれています。
またペルシア兵に略奪される王宮を見ても動じず、その理由をキュロス大王が尋ねると、「負けた今となっては私の財産ではない。全てあなたのものになった。あの者たちはあなたの財産を奪っているのだ」と答えました。機知に富んだクロイソスに感心したキュロス大王は助命するのみならず、厚遇で迎え入れて相談役に抜擢したとされています。
ヘロドトスが伝えるエピソードはあくまで伝承であり、歴史的な事実とは異なるとみられています。しかしクロイソスが生き延びてキュロス大王の知恵袋となったとする希望も捨てきれません。
事実、リディアを征服したペルシアはサルデスでの金貨、銀貨発行をそのまま継続しています。デザインも変えず、重量もほとんど変化しませんでした。自らの治世の証である金貨・銀貨の恩恵をリディアに残すため、クロイソスが進言したのかもしれません。
この後、アケメネス朝ペルシアはリディアの貨幣制度を基にしたダリック金貨・シグロス銀貨を発行し、強大な中央集権力を背景に帝国全土に行き渡らせました。こうして「貨幣」はオリエント世界に広く普及していきます。
また、リディアの影響下に置かれていたエーゲ海沿岸の経済活動を通じて、ギリシャにも貨幣製造が伝播し、やがて各都市で多種多様なコインが造られるようになります。こうして地中海を通して西方のヨーロッパにも貨幣経済は浸透、発展していきました。
リディアが生み出したコイン、そしてクロイソス王の栄華を支えた金貨・銀貨の登場は、現在を形作る貨幣経済の始まりでした。現存するリディアコインは、人類史の重要な一歩の証拠として大切にされています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が明けてあっという間に3週間が経ちました。お正月気分もだいぶ薄れてきました。
寒さは日に日に厳しくなっており、最近はインフルエンザが猛威を振るっています。つい2年ほど前まではコロナ対策一色でしたが、すっかり遠い過去の出来事のようです。
くれぐれも油断せず、新年の最初の月を健やかに過ごしていきましょう。
今年は巳年ということで、蛇が表現された古代ギリシャをご紹介します。
元旦の挨拶でご紹介したコインは、ローマ帝国統治下のエジプトで発行された4ドラクマ貨でした。コインにはアガトダイモンと呼ばれる神話上の大蛇が表現されています。
表面はネルヴァ帝(在位:AD96-AD98)、裏面にはアガトダイモンが表現されています。このコインは属州都市アレクサンドリアで造られた低品位銀貨であり、エジプト属州内で流通しました。
アガトダイモンは幸運と健康の神とされ、ギリシャでは蛇の姿で表現されました。ローマ時代のアレクサンドリアではエジプトの神シャイと同一視されるようになり、豊穣や幸運、富を象徴する持物と共に表現されています。
古来より蛇は神秘性を帯びた生物として特別視され、古代ギリシャでは脱皮する姿から再生の象徴と捉えられていました。しかし地中海地域にもコブラをはじめ、毒性を有した蛇が分布しており、人間にとって恐るべき存在でもありました。
小さいながら人間の生死も左右する足のない生物は、神話世界の物語に度々登場します。旧約聖書の失楽園のエピソードでは狡猾と邪悪の象徴のように描かれていますが、ギリシャ神話では神々の使いとして登場しています。
その姿は、当時各地で発行されていたコインにも多く表現されています。
ローマ帝国 エジプト属州 4ドラクマ
同じくエジプト属州のアレクサンドリアで発行された4ドラクマ貨には、ハドリアヌス帝(在位:AD117-AD138)の肖像と、蛇に牽かせた車に乗るトリプトレモスが表現されています。
トリプトレモスは豊穣の女神デメーテールの使者とされ、二匹の大蛇に牽かせた車に乗って空を飛び、世界中に農業を伝播したとされています。
