先週から連載を始めました『ギリシャコインの世界』…
今回は前回に引き続き「ギリシャ史概論と貨幣の発展」を書いていきます!
どうぞ気楽に読んでみてくださいませ
ギリシャ史概論と貨幣の発展②
ギリシャとペルシャの対立は、紀元前6世紀の後半にな決定的なものとなり、前499年にペルシャ支配に抵抗して小アジア半島のイオニアの諸都市が反乱を起こすと、一気に表面化した。アテネの支援にも関わらず、反乱は前494年に鎮圧された。しかし、それは再び戦いが始まるまでの小休止に過ぎなかった。
前490年、ペルシャのダリウスは、アテネに向けて艦隊を出撃させた。ペルシャ軍は最初は勝ち進んだが、マラトンの戦いで大敗し退却を余儀なくされた。5年後にダリウスが亡くなると、後継者となった息子のクセルクスは、ギリシャを全征服して屈辱を晴らす決心をした。
前480年、十分に準備を整え大艦隊に守られたペルシャの大軍が、レポントス海峡を渡りトラキアとマケドニアを突き進んでギリシャに侵攻した。
ギリシャ軍は、優勢な敵軍に対して、先ずテルモピレーでこれを迎え撃ち、サラシスの戦いでペルシャ艦隊を壊滅させ、前474年にプラタイアで侵略軍を打ち破った。これ以降、ペルシャは二度とギリシャ本国の事柄に干渉しなくなった。
この大事件は、そのごのギリシャの歴史に重大な影響を及ぼした。アテネは、“ギリシャの救世主”として台頭し、この機に乗じてエーゲ海世界全域にその影響力を拡大した。ペルシャ帝国に勝利した直後に、アテネ主導で結成された沿岸独立諸国による『デロス同盟』は、最初は小アジア半島のイオニアのギリシャ諸都市をペルシャ帝国の支配から解放することに専念した。しかし、この同盟は、急速に“アテネ沿岸帝国”と呼べるものへと変貌し、毎年アテネに納められた各国からの拠出金は、アテネをギリシャ本土で最も豊かで強大な国にした。
ペルシャの戦争後の数十年間で、ギリシャコインは大きな変化を遂げた。初期の不自然な描写に変わり、次第に古典時代の優雅な肖像が描かれるようになった。裏面には、多くの古代コインに見られる単純な四角形の刻印にかわって、そのコイン特有の図柄が描かれるようになった。
コインの原料となった金属は主に銀で、使いやすいように小さな単位のコインが造られていった。これらの小さな単位のコインは、前3世紀前半までに、次第に青銅のコインになっていった。しかし、小アジア半島ではその頃にも初期に使われていた金属(エレクトロン)が、キジコス・フォカイア・ミュティレネ(セスボス諸島の中心都市)といった重要な造幣所で使われていた。
アテネは、その勢力が強大化していくにつれて、他の都市国家の銀貨の生産を制限しようとした。そして前449年頃、アテネ帝国主義の立役者ペリクリスが『コイン令』という不可思議な法律を発布するまでになった。この法令によって、前440〜430年にかけて多くの造幣所がコインの発行を厳しく制限されることになった。しかし、前431年にペロポネソス戦争が終結すると、アテネによる支配は弱まっていった。
南イタリアやシシリーでは、ギリシャ本土でおこった出来事の影響をそれほど受けなかった。ここでは、ペルシャが敗北したのと同じ頃、ギリシャのもう一つの大敵である、カルタゴがシシリーの植民地を攻撃してきたが、シラクサの僭主ゲロンによって撃退された。その後シラクサは、西方で有力なギリシャ人国家となった。
この時期、シラクサの打ち型職人達が創り出したコイン彫刻の数々は、コイン芸術の最高傑作といえるもので、後世の貨幣彫刻家が創作意欲を掻き立てられるような、他に類を見ない芸術性と華やかさを極めたものとなった。この時代の美しい作品の中で特に素晴らしいものは、打ち型職人エウアイネトスとキモンによる貴品あるデカドラクマである。キモンの傑作の一つとして、『アレッサの肖像』と呼ばれる、実に見事な女性の正面像が彫刻されたシラクサのテトラドラクマがある。このように、前5世紀末のシシリーの多くのギリシャコイン造幣所で造幣技術が花開いた。しかし、5世紀の終わり(前409年)のカルタゴの侵攻によって、すべての活動が停止させられてしまった。
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
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