こんにちは。
今週から10月がスタートしました!!
秋らしい日が続いておりますが、皆様、御体にはくれぐれもお気を付けください。
さて、今月から、これまでのブログ記事とは異なる視点からコインをご紹介させていただく新シリーズを開始したいと思います。
申し遅れましたが、このシリーズの担当をさせていただきますのは、「ワールドコインギャラリー」スタッフの内橋です。何卒宜しくお願い致します。
先月までは、「古代ギリシャコインの世界」をお伝えしていました。
今回からは、時代を変え、対象地域も拡げて、「近代コインの世界」をお伝えしたいと思います。
通常、コイン業界では、以下の名称・区分けで取引が行われています。
①古代コイン : 古代ギリシャ・ローマ~西暦700年頃
②クラシックコイン : 700年頃~1200年頃
③中世コイン : 1200年頃(神聖ローマ マクシミリアン1世)~1500年代
④近世コイン : 1600年代~1800年代
⑤現代コイン(モダンコイン) : 1900年代~第二次世界大戦~現在発行貨
また、大きく分類すると、
①クラシックコイン : ターラー銀貨~
②マイナーコイン : イギリス・クラウン銀貨~
にも分けられます。
今回のシリーズで、私が取り上げるのは④近世(近代)コインに描かれた人物についての紹介です。
17世紀~19世紀にかけて、鋳造技術は大きく進歩し、人物の肖像もより正確なものになりました。この時代のコインを集めるということは、同時代の君主の肖像を収集することといってもよいでしょう。
外国コインに興味がある方、そうでなくても世界の歴史に興味がある方は、コインに描かれた人物を通して、世界史、またはコインそのものに興味を持つきっかけになれば幸いです。
さて、第1回目は、ハワイ王国の国王、「カラカウア1世」に関する記事です。
日本ではマイナーな国と人物ですが、実は日本と深い関わりがある人物なのです。
第1回目で馴れていないもので、少し長い記事になっていますが、御付き合い下さると幸いです。
それでは、宜しくお願い致します。
〈近代コインに描かれた人々〉
第1回:フラダンスを復活させた「愉快王」
カラカウア1世(ハワイ王国)
ハワイ王国 第7代国王
カラカウア1世/デイヴィッド・カラカウア
(David Kalakaua)
1836年~1891年(在位期間:1874年~1891年)
カラカウア1世(David Kalakaua)は、1874年2月13日から1891年1月20日の間在位した、ハワイ王国の第7代国王でした。
彼は、日本でも童謡等でその名が知られるカメハメハ大王(カメハメハ1世。1810年、カウアイ島を併合してハワイ諸島を統一し、ハワイ王国を建設した。)が興したハワイ王国の国王として、同国に17年近く君臨しました。
あまり知られていませんが、当時のハワイ王国は1840年に公布された「ハワイ憲法」のもと、選挙による二院制議会が国政を担う自由主義的立憲君主国でした。
つまり、日本よりも早く憲法と議会を持ち、立憲国家となった国だったのです。
しかしその実態は、王の側近として宮廷に出入りし、ハワイ国内で事業を展開する白人入植者によって立法・経済を牛耳られていた体制でした。
そもそも、初代国王カメハメハ1世がハワイ各地の首長を屈服させ、統一王朝を築くことができたのは、アメリカ、イギリスなどの白人がもたらした火縄銃、大砲をはじめとする火器と、その使用を可能にした洋式兵法のおかげ。
その点は戦国時代や幕末期の日本の状況とよく類似しているといえるでしょう。
しかし、戦国時代や幕末期の日本と決定的に異なっていた点は、ハワイ人はモノや技術、知識のみならず人材そのものまでを西洋から取り入れていたということ。
日本は良くも悪くも保守的で、武士の上下関係が確立していたので、あからさまに異質な人材を組織に招き入れ、重用することは滅多にありませんでした。特に、人種・宗教・言葉・風習の異なる外国人なら尚更でしょう。
さらに、日本人は火縄銃を輸入した後、自分たちで生産したり、日本流に改良したりしていることからも分かるように、外国から取り入れたモノや知識、技術をそのまま流用せず、手を加えて「自分たちのモノ」にすることで、日本国内における生産→流通→消費→改良→生産の経済サイクルに上手く組み込ませていた訳です。
