7月に入ってから、毎日のように猛暑の日が続きますね。夕方になると激しい雷雨が降るなど、一日のスケジュールも立てにくいほど極端な気候です。
外出するにも命がけですが、この暑さは日本全国どこも変わらないようです。8月になって少しは和らいでくれるとありがたいのですが・・・。
今年の11月15日(金)よりハリウッド映画『グラディエーターII』が公開されます。2000年『グラディエーター』の続編となる作品であり、前作で少年だったルキウスが成長し、剣闘士として戦う物語です。
前作の時代設定はコンモドゥス帝の時代でしたが、今回はそこから時を経たカラカラ&ゲタの時代になるようです。
古代ローマ帝国のイメージを広く根付かせた映像作品の続編であり、今から公開が楽しみです。
今回の作品では主人公ルキウスを支援する大商人としてマクリヌス(演:デンゼル・ワシントン)という人物が登場しますが、同時代に実在したマクリヌス帝(在位:AD217-AD218)をモデルにしたキャラクターだと思われます。
マクリヌスが帝位にあった期間は短く、その間に残した功績は必ずしも多くはありませんが、多くの点で異例のローマ皇帝でした。
マクリヌス帝肖像
(セルビアのベオグラード近郊で出土した青銅製頭像)
マルクス・オペッリウス・マクリヌスは164年頃に北アフリカのマウレタニア属州都市カエサレア(*現在のアルジェリア北部,シェルシェル)に生まれました。一族は騎士階級身分でしたがムーア人の血をひいていたと伝わります。
*ムーア人は北アフリカの先住民を指し、後世にはベルベル人と同一視されています。
(*中世ヨーロッパでは北アフリカのイスラーム教徒全般を指す言葉となった)
彫りの深い顔つき、浅黒い肌、耳にはピアスを通して数多くの宝石類を身に着けた、異郷人的風貌が伝えられています。現存する肖像では豊かな顎鬚を蓄えていますが、これは賢帝として名高かったアントニヌス・ピウスやマルクス・アウレリウスのイメージを踏襲しているとみられます。
マクリヌスは法律を修めてローマ政界に進出、やがて同じく北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルス帝の近衛隊に引き立てられました。帝位が息子のカラカラに移ると近衛隊長に昇格し、最側近のひとりとして政権を支えました。
しかし、粛清を繰り返した暴君カラカラが自身をも排除しようとしていると察すると、マクリヌスは先手を打つことを画策しました。
パルティア遠征途中の217年4月8日、メソポタミアを進軍中、用を足すために隊列から離れた皇帝を近衛兵が刺殺。実行犯のマルティアリスはその場で殺害され、表面上は個人的恨みを持った一兵士による犯行とされました。
マクリヌスは無関係であることを示すように、カラカラの遺体を丁重に扱い、他の兵士たちと共にその悲劇を嘆きました。
事件から3日後の4月11日、最前線の指揮権を引き継ぐという名目の下、近衛隊長のマクリヌスが推戴され皇帝に即位。すぐさまローマ本国の元老院に知らせを送り、これを追認させました。
マクリヌスは元老院議員を経験せず即位した初めての皇帝であり、その出自民族から考えても異例のローマ皇帝でした。歴代の皇帝たちに倣い、マクリヌスも即位後に執政官の地位を得、パテル・パトリアエ(国父)の称号も授かりました。さらに9歳の息子ディアドゥメニアヌスをカエサル(副帝)とし、権威付けのためアントニヌスの名も加えました。
マクリヌス帝とディアドゥメニアヌスの銅貨
下モエシア属州のマルキアノポリス(*現在のブルガリア東部)で発行。マクリヌス帝の即位は迅速にローマと各属州に伝達され、新皇帝を表現したコインが各地で発行されました。
一方、セウェルス朝の外戚として権勢をふるっていたシリアのバッシアヌス家はマクリヌス帝にとって複雑な存在となりました。
当時、シリアのアンティオキアにはカラカラ帝の母ユリア・ドムナが滞在しており、マクリヌス帝は敬意を持って待遇しましたが、すぐさま事実上の幽閉状態に置きます。同年中にユリア・ドムナが病で没するとバッシアヌス一族は故郷のエメサに戻り、権力中枢の座から追われました。
シリア属州で発行されたマクリヌス帝のテトラドラクマ銀貨
カラカラ帝が始めたパルティア遠征はメソポタミアで膠着状態が続いていましたが、マクリヌス帝は早期に講和を結んで本国に帰還する選択をします。双方の撤退に際してローマは2億セステルティウスの賠償金を支払いましたが、この措置は前線で戦う兵士たちの士気を下げるものでした。
軍を退却させたマクリヌス帝はアンティオキアに入り、この都市から皇帝としての施策を指示しました。
