こんにちは。
7月も末になり、通常ならば夏本番ですが、今年は梅雨が長く、一向に清清しい夏らしさを感じられません。
本来ならば先週から東京オリンピックが開催されているはずなのですが、昨今の情勢により延期になってしまいました。
学校の夏休みは短縮され、海開きや夏祭りも軒並み規模縮小、中止になり、毎年恒例の帰省ラッシュも寂しいものになりそうです。
そうした社会情勢と経済環境を反映してか、現物資産である貴金属の価格が軒並み上昇しております。消費税が10%になったことも関係していますが、7月末時点で金1gの小売価格が7,300円を超えています。それにつられてか、今まで値動きの少なかった銀の価格まで徐々に上昇しています。
今年に入って金価格が1g/6,000円を突破して驚いておりましたが、そうした驚きも遠い過去のものになりそうです・・・。金相場は予測が難しいと云われていますが、社会情勢が不安定化すると人々に求められ、価格が上昇するという理屈は正確だったようです。特に今年前半は今までに無い、予想を裏切るようなスピードで世の中が変化しているため納得です。
なにはともあれ、今年は例年とは大きく異なる夏になりそうです。
皆様も何卒、体調管理には十分にお気をつけ下さい。
さて、今回は金銀のテーマに合わせて「古代ローマの銀行」についてお話します。
およそ2000年前の銀行と言っても、現在の銀行とはその性格が大きく異なります。
その業務内容はおおむね「両替商」といってもよいでしょう。現在のように、外貨を両替する仕事、といっても差し支えありませんが、古代ローマではさらに複雑な通貨事情がありました。
ローマが貨幣を発行し始めたのは紀元前3世紀ころ、最初は銅貨や青銅貨ばかりであり、しかもカンパニア地方のギリシャ系都市に製造を委託していたと云われています。
それ以降、徐々にローマ市内でも造幣設備が整備され、時代を経て金貨や銀貨、銅貨等が各種製造されますが、それらには額面価値が明記されておらず、コインの種類が増えるとその交換価値がますます複雑になります。しかもイタリア半島のギリシャ系都市をはじめ、新たに獲得した属州で流通したコインも流入し始めると、銀の含有率を調べてローマの貨幣に換算する必要が生じました。
こうして現われたのがアルゲンタリウス(Argentarius, 銀貨両替)と呼ばれる人々でした。これがローマにおける銀行の始まりとされています。
彼らは市場が開かれる広場の一角に小さなスペースを設けて営業していました。ローマではフォルム・ロマヌム(フォロロマーノ)の東端、商業区域の中に立ち並んでいました。ローマをはじめ、他の都市や属州にもこうした銀行業者が存在し、地域経済に重要な役割を果たしていたことが碑文などに残されています。
一般市民は市中の買物では銀貨をはじめ、黄銅貨や青銅貨を多く利用していた為、両替は必要不可欠でした。また小売業者は釣銭も用意していたはずであり、こうした業者の需要も満たす必要がありました。都市の経済活動が発展する上で、アルゲンタリウスの業務はローマ人の社会生活・経済活動に無くてはならないものでした。
アルゲンタリウスの重要な業務のひとつはその名の通り、銀貨の品位を調べることでした。古代ローマではデナリウス銀貨が貨幣流通の要になっていたことで、銅素材に銀メッキを施した贋物も多く出回っていました。アルゲンタリウスは重量や音、金属品位などを調べ、本物と認めた銀貨は手数料を差し引いた上で、少額貨幣に両替していたとみられます。
この時に貨幣検分者は銀貨がメッキされているかを確かめ、検分したコインと未検分のコインを見分ける為に印を打ったとみられ、これが「バンカーズマーク(Bnaker's mark)」と云われています。こうした小さな刻印は多くのローマコインにみられ、当時実際に流通してアルゲンタリウスに持ち込まれた証でもあります。
こうした業務を経ることで、発見された贋物コインは流通市場から駆逐され、市中での貨幣の信用を維持することができました。当時の銀行業務は単なる両替ではなく、古代ローマ社会の貨幣経済を下支えする役割を果たしていました。
バンカーズマークの一例
