10月に入り、すっかり秋らしい日が増えてまいりました。
涼しい秋晴れの日には外出するのも心地良いですね。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋など、何をするにも最適な気候です。
何かと気を付けることも多いご時世ですが、楽しい季節にしていただけると幸いです。
さて、今回は古代ギリシャ・ローマ時代に珍重された幻の薬草「シルフィウム」が表現されたコインをご紹介します。
このコインが発行されたのはアフリカ大陸北部、現在のリビア東部に存在した古代都市キュレネです。
キュレネは紀元前7世紀頃にティラ島から移住したギリシャ人たちによって建設されたと云われています。最初の移住団はアポロ神の神託によってこの地を選んだことから、アポロ神と恋人キュレネが逃避行した先をこの土地と設定しました。都市名は恋人の名からそのまま「キュレネ」とし、のちにこの都市を中心とする一帯が「キュレナイカ」と呼ばれるようになりました。
キュレネの位置。近隣にはアポロニアと名付けられた植民都市も建設された。
キュレネの都市はアフダル山地から流れ出る水脈に恵まれた、緑豊かな高台に建設され、周囲にはアフリカ大陸の珍しい動植物がみられました。
やがてこの地に移住したギリシャ人たちは、周辺一帯に自生する不思議な植物を発見します。これが「シルフィウム」と呼ばれる花でした。
古代の記録によると高さ50cmほど、黒い樹皮に覆われた太い根と中が空洞になっている茎、黄色の葉を有すると記されています。キュレネを中心とする地中海沿岸部の狭い地域にしかみられず、採取できる場所は限られていました。
そしてこの草花から採れる樹脂を煎じると、調味料や香料、媚薬になることが発見されました。特に避妊薬、堕胎薬としての効果が広く宣伝され、たちまちキュレネの特産品として輸出されるようになったのです。
現在このシルフィウムが何の種であったかを特定するのは困難ですが、セリ科の多年草であるオオウイキョウの一種だったという説があり、コインの図像とも類似しています。
オオウイキョウとコインのシルフィウム
オオウイキョウも弱毒性があり、家畜が口にすると出血性の中毒症状が現われるとされています。
なお「シルフィウム」の名称は現在、キク科のシルフィウム属として残されています。「ツキヌキオグルマ」とも称される現在のシルフィウムは北米原産であり、形が古代のシルフィウムに似ていることから名づけられました。
現在のシルフィウム=ツキヌキオグルマ
キュレネにとって貴重な輸出品となったシルフィウムは、建設されたばかりの植民都市の経済に潤いをもたらしました。西にカルタゴ、東にエジプト、北にギリシャ本土を配したキュレネは地理的にも恵まれ、周辺の大国にも盛んに輸出されました。
効果的な避妊方法が確立されていなかった時代、飲むだけで避妊効果が得られるシルフィウムは需要が途切れることがなく、遠くギリシャ本土でも高値で取引されました。古代ギリシャの名医ヒポクラテスも、シルフィウムは解熱作用、鎮痛作用があり、咳の緩和や消化不良の改善にも役立つ薬草として推奨したと云われています。
シルフィウムによって富を得たキュレネは大規模な神殿や公共建築物が次々と造営され、北アフリカ有数のギリシャ植民都市として発展してゆきました。
経済的に発展したキュレネは独自のコインを発行しましたが、その裏面には都市に富をもたらしたシルフィウムを刻みました。現代となっては、失われたシルフィウムの姿を記録した貴重な史料になっています。
BC500-BC480 ヘミドラクマ銀貨
ハート形の意匠はシルフィウムの種とされています。
BC435-BC375 テトラドラクマ銀貨
BC322-BC313 1/4スターテル金貨
三本のシルフィウムが放射状に表現されています。
シルフィウムはキュレネの象徴となり、キュレネ=シルフィウムと認知されるほどの産品になりましたが、それはこの植物がキュレナイカ一帯でしか採取できなかったことを意味していました。栽培は試みられましたが、土壌や気候など、生育環境の不一致などから成功しなかったようです。
キュレネは王政や共和政を経験しながらも独立を保っていましたが、紀元前4世紀末からプトレマイオス朝エジプトの支配下に入り、紀元前1世紀半ばにはローマの庇護下に入りました。支配者が代わってもキュレネの自治は保たれ、シルフィウムの輸出によって経済的・文化的な繁栄を享受していました。
しかしその繁栄もやがて終わりを迎えます。建国以来長らく繁栄を支えていたシルフィウムが、ついに絶滅したためでした。
理由には乱獲や砂漠化による環境変化など、様々な理由が考えられていますが、少なくとも紀元前1世紀頃から徐々に減少し始め、紀元1世紀に入るとほとんど採取できなくなっていたようです。もともと自然に自生している植物であったため、経済的な理由から乱獲し続ければ枯渇するのは時間の問題でした。
大変な希少品となったシルフィウムはデナリウス銀貨と同じ重量で取引され、時には金と同じ重さで買われることもあったと伝えられています。
ローマの博物学者プリニウスはキュレナイカ産のシルフィウムの茎が、珍品として皇帝ネロに献上されたことを記録しており、これが古代の文書における最後の記録とされています。
シルフィウムを輸出できなくなったキュレネは交易の中継地として維持されましたが、262年と365年に大地震が襲い壊滅的打撃を受けます。これ以降、都市は完全に打ち捨てられ、巨大な廃墟群が往時の繁栄を物語るのみとなりました。キュレネの都市が遺跡として再発見されるのは18世紀になってのことでした。
キュレネの急速な発展はシルフィウムによってもたらされたため、当時のキュレネ市民たちはアポロ神からの贈り物だと考えていました。しかし皮肉にもキリスト教が伸張し始め、古代ギリシャ・ローマの信仰が終焉を迎えようとする節目にシルフィウムは姿を消し、それに支えられていたキュレネもまた衰退したのでした。
現在、キュレネ発行のコインは僅かな種類しか確認されておらず、発行していたのは限られた時期だったとみられています。それらには都市の繁栄を支えた、今はなきシルフィウムが表現されており、キュレネの繁栄とシルフィウムの姿を現代に伝えています。皮肉にもシルフィウムなき今、この花を表現したコインが、珍品として高値で取引されているのです。
こんにちは。
梅雨になり蒸し暑い日が多くなってまいりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
緊急事態宣言が解除され、世の中も再び動き出しています。
当店、ワールドコインギャラリーも再開して一ヵ月が経とうとしています。休日には人出も戻りつつありますが、街中を見ると以前とは人の流れが変わっているようにも思います。
多く見られた外国からのお客さんは見かけなくなり、遠くから観光で訪れている方も少ないような印象を受けます。
蒸し暑い中でも大半の人がマスクを着用している光景は、昨年とは大きく異なり、心おきなく遠出するにはまだまだ抵抗があるようです。
これからも油断はできず、すべて元通りとはいきませんが、注意しながら新しい日常を送っていければ良いですね。
今回は、古代ギリシャで発行された「振り返る山羊」のコインをご紹介します。
動物が振り返る構図を表現したコインは、古代ギリシャの各都市で発行されていましたが、振り返る山羊を表現したのはキリキアの古代都市 ケレンデリスでした。
