秋も深まった今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
現在、東京・池袋の古代オリエント博物館では開館40周年記念特別展『シルクロード新世紀』(~12/2)が開催中です。
シルクロード考古学の貴重な出土品や宝物が多数展示されていますが、その中にはコインも多くあります。注目は2016年にニュースになった、沖縄の遺跡から発掘された古代ローマコインです。2年前に当ブログでも紹介させていただきましたが、今回うるま市教育委員会から古代オリエント博物館に貸し出されているようです。
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ニュースにも取り上げられたコインを見られる、大変貴重な機会です。12月2日(日)までの期間限定ですので、東京・池袋にお越しの際には是非お立ち寄り下さい。
さて、今回はシルクロードのコインということで、かつて中央アジアに栄えたギリシャ系王国「バクトリア」のコインについてお話します。
ギリシャコインのカテゴリーに入れられるバクトリアですが、場所はギリシャから遠く離れた中央アジア、現在のタジキスタン~アフガニスタン~パキスタン北部に栄えた王国です。
紀元前4世紀、東方遠征を行ったマケドニアのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世 在位:BC336年~BC323年)は、この地を通ってインドを目指しました。その途上、内陸に多くのギリシャ系植民都市を建設しました。アレキサンダー大王が目指した東西に跨る大帝国の建設を進めると共に、歳をとった老兵たちや行軍についていけない兵士たちを入植させる目的があったようです。
こうしてアジアの内陸に建設されたギリシャ風都市では、ギリシャ人の兵士たちと現地の女性たちが結婚し、生活の拠点として拡大・発展してゆきました。やがて大王亡き後、後継者争いによってアジア全域はセレウコス朝の支配下となります。しかし地中海から遠く離れたバクトリアはセレウコス朝の支配が及ばず、紀元前3世紀半ば、現地の総督が反乱を起して独立しました。
その後、バクトリア(グレコ=バクトリア、インド・グリーク朝とも)は東西シルクロード交易の要衝として繁栄し、中央アジアにギリシャ文化を開花させました。
ガンダーラ仏像の特徴である目鼻立ちのしっかりした顔立ちや衣服のひだの表現は、ギリシャ彫刻の影響を受けている。ガンダーラ美術はバクトリア王国が滅亡した後の紀元前1世紀半ばに栄えたとされ、バクトリアのギリシャ文化が現地に定着した証といえる。
バクトリアのギリシャ文化が与えた影響は、仏像に代表されるガンダーラ美術がよく知られていますが、コインもギリシャ式の芸術性の高いものが多く作られました。
デメトリオス王/ヘラクレス
(テトラドラクマ銀貨 BC205-BC171)
アンティマコス王/ポセイドン神
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC160)
エウクラティデス1世/双子神ディオスクロイ
(テトラドラクマ銀貨 BC170-BC145)
※このコインの裏面デザインは、現在アフガニスタン中央銀行の行章としてそのまま採用されている。
メナンドロス1世/アテナ女神
(ドラクマ銀貨 BC155-BC130)
アンティアルキダス王/象を従えるゼウス神
(ドラクマ銀貨 BC145-BC120)
アポロドトス1世発行 象/コブウシ
(ドラクマ銀貨 BC160-BC150)
アポロドトス1世発行 アポロ神/三脚鼎
(ヘミオボル銅貨 BC160-BC150)
当時のバクトリア王国の内政や歴史、具体的な時代区分もまだ不明瞭な点が多く、研究の途上にあります。しかし確認されているコインから、バクトリア国内の複雑な地形を背景として各地に王が乱立していたと推察されています。
バクトリアコインの表面には王の横顔肖像、裏面にはギリシャ神話の神々(アテナ女神、ニケ女神、ヘラクレスなど)が表現されるヘレニズムスタイルです。内陸の国にも関わらず、海神ポセイドンも表現されています。小額コインでは、古代コインに珍しい四角形もみられます。
それらの大きな特徴の一つは、表面にはギリシャ語銘が刻まれ、裏面には現地のカローシュティー文字が刻まれている点です。この二言語併記は現在の紙幣などでよくみられますが、古代の貨幣としては画期的な例でした。ギリシャの伝統を引き継ぎつつも、ギリシャ系住民とアジア系住民が共存する独自の体制を模索していたことが分かります。この二言語併記は、バクトリア王国滅亡後に現地を支配したスキタイ人のコインにも継承されています。