通常ギリシャ芸術では大蛇に翼がつけられていますが、このコインでは翼は無く、代わりに頭部に冠を戴いています。
この特徴は古代エジプトの女神ハトホルにみられ、ハトホルと同一視されていたレネヌテト女神を示しているとみられます。レネヌテトは穀物と豊穣の女神であり、アレクサンドリアをはじめとするナイル川下流域のデルタ地帯の都市で広く信奉されていました。
またレネヌテト女神はコブラの姿で表現されることから、コイン上の蛇との共通性が指摘されています。
ローマ デナリウス銀貨 バッカス神/セレス女神
紀元前1世紀のローマで発行されたコインには、上の4ドラクマ貨とよく似た構図が表現されています。
バッカス(=ディオニソス)とセレス(=デメ-テール)はそれぞれ豊穣を司る神であり、どちらも蛇が象徴とされています。
デメーテールは地上で娘ペルセフォネを探している途中、エレウシスの王子トリプトレモスに出会い、彼に穀物の種子と蛇のビガ(二頭立て戦車)を与えて世界中に農耕を広めるよう命じたとされています。
リディア トラレス BC166-BC67 キストフォリ銀貨
キストフォリ銀貨は4ドラクマの価値に相当し、表面のCISTAE(籠)に由来する名称。蛇が這い出すこの籠は酒神ディオニソスの秘儀に用いられた神器とされ、周囲部はワインの神を象徴する葡萄の蔦で囲まれています。裏面にも絡み合う二匹の蛇が表現されています。
エフェソス BC39 キストフォリ銀貨
表面は小アジアを統治したマルクス・アントニウスとその妻オクタヴィア、裏面は籠の上に乗るディオニソス神と二匹の蛇。
小アジアを支配したローマはこのキストフォリ銀貨を各都市で大量に発行し、現地に駐屯する兵士への給与支払いに使用、その為ローマ支配下の小アジアではこのキストフォリ銀貨が広く流通しました。
ミュシア ペルガモン 紀元前2世紀半ば 銅貨
表面には医術の神アスクレピオス、裏面は聖石オンファロスに巻きつくクスシヘビ(薬師蛇)が表現されています。
脱皮=再生と捉えられた蛇は医術の象徴としてアスクレピオス神の従者となりました。当時各地に建立されたアスクレピオス神殿では、実際にクスシヘビが大切に飼育されていました。
伝承ではアスクレピオスが杖で蛇を叩いた際、仲間の蛇が打たれた蛇に薬草を与え回復させたことから、その蛇を杖に巻きつけて持物にしたと云われています。現在でもWHO(世界保健機関)をはじめ、多くの医療関係団体のシンボルマークとして、蛇が巻きついたアスクレピオスの杖が採用されています。
ローマ BC64 デナリウス銀貨 ジュノー女神/サルース女神
サルースは健康と衛生の守護女神とされ、アスクレピオスの娘ヒュギエイアと同一視されました。特にローマでは国家安寧の守護神として奉られたこともあり、共和政時代~帝政時代を通してコインに多く表現されています。
その姿は父神の従者であるクスシヘビに餌を与える姿であり、その属性を分かりやすく示しています。構図の違いはありますが、この組み合わせはほぼ全てのコインに共通して見られます。
ローマ帝国 AD74 デナリウス銀貨 ウェスパシアヌス帝/カドゥケウス
アスクレピオスの杖と並んで有名な杖はカドゥケウス(*ケリュケイオン)と呼ばれる伝令使の杖です。
伝令神ヘルメス(*マーキュリー)の持物であり、商業や交通の象徴とされました。アスクレピオスの杖と異なり、蛇は二匹巻きついています。もともとは二本の枝だったとされていますが、それが蛇に変わり、翼が付け足されたと考えられています。
カドゥケウスは通商を象徴していることから、ギリシャやローマのコインにも度々登場します。帝政ローマではウェスパシアヌス帝(在位:AD69-AD79)のコインにみられ、皇帝が帝国内の物流や商業、経済を重視していた表れと捉えられています。
ミュシア パリオン BC350-BC300 1/2ドラクマ銀貨 ゴルゴン