オクタヴィアヌス肖像の左側に文字銘のような刻印が打たれている。
本物と認識されたコインは銀行業者が用意した専用の袋に入れられましたが、こうした業務が発展して預金業務を扱うようにもなりました。これは第三者に対する支払いを目的としており、あくまで担保としての無利子預金でした。受領者は印章つき指輪によって承認し、現在の日本の判子のような役割を果たしました。
アルゲンタリウスは徐々に単なる両替商から、金貸しなどの金融にも業務を拡大させました。ポンペイの遺跡から発見された銀行家ユクンドゥスの領収書版によると、驢馬の競売に関して買い手に購入金を前貸しし、仲介手数料として総額の1%を得たことが書き残されています。
市中経済の重要な役割を果たした銀行業務ですが、以外にも国家の規制はほとんどありませんでした。必ず帳簿をつけ、都市執政官などの役人の求めに応じてこれを提出する義務はありましたが、業務を始めるにあたって公的な許可は必要ありませんでした。そのため、金を貯めた解放奴隷が副業としてはじめる例も多かったとされています。
ただ前述のように預金や金貸しを利用する需要があった一方、主に求められた業務はやはりコインの両替でした。1世紀のローマ帝国における貨幣の交換比率は以下の通りです。
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1アウレウス金貨 = 25デナリウス(銀貨)
1デナリウス銀貨 = 16アス(銅貨)
1セステルティウス黄銅貨 = 4アス(銅貨)
1ドゥポンディウス黄銅貨 = 2アス(銅貨)
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しかし3世紀、カラカラ帝の時代になるとインフレーションが加速し、コインに使用される貴金属の割合は目に見えて低下しはじめます。「悪貨は良貨を駆逐する」の法則に基づき、市中には大量発行された低品位のコインが溢れました。そのため、この時期の銀行業者は古い貨幣と新しい貨幣の交換比率に日々頭を悩ませていたことでしょう。
コインをカウンターの上に広げ、一枚一枚確認ながら計算している。
3世紀末以降はディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の通貨改革によって貨幣制度が大きく変更され、コインの通用価値は日々変化し続けました。こうした中で、時代が経ても銀行業の役割はますます欠かせないものになったと思われます。
ちなみにローマでは現在のように誰もが銀行に預金していた訳ではなく、現金資産は自宅に保管していました。いわゆる「箪笥預金」です。小さいものでは貯金箱、富裕な資産家は鍵つきの大きな金庫を持ち、その中に財産としての金貨や銀貨、銅貨を保管していました。
古代ローマ時代の金庫
上部な青銅製(または鉄製)の金庫は一人で動かすことができず、しっかりとした鍵が取り付けられていました。富裕な家庭ではこうした金庫(Arca,アルカ)が必ず存在し、人目のつく広間に置かれ、門番が監視できるようになっていました。上流階級ではこうした箱に資産価値の高い、良質な金貨や銀貨を退蔵したため、結果的に貴金属を減少させ、市中には低品質な貨幣しか流通しなくなったとみられます。
ポンペイの富裕層の住宅跡からは、噴火よりはるか以前の共和政期のデナリウス銀貨が多く発見されていることから、当時から古い銀貨や金貨のほうが現行コインより良質であることが認知されていたようです。おそらく銀行業者はこうした古いコインの品位も熟知し、必要に応じてそれを実態レートで両替していたのだと思われます。
ある意味でローマの銀行業者は古代における古銭商であり、コインの専門家だったと言えるかもしれません。
こうした当時の富裕層の資産防衛による貯金や、銀行業者の営業活動によって、2000年を経た現在でも古代ローマのコインが形ある姿で残されました。彼らが大切に取り扱い、保管したコインは時を経て文化的な価値を認められ、現在では新しい形の「資産」として取引されています。
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