春らしい陽気になったと思えば、急に気温が下がったりと、三寒四温は継続中です。
それでも梅から桜へと移り変わり、花の咲き加減など、日々の変化を楽しめる時期になりました。今年も四分の一が過ぎ、季節の移ろいを感じます。
今回はコインの歴史を語る上で欠かせないリディアのクロイソス王についてご紹介します。
個々のエピソードは主にヘロドトスの『歴史』を準拠にしています。
高校世界史にも登場するリディア王国は、世界史上初めて金属貨幣=コインを発行した国として知られています。特にクロイソスは初めて金貨・銀貨を発行した王とされています。
リディア王国は現在のトルコ西部、サルデス(*現在のマニサ県サルト)を首都として発展しました。
アッシリア帝国崩壊後のオリエント四大国(エジプト,新バビロニア,メディア,リディア)の一角を占め、紀元前7世紀には小アジアの大半を影響下に置きました。
最盛期のリディア王国版図
(Wikipedia)
ヘロドトスの『歴史』によれば、リディアはサルデスを統治したリュドス王の名に由来しており、その後は神話上の英雄ヘラクレスを始祖とするヘラクレス朝が500年以上にわたって統治したとされています。
ある時、ヘラクレス朝のカンダウレス王は妃の美しさを自慢するため、臣下のギュゲスに寝所に忍んでその裸体を見るよう命じました。しかし妃に見つかってしまい、激怒した妃から今すぐ自死するか、王を殺して王位と自分を我がものにするかを迫られました。こうしてカンダウレス王を殺したギュゲスは妃を妻とし、新たなリディア王になったと語られています。
カンダウレス王と王妃とギュゲス
(ウィリアム・エティ, 1830)
こうして紀元前680年頃から始まったメルムナス朝の時代、リディアは周辺諸国や諸民族との戦いを通じて大国化し、古代オリエントの一角を占める帝国として繁栄しました。その過程でリディアでは交易、商業が盛んになり、莫大な富を蓄えるようになったのです。
首都サルデスを流れるパクトロス川では古くから砂金が採れ「金の砂を運ぶ川」として知られていました。近郊のトモロス山でも金が産出され、これがリディア王国の富の源泉になっていました。集められた砂金は溶かして重量ごとに分けられ、領内での商取引から周辺諸国との交易、神殿への献納、傭兵への報酬として用いられました。
そしてアリュアッテス王治世下の紀元前600年頃、この金塊に発行者である王の象徴としてライオンの刻印が押されるようになりました。これが歴史上における「コイン」の始まりとされ、世界史の教科書でも紹介されています。
リディア王国 BC650-BC561 1/3スターテル
表面にはライオンの頭部と太陽、裏面には打刻跡とみられる陰刻印があります。ライオンの頬にはバンカーズマーク(Bnaker's mark)が打たれています。
「スターテル」とは古代ギリシャ語で「重さ」を意味し、ドラクマやオボルが登場する以前の基準となる貨幣単位でした。リディアでは最大のコイン(約14.2g)を1スターテルとし、そこから1/2、1/3、1/6、1/12、1/24、1/48、1/96と重量によって細分化されています。最も小さい1/96スターテルは0.15gほどしかなく、極小の粒のようですが、それでもライオンの刻印はしっかりと打たれています。
ここまで細分化されているのは、市中の小規模な商取引でも用いられたことを示し、貨幣経済が確実に定着していたことを表しています。
ヘロドトスは『歴史』の中で「リディア人は金属貨幣を製造・使用した最初の民族であり、小売制度をはじめたのも彼らであった」と言及しており、コインの発明と貨幣経済の発展を評価していました。
なお、1スターテルは傭兵の一か月分の給与に相当したとされ、相当な価値を有していたことが分かります。
リディア王国 BC620-BC539 1/12スターテル
サイズ:7mm 重量:1.13g
発行者を示して信頼性を上げた最初のコインでしたが、流通上で問題もありました。パクトロス川やトモロス山から採れる砂金は琥珀金、エレクトラム(Electrum)と呼ばれる金銀の自然合金であり、その配合割合はおよそ30%~70%程と、大きなばらつきがありました。現存しているエレクトラムコインの表面には、当時の検査跡であるバンカーズマーク(Bnaker's mark)がみられるものが多くあります。
さらに重量によって細分化されているため、小規模な商取引において端数のやりとりには不便も生じていたと考えられます。
アリュアッテスの息子であるクロイソス(在位:BC561-BC547)が王位を受け継ぐと、その支障を解消するため重大な改革が行なわれました。
それまでのエレクトラムから金と銀を分離し、純度98%の金貨と銀貨をそれぞれ発行し始めたのです。
リディア王国 BC553-BC550 スターテル金貨
(サイズ:16mm 重量:10.76g)
クロイソスの時代には金銀を分離する方法が確立され(*塩と一緒に800℃程まで熱し、純度の高い金を採り出したと考えられている)、その重量に対する交換比率も定めたとみられます。
(*スターテル金貨1枚は同重量のスターテル銀貨13枚ほどに相当か)
金属の種類を分けることによって価値の差=額面を明示したことは、流通貨幣体系の基本であり、経済の歴史上画期的な転換点でした。
当時はまだ銅貨は造られず、最も小さい貨幣は1/12スターテル銀貨(約0.9g)でした。それでもエレクトラム貨の時代よりは大きくなっており、使いやすさはわずかに向上しています。
リディア王国 BC561-BC546 1/3スターテル銀貨
(サイズ:13mm 重量:3.44g)