そのひとつとして貨幣の改善が挙げられます。膨張する軍事費を賄うための貨幣増発と品位低下はカラカラ帝の時代まで度々行なわれ、それに伴いインフレーションが進行していました。マクリヌス帝はデナリウス銀貨の品位を50%前後からおよそ60%にまで引き上げ、品質を改善するよう指示しました。通貨と物価の安定を考慮した施策であり、財政の改革に真剣に取り組もうとしたことが分かります。
マクリヌス帝のデナリウス銀貨
皇帝不在のローマ市内で製造。肖像は彫像を参考に作成されたとみられます。
そしてパルティア遠征が終わったことで軍事費を圧縮できると考えたマクリヌス帝は、膨大していた軍の削減と特権の廃止を検討し始めました。
すると当初は支持していた軍もマクリヌス帝に対する不満を募らせていき、やがて軍隊内で人気のあったカラカラ帝を懐かしむ声が高まってゆきました。
潮目の変化を感じ取ったのはユリア・ドムナの妹ユリア・マエサでした。
ユリア・ドムナ没後は故郷のエメサに戻っていたバッシアヌス一族は、復権の時勢を窺っていました。マクリヌス帝に対する軍の不平不満が高まっていることを知ると、マエサは孫のウァリウス・アウィトゥスをエメサ近郊のラファナエアにあった第三軍団ガリカ兵営に連れ込み、軍団の支持を得て帝位を宣言させました。218年5月16日に始まった反乱は瞬く間にシリア属州の他の軍団にも波及し、マクリヌス帝の立場を危ういものにしました。
エラガバルス帝とユリア・マエサの銅貨
即位後の220年頃に下モエシア属州のマルキアノポリスで発行。皇帝と並んで祖母マエサの肖像が表現され、実権を握る存在であることが示されています。
当時14歳のウァリウス・アウィトゥスはエメサで太陽神エル・ガバルの神官を務めていたことから、後世には「エラガバルス」「ヘリオガバルス」などと呼ばれています。
母親のユリア・ソエミアスはマエサの娘であり、夫の元老院議員セクストゥス・ウァリウス・マルケルスとの間にエラガバルスが生まれました。しかし蜂起に際しては亡きカラカラ帝と密通して生まれた落胤と主張し、軍隊の支持を得ようとしました。
マエサ、ソエミアス母娘の目論見は成功し、カラカラ帝を慕う多くの軍団兵士の支持を取り付け、新たに登場した少年皇帝に忠誠を誓わせたのです。
この動きを知ったマクリヌス帝はローマの元老院に手紙を送り、反乱軍討伐のお墨付きを得て進軍を開始。さらに息子ディアドゥメニアヌスを正帝に格上げし、それを口実に兵士たちに祝い金を配りました。
しかし忠誠を繋ぎ留めることは難しく、マクリヌス陣営からもエラガバルス側に寝返り、反乱軍に加勢する兵士が続出しました。
マクリヌス帝は自ら軍を率いて打って出ることを決意し、アンティオキアに迫りくる反乱軍を迎え撃ちますが、マエサによる買収工作を受けた軍団の離反によって敗北。マクリヌス帝はアンティオキアに逃げ帰り、そのまま行方をくらませました。
この218年6月8日の戦いはマクリヌス帝の失脚を決定的なものにし、エラガバルス帝の確立とセウェルス朝の復興を明らかにしました。シリア属州での出来事ではあるものの、ローマの元老院は大勢が決したことを受けてエラガバルス帝を承認せざるを得ませんでした。
アンティオキアで造られたエラガバルス帝のテトラドラクマ銀貨
アンティオキアを脱出したマクリヌスはローマを目指して西へと逃避。幼い息子ディアドゥメニアヌスは危険を避けるため、パルティアへの亡命を目指して東へと送られていきました。
髭を剃り落として変装しながら逃避行を続けましたが、アジアとヨーロッパを隔てるボスポロス海峡を渡る直前、側近の裏切りによって捕まります。捕縛されたマクリヌスは逃げて来た道を連れ戻され、218年7月、カッパドキア属州のアルケライスで処刑。53歳だっと云われています。
そしてパルティアを目指していた息子のディアドゥメニアヌスも国境近くのゼウグマで捕らえられ、助命されず父と同じ運命を辿りました。
マクリヌス帝の在位はわずか一年、ローマ皇帝でありながら、ついにローマの地を踏むことなく短い治世を終えました。
北アフリカにルーツを持つ皇帝の出現は、領土拡大によって多様化したローマ帝国を象徴しています。一方で元老院議員でもなく、ローマに滞在していなくても軍の支持があれば皇帝になれるという前例は、武力による皇帝位の奪取を正当化する先駆けとも言えるでしょう。
マクリヌス帝亡き後、エラガバルス帝によってセウェルス朝は再興されますが、次のアレクサンデル・セウェルス帝を最後に断絶。ローマ帝国は軍人皇帝たちが目まぐるしく交代する混迷の時代へと入っていくのです。
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