ケレンデリスは現在のトルコ南部、メルスィン県の海沿いにある小さな町アイディンシクにあたります。現在では遠浅の海岸が38kmにわたって続き、穏やかで風光明媚な地中海沿岸の町ですが、古代にはキリキア地方における重要な港湾都市として繁栄を謳歌しました。
かつてのケレンデリス、現在のアイディンシク
伝承ではシリアからやってきたサンドコスが建設した都市とされ、歴史家の見方ではフェニキア人の植民都市として始まったと考えられています。1986年に行われた発掘調査によって、紀元前8世紀より前に既に都市が形成されていたことが分かっています。その後はサモス島から移住したイオニア人やサミア人の植民都市として発展し、東地中海の重要な港町のひとつとして交易の要衝となりました。
ケレンデリスから西はエーゲ海などギリシャ諸都市、南はキプロス島~エジプト、東はシリア~フェニキアへと繋がる要衝として、周辺の勢力関係にも影響を与えていました。ペルシア戦争(BC499-BC449)の際はアテネの艦隊がケレンデリスに寄港し、そこからキプロス島やエジプトのペルシア軍に向けて出航しました。そうした経緯からケレンデリスはアテネ主導のデロス同盟に協力し、デロス同盟の都市の中で最も東に位置する都市として知られました。
ペルシア戦争が終結した後、キリキアはアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれますが、ケレンデリスは主要港のひとつとして自治・独立を守り、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征までそうした状態を継続させました。
この銀貨はアケメネス朝に従属していた時期に発行されたものであり、裸の騎士と振り返る山羊という、ギリシャらしいデザインが表現されています。
スターテル銀貨 BC440-BC350
表面には馬にもたれかかるような、裸の青年像が打ち出されています。完全に跨るのではなくベンチに座るような姿勢であり、珍しい表現です。裸体像はペルシア文化では野蛮の象徴とされ、美術品でもほとんど表現されませんでした。人間の肉体美を表現したギリシャらしい意匠は、この都市が一定の自治権を認められていたことの証でもあります。
裏面には振り返る山羊が表現されています。顎鬚のある山羊が前足をつき、身体を屈めるような姿勢で表現されています。こうした構図は古代ギリシャのコインでは多く見られ、牛やライオン、ガチョウなどあらゆる動物で表現されています。コインという限られた円形スペースで、少しでも対象物を大きく見せるための表現技法、または活き活きとした動物の動きを表現したものなど、様々な理由が考えられています。
いずれにせよ、こうした技法や表現上の工夫は、当時の芸術家・彫刻職人にとって腕の見せ所だったと思われます。
特にこの時代のケレンデリスで発行されたコインは楕円形が多く、山羊はその形に合わせるようにして身を屈めています。当時の製造工程上、コインとなる銀塊をきれいに整形することが難しく、あえて図像の方をコインの形に合わせたのかもしれません。
その後、ケレンデリスはセレウコス朝の支配下に入ると山羊のコインを発行しなくなりました。経済的な重要性、独立を失い、衰退したためとも考えられます。紀元前1世紀にキリキア海賊の被害が深刻化するとローマ軍がこの地を支配し、やがてローマ帝国の統治下に入ります。ローマ時代には治安の安定が図られ、交易都市として機能を再生させました。都市には港を中心にローマ風の別荘や浴場が整備され、かつての繁栄を取り戻しました。
しかしかつてのような銀貨を発行することはついになく、都市と周辺地域だけで流通する、僅かな種類の銅貨が製造されただけで終わりました。
その後は小アジアとキプロス島を繋ぐ港としての機能は維持されましたが、時代の変遷と共に重要性は低下し、現在では落ち着いた港町になっています。なお、ケレンデリスがトルコ風のアイディンシクに改称されたのは20世紀半ば、1965年のことでした。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
「World Coin Gallery」
投稿情報: 16:06 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
4月から発出されていた「緊急事態宣言」がこの度、全国で解除されました。これでとりあえず、ひとつの大きな山を越えたようです。
しかし新型コロナウィルスが完全に消え去った訳ではなく、引き続き警戒と対応策が必要です。
このウィルスに罹患された方々へはお見舞い申し上げますとともに、医療関係者や行政機関をはじめ感染拡大防止に日々尽力されている多くの方々に深く感謝いたします。
営業を縮小・自粛していた当店「ワールドコインギャラリー」は、5月いっぱいは引き続き営業を自粛し、6月1日(月)から通常通りの営業(11:00~19:00 水曜日定休)を再開します。
店舗内での営業再開に当たっては、しばらくの間は消毒液の設置やマスクの着用など、最低限の感染対策を講じ、お客様に安心してご来店いただけるよう努めます。
4月初めから自粛していた店舗での営業も、ようやく再開できそうです。お客様へは長らくご不便・ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。6月以降、通常営業・店舗営業が再開されましたら是非お越しください。皆様方とお会いできるのを心待ちにしております。
海外からの人の動きはいまだ再開の目途が立ちませんが、物流は少しづつ改善されているようです。ドイツやアメリカでは各種制限が緩和されつつあるため、オークションで落札したコインが元通り届くようになりました。
しかしイギリスなど、まだ段階的に制限が緩和される国もあるため、今まで以上に配送に時間がかかる状態は続きそうです。
今年はこれまで以上に変化の多い一年になりそうですが、健康第一に新しい生活を作っていただければ幸いです。
まだまだ元通りの日常を回復させるのは時間がかかりそうですが、一日も早く平和な日常が戻りますことを心より望んでおります。
今回は今後の見通しが良くなるように、新型コロナウィルスの収束が早まることを願って、古代ギリシャの医術の神アスクレピオスが表現されたコインをひとつご紹介します。
このブログでも度々取り上げてきましたが、改めてアスクレピオスについてご紹介します。
アスクレピオスは光明神アポロとテッサリアの王女コロニスの間に生まれた半神半人でした。ある時、カラスからコロニスが浮気していると報告を受けたアポロ神は、怒りからコロニスに矢を放ち射殺。しかし後からそれが間違いだったことに気付いたアポロ神は、荼毘に付されようとしているコロニスの遺体から子供を取り上げました。この子がアスクレピオスと伝承されています。
(※誤った報告をしたカラスは罰として、美しい白羽を漆黒に変えられたと云われています)
アスクレピオスは半人半馬ケンタウロスのケイロンに託され、彼の教育を受けて成長しました。粗野なケンタウロス族の中にあってケイロンは賢者であり道徳者とされ、この時アスクレピオスには優れた医術が授けられました。
竪琴を持つケイロンが表現されたコイン(ビテュニア王国, BC182-BC149)
