こんにちは。
毎日暑い日が続いていますね。夏が暑いのは当たり前ですが、かつては日差しが強くても日陰に入れば少しは涼しかったように思います。ですが昨今は外にいるだけで空気が熱く、サウナにいるより息苦しさを感じます。
外出も危険な日々が続きますが、健康に乗り切っていただければ幸いです。
今回は古代ギリシャ世界に大きな影響を与えたアケメネス朝ペルシアのコインをご紹介します。
ペルシアのコインを古代ギリシャコインのカテゴリーに入れるか否かは疑問もありますが、当時のギリシャ世界に大きな影響を与えたという事実は無視できません。
アケメネス朝は現在のイラン南部を起源とする王朝であり、紀元前550年に大国メディアを滅ぼしてイラン高原を統一したキュロス2世を始祖とします。
勢いに乗るキュロス2世は周辺諸国の征服にも邁進し、小アジアやメソポタミア、パレスチナ、フェニキア、中央アジアまで勢力圏を広げました。オリエント世界を統一する大帝国を築く過程で、紀元前547年に小アジアのリディア王国を征服したことが、アケメネス朝のコイン発行のきっかけとなりました。
最盛期のアケメネス朝ペルシアの版図 (紀元前500年頃)
リディア王国 1/3スターテル (紀元前620年-紀元前547年頃)
初期のコインは金と銀の合金エレクトラムによって造られ、リディア王を象徴するライオンが刻印されています。裏面の陰刻印は、表面の図像を打ち出すための打刻跡です。
リディア王国は世界史上初めて本格的なコインを製造した国とされ、クロイソス王の時代には金貨・銀貨を大量に発行して経済的な繁栄を謳歌しました。
クロイソス王のリディアを滅ぼしたアケメネス朝は、ギリシャ世界への影響力を得るため「貨幣」という新しい経済システムを保持・継承しました。
(*首都サルデス陥落後にクロイソスは処刑されたと伝わる一方、助命されてキュロス2世の顧問になったとも伝承されています)
リディアのコインは小アジア西部のギリシャ植民都市で広く流通しており、ギリシャ人の傭兵を得る上で重要な武器でした。アケメネス朝は引き続きリディアのコインを製造し続け、現地の傭兵を雇うことで小アジア支配を確固たるものにしていきました。
アケメネス朝支配下のサルデスで製造されたシグロス銀貨
(紀元前545年-紀元前520年頃)
*リディアの1/2スターテル銀貨に相当。クロイソス王の時代に発行されたコインとほぼ同じデザインですが、極印がややシャープになっています。
紀元前521年に王位に登ったダレイオス1世はリディア以来続いた「ライオンと牡牛」のデザインを一新し、新しくペルシア独自のコインに刷新します。
こうして発行されたのがダリック金貨とシグロス銀貨です。
ダリック金貨 (紀元前510年-紀元前450年頃)
ダリックは古代ペルシア語で「金」を意味する「ダリ」に由来します。品位98%の金8.4gという基準は、良質な牡牛一頭に対する遊牧民の相場に基づいているという説があります。
シグロス銀貨は品位90%の銀5.6gによって造られ、20枚でダリック金貨1枚の価値に相当しました。
シグロス銀貨 (紀元前505年-紀元前480年頃)
金銀はリディアだけでなく、アケメネス朝が到達した東端のインダス川からも砂金を調達しました。そのため高品質の金貨を大量に製造することが可能になったのです。ダレイオス1世にとっては独自の貨幣を発行し、王朝の強大な富の力を諸民族に誇示する狙いもあったと思われます。
コインには槍と弓を持って走る王、または弓を構える王の姿が表現されています。冠を戴く姿からペルシア王と認識されていますが、理想された祖先の英雄像という見方もあります。この意匠はオリエントの君主の武威を象徴した「ライオン狩り」の様子を表現しているとする説もあります。
(*初期のタイプは弓を構える姿であり、その後は武器を持って走るor跪く構図に統一)
ペルセポリスのレリーフ (ライオンと兵士たち)
ライオン狩りはオリエント世界では帝王の象徴的行為とされ、百獣の王であるライオンを打ち倒す姿は君主の武威を分かりやすく誇示する役割がありました。狩猟用の広大な敷地を整備し、放たれたライオンを王と従者、兵士たちが追いつめて討ち取る一大行事は軍事教練であり、王の神聖性や強大な権力を示す政治的パフォーマンスでもありました。
もしリディアコインの象徴的意匠である「ライオン=リディア王」を意識していると仮定すれば、ペルシア王のライオン狩りが新たな意匠に選ばれたのも納得できます。ライオン狩り=リディアの完全征服を示し、リディアの経済的地位はアケメネス朝が継承したことを表しているのかもしれません。
この意匠は弓矢が槍やナイフに置き換わったり、ひげや顔つきに変化がみられるなど時代によって差異はありますが、ダレイオス1世以降一貫して同一の構図が守られていきました。
裏面はリディアのコインと同じく長方形の陰刻印が確認できます。
シグロス銀貨 (紀元前480年-紀元前420年頃)
シグロス銀貨 (紀元前420年-紀元前375年頃)
シグロス銀貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
