こんにちは。
11月も末になり、寒さも厳しくなって参りました。
「令和元年」の今年も残りあと一ヶ月。健康第一で新しい年を迎えたいものです。
さて、今回はローマコイン・・・に含まれるのか曖昧な古代コイン、「ガリア帝国」で発行されたコインをご紹介します。
この時代、地域のコインはマイナーなため扱いも難しく、ローマコインを収集している方でも対象外にしている場合が多いようです。
しかしDavid Sear氏のローマコインカタログ『ROMAN SILVER COINS』『ROMAN COINS AND THEIR VALUES』、さらに『THE ROMAN IMPERIAL COINAGE』でも掲載されていることから、ローマコインの一種として見做されているようです。
3世紀の軍人皇帝時代、ローマ帝国各地では皇帝を称する軍人達が名乗りを上げ、まさに混乱状態にありました。多くの自称皇帝たちはすぐに鎮圧されるか、内部の裏切り・反乱によって短い治世を終えましたが、ガリア~ゲルマニアを拠点としたポストゥムスはその地位を一応確固たるものにし、彼の築いた「ガリア帝国」は15年にわたって独立国家であり続けました。
「ガリア帝国」とはその名の通り、ガリア地方(現在のフランス)を中心とした国家であり、その領域はガリアをはじめヒスパニア、ブリタニア、ゲルマニアの一部にまで及びました。現在の地図に当てはめるとポルトガル、スペイン、フランス、イングランド、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、ドイツの一部を含んだ、西ヨーロッパ諸国を包括する広大な領域です。
263年頃のガリア帝国版図 (赤色の部分)
首都は当初コロニア(コロニア・アグリッピナ、現在のドイツ西部 ケルン市)と定められ、ローマと同じく宮廷と元老院、毎年選出される執政官職が設けられました。皇帝の称号もローマ皇帝とほぼ同じでしたが、ローマ本国へ攻め上ることはせず、並立する政権の一つとされていました。
ガリア帝国内ではローマ時代の造幣所が多数存在したことから、それらを活用して独自のコインも多く発行していました。後世にはライン川流域をはじめ、ドイツやフランスで多く出土しています。
今回はガリア帝国で発行されたコインを通し、エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』やクリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』などを基にしながら、その歴史を辿ります。
・初代皇帝ポストゥムス (在位:AD260年~AD269年)
アントニニアヌス銀貨
ガリエヌス帝治世下の260年秋、下ゲルマニア総督だったポストゥムスはローマ中央に対して反乱を起こし、ライン方面の軍の支持によって皇帝を宣言。これをもって「ガリア帝国」が成立したと見做されています。彼自身ローマ人ではなくガリア人とされ、これが事実ならばカエサルとヴェルチンジェトリクスの戦い以降、ようやくガリア人がローマに対して一矢報いたことになります。
反乱に際してガリエヌス帝の息子サロニヌスが逮捕・処刑されたにも関わらず、ローマ軍はすぐには反乱鎮圧に動きませんでした。その間、ポストゥムスはライン川を越えてくるゲルマニアの蛮族対策に注力し、国境防衛の確立、自らの基盤固めを推進することができました。AD265年になってようやくガリエヌス帝が失地奪回に動き出しましたが、戦いの最中に皇帝自身が負傷した為、すぐに中止されました。
ポストゥムスは軍人としても統治者としても才覚があったらしく、この不安定な地域を纏め上げて国家として確立させ、その地位を10年近くにわたって保持しました。
特に彼の治世では貨幣の発行にも力が入れられていたことが、残されたコインから分かります。ローマ本国のコインはインフレーションの進行から年々質を低下させ、刻印自体も繊細さを欠くようになっていました。ポストゥムスが発行したコインはローマが発行したコインより明らかに質が高いことから、造幣所の改良が行われていたとみられます。
アウレウス金貨 (大英博物館収蔵)
ポストゥムスのコインは治世の長さ、最盛期だったこともあり種類が豊富です。その多くは従来のローマコインと同じく、表面に皇帝の肖像、裏面にローマの神々が表現されたものです。