さらにメドゥーサの血を用いて蘇生まで行ったことから「死者を蘇らせる名医」として、神話上では多くの英雄たちを蘇らせました。しかし冥界の王ハデスは死者たちが自分の領域から引き戻され、役割がなくなってしまうことを恐れたため、最高神ゼウスに訴え出ます。天界・地上・地下の秩序が乱されることを危惧したゼウス神はアスクレピオスに雷を打ち、天界に召し上げることでこれを解決しました。
それ以降、アスクレピオスは「神々の医師」として活躍し、その功績から医術の神として奉られるようになったとされます。
現在でもクスシヘビが巻き付いたアスクレピオスの杖は、WHO(世界保健機関)や病院の紋章をはじめ、医療のシンボルとして広く認知されています。
古今東西変わらず、古代ギリシャにおいても健康は人々の重要な関心事でした。「治療」という現実的で分かりやすい効用は階級に関係なく人々に求められ、それゆえアスクレピオス信仰はギリシャ世界全体に広まりました。コリントの近くにあったエピダウロスがアスクレピオス神の出身地とされ、医神の聖域として多くの治癒を求める人々が集まりました。
アスクレペイオンの内部(想像図)
人々の求めから、エピダウロスから分祀されたアスクレピオス神殿(アスクレペイオン,聖域)がアテネやコス島、パロス島などギリシャ各地に設けられました。聖域として選ばれる地は清らかな湧き水や温泉に恵まれている場合が多く、清潔さや癒しが重視されていたことが分かります。聖域はさながら病院のようであり、多くの患者は滞在中に安静にすることで病気からの回復を期待しました。周辺には劇場や商店、運動場、大浴場が併設される例もあり、湯治場のような活気があったと推察されます。
アスクレペイオンでは夢の中にアスクレピオス神が現れ治療法を伝授したり、眠っている間に治療を施してくれるとも云われ、信仰=治療が一体となったものでした。
寝ている病人を癒すアスクレピオス神
一方で神官や医師たちによる投薬治療・外科手術もあり、医学的な研究もおこなわれ医学校としての側面も兼ね備えていました。古代ギリシャの名医ヒポクラテス(BC460-BC351?)はコス島の出身であり、現地のアスクレペイオンで学んだとされています。彼はアスクレピオス神から数えて19代目の子孫とされ、現代でも医学の父として尊敬されています。
ただ併設された設備や夢診断などからも分かるように、多くは保養を第一として自然治癒に向かわせる方針だったようです。当時から心身のリラックスが健康にとって最良と認められていたのかもしれません。
アスクレペイオンから出土した浮き彫り
アスクレペイオン跡からはこうした身体の一部を模った浮彫が多く発見されています。多くは患者がアスクレピオス神に治してもらいたい箇所を祈念するため、または治癒した感謝を示すために献納したものと考えられています。大理石やテコラッタ、蝋など様々な材質で作成されていることから、幅広い階層の人々が献納したしたことが分かります。
こうした身体の部位は多岐にわたり、目や口、鼻や耳などの顔から腕や足、乳房や性器などがみられます。こうした出土品から当時のギリシャ人たちの健康上の悩みが窺えます。また献納年代は幅広いですが、献納者の男女比はおおよそ同じ程度であることも判明しています。
ペルガモン 紀元前2世紀後半 (23mm, 9.44g)
この青銅貨はアスクレペイオンで有名だった小アジアの古代都市ペルガモン(現在のトルコ西部、スミルナの北)で発行されました。ペルガモンは劇場や図書館などが完備された、ヘレニズムを代表する文化都市のひとつでした。ペルガモンのアスクレペイオンはローマ時代にも引き続き利用され、カラカラ帝などのローマ皇帝も立ち寄るほどの名所として栄えました。
当時の通用価値ははっきりと分かりませんが、一般市民が日常的に使用していた単位のコインとみられ、治癒を求めて当地を訪れた巡礼者も手にしたものと想像されます。
表面にはゼウス神によく似た姿のアスクレピオス神、裏面にはその象徴であるクスシヘビが、聖石オンファロスに巻き付く姿で表現されています。左右には「ΑΣΚΛΗΠΙΟΥ/ΣΩΤΗΡΟΣ(アスクレピオス 救世主)」銘が配されています。
オンファロスはアポロ神の神託で知られた聖地デルフォイの神殿地下にあったとされる聖石であり、保護のため羊毛で覆われていたと伝わります。コインのオンファロスに刻まれた網模様は、この羊毛を表現しています。オンファロスは「へそ」を意味し、世界の中心を示すものと云われました。伝承ではゼウス神が天空の両端から鷲を飛ばし、ぶつかった地点(=デルフォイ)を世界の中心と定め、記念碑として聖石を置いたともされていますが、その由来は当時から謎とされていました。
聖石オンファロス
デルフォイにあったオンファロスは未発見ですが、当時から複製品が作成され地上の神殿に参拝した人々にも見えるようになっていました。その複製品もまた各都市で作成され、神殿などで祀られていたようです。ペルガモンでも同じような複製品が祀られていたのか、コインではヘビと組み合わせされた興味深い姿で表現されています。
古代ギリシャの人々が願ったのと同じように、医術の神様の加護で現代の疫病も退治できると良いですね。皆様の健康と安心を心から願っております。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
投稿情報: 12:12 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
コロナウィルス騒動で世の中が落ち着かない昨今、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
日本をはじめ、世界各国でお互いの人の行き来を制限、または停止し、事実上の鎖国状態になっております。
国内でも東京をはじめ、都市圏では週末遊びに出ることも自粛しなければならない現状です。
こうした動きにコインの世界も無縁ではなく、世界各国で開催される予定だったイベントやオークションは中止または延期となっています。海外へコインを送る、受け取るにあたっても航空便が減便し、また欧米では会社自体が休業または少人数体制になっているため、通常よりも遅れが生じています。
ただ店舗への来店が減少する一方で、インターネットでの注文を受け付けている会社は通常よりも受注数を伸ばしている模様です。
インターネットや電話入札を受け付けているオークションでは、通常と変わらないか普段以上の価格で落札されている例もあり、巣篭り需要が分かりやすく反映されているようです。
待ちに待った東京オリンピックは延期され、株価や金価格、為替も日々激しく動き続けるこの御時世は、まさに非常時と言ってよいと思われます。もしかすると現在の時期は、ペストや天然痘やコレラ、スペイン風邪が流行した時代と同じように、後世まで長く語られるようになるかも知れません。
外出も憚られる昨今では、自宅で過ごす時間が多くなると思われます。
撮り貯めてあるDVDや積んである本を消化したり、インターネットやテレビで興味のある分野の情報を得たり、名前だけは知っている名作を鑑賞してみるなど、このような時だからこそできる、贅沢な時間の使い方をして戴きたいと思います。また、お手持ちのコインを見返して整理・調査してみたり、それが造られ、実際に流通した時代にも思いを馳せてみて下さい。
何よりもご自身の大切な体を守るためにも、この局面を乗り切って頂ければ幸いです。
さて、今回はそれと関連して古代ローマの健康・衛生の守護女神サルースをご紹介します。
