こんにちは。
10月に入りましたが、秋らしくない、蒸し暑い日が続いております。
くれぐれも御身体にはお気を付け下さい。
さて、今週は前回に引き続いて、「近代コインに描かれた人々」を御紹介したいと思います。
今週はメキシコ皇帝、マクシミリアーノ1世(ドイツ語ではマクシミリアン)に関する記事です。
彼は、欧州列強が世界を舞台に勢力を拡大していた19世紀半ば、故国オーストリアから、大西洋を隔てた遠くメキシコの皇帝に即位しました。しかし、彼の治世と帝国は3年しか持たず、やがて悲劇的な最期を遂げることになるのです。
欧州随一の名門家、ハプスブルク家の皇帝の弟が、なぜ遠い辺境の地の君主となり、彼の地で最期を遂げたのか。
今回は悲劇の皇帝、マクシミリアンに関する内容です。
〈近代コインに描かれた人々〉
第2回:悲劇のメキシコ皇帝
マクシミリアーノ1世(メキシコ帝国)
マクシミリアーノ1世/フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ
(Ferdinand Maximilian Joseph )
マクシミリアンは1832年7月、オーストリアのウィーンにてハプスブルク=ロートリンゲン家の、オーストリア大公フランツ・カールの第2子として生を受けました。
彼より2歳年上の兄、フランツ・ヨーゼフ・カールは、後にハプスブルク家の当主となり、フランツ・ヨーゼフ1世としてオーストリア帝国皇帝に即位します。
つまり、彼は欧州随一の名門の生まれであり、大帝国のロイヤル・ファミリーの一員として育ったのです。
物静かで生真面目、保守的な兄と異なり、陽気で社交的、そして自由奔放なマクシミリアンは、しばしば政治的思想を巡って兄と対立することもありましたが、少なくとも幼少時代から少年期にかけては仲の良い兄弟だったといわれています。
1848年、フランスで勃発した二月革命の余波を受け、3月にオーストリアのウィーンでも騒乱が発生。
この混乱を鎮める為、ナポレオン後の欧州外交において多大な影響力を保持していた老宰相メッテルニヒが失脚します。
この1848年という年は、フランス、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリア、イギリス等、欧州各地で政治改革を求める自由主義の運動が噴出した年であり、ナポレオンの失脚後の欧州勢力均衡、ウィーン会議以降続いていた「ウィーン体制」が崩壊した年といわれます。
これ以降、各国で王族や貴族を中心とする保守主義と、市民の政治参加と自治を求める自由主義とが激しく対立するようになります。
1848年の混乱の責任をとる形で、マクシミリアンの叔父であるオーストリア皇帝フェルディナント1世は退位し、代わって弱冠18歳の兄フランツ・ヨーゼフが皇帝に即位します。
オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世
若くて堅実な将校皇帝を、帝国国民は期待の念を以て歓迎した。
皇帝の弟となったマクシミリアンは、1854年にオーストリア帝国海軍司令長官になり、1857年にはオーストリア支配下のイタリア、「ロンバルディア=ヴェネト王国」〈現在のミラノ、ヴェネツィア包括するイタリア北部)の副王〈総督に相当。国王は兄フランツ・ヨーゼフが兼ねる。尚、当地での王名は「フランチェスコ・ジュゼッペ1世」)に任命されます。
自由主義に傾倒するマクシミリアンは、赴任地での政策に自らの意向を反映させます。彼は現地のイタリア人の政治参加を容認し、イタリア市民寄りの宥和政策を採りました。
しかし、このことは兄であり、名目上王国の国王であるフランツ・ヨーゼフ1世との摩擦を引き起こす原因となりました。
オーストリア皇帝 フランツ・ヨーゼフ1世
[在位:1848年~1916年]
画像は、オーストリア帝国で1858年に発行されたターラー(ターレル)銀貨。(KM2244)