刻印も従来のエレクトラム貨と区別するため、ライオンに加えて牡牛も表現されるようになりました。この牡牛はリディア王国の肥沃=富そのものを象徴していると考えられています。ここに国家の権威(=ライオン)と物質的価値(=牡牛)が一体となった、後世にまで続くコインの形が出来上がったのです。
高純度の金銀素材と、それを保障する王の刻印はリディア国外でも信用を得、通商取引で広く受け入れられました。サルデスはオリエントとエーゲ海域(ギリシャ)を繋ぐ要衝にあり、人と富の交流はより一層盛んになりました。安定した通貨の発行は新たな富を呼び寄せることになり、リディアの国力を高めることになったのです。
クロイソス治世下でリディアは経済大国となり、莫大な富を得ることになります。クロイソス王は大富豪・大金持ちの代名詞となり、現在でも英語やフランス語の慣用句として定着しています。
ヘロドトスの『歴史』で言及されるクロイソス王は金持ちであることを誇示し、デルフォイのアポロ神殿やエフェソスのアルテミス神殿に豪華絢爛な献納を行なってその富を示したことになっています。実際、エフェソスの神殿遺跡からはリディアで発行されたとみられる初期の貨幣が多く出土しています。
一方、各地で出土するコインの中には、ライオン&牡牛の意匠はそのままに、銅素材に金メッキや銀メッキを施したものが発見されています。
貨幣の誕生とほぼ同時に、贋金造りの歴史も始まったことを示しています。
銅素材に銀メッキが施されたスターテル銀貨
一部が剥落して下地の腐食した銅が露出している。
莫大な富を得、権勢を誇ったクロイソスはリディア最盛期の王とされますが、同時にリディア最後の王となりました。
紀元前550年に隣国メディアがアケメネス朝に征服され、大王キュロス2世(在位:BC559-BC529)の下でペルシアが統一されました。キュロス大王がその先にある豊かなリディアに手を伸ばすのは必至でした。
クロイソス王はデルフォイにあるアポロ神殿に多額の献納を行い、神託を受けて戦争の行く末を計ろうとしました。神官の答えは「クロイソス王がハリュス川を越えれば帝国が滅ぶ」というものであり、クロイソス王はペルシアに勝てると信じて戦うことを決意した、と云われています。
しかしこの答えはリディアとペルシアどちらとも解釈でき、結果がどうなっても責任を回避できるものでした。
クロイソス王は豊富な金貨銀貨を用いて傭兵を集め、さらにスパルタとエジプト、新バビロニアにも援軍を要請してペルシアとの戦いに挑みました。
紀元前547年のプテリアの戦いにおいて両軍は甚大な被害を被り、リディア軍は一旦サルデスに引き上げました。クロイソス王は冬になればペルシア軍は進軍を止め、その間にエジプトやスパルタからの援軍が到着すると考えていました。しかしクロイソス王の目論見は外れ、冬が到来しても援軍は来ず、キュロス大王はそのままサルデスに向けて進軍を続けました。
紀元前547年12月、サルデス近郊のテュンブラ平原で行なわれた会戦で、ペルシア軍は兵糧を運んでいたラクダを前面に配置。リディア軍が誇る騎兵の馬はラクダを恐れて混乱し、その隙を突いて弓兵が矢を次々と射掛けました。
テュンブラの戦い
敗れたリディア軍はサルデス城に立て篭もって抵抗を続けましたが、14日間の包囲の後に陥落。こうして神託通り小アジアの「帝国」リディアは滅び、クロイソス王の栄華も終わりを迎えたのでした。
ヘロドトスの『歴史』には、その後のクロイソスについて興味深いエピソードが語られています。
サルデスに入城したキュロス大王はクロイソスを捕らえ、市の中心で火刑に処そうとしました。いざ火が放たれたとき、クロイソスがアポロ神に祈りを捧げると雨が降り出し、火を消し止めました。それを見たキュロス大王はクロイソスの縄を解いて助命したと伝わります。
火刑に処されるクロイソス王
(紀元前5世紀初頭, ルーヴル美術館所蔵)
クロイソス王の肖像は現存せず、全て後世の想像で描かれています。
またペルシア兵に略奪される王宮を見ても動じず、その理由をキュロス大王が尋ねると、「負けた今となっては私の財産ではない。全てあなたのものになった。あの者たちはあなたの財産を奪っているのだ」と答えました。機知に富んだクロイソスに感心したキュロス大王は助命するのみならず、厚遇で迎え入れて相談役に抜擢したとされています。
ヘロドトスが伝えるエピソードはあくまで伝承であり、歴史的な事実とは異なるとみられています。しかしクロイソスが生き延びてキュロス大王の知恵袋となったとする希望も捨てきれません。
事実、リディアを征服したペルシアはサルデスでの金貨、銀貨発行をそのまま継続しています。デザインも変えず、重量もほとんど変化しませんでした。自らの治世の証である金貨・銀貨の恩恵をリディアに残すため、クロイソスが進言したのかもしれません。
この後、アケメネス朝ペルシアはリディアの貨幣制度を基にしたダリック金貨・シグロス銀貨を発行し、強大な中央集権力を背景に帝国全土に行き渡らせました。こうして「貨幣」はオリエント世界に広く普及していきます。
また、リディアの影響下に置かれていたエーゲ海沿岸の経済活動を通じて、ギリシャにも貨幣製造が伝播し、やがて各都市で多種多様なコインが造られるようになります。こうして地中海を通して西方のヨーロッパにも貨幣経済は浸透、発展していきました。
リディアが生み出したコイン、そしてクロイソス王の栄華を支えた金貨・銀貨の登場は、現在を形作る貨幣経済の始まりでした。現存するリディアコインは、人類史の重要な一歩の証拠として大切にされています。
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