今この時にもイタリアはコロナウィルスで大変な状況に置かれていますが、現在より医療技術・制度が未発達だった古代ローマでは頻繁に疫病が流行し、その度に甚大な被害をもたらしてきました。上下水道が発達し、公衆大浴場が多数存在したローマ市内といえど、決して衛生的な環境とは言えませんでした。都市の人口過密と帝国の版図拡大による交通網の広がりによって、伝染病が拡散しやすい状況にあったのです。
そのような状況下で人々は神の力によって少しでも難を逃れようとし、健康を守護してくれる神を盛んに奉りました。
中でもラテン語で「健康」を意味するサルース(Salus)は分かりやすく、人々に受け入れられやすい女神像でした。
紀元前91年 デナリウス銀貨 サルース女神
サルースはもともと農耕や豊穣を司る女神とされていましたが、やがて健康と衛生、病気の予防を具現化した女神像として認識されるようになりました。
ギリシャ神話における医術の神アスクレピオスが信仰されるようになると、その娘であるヒュギエイアと同一視されるようになり、紀元前302年頃にはローマのクィナリウス丘に神殿が建立されました。8月5日がサルースの祝祭日とされ、神殿では祭事が行われていたと考えられています。
サルースにまつわるとされた泉の水は重宝され、それを飲んで病を治癒した人々は御礼品を献納したとも云われています。
紀元前49年 デナリウス銀貨 サルース女神
このコインでは両面にサルース女神が表現されています。表面には若き娘の姿をしたサルース、裏面には蛇を手にしたサルースが表現されています。
医神アスクレピオスの杖には薬師蛇(クスシヘビ)が巻きついており、娘ヒュギエイアはその世話を任されているとされていました。そのため、コインで表現されるサルースは蛇に餌を与える容姿で示されています。この蛇は脱皮する姿から「生まれ変わり=蘇生」の象徴とされ、ギリシャではアスクレピオスの神殿で実際に飼育されていました。
医神アスクレピオスが表現されたブロンズメダル (フランス,1805年)
蛇が巻きついた杖を携えているのが確認できます。傍らにいるフードを被った少年は息子テレスフォルス。
やがてローマでもアスクレピオス信仰が広まると、ギリシャの神殿で飼われていた蛇が分けられ、各地の神殿でも大切に飼育されるようになります。本来の生息地であるヨーロッパから遠く離れたカフカスにもクスシヘビがみられるのは、一説にはローマ人がこの地に進出した際にアスクレピオス神殿を建設し、蛇が持ち込まれた証と云われています。
WHO(世界保健機関)のシンボルマーク「アスクレピオスの杖」
杯に巻きついているタイプはヒュギエイアの杯と呼ばれ、薬学の象徴とされています。
帝政時代になると、市民達の健康を守る女神=国家安寧の女神として重要視されるようになりました。歴代のローマ皇帝たちも公衆衛生は共通の関心事であったようで、多くのコイン裏面にサルース女神像が登場しています。
ネルヴァ帝 デナリウス銀貨 (AD96年)
玉座に腰掛ける女神と「SALVS PVBLICA (公共の衛生)」銘。蛇はおらず、代わりに薬草を携えた姿。
ハドリアヌス帝 デナリウス銀貨 (AD134-AD138)
籠から立ち上がった蛇に餌を与える姿。
カラカラ帝 デナリウス銀貨 (AD199-AD200)
蛇が巻きついた杖を持つ女神像。父神の象徴を携えた珍しい姿。左下にはローマ市民(または皇帝)が跪き、女神の手を取っています。
マクシミヌス帝 セステルティウス貨 (AD235-AD236)
玉座上のサルース女神が蛇に給餌する姿。他の時代も含め、歴代皇帝・皇妃たちのコインで最も多い表現パターン。
ちなみにローマの一大観光地として知られる「トレヴィの泉」にもサルース女神の像が見られます。トレヴィの泉はもともと初代皇帝アウグストゥスが、ローマ市民の公衆衛生のため、清潔な水を供給する目的で造らせた人工泉でした。18世紀にローマ教皇クレメンス12世が宝くじの販売などで得た収益金をもとに、現在のような豪華な形に生まれ変わらせたのです。
三体の内の右側、蛇が巻きついた支えを有しているのがサルース女神
コインを投げ込むと再びローマを訪れる機会が巡ってくると云われているトレヴィの泉。
再びローマへ、そして世界の様々な場所へ、心置きなく訪れられる日が来ることを願ってやみません。
皆様もどうか健康にはお気をつけいただき、御自愛いただければ幸いです。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
こんにちは。
そろそろ寒さが和らぎ始める頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
現在コロナウィルスの影響により、人が集まる行事や大規模なイベントも自粛傾向にあります。経済への影響と健康への不安とが重なり、日常生活も落ち着かないような感じがいたします。
春の訪れと共に、事態が収束することを願うばかりです。何より健康第一で、御自愛いただきたく思います。
さて今回は少し視点を変えて、現代の紙幣に描かれた古代ギリシャコインをご紹介します。
統一通貨ユーロの導入後は、ヨーロッパ各国の紙幣やコインの独自性が消えてしまいましたが、それ以前は各国の特色が表現されたデザインが数多く見られました。
特にギリシャでは古代の建築物や風俗・文化・歴史が豊かに表現されていました。
その中でもお金つながりで古代ギリシャのコインも多数の種類が表現されています。今回はそのうちの幾つかをご紹介します。
19世紀初頭にオスマン帝国からの独立を果たしたギリシャでは多種類の紙幣が発行されましたが、その多くはイギリスやフランスなど他国の印刷企業に委託されていました。
それらの多くは古代の遺跡や彫像、女性像などが表現されていましたが、1940年に銀貨の代用として小額紙幣が発行されると、そこに古代ギリシャコインのデザインがそのまま採り入れられました。
もともと銀貨のデザインは古代ギリシャ時代のコインを再現したものだったため、結果的に古代コインが紙幣のデザインに採用されることになりました。
1940年にギリシャ政府によって発行された10ドラクマ紙幣。 ↓は1930年代に発行された10ドラクマ銀貨。豊穣の女神デメーテールの横顔が表現され、ギリシャ語によりデメーテールを示す「ΔΗΜΗΤHP」の文字も確認できます。
基となったコインは、紀元前4世紀にデルフォイで発行されたスターテル銀貨とみられます。しかし裏面はルカニアのメタポンティオンで発行されたコインの麦穂が表現され、異なる古代コインを表裏で組み合わせた意匠です。↓
【表面】デルフォイのスターテル銀貨 (BC338-BC333)
【裏面】メタポンティオンのノモス銀貨 (BC330-BC290)
同じくデメーテールですが、こちらはヴェールを被らない横顔像です。
同じく1940年に発行された20ドラクマ紙幣。↓は1930年代の20ドラクマ銀貨。共に海神ポセイドンが表現され、その名を示す「ΠΟΣΕΙΔΩΝ」銘も配されています。
基となったコインはアンティゴノス朝マケドニア王国で発行された↓のテトラドラクマ銀貨です。
マケドニア王国のテトラドラクマ銀貨 (BC227-BC225)
構図の美しさから古代ギリシャコインの名品に数えられる一種です。アンティゴノス3世ドーソン王の治世下、アンドロス島での戦いにおいてセレウコス朝シリアの海軍と連携し、プトレマイオス朝エジプト軍の艦隊に勝利したことを記念して造られたとされます。
ギリシャの紙幣に古代コインが描かれるようになった時期は、戦争の影がヨーロッパを覆っていた期間と重なります。銀貨の製造から紙幣へと切り替えられたのも、緊迫する経済状況を反映しています。