33mmで重さは18,51g。裏面にはハプスブルク家の象徴、「双頭の鷲」が描かれている。
フランツ・ヨーゼフ1世が保守的であることは前述しましたが、それ以上に彼の立場が自由主義を容認させるものではありませんでした。
当時、彼の統治していたハプスブルク家の帝国内には、オーストリアのドイツ人やイタリア人だけでなく、ハンガリー人、クロアチア人、ウクライナ人、ボヘミア(チェコ)人、スロヴァキア人、ポーランド人、スロヴェニア人、ルーマニア人、ユダヤ人等、多様な民族が居住していました。
市民の参政権拡大は、すなわち民族主義の台頭と民族自決運動につながり、やがては内戦と帝国の崩壊という悲劇的末路に至る恐れがあります。
その為、皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は、自由主義を容認することはできず、実の弟ならば尚更だったのです。
1859年、マクシミリアンはロンバルディア=ヴェネト王国副王を解任され、アドリア海のトリエステに居を移しました。
「副王」から「オーストリア大公」となり、暇を持て余していたマクシミリアンは、兄との確執を継続させつつも、当地で植物学の研究に集中しながら過ごしていました。
そんな折、マクシミリアンのもとにメキシコの保守派貴族とフランスのナポレオン3世から、「メキシコ帝国皇帝」就任の打診があります。
フランス皇帝 ナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)
[在位:1852年~1870年]
画像は、1858年発行の100フラン金貨(KM786,1)
35mmで、重量は32,19g。
当時、メキシコは自由主義派と保守派による内戦の最中にあり、保守派の大地主や貴族などの富裕層は欧州の列強に支援要請を行っていました。
第二帝政期フランスのナポレオン3世は、産業革命で成長した自国の勢力圏を海外に求めており、保守派へのテコ入れでアメリカ大陸に足場を築こうと画策します。
さらに、メキシコの隣国アメリカが南北戦争に突入し、国外の問題に介入できないこともあり、外交得点を狙うナポレオン3世にとってはうってつけだったのです。
フランスとメキシコの保守派双方の思惑と利害は一致し、フランス軍の介入によってメキシコの首都、メキシコシティに「メキシコ帝国」を建設し、保守派が政府中枢に入ることで保守派の権益を守ることを計画しました。
このとき、皇帝の座に相応しい名門の出自として、ハプスブルク家の皇帝の弟、マクシミリアンに白羽の矢が立ったのです。
因みに、当時欧州の名門家の出身者を、その国との繋がりや所縁に関係なく君主の地位に就けることは、特に珍しいことではなく、マクシミリアンのメキシコ皇帝打診も「ハプスブルク」のブランド力が決め手でした。(19世紀だけでも、ベルギー、スペイン、ギリシャ、アルバニア、ルーマニア、ブルガリアの国王に、ドイツやイタリアの王族が就いています。)
当初、マクシミリアンは迷ったようですが、帝位への欲求と、新大陸で植物学の探索ができるという知的好奇心に揺り動かされ、メキシコ行きを決断しました。
この決定には、マクシミリアンの妻、シャルロッテが最も喜んだと伝えられています。
彼女はベルギー王国初代国王、レオポルド1世の王女で、1857年に二人は結婚しました。
プライドの高い彼女は、フランツ・ヨーゼフ1世の妻でバイエルンのヴィッテルスバッハ公爵家出身のエリザベートと仲が悪かったようです。
特に公爵家出身のエリザベートが「皇后」で、王家出身の自分が「大公妃」であることを不満に感じていたようです。(エリザベートの飼い犬が、シャルロッテのプードルを噛み殺した(!)事件も二人の不仲を助長したようですが・・・・。)
オーストリア皇后エリザベートとメキシコ皇后シャルロッテ
