【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
8月も終わりだというのに本当に暑い日が続いております。
秋の涼しさが待ち遠しいですね。
さて、今回はコインに関する本のご紹介です。
来月、9月19日に中央公論新社さんから、ローマコインに関する新書が発売されるそうです。
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著者:比佐篤
出版社:中央公論新社
価格:¥886 (税込)
発売予定:9月19日(水)
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Amazonに掲載されている内容コメントによると、
貨幣は一般的に権力の象徴とされ政府や中央銀行などが造幣権を独占するが、古代ローマでは様相が異なる。政界に登場したばかりの若手や地方の有力者らも発行しており、現在までに発掘されたものだけでも数千種類にのぼる。ローマ神話の神々の肖像、カエサルや皇帝たちの肖像、花びらや儀式の道具など、描かれた図像も多岐にわたる。貨幣の図像と刻まれた銘文から一千年の歴史を読み解いた、新しい古代ローマ史入門。
(以上 掲載紹介文)
248ページの中でコインの図像を紹介しながら、古代ローマの歴史を体系的に紹介しているようです。おそらく代表的なコインの図像を取り上げ、その歴史的背景やまつわる人物のエピソードを分かりやすくまとめられたのではないかと想像します。「コイン」という切り口で、古代ローマ史を著した興味深い一冊です。
中公新書ではかつて、『紙幣が語る戦後世界―通貨デザインの変遷をたどる』 (冨田昌宏,1994)という本を出版しています。紙幣のデザインや発行背景と、歴史・国際情勢をリンクさせた、読みやすくかつ専門性も高い内容でした。今回のタイトルからも、同様のコンセプトが伺えます。
ローマコインが歴史学の研究で注目されはじめたのはルネサンス期のヨーロッパからです。以降、各地で出土したコインのデザインや材質をデータ化し、カタログとしてまとめる地道な作業が続けられてきました。その過程で図像学や言語学の観点から注目され、コインがローマの政治的、経済的状況を示す重要な史料だと確信された長い歴史があります。
欧米ではローマ史の資料や書籍も多く、その中でコインの図像を紹介したものも多岐に渡って出版されてきました。しかしながら、日本ではこうした書籍がなかなか世に出ませんでした。
この度、中公新書として出版されることで、多くのコイン収集家、ローマ史愛好家の双方にとって刺激になると思われます。また、それまでローマ史やコインに馴染みがなかった方にとっても、興味を持つきっかけになるのではないでしょうか。
9月は秋の夜長、「読書の秋」に相応しい一冊として、ぜひ手にとってみては?
こんにちは。
豪雨に台風、さらに暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
連日35度を越え、夜になっても熱が冷めない空気で、眠れない日も多いのではないでしょうか。
今日は気分だけでも爽やかになろうと、「イルカ」のコインについてご紹介させていただきます。
イルカのコインは「クリスチャン・ラッセンのイルカ金貨」に代表されるように、現代でも人気のテーマです。
現実のイルカも水族館ではアイドル的な存在として人気を集めています。それだけ「イルカ=かわいい生き物」というイメージが、広く認識されているからでしょう。また、爽やかで美しい海をイメージさせる存在であるといえます。
2000年以上前の古代ギリシャ人にとって、海はとても身近な存在でした。海上交易や植民活動が活発だった時代、エーゲ海を中心に黒海やアドリア海など、地中海の隅々までが彼らの活動範囲でした。当時作成された陶器や壁画には、神話の物語や活き活きとした人々の生活と共に、多種多様な魚介類も表現されています。
クレタ島 クノッソス宮殿の壁画
ワイン用の陶器 (BC520-BC510)
古代ギリシャ文化においてイルカはポセイドン神やその妻アンフィトリテ女神の聖獣であり、海を象徴する動物として認識されていました。イルカは聖なる生き物として、各地で造られたコインにも表現されました。中でも港湾都市で発行されたコインには頻繁にモティーフとして取り入れられました。
紀元前5世紀に黒海沿岸の都市オルビアで造られた銅貨。イルカの形をした珍しいコインであり、打刻ではなく鋳造によって造られています。円形や四角形ではなく、 モティーフそのものをコインの形にしているという点で、非常に興味深い存在です。
パフラゴニア シノペ BC333-BC306 ドラクマ銀貨
トラキア イストロソス BC400-BC350 ドラクマ銀貨
黒海沿岸の都市ではイルカが表現された特徴的なコインが発行され、海鷲がイルカを掴むという構図で表現されました。
黒海とエーゲ海の境に位置した都市ビザンティオン(現在のイスタンブール)のコインにもイルカがみられます。こちらは牡牛がイルカの上に乗っています。
ビザンティオン BC340-BC320 シグロス銀貨
一方でエーゲ海沿岸の都市でもイルカが表現されたコインがみられます。
リュキア地方 ファセリス 4th Century BC スターテル銀貨
両面でガレー船の舳先と船尾が表現されたコイン。イルカは海の象徴として、ガレー船の下を泳いでいます。
ギリシャ人が多く移住した南イタリア~シチリア島では、イルカにまつわる伝説が各地に存在したことから、コインにも神話の要素として登場しています。イタリア半島 カラブリアの都市タレントゥムでは、ポセイドンの息子タラスが父神の遣わしたイルカに乗って難破船から脱出し、辿り着いた海岸にタレントゥムの町が建てられたという伝説がありました。そのため同都市のコインには、「イルカに乗るタラス」が多様なバラエティによって表現されました。
紀元前4世紀~紀元前3世紀頃、ローマの支配下に入る前に造られたノモス銀貨には、バラエティ豊かなタラスとイルカの組み合わせが見られます。中にはイルカに乗ったタラスが、右手で小さなイルカを持つという珍しいタイプも造られています。こうした違いは刻印彫刻師の個性を示し、また造幣所ごとの仕事を見分ける重要な目印にもなっていたと考えられていますが、当時のタレントゥムの豊かさや自由さがそのまま表現されているようです。
またシチリア島のシラクサで発行されたコインには美しい泉のニンフ、アレトゥーサが表現されていることで有名ですが、その周囲には必ず四頭のイルカが回遊していました。この配置は、現在にも通じるほどの高いデザイン力です。
シチリア島 シラクサ BC475-BC470 テトラドラクマ銀貨
シチリア島 シラクサ BC340-BC310 テトラドラクマ銀貨
このようにギリシャ文化圏ではイルカを表現したコインが数多くみられました。当時のギリシャ人たちにとって海、そしてそこで見られるイルカはとても身近な存在だったことが分かります。
一方でローマによって発行されたコインのイルカには、ギリシャには無かった変化が見られます。
ローマ BC74 デナリウス銀貨
ローマ ポンペイウス派発行 BC49 デナリウス(※デュラキウムで発行)
ローマ AD37-AD41 アス銅貨
裏面のネプチューン神が右手でイルカを差し出しているのが確認できます。
ローマ AD69 デナリウス銀貨
ローマ AD80 デナリウス銀貨
ローマ時代のコインに表現されたイルカは頭部が丸く大きくなり、さらに尾の部分を異様にくねらせる傾向にあります。上に示したティトゥス帝のコインでは、船の錨に絡みつくイルカという、自然では到底ありえないような構図で表現されています。
不思議なことにギリシャコインに表現されたイルカは、現代の我々が見ても違和感がないほどに写実的なのに対し、ローマコインのイルカは魚か爬虫類のような、全く別の生き物のように見えるのです。
この傾向はローマ時代に造られた彫像やモザイク画にもみられます。
モザイク画 (BC120-BC80)
ネプチューンの彫像のイルカ像 (ハドリアヌス帝時代 AD117-AD138)
ローマ時代の芸術作品に登場するイルカは鋭い牙があるものや、複数の背びれ・尾びれがあるもの、さらには鱗があるものまでみられます。このことから、ローマ人はイルカを魚の一種と認識していたのかもしれません。
しかしイルカはローマの時代にも地中海に多く生息し、人々の生活にも比較的近い存在の生き物だったはずです。海上交易が発達していた時代であれば実際のイルカを目にした人も多く、また網にかかって引き揚げられるイルカもいたと思われます。