しかし金貨に関してはそれまでのローマの皇帝たちとは異なる、正面像のコインが造られました。古代ギリシャでは正面像のコインがみられますが、ローマのコインではほとんど例がありません。特に金貨は材質の柔かさから磨耗しやすく、皇帝の肖像が摩滅する恐れがある為、まず採用されてきませんでした。
ポストゥムスはメダルのようなアウレウス金貨を発行し、技術力と芸術性の高さを見せつけました。かつてのハドリアヌス帝の彫像を思わせるような、写実的で立体感にあふれる表現です。
2セステルティウス貨
ポストゥムスが発行したコインで注目すべきは「2セステルティウス」と呼ばれる大型銅貨を発行したことです。ローマ本土ではトラヤヌス・デキウス帝(在位:AD249年~AD251年)の治世に発行された以来であり、大変珍しい存在です。肖像は月桂冠の代わりに「光の冠」を戴き、通常のセステルティウスより若干重いことが特徴です。また、元老院権限による発行を示す「S C」銘が省略されているものもみられます。
なお、ガレー船の意匠はポストゥムスのコインに盛んに見られ、これはポストゥムスがブリタニアへ遠征したことを示すと云われています。
それ以外のコインはアントニニアヌス銀貨が多く発行され、多様なバラエティがみられます。実際、埋蔵量の多さ、出土品などから、兵士への給与や都市での流通ではアントニニアヌスが主要な地位を占めていたと考えられます。
幸いなことに、そのためポストゥムスのアントニニアヌスは現在でも比較的入手しやすく、バラエティごとに収集しやすい古代コインの一種です。わずか15年だけ存在した古代の国でも、コインはしっかりと残されている点が面白いところです。
ポストゥムスの治世は、彼自身の厳格さが仇となって終わることになります。
AD269年、ポストゥムスに反旗を翻したラエリアヌスの軍を鎮圧した際、反乱軍の拠点だった都市モグンティアクム(現在のドイツ、マインツ市)で略奪を働くことを自軍兵士に認めませんでした。命がけの勝利後の略奪を楽しみにしていた兵士たちは憤り、それが原因となってポストゥムスは暗殺されたと云われています。
卓越した指導者の死によって、彼によって支えられていたガリア帝国は急速に瓦解していくことになります。
・反乱皇帝ラエリアヌス
アントニニアヌス貨
自称皇帝ポストゥムスに対して皇帝位を自称して対抗したラエリアヌスは、モグンティアクムを拠点として軍団を保持していました。しかしそれ以外の地域ではポストゥムスに対する支持があつく、結果的にポストゥムスに敗れてしまいます。皮肉にもこの自称皇帝同士の戦いは、共に命を奪われる悲劇的な結末を迎えました。
ラエリアヌスも皇帝としてコインを発行し、自軍の兵士達に配ったようですが、その品質はライバルであるポストゥムスのものと比べて劣ります。しかし現在となっては、長い治世で比較的安定して発行されたポストゥムスのコインよりも希少価値があり、高値で取引されています。
・第二代皇帝マリウス (在位:AD269年)
アントニニアヌス貨
勝者亡き戦いの後、ポストゥムスの後継者となったマリウスは軍人出身であり、もとは鍛冶屋だったとも云われています。その治世は短く、極端なものでは2日間、長いもので3ヶ月と記述にばらつきがあります。その最期は個人的な口論の末、部下に絞め殺されたとも、鍛冶屋だったマリウス自身が作った刃物で刺し殺されたとも伝えられています。
しかしマリウスのコイン自体は現存していることから、治世はそこまで短くなかったとみられます。
・第三代皇帝ウィクトリヌス (在位:AD269年~AD271年)
アウレウス金貨
ポストゥムスの腹心だった軍人ウィクトリヌスの治世は、まさにガリア帝国崩壊の期間でした。ウィクトリヌスの即位を認めないヒスパニアはローマへ帰順し、反攻に転じローマ軍も失地を奪還しつつありました。また国内でも部族による反乱が相次ぎ、ウィクトリヌスはその対応を迫られていました。まさにローマのガリエヌス帝のミニ再現のような状況でした。
史書の伝えるところによれば、ウィクトリヌスは優秀な軍人である反面、好色淫乱を好み、部下の妻達に関係を強いたとさえ云われています。そして高官アッティティアヌスの妻と関係した後、怒りに燃える夫と側近達によって斬殺されたと伝わります。
