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今回は古代ローマ帝国に存在した造幣所の監督者、フェリキシムスについてご紹介します。
ローマでは共和政時代の紀元前3世紀末より、カピトリウムの丘に建立されたユノー・モネタ神殿内で貨幣の製造が行われていました。モネタはもともと「忠告」を意味するラテン語でしたが、ここで長らく貨幣製造が行われたことから「お金(※英語のMoney)」を意味する言葉と認識されるようになりました。
帝政期になり、貨幣の製造数が増大しても造幣所は稼働を続け、帝国の財政・通貨経済を根本から支える重要な国家機関として維持されました。しかし、その重要な場所で働いていた人々の名前や生活は皆無と言ってよいほど記録に残されていません。
ほとんど唯一、名前が残されているのが、3世紀後半に造幣所の責任者となっていたフェリキシムスという男でした。この人物がローマ史に名を残したのは、非常に不名誉な素行に基づいています。
【混迷の時代のローマ造幣所】
彼はローマの造幣所を監督する責任者であり、コインの製造から品質の管理までを管轄し、造幣所で働く職人たちを束ねる立場にある人物でした。彼が造幣所で働いた時期は「3世紀の危機」と称される混乱の時代、軍人皇帝時代にあたりました。度重なる帝国内外の戦争とクーデターによる血なまぐさい皇帝交代が繰り返され、広大な帝国は分裂状態にありました。
このような最中で国家の歳入は減少する一方、軍事費などによる出費は増大し続けていました。貨幣の製造量は国家の要求を満たすために飛躍的に増大しましたが、それは必然的に品質の低下を実行せざるを得ませんでした。2世紀末から銀貨の品位は徐々に低下し始めていましたが、特に268年以降は銀の供給が減少したことも手伝い、ほとんど銅貨といってよいコインが濫造されていきました。
こうした低品位の銀(Billon)で造られた貨幣は古くよりエジプト属州で造られていましたが、ローマではこれに銀メッキを施し、酸に少し浸すことで輝く銀貨のように見せる技術を発達させました。
銀メッキを施されたアントニニアヌス銀貨(278年, プロブス帝)
製造当時は銀色に輝いていたコインも経年変化や、流通の過程でメッキが薄れていき、下地の銅色が露になりました。アントニニアヌスは名目上2デナリウスの価値があるとされましたが、実質的な価値はどんどん低下していきました。
さらに頻繁に政権が交代し、国家による各部門の監督が行き届かなくなると、税収など国家の歳入を横領する官吏が増加し、財政悪化に拍車をかけました。こうした不正官吏の一人が、造幣所で監督的立場にあったフェリキシムスでした。
フェリキシムスは本来コインに使用される銀や金を横流しし、莫大な利益を得ていたとみられています。折から品質が低下していたコインには他の卑金属を混ぜて重量を増加させ、自らは貴金属を貯めこんでいたのです。こうした不正は大規模に実施されていたとみられ、金型彫刻師や鍛冶工、炉の職人など造幣所の関係者にも利益を分け与えることで、フェリキシムスの地位も磐石なものになっていきました。富を蓄えたフェリキシムスはローマの有力者たち、元老院議員や貴族、都市参事、ウェスタの神官などと人脈を結び、皇帝が不在の帝都ローマを陰で牛耳るほどの存在になります。
フェリキシムスが富を蓄える一方で、さらに粗悪なコインが大量に市中に出回り、ローマ帝国の貨幣経済は悪化の一途を辿りました。
公益を犠牲にして私腹を肥やしたフェリキシムスの所業は、一人の皇帝の登場に伴い危機に瀕することとなります。270年8月、モエシア出身の軍人アウレリアヌスが皇帝に即位します。
【世界の復興者-アウレリアヌスの通貨改革】
アウレリアヌス帝のアントニニアヌス
(274年にティキヌムで製造)
優れた将軍だったアウレリアヌスはまずドナウ川でヴァンダル族を撃退し、続けてイタリア半島に侵攻したゲルマン人の部族連合も撃退。さらに東方のシリアとエジプトを支配し独立状態を誇っていたパルミュラの女王ゼノビアと対決し、戦いの末に女王を捕らえ、版図をローマの支配下に復帰させることに成功します。続けて274年には西方の独立政権 ガリア帝国を攻撃。圧倒的な勝利を収めガリアを再びローマの支配下に置きました。