1世紀に記されたプリニウスの『博物誌』には、湖に迷い込んだイルカと友情を育んだ少年の物語が記録されており、決して珍しい動物ではなかったことが分かります。
たとえ作品の製作者や注文者が海で生きたイルカを見たことがなくても、実際に見た人物の意見や、ギリシャ時代の作品に表現されたイルカ像を基にして修正が加えられても不思議ではありません。
にも関わらずローマ時代のコインをはじめ、芸術作品に表現されたイルカ像は現実とあまりにもかけ離れたものになっており、さらにそのイメージは修正されないまま、中世~ルネサンス期まで続いていきます。
ギリシャ・ローマ時代には様々な動植物が表現されましたが、それらは身体の模様や動きなどがリアルに表現されています。ギリシャ時代のイルカ像も、たとえデフォルメされていても基本的な姿は維持され、本物の特徴を踏まえて表現されていることが分かります。しかしローマ時代のイルカ像は、そもそもイルカを見たことの無い人が想像で生み出した怪物のような姿で表現され、そのまま酷くなりながら継承されているようにも見えるのです。
イルカのように時代の変遷と共に、本物からかけ離れてしまった事例は稀といえるでしょう。
アリオンとイルカ
(1899年『Stories of the olden time』より)
近代ヨーロッパでは「現実のイルカ」と「古代神話世界のイルカ」を明確に区別して表現しています。
「イルカに乗った少年」という題材は様々なパターンで各地の神話に残されており、イルカも後世の芸術作品に盛んに表現されましたが、その姿はまるでシャチホコのような姿です。
古代のギリシャ人とローマ人の間に、イルカに対するどのような認識の差があったのか、コインの変遷を見るだけでも様々なことを想像させられます。少なくともローマ人がギリシャ人ほど、イルカに愛着を抱いていなかったことは間違いないようです。
こんにちは。
6月になり、梅雨空から一気に夏空が続いている今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
雨の日も日差しの強い日も、外出は億劫になってしまいがちですが、貴重な晴れ日には遠くに出かけてみるのも良いと思います。
古代ローマの時代、地中海世界を制覇し「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を創出した五賢帝の頃には、街道や海路が整備され政情も安定していたことから、観光目的の旅行を楽しむ人々も出現していたそうです。
皇帝も遠征などでローマから遠く離れた土地へ赴くことがありましたが、その中でもハドリアヌス帝(在位:AD117年~AD138年)は「旅する皇帝」と呼ばれるほど帝国各地を巡りました。自らが統治するローマ帝国の隅々を視察することで、帝国の現状を把握していたといわれています。一方で好奇心旺盛で知的な欲求を満たす目的もあったとされ、首都ローマの煩わしさから逃れるためでもあったと考えられています。
治世の多くを旅に費やしたハドリアヌス帝が発行したコインには、彼が旅した先を示す図柄が多く登場します。特定の地域を神像や女神像として擬人化、具現化して表現すること(ローマ神など)は珍しくありませんでしたが、ハドリアヌス帝の治世にはそのバラエティが際立って多く、帝国の各地がコイン上に表現されました。これらは「トラベルシリーズ」とも呼ばれ、旅する皇帝ハドリアヌスを象徴するコインコレクションとして注目されています。
2世紀半ばのローマ帝国最大版図
2世紀に最大版図を出現させたローマ帝国は、その領土の1/3がヨーロッパ、1/3がアジア、1/3がアフリカに該当しました。コインに表現された属州の姿は、ローマ市民に自らが生きる帝国の多様性と広大さを知らしめる目的もありました。
ハドリアヌス帝の治世には各属州でも興味深いコインが発行されていましたが、今回は本国ローマで発行されていたものをご紹介します。
・イタリア
イタリアは首都ローマを中心とする、まさにローマ帝国の心臓部でした。地中海帝国の真中に突き出たイタリア半島から、ハドリアヌスの旅は始まりました。皇帝による巡幸といっても仰々しいものではなく、あくまで視察を目的としたものだったため、移動しやすいように随行員、警備も最小限度だったそうです。三回に分けられた帝国巡幸の旅には、不仲が噂されていた妻サビーナも同行することがあり、後にはハドリアヌスの寵愛を受ける美青年アンティノウスも加わることになります。
AD136年 デナリウス銀貨
イタリアを具現化した女神像は、長杖とコルヌ・コピア(豊穣の角)を持つ姿で表現されています。周囲には「ITALIA」銘が刻まれています。
・ガリア (現在のフランス)
第一回の巡幸でハドリアヌス帝が最初に訪れたのはガリアでした。AD121年のガリア訪問では植民都市の政庁や軍駐屯地を訪問し、その実態を把握しようと努めました。受け入れる側の役人達は連絡からすぐに皇帝一行が到着するため、普段の様子をそのまま見せることしかできなかったようです。
AD136年 デナリウス銀貨
ハドリアヌス帝に跪くガリア人。女神像ではなく男性として表現されています。右側には「GALLIAE」銘が確認できます。
・ゲルマニア (現在のドイツ)
ガリアからゲルマニアに移動したハドリアヌスは、ゲルマン人との最前線であるライン川の国境地帯を軍事視察。このときハドリアヌス帝は国境沿いの数ヶ所で柵を切れ間無く建てるよう命じました。
AD136年 デナリウス銀貨
長槍と円盾を支えるたくましい女神像。周囲には「GERMANIA」銘。このゲルマニア女神像は近代ドイツで復活し、19世紀以降は国威発揚のために盛んに表現されました。
・ブリタニア(現在のイギリス)
海を渡ってブリテン島のロンディニウム(現在のロンドン)に到着したハドリアヌスは、そこから北へ進み、現在のイングランドとスコットランドの境界まで到達しました。そこはローマ帝国最北端の国境であり、北からの蛮族による侵入が絶え間ない地でした。北の国境を視察したハドリアヌスは、蛮族とローマ領を隔てる防御壁を建設するよう命じました。
それが現在でも知られる「ハドリアヌスの長城」です。AD122年夏、当地滞在中に発せられたこの命令は、その後10年の歳月を要して実現されました。
ブリタニアを旅している途中、一人の老婦人が財産所有の件で皇帝に直訴しようとしました。先を急いでいたハドリアヌス帝は「私には時間がない」といって無視しようとしましたが、老婦人が「それならば皇帝など辞めてしまいなさい!」と泣き叫ぶのを聞き、立ち止まって話しを聞いたという逸話が残されています。
AD136年 セステルティウス貨
岩の上に足を載せ、考え込むようにして座るブリタニア女神像。周囲には「BRITANNIA」銘。
・ヒスパニア (現在のスペイン)
ブリテン島を発ったハドリアヌスは再びガリアを抜け、そこからヒスパニアへ入りました。ハドリアヌスはヒスパニアの出身であり、当地には思い入れがあったようです。この滞在中には暴漢に襲われて危うく命を落としかけるというトラブルに見舞われるも、何とか故郷の視察を遂行することができました。(ハドリアヌスを襲った暴漢はすぐに取り押さえられたため、皇帝に危害は加えられなかった。その後ハドリアヌスの温情からか、この男は精神状態の不安定さを理由に釈放されている。)
AD136年 デナリウス銀貨
様々な姿のヒスパニア女神像。ハドリアヌスに跪く姿や、寝そべる姿など様々。共通してヒスパニア特産のオリーヴを持ち、足下にはウサギを配しています。かつてフェニキア人がイベリア半島の沿岸部に入植した際、畑を作ってもすぐに野兎に荒らされてしまうことから、この土地を「イセファニン(フェニキア語で「ウサギの地」の意)」と名付けました。その後ローマ人はラテン語風に「ヒスパニア」とし、そのまま現在の「スパーニャ」「スペイン」になったと云われています。
・マウレタニア (現在のモロッコ)
ジブラルタル海峡をわたってアフリカ大陸に入ったハドリアヌス一行は、地中海と大西洋の境を目の当たりにし、ローマ帝国の最西端を視察しました。鬱蒼とした森が広がる北ヨーロッパから乾燥する砂漠地帯への旅。当時としてはまさに地の果てへの旅でした。
AD136年 セステルティウス貨
女神として表されたマウレタニア。右手を挙げるハドリアヌス帝に杯を捧げている姿。右端には「MAVR(ETANIAE)」銘。
・地中海
マウレタニアを発ったハドリアヌスは、ローマ海軍のガレー船で一気に地中海を横断し、帝国東部の小アジアへ向かいます。
AD122年 デナリウス銀貨
海洋神オセアヌス(Ocean)が表現されたコイン。ポセイドンとよく似た姿で、三叉矛の代わりに船の錨を持っています。オセアヌス神の左ひじを支えているのは、背もたれのようになったイルカです。
