こんにちは。
今週は台風が日本列島を通過し、朝晩が涼しくなってきたりと、いよいよ秋らしくなってきましたね。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、御身体には気をつけてお過ごし下さい。
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今回は初っ端から宣伝になってしまいましたが、今回は前回に引き続き、地域別にみるギリシャコインの歴史と特徴をお届けします。
本日はギリシャ世界の中心である、北ギリシャ(マケドニア等)、中央ギリシャ、ペロポネソス半島の略史と、そこで発行されたコインの特徴を御紹介致します。
それでは、宜しくお願い致します。
地域別にみるコインの特徴②
北ギリシャ/Northern Greece
紀元前8世紀から紀元前7世紀の間、ギリシャからの移民がマケドニアとトラキアの沿岸地域に定住した。
内陸部にはかなりの数の土着民族が住んでいたが、彼らはギリシャの諸都市と長期にわたって接触するうちに、部分的ではあるがだんだんとギリシャ化していった。
アイガイ市を中心とするマケドニア王国は、その初期にはほとんど影響力を持たなかったが、アレキサンダー1世(紀元前495年~紀元前454年)のもとで富と領土を大きく拡大した。
紀元前357年、フィリップ2世(紀元前359年~紀元前336年)は、紀元前436年にアテネ人が建設したパンガイオン鉱山近くの植民市アンフィポリスを占領し、マケドニア王国を精力的に拡張し始めた。
マケドニア王 フィリップ2世(紀元前359年~紀元前336年)
アレキサンダー3世(大王)の父でもある。
紀元前348年、フィリップ2世は、カルキディケ同盟の首都オリントスを滅ぼし、カルキディケ半島のギリシャ諸都市の勢力をついに打ち破った。
中央ギリシャ/Central Greece
ここでは、中央ギリシャ各地、各都市別の略史とコインを御紹介します。
アッティカ アテネ
ギリシャ諸都市の中で最もよく知られたこの都市は、紀元前510年の民主政府の樹立をきっかけに、有名な“フクロウ”(表面にアテナ神の顔、裏面にフクロウが描かれた「テトラドラクマ貨」)のコインの生産を開始した。
アテネ テトラドラクマ貨(紀元前5世紀頃)
(表面にはアテナ神の横顔、裏面にはフクロウが描かれている。)
このコインは、紀元前580年代に特に大量鋳造された。この時期は、ラウリオン銀山で莫大な量の鉱石が発見され、ペルシャとの戦いに備えてアテネ海軍の力を増強する時期と一致していた。
アテネは、ペルシャとの戦争に勝利した後、エーゲ海の覇者となって文化・政治の中心となった。しかし、紀元前431年から、紀元前404年まで延々と続いたスパルタとのペロポネソス戦争によって富をすり減らしてしまった。この戦争は、アテネの大敗で終わった。
アテネは、紀元前4世紀に再び繁栄を取り戻したが、かつてのような国際舞台における影響力を二度と取り戻すことはなかった。
アテネは、ヘレニズム時代にはマケドニアに、その後はローマに従属させられた。
アテネ パルテノン神殿
コリントス
コリントスは、古代ギリシャで最も豊かで重要な都市の一つで、ペロポネソス半島と中央ギリシャをつなぐコリントス海峡を支配することで富を得ていた。また、シラクサ・コルシカ・レウカス島等、多くの重要な植民都市の母市でもあった。
コリンシア コリントス スターテル銀貨
(紀元前375年~紀元前300年)
(直径は21mm、重さ8,58g 表面にはペガサス、裏面にアテナ神が描かれている。)
コリントスの造幣局は、アテネに敵対したペロポネソス戦争の期間を除いて、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて活気があった。
紀元前308年から306年まで、コリントスはエジプトのプトレマイオス1世の軍隊によって占領された。その後まもなく、コリントスで銀コインは生産されなくなった。
紀元前3世紀、コリントスはアカイア同盟に加わるが、その後ローマと争い、紀元前146年にローマのマシウス執政官によって完全に壊滅させられた。
エイギナ
アッティカとアルゴリスの海岸線の中間に位置する島国エイギナは、おそらく、ヨーロッパのギリシャ世界で初めてコインを鋳造した都市である。
エイギナの技術は、すぐにアテネ・コリント・エウボイアなどの主要な都市に伝わった。
約12,6gのディドラクマに基づくエイギナの重量基準は、クレタ・小アジア・ギリシャの広範囲の地域で採用された。
エイギナ スターテル貨
(紀元前475年~紀元前457年)
(表面には亀が描かれている。)
エイギナは、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて大きな影響力を保持したが、ペルシャとの戦争後はアテネの陰に隠れてしまった。その後、かつてのようなギリシャ世界で最も重要な商業都市という地位を、二度と得ることはできなかった。
紀元前456年、アテネがエイギナを征服し、その25年後に住民は島から追放された。しかし、紀元前404年のアテネの崩壊後、エイギナに返還された。
ボイオティア・テーベ
この大きな都市は、アテネの大敵であった。そして、ペロポネソス戦争の間はスパルタを支援した。後に、テーベは、以前の同盟国を打ち負かし、ギリシャで最も影響力のある国になった。(紀元前371年)
この地位は長続きせず、紀元前338年に、アテネとテーベの連合軍を決定的に打ち破ったマケドニアのフィリップ2世によって奪われてしまった。2年後、テーベは、アレキサンダー大王によって完全に壊滅させられた。
カツサンドラによって部分的に復興したが、その政治的影響力を再び取り戻すことはなかった。
テッサリア同盟
紀元前197年、ローマのフラミ=ウス将軍がマケドニアのフィリップ5世に対して圧倒的な勝利をおさめた後、コリントでギリシャ人の自由が宣言され、新しい自治発行コインの幾つかが鋳造され始めた。
テッサリアの名において発行されたコインは、おそらくラリッサで鋳造されたものであろう。
テッサリア スターテル貨(紀元前196年~紀元前27年)
ペロポネソス/Peloponnesos
ペロポネソス半島は、独自のコインをなかなか造らなかった。ペロポネソス半島の需要は、エイギナ島の造幣所が流通させた大量の銀のスターテルで十分だったのである。
紀元前5世紀になると、エイギナの重量基準(約12,6gのディドラクマスターテル)を基にしてペロポネソスコインを造り始めた。だが、オリンピックの祭りに関連して素晴らしいスターテルを鋳造したエリスの造幣所を例外として、単位の大きなコインは鋳造されなかった。
ペロポネソスのコインで、紀元前5世紀に最も使われたのは、“ヘミドラクマ”であった。
アカイア ヘミドラクマ貨(紀元前160年~紀元前146年)
(表面はゼウス神の肖像)
紀元前4世紀、ペロポネソスのコインは全盛期を迎えたが、世紀末にはこの地域はマケドニアの支配下に入ってしまった。
紀元前3世紀及び紀元前2世紀の間、多くの都市がアカイア同盟に参加し、規格化された同盟コインを生産したが、コリントが滅亡し、紀元前146年にアカイアがローマの州になると、ペロポネソスの銀コインの生産は途絶えた。
サッフォーとアルカイウス
(サー・ローレンス・アルマ=タデマ 画 1881年)
本日は以上となります。
次回は、現在のトルコにあたる「小アジア」の歴史とコインに関する内容をお届け致します。
お楽しみに。
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
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