こんにちは。
最近は朝が特に冷え込み、布団からなかなか出られない日々が続いております。
インフルエンザやノロウィルスが流行中のようです。入念な手洗い等の予防策によって、十分お気を付け下さい。
さて、本日も古代ローマ人の生活・文化についてご紹介します。
今回のキーワードは「解放奴隷」です。
宜しくお願い致します。
古代ローマ人の日常②
・解放奴隷
古代ローマでは奴隷の存在が必要不可欠であった。
大富豪や貴族、荘園主等、広大な屋敷に居住する上流階層の生活にとって、奴隷は手となり足となる存在であった。また、属州の荘園開発・運営の面でも奴隷は重要な労働力であり、ローマの経済活動と生産構造にとって欠かせないものであったのである。
ブーランジェ 『奴隷市場』 (1886年)
しかし、奴隷の「所有権」は、奴隷の所有者である個人にあり、その所有権を手離す、つまり解放することも自由であった。
奴隷の解放は法的枠組みよって定められており、主人の意思・好意に任された決定であるとされていた。
奴隷は解放されてすぐに「ローマ市民」になれる訳ではなく、国家は解放された奴隷にかつての主人と同じ地位を付与した。
すなわち、主人がローマ市民だった場合は、解放奴隷もローマの市民権を得ることができたが、主人が他の都市の市民権しか有していなかった場合は、解放奴隷もその市民権しか得られなかった。
尚、奴隷の解放は証人の前で解放すれば成されたが、解放された奴隷が市民としての地位を得るためには、主人の申し出により官吏が「解放の細杖(Vindicta)」でその奴隷に触れるか、遺言による命令が必要であった。
単なる解放奴隷では自由民としての地位しか与えられず、行使できる権利も限られていた。(例えば、一代目には官吏と元老院議員の被選挙権が無かった。)
それでも解放されることによって、比較的自由な移住権と職業選択、自由結婚等の権利を得ることができた。国家はかつての主人と等しい市民として、その身分を法的に保証したのである。
では、実際のところ奴隷はどのくらい解放されていたのか?
ローマ共和政末期になると、都市部の個人家庭の奴隷は頻繁に解放されていたとみる研究者もいる。
広大な大規模荘園では数多くの奴隷を抱え、奴隷一人一人の名前も把握できていなかったが、個人家庭では主人と奴隷の距離が密接であった。その為、主人の危篤や奴隷自身の危篤等の機会に、長年勤めた奴隷を温情的に解放するケースが多かったのではないかと推測されている。
事実、帝政初期、アウグストゥス帝の時代には、そうした多数の奴隷解放に歯止めをかける法律まで制定されていることから、当時は奴隷解放のケースが多かったと考えられる。
*紀元前2年 フフィウス・カニーニウス法
: 一人の家長が解放できる奴隷の数を、全体数に応じた割合に制限。
* 紀元4年 アエリウス・センティウス法
: 解放者と、解放される奴隷の年齢に制限を設けた。
アウグストゥス帝(在位:紀元前27年~紀元14年)
ローマ帝国初代皇帝。アウグストゥスはラテン語で「尊厳者」の意。
オクタウィアヌスは紀元前27年に元老院から同称号を受け、帝政が開始された。
写真は紀元前2年~紀元12年にかけて鋳造されたデナリウス銀貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=655530
解放された奴隷は様々な職業に就くことができた。奴隷時代の経験を活かして職人になる者もいれば、教師や著述家、哲学者等、頭脳労働者になる者もいた。また、商売によって成功し、莫大な富を得る解放奴隷もいたようである。
また、帝政期には長官や将軍にまで出世した解放奴隷も存在したといわれている。
しかし、このような成功を収めた解放奴隷はごく僅かであり、大方の者は身を寄せる所にも事欠く貧困層にならざるを得なかった。
上記のように、自らの才覚を活かして成功する解放奴隷は存在したが、土地等の財産を持たない解放奴隷は完全に自立できた訳ではなかった。商売で成功した解放奴隷たちは、主人の温情や、奴隷時代の副業で手にした「個人財産(Peculium)」を元手にしていたと考えられている。
大荘園で農業に従事していた奴隷は、解放後にそのまま住み込みの小作農として荘園に残る者も多かった。土地を持たないがゆえに、農業で成功した解放奴隷は極めて稀だったのである。
サー・ローレンス・アルマ=タデマ 『彫刻陳列室』 (1867年)
中央のソフォクレス(古代ギリシャの悲劇作家)のブロンズ像を配置する丸刈りの男性(縦縞服)は奴隷。
そもそも、解放奴隷は法的に主人と同じ市民権を得られたといっても、その実態は幾つかの制限が付けられており、完全に自主独立していた訳ではなかった。
例えば、解放者は奴隷を解放するのにあたり、一定の条件をつけることが認められていた。