1940年、イタリア軍がギリシャへ侵攻し、それを助ける形でドイツも参戦。敗北したギリシャはドイツ、イタリア、ブルガリアの三国によって分割され、1944年まで占領統治下に置かれました。
イタリアはペロポネソス半島~テッサリア平原にいたる広大な地域を獲得した一方、ドイツは戦略的に重要なアテネやテッサロニキ、クレタ島などを占領しました。
ヒトラーをはじめナチスの幹部達は古代ギリシャをヨーロッパ文明の源として崇拝し、ギリシャ占領に大きな歴史的意味を見出していました。占領中はハインリヒ・ヒムラーなどの要人も視察に訪れ、アテネのアクロポリスはさながらドイツ兵の記念撮影スポットになったほどでした。
1941年4月27日、パルテノン神殿の前には鉤十字旗が翻り、ドイツ軍が撤退した1944年10月12日まで掲げられていました。
アテネにはドイツによって傀儡の政府が立てられ、ドイツ軍によるギリシャ支配の協力機関とされました。ドイツは占領期間中の費用を全てギリシャ持ちとし、資源や食糧の徴発、パルチザン掃討作戦によって多くのギリシャ人が命を落としました。
同時期に発生した冷害の影響による農作物の不足や連合国による経済封鎖も重なり、一説には占領期間中に30万人が餓死したとも云われています。
占領時代の過酷な統治は現代にまで尾を引き、現在もギリシャ政府はドイツに戦時中の賠償を請求し続けています。
苛烈な占領統治はギリシャの経済を破綻させ、物資不足による激しいインフレーションを引き起こしました。アテネの傀儡政府はインフレ紙幣を発行し続け、通貨ドラクマの価値は下落の一途を辿りました。皮肉なことに、この時期のインフレ紙幣には古代ギリシャ時代の美しいコインが数多くデザインに採用されています。
占領期間中の紙幣印刷はドイツのギーゼッケ&デブリエント社が担い、占領下のギリシャに大量供給しました。ギーゼッケ&デブリエント社は後年ジンバブエの100兆ドル紙幣を印刷・供給し、現在ではユーロ紙幣を製造しています。
ドイツでは古代ギリシャコインの収集が盛んであったことから、原画の参考元になるコインも豊富に揃っていたと思われ、通貨のデザインとして採用しやすかったのかもしれません。
1941年 2ドラクマ紙幣
リュシマコス発行のアレキサンダーコインが表現された小型紙幣。
1941年 1000ドラクマ紙幣
マケドニアで発行されたテトラドラクマ銀貨(BC95-BC70)が表現され、アレキサンダー大王の横顔像が再現されています。
1944年 100,000ドラクマ紙幣
アテネのテトラドラクマ銀貨「フクロウコイン」が表現された大型紙幣。表面のアテネ神と裏面のフクロウが並んで表現されています。
1944年 25,000,000ドラクマ紙幣
エペイロスのディドラクマ銀貨(BC238-BC168)の両面図。表面はゼウス神とディオネ女神、裏面は牡牛。
1944年 10,000,000,000ドラクマ紙幣
シラクサの名品コイン、アレトゥーサのデカドラクマ銀貨が表現。コインが魚網にかかっているかのような構図。
100億ドラクマに相応しいデザインですが、ギリシャ本土から遠く離れたシチリア島のコインを採用した経緯が興味深いです。
あまりのインフレーションの進行によって発行された紙幣の多くは無価値となり、1944年には新1ドラクマ=旧500億ドラクマのデノミネーションが実施されますが、同年末にドイツ軍は撤退し、ようやくギリシャは解放されました。
戦後になると新紙幣が発行されますが、占領時代の名残か、そこにも古代コインがデザインとして採用されました。
1950年 1000ドラクマ紙幣
デザインに使用されたコインはエリス(オリュンピア)で発行されたスターテル銀貨(BC271-BC191)、ゼウス神と大鷲、蛇が表現されています。
ギリシャで印刷された紙幣ですが、構図は占領時代の紙幣を彷彿とさせます。
1950年 500ドラクマ紙幣
ビザンチン帝国の椀型(カップ)コインが表現されていますが、額面は現代風にアレンジされています。構図からコンスタンティノス9世の時代(1042-1055)に発行されたコインを基にしているとみられます。
1953年、再度デノミネーション(新1ドラクマ=旧1000ドラクマ)によって新ドラクマが導入され、2002年のユーロ導入まで使用され続けました。その後の50年間にも、古代コインを基にしたデザインが度々採用されました。
1964年 50ドラクマ紙幣 アレトゥーサ
1978年 50ドラクマ紙幣 ポセイドン神
1987年 1000ドラクマ紙幣 アポロ神
下にはエリス(オリュンピア)で発行されたスターテル銀貨の時代違い(BC323-BC271)が配されています。
数年後には日本でも新紙幣がお目見えしますが、今は無き過去のコインが表現された通貨は興味深いテーマだと思われます。
自分達が持つ歴史と、その連続性を重要視していることがうかがえるようです。特にギリシャの場合、昔からコイン=先人達が残した芸術遺産として評価していたことが分かります。
ちなみにご紹介したギリシャの紙幣は、インフレーション期の発行ということもあり、現代でも比較的安価に入手することができます。古代ギリシャコインの参考として、一枚お手元に置いておくのも良いかもしれません。
投稿情報: 17:10 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
1月も今週でおしまいですが、今年のお正月はいかがだったでしょうか。
暖冬といわれておりますが、外はまだまだ寒く感じられます。
インフルエンザ等も流行しておりますので、くれぐれも体調の変化にはお気をつけ下さい。
さて、今回は毎年恒例ですが、干支の動物にまつわる古代コインです。
今年は「子年」ですのでネズミのコインですが、古代のコインでネズミが表現されているものは殆ど無く、探すのに苦労しました。ようやく見つけたのが下のコインです。
ギリシャ神話には多くの動物が登場しますが、ネズミはアポロ神の聖獣とされている反面、あまり出番がありません。毒をもって毒を制す、ではありませんが、疫病の元であるネズミと、治癒の神アポロを組み合わせて崇拝の対象とすることで、現状以上の被害を食い止めようという発想かもしれませんね。
当時のギリシャ人にとっても身近な動物だったはずですが、身近であるが故に神聖性よりも、疫病をもたらすなど実害が目立ってしまったのかもしれません。。。
ノモス銀貨 BC340-BC330
イタリア半島南部の植民都市メタポンティオンで造られたノモス銀貨には、都市の象徴として麦穂が表現されていました。
シチリア島~イタリア半島南部は紀元前8世紀頃からギリシャ人植民者が移住し、豊かな土壌に恵まれた地を開拓して一大穀倉地帯へと発展させました。各植民都市はギリシャ本土を上回る豊かさと繁栄をみせ、やがてマグナ・グラエキア(大ギリシャ)と呼ばれるほど発展しました。
メタポンティオンはルカニア地方に建設された植民都市であり、現在のイタリア,マテーラ県のベルナルダにあたる地域です。近隣のヘラクレアやタレントゥムなどと同様、紀元前3世紀にローマの支配下に入るまで独立を保ち続けました。
メタポンティオンのヘラ神殿遺跡
穀物の輸出が盛んだったメタポンティオンは経済的にも繁栄し、紀元前6世紀頃からコインを発行し始めています。造型やサイズは時代と共に変化しましたが、都市の繁栄を支えた「麦穂」とメタポンティオンを示す「META」銘の組み合わせは、欠かすことのできない意匠として採用され続けました。