短期間に皇帝が交代し、帝国の分裂と衰退が目に見えていた時代、登場からわずかな期間で帝国を再統一したアウレリアヌスはローマ人にとって希望となり、まさに救世主といってよいほどの英雄でした。元老院はアウレリアヌスに「世界の復興者」という尊称を授け、その偉大な功績を称えました。
アウレリアヌス帝に降伏するゼノビア女王
この戦いの間、アウレリアヌスは帝国の各地を転戦していたため、首都ローマを留守にしていました。その間、監視のないローマの造幣所ではフェリキシムスの下、相変わらず不正が横行していましたが、274年にアウレリアヌスが凱旋帰国すると事態に変化が生じました。
豪華絢爛な凱旋式(※パルミュラの女王ゼノビアとガリア帝国最後の皇帝テトリクスは捕虜として、数多くの戦利品と並んでパレードを行進させられた)の後、アウレリアヌスは帝国復興の次の仕事として「通貨改革」に着手します。
アウレリアヌスは年々通貨の質が低下し、それに伴い信用度が下落することで経済に混乱が生じていることを理解していました。帝国の威信を回復するためには、国家が発行する通貨の信用を取り戻すことが重要と考えたのです。
アウレリアヌスは事実上の銅貨と化していた銀貨(主にアントニニアヌス)を回収して、新発行の銀貨の品位は回復するよう指示し、量目を減らしていたアウレウス金貨の品質も改善(約5.4g→6.5g)するよう試みます。
この措置は当然、銀や金を着服していたフェリキシムスと造幣所の職人たちにとっては不都合極まりない措置でした。これまで通り利潤を得られなくどころか、これまでの不正が調査され、皇帝によって断罪される可能性もあったためです。さらに従来はローマとイタリア半島内外の重要な都市にしか設置されなかった造幣所が、アウレリアヌスの出身地であるバルカン半島の諸都市にも開設されたことにより、貨幣製造を中心的に請け負っていたローマ造幣所の役割が低下するという危機感もありました。
軍人皇帝アウレリアヌスは軍隊式に物事を執行するため、不正に対する処罰は大変厳しいことで知られていました。長年の皇帝不在にかこつけて横行していたあらゆる不正は、軍隊式の粛清によって速やかに正すべきとアウレリアヌスは考えていたのです。
無論、フェリキシムスと仲間たちは解雇どころではなく、いずれ断罪され処刑されることは目に見えていました。どうせ殺されるならばと、フェリキシムスと造幣所の職人たちは破れかぶれの行動に打って出ることにします。
【フェリキシムスと造幣職人たちの反乱】
ついに274年6月、フェリキシムスと造幣所の職人たちは帝都ローマの中心カエリウスの丘に立て篭もり、皇帝アウレリアヌスに反旗を翻しました。連戦連勝の皇帝軍に対して、素人同然の職人たちを率いるフェリキシムスが挑んだ戦いはまさに無謀といえる自殺行為でした。しかしフェリキシムスにはわずかな可能性に賭けていました。これまで不正に得た蓄財と人脈を生かして、多くの武器と協力者を確保できたのです。
この頃、アウレリアヌスは通貨改革と合わせて経済統制をローマで強行し、市民に対する穀物配給をパンやオリーヴ油、塩や豚肉にまで拡大させました。そのため食料品を扱っていた同業組合(コレギア)は公的な影響下におかれ、様々な義務を負わされることになっていました。改革はコレギアや都市参事会員に対する統制に及び、これまで利益を得ていた商人や貴族の不満が高まることになりました。厳格な皇帝に対する不満が募っていたこともあり、フェリキシムスの企てには多くの協力があったとみられ、元老院議員の中にも反乱に加担する者がいたと伝わっています。
そのため造幣所の職人たちから発足した寄せ集め反乱軍は、皇帝軍に対して思いのほか善戦し、数々の戦いを制してきたアウレリアヌスを手こずらせることになります。僻地での戦いに慣れた兵士たちは狭いローマ市内での攻防に苦戦し、皇帝はさらに軍団を投入せざるを得ませんでした。
