今回で第三回をむかえます”貨幣としての金”ですが、今回で最終会となります。
前回は、世界での貨幣の歴史についてかきまして、今回は日本での貨幣の歴史を書きたいと思います。
それではお楽しみください。
日本の貨幣史
日本における貨幣の歴史は銅銭がもっとも古く、漢の開元通宝を模して作られた和同元年の和同開珎(708)です。これに続いて、初めての金貨、開基勝宝が天平宝字4年(760)に鋳造されました。
この金貨は寛政6年(1794)、および昭和12年に奈良西大寺付近で発掘されています。
その後、しばらくの間、わが国の貨幣は中国渡来の銅銭だけで間に合わせられました。室町時代、戦国時代になって、封建諸大名は部下への褒賞金や戦費に多大な貨幣を必要とするようになりました。しかし、当時使用されたものは、貨幣というよりは金や銀の塊で、それを適宜の大きさに切って使用したようです。
秀吉の時代になって、わが国にもようやく定型的な大判金、天正大判金が鋳造されました。これは縦17cm、横10cm、重さ165.4gで、純度は金73.8%、銀26.2%、世界最大の金貨です。
天下を統一した秀吉は、全国の金山・銀山を支配下におき、その産出に力を注ぎました。さらにこの秀吉の政策を推し進めた家康は、金座、銀座を設置して本格的な貨幣制度を確立しました。これは1両=4分、1分=4朱、という両・分・朱の4進法でした。
この頃のものでは、慶長6年(1601)の慶長判金、丁銀、豆判銀がとくに有名で、さらに三代将軍家光は銭座をつくり、銅銭の寛永通宝を発行、わが国の貨幣制度の統一をはかりました。
江戸時代も中期に差し掛かると、世の中が贅沢になり、南蛮貿易による輸入が増加しました。ところがわが国の貨幣制度の欠陥として品位を厳密に決めなかったこと、金銀比価が外国と無関係に立てられていたことなどから、外国との貿易においては貴重な大判、小判がスペインやオランダの安価な銀と交換され(日本の銀の交換比率は割高だった)、大量の金が海外へ流出してしまいました。
その結果、幕府は金貨の品位を次第に落とし、悪貨を乱発することによりインフレの要因をつくったのです。たとえば、元禄小判は純度57.4%で、慶長小判の67%しか金を含有していませんでした。こうした悪貨の最たるものは、幕末の万延小判で、重さわずか3.5g、純度56.8%というものでした。
明治新政府は、明治3年(1870)、造幣局をつくって近代的な金・銀貨の鋳造を始めました。明治4年『新貨条例』を公布して、円、銭、厘の十進法による貨幣制度を発足させました。金貨は20円など4種、銀貨は50銭など4種、兌換紙幣も明治22年、32年に発行されました。これは金銀複本位制といえますが、実質的には銀本位制でした。それが、明治30年に日清戦争の賠償金により金の準備ができ、『貨幣法』を施行して金本位制に移行させました。金貨は20円、10円、5円で、これらの貨幣は昭和初期までに約7300万枚発行されました。
なお、昭和61年には、天皇在位60年を記念して記念金貨(24金、重さ20g)が発行されましたが、わが国の金貨の発行は、昭和6年に金本位制を離脱して以来、55年ぶりのことです。
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