こんにちは。
冷え込む日々が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
年が明け、1月も半ばになりました。寒い日々ですが、気分を前向きにして、頑張っていきましょう。
さて、今回から新しいシリーズを始めたいと思います。
新年最初の記事でもお伝えしましたが、古代ローマ時代の文化・風俗・文物等々に関する豆知識を、キーワードごとにご紹介していきます。
そのキーワードから拡がる、古代ローマ人達の豊かな日常生活について、少しでも感じ取っていただければと思います。
シリーズ第1回目である今回のテーマは「オイル」についてです。
よろしくお願いします。
古代ローマ人の日常①
・オイル
古代ローマ世界において、既にオイルはパン、塩、ワイン等と並ぶ基本食品の一つであった。
特にオリーヴオイルは最も一般的で、イタリア半島各地の荘園で働く奴隷にも支給されていた程であった。
現在では日本でも一般的になったオリーヴオイルであるが、既に古代ローマ時代には、イタリア半島や北アフリカをはじめ、地中海世界では定番の食用油であった。 オイルの品質自体には著しい差が見られたが、当時からサラダのドレッシングとして用いられたり、料理の仕上げの味付けに使われていたのである。
尚、オイルを絞られた後のオリーヴの実は、酢漬けやオイル漬けにされてオードブルとして用いられており、大変重宝されていた。
オリーヴの実
また、オリーヴオイルは単なる食用油としての用途以外に、民間の薬としても用いられていた。
オリーヴオイルは頭痛、口の潰瘍(口内炎)、止血、皮膚炎等、様々な症状を緩和させる効果があると信じられ、当時の医者も最良の手入れ用薬剤として多用していた。
また、古代ローマ人の生活にとって重要な入浴の際にも、オイルは必需品であった。
ローマ人は健康促進の為、公共浴場に入る前に体操を行うことがあった。この体操の後に、オイル(香油等)を体中に塗りたくることがあった。
体操によって流された汗と、外で付いた埃をオイルマッサージによって落とすためである。これは、現在のスパやエステと同じ感覚であるといえる。
また、この「垢落とし」の作業を入浴前に行っていたことから、ローマ人の公共に対する意識の高さが伺える。
このオイルを塗る作業は、一般的に女性風呂の場合は公衆浴場専属の奴隷が行っていた。一般市民階級の男性は、高価な石鹸の代用品としてオイルを自ら塗っていたようである。
浴場によっては、オイルを塗るためだけに設けられた専用の部屋が併設されている場合もあった。
古代ローマの浴場に併設されたテピダリウム
現在のサウナと同じ役割を持っており、この場で専用の奴隷にオイルを塗らせた。
公共浴場ではオイルマッサージが一般的な日常風景の一つであった。
ローマ帝国最盛期の五賢帝の一人、ハドリアヌス帝(76年~138年)は、マンガ『テルマエ・ロマエ』に描かれていたように大の風呂好きとして知られ、皇帝でありながら頻繁にローマの公衆浴場に通っては、一般の市民と共に汗を流していた。
ハドリアヌス帝(在位:117年~138年)
ハドリアヌス帝は、ローマ帝国国境の安定化路線を採ったことでも知られる。
また、当時から男色家としても知られていた。写真は125年~128年頃のデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655066
ある時、ハドリアヌス帝が入浴している最中、一人の退役軍人が背中を大理石版にこすり付けてマッサージしているのが目に入った。退役軍人という身分を慮ったハドリアヌス帝は、この老人に助成金とマッサージをするための奴隷一人を授けた。
翌日、この噂を聞きつけた老人たちが皇帝からの恩恵に与ろうと、公衆浴場で一斉に大理石の壁で体をこすり始めた。
すると、この様子を見たハドリアヌス帝は、この老人たちを一列に並ばせ、互いの身体をマッサージしあうよう命じたという。
このような逸話が残るほど、入浴時のマッサージは大変重要なものだったのである。
一方、入浴後でスッキリした後に、肌に再び脂分を補給する為にオイルが塗り込まれることもあった。
伝導率の低さから日焼け止めや防寒剤としても人気であり、公衆浴場に出かける際にはオイル瓶が必需品であったとまで伝えられている。
サー・ローレンス・アルマ=タデマ『テピダリウム』(1881年)
このように、ローマ人にとってオイルは食用、健康促進の為には無くてはならないものであった。
無論、夜の照明として用いられたランプの燃料としても不可欠であり、ローマ市民の経済・生活の深くにまで根付いていた。
