こんにちは。
9月になり、秋らしい空気を感じるようになりました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、皆様もどうかお気をつけて。
さて、今回はアレキサンダーコインについてお話したいと思います。
とはいってもマケドニア王国やその後のギリシャ諸都市が発行したものではなく、ローマ人によって発行されたアレキサンダーコインです。
画像のコインは紀元前95年~紀元前70年頃にかけて、マケドニアの都市テッサロニカで造られたテトラドラクマ銀貨です。いわゆる「アレキサンダーコイン」の中では比較的新しく、アレキサンダー大王の没後200年以上を経て発行されたタイプです。
表面にはかつてのマケドニア王アレクサンドロス3世(在位:BC336-BC323)の横顔肖像が打ち出されています。また、下部には分かりやすく発行地マケドニアを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ」銘が配され、左側には「Θ」銘が確認できます。
このアレキサンダー像は、大王配下の将軍リシマコスが発行したコインを基に作成されたとみられ、側頭部には大王の神聖性を示す巻角(=アモン神の象徴)が確認できます。
リシマコスによって発行されたテトラドラクマ(BC288-BC281)
しかしオリジナルのコインと比べると頭部は縮れ毛になっており、巻角もほぼ同化しています。凛凛しく逞しい顔つきは中性的になり、女性にも見える表現です。
これとよく似た表現は、同時代のローマで発行されたデナリウス銀貨にみられ、ローマとマケドニア、両地域の関係性がうかがえます。
ローマで発行されたデナリウス銀貨(BC55)。ローマ人の守護神ゲニウスとされる。
一方、裏面のデザインは従来のアレキサンダーコイン(=ゼウス神、アテナ神など)とは大きく異なり、独自性が溢れたデザインになっています。
左側には徴税などで使用された金庫、中央には棍棒、右側には椅子が表現され、上部にはギリシャ文字ではなくラテン文字で「AESILLAS」銘と「Q」銘が配されています。さらに周囲部はオリーヴのリースによって囲まれています。
これらのデザインには、コインが発行された背景が明確に反映されています。
このコインが発行された当時、マケドニアはローマの支配下にありました。第三次マケドニア戦争の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国はローマ軍によって滅ぼされ、王国は四つの自治領に分割されました。ローマの属領になったマケドニアは、アンフィポリスやテッサロニカなどの都市を中心としながら分割統治されたのです。
分割時代のマケドニア、アンフィポリスで発行されたテトラドラクマ銀貨 (BC167-BC149)。棍棒と共に、四分割された第一管区であることを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ ΠΡΩΤΗΣ (マケドニアの第一)」銘が配されている。
しかしアンティゴノス朝滅亡から20年後、マケドニアの住民はローマに対して反乱を起こし、第四次マケドニア戦争が勃発します。軍事力によってこれを制圧したローマはマケドニアに残されていた自治権を剥奪し、紀元前146年に「マケドニア属州」に再編、完全な直轄支配下に置きました。
これによってローマの東方拡大が本格化し、後のローマ帝国への大きな一歩となりました。
最初にご紹介したアレキサンダーコインは、ローマによって属州化された時代に発行され、その発行にはローマ軍の戦略的な意図が込められていました。
マケドニア戦争を経てバルカン半島~ギリシャに本格的に進出したローマ軍は、イタリアとマケドニアを結ぶ街道を整備しました。この「エグナティア街道」はデュラッキウムからペラ、テッサロニカ、アンフィポリスを経てトラキア、ビザンティウムへ至る重要な街道であり、小アジア進出の足がかりとなる地理的重要性を有していました。
後にスッラやポンペイウス、ブルートゥス、カエサルやマルクス・アントニウスなどの英雄が行き来し、数々の決定的会戦の舞台となった、ローマ史にとっても欠かせない要衝となります。
エグナティア街道
テッサロニカはこの街道沿いにあり、マケドニア属州の州都となった。
紀元前88年、小アジア北部ポントス王国のミトリダテス6世はローマ軍と戦端を開き、三次にわたる「ミトリダテス戦争」が勃発します。小アジア北部への通路であるエグナティア街道はローマ軍の往来がより激しくなり、軍団にとって安全な進路を確保することが重要課題となりました。
当時、ビザンティオンにいたるトラキア南部は好戦的な部族が多くおり、しばしばローマ軍と戦いになることもありました。しかしミトリダテスとの戦いに戦力を温存しておきたいローマ軍は、戦いによってトラキア人を殲滅するのではなく、より経済的な方法で解決しようとしました。
ローマ軍はトラキア人に金銭を支払うことで彼らを懐柔し、むしろ有力な協力者とすることにしました。その際、用いられたのが「アレキサンダーコイン」でした。ローマ人にとってこの銀貨は単なる決済手段ではなく、矢にも匹敵する強力な武器でした。
ビザンティウムからヘレスポントス海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えた先にはビテュニア王国があり、ローマは同盟国として支援していました。紀元前95年頃にポントス王国がビテュニアを攻撃した際、ローマはビテュニアを支援し、ポントスとの対立を明確なものにしていきました。
それ以降、このアレキサンダーコインは継続的に造られるようになり、さらにミトリダテスとの戦争が本格的に始まると、戦略上の理由から大量に製造されるようになったと考えられています。
アレキサンダー大王の肖像はトラキアで古くから流通していたリシマコス発行のものを踏襲し、トラキアの部族にとって馴染み深いものとしました。
裏面に自治領時代のアンフィポリスで発行されたコインに採用されていた「棍棒」を使用し、馴染み深さを増して価値の信用度を高めました。
重量はアテネで発行され、アレキサンダーコインにも採用されていたアッティカ基準を採用、裏面のオリーヴのリースはそれを象徴しています。
アテネ テトラドラクマ (BC136-BC135)
裏面に表現された金庫と椅子は、属州に派遣され軍団の物資調達、給与支払いに権限を持っていた「財務官」を象徴しており、椅子の上の「Q」銘はローマの財務官(=Quaestor)を示します。
つまり、上部に刻まれている「AESILLAS」銘は、コインを発行した当時の財務官アエシラスの名銘であることが分かります。
この新しいタイプのアレキサンダーコインは、当時のトラキア人に広く受け入れられたようで、マケドニア~トラキアのあらゆる地域で出土しています。トラキア人の信用度が非常に高く、広範囲で流通したことから、財務官アエシラスが任地を去ってからも「AESILLAS」銘でコインは製造され続けたとみられています。
ローマ軍の作戦は功を奏し、安全な進路を確保したことで軍団と物資はスムーズに輸送されました。紀元前63年にミトリダテス戦争はローマ軍の勝利によって終結し、小アジアの大半がローマの支配下に入りました。
その後もローマは東方への拡大を続け、アレキサンダー大王の後継者達が建てた国々(セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を次々と征服してゆきました。
マケドニアを征服したローマ人が、さらなる東方進出に用いた武器がアレキサンダーコインだったとは、まさに歴史の皮肉といえるでしょう。
アレキサンダー大王はカエサルやオクタヴィアヌス、トラヤヌスやカラカラも憧れた歴史上の英雄でした。ローマ人は壮大なアレキサンダーの征服事業を、そのままローマ帝国の拡大と繁栄に重ね合わせたのだと思われます。
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