こんにちは。
まずは、2020年 東京オリンピック&パラリンピック開催決定おめでとうございます!!
久々の、明るいビッグニュースでしたね。
2020年の開催まであと7年ですが、これからの7年間はあっという間だと思います。
これからは開催成功に向けた準備期間となります。その間、少しでも明るい話題が増えて、東京のみならず日本全体が前向きな雰囲気になっていれば、それだけでも大きな意味があると思います。
さて、話が初っ端から脱線してしまいましたが、今回は地域別にみるギリシャコインの特徴に関する記事です。
「古代ギリシャ」と一言にいっても、その範囲はペロポネソス半島をはじめとした、現在のギリシャ共和国の範囲に限定されたものではありません。
古代のギリシャ人たちはイタリア半島、シシリー島、黒海沿岸、小アジア(現在のトルコ)等、広域な地域に移住し、植民都市を築いていました。即ち、「古代ギリシャ」という世界観には、地中海の東半分が含まれるのです。
それら植民都市は、独自のコインを発行し、交易や日常の経済活動において流通させていました。
今回から、それら植民都市等、古代ギリシャが影響を与えた地域のコインの情報を、各地の略史とともにご紹介致します。本日は、ケルトとイタリア半島、シシリー島で造られたギリシャコインに関してご紹介します。
それでは、よろしくお願いします。
地域別にみるコインの特徴①
中央ヨーロッパ及び小アジアのケルトコイン
Celtic Coins of Central Europe & Asia Minor
中央ヨーロッパ、特にライン川上流とドナウ川の地域に居住していたケルト民族は、マケドニア王が発行したコインを模倣して、かなりの量のコインを鋳造した。
これらのコインの大部分は紀元前3世紀及び紀元前2世紀に発行されたものであったが、いくつかのコインは紀元前1世紀まで発行され続けた。
ケルト民族が模倣したコインは、フィリップ2世、アレキサンダー3世等のコインに加えてタソス、ラリッサ、パイオニアン王国、タルソス、ローマ共和国の銀貨がある。
ケルト スターテル金貨(アレクサンダー3世のコインを模している。)
タルソスのスターテルを模倣したコインは、小アジアに渡り、紀元前3世紀前半にガラティヤとして知られる地域に移住したケルト民族によって鋳造された。
イタリア/ Italy
最初のコインは、紀元前530年頃に登場した。これらのコインは奇妙な造りで、表側の浮き彫りの模様が、裏側に凹型で大体正確に再現されていた。
このユニークなコインの造り方は、当時イタリアに住んでいた有名なサモス人の数学者ピタゴラス(紀元前582年~紀元前496年)が発明したと思われる。
政治史的にみると、紀元前の最後の数世紀間、イタリアはローマの支配下にあった。
ローマは、ギリシア植民地時代の初期には、エトラスカン帝国の南の辺境の植民地に過ぎなかった。
このティベル川沿いの都市が紀元前4世紀から拡大主義を採り始めた。当時、この動きの最終結果を予測できたり、信じた者はいなかったであろう。その後、およそ300年間でローマは全地中海の覇者となり、ハンニバルの攻撃が最終的に挫折した紀元前3世紀の終わり頃から、ローマはイタリアで最高の地位を獲得した。
ギリシャ諸都市のコインは、ローマの支配を受けて次第に消えていった。しかし、最初のローマの銀コイン、いわゆる“Romano-Campinian"ディドラクマは、南イタリアのギリシャディドラクマに代わるコインとして考え出され、ローマ政府の命令で操業していたギリシャの造幣所で造られたものである。
イタリア半島南部 レギオンのスターテル銀貨
(紀元前485年~紀元前481年)
表面は獅子の頭部を浮き彫りで刻印し、裏面は凹型で刻印されている。
シシリー / Sicily
シシリー島に設けられたギリシャの最初の植民地はナクソスで、紀元前734年頃にエウボイアから来たカルキス人によって築かれた。その後まもなく、シシリーの古代都市の中で最も大きな都市シラクサがコリントからの移民によって建設された。
元々この島にはシセル人・シカーニ人・エニシア人が住んでおり、エニシア人の中心都市はセゲスタとエリクスであった。フェニキア人は、ギリシャの植民が始まる前からシシリーの内政に介入していたようであるが、ギリシャがシシリーの西海岸への植民に失敗した紀元前580年からこの2つの勢力(フェニキアとギリシャ)の間の衝突が始まった。
紀元前6世紀の間、ギリシャ植民地は何事もなく繁栄した。紀元前485年、ゲラの僭主ゲロンがシラクサを征服し、ここに政権の中心を移した。この時から、紀元前5世紀の間中、シラクサ人は、シシリーのギリシャ人の間で優位な立場を享受した。
紀元前5世紀の後半、セリヌスとセゲスタが対立した。この際、セリヌスはシラクサに、セゲスタはアテネに援軍を要請した。以前からシシリー征服の野望を持っていたアテネは、この機に乗じてシラクサを攻撃した。
しかし、紀元前413年、スパルタとコリントの援軍を得たシラクサの城壁を前にして完全に敗北した。この戦いは、カルタゴに、セゲスタを援助する目的で上陸するという口実を与えた。その結果、カルタゴとシラクサの僭主ディオニソスの間で長く、決着のつかない戦いが行われ、結局、紀元前378年の和平合意で島を分割することになった。
紀元前317年、アガスクルがシラクサの僭主となり、シシリーで初めて“王”という称号を得た。アガスクルは、カルタゴとの戦いを再開し、北アフリカまで戦火が拡がった。アガスクルは、この賭けには失敗したが、シラクサでの地位は保つことができた。
シラクサは、ヒエロン2世(紀元前270年~紀元前216年)の統治期間中、ローマ帝国に、カルタゴに対しての軍事行動をするために有効な基地を提供した。戦争が終結してローマ帝国が得た戦果はシシリー島だけであった。
ヒエロン2世(紀元前270年~紀元前216年)
ヒエロン2世は、生きている間だけ領地の保有を許された。
紀元前212年、ローマは、シラクサを手に入れ、2年後にアクラガスを滅ぼしシシリー島全体がローマの支配下に入った。
シラクサ デカドラクマ貨(紀元前405年~紀元前400年)
シシリーのギリシャコインは、紀元前6世紀後半からナクソス・ザクレ・ヒメラ・セリナス・アラゴスの造幣所で鋳造が始められた。
シラクサが全盛であった紀元前5世紀、シシリーのコインは、他のギリシャコインの追随を許さない、芸術的華麗さの頂点に達したものとなり、同世紀の終わり頃、エウアイネトス・エウクレイドス・キモン等の偉大な芸術家が見事な作品を創り出した。
ヒメラ テトラドラクマ貨(紀元前409年~紀元前407年)
カルタゴは、紀元前4世紀の間、ギリシャと戦う傭兵の給与のために大量のテトラドラクマをシシリーで発行した。
このテトラドラクマのシリーズは、通常“シクロプニ貨”と呼ばれている。
一方、シラクサの王アガスクルは、大量の金属コインを造ったが、素晴らしい彫刻が施された非常に美しいものもある。
だが、紀元前3世紀の中頃にローマによる支配が進むと、コイン彫刻の芸術的レベルは急速に低下してしまった。ローマは、紀元前212年にシラクサが陥落した後、多くのシシリーの造幣所に青銅のコインを発行する権利を与えた。この青銅コインのシリーズは紀元前2世紀まで続いた。
本日はここまでとなります。
次回は、北ギリシャ、ペロポネソス半島等、ギリシャ本土各地に関しての内容をお送りする予定です。
お楽しみに!
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
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