・小アジア (現在のトルコ)
帝国最西端から再東端へ移動したハドリアヌスは、上陸したアンティオキアからパルティアとの国境最前線視察を開始。そのまま北上して黒海沿岸部に到達します。
AD136年 デナリウス銀貨
ガレー船に足を載せ、舳先とオールを携えるアシア女神。周囲には「ASIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
カッパドキアは小アジア内陸の地域。男性として表されたカッパドキアは、特徴的な帽子を被りローマ軍の記章を支えています。右手で差し出しているのはカッパドキアの名所「アルガエウス山(現在のエルジェス山)」です。周囲には「CAPPADOCIA」銘。
AD136年 セステルティウス貨
フリギアは小アジア内陸部の地域。このコインではフリギアを象徴する男性がハドリアヌス帝に忠誠を誓っています。フリギア特有の帽子を被った男性は右手を皇帝に差し出し、左手で羊飼いの杖を持っています。右側には「PHRYGIAE」銘。
AD136年 セステルティウス貨
ビテュニアは小アジアの北西部、黒海沿岸の一帯。コインには跪きハドリアヌス帝に忠誠を誓うビテュニア女神が表現されています。右側には「BITHYNIAE」銘。
AD124年に訪れたビテュニアで出会った現地の美青年アンティノウスを気に入ったハドリアヌスは、そのまま彼を旅に連れてゆくことにします。美しい愛人を新たに加え、憧れだった古代ギリシャ文化の地、エーゲ海に到達したハドリアヌスは上機嫌だったことでしょう。
アンティノウスの胸像
・トラキア (現在のブルガリア)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とトラキア女神。右側には「THRACIAE」銘があった。
ギリシャ文化を愛好したハドリアヌスは憧れだったアテネを訪問し、記念の神殿建設や修復を行いました。一方で北部のトラキアに足を伸ばし、軍の防衛体制を確認しています。
その後デュラキウム(現在のアルバニア)に移動したハドリアヌス帝はまっすぐ対岸のイタリア半島へは向かわず、南へ迂回してシチリア島へ上陸します。
・シチリア島
ローマへ帰還する前にシチリア島のシラクサへ立ち寄ったハドリアヌス帝は、穀物の重要な生産地であるシチリアを視察します。
AD136年 セステルティウス貨
跪きハドリアヌス帝を迎えるシチリアの女神。左手には麦穂を持っています。頭にはシチリア島の象徴であるトリナクリア(三脚巴紋)をつけています。トリナクリアはシチリア島の三つの岬を示し、シチリア島の形状そのものを象徴しているとされます。右側には「SICILIAE」銘があります。
ハドリアヌスが首都ローマへ帰還したのは、旅に出てから4年後のAD125年でした。しかし長らくローマを留守にし、通常の政務を優れた官僚組織に任せて自らは遠方から指示を出すハドリアヌスは、元老院での評判をすっかり落としていました。
ローマにいるのが苦痛になったのか、未踏の地への欲求が抑えられなくなったのか、帰還から3年後に再び巡幸の旅へ再出発します。次にハドリアヌスが目指したのは、前回の旅では船で通り過ぎてしまったアフリカ属州でした。
・アフリカ (現在のチュニジア)
アフリカ属州はカルタゴ征服後に設置された属州であり、オリーヴや麦などの農地開発が盛んに行われました。また闘技場での見世物に供される珍しい動物たちをローマへ輸出するなどし、経済的・文化的にも繁栄しました。アフリカの名はその後、大陸全体を表す名称になりました。
ハドリアヌス帝はシチリア島を経由してカルタゴに上陸しました。内陸部の各地を巡幸し、その後は再び海路でローマへ帰還しています。
AD136年 デナリウス銀貨
アフリカを象徴する女神像。足下には小麦の入った壺が置かれ、穀物の供給を示しています。女神は頭に象の毛皮を被り、右手でサソリを差し出すというアフリカらしい姿です。上部には「AFRICA」銘が刻まれています。
ローマへの帰還から束の間、すぐに三回目の巡幸に出発したハドリアヌス。三回目は国境の視察よりも、むしろハドリアヌス個人の好奇心を満足させる旅でした。愛人アンティノウスを伴ったハドリアヌス帝はまずギリシャのアテネに滞在し、その後小アジアを経てシリア、アラビア方面へ向かいます。
・アラビア (現在のヨルダン)
AD136年 セステルティウス貨
ハドリアヌス帝とアラビア女神。右側には「ARABIAE」銘。
アラビアの砂漠地帯を抜けて訪れたのは、ハドリアヌス帝が最も気に入った滞在地、エジプトでした。
・アエギュプトゥス (現在のエジプト)
AD136年 セステルティウス貨
女神エジプトは果物が入った籠に寄りかかりながら、古代エジプトの葬用楽器シストラムを掲げています。左側には聖鳥トキが配され、上部には「AEGYPTOS」銘が刻まれています。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプト属州の州都アレクサンドリアを表現したコイン。商業・学問の中心として栄えたアレクサンドリアにはハドリアヌス帝も滞在しました。コインのアレクサンドリア女神は右手でシストラムを掲げ、左手で籠を持っています。その籠からは一匹のコブラが這い出しています。周囲には「ALEXANDRIA」銘。
AD136年 デナリウス銀貨
エジプトを流れるナイル川の神を表現。古代ローマでは川を表現する際、年老いた男性の姿で表現されました。エジプトの場合も例外ではなく、現地で発行されたコインにも同様の意匠が見られます。このコインではナイル神の足元にカバが配されています。この姿は古代エジプトのナイル川の神ハピが基になっているとみられます。上部には「NILVS」銘。
AD130年にエジプト入りしたハドリアヌスはナイル川をクルーズし、古代エジプトの壮大な神殿群を目の当たりにしました。殊の外エジプト滞在を気に入ったらしく、愛人のアンティノウスがいるにも関わらず、ローマにいた妻のサビーナをアレクサンドリアにわざわざ呼び寄せたそうです。
しかしこの地で悲劇が起こります。ナイル川をクルージング中に、アンティノウスが船から転落して溺死してしまったのです。当時から若いアンティノウスが簡単に溺死したのは不自然として、犠牲の生贄にされたという説や暗殺されたという説もあったそうです。 寵愛していたアンティノウスの死はハドリアヌスにとって予期せぬことであり、上機嫌から一転して深い悲しみに包まれました。
亡くなったアンティノウスを顕彰するため「アンティノポリス」という街を建設し、アンティノウスの像を建てても悲しみは晴れず、エジプトを離れてローマへ帰還しました。
・ユダヤ (現在のイスラエル)
AD136年 セステルティウス貨
女性として表現されたユダヤの像。二人の子どもを伴いながらハドリアヌス帝に対しています。右側には「IVDAEAE」銘。
エジプトからローマへ帰ってきたハドリアヌスに、最後の苦しい旅が待っていました。かつて大規模な反乱が勃発したユダヤ属州のイェルサレムは、1世紀にティトゥスの攻撃によって破壊されて以降、まともに復興されないままでした。ハドリアヌスはエジプトへ向かう途中でイェルサレムに立ち寄り、ここを新都市として生まれ変わらせることを宣言します。しかしその計画はイェルサレムの名を消し、かつてソロモン神殿があった場所にユーピテル神殿を建設するという、ユダヤ人の聖地を完全に作り変えるものでした。
計画に激怒したユダヤ人たちが起した反乱(第二次ユダヤ戦争、バル・コクバの乱)はローマ軍を圧倒し、ついにハドリアヌス自らが鎮圧に赴くことになりました。皇帝指揮下のローマ軍はAD135年、反乱軍の拠点だった聖地イェルサレムを陥落させ、ユダヤの反乱を鎮圧することに成功します。
反乱鎮圧後、怒りに満ちたハドリアヌス帝が下した処分は厳しいものでした。イェルサレムのユダヤ人は全て追放され、各地に離散(ディアスポラ)することになります。ユダヤ属州はペリシテ人のシリアを意味する「シリア・パレスティナ属州」(現在のパレスティナ呼称のはじまり)と改名され、ユダヤ文化の破壊が行われました。
反乱鎮圧に成功したハドリアヌス帝はローマへ戻りましたが、その後二度と巡幸の旅に出かけることはありませんでした。ユダヤでの戦いから、ハドリアヌス帝は体調を崩すようになっていました。
長旅に耐えられなくなった老体を休める為、ローマ近郊に建設した別荘で過ごすことが多くなったハドリアヌス帝は、そこで自らの理想の庭園作りに専念します。
それらデザインや意匠は、かつて旅の途中で自らが目にした各地の風土や、印象を反映させたものでした。
ハドリアヌスの別荘―ナイルワニの像