軍を相手に勇猛に戦った造幣所の職人たちですが、最後は皇帝軍の戦力に押され鎮圧されることになります。首謀者フェリキシムスは殺害されましたが、数週間にわたる戦闘で7000人もの兵士が斃れたと記録されており、戦闘の苛烈さを物語っています。
こうして造幣所の職人たちがローマの中心部で、皇帝に対して起こした前代未聞の反乱は、成功することなく多数の死傷者を出して終結したのでした。
【反乱とアウレリアヌスのその後】
フェリキシムスの反乱に賛同した共犯者たちの多くは戦死しましたが、生き残った者たちにも過酷な断罪が待っていました。多くの兵士を殺されたアウレリアヌス帝は、帝国復興の恩人であるはずの自分に反旗を翻したローマ市民に情け容赦をかけることはありませんでした。
反乱鎮圧後、共犯者はもはや造幣所の関係者だけにとどまらず、少しでも反乱に協力したと疑われた人々、皇帝に対する不満分子と見做された有力者たちも、立証手続きや刑罰の正当性も無視して次々断罪されました。ローマの有数の門閥から元老院議員、皇帝の甥に至るまで粛清され、死刑執行人は疲労し牢獄は囚人で溢れかえったと伝えられています。
この大粛清は武帝アウレリアヌスの前評判を実証する例となり、フェリキシムスが恐れた通りの人物であることが証明される結果になりました。ローマ市民はモエシア出身の軍人上がりであるアウレリアヌスを内心では見くびっていましたが、反乱鎮圧後は厳粛な姿勢の皇帝を恐れ、表立って反対の意を唱える者はいなくなりました。アウレリアヌスにとっては仕事を迅速に進めやすくなったことでしょう。
しかし戦勝を誇ったアウレリアヌスも最後はその厳格さが仇となり、275年10月、行軍途中の陣中で暗殺されます。背景には不正な収奪を行った秘書官を皇帝が厳しく叱責したため、その後の厳罰・処刑を恐れた秘書官の奸計によって殺されたのだと云われています。奇しくもフェリキシムスと同じ動機によって、アウレリアヌスは葬られることとなったのです。
彼が実施しようとしたローマの貨幣改革は後のディオクレティアヌス、コンスタンティヌスなどの専制的な皇帝の指導力の下、紆余曲折を経て実現していきました。
【アウレリアヌス帝の貨幣改革とは?】
アウレリアヌスの貨幣に配された「XX」銘は、当時の貨幣改革の一端と考えられています。アウレリアヌス帝の貨幣改革は少なくともウァレリアヌス帝(260年)以前の品位に戻すことであり、銀品位を5%にすることだったと考えられています。デイヴィッド・シアー氏の『Roman Coins and their values』によれば、このアントニニアヌスの下部に刻まれた「XX」銘、または「XXI」銘は「1/20」を表しており、すなわちコインの重量に対して1/20(=5%)の純銀が含まれていることを明示している、と説明されています。
ただアウレリアヌスが実施しようとした通貨改革の全容は明確ではないため、この「XX」銘の意味も諸説あります。「X」は紀元前のデナリウス銀貨に打たれていた10アスを示す銘であり、そのため「XX」は2デナリウス、つまりアントニニアヌスの名目上の価値を明記しているとする説や、アウレウス金貨に対して1/20の価値を示すとする説、20デナリウスまたは20セステルティウス(=5デナリウス)とする説、または旧貨幣に対し20倍の交換価値を持つとする説など、多くの説がありますが、どれも確信を持って断言できる説明ではありません。
単純に造幣所の工房番号や、金型を区別するためのものとも解釈できますが、真相解明はこれからの考古学・貨幣学の研究進展に期待しましょう。
【参考文献】
・クリス・スカー著 青柳正規監修『ローマ皇帝歴代誌』創元社 1998年
・ヴィッキー・レオン著 本村凌二監修『図説 古代仕事大全』原書房 2009年
・エドワード・ギボン著 中野好夫 訳『ローマ帝国衰亡史2』ちくま学芸文庫 1996年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・David R Sear『Roman Coins and Their Values』Spink & Son Ltd 2005年
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