後継者無きあと、崩壊に向かうガリア帝国でこれを押し留めたのはウィクトリヌスの母親ウィクトリアでした。彼女は息子亡き後も権力の座を保持するため、軍団に金をばら撒いて支持をとりつけ、崩壊を何とか遅らせることに成功します。ウィクトリアは「アウグスタ」「軍団の母」などの称号で飾られ、ポストゥムス亡き後のガリア帝国の影の実力者でした。
エドワード・ギボン著書『ローマ帝国衰亡史』の記述に寄れば、「彼女の名を刻した銅貨、銀貨、金貨が鋳造され・・・」とありますが、ローマコインのカタログ・資料には記載がありません。
ウィクトリアは軍の支持を得られ、自らの思い通りに動く傀儡皇帝としてテトリクスを指名します。この決断が、ガリア帝国の崩壊・消滅につながります。
・第四代皇帝テトリクス (在位:AD271年~AD274年)
アウレウス金貨
テトリクスはガリアの名家出身とされ、ガリア帝国成立後はアクイタニア総督の地位に在りました。皇帝に指名された後は同名の息子(テトリクス2世)をカエサル(副帝)にし、後に共同統治帝にしました。首都をコロニアからアウグスタ・トレウェロルム(現在のドイツ,トリーア)に遷都するなど、国内の建て直しに尽力しました。
テトリクス2世のアントニニアヌス貨
しかしウィクトリアの傀儡であることに変わりなく、またいつ軍が反旗を翻すか分からない状況では、テトリクスも不安を増していったと思われます。この時期、ローマでは武帝アウレリアヌスによって帝国の再統一が推し進められており、何とか分離独立状態を保っていたガリア帝国への侵攻も時間の問題となっていました。
この頃に発行された金貨は高品質を維持していましたが、大量に造られるアントニニアヌスはポストゥムス時代と比べて劣化し、ほぼ銅貨といってよい状態でした。これほどまでガリア帝国は外部・内部から追いつめられていたのです。
末期のガリア帝国版図 (緑色)
武帝アウレリアヌスによるガリア侵攻が目前に迫る中、テトリクスはアウレリアヌスに密使を送ります。その内容は自身と息子の安全を保障する代わりとして、「ガリア帝国」を引き渡すというものでした。
また言説によると、ローマ軍によるガリア侵攻を持ちかけたのはテトリクス自身であり、自軍のプレッシャーに脅かされている現在の境遇から救ってもらうよう、アウレリアヌス帝に懇願したとまで云われています。これが漏れ伝わればそれこそテトリクスは血祭りに上げられそうです。
そのような密約が本当にあったのか、AD274年、シャロン・スュル・マルヌでのガリア軍とローマ軍の決戦が始まるや否や、ガリア軍最高司令官テトリクスはあっさりと敵陣中に向かって逃走。ガリア軍は混乱しながらも奮戦しますが、テトリクスの指示によって不利な陣形が取られていた為、ローマ軍を相手に壊滅的敗北を喫します。
こうしてポストゥムスからはじまり、15年にわたって存続したガリア帝国は儚く消滅し、全土は再びローマ帝国に統合されたのでした。
現在の西ヨーロッパ諸国を統合していた「ガリア帝国」ですが、もし首尾よくこのまま独立状態を保ち続けていたらどうなっていたのでしょうか。現在のヨーロッパ、そして世界の地図は大きく変わっていたかもしれません。
アウレリアヌス帝のアントニニアヌス貨
最後のガリア皇帝 テトリクスの物語には後日談があります。
アウレリアヌスは分裂状態にあったローマ帝国の再統一を果たし、「世界の復興者」という尊称を得、その集大成というべき盛大な凱旋式をローマで執り行いました。
数々の戦利品、捕虜、戦車、軍団のパレードの列に混じり、捕虜となったテトリクス親子も参加させられていました。ガリア人のズボンを履き、サフラン色の短上着、そして皇帝の象徴である紫の衣を纏った姿でローマ市内を行進させられたのです。
誇示心を満足させたアウレリアヌス帝は約束どおり、テトリクス親子の身の安全を保障するだけでなく、地位と財産を回復させることまで許しました。名誉回復後、テトリクスはカエリウスの丘に建てた新居にアウレリアヌス帝を招き、晩餐を共にしながら親しく談笑したそうです。
テトリクスはルカニア地方の行政官に、息子は元老院議員となり、数奇な生涯の余生を平和に過ごしたと云われています。
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