神秘性を有する蛇も、現実世界では恐れの対象であり、危険な生物としても見做されていました。
神話に登場するゴルゴン三姉妹のひとりメデューサは美しい髪を持つ美女でしたが、アテナ女神の怒りを買い、髪の毛を毒蛇に変えられてしまいました。
コインには舌を出して威嚇するメデューサの正面像が表現され、周囲部には多数の蛇がとぐろを巻いています。
怪物となったメデューサの顔を見たものは恐怖で石化するといわれ、英雄ペルセウスによって討ち取られた後は盾(アイギス)に取り付けられました。
この邪視の力は魔除けと捉えられ、古代ギリシャでは盾や鎧などの武具、神殿や家庭内の装飾、コインなどに多く表現されました。こうした正面像はゴルゴネイオンと呼ばれ、シルクロードを通じて日本にも伝わり、鬼瓦に発展したという説もあります。
エウボイア島 BC338-BC308 ドラクマ銀貨
コインには蛇を捕らえる鷲が表現されています。蛇を獲物=敵と捉え、打ち倒す相手として表されています。
よく似た表現は近現代のコインにも見られ、恐ろしい蛇を倒す存在としての勇ましい鷲が強調されています。
ドイツ帝国 プロイセン王国 1913年 3マルク銀貨
1813年 ライプツィヒの戦い100周年を記念して発行。裏面に表現された大蛇は邪悪の象徴、すなわち敵であるナポレオンを象徴し、それを捕えるのはプロイセンの国章である大鷲です。
メキシコ 1968年 25ペソ銀貨
メキシコシティ五輪記念コイン。国章の鷲は古代アステカ人が定住地を決める際、神託によって「サボテンの上で蛇を食べる鷲の土地」と告げられ、テスココ湖に浮かぶ島でその鷲を見つけて新首都テノチティトラン(*現在のメキシコシティ)を建設したという伝説に基く意匠。
ローマ BC49-BC48 デナリウス銀貨
類似の意匠はローマでも見られます。ローマ史上特に有名なこのコインは、内戦期にユリウス・カエサルの軍団によって発行されました。象が前足で蛇を踏みつける印象的な図像です。
象はユリウス・カエサルの軍団を示し、踏みつけられる蛇はその敵であるポンペイウス、および元老院派を象徴しています。カエサル軍はこの銀貨を兵士たちに配ることで、その士気をより一層高めたとみられます。
時に恐れられる蛇ですが、古来より再生や医療、生命力、金運上昇など神聖な力を秘めた生き物として世界中で特別視されてきました。
巳年である今年はどんな一年になるのでしょうか。蛇のように細く長く、新しく脱皮できるような年になると良いですね。
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なお、今月29日にはワールドコインギャラリーがあるJR高架下の商業空間『2k540』にて《特別ご招待会》を開催します。
通常は休館日の水曜日に、特別な時間をお過ごしいただけます。
当日は各店舗にて各店舗でお得なサービスをご用意しております。
ワールドコインギャラリーでは当日ご来店いただいたお客様限定、全商品定価より20%OFFでご提供いたします。
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≪2k540 特別招待会≫
【2025年1月29日(水) 12:00~20:00】
▼場所:2k540 AKI-OKA ARTISAN
東京都台東区上野5-9
JR山手線 秋葉原駅と御徒町駅間の高架下
▼入り口は秋葉原寄り、蔵前橋通り近くの「特別入場門」の一箇所のみです。
※受付終了 19:30
▼ご入場時には「特別ご招待会DMはがき」、または「下の画像を印刷した紙」もしくはスマホやタブレットでこの「ページ画面」を入り口で提示して下さい。
是非とも2k540、そしてワールドコインギャラリーに遊びにいらしてください。
皆様の御来店、心よりお待ちしております!