ノモス銀貨 BC500-BC480
冒頭でご紹介したノモス銀貨には、豊穣の女神デメーテールが表現されており、麦と豊穣の女神を組み合わせた代表的なデザインです。その他、表面は様々な神像が用いられましたが、裏面はほとんど共通して麦穂でした。しかし麦穂と共に小さなモティーフが配される場合があり、何らかの意図が込められていたと思われます。
ご紹介したコインには、麦穂の葉の上を這うように、可愛らしいネズミが一匹乗せられています。コイン自体は20mmほどですので、ここまで小さくリアルなネズミを刻み込むには相当な技を要したと思われます。このネズミは全てのコインに配されている訳ではなく、コインの型によって他の動物だったり神の姿、トングや金庫などコインを連想させるものなど、多様なモティーフが配されています。
コインの型を区別するため、または型の製作者を示すためなど、様々な推測ができますが、その意味は確定されていないようです。
しかし麦穂にネズミというのは不思議な組み合わせで、普通であれば収穫した麦を食べてしまう害獣のはずです。日本でも弥生時代に稲作が広まった際には、鼠返しがつけられた高床式倉庫が普及したほど、穀物生産はネズミとの戦いでした。
麦とネズミに身近な関係性があったとはいえ、わざわざコインに表現した理由は非常に興味深いと思われます。ちなみにイナゴが麦にかぶりつく姿もコインにされており、メタポンティオンのコイン製作現場は寛容で、遊び心が溢れていたのかもしれません。
ノモス銀貨 BC540-BC510
表面の陽刻で表現されたイナゴは、裏面の陰刻ではなぜかイルカになっています。
ネズミやイナゴが集まってくるほど豊作という意味もあるのかもしれません。日本でも縁起物として、米俵や打ち出の小槌と合せてネズミが表現されていることもあるため、転じて言えば豊かさの象徴といえるのでしょう。
ちなみにおよそ2300年を経た今年のネズミコインは、やはり「麦穂」と「ネズミ」が組み合わせされています。時代と地域が変わっても、意外と人間の考え方や連想というものは変わっていないのかもしれませんね。
オーストラリア 100ドルプラチナコイン 2020年「子年」
メタポンティオンのコインにはネズミ以外にも沢山の動物が表現されています。ここに一部をご紹介します。こうして見ると十二支に入っている動物が多く見られ、東西の文化の共通点やつながり、伝播も想像できます。
【牛】
【蛇】
【羊】
【ブタ(イノシシ)】
【グリフィン】
【ハト】
【フクロウ】
アテナ女神の象徴であるフクロウは他地域のコインにも表現されていますが、メタポンティオンの場合は表面に大きく表現された、珍しいタイプも発行されています。
ドラクマ銀貨 BC325-BC275
子年の今年も良い年になることを願っております。
本年も何卒よろしくお願いいたします。
投稿情報: 13:16 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月も終わり、だんだんと秋らしい空気になっていますね。
10月1日から消費税が8%→10%に値上げされ、今後の消費傾向も気になりますが、古代コイン市場の動きも少しずつ変化しています。
昨年~今年にかけて、海外のコインオークションをみると値上がりがますます大きくなっているように感じられます。
それ以前の問題として、状態の良いもの、ありふれた種類のコインの出物自体が減少し、結果として相場に反映されている印象です。
オークションでなかなか落札・入手することができず、入荷数の減少が最近の悩みですが、古代のコインは現存していること自体貴重であり、数に限りがあるものなので、納得できる傾向でもあります。
どこかの遺跡から大量にコインが出土し、市場に供給されれば別ですが、
今の時代はそれも難しそうです・・・。
さて、今回は古代ギリシャを代表するコインのひとつ、古代都市キュメで発行された女戦士 アマゾネスのコインをご紹介します。
このコインも、大型の古代ギリシャコインとしては比較的入手しやすい一種でしたが、やはり近年は状態が良いものは値上がり傾向が激しく、納得のいくグレードのものが入手し難くなっています。
BC155-BC143 テトラドラクマ銀貨
このコインは紀元前2世紀半ばの小アジア西部、アイオリス地方の古代都市キュメで発行されました。キュメはエーゲ海の近くに位置し、同地方の主要都市のひとつとして繁栄していました。アイオリスの諸都市はペルガモン王国に従属しながら、高度な自治権を認められていました。
この時代のキュメで発行されたテトラドラクマ銀貨は、直径約30mm、重量約16gの大型コインです。こうした大型銀貨はヘレニズム期、小アジア西部の各都市で流行し、類似の例が多くみられます。
アイオリス地方の位置
アマゾネス(またはアマゾン)はギリシャ神話に登場する女戦士部族であり、黒海周辺に住むとされていました。アマゾネスたちは女王を中心としながら集団で狩猟生活を営み、狩猟の女神アルテミスを崇拝しているとされ、その先祖は軍神アレスにつながると位置づけられていました。
また馬術と弓術に長けたことから戦闘に強く、周辺諸国に従属せず独立した勢力を保つ武装集団とされました。こうした特徴は北方のスキタイ人などに類似していることから、実在の騎馬民族集団を基にしてアマゾネス伝説が生まれたと考えられています。
アマゾネス像 (カピトリーニ博物館)
子どもは他部族の男と交わって得るも、生まれた子が男児ならば殺してしまい、女児だけを育て、女だけの集団を維持すると云われました。彼女たちは弓を引くときに邪魔にならないよう乳房を切除したため、「a(否定形)+mazos(乳房)=アマゾン」と呼ばれるようになったと伝えられますが、実際の彫刻や壺絵に表現されたアマゾネスは乳房があり、名称とは相反する表現が大半です。
尚、南米のアマゾン川はヨーロッパ人が同地を探検した際、女性だけの部族に襲撃されたことから名付けられたという説があります。
アマゾネスはトロイ戦争やヘラクレスの功業、アレキサンダー大王の伝承にいたる様々な神話・伝説に登場します。特に小アジアには数多くの伝説があり、ホメロスの『イリアス』には小アジア各地を制圧したアマゾネス軍が、英雄たちによって退けられる物語も語られています。
このコインに表現されたアマゾネス像は、都市名の由来になった「キュメ」というアマゾネスとされています。アマゾネス軍が小アジアを南下する過程で、アイオリスで武功を立てたキュメが自らの名を冠した都市を建設し、そのまま都市の象徴になったと伝えられています。
都市の名称に由来する神やニンフ(妖精)をコインに表現する例は多く見られますが、アマゾネスを表現する例は小アジアの幾つかの都市にのみ見られます。
髪の毛は紐によって結い上げられ、短髪のようにも見える姿。動きやすく、活発で逞しい女性像です。
しかしアルテミスのように弓矢を有する姿ではなく、武器をはじめ他のモティーフが排除されたすっきりとした造型です。このコインがキュメで発行されたものと分からなければ、この女性像が勇ましいアマゾネスとは認識できないでしょう。
左のキュメ像には刀傷のような線が見られます。陽刻であることから極印に最初から入っていたものですが、右のキュメ像にはありません。
他のコインにも同様の線があるものがみられることから、製造時のミスではなく、何かの印だった可能性があります。
