今年の3月もあっという間に最終日です。今年の春は早いのではないかとも言われていましたが、3月後半は寒い日が続きました。
結果的に桜の開花時期も例年並みとなり、久しぶりに桜咲く4月上旬となりそうです。春爛漫の陽気が楽しみです。
今回はイギリスの小島ランディ島で発行された特殊なコインとその物語についてご紹介します。
ランディ島はイギリスのデボン州、トーリッジの沖合いに位置する小さな島です。イングランドとウェールズを隔てるブリストル海峡(またはブリストル湾)では最大の島でもあります。
面積は4.45平方kmであり、南北に5km、東西に1.2kmの細長い形状をしています。
島の人口は2007年時点で30人ほどであり、その多くが本土から訪れる観光客の対応に従事しています。
海岸線のほとんどは崖になっており、様々な海鳥の繁殖地になっています。島全体が海洋保護区に指定され、希少な海鳥を観察するツアーは人気の観光資源になっています。
本土とは船で結ばれており、日帰りでも訪問することができます。短時間で一周できるほどのコンパクトさから、トレッキングや週末の休暇で訪れる人も多いようです。イギリスのメジャーな観光地とは趣を異にする、素朴な自然を楽しめる島として知られています。
ランディ島南部の桟橋と灯台
この島は歴史上、貴族の所領として受け継がれましたが、度々所有者が変わっていきました。人口と資源に乏しいことから開発や投資も進められず、政府にも重要視されていませんでした。ランディ島はイギリス領内でありながら個人の私有地という、一風変わった地位に置かれ続けました。
1925年にランディ島が売りに出された際、ロンドン在住の実業家マーティン・コールズ・ハーマンが購入しました。
彼はまだ会社員だった1903年、初めてこの島を訪れてからすっかり気に入り、その帰り道に「いつの日かランディ島を買いたい」と口にしました。それ以降度々ランディ島を訪れており、その景観や静かさを気に入り、ますます所有欲を高めていきました。
その後実業家として成功したハーマンはついに念願だったランディ島を購入する機会に恵まれ、迷わず購入を決断。名実共にランディ島はハーマンのものとなりました。
マーティン・コールズ・ハーマン
(1885-1954)
ハーマンは代理人として友人のフェリックス・ゲイドを雇い、島の実際の管理を委託しました。ハーマン自身も休暇には家族と島を訪れ、穏やかなひと時を過ごしました。
フェリックス・ゲイドと妻ルネ
夫妻はランディ島に移住し、小さなホテルを運営しながら島を訪れる観光客を受け入れました。
当初は休暇を家族と過ごす保養地として購入しましたが、当時、島には40人ほどの住民がいました。ハーマンは住民のいる島の「統治」にも関わることになったのです。
1928年、島唯一の郵便局が閉鎖され、郵便物のやり取りに支障が出る恐れがありました。ハーマンは民間郵便として事業の継続を決め、1929年11月にはランディ島独自の切手を発行しました。
イギリスで発行されている切手と異なり、英国王の肖像の代わりにランディ島に生息する海鳥パフィン(ニシツノメドリ)が表現されています。
上部には「Lundy」、さらに額面は「PENNY」ではなく「PUFFIN」となっており、イギリス本国発行の郵便切手とは異なる、私的なラベルであることが強調されています。
このパフィンはイギリスの1ペニーと等価であることが示され、ハーマン氏が独自に導入した通貨単位でした。もともと島の住民たちが物々交換を行なう際、パフィンの羽を用いていたことに由来しています。
パフィン
和名はニシツノメドリ。ウミスズメ科の海鳥で体長は30cmほど。北大西洋の広い範囲に分布する渡り鳥です。その派手な見た目から「海のピエロ」などとも呼ばれています。
そして同年中には、パフィン単位の独自コインも発行しています。
表面にはハーマンの横顔肖像、裏面には岩の上に立つパフィンが表現されています。材質は青銅です。
シンプルなデザインですが、造型は力強く写実的であり、一国家が正式に発行したコインとしても遜色ない出来栄えです。
側面部にはランディ島の灯台からインスピレーションを得たと思われる銘文「LUNDY LIGHTS AND LEADS (=ランディの灯は導く)」が配されています。
このコインはバーミンガムの民間造幣企業ラルフ・ヒートン社によって製造され、デザインと金型作成も含めて100ポンド以上の費用がかかりました。
世界中のコイン製造を請け負う企業ということもあり、偽造防止対策も施された本格的な仕上がりです。
ハーマンは1パフィンと1/2パフィンをそれぞれ50,000枚製造し、それぞれ1ペニーと1/2ペニーに相当するコインとしてランディ島で有効としました。
しかし当時イギリスで流通していた1ペニーが9.45g/30.8mmに対し、1パフィンは10g/29.29mmとサイズに差がありました。あくまでランディ島でのみ有効な代用貨幣(トークン)として発行していたことが覗えます。
しかし人口40人にも満たない小さな島で、果たして50,000枚ものコインが必要なのでしょうか?