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
明けましておめでとうございます
昨年も当ブログをお読みいただきありがとうございました。篤く御礼を申し上げます。
本年もコインに関する様々な情報を発信していく所存です。古代~現代に至るまで、多種多様なコインが発行されています。コインの歴史は人間の歴史、ひとつでも多くご紹介できれば幸いです。
21世紀が始まって既に四半世紀が経過、ついこの前と思っていた改元も、令和になって七年目に入りました。2025年の本年はどのような出来事があるのでしょうか。
皆様にとって平穏で良い年になりますことを心より願っております。
都内に御用の際は、ぜひ当店ワールドコインギャラリーにお立ち寄りくださいますと幸いです。お待ちしております。
まだまだ寒い日が続きますので、どうか暖かくしてご自愛下さい。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
ローマ帝国 エジプト属州 4ドラクマ 神蛇アガトダイモン
(アレクサンドリア, AD96-AD97)
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
あっという間にクリスマス、年の瀬になりました。
寒さ厳しい日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。ついこの前まで猛暑、酷暑と言っていたのが遠い昔のようです。
今年は前年に引き続いて地金価格の高騰、ドル高傾向が続きました。純金1gは小売で15,000円超え、1ドルは150円超えが定着してしまったようにも感じられます。
もちろん金や為替の相場は世界の情勢に左右されるため、その先を見通すのは簡単ではありません。来る2025年にはどうなっているのか、なかなか予想がつきませんね。
コインの取引でもそれは反映されており、金と銀の高騰は金貨・銀貨の販売価格上昇に直結しています。昔つけた販売価格よりも、コインが含む地金価値の方が高くなっているなんてこともあるようです。
古代コインは希少性や保存状態など、アンティークとしての価値が価格に大きく反映されているので、地金相場の変動は本来あまり関係ないのですが、それでも徐々に相場が上がっているようにも感じます。
もちろん海外から輸入する場合、円安と関税は避けて通れませんが、それでも海外の市場で品薄傾向・値上がり傾向が続いていることも事実です。
現在はインターネットを通して情報を手に入れやすくなり、若い人も新規参入しやすい環境が整っています。専門的な内容の英語文章も簡単に日本語翻訳でき、その精度も年々上がっているように感じます。AIによる学習の恩恵ですね。
またSNSを通じて収集家同士がつながり、情報交換や共有が24時間できるようになりました。この傾向は分野や国を問わず、世界中どの収集市場でも起こっている現象であり、各分野・市場に変化をもたらしています。
新規参入者が多いと、入手しやすいコインが品薄になって価格が上昇するといった事例も多くなります。それまでは限られた空間で定められていた評価が、新規参入者が増えたことで再評価され、価値が見直されるようになっています。
今年沢山見かけたコインが、来年には姿を消す、といった状況もあるかもしれません。しかしこのトレンド予想もまた、地金相場や為替と同じく、なかなか読めないものです。
結局は現時点で興味のある分野、一目惚れしたコインを手に入れ、その時々で心から満足することが、一番楽しくお得な生活なのかもしれません。
今年も一年間、このブログを御覧いただき本当にありがとうございました。
何とか月一回の更新を続けられたのも、こうして貴重なお時間を割いてまでお読みいただいている方々のおかげです。
改めまして、心より御礼を申し上げます。
どうぞ皆様、素敵なクリスマスを、そして良い御年をお迎え下さい。
なおワールドコインギャラリーは12月25日(水)のクリスマスは通常通り営業しております。
年内の営業は12月28日(土)まで、年末年始はお休みをいただき、1月5日(日)から営業開始予定です。
皆様にとって素晴らしい年末年始になりますことを心から願っております。
マン島 1980年 50ペンス白銅貨
マン島で毎年発行されていた「クリスマス」コインシリーズ。ポブジョイミント社が製造し、世界中のコイン収集家に向けて販売されました。当時クリスマスをテーマにした記念コインはほとんど無く、その珍しさからクリスマスプレゼントとしても購入されました。額面は50ペンスで白銅貨、銀貨、金貨、プラチナ貨がそれぞれ製造されています。
毎年デザインが異なり、マン島の風景に溶け込む伝統的な交通機関がテーマになっています。クリスマスを祝う人々の中には、マン島の象徴であるマンクスキャットが隠れており、毎年その姿を探すのも楽しみのひとつでした。
マン島 1981年 50ペンス銀貨
マン島 1987年 50ペンス白銅貨
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:14 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
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