こんにちは。
桜も満開となり、いよいよ春本番。暖かく過ごしやすい日も増えてまいりました。
昨今はコロナだけでなく、ウクライナ情勢が世界中の注目を集めています。日本も他人ごとではなく、物流の変化やエネルギー価格の上昇が物価に影響しています。何より多くの人々が不安定な状況下にあることは心配ですね。
気候だけでなく、人間の社会も早く穏やかになるように願っております。
今回は古代ギリシャ、セレウコス朝シリアの「アンティオコス大王」についてご紹介します。
「大王」としてまず思い浮かぶのはマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)ですが、後世において大王(the Great)と称される偉大な君主は、歴史上でも数少ない稀有な存在です。
古代史上においてアレキサンダーと共に「大王」と称される数少ない人物の一人が、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(在位:BC223-BC187)です。
彼の治世はかつてのアレキサンダー大王の再来を思わせるほど、征服戦争による領土拡大に費やされました。
アンティオコス3世
(パリ, ルーヴル美術館蔵)
セレウコス朝シリアはアレキサンダー大王の部下だったセレウコス1世(在位:BC305-BC281)が建てた王国であり、大王の東方遠征によって征服された小アジア~ペルシア~バクトリアにいたる広大なアジア部を継承していました。
しかし広大な領域をまとめることは容易ではなく、多様な民族をギリシャ系王朝が統治し続けるのは困難でした。さらに隣国プトレマイオス朝エジプトとの長年の対立や、セレウコス朝内部の権力抗争によってますます衰退が進んでいました。
紀元前223年、18歳で王位を継承したアンティオコスはすぐに困難な状況に直面することとなりました。即位後まもなくメディアの総督であるモロンが王を自称し、セレウコス朝からの離反を宣言したのです。モロンはメソポタミア地方の中心都市であるバビロンを拠点とし、ペルシス総督のアレクサンドロスやアトロパテネ王国、アルサケス朝パルティアなど東方勢力を味方につけていました。
対するアンティオコスはアンティオキア(*現在のトルコ,アンタキヤ)宮廷内の権力闘争のためすぐには動きがとれず、軍を率いてティグリス川を渡ったのは紀元前221年のことでした。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※治世最初期の紀元前223年~紀元前210年頃に首都アンティオキアで製造されたものとみられ、即位当初の若々しい青年像(もみあげが特徴的)として表現されています。
裏面は、世界の中心とされた聖石オンファロスに腰掛けるセレウコス朝の守護神アポロ。
若きアンティオコスはティグリス河畔の主要都市セレウキア近くのアポロニアでモロンの軍勢と対決し、重装歩兵や騎兵、ガラティアやギリシャ、クレタ島から招集した弓兵や傭兵、戦象を投入してこれを打ち破りました。勢いを失った反乱軍は敗走し、モロンは自ら命を絶ったとされています。敗北を知ったペルシスのアレクサンドロスもやがて自決し、アトロパテネ王国の老王アルタバザネスは戦わずしてアンティコスに降伏しました。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※裏面の一部が磨耗しているため発行年代は定かではありませんが、アンティオコスのダイアデム(王権を示す帯)のうねりの形状からセレウキアの造幣所で造られたとみられます。
緒戦において大戦果をあげたアンティオコスは宮廷内での権威を高め、本国を留守にしても王位を脅かす者がないよう準備を整えると、本格的にセレウコス朝の失地回復に乗り出します。
プトレマイオス朝エジプトに対する攻撃(第四次シリア戦争)は失敗したものの、小アジアで王を宣していた従兄アカイオスを倒すことには成功し、小アジアでの領土回復を成し遂げました。
後方の備えを万全にした紀元前212年、アルメニアへの侵攻を皮切りに本格的な「東方遠征」を開始しました。大軍を率いたアンティオコスは軍事力で小国を圧倒しながらもその独立は認め、セレウコス朝の宗主権を承認させること(=献納と軍役)で次々と服属させてゆきました。
紀元前211年にアルサケス朝パルティアのティリダテス王が没すると、その年の暮れにはアルサケス朝の夏季の首都エクバタナに進軍します。
エクバタナ占領後、アンティオコスは神殿の柱を覆っていた金箔や銀製の瓦を集めさせ、全て溶かして自らの肖像を刻んだ金貨銀貨に作り変えました。その総額は4000タラント相当(*1タラント=6000ドラクマ)に上るとされ、兵士への給与や恩賞としてこの後の進軍で活用されました。
ティリダテスの後継者となったアルサケス2世はアンティオコスと戦いましたが、最終的には和議を結び、再びセレウコス朝に服属することで決着。
紀元前209年、アンティオコスはさらに東へ軍を進め、バクトリア(*現在のアフガニスタン)へと攻め込みました。
バクトリア王エウテュデモスはかつてこの地を征服したアレキサンダー大王の曾孫とされ、王位を簒奪してバクトリアを統治していました。首都バクトラに篭城したエウテュデモスはアンティオコスの軍勢に対して地の利を活かしたゲリラ戦を展開、苦戦したセレウコス朝軍は2年もこの土地に足止めされることとなります。膠着状態の後に両者は和議を結び、バクトリアはセレウコス朝の宗主権を承認することとなったのです。