今回ご紹介したハドリアヌス帝の旅コインのほとんどは、治世末期のAD136年頃に造られたとみられています。60歳となったこの頃には体の衰えが進み、再び旅に出ることを諦めていたであろうハドリアヌス。せめてかつて旅した各地に想いを馳せ、後世に伝えられるよう、コインのデザインに投影させていたのかもしれません。
近年、旅のコインはハドリアヌス帝を象徴する史料として再注目されています。
古代ローマコイン収集の世界でも一連のシリーズになっていることから、収集する上で興味深いテーマです。今後のコレクション対象として参考にされてみてはいかがでしょうか。
こんにちは。
いよいよ12月も残すところあと僅か。例年よりも寒い日が続いていますが、御自愛いただき楽しい新年を迎えていただきたく思います。
寒い日、年末年始のお休みには、お家の中でゆっくり本を読むのも良いですね。
先日、塩野七生女史の最新作『ギリシア人の物語 Ⅲ』(新潮社)がついに発売となりました。
今回は三年にわたって続いた『ギリシア人の物語』シリーズの最終巻であり、塩野さん自身、歴史長編では最後の作品であると明言しています。
本作はマケドニア王国の大英雄 アレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)が主人公であり、この若き英雄の生涯と足跡を辿る壮大な物語になっています。塩野女史は多数の歴史書を読み込み、長期間調査を行ったうえで自分なりの考察、推考を行って執筆されているので、物語としてだけでなく一つの歴史書としても読ませる一冊になっています。
古代世界史に興味をお持ちの方も、ギリシャコインを収集している方にとっても面白い内容だと思います。父王フィリッポス2世や、アレキサンダー大王が発行したコインについても言及されています。この冬ぜひ手にとってお読みいただきたい一冊です。
・新潮社『ギリシア人の物語 Ⅲ』特設ページ 塩野女史インタビュー映像
ワールドコインギャラリーでもアレキサンダー大王のコインを多数扱っております。
こちらもご覧いただければ幸いです。
・「アレキサンダー大王コイン」 特設ページ
さて、今回は来年が幸先の良い年になるように、「幸運の女神」について書いていきたいと思います。
古代ギリシャ・ローマコインには数多くの女神が表現されてきましたが「幸運の女神」とされたテュケとフォルトゥナも頻繁に表現されています。
もともとテュケ女神は地中海の東方地域で広く信奉されていた神であり、小アジア南部やフェニキアの諸都市では守護女神として受け入れられていたようです。
シリア、アンティオキア市の守護神としてのテュケ女神を表現した像。女神の足下にはアンティオキア市を流れるオンテロス川の神が泳いでいます。紀元前3世紀にエウテュキデスが作成したブロンズ像とされ、その後ローマにコピーが作成されました。
その姿は城塞の形をした冠をいただく姿として表現され、そのままコインのデザインとして取り入れられたのでした。
ドラクマ銀貨 小アジア アミソス BC400-BC350
フェニキア アラドス テトラドラクマ銀貨 BC89-BC88
セレウコス朝シリア セレウキア テトラドラクマ銀貨 BC100-BC99
セレウコス朝シリア アンティオキア テトラドラクマ銀貨 BC162-BC154
セレウコス朝シリアが滅亡し、地中海東方地域がローマの勢力圏に収まると、テュケ女神は「フォルトゥナ(運命)」の名で広く受け入れられるようになりました。現在の英語の「フォーチュン(fortune)」にも連なる意味合いです。フォルトゥナは運命を司り幸運と好機をもたらしてくれる女神として、また「運命」そのものの象徴として、個人から国家のレベルに至るまで認識されてゆきました。
ヴァティカーノ美術館が所蔵するこの像は、ローマ外港オスティアで奉られていたフォルトゥナ女神像であり、古典ローマの服装を纏った高貴な婦人のように表現されています。右手で舵を支え、左手でコルヌ・コピア(豊穣の角)を抱えています。
ローマ時代に確立されたフォルトゥナ女神のイメージは、恵みと豊穣を象徴するコルヌ・コピアを持ち、一方の手で舵を握る姿です。舵は運命の流れを変える意味を持ち、また人間の「人生の舵をとる」のは他ならぬ「運命」であるとされたからでした。
ローマの近郊ではプラエネステ(現在のイタリア中部 パレストリーナ市)にフォルトゥナを奉る神殿が存在しました。紀元前2世紀頃に建設されたこの神殿には神官がおり、「プラエネステの神託」と呼ばれる神秘的な文字によって回答する神託所があったと伝えられています。
フォルトゥナはローマ国家にとっても重要な女神像とされ、歴代の皇帝たちは黄金のフォルトゥナ女神像を代々引き継ぎ、寝所など身近に安置したとされています。
五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝は崩御する直前、黄金のフォルトゥナ女神像を自らの枕元から、後継者マルクス・アウレリウスの寝所に移すよう側近に指示したとされ、これがアントニヌス・ピウス帝の最後の命令となった、と伝えられています。
そのため各皇帝の時代に発行されたコイン裏面にも、頻繁にフォルトゥナ女神の像が表現されました。また東方の属州の都市でも、現地通用のコインにはフォルトゥナ(現地ではテュケとして)がデザインとして採用されていました。
アウグストゥス帝 シリア属州アンティオキア発行 テトラドラクマ銀貨 BC4-BC3
大ファウスティナ妃 デナリウス銀貨 AD147-AD161
小アジア アレクサンドリア・トロアス AD253-AD268
※帝政ローマ時代、主に小アジアの都市で発行された銅貨の内、皇帝や皇族を表面に刻まず土着の神や女神を打ち出したタイプのコインを「Pseudo-autonomous(擬似自治)」と称します。
ローマで人気のあったフォルトゥナ女神は様々な芸術作品において、「運命」の寓意として表現されました。その過程でフォルトゥナは幸運と好機をもたらす側面がある一方で、一つのところに落ち着かない、移り気な性格の女神であるとされました。
幸運を与える人間の性質を問わず、女神が気に入った人間に好機を与えることもあれば、気まぐれに奪い去ることもあると云われたのです。人間にとって「運命」は自分の意志だけでは思い通りに行かず、先行きが分からないものであるが故、その女神もまた御しがたい存在であると捉えられたのでしょう。
ローマ時代以降、特に近代に表現されたフォルトゥナ女神は目隠しをされていたり、不安定なことを象徴する球に乗せられている例が見受けられるのはそうした背景があるのです。
フォルトゥナ (タデウツ・クンツェ作 1754年 ワルシャワ国立美術館)
読者の皆様は本年も1年間、このブログにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
2018年/平成30年も皆様にとって良い年になりますよう、幸運の女神に気に入られて、素晴らしい一年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
来年も何卒よろしくお願い申し上げます。
P.S. 来年1月27日放送予定のNHK-BSドキュメンタリー番組『グレートネイチャー』で、ワールドコインギャラリーで撮影されたローマコインが放送される予定です。ほんの一瞬ですが、もし機会がありましたらぜひご覧下さい。
こんにちは。
11月に入りすっかり秋らしい陽気になってまいりました。今回は「収穫の秋」にちなんで、古代ギリシャの葡萄酒の神 ディオニソスのコインをご紹介します。
古代ギリシャ・ローマ時代は多神教の時代であり、様々な神が信奉されていました。
その中でも女性達を中心に熱狂的信奉を集めたのが「ディオニソス」でした。
ディオニソスは比較的新しい外来神とされ、豊穣をもたらす神とされていました。
ギリシャに伝来した後、転じて葡萄酒(ワイン)の守護神とされ、酩酊や陶酔、熱狂と興奮を司る快楽の神ともされました。その姿は髭の男性であることもあれば、女性的な美しい青年の姿で表現されることもありました。頭部には葡萄の葉で作ったリースを巻き、松笠が付いたテュルソスの杖を持っています。彫刻や絵画では半人半馬の酔っ払いシレノスや豹、踊る女性たちを引き連れた姿で表されています。
ローマでは「バッカス(バッコス)」の名で知られ、ギリシャと同じように女性達の間で広まりました。また束縛や禁忌、常識からの解放を表す「リーベル」の名で表されることもありました。
「ディオニオスの秘儀」の集会やその快楽性、集団での熱狂性から「退廃的」とみなした元老院が禁止令を出したこともありましたが、魅惑的かつ熱狂的なディオニソス信仰を絶やすことはできませんでした。その後、地方でも豊穣祭としてディオニソス信仰が浸透していきました。男女の別なく仮面をつけて下品な歌を歌いながら路上を練り歩き、羽目を外したお祭り騒ぎが繰り広げられたと伝えられます。