19世紀初頭には銅貨が慢性的に不足し、日常の決済に支障が生じたため、イギリス各地で多種多様なトークンが発行されました。しかし20世紀には充分な量の小額貨幣が供給され、国内の隅々まで流通していました。
郵便事業や切手は島の生活を維持するために必要な措置でしたが、その延長線上で発行されたコインはあくまでハーマンの自己満足、記念品のような位置づけで作らせたものと考えられます。それは100ポンドもの費用を投じて、専門の造幣企業に依頼したことからも分かります。もし、あくまで島内での決済上の便宜だけを考えて発行するなら、もっと安価かつ低品質な仕上がりでも良いはずです。
結局は島民の経済活動の為というよりも、島を訪れた観光客へのお土産としての役割があったと見受けられます。
ランディ島を結ぶ本土側の船の発着地ビディフォードの銀行では、パフィンコインをイギリスのペニーに交換することができ、銀行はパフィンコインをまとめてランディ島へ送り返していました。
とはいえ、ハーマンが「ランディ島では有効な貨幣」として発行したことは非常に大きな意味がありました。これは当時のイギリスの通貨法に抵触する恐れがあったからです。
ハーマンはパフィンコインが出来上がると、サンプルを英国王立造幣局に進呈しました。この時、造幣局はこのコインの発行が1870年通貨法第5条に抵触する恐れがあると警告しましたが、ハーマンはランディ島は王室領のマン島やジャージー島などと同じく、イングランドに属していないため問題ないと回答しました。
やがて本土から警察官が視察に訪れ、酒場でイギリスのペニーとハーマンのパフィンコインが混合して使用されている実態を確認します。
アメリカのタイム誌(1930年1月20日付)のランディ島に関する記事は、島民の間でこのパフィンコインが流通し始めている様子を伝えています。
検察は1870年通貨法が個人による私的な代用貨幣(トークン)の発行を禁じているとして、1930年3月5日にハーマンを起訴。ハーマンは罰金とパフィンコインの流通停止を命じられました。
これに対しハーマンは控訴し、1931年1月13日にロンドンの高等法院で控訴審が開かれました。
ここでハーマンは、ランディ島は歴史的に自由港として開かれており、また住民はイングランド王に税を納めたこともない。さらにイギリス本土との往来には税関を通過しなければならない。よってランディ島は高度な自治権を持つ特別な地域であり、イギリスの法は及ばない。この「ポケットサイズの自治領」において、領主である自分は貨幣を発行する権利を有していると主張しました。
しかし控訴審ではランディ島の特別な地位については論点とされず、あくまでイギリスの通貨法に抵触していることが取り上げられました。結局ここでもハーマンは敗訴し、15ギニーの裁判費用、および5ポンドの罰金支払いが確定しました。
その後「パフィンコイン」も一連の騒動を経て通用停止となり、ランディ島の小さな流通市場から回収されていきました。流通していたのはわずか1年ほどと、非常に短命なコインでした。
1954年にハーマンが没するとランディ島は息子に相続されましたが、道路などインフラ設備の維持が徐々に難しくなり、1969年に再び売りに出されます。新たな購入者である富豪ジャック・ヘイワードは15万ポンドで島の所有権を得ると、そのままナショナル・トラストに寄付しました。以降、現在に至るまでランディ島は歴史・自然保護区として公益法人の管理下にあります。
「自分オリジナルのコインを作ってみたい」というのは、コイン収集家なら一度は想像してみる夢ではないでしょうか。ハーマン氏は自らの肖像を刻んだコインを発行し、自分の小さな王国の中で実際に流通させました。
残念ながら法に触れるものでしたが、発行されたコインは興味深い顛末と共に後世に残され、コレクターの間で価値を有し続けています。
ランディ島はハーマン家の所有ではなくなりましたが、この小さな島の歴史を伝える貴重な史料になったのです。
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