その為、自らも「皇后」の地位を得ることができ、メキシコ行きに賛同したのです。
マクシミリアンの兄フランツ・ヨーゼフ1世は、「オーストリアの皇位継承権を放棄する」ことを条件として、彼のメキシコ行きを認めました。
1864年4月10日、マクシミリアンはメキシコ帝国皇帝「ドン・マクシミリアーノ1世」として彼の地で即位します。妻のシャルロッテも、メキシコ皇后「カルロータ」として即位しました。
メキシコ帝国皇帝ドン・マクシミリアーノ1世に即位したマクシミリアン
目下内戦中のメキシコにあって、本来自由主義的傾向の強かったマクシミリアーノ1世皇帝は臣民のため、貧民救済や農民への「徳政令」、信仰の自由の保障や農地改革、人身売買の禁止等の措置を支持しました。
これは、自由主義派に対する和解に向けたアプローチでもありましたが、政権を支える保守派からは「自由主義的」とみなされ、徐々に皇帝は支持を失っていきます。
また、自由主義勢力の指導者であり、後にメキシコ大統領になる先住民出身の聖職者、ベニート・フアレスはマクシミリアンとその後ろ盾のフランスを徹底的に敵視し、決して妥協する姿勢を見せませんでした。地方の農民はフアレスを支持しており、マクシミリアーノ1世の帝国政府は、メキシコ駐留のフランス軍によって支えられたものであり、事実上フランスの傀儡政権でした。
自由主義派の指導者、ベニート・フアレス(1806年~1872年)
現在、彼はメキシコの英雄とされ、フアレスの名を冠した大学や国際空港もある。
しかし、帝国政権内でも孤立していたマクシミリアーノ1世にさらなる追い打ちがかかります。
1865年4月に南北戦争を終結させ、国内復興を進めていたアメリカが、フアレス支援を本格化し始めたのです。
アメリカは、ナポレオン3世のフランスにメキシコ撤兵を要求。フアレスの自由主義勢力もその勢いを増し、保守派の劣勢は濃厚になっていました。
また、欧州ではビスマルクに率いられたプロイセンがドイツ統一に動き出しており、オーストリアもフランスも新大陸の問題どころではなくなっていたのです。
1866年、フランス軍は撤兵を開始。
皇后シャルロッテは、夫と帝国への援助要請の為、単身で欧州に渡り、フランス、オーストリア、ベルギー等、関係各国を回りますが、どこからも援助を得ることが出来ず、援助要請の為に訪れたローマのヴァチカンで発狂。
そのまま、故国ベルギーに移送され、第一次世界大戦を経て1927年に死去するまで幽閉されます。
マクシミリアーノ1世は、フランス軍の撤退に伴い、周囲や欧州の王家から欧州への脱出を勧められますが、これを頑なに拒否。
彼は傀儡とはいえ、「メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世」としての誇りを持ち、メキシコにその身を捧げる覚悟だったようです。
また、自身に忠誠を誓い戦った将校や側近を見捨てることは心苦しかったのでしょう。このまま帰郷しても、オーストリアの皇位継承権は既に放棄しており、オーストリア大公の地位もありませんから、メキシコでの再起を望んでいたと思われます。
しかし、1867年5月、彼はついにフアレスの軍に捕えられ、裁判にかけられ「死刑」を宣告されます。
欧州やメキシコ国内からも彼の助命を求める声が多く寄せられましたが、フアレスが自軍への示しの意味から、決して寛容な姿勢をみせなかったこと、マクシミリアーノ1世が裁判中にあっても、「メキシコ皇帝」として振る舞い続けていたこと等があり、死刑が覆ることはありませんでした。
1867年6月9日、マクシミリアーノ1世は、二人の将軍と共に銃殺刑に処せられました。34歳でした。
彼の処刑のニュースは、欧州にも衝撃をもたらし、当時の印象派画家マネはこの事件を題材に絵画を描いています。
『皇帝マクシミリアンの処刑』(エドゥアール・マネ 画 1867年)
大きな帽子を被った人物がマクシミリアーノ1世。
メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世を描いたコインは、「50センタヴォ銀貨 (KM387)」 「1ペソ銀貨 (KM388)」 「20ペソ金貨 (KM389)」の3種類があります。
メキシコ帝国下の1864年から1867年まで、従来のメキシコ通貨「レアル」とは異なる貨幣制度が導入されていました。
メキシコ共和国:8レアル=メキシコ帝国:1ペソと設定され、1ペソは100センタヴォに相当するとされました。
その為、メキシコ共和国時代の8レアル銀貨と、メキシコ帝国の1ペソ銀貨は、共に27,07gで、銀含も903/1000と、デザインや発行元、額面や貨幣単位は違えど、同じ規格で鋳造されていたのです。
鋳造場所は、50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨が共にメキシコシティ・ミントにて。1ペソ銀貨は、メキシコシティに加えてグアナファトとサン・ルイス・ポトシでも鋳造されています。
尚、それぞれのミントマークは、「Mo:メキシコシティ」 「Go:グアナファト」 「Pi:サン・ルイス・ポトシ」となっています。
50センタヴォ銀貨と20ペソ金貨は1866年銘のみの発行。1ペソ銀貨は1866年と1867年の発行銘があります。
つまり、後ろ盾だったフランス軍の撤兵、皇帝の逮捕・処刑という、帝国の崩壊の最中に発行されたコインだったわけです。帝国が崩壊し、皇帝が処刑されるのと同じ時期に、皇帝の肖像を描いた本格的な帝国のコインが鋳造されたのは、何とも皮肉な気がします。
メキシコ帝国 1ペソ銀貨(KM388,1) 1866年銘
ミントマークは「M:メキシコシティ・ミント」による鋳造。
37,2mmで重量は27,07g。SV903/1000。
表面は、メキシコ帝国皇帝マクシミリアーノ1世が描かれ、裏面には2頭のグリフィンに支えられたメキシコ帝室紋章が描かれている。
ところで、マクシミリアーノ1世は処刑前、自らを撃つ狙撃手に金貨を手渡し、「どうか顔は撃たないで欲しい。心臓を撃ち抜いてくれ。」と頼んだという逸話が残っています。しかも、そのことによって返って狙撃手に顔面を狙い撃ちされ、マクシミリアーノ1世は顔を撃ち抜かれてしまった・・・・という逸話もあります。
この逸話が真実か否かはさて置き、この時本当に狙撃手に金貨を手渡したとするならば、自らの肖像が描かれた20ペソ金貨である可能性は高いと思われます。
自らの横顔を描いた金貨を、自らを手に掛ける者に渡すというのは、如何なる心境だったのでしょう。それでもし、最期の願いも聞き届けられなかったなら・・・・・・・・・。
正に「悲劇の皇帝」というべきマクシミリアーノ1世ですが、彼の死の知らせを聞き、大いにショックを受けた人物の一人が、実兄のフランツ・ヨーゼフ1世でした。
政治思想では対立した兄弟ですが、やはり実の弟を心配していたのでしょう。
しかし、フランツ・ヨーゼフ1世はこの後、実弟のみならず、一人息子の皇太子ルドルフを心中で、妻のエリザベートを暗殺で、甥で帝位継承者のフランツ・フェルディナントを暗殺で失うことになります。
在位68年という在位期間を誇り、「帝国の不死鳥」と呼ばれたフランツ・ヨーゼフ1世でしたが、彼の周囲には不幸な死が付きまとっていました。
冒険的な弟と異なり、堅実な兄は長命長期在位を実現しましたが、彼もまた、弟と同じく「悲劇の皇帝」だったといえるでしょう。
ハプスブルク家の兄弟達(1863年)
椅子に座っている人物は兄フランツ・ヨーゼフ1世。
その直ぐ後ろに立つのは弟マクシミリアン。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コインペンダント専門店 『World Coin Gallery』
よろしければクリックお願いします。
最近のコメント