人気のあったディオニソス(バッカス)は、ギリシャやローマで発行された様々なコインにも表現されました。
中でも特徴的なものは、エーゲ海のタソス島で造られたテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨です。
このコインは紀元前90年~紀元前75年頃にタソス島の造幣所で造られました。
表面にはディオニソス神の横顔像が打ち出されています。頭部には葡萄の蔦が巻かれており、ハート型の葉や葡萄実が確認できます。ヘレニズム時代の美術彫刻で流行した女性的な姿ですが、アマゾネスのような逞しさも感じられます。
裏面は英雄ヘラクレスの立像が表現されています。筋骨隆々とした逞しい姿です。全裸のヘラクレスは棍棒とライオンの毛皮を持っており、右側にはヘラクレスの名銘「ΗΡΑΚΛΕΟΥΣ」、下部にはタソスを示す「ΘΑΣΙΩΝ」の銘が刻まれています。
このコインが発行された紀元前1世紀、タソス島をはじめトラキア地方やマケドニア地方はローマの支配下にありました。アンティゴノス朝マケドニア王国が滅亡した紀元前168年以降、ローマはアンティゴノス朝が統治していたトラキアやマケドニアを再編し、分割統治を行いました。中でもエーゲ海の北端部に位置しているタソス島は、戦略的にも重要な島とみられていたようです。
※赤い島がタソス島。現在ではギリシャのリゾート地として知られている。
当時、トラキア地方には豊かな銀山が存在していました。ローマはトラキアで産出された銀を大量にタソス島とマロネイア(トラキア南部の港湾都市)の造幣所へ輸送し、同じデザインのテトラドラクマ銀貨を造らせたのです。その際にデザインとして選ばれたのは、トラキアやマケドニアの各地に伝承が残る「ディオニソス」と「ヘラクレス」だったのです。
当時、タソス島は葡萄とワインの名産地とされていたことから、ディオニソスとも浅からぬ縁がありました。
こうしてタソス島とマロネイアで造られたディオニソスのテトラドラクマ銀貨は、エーゲ海各地、トラキア、マケドニアの各都市に広まってゆきます。ローマ支配下では交易決済の手段として盛んに用いられていたとみられ、各地の遺跡から多く発見されています。またトラキアの良質な銀から造られたこのコインは、ローマの影響外にある人々、社会にまで浸透していました。
東ヨーロッパのドナウ川流域に暮らしていたケルト族が造ったとされるコイン。そのデザインはタソス島のコインを模倣していますが、上手く再現できていなかったり、諦めてオリジナルのアレンジを加えているものもみられます。
ルーマニアやブルガリアの遺跡からこうした模倣貨が多く発見されていることから、エーゲ海から離れた地域にまでタソス島のコインが浸透していたことが分かります。
森深い未開の地域に暮らす人々も、ギリシャ・ローマ文化に対して憧れを抱いていたことがうかがえます。
秋も深まり日が短くなっている今日この頃、ディオニソス神のコインを片手に往時に思いを馳せながら、お酒をゆっくり味わうのも良いかもしれません。
投稿情報: 16:32 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
今年の8月は前半が雨模様で、まるで梅雨のようなお天気でした。今では猛暑が戻ってきたこともあり、ようやく例年の夏らしさを感じます。
今回は古代ローマコインで人気のある女神「アバンダンティア」についてお話したいと思います。
帝政時代のローマコインは、表面が皇帝などの人物像、裏面が神々の立像や坐像といった、パターン化した様式が定着していました。今でもこの時代のコインを集める方は、表面の皇帝像で選ばれる方が多いのではないでしょうか。
しかし、その中でも皇帝像ではなく、裏面の神様で購入される方もいらっしゃいます。軍神マルスや知恵の女神ミネルヴァ、医神アスクレピオスなど人気のある神様は多いのですが、実はそれ以上に求められている女神像があります。富と豊穣の女神「アバンダンティア」です。
アバンダンティア(Abundantia)は富と豊穣を齎す女神として、古代ローマでも特に人気のあった女神像のひとつでした。
資産や投資、貯蓄を守護し、成功や繁栄、金銭的豊かさを齎すと共に、富裕を象徴する女神として知られていました。しかしアバンダンティア独自の神話やエピソードは見られず、豊かさの寓意(アレゴリー)としてみなされています。英語の「Abundance (豊富、豊かさ)」は「Abund (満ち溢れる)」の派生語ですが、アバンダンティアはそうした言葉や概念を具現化した女神像だと思われます。
そのためアバンダンティアは後世のヨーロッパ、ルネサンス期やバロック期、ロココ期の芸術にも度々表現されています。上記の絵画は1630年頃、ルーベンスによって描かれたアバンダンティア女神像であり、東京・上野の国立西洋美術館に収蔵されています。
近代絵画に表現されたアバンダンティア女神は多くの場合「コルヌ・コピア」と呼ばれる豊穣の角を携え、その口から果物や穀物を注ぎだす姿で表現されています。この場合は「豊穣」をテーマとし、実り豊かな生活や生産性、安定した豊かな暮らしへの願いを象徴しているようです。
コルヌ・コピア(Cornu Copiae) 「豊穣の角」
ギリシャ神話の大神ゼウスは幼い頃、アマルティアという牝山羊によって育てられたとされています。アマルティアは自らの角をゼウス神に与えると、そこから酒や果物、花や宝石、金銀などの恵みが無限に溢れ出続けたと云われます。そこから西洋では豊かさ、恵みの象徴としてコルヌ・コピアが定着しました。日本の「打ち出の小槌」や「塩吹臼」によく似た性質の神器です。
古代ローマ時代のコインに表現されたアバンダンティア女神像も、例外なくコルヌ・コピアを携えています。しかしそこから注ぎ出されているものは花や果物、穀物よりも、多くの場合「コイン」でした。
エラガバルス帝時代のデナリウス銀貨
立姿のアバンダンティア女神は両手でコルヌ・コピアを抱え、その口から大量のコインを注ぎ出しています。周囲部には女神の名銘「ABVNDANTIA AVG (アバンダンティア女神)」が刻まれています。
座像など多少表現のバラエティはみられますが、類似の構図で表現されたアバンダンティアのコインは他の皇帝の時代にも見られ、ある程度一般化したイメージだったとことが分かります。
マルクス・アウレリウス帝のデナリウス銀貨
デキウス帝のアントニニアヌス銀貨
古代ローマの人々にとって、アバンダンティアは豊穣の女神であると共に、「金銭」「富」を齎してくれる大変ありがたい女神というイメージが定着していたのでしょう。
この時代にコイン上のデザインとしてコインそのものが表現されること自体、稀有なことでした。それだけローマ帝国の社会では貨幣経済が浸透し、蓄財や富といった認識が成熟していた証なのかもしれません。
今尚、このアバンダンティア女神が表現されたコインは欧米のローマコイン収集家の間で人気があり、オークションでも比較的高い値で落札されています。表面の皇帝に人気が無くとも、裏面によって評価されている珍しい事例です。コインをコレクションしていなくとも、お守りやパワーアイテムとして求める方も少なくはありません。
古代ローマ時代も現在も、金銭に対する認識や富への憧れは変わらないような感じがいたします。
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
6月に入り、すっかり蒸し暑くなって来ました。梅雨はとっくに過ぎてしまったような陽気です。
今日は古代ギリシャのコインに頻繁に登場する動物「ライオン」にスポットを当ててご紹介したいと思います。
紀元前の古代ギリシャでは様々なものがコインのモティーフになりました。多くは神話や伝説に基づく寓意的なものですが、それに次いで自然や動植物を表現したものも多く見られます。
そしてその中でも「ライオン」は大変人気のあるテーマだったようで、各地で造られたコインにその姿が表現されています。
世界で初めて本格的な金属貨幣(コイン)を発行したのは、小アジアに存在したリディア王国だとされていますが、そのリディアで最初に生み出されたコインのモティーフはライオンでした。つまり、ライオンはコインに初めて表現されたデザインということになります。
リディアから始まったコイン発行の文化は各地に伝播し、様々な意匠が生み出されましたが、ライオンも様々な姿で表現されることになります。