一方、ハワイ人は、未知の道具や技術を持ってくる白人そのものをそっくりそのまま社会に取り入れました。 確かにその方が手間をかけることなく、手っ取り早く近代化という「実」を手にすることができますから、見方によってはかなり合理的といえるでしょう。
しかし、それが王朝の慣習と化したことで、王国の白人依存は決定的なものとなります。王国の運営・維持には白人の存在が欠かせないものになり、彼らの意向が各種政策に大きな影響を与えるようになりました。
白人達(主にアメリカ人)は、太平洋上の重要な寄港地としてのハワイを重視していました。その為、新たなビジネスチャンスを求めて多くの白人がハワイに流入。王国建設当初から王朝の中核にいた白人たちは、積極的に彼らを受け入れました。
そして、社会・文化・経済全般に強い影響力を持った白人層は、ハワイの経済・社会を自分たちの都合の良い形に改造します。
例えば、1850年の「クレアナ法」は、ハワイの伝統的な土地共有システムを否定し、個人(外国人も含む)による土地売買・所有を認めるものでした。
しかし、この結果1862年までに、ハワイの土地の75%が外国人の所有地となるなど、ハワイの伝統的社会秩序・経済、そして国土そのものさえも、実質的に白人に侵食され続けたのです。(有名なワイキキも、この時期に外国人の所有地になっています。)
そのような状況下で即位したカラカウア1世は、この白人依存体制からの脱却を図るべく、様々な改革を試みます。
その代表例が、ハワイ文化の復興、「フラダンスの復活」です。
フラは11世紀以降、王家や首長などの伝承をもとに作られた歌に合わせる形で振付が加えられたと考えられていますが、初期のフラは現代の私達が連想するような、ゆるやかで明るいものではなく、神官の管理の下、厳かで力強く、笑顔や愛嬌を見せない、極めて儀式色の強い舞踊でした。
19世紀初頭、ハワイに移住し、このフラを見た米国人宣教師は、裸で腰を振る舞踊は「原始的かつ野蛮」であるとして王朝に働きかけ、1820年にフラを禁止させます。
以後50年以上にわたり、ハワイではフラダンスが禁止されていたのです。
カラカウア1世はこのフラダンスを復活させようと試みます。フラに欠かせない詠唱として、ハワイ創世神話『クムリポ』を編纂した他、自らの宮殿で催した宴会で披露しています。
因みに、彼は妻の為に造営したオアフ島ホノルルのイオラニ宮殿で毎晩のように盛大な宴会を催していました。
美食と酒、そして芸能をこよなく愛したことから、現地では「メリー・モナーク」(『愉快な王』の意)と呼ばれており、現在ハワイで毎年開催される世界最高峰のフラの祭典は「メリー・モナーク・フェスティバル」と呼ばれています。
尚、彼は多くの歌を作詞しており、現在のハワイ州歌も彼による作詞です。
毎晩宴会が催され、フラが踊られたイオラニ宮殿
ハワイ王朝終焉の舞台となったこの宮殿は、現在、「米国国内唯一の王宮」として観光名所になっている。
彼が毎晩、この宮殿において催した宴会で披露されたフラは、初期のフラにアメリカのポップミュージックや西洋楽器を取り入れるなどした、「ショー」としての要素が強い、インフォーマルな舞踊に生まれ変わったものでした。
これが、現在私たちがよく知る、柔らかくて明るい「フラダンス」の原型になったのです。
この宴会時のフラで取り入れられたポルトガルの弦楽器は、後の「ウクレレ」として、ハワイ音楽を象徴するものになりました。
また、彼は初代ハワイ王、カメハメハ大王の偉業を称え、イオラニ宮殿前をはじめ、ハワイ国内各地にカメハメハ大王の像を建立しました。これも、今やハワイ観光の見所の一つとされています。
オアフ島 ホノルルのイオラニ宮殿前に立つ「カメハメハ大王像」
背後は旧ハワイ州最高裁判所。
このように、白人からの文化的独立を目指したカラカウア1世でしたが、一方で外交によって自国の独立を確保しようともしていました。
1881年から世界周遊旅行に出かけたカラカウア1世は、明治期の日本も訪問し、当時の明治天皇や井上馨とも会見しました。実は、彼は日本の歴史上初の「来日した外国国家元首」でもあるのです。
日本政府との交渉の中で、日本人移民の要請を行い、労働契約移民制度の合意を取り付けるなど、一定の成果を上げました。
