こんにちは。
いよいよ今年の9月も、残すところあと数日となりました。
月日が経つのは本当に早いもので、これまでお届けしていた「ギリシャコインの世界」シリーズも、今回で一応の最終回を迎えることになりました。
これまでお読みくださった皆様に、厚く御礼申し上げます。
さて、今回の記事は前回に引き続き「地域別にみるコインの特徴」第3弾です。
今回は、現在のトルコ、「小アジア」のギリシャコインの歴史と特徴をお届け致します。
尚、前回の冒頭でもお伝えしました、『ワールドコインギャラリー』の「2周年謝恩セール」は、9月29日(日曜日)までとなっておりますので、そちらも是非ご利用ください!!
それでは、今回もよろしくお願い致します。
地域別にみるコインの特徴③
小アジア/Asia Minor
<アルカイック時代>
小アジアは、地中海世界におけるコイン誕生の地である。
エレクトラムを使って最初にコインを造ったのは、リディア人なのか或いはイオニアのギリシャ人なのか、現代の我々には知る由もない。しかし、リディア人には、豊富なエレクトラムの鉱床を持っていたという強みがある。
ごく初期の造幣では、エレクトラム以外の金属は使われていなかったからだ。
リディア王国範図
後にリディア人は、エレクトラムに代えて純粋な金銀を使って貨幣を造り、複本位制を最初に導入し、通貨に関して独創性を発揮した。
一方、イオニアのギリシャ人が銀貨に至るまでにはまだ時間がかかる。こうした点が、イオニアのギリシャ人がコインの発明者となることに不利に作用しているのであろう。
最初のエレクトラムコインの正確な年代を示すことは不可能である。数少ないが、確実性のある証拠を基にした解釈によると、紀元前7世紀の後半、長い時間をかけてエレクトラムコインの最も初期の発展があったようだ。
エレクトラムコイン(紀元前7世紀)
最初のコインには特徴的な様式は無かった。しかし、紀元前6世紀になると、経験を積むことで生産技術が進歩し、表面に巧みな彫刻が施されたタイプが登場してきた。だが、裏面には一つ或いは数個の四角形か細長い穴があるだけであった。両面に独特なデザインのあるコインが登場するのは、さらに1世紀を経てからだった。
初期のコインは、それがどの造幣所で造られたのかを特定するのは難しい。刻銘があるものは稀で、現在分かっている数少ない刻銘も都市より個人名を表している。
表面のデザインを、造幣所の紋章という観点で解釈しようという試みもなされてきた。
確かに、キジコスのマグロのように、それらを考案した都市を表そうとしたものもあった。
だが、ほとんどのものは、おそらく治世者または造幣所の役人の私的な紋章であった。ハリカルナソスの造幣所の作であると考えられている、有名なエレクトラムのスターテルには、草を食べている鹿の上に、「私はphanesの紋章である」という刻銘がある。
エレクトラムコイン リディア王国(紀元前6世紀初頭)
表面に獅子の横顔、裏面に二つの四角形の刻印がある。
額面は「1/3スターテル」
リディア王が発行したと確認されたコインのほとんどが“Third-Starter”であり、それらはかなり大量に鋳造された。独特な鼻のこぶを持つライオンが描かれ、ミレジア(リディア)の重量基準に基づいていた。約14,2gのスターテルを造りだしたこの基準は、南イオニアの造幣所で用いられたが、はるか遠方の北部地域ではフォカイア基準の16,2gのスターテルが広く一般に使われていた。
リディアのクロイソス王は、紀元前560年から紀元前546年まで王位に就いていたが、エレクトラムを止めて純粋な金貨・銀貨に基づいた複本位制を導入した。
キュロス王率いるペルシャ帝国は、リディア王国を征服したが、クロイソス王が導入したコインを発行し続けた。
紀元前6世紀の終わり頃、ペルシャの弓の射手をコインに描くために新しいデザインが導入された。タリウス1世の後、金貨は「ダリック」、銀貨は「シグロス」(ダリックの1/12の価値)として知られるようになった。
ダリック金貨(8,43g) アケメネス朝ペルシャ帝国支配下リディア
(紀元前485年~紀元前420年)
表面には、走る弓の射手(またはダレイオス1世)の姿が描かれている。
小アジアのペルシャコインは、主要なデザインをほとんど変えずにアレキサンダー大王の時代まで続いた。
紀元前545年、イオニアのギリシャ都市もペルシャの支配下に置かれたが、コイン(主に銀貨)の生産にはあまり影響がなかった。
造幣所の特定認は、初期エレクトラムコインの時に比べてずっと簡単である。キオステラオス、サモス、フンドス、ロドスのカメリオ及びその他の多くの都市のコインは、確実にそれらが出所だということがわかる。
南では紀元前6世紀の終わり頃に銀のスターテルがリユキアで鋳造されたが、キプロスのコインは、もっとずっと早くに生産が開始されていた。