古代も現在も、ライオン=力強さ、百獣の王というイメージがあり、その猛々しい姿がコインに表現されるのは理解できます。しかし現在人のイメージでは、ライオンはアフリカ大陸のサバンナに生息する動物であり、本来ギリシャやヨーロッパのイメージとは縁遠い動物のようにも思えます。
実は古代のヨーロッパ、地中海周辺には多くのライオンが生息してのではないかと考えられています。
現在アフリカのサバンナに生息するアフリカライオンは、今からおよそ5000年前まではアフリカ大陸全域とアラビア半島、小アジア、インド、そしてギリシャを含めたバルカン半島南部にまで分布していたとみられ、各地で亜種とみられる化石も見つかっています。
特に、北アフリカ~地中海沿岸部に分布していたバーバリライオン(またはアトラスライオン)は、古代エジプトやギリシャ人にとって身近な猛獣の一つでした。最大4m近くにもなる巨体と、黒く豊かな鬣は、当時の人々にはまさに「百獣の王」にみえたことでしょう。またサバンナに生きるライオンとは異なり、森の中で生活していたことも特徴です。
より北に移動した亜種には「ヨーロッパホラアナライオン」という種も存在し、これは名の通り洞窟で単独生活をしていたとみられることから名付けられました。
こうしたヨーロッパのライオンたちは、古代の神話にも度々登場し、重要な役割を演じています。
古代ギリシャ神話の一つ「ヘラクレスの十二功業」の一つに、ネメアの谷に住むライオン退治があります。ヘラクレスはミュケナイの王から様々な難題を命じられ、それをこなす為にギリシャ各地へ赴きます。その難題の一つが「ネメアの谷に住む凶暴な獅子の退治」でした。
ペロポネソス半島北東部ネメアの谷には凶暴な人食いライオンがおり、人々から恐れられていました。ヘラクレスは弓で射殺そうとしますが、その毛皮は刃物を通さない鋼のような硬さでした。そこでヘラクレスは武器を捨て、素手でライオンを取り押さえて絞め殺すことにします。洞窟に追い詰めたヘラクレスはライオンと取っ組み合い、その豪腕でついに凶暴な獅子を倒すことが出来たのです。
ヘラクレスはこのライオンの毛皮で頭巾を作り、戦いの際には常に被るようになりました。ヘラクレス像がライオンの毛皮を頭に被っているのはその為です。また、この時殺されたライオンは天空のゼウス神によって迎えられ、十二星座のひとつ「獅子座」にされたと云われています。
※古代ローマで造られたデナリウス銀貨(BC80年)。自らの武器である弓矢と棍棒を捨て、身体一つでライオンを締め上げる姿が表現されています。
こうしてライオンは古代ギリシャ人の文化にとって身近な存在となり、また人間の強靭さや神々の超自然性を象徴するものとして認識されました。
一方、オリエント(東方世界)でもコインに頻繁にライオンが表現されていましたが、それはむしろ支配者である大王の権威を強調するものでした。古代ペルシアやバビロニアのレリーフには、ライオン狩りをする王の姿が多く見られます。ライオンは強靭な動物であるため、それを仕留められる大王は超自然的な力を持った人間として表現されたのです。
ヘレニズム時代以降、オリエント地域やインド=グリーク王朝で発行されたコインには、鬣が短く痩せ型のライオンが多く表現されており、当地で見られたであろうライオンの姿を今に伝えています。
古代インドでもライオンは「百獣の王」と認識され、獅子は仏教において神聖な動物の一種とされていました。またペルシアなどと同じく王の権威を象徴する動物とされたことから、王の名において発行されたコインにも表現されたようです。
ライオンはギリシャやローマでもキュベレ女神やディオニオス神(バッカス神)信仰に結びつけられたり、後世のキリスト教でも寓意の一つとして盛んに取り入れられました。古来より宗教上のモティーフとして多く表現されていた、人気の動物であったようです。
ギリシャ~インドまで、古代文明が栄えた地域ではライオンが比較的身近な存在でした。しかし現在、ライオンの生息地は限られたものになっています。
ライオンの減少はすでに古代ギリシャ・ローマ時代には始まっていたと考えられています。
上記でご紹介したバーバリライオンは北アフリカ~小アジア、バルカン半島に至る広域に生息していましたが、人間の居住地が拡大するにつれて減少してゆきました。身体が大きく鬣も立派なこのライオンは人々から恐れられた一方で、格好の狩猟対象にもなっていました。牧畜の敵として駆除が進められたほか、多くのライオンは人間のライオン狩りによって姿を消したのです。
ローマ帝国の時代になると、ヨーロッパや小アジアではライオンが見られなくなっていたようで、主に北アフリカの属州からライオンを調達したそうです。そのため北アフリカに生息していた個体は更に乱獲され、生け捕りにされてローマに輸送後、円形闘技場での剣闘士試合に出場させられたり、罪人の見せしめ処刑に使われるなど、見世物として消費されてゆきました。
当時は帝都ローマのみならず、ガリアや小アジア、北アフリカなど各地に円形闘技場は存在し、同じようにライオンが消費されていたとみられています。ライオンを生け捕りにすることは大変危険ですが、人気がある故に換金性が高く、アフリカの部族にとっても重要な収入源になっていたと考えられます。
モロッコでは19世紀末~20世紀まで野生種が生息していたようですが、その僅かな種もライオン狩りによって絶やされています。
もともと繁殖力が弱かったオリエント~インドのアジアライオンも開発と乱獲によって減少し、20世紀初頭には20頭にまで数を減らしました。
かつてヨーロッパから小アジア、ペルシア、北アフリカで広く見られたライオンの野生種は完全に絶滅し、今や自然の中でその姿をみることはできません。
現在、アジアライオンとバーバリライオンは各国の動物園や自然保護区で個体数が確保されていますが、どちらも人間の管理下でわずか数百頭程度しかいない絶滅危惧種です。
かつて地中海~オリエントの文明に馴染み深かったライオンの猛々しい姿は、神話や物語によって語られ、後世まで伝えられました。そして現在では、古代遺跡から出土した壁画やレリーフ、彫刻、装飾品やコインの中にその姿が留められています。
こんにちは。
桜も咲き始め、段々と春らしい陽気になってきました。
朝晩は肌寒く感じられますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、今回は古代ローマコイン、特に帝政時代のコインに刻まれた銘文についてご紹介したいと思います。
古代ローマのコインには、その当時使用されていた「ラテン語」が刻まれています。現在では実用的に使われなくなった言葉ですが、今も使用されているローマ字で表されているため、読み取るのは容易です。
そのため個々の意味さえ理解できれば、コインの理解もよりいっそう深まり、収集が楽しいものになります。
紀元前1世紀までの共和政時代のコインには、貨幣発行責任者の名前やローマを示す「ROMA」の銘が刻まれていました。しかしユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスが自らの横顔肖像を刻んだコインを発行すると、その周囲には名前と称号を刻ませるようになります。
続くオクタウィアヌスがBC27年に初代皇帝アウグストゥスとして帝政を開始すると、付属する称号はより多くなり、より長く細かいものになりました。
その後の皇帝たちもその慣例に従い、称号を省略しながらコインに銘を刻ませ続けており、後のビザンチン帝国にまで引き継がれていったのです。
ローマ皇帝によってその称号は様々であり、時代によって表記のあり方も異なりますが、ここでは分かりやすい例を挙げてご紹介します。
デナリウス銀貨 AD126年 ハドリアヌス帝/コンコルディア女神
表面には皇帝ハドリアヌス(在位:AD117年~AD138年)の横顔肖像が打ち出されています。
左右には「HADRIANVS AVGVSTVS」の銘が確認できます。
「HADRIANVS」はそのまま「ハドリアヌス」、「AVGVSTVS」は「アウグストゥス」です。アウグストゥスの名は、その後の皇帝たちの名前の後に続く称号として使用されるようになり、そのまま「皇帝」を意味する言葉として定着していました。
尚、「CAESAR(カエサル)」は事実上「副帝」というニュアンスで使用されていたようです。
そしてこの頃のラテン語銘では「U」を「V」と表記します。その為「ウ」の音なのか「ヴ」と訳すのかはその時々によって違います。
裏面に刻まれた「COS III」の銘は省略銘であり、「CONSVL III (コンスル3=執政官三回目)」を表します。
