先週から連載しております”貨幣としての金”、今週は第二弾です。
今回は”金貨、銀貨の歴史”ということで、金貨・銀貨が世界の通貨として使用されるようになった歴史を紐解いていきたいと思います。
金貨、銀貨の歴史
西欧で金貨が比較的広く流通し始めたのはビザンチン帝国(トルコ)で、その勢力下の諸国にも流通しました。
また、中世になると地中海貿易でイタリアの各都市国家が金貨を使用するようになりました。中でも1252年のフローリン金貨(フローレンス)は近代貨幣史の幕明けを告げるものといわれています。また、イギリスでもペニー金貨が鋳造されるなど、やがてヨーロッパ中で金貨が使用されるようになりました。
しかし、実際問題として金はあまりに稀少であり、銀および銅による貨幣が主に流通することになります。特に、西欧では銀貨が、中国では銅貨が広く用いられました。銀貨、銅貨は金貨の価値を基準に交換比率が決められ、これは金本位制といえますが、ヨーロッパでは金の産出が少なかったので、19世紀の中ごろまではむしろ銀本位制といった方が適切でしょう。
金・銀の比価は、中世までは1:13、近世は1:15くらいでした。
しかし、金貨、銀貨いずれも権力者たちによる私的な鋳造であり、品位、重量などはバラバラでした。したがって、これらが取引で使用される際、人々は品位と重量を調査しなければなりませんでした。(マルク、リラ、フラン、ポンド等は当時の重量を計る単位で、これが貨幣単位の起源である)。そこで取引に不便を感じた有力な権力者は、金貨、銀貨に刻印を打ってこれを保証するようになります。これが本位貨幣といわれるもので、17世紀のイギリスで初めて作られました。
こうした貨幣の信用性については、名高いのは『グレシャムの法則』です。―19世紀のイギリスでは、金貨や銀貨のいわゆる盗削が行われました。これは大量の貨幣を袋に詰め、これを振り回して中の金貨や銀貨をぶつけ、そのうちを剥落させるのです。こうしてできた金粉、銀粉を集めて溶解し、作った地金を造幣局に持ち込み、新しい金貨、銀貨に交換してもらう方法です。人工的に剥落させられて重量の減った貨幣も法定通貨として流通したので、人々は重量の足りない貨幣ばかり支払いに使われるようになり、市場には悪貨ばかりがはびこるようになったのです。ここから「悪貨は良貨を駆逐する」という有名な法則が生まれました。
金と銀の複本位制から金本位制になったのは、1816年イギリスの「貨幣法」からです。イギリスはこの法律によって鋳造された「ソブリン」というポンド金貨(重さ約8グラム、純度11/12)だけを認めることになったのです。イギリスに続いて19世紀後半から西欧各国とも金本位制をしきましたが、これは1800年代の中期~後期にアメリカ、カナダ、オーストラリア、南アフリカ共和国で次々に金鉱が発見され、大量の金が世界に出回ったこと、また当時の貿易の中心国がイギリスで、イギリスの貨幣制度に合わせた方が取引がスムーズにできることなどの理由によります。
なお、今日の金貨には、大別して次の3種類があります。
1)発行国の法定貨幣として、額面が表示され、実際に流通しているもの。
2)地金型貨幣として、額面は表示されず、含有する金の量を表示したもの。
3)記念金貨として何らかの行事に関連して国家が発行するもので、額面が表示されたもの。実際に流通もするが、退蔵されることが多い。天皇陛下在位60年記念金貨はこれにあたる。
また、貨幣―つまり銀行券のはじまりは、ロンドンの金匠によるとされています。金匠は当初は金細工商および両替商でしたが、その後、人々の貯財貨幣を預かるようになりました。金匠は預かった金の量を記した預かり証を相手に渡し、それを持ってくればいつでもその金額の貨幣と引き換えていたのです。やがて、金匠は預かった金の一部をほかの人に貸すようになり、今日の銀行業務を始めることになります。一方、預かり証も、金を預けた人から第三者の手に渡り、金を受け取る権利の譲渡が行われるようになります。この預かり証が市中に出回るようになり、銀行券(ただしいつでも金と交換できる兌換券)となったのです。1694年、イングランド銀行設立の際発行された銀行券の原理も、これと同じです。
なお、比較的遅く人類の文化に取り入れられたプラチナも、貨幣につかわれています。1826年~1845年、帝政ロシア時代(皇帝ニコライ1世)のルーブルコインです。15トンものプラチナが鋳造に供されましたが、これらのコインはすべて対外に支払用に充当され、ロシア国内では流通しなかったといわれます。
最近では1983年、英連邦マン島政府法定プラチナ貨「NOBLE」が発行され、法定通貨になっています。
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