紀元前499年、ペルシャ支配に対するギリシャ都市の反乱がイオニアで起き、6年間続いた。
イオニアでの反乱は失敗に終わったが、これがギリシャとペルシャの壮大な戦いの始まりとなった。この戦いは、紀元前311年にアレキサンダー大王がペルシャ帝国を征服するまで決着がつかなかった。
イオニアのギリシャ都市の反乱は、小アジアにおけるコインのアルカイック期を終わらせるのに都合のよい区切りとなった。
紀元前480年 テルモビュライの戦い(ダヴィッド 画 1814年)
ペルシア軍とスパルタを中心とするギリシャ連合軍の戦い。結果は、ペルシャ軍の勝利に終わった。
<ヘレニズム古典時代>
紀元前5世紀前半、小アジアのギリシャコインはアルカイック期に確立された様式を守っていた。
しかし、アテネの影響が増大するにつれて、この地域のコインの発展は制限されるようになり、紀元前450年頃からほとんどの銀貨の生産が停止してしまった。
おそらく、これはアテネの『コイン令』の結果であろう。しかし、キジコス、レスボス、フォカイアのエレクトラムコインは中断せずに続いた。
紀元前5世紀の終わり頃、アテネの勢力が弱まるにつれて、多くの都市が独自のコインの発行を再開した。新たなコインの小さな流れは、紀元前404年にアテネが崩壊すると大きな潮流となった。
17,2gのテトラドラクマに基づくアテネのアッティカ重量基準は、15,6gのテトラドラクマに基づくチアン(ロドス)の重量基準を支持する新たに自由になった都市では排除された。
ロドス ディドラクマ貨(紀元前340年代~紀元前316年)
表面にヘリオス神、裏面にはバラの花が描かれている。
アレキサンダー大王の時代に至る紀元前4世紀は、小アジアにおいて貨幣が相当に発展した時期であったが、またペルシャの勢力がこの地域で強くなった時期でもあった。
ギリシャの都市の多くは、素晴らしい様式のコインを生産し、アクイメネス朝に忠誠を誓った地域でさえ、肖像画コインの初期の発展を含めて、数々の興味深いコインをかなり多く発行した。
ダリック金貨とシグロス銀貨からなるペルシャコインは、引き続き豊富に生産されたが、それらはおそらくサルデスのリディア造幣所のものであろう。
シグロス銀貨(5,55g 14mm)
(紀元前420年~紀元前375年)
紀元前334年~紀元前311年のアレキサンダー大王のペルシャ征服は、歴史の大きなターニングポイントであった。この大事件をきっかけに、ロドスを例外として、小アジアの都市の自主コインは姿を消した。
アレキサンダー大王に哀願するペルシャ王ダレイオス3世の家族
多くの重要な造幣所は、自主コインを発行する代わりに、アッティカ基準に基づくアレキサンダー大王の新しい帝国コインを鋳造するように依頼された。
テトラドラクマ貨[29mm 17g](紀元前280年~紀元前200年)
表面には獅子の皮を被り、「ヘラクレス」に扮するアレキサンダー3世
裏面には鷲をその手に泊らせるゼウス神坐像が描かれている。
紀元前3世紀は、偉大なヘレニズム王朝の全盛期であり、力のあるギリシャ系王達が、小アジアの多くの都市を支配しようと互いに競い合っている時代であった。この時代には、それぞれの都市が自分達の独立を主張する機会はほとんどなかった。
主張できる機会が稀にあると、都市の名か都市のシンボルを加えながら、アレキサンダー大王のコインを想起させるテトラドラクマ貨を鋳造した。
紀元前2世紀の初め、ローマの勢力に押されて諸王国の力が急激に衰えると、ギリシャ及び小アジアでそれぞれの都市のコインがめざましく復活した。まるで新たに得た彼らの自由を祝うかのように、西の沿岸地帯の有名な都市の多くが、時として驚くほど見事な様式を持つ大きな素晴らしいテトラドラクマ貨を鋳造した。
しかし、この自由は見せかけに過ぎなかった。かつてのヘレニズム王国の領土に対するローマの支配が強まるにつれて、各都市は金貨・銀貨を発行する特権を徐々に失っていった。半自治時代の最終段階では、小アジアの都市は、青銅コインしか鋳造できなくなった。
『イオニアの青天の下で』
(サー・ローレンス・アルマ=タデマ 画 1901年)
本日は以上となります。
これまで、「ギリシャコインの世界」シリーズをお読みくださり、誠にありがとうございました。
来月、10月以降は、少し異なる趣向からコインのご紹介をさせていただきたく思います。
お楽しみに!!
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資料:『Greek Coins and Their Value』
Seaby社刊/David R Sear著/SPINK社発行
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
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