この執政官○○回目という表記は、コインの発行年代を特定するのに大変重要な手がかりとなります。ハドリアヌス帝が3度目の執政官に就任したのはAD119年のことだとされているため、少なくともこのコインはAD119年以降に造られたことが分かります。
デナリウス銀貨 AD149年~AD150年 アントニヌス・ピウス帝/ゲニウス神
続くアントニヌス・ピウス帝(在位:AD138年~AD161年)のコインの称号は、より細かくより省略されたものになっています。順番にみていきましょう。
「ANTONINVS AVG PIVS P P TR P XIII」
①「ANTONINVS」=「アントニヌス」
②「AVG」=「AVGVSTVS」=「アウグストゥス」=「皇帝」
③「PIVS」=「ピウス」=「敬虔な」
④「P P」=「PATER PATRIAE」=「パテル・パトリアエ」=「国父」
⑤「TR P」=「TRIBVNICIA POTESTAS」=「トリブニキア・ポテスタス」=「護民官権限」
⑥「XIII」=「8」 ※年代によってこの数字は変化する。
※裏面 ⑦「COS IIII」=「CONSVL IIII」=「コンスル4」=「執政官四回目」
全ての文言を合せて訳すと、
「アントニヌス帝 敬虔な国父 護民官権限の保持八回目 執政官四回目」
となります。
デナリウス銀貨 AD102年 トラヤヌス帝/ヴィクトリー女神
トラヤヌス帝(在位:AD98年~AD117年)は武帝として外征を盛んに行い、ローマ帝国の版図を史上最大にしたことで知られています。その功績はコインの銘文にも現われており、銘文のバラエティも豊富です。
「IMP CAES NERVA TRAIAN AVG GERM」
①「IMP」=「IMPERATOR」=「インペラトール」=「最高司令官」
②「CAES」=「CAESAR」=「カエサル」
③「NERVA」=「ネルウァ」
④「TRAIAN」=「トライアン(トラヤヌス)」
⑤「AVG」=「AVGVSTVS」=「アウグストゥス」=「皇帝」
⑥「GERM」=「GERMANICVS」=「ゲルマニクス」=「ゲルマニア征服将軍」
裏面の銘文は
「P M TR P COS IIII P P」
①「P M」=「PONTIFEX MAXIMVS」=「ポンティフェクス・マクシムス」=「大神祇官」
②「TR P」=「TRIBVNICIA POTESTAS」=「トリブニキア・ポテスタス」=「護民官権限」
③「COS IIII」=「CONSVL IIII」=「コンスル4」=「執政官四回目」
④「P P」=「PATER PATRIAE」=「パテル・パトリアエ」=「国父」
両面の銘文を合せて訳すと、
「最高司令官 ネルウァ・トラヤヌス皇帝 ゲルマニア征服将軍 大神祇官にして護民官権限の保持者 執政官四回目の国父」
となります。
今回は五賢帝時代のコインを例に挙げて紹介しましたが、「AVG」や「CAES」「IMP」「P M」「TR P」といった称号は、その他の皇帝たちにも決まって引き継がれています。
コインに刻まれた銘文はほとんど決まっているので、そこを読み取ることが出来れば造られた年代や背景、希少性が分かります。
しかし古代の手作業による打刻コインですので、どうしても位置がずれたり磨耗したり、または打ち出しの力が弱いなどの理由から、銘文が見切れていたり不鮮明なものが多くみられます。
弊社でも肖像が綺麗に打ち出されているもの、そしてなるべく銘文がはっきり確認できるものを入荷するよう心がけていますが、なかなか簡単にはいきません。
もしローマコインをお持ちの方は、是非ルーペで銘文を確認してみて下さい。読み取れる場合はそれを可能な限り書き取り、銘文の解読に挑戦するのも面白いと思います。
皇帝と銘文を様々な資料で調べることで、生きたローマ史の知識もより深まることでしょう。
古代ローマの文字を解読する機会は考古学者でもない限りありませんが、コイン一枚あればそうした楽しみ方も味わえます。
投稿情報: 14:33 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
ほぼ2ヶ月ぶりの更新で、何を書けば良いのか分かりませんが、前回酉年ということで「鳥のコイン」をご紹介しました。
しかしその際は古代ギリシャと近現代コインは言及しましたが、「古代ローマ」のコインについては全く言及できておりませんでした・・・。
ということで前回の続編のようになってしまいますが「古代ローマの鳥コイン」についてもご紹介したいと思います。
古代ローマのコインには様々な神が表現されており、バラエティも豊富なのですが、意外と「鳥」の種類は少ないように見受けられます。
動物はライオン、イノシシ、馬、象、アンテロープ、カバ、ブタ、犬、イルカなどその時々によって多種多様なのですが、鳥は特定のものが何度も採用されています。
それは大鷲と孔雀です。
BC49年 デナリウス貨
(ポンペイウス派の軍勢が布陣していたバルカン半島 デュッラキウムで発行)
表面には大神ジュピター(ユーピテル)、裏面にはイルカと大鷲が表されています。
英語名ジュピター、ラテン語では「ユーピテル」と呼ばれるこの大神は、ギリシャ神話のゼウス神と同一視された最高神です。
そしてそのゼウス神の化身であり聖鳥とされたのが、力強い「大鷲」でした。そのため、ローマコインでもジュピター神が採用されたコインには、その関連として大鷲が刻まれたようです。
帝政時代になると、大鷲は「ジュピター神の聖鳥」としての性質を変え、より政治的な意味を持つようになります。
神格化されたローマ皇帝の象徴としてコインに刻まれたのです。
AD180年 デナリウス銀貨
上のコインはマルクス・アウレリウス帝が崩御した年、亡き皇帝が神に列せられたことを記念して造られました。裏面には今にも羽ばたこうとする大鷲が表現されています。
大鷲はローマ皇帝の象徴であり、大神ジュピターを連想させるものとして、軍事的成功を讃えるモニュメントなどに取り入れられていました。しかし各時代の皇帝が通常発行したコインは、ほぼ一貫して表面に自らの肖像、裏面には特定の神・女神の像を表現していました。
単体で大鷲だけが表現されたコインとしては、こうした皇帝神格化記念のものが特徴的です。
ローマ皇帝は崩御すると、その魂は大鷲の背に乗せられて天界へと運ばれ、そこで神々の祝福を授かると信じられていました。そのため、大鷲は皇帝たちの信仰にとっても重要な意味を持つ鳥だったのです。
地域性では当時のシリア属州で発行されたものに大鷲が表現されています。
AD60年~AD61年 シリア属州 テトラドラクマ銀貨 ネロ帝
AD96年~AD97年 シリア属州 テトラドラクマ銀貨 ネルヴァ帝
AD212年~AD213年 シリア属州 テトラドラクマ銀貨 カラカラ帝
シリア属州で発行されたテトラドラクマ銀貨には、表面に皇帝の肖像、裏面には大鷲が表現されています。大鷲は月桂樹のリースを咥えていたり、ゼウス神の武器であるケラウノス(稲妻)を掴んでいたりすることから、ゼウス神の聖鳥としての性質が強いように見受けられます。
このスタイルは、ローマ征服以前のセレウコス朝シリアで発行されていたコインを踏襲したものであり、セレウコス朝時代にも大鷲のコインが発行されていました。ゼウス神の大鷲はセレウコス朝の象徴だったと考えられますが、征服後に現地民の文化と社会に適応させたローマはそのまま継承しているのです。
大鷲のほかに登場したローマコインの鳥は、美しい羽で知られる「孔雀」です。
AD161年~AD175年 デナリウス銀貨
上はマルクス・アウレリウス帝の皇妃ファウスティナのコイン。裏面には女神ジュノー(ユーノー)が表現され、その足許には一羽の孔雀が控えています。
ジュノー(ユーノー)はギリシャ神話の「ヘラ」に相当する女神であり、天界の女神達の女王とされています。その夫はゼウス神です。そしてジュノー=ヘラ女神の聖鳥がこの「孔雀」とされていました。
大神ジュピターの聖鳥である大鷲がローマ皇帝の象徴ならば、その妻である女王神ジュノーの孔雀は皇妃の象徴ということです。
ジュノー女神は女性、妻たちの守護女神とされ、ローマ帝国皇妃にとっても守護女神でした。このファウスティナのコインのみならず、孔雀が表現されたコインはいくつかあります。そしてそれらの肖像は、常に皇妃たちでした。
皇妃も崩御すると、夫である皇帝のように神格化されることがありました。その際、皇妃の魂は孔雀が天界まで送り届けるとされていたのです。
孔雀は本来インドなどアジア原産の鳥でしたが、その美しい容姿と意外にも丈夫な性質から、古代よりヨーロッパにも輸入されていました。特にローマでは富裕層の間で大人気となり、羽は装飾品に、肉は珍味として饗宴に上りました。当時の貴族の邸宅のモザイク画にも、孔雀の姿が残されています。当時の東西交易がもたらした文化的な影響は、コインのデザインにも表されたのです。