多様な用途で用いられたオイルは、地中海世界各地で取引されていたが、属州におけるオリーヴ畑の拡大はオイルの大量供給を可能にし、イタリア半島と属州間の集中的取引によって価格は比較的低く抑えられていた。その分、貴族や大商人から、市民や奴隷に至るまで、ローマの全階層の手が届いたのである。
また、市民に根付いていたオイルは政治的にも利用された。カルタゴの将軍 ハンニバルとポエニ戦争を戦った大スキピオ(紀元前236年~紀元前183年)は、紀元前213年にローマ市民向けにオイルの無償配給を行い、平民の人気を獲得している。
帝政期になると、市民への配給は現物から金銭へと変わっていったが、オイルは安価、もしくは無償で市民に与えられ続けた。
オイルは露店でも販売されており、ローマ市内には2300以上ものオイル露店が存在していたという記録もある。
オイルはローマ市民にとって手に届きやすいものの一つであり、それ故に市民生活に欠かせないものでもあった。
しかし、一言にオイルといっても品質には差が見られた。市民が多用した低品質のオイルと異なり、純度の高い高品質の油、特に香油は非常に高価であり、一般の市民にとっては手の届かない高嶺の花であった。
例えば、当時ローマの属州であった現パレスチナで布教活動をしていたイエス・キリストに、マグダラのマリアが注いだ香油は1リトラ(326g)で300デナリの価値があったとされる。
当時の一般労働者の日給が1デナリであることを考えると、とんでもなく高価なものであることが分かるだろう。
後に弟子のユダは銀貨30枚でイエスを裏切ったとされるが、このときの銀貨が、当時ローマ帝国内で広く流通していたデナリウス銀貨だとすると30デナリである。
イエス・キリストが生きた時代に鋳造されたデナリウス銀貨
肖像はティベリウス帝。裏面はリビア坐像。直径18㎜で3,8g。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=631251
つまり、単純に計算すればマグダラのマリアが用いた香油は当時の平均的収入の10か月分、さらに言えばイエス・キリストの身柄10人分に相当するということになる。
尚、マグラダのマリアが高価な香油をイエスに注いだ際、教団の会計掛でもあったユダは「なぜこの香油を金に換え、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを責め立てたという。この時イエスは、このマリアの行為に対して「前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれたのだ」と言ってなだめたという逸話もある。
このことから、当時の香油は身だしなみやマッサージの用途だけでなく、広大なローマ帝国の辺境では宗教的儀礼でも用いられていたと推察できる。
オイルは地中海世界を中心に発展した文化であり、ギリシャやアナトリア、北アフリカでも多分に用いられた。
古代ローマを代表する博物学者、大プリニウス(22年~79年)はオイルについて以下のように賛辞している。
二つの液体は人体に最も快い。
内からはワイン、外からはオイル。
両者は共に樹木の比類ない産物である。
だが、オイルという液体こそ必須なのである。
香油の入った瓶を手にするマグダラのマリア
磔刑にされたイエスの遺体に香油を塗ろうと墓を訪れたマリアは、復活したイエスの姿を目撃する。
復活したイエスを発見した最初の人物とされ、持っていた香油から「携香女」と呼ばれた。
本日は以上となります。
1月が過ぎるのはあっという間です。
体調管理には出来るだけ気を遣って、寒い冬を乗り切っていきましょう!
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藤野様
はじめまして。
検索からこちらの記事にたどり着き、古代ローマの話を興味深く拝見しました。
実は私のブログは古代ローマをテーマとして取り扱っているのですが、お風呂の話題を取り上げるにあたり、この記事のハドリアヌス帝のお話を引用させていただきましたので、報告させていただきました。
一応記事のURLを載せておきますので、問題があればご指摘いただけますと幸いです。
https://anc-rome.info/thermae/
今後古代ローマの貨幣についても話題にしていきたいと考えていますので、藤野様のコインのお話はすごく参考になりそうです。
このような素晴らしいブログに巡り会えたことを感謝しています。
それでは当ブログともどもよろしくお願いします。
投稿情報: 名もなき古代ローマ司書官 | 2018/11/29 06:43