裏面には月桂樹のリースに囲まれた馬が表現されています。馬には手綱がつけられており、軍馬であることが分かります。当時のキュメの主要産品、またはアマゾネス・キュメの武功を象徴しているといった解釈ができます。
なお、裏面デザインをリースで囲むスタイルはヘレニズム時代に広く流行したスタイルであり、他の都市でもほぼ同時期に多く造られました。
当時のテトラドラクマ銀貨は貿易で多く利用されたことから、他の地域でも流通したと考えられます。当時のギリシャ人たちはコインのデザインから、この銀貨がアイオリスのキュメで造られたことをすぐに理解できたと思われます。
しかしこのコインが造られた紀元前2世紀以降、キュメをはじめ小アジアの大半はローマの支配下に入り、徐々に独立性が失われていきました。ローマ時代は独自の大型銀貨を発行することもなくなり、都市内で流通する小銀貨や銅貨のみになってしまいました。
アマゾネス・キュメのコインは、アイオリスの主要都市キュメが最も繁栄し、華やかだった時代の象徴になっています。
現在では芸術性の高い古代コインの一つとして、多くのコレクターや古代愛好家から注目されています。
出土したキュメのテトラドラクマ銀貨(アンティオキア博物館)
投稿情報: 17:27 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月になり、秋らしい空気を感じるようになりました。
季節の変わり目は体調を崩しやすいので、皆様もどうかお気をつけて。
さて、今回はアレキサンダーコインについてお話したいと思います。
とはいってもマケドニア王国やその後のギリシャ諸都市が発行したものではなく、ローマ人によって発行されたアレキサンダーコインです。
画像のコインは紀元前95年~紀元前70年頃にかけて、マケドニアの都市テッサロニカで造られたテトラドラクマ銀貨です。いわゆる「アレキサンダーコイン」の中では比較的新しく、アレキサンダー大王の没後200年以上を経て発行されたタイプです。
表面にはかつてのマケドニア王アレクサンドロス3世(在位:BC336-BC323)の横顔肖像が打ち出されています。また、下部には分かりやすく発行地マケドニアを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ」銘が配され、左側には「Θ」銘が確認できます。
このアレキサンダー像は、大王配下の将軍リシマコスが発行したコインを基に作成されたとみられ、側頭部には大王の神聖性を示す巻角(=アモン神の象徴)が確認できます。
リシマコスによって発行されたテトラドラクマ(BC288-BC281)
しかしオリジナルのコインと比べると頭部は縮れ毛になっており、巻角もほぼ同化しています。凛凛しく逞しい顔つきは中性的になり、女性にも見える表現です。
これとよく似た表現は、同時代のローマで発行されたデナリウス銀貨にみられ、ローマとマケドニア、両地域の関係性がうかがえます。
ローマで発行されたデナリウス銀貨(BC55)。ローマ人の守護神ゲニウスとされる。
一方、裏面のデザインは従来のアレキサンダーコイン(=ゼウス神、アテナ神など)とは大きく異なり、独自性が溢れたデザインになっています。
左側には徴税などで使用された金庫、中央には棍棒、右側には椅子が表現され、上部にはギリシャ文字ではなくラテン文字で「AESILLAS」銘と「Q」銘が配されています。さらに周囲部はオリーヴのリースによって囲まれています。
これらのデザインには、コインが発行された背景が明確に反映されています。
このコインが発行された当時、マケドニアはローマの支配下にありました。第三次マケドニア戦争の結果、アンティゴノス朝マケドニア王国はローマ軍によって滅ぼされ、王国は四つの自治領に分割されました。ローマの属領になったマケドニアは、アンフィポリスやテッサロニカなどの都市を中心としながら分割統治されたのです。
分割時代のマケドニア、アンフィポリスで発行されたテトラドラクマ銀貨 (BC167-BC149)。棍棒と共に、四分割された第一管区であることを示す「ΜΑΚΕΔΟΝΩΝ ΠΡΩΤΗΣ (マケドニアの第一)」銘が配されている。
しかしアンティゴノス朝滅亡から20年後、マケドニアの住民はローマに対して反乱を起こし、第四次マケドニア戦争が勃発します。軍事力によってこれを制圧したローマはマケドニアに残されていた自治権を剥奪し、紀元前146年に「マケドニア属州」に再編、完全な直轄支配下に置きました。
これによってローマの東方拡大が本格化し、後のローマ帝国への大きな一歩となりました。
最初にご紹介したアレキサンダーコインは、ローマによって属州化された時代に発行され、その発行にはローマ軍の戦略的な意図が込められていました。
マケドニア戦争を経てバルカン半島~ギリシャに本格的に進出したローマ軍は、イタリアとマケドニアを結ぶ街道を整備しました。この「エグナティア街道」はデュラッキウムからペラ、テッサロニカ、アンフィポリスを経てトラキア、ビザンティウムへ至る重要な街道であり、小アジア進出の足がかりとなる地理的重要性を有していました。
後にスッラやポンペイウス、ブルートゥス、カエサルやマルクス・アントニウスなどの英雄が行き来し、数々の決定的会戦の舞台となった、ローマ史にとっても欠かせない要衝となります。
エグナティア街道
テッサロニカはこの街道沿いにあり、マケドニア属州の州都となった。
紀元前88年、小アジア北部ポントス王国のミトリダテス6世はローマ軍と戦端を開き、三次にわたる「ミトリダテス戦争」が勃発します。小アジア北部への通路であるエグナティア街道はローマ軍の往来がより激しくなり、軍団にとって安全な進路を確保することが重要課題となりました。
当時、ビザンティオンにいたるトラキア南部は好戦的な部族が多くおり、しばしばローマ軍と戦いになることもありました。しかしミトリダテスとの戦いに戦力を温存しておきたいローマ軍は、戦いによってトラキア人を殲滅するのではなく、より経済的な方法で解決しようとしました。
ローマ軍はトラキア人に金銭を支払うことで彼らを懐柔し、むしろ有力な協力者とすることにしました。その際、用いられたのが「アレキサンダーコイン」でした。ローマ人にとってこの銀貨は単なる決済手段ではなく、矢にも匹敵する強力な武器でした。
ビザンティウムからヘレスポントス海峡(現:ダーダネルス海峡)を越えた先にはビテュニア王国があり、ローマは同盟国として支援していました。紀元前95年頃にポントス王国がビテュニアを攻撃した際、ローマはビテュニアを支援し、ポントスとの対立を明確なものにしていきました。
それ以降、このアレキサンダーコインは継続的に造られるようになり、さらにミトリダテスとの戦争が本格的に始まると、戦略上の理由から大量に製造されるようになったと考えられています。
アレキサンダー大王の肖像はトラキアで古くから流通していたリシマコス発行のものを踏襲し、トラキアの部族にとって馴染み深いものとしました。
裏面に自治領時代のアンフィポリスで発行されたコインに採用されていた「棍棒」を使用し、馴染み深さを増して価値の信用度を高めました。
重量はアテネで発行され、アレキサンダーコインにも採用されていたアッティカ基準を採用、裏面のオリーヴのリースはそれを象徴しています。
アテネ テトラドラクマ (BC136-BC135)
裏面に表現された金庫と椅子は、属州に派遣され軍団の物資調達、給与支払いに権限を持っていた「財務官」を象徴しており、椅子の上の「Q」銘はローマの財務官(=Quaestor)を示します。