また孔雀は羽を大きく扇状に広げる特性から、後の時代のコインにも度々表現されてきました。
19世紀ビルマのチャット銀貨と17世紀スペイン領ネーデルラントのエスカリン銀貨
特に1852年にビルマ(ミャンマー)で発行された銀貨は「孔雀のコイン」として人気が高く、現在でもコレクターの間で取引されています。
また19世紀当時はエナメル加工が施され、ブローチなど装飾品としても利用されました。その羽部分にいかに細かく彩色できるかが職人の腕の見せ所だったのでしょう。
尚、古代ローマ帝国ではキリスト教化が進むにつれ、コインの様式も固定化されたものとなり、鳥や動物をあまり表現しなくなりました。この傾向は中世の東ローマ帝国(ビザンチン)やヨーロッパ地域にも受け継がれ、様式化された人物像や銘文がコインデザインのメインになっていきました。
その後、現代のように鳥や動物達がコインの上に戻ってくるのは、古代ギリシャ・ローマ文化が見直されたルネサンス期以降になります。
お久しぶりです。
11月に入り、段々と寒い日が多くなってきました。
ここのところ更新が滞っておりましたので、久々に何か記事を書いてきたいと思います。
今回は「古代ローマの金貨」について。
というのも、当店のホームページをご覧になっている方もお気づきかと思いますが、最近ローマの金貨がめっきり少なくなってしまいました。
最近はオークションでローマ金貨がなかなか出ず、あっても出品点数が少ないため入札が集中してしまい、高額になってしまうからです。
つい昨年までは初代皇帝アウグストゥスや、二代皇帝ティベリウス、「暴君」ネロ、五賢帝のトラヤヌスやハドリアヌス、アントニヌス・ピウスなど、名の知れたローマ皇帝のアウレウス金貨が100万円前後で手に入りました。
もちろん際立って状態の良いものは100万円を越しますが、あまりひどくないもの、鑑賞に堪えうるレベルのものであれば、100万円以内で入手可能でした。
しかしなぜか最近は出物が少なくなってしまい、オークションに出てきても状態が悪かったり、スタート値が高かったりします。
「金」という材質は不変と云われますが、残念ながら「柔かい」という性質を併せ持っているため、細かいレリーフが潰されやすくなります。そのため本来は少しでも状態良く残っているものは貴重なのです。
2000年近い年月を経ているので当然なのかもしれません。
しかし、これらローマ時代の金貨は2000年間「通貨」として人から人の手に渡ったものではないはずです。
何しろ初期のものほど純度の高い金で造られたアウレウス金貨は、発行当時から非常に価値が高く、一般市民ではなく貴族階級や騎士階級、大商人や大地主のような人々が所有するコインでした。
彼らは主に蓄財用として金貨を貯め置いたため、後世にまとまって出土することが多いのです。
残念ながらコイン収集家は厳密な考古学者ではないので、コインのデザインや造幣都市を気にしても「出土場所」はあまり気にしません。
そのためまとまって出土した金貨もばら売りされ、富裕な収集家の多い都市や外国に売られていきました。それが今のドイツやフランス、イギリス、アメリカでした。
ローマコインがギリシャコインと異なる点は、時間軸で系統立てて集められることです。
歴代ローマ皇帝の金貨を並べれば、立派な「古代ローマ帝国史」の展示キャビネットが出来上がります。大英博物館にも負けない歴史的に貴重なコレクションを、個人でも所有することができるのです。
その為、芸術的な美しさが評価されるギリシャ時代の金貨以上に、歴史的価値、収集家熱を刺激するのはローマの金貨といえます。
無論ギリシャ時代の金貨はローマ以上に古いため、状態の良い物や珍しいデザインのものは高く評価されています。ギリシャコインはデザインにバラエティが富んでおり、その歴史の古さから世界中に根強い収集家層があります。そうした人々はコインの「美しさ」を何よりも大切にするので、価値評価が将来的に下がることは考えにくいと思います。
しかしローマコインの場合、状態やデザインに加えて「皇帝」の価値も加味されてきます。
コンモドゥス帝のアウレウス金貨
自らを「ローマのヘラクレス」と称した暴君コンモドゥスは、ヘラクレスと同じく獅子の毛皮を被った肖像を刻ませ、裏面には武器コレクションの一覧を披露した。
最強を誇示した皇帝自身は暗殺という末路を辿ったが、彼の誇大妄想ぶりを後世に伝えるこの金貨は大切にされ、現在では超貴重なローマコインのひとつ。
ここでの「皇帝の価値」とは、皇帝自身の人気や歴史的評価以上に、「在位期間」「特定デザインの物語性」など、コインの希少性に直結する問題です。
最初に説明したアウグストゥス、ティベリウス、ネロ、五賢帝の金貨が比較的手に入りやすかったのは、「在位期間が比較的長かった」という要素があります。
ローマ皇帝は即位時に、支持を表明した兵士達に恩賞金を与えることがあり、そこで最初に自身の金貨を造らせたと考えられています。しかし在位期間が長い皇帝は、その間の財政出動のために金貨を発行しました。安定した時代だったこともあり、比較的多く金貨も発行され、金の純度も高かったので後世のローマ人も大切に貯め置いていました。
しかし在位期間が短い皇帝や、即位直後にあっさり葬られてしまった皇帝の金貨は、皇帝の実績が乏しくても高価になります。
なぜならローマ金貨を系統立てて集めている人たちは、途中で穴があいてしまうのを嫌がるからです。他の皇帝が並んでいる中で、一つだけ空白があると気になってしまい、資金に余裕がある人は「いくらでも良いから欲しい」という気持ちになってしまいます。何かをコレクションする人には共通の心理ですが、この「系統立てて集めたい」「一つだけでは物足りない」という心理が、古代ローマコインの需要を押し上げています。
また上に示したコンモドゥス帝の金貨も、暴君コンモドゥスの数々の狂乱エピソードを体現するかのような金貨であり、とても人気があります。
しかしなぜ最近になって、ローマ金貨が市場に出にくくなっているのでしょうか?
ひとつは出土による新たな供給が難しくなっていることがあります。
開発や遺跡の調査進展によって、新しい出土は少なくなり、たとえ出てきてもニュースに取り上げられて国の所有物になってしまいます。こっそり販売しようとしても、EU各国では古代遺物の売買が年々厳しく監視されているため、難しくなっています。
そもそも金貨は銅貨や銀貨に比べて発行数自体が少なく、そのため現物自体も希少性が高いのです。
もう一つは、純度の高い金貨を大切に壺の中に貯め置いた、古代ローマ人たちと同じ理由「将来への不安」があります。
日本でも数年前からコイン投資が注目され、特定のコインは年々値上がりしましたが、それもお金を現物に代えておきたいという危機感の表れでした。
特に今年は世界中が騒がしくなり、来年以降の先行きも不透明になっています。欧米ではその雰囲気が特に強いのか、資産性の高い「モノ」が注目されています。希少性があり、収集家人口も多く、その価値が認識されている古代ギリシャやローマの金貨はその条件に当てはまるのでしょう。
上は4世紀末、アルカディウス帝時代のソリダス金貨です。この当時、日本ではちょうど古墳が盛んに造営されていた「古墳時代」にあたります。
これより前のコンスタンティヌス大帝の時代、ローマは経済の変容によって銀や金が乏しくなっていました。そのため大帝は通貨改革によって「ソリダス金貨」を発行し、ローマ帝国の財政を維持しました。
ソリダス金貨は薄手であり、最盛期のアウレウス金貨の約半分の重量になっています。その分、金の純度は純金近くにして、帝国内外での流通をスムーズにしました。
この金貨はビザンツ帝国の時代にも引き継がれ、地中海交易の要になったコインとして「中世のドル」とも呼ばれています。
一部の階級の人間が持つだけでなく、広く交易用としても使用されたため、発行枚数は多かったと考えられています。
ソリダス金貨は今でも海外のオークションに出品され、比較的入手しやすい種類の金貨です。ただ「薄く」「純度が高い」ため、折れ曲がったり傷がついているものもあります。またモティーフの細部が非常に細かく造られているため、磨耗しやすい金貨でもあったようです。
「金」という材質は今も昔も変わらない輝きを保つものであり、その為、人類の長い長い歴史の中でも、共通に「価値あるもの」とされてきました。
古代ギリシャ・ローマの金貨は貴重な歴史的遺産であると共に、古代も今も「価値ある現物資産」です。
入手された後は大切に保管し、次世代に継承していただくことをお願いいたします。
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