それは法にある負担限度条項の範囲内であったことから、身請け金として毎年収入の一部を元・主人に納めることや、元・主人が病気で倒れた時は看護すること等であったのではないかと推測される。
また、職業選択の自由を一部制限することも場合によっては可能であった。
奴隷時代に教えた技術を、解放された後の奴隷が活かし、事業等を創めれば、競争相手になってしまう為である。つまり、医師であれば、かつて自らが医術を仕込んだ奴隷に、解放後の医院開業を禁ずることが可能だったのである。
それでも解放奴隷達は、奴隷身分にあった時代のように、自らの意に反する職務を強いられることはなくなった。この点は、身請けされた元・娼婦や元・剣闘士にも適用されたのである。
解放奴隷は自由な市民として、その権利が侵されることは無かった。
ネロ帝時代の元老院では、解放奴隷を再び奴隷身分に戻す案が審議されたが、それが実行に移されることはなかったのである。
ネロ帝(在位:54年~68年)
ローマ帝国第5代皇帝。悪政だったとして後世の評価は低い。
写真は65年~68年にかけて鋳造されたアウレウス金貨。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=601490
解放された奴隷たちは、ローマ社会の中で自力で生きていく他なく、幾つかの制限もつけられてはいた。また、かつての身分的出自から、社会的差別や排除も存在したと考えられる。
しかし、少なくとも何者にも縛られることのない「自由」を、永久に手にすることはできたのである。
法の下、奴隷解放に関するガイドラインを設け、社会の安定と解放奴隷の自由な身分を保証したローマの社会は、現代社会にも通じる法根源の一つにもなっていることがうかがえる。
ところで、ローマ時代の解放奴隷は「ピッレウス(Pilleus)」と呼ばれるフェルト頭巾を被っていた。
このことから、古代ローマ時代より、ピッレウス、フェルト頭巾は「自由」「抑圧からの解放」の象徴的アイテムとなっていた。
解放奴隷たち自身が日常的に被っていなくとも、秋の大祭、サートゥルヌス祭では多くの市民がフェルト頭巾を被って街頭に繰り出していたという。陽気な祝祭においてフェルト頭巾という自由の象徴を身に着けることで、社会の自由や平等、開放感を表現していたのである。
この「フェルト頭巾=圧制からの解放、自由」という連想は、後世の欧州社会にも引き継がれた。特に、フランス革命以降、欧州全体が自由主義に席巻された際は、この象徴が頻繁に用いられた。
現代でもフランス共和国の象徴的擬人、「マリアンヌ」は必ずこのフェルト頭巾を被った姿で描かれている。
左『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』(ボワイユ1792年)
右 『民衆を導く自由の女神』(ドラクロワ 1830年)
サンキュロット(フランス革命の志士)、自由の女神ともに、フェルト頭巾(この時代にはフリジア帽と呼ばれる)を被っている。
また、近代コインでもこのフェルト頭巾は多く登場する。フランスやラテンアメリカ諸国などの共和国のコインには、不特定の美女が肖像として用いられているが、彼女たちがこのフェルト頭巾を被っていることで「自由の女神」として認識されるのである。
王冠では無く、素朴なフェルト帽を被っている横顔は、圧制からの自由と民衆のたくましさを力強く表現している。
左から仏領インドシナの1ピアストル銀貨(1931年)、アメリカの1ドル銀貨(1921年)、フランスの20フラン銀貨(1933年)。
肖像は全て自由の女神であり、頭には等しくフェルト頭巾を被っている。
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http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=646453
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645548
ローマ時代の「自由」「法治」を尊重する思想・文化は、長い時を越えて近代に復活し、その精神も現代社会を支える礎の一つになっているのである。
左 フランス 25サンチームニッケル貨(1914年)
右 フランス 10サンチーム金貨(1979年)
左には自由と解放の象徴であるフェルト帽、右にはフランス共和国の擬人化、「マリアンヌ」のフェルト帽を被った横顔が描かれている。
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=645579
今週は以上となります。
御読み下さり、ありがとうございました。
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