貨幣経済が発達したギリシャと密接な小アジアやフェニキアとは異なり、エジプトやメソポタミア、ペルシア本国では貨幣経済が未発達のままでした。納税は金貨や銀貨でも行われましたが、市中では現物取引が一般的であり、物産品による献納が定着していました。アケメネス朝の支配領域は東西に広く、地域ごとの文化や経済の差異が大きい点も特徴でした。
アケメネス朝の君主は「シャーハンシャー(=諸王の王)」と称され、多種多様な民族と地域の上に君臨することを示しています。そのため貢納と兵力の提供、宗主権を認めれば現地の慣習を保持することを容認していました。ギリシャ人社会の貨幣制度を採り入れ、ペルシア風でありながらも保持し続けたのもその一環です。また小アジアにはアケメネス朝に服属したギリシャ系植民都市もあり、それらの都市では独自のコイン発行が認められていました。
しかしペルシア人による支配は徐々にギリシャ人の反発を蓄積し、紀元前500年には小アジアのイオニア地方で大規模な反乱が勃発。その背後にはアテネなどギリシャ本土の援助があるとして、ダレイオス1世は大軍勢を送り込んでギリシャ征服を目指します。
こうして始まったペルシア戦争(紀元前492年-紀元前449年)はギリシャ史における重要な時代となり、その後のギリシャ諸都市の勢力関係にも大きな影響を与えます。
この戦争において、アケメネス朝はペルシア人だけでなく多くのギリシャ人傭兵も動員しています。ギリシャ人の相手をさせるにはギリシャ人が最適ということで、各地から傭兵をかき集めて戦力として投入しました。傭兵を集める上でも、ダリック金貨やシグロス銀貨が使用されました。また、ギリシャ本土の都市国家間の結束を揺さぶるため、親ペルシア的な有力者にも金貨銀貨が贈り関係性を維持しました。
ダリック金貨 (紀元前375年-紀元前336年頃)
紀元前4世紀以降は図像が細密化し、より写実性の高いものに変化しました。
半世紀に亘った戦いの末、結果的にペルシアのギリシャ征服は失敗に終わりますが、その後も硬軟織り交ぜた形でギリシャへの影響力を保持し続けました。後にギリシャを二分したペロポネソス戦争(紀元前431年-紀元前404年)やコリントス戦争、神聖戦争ではペルシアのダリック金貨が飛び交い、各国を買収して戦争を長期化させることに成功しました。
また小アジアは依然としてアケメネス朝の勢力圏にあり、ギリシャに対する大きな脅威であり続けました。
小アジア南部のキリキア地方の都市マロスで造られたオボル銀貨
(紀元前390年-紀元前385年)
重量はギリシャの基準で造られていますが、デザインはペルシア様式が色濃く反映されています。
しかしマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)による東方遠征が始まると、小アジアのペルシア軍は次々に駆逐され、ダレイオス3世自らが出征したイッソスの戦いでは大敗を喫しました。ダレイオス3世が戦場から敗走したことでアケメネス朝に対する求心力は急速に失われ、その後はフェニキア、エジプト、メソポタミアを失い、ついにはペルシア本土も失うことになりました。
イッソスの戦い (紀元前333年)
(ポンペイのモザイク画)
200年以上オリエント世界を統治したアケメネス朝はアレキサンダー大王によって滅ぼされ、その後はギリシャのアッティカ基準による統一通貨が広く流通することになりました。遠征軍はアケメネス朝が貯め込んでいた莫大な量の金銀を獲得し、それらを自分たちのコインを発行する原材料としました。
ペルシア王の姿を刻んだダリック金貨やシグロス銀貨も戦利品として溶解され、新たな支配者となったアレキサンダー大王(ヘラクレス像)の姿を刻んだコインに変えられたのです。
アレキサンダー大王も中央アジア~インダス川まで支配権を広げ、各地にギリシャ人の植民都市を建設しました。これらの都市では後にギリシャ系の王朝が興り、ギリシャ式の独自コインが数多く発行されることとなります。
ギリシャ文化圏と接していた西方とは異なり、東方では物品経済が一般的だった(*献納や納税も現物によって行われた)ため、アケメネス朝の貨幣はあまり流通しなかったとみられています。しかし現地ではパンチマーク(小打刻印)が打たれたコインが出土することから、領域を超えた地域でも地金の価値として取引されていたとみられます。
加刻印が打たれたシグロス銀貨
銀の品質を確認した際に打たれたとみられ、刻印があることでアケメネス朝の領域外でも金属的価値が認められたと考えられます。それぞれのモティーフは月や太陽、幾何学文様など多種多様ですが、こうした加刻印はバクトリアやインドなど東方地域にみられます。
西方のリディアで製造されたコインがアケメネス朝の交易ルートを通じ、遠く離れた東方にまで到達していたことを示しています。アケメネス朝の支配領域の広大さと多様さを物語る史料といえます。
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