しかし、日本の皇室とハワイの王室による政略結婚と、それに伴う「日本・ハワイ国家連合」構想の打診は、地理的・文化的要因と米国の反応を気にする日本側によって、その場で断られてしまいました。
米国人が多く住み、米国人の意向が政策に大きく反映されるハワイは、既に列強等国際社会から「米国の属領」とみなされ、外交政策でもその裁量には制限がかけられていました。(世界周遊旅行の折にも、米国人顧問が王の監視役として随行しています。)
彼の治世下で、米国とハワイは互恵条約を結びますが、それは米国海兵隊に真珠湾(パールハーバー)の独占使用権を認めさせるものでした。
日本との連携によって、ハワイ、そして太平洋上の覇権を米国に握られまいとした王の思惑は叶わず、後にその太平洋を舞台にした日米の戦争のきっかけとなった地を、米国に貸すことになるとは、歴史の皮肉としかいいようがないでしょう。
もし、カラカウア1世の提案に日本側が応じていれば、その後の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。
帰国後の1887年、米国人住民による武力抗議が発生。これにより新憲法(通称、ベイオネット憲法)が採択され、米国人参政権が一層拡大されたのに対し、王権は制限され、国王の政治的実権は弱体化させられました。
1891年、カラカウア1世はアルコール依存症によって失意の内に崩御。54歳でした。
その後、彼の妹であるリリウオカラニが女王に即位しますが、1893年1月に米国人住民と親米派によるクーデターが勃発。
王朝は転覆させられ、カメハメハ大王から続いたハワイ王国は終焉しました。
尚、このクーデターの際に、リリウオカラニ女王が居を構えるイオラニ宮殿周辺を制圧し、戒厳令を布いたのは、親米派の要請を受けて上陸した真珠湾駐留の米国海兵隊でした。
カラカウア1世が描かれたコインは、「1ダイム(10セント)銀貨」 「クォーターダラー(25セント)銀貨」 「ハーフダラー(50セント)銀貨」 「1ドル(ダラ)銀貨」の4種類で、全て1883年銘のみの発行です。
ハワイ王国 ハーフダラー(50セント)銀貨 (1883年)
直径:30,5mm 重量:12,5g SV900
表面にはカラカウア1世の肖像、裏面には当時のハワイ王国国章が描かれている。
基本的に当時のアメリカの銀貨とほぼ同じ規格で鋳造されており、額面もドル表記であることから、当時のハワイ経済を事実上支配していた米国人を意識して製造されたものと推察されます。
※尚、今回ご紹介したカラカウア1世のコインの内、「1 ダイム銀貨(稀少貨)」と「クォーターダラー銀貨」「ハーフダラー銀貨」は、ワールドコインギャラリーに在庫が御座います。
お求めの場合は、ご注文を受け付けさせていただきますので、何卒宜しくお願い致します。
No651976 1/4$ ¥25.200
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=651976
NO651914 ダイム貨 ¥31.500 希少貨
http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=651914
ハワイにおける官約日本人移民のきっかけを作るなど、様々な面で日本との関係も深いカラカウア1世ですが、彼の復活させたフラは、ハワイアン・アイデンティティの象徴となり、今や南国の楽園「ハワイ」のイメージそのものといっても過言ではありません。
文化振興の面で多大な功績を残した「愉快王」カラカウア1世は、米国によるハワイ併合後も、伝統文化と共にハワイの人々の心に残り続け、今もなおハワイ人に愛されているのです。
オアフ島 ホノルル市内の主要道路「カラカウア通り」
いかがだったでしょうか。
今回、初めてとはいえ、かなり長くなってしまいました。
ここまでお読み下さり、誠にありがとうございます。
今後、少しずつシリーズを更新し、近代コインに描かれた人物と時代背景をご紹介していきたいと思いますので、何卒宜しくお願い致します。
次回もお楽しみに。
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