つまり、上部に刻まれている「AESILLAS」銘は、コインを発行した当時の財務官アエシラスの名銘であることが分かります。
この新しいタイプのアレキサンダーコインは、当時のトラキア人に広く受け入れられたようで、マケドニア~トラキアのあらゆる地域で出土しています。トラキア人の信用度が非常に高く、広範囲で流通したことから、財務官アエシラスが任地を去ってからも「AESILLAS」銘でコインは製造され続けたとみられています。
ローマ軍の作戦は功を奏し、安全な進路を確保したことで軍団と物資はスムーズに輸送されました。紀元前63年にミトリダテス戦争はローマ軍の勝利によって終結し、小アジアの大半がローマの支配下に入りました。
その後もローマは東方への拡大を続け、アレキサンダー大王の後継者達が建てた国々(セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト)を次々と征服してゆきました。
マケドニアを征服したローマ人が、さらなる東方進出に用いた武器がアレキサンダーコインだったとは、まさに歴史の皮肉といえるでしょう。
アレキサンダー大王はカエサルやオクタヴィアヌス、トラヤヌスやカラカラも憧れた歴史上の英雄でした。ローマ人は壮大なアレキサンダーの征服事業を、そのままローマ帝国の拡大と繁栄に重ね合わせたのだと思われます。
こんにちは。
梅雨空から一転、太陽が照りつける蒸し暑い日が続いておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
まだ昨年よりは暑さが和らいでいるように感じますが、それでも暑いことには変わりありません。
熱中症等にならないよう十分注意していただき、令和最初の夏を楽しいものにしていただきたいと思います。
「夏」を感じるもの、風物詩といえば様々ありますが、音でイメージできるものといえば「セミの鳴き声」ではないでしょうか。
東京都内は樹が少ないからか、または暑過ぎて虫も活動できないのか、今年はまだセミの声が少ないように感じます。
そこで今回は夏の虫、「セミ」が表現された古代ギリシャのコインをご紹介します。
古代ギリシャ人にとってセミはかなり身近な昆虫だったようで、多産の象徴であるミツバチに次いでよく登場する昆虫です。多くは構図の一部分に小さく表現されていることから、作成した彫刻師や、型を区別するために配された可能性もあります。
ケルソネソス BC400-BC350 ヘミドラクマ銀貨
裏面の一部に小さなセミが確認できます。このコイン裏面は多様なモティーフが配され、他にもミツバチやブドウ、カドゥケウス(伝令使の杖)などが表現されています。セミは全てのコインに見られるわけではありませんが、比較的よく表現されているモティーフです。
もしこのコインをお持ちの方は、ぜひ裏面を確認してみてはいかがでしょうか。
ファセリス 紀元前4世紀 スターテル銀貨
ガレー船にはゴルゴンの顔、海中にはイルカの姿が確認できます。船に対して異様に大きなセミが表現されており、リアルな存在感を放っています。
アンブラキア BC360-BC338 スターテル銀貨
アテナ女神の隣に配されたセミ。女神の顔の大きさと比べると存在感があります。
テネドス 紀元前5世紀末~紀元前4世紀初頭 ドラクマ銀貨
ヘラ女神とゼウス神が表現されたコイン。裏面の斧の下には、葡萄と並んでセミが表現されています。かなり抽象化されており、可愛らしい印象を受けます。
アテネ BC165-BC148 テトラドラクマ銀貨
フクロウの左下にセミが確認できますが、羽がない様にも見えます。
ラリッサ BC479-BC460 ドラクマ銀貨
テッサリア平原の象徴である馬の上に、一匹のセミが配されています。
アブデラ BC395-BC360 スターテル銀貨
筋肉質なグリフィンとヘラクレスに並んで、羽を閉じたセミが表現されています。
フォカイア BC468 ヘクテ
小さなエレクトラムコインに表現されたセミ。デザインとして大きく表現されており、かなり丸みがあります。
セミは世界各地に分布し、その種類は確認されているだけで2000種に及ぶといわれています。ヨーロッパではギリシャをはじめイタリア、スペイン、ポルトガルやフランス南部など、地中海の温暖な空気に満ちた南欧に生息しています。しかしアルプス以北の冬の寒さが厳しい地域ではセミは生息できず、ドイツやイギリス、北欧諸国にはいません。
(※近年の温暖化の影響によって、セミが生きられる地域も拡大し、徐々に生息域も北上しているそうですが・・・。)
実際セミに馴染みがない人にとって、その存在は相当不快なものらしく、トラブルの種にもなっているようです。
↓昨年の記事です。
ウソか誠か分かりませんが、日本のドラマやアニメが海外で放送される際、夏のシーンでセミの鳴き声が入っているとテレビが故障したと思われてしまうため、その部分をカットして放送することもあったと聞いたことがあります。確かに日本では「セミの鳴き声=夏」と連想できますが、セミを知らない人からすれば虫の鳴き声だとすら認識されないと思います。
先入観が無ければかなり異様な雑音なのですが、身近で当たり前のものであれば「季節の風物詩」になるのですから不思議なものです。
しかし古代ギリシャでは「歌う虫」と呼ばれ、神話や詩作にも登場する神聖な虫として認識されていました。
セミは幼虫時代の3年~7年を地中で暮らし、成虫として地上に出ると1週間~3週間ほどで死んでしまうことは広く知られています。地中から這い出て天高く飛び立ち、樹液だけを吸って大きな鳴き声を出し、すぐに息絶えてしまうセミの姿に、古代のギリシャ人は神秘性を見出したことでしょう。
コインには神々の姿が刻まれていますが、それらと共に表現されていることも、セミが特別な虫として認識されていた証です。
特に有名なものでは『イソップ童話』でも取り上げられています。
作者のアイソポス(イソップ)は紀元前6世紀頃の小アジア西部で活躍した人物とされ、歴史家ヘロドトスも言及しています。現代でも子供向けの童話として広く知られている『イソップ物語』は、もともと古代ギリシャの説話集のようなものであり、動物たちの物語を通して人間社会を風刺しています。
その中の一つ、『アリとセミ』はギリシャの人々には認知されましたが、後世にヨーロッパで翻訳された際、セミを知らない読者にはイメージしづらいため「キリギリス」に置き換えられました。後に日本に伝わった際には『アリとキリギリス』となり、そのまま定着しています。
『アリとセミ』では夏の間中、アリはせっせと食糧を蓄え、セミは木の上でずっと歌っていました。冬になるとセミはアリに助けを求めますが、備えをせず歌ばかり歌っていたことを責められ、ついには死んでしまうという物語です。
基本的にアリとキリギリスと同じ流れですが、セミが夏の間しか歌わず、冬にはその鳴き声が全く聞こえなくなることを考えると、とても理解しやすい物語になります。セミの鳴き声は多くの人が思い出せますが、キリギリスの鳴き声をイメージできる人は少ないと思います。
古代ギリシャ人も現代の日本人と同じように、セミの声で夏を感じ、その短い命に儚さや季節の移ろいを投影させていたのでしょう。
今年の夏もセミの元気な鳴き声を聞きながら、暑い日々を乗り切っていきたいものです。
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