勢いに乗るアンティオコスはかつてのアレキサンダー大王と自らを重ねるようになり、彼に倣ってそのままインドへと進軍。ヒンドゥークシュ山脈を越えてマウリヤ朝の領域に侵入し、現地で戦象や食糧、金貨を得ました。これは紀元前206年のこととされ、かつて王朝の始祖セレウコス1世がチャンドラグプタ王と和議を結んでから99年後の出来事でした。
紀元前205年、アンティオコスは首都アンティオキアへと凱旋帰国を果たします。東方の失地をほぼ回復し、インドにまで到達したアンティオコスはアレキサンダー大王の再来と云われるようになり、ここから「メガス(大王)」と称されるようになったのです。
アンティオコス大王治世下のセレウコス朝
※紫色がアンティオコスによって征服された領域
名実共についに大王となり権威の頂点を迎えたアンティオコスですが、これ以降、彼の快進撃は勢いを失い始めます。
翌年の紀元前204年、エジプトでプトレマイオス5世が5歳で王位を継承すると、かつての雪辱を晴らそうと再びエジプト侵攻を計画。紀元前202年には第五次シリア戦争が勃発し、ユダヤを含めたパレスチナの大半を征服することに成功します。しかしこのことは、第二次ポエニ戦争を経て勢力を拡大していたローマと対立するきっかけになりました。
かつてのアレキサンダー帝国の再現を試みるアンティオコスは、今度はギリシャ本土の征服に乗り出します。紀元前196年に小アジアを経てトラキアへと上陸したアンティオコスは、ギリシャまであとわずかの地点まで迫りました。
これに対しギリシャ諸都市はローマに援軍を求めました。マケドニア戦争によってこの地に進出していたローマは、アンティオコス率いるセレウコス朝との対決姿勢を強めていきました。
対するアンティオコスは、かつての第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたカルタゴの名将ハンニバルを軍事顧問として迎え入れ、対ローマ戦争への準備を整えていました。ハンニバルはカルタゴ本国での政争に敗れて亡命し、セレウコス朝の庇護を受けていました。
スキピオ・アフリカヌスとハンニバル・バルカ
紀元前192年、アンティオコスはテッサリア平原に軍を進め、これにローマ軍が応戦したことでローマ・シリア戦争が勃発しました。紀元前191年 テルモピュライの戦いでセレウコス朝軍はローマ軍に破れ、アンティオコスは小アジアへと撤退。ローマ軍はこれを追撃し、小アジアへの上陸を開始してアンティオコスを追い詰めました。セレウコス朝軍は海戦ではローマ軍に善戦しましたが、やがて一進一退を繰り返すようになります。ローマ軍はセレウコス朝のハンニバルに対抗してスキピオ・アフリカヌスを戦線に派遣し、第二次ポエニ戦争の延長戦の様相を呈しました。
なお、ハンニバルの活躍がどれほどセレウコス朝軍の戦いに影響を与えたかは定かではなく、アンティオコスや他の指揮官たちに疎まれていたとも云われています。
セレウコス朝軍は小アジアに上陸したローマ軍の拠点を攻略しようとしますが上手くいかず、何度和議を申し入れても交渉は折り合いをつけることができませんでした。
その後、小アジアを舞台にした両軍の戦いは続き、最終的に紀元前188年のアパメイアの和約によって和議が成立。戦争はローマ軍の勝利に終わり、セレウコス朝はタウロス山脈(*現在のトルコ南部)より西のアジア領土を喪失し軍備も縮小、そして莫大な賠償金を課せられることになったのです。
この敗戦によって小アジアから排除されることになったばかりか、軍事的威信が削がれたことで、服属させていたはずのパルティアやバクトリアではすぐさま離反の動きが相次ぎました。わずか一代で王朝の失地を回復したアンティオコスは、自らその功績を無に帰してしまったのです。
ローマから課せられた賠償金を支払うため、アンティオコスはかつてのように征服地の神殿から富を略奪しますが、これが命取りとなり、紀元前187年に暗殺されて波乱の治世を終えました。アレキサンダー大王の再来と云われた「大王」としては悲しい最期だったと言わざるを得ません。
即位当初は脆弱だったセレウコス朝は、彼の活躍によって再び大帝国の威信を回復しつつありましたが、その治世が終わる頃には以前より脆弱な王国になっていました。この後、各地の離反や権力闘争、内乱が相次ぎ、他のヘレニズム王朝と同じく衰退、滅亡してゆくこととなるのです。
もしアンティオコスがエジプト・ギリシャなど西方に侵攻しなければローマと対決することはなく、領土と威信は維持されていたかもしれません。そうすれば王朝を再興した名君として、アレキサンダーに並ぶ正真正銘の「大王」として歴史に名を遺したことでしょう。皮肉にもこの「大王」の尊称が呪縛となり、運命を狂わせて晩節を汚すことになってしまったのです。
似たような事例は古今東西、いくらでもあるように思われます。いつの時代も「歴史は繰り返す」といわれますが、過去の出来事を知識として知っていても、現状の中に置かれた立場になれば、客観視することは難しいのかもしれません。
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