実はこの二つの言語が刻まれたコインの存在は、後にバクトリアの存在を世界に知らしめる重要なツールにもなりました。
バクトリアが栄えた現在のアフガニスタンの周辺は、中央アジアの中でも山岳地帯ということもあり、外部との接触が困難な地域でもありました。そのため紀元前2世紀頃にバクトリア王国が滅び、時代が経るとその存在は古代の史書の中だけに留められてしまいました。
しかし16世紀以降、ヨーロッパ人がインドに本格的に進出すると、にわかに中央アジアへの関心も高まり始めました。そしてかつてアジアの奥地に存在した、アレキサンダーの遠征軍の末裔達が築いた王国にも脚光が集まったのです。
アイ・ハヌム遺跡
バクトリアを代表するギリシャ風都市。壮麗な神殿の遺構や高度な工芸品が多数発見された。この重要な都市遺跡が発見され、本格的に調査されたのは1960年代になってからだった。
18世紀末、発見されたコインをもとに失われたバクトリア王国の全容を明かそうとする書籍が出版されると、考古学者・歴史学者たちの間でバクトリアに対する関心が高まり、その研究の重要な手がかりとして「コイン」が収集されるようになります。遠く離れた中央アジアでは、地中から出てくる古いコインをインドに持って行けばヨーロッパ人が高値で買ってくれると、バクトリアのコインが自然とインド経由で出てくるようになりました。
まだ中央アジアでの遺跡発掘などできない時代、失われた王国の謎を紐解く重要な手がかりはコインでした。考古学者や言語学者たちは持ち出されたバクトリアのコインを丁寧に調べ上げることにより、史書に記載されず未確認だった王の名を知ることができたのです。ギリシャ文字とカローシュティー文字の二言語併記コインは、失われた古代文字の解読に重要な手がかりを提供し、インドのアショーカ王碑文を解読するのにも役立ちました。
カローシュティー文字を解読したジェームズ・プリンセプ(1799年~1840年)はカルカッタ造幣局の貨幣検査官としてインドの古代コインを収集・研究していた。バクトリアコインに刻まれたギリシャ文字とカローシュティー文字が同じ意味を示すと考えたプリンセプは、これを手がかりとしてカローシュティー文字の解読に成功した。
インドがイギリスによって植民地化された19世紀、必然的にバクトリア研究はイギリスがリードするようになります。アム河の流域に住む住民は、河の水が減る時期になると砂地に入り、金銀の装飾品やコインを拾い集めて商人に売り渡しました。イギリス人はこうした遺物を買取り、研究に役立てていきました。
1877年、各地からの出土品を集めてペシャワールへ向かっていた隊商が盗賊たちに捕らわれる事件がありました。盗賊たちのアジトである洞窟へ連れて行かれる途中、一人の男が逃げ出して近隣に駐屯していたイギリス軍に助けを求めました。
イギリス軍のバートン大尉は兵士を引き連れて盗賊たちの洞窟へ急行します。その頃盗賊たちは戦利品である膨大な宝物(金銀の宝飾品やコイン)の分け前を巡って口論を繰り広げていました。バートン大尉の交渉によって宝の大半と商人たちの身柄を取り戻すことに成功し、その御礼として宝の一部がイギリス軍に渡りました。
助けられた商人がバートン大尉に譲った金の腕輪。オクサス河(アム河)から出土したことから「オクサスの遺宝」として知られる。大英博物館収蔵品
商人たちによってインドのラワルピンディに持ち込まれた千枚以上のバクトリアコインは、地金として溶かされたり古物商によって運ばれるなどして四散しましたが、一部はインド考古学局長カニンガムによって購入され、その後のバクトリア研究に大きく寄与しました。
この時代、コイン収集は単なる趣味ではなく考古学の研究であり、失われた歴史の発見でもあったのです。一枚のコインから推察と想像力を働かせ、はるか昔に存在した王国を解き明かそうとした人々は、どのような思いでバクトリアのコインを眺めたのでしょうか。結局、中央アジアで都市遺跡を発掘調査し、その華麗なバクトリア王国の詳細を再現するには20世紀まで待たねばなりませんでした。
しかし数多くのコインが存在したおかげで、研究者は現地へ赴かずともバクトリア王国の存在を把握し、多くのことを明らかにしていったのです。
コインが歴史の解明に大きな役割を果たした例として、バクトリアのコインは世界中のシルクロード研究者から注目されています。現在の我々が古代コインに刻まれた文字や意味を知ることができるのも、先人達の地道な努力があってこそです。
そのようなことに想いを馳せながら、コインを眺めて秋の夜長をお過ごしいただければ幸いです。
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