こんにちは。
ますます冬らしくなってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は、久々に「近代コインに描かれた人々」シリーズです。
前回の「コイン好人列伝」の記事で、フランスの金貨をご紹介させていただきましたが、今回はそこにも多く登場した「ナポレオン3世」を、彼の描かれたコインと共にご紹介したいと思います。
それでは、宜しくお願い致します。
〈近代コインに描かれた人々〉
第4回:ナポレオン帝国の夢の続き
ナポレオン3世(フランス)
Napoléon III / Charles Louis-Napoléon Bonaparte
[在位:1852年~1870年]
ルイ=ナポレオン・ボナパルト、後のナポレオン3世は1808年4月にパリで生まれました。
父親はフランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の実弟でオランダ王のルイ・ボナパルトであり、ルイ=ナポレオンにとってナポレオン1世は「伯父」にあたります。
1814年のナポレオン失脚後、一族は次々とフランスを脱出し、少年時代のルイ=ナポレオンも母親と共にスイスへ亡命します。
その後、軍人としての教育を受け、英国を拠点に政治活動を始めたルイ=ナポレオンは、1830年の七月革命によって成立したルイ・フィリップ1世のフランス王国政府に対して二度の反乱を企てますが、いずれも失敗に終わります。
ルイ・フィリップ1世治世下の5フラン銀貨
写真は1841年銘[KM749.13 サイズ:37.5mm 重量:24.56g 金性:SV900]
表面の銘は、「フランス人の王、ルイ・フィリップ1世」
二回目の反乱によってハム要塞に投獄された際は、牢獄に出入りしていた修理工に変装し、自分のベッドにマネキン人形を置いて脱獄に成功しています。
彼は、他のナポレオン一族やナポレオン支持者(ボナパルティスト)と同じく、フランスにおいて再び「ナポレオン帝政」を復活させることを望んでいました。
しかし、それには偉大な伯父、ナポレオン同様、大衆の強い支持が必要であると、ルイ=ナポレオン自身強く感じるところでもあったのです。
1848年2月、パリで反王政の革命が勃発し、国王ルイ・フィリップ1世は英国に亡命。
「七月王政」が打倒され、共和政が宣言されると、ルイ=ナポレオンはすぐさま亡命先の英国から舞い戻り、新共和国の大統領選挙に出馬したのです。
既に二度の反乱騒ぎを引き起こしたルイ=ナポレオンの名は全国に知れ渡っており、「ナポレオン神話」を信じる農民や労働者、市民の強い支持を得、1848年12月、ルイ=ナポレオンはフランス共和国初代大統領に当選します。
フランス共和国大統領時代のルイ=ナポレオン
1851年12月、ルイ=ナポレオンは自らに非協力的な議会を強制解散し、独裁的権限を握りました。
このクーデターは、国民の広い支持を得、勢いを得たルイ=ナポレオンは伯父の例に倣い、自らの「皇帝」即位の是非を問う国民投票を1852年11月に実施。
国民の96%の信任を得たルイ=ナポレオンは、1852年12月、「フランス皇帝 ナポレオン3世」に即位し、ここに念願だったナポレオン帝政が復活します。
(因みにナポレオン2世は、ナポレオン1世とマリー・ルイーズの間に生まれた一人息子で、ローマ王の称号を得ていたが、オーストリア軍将校ライヒシュタット公として若くして亡くなっていた。)
フランス皇帝に即位したナポレオン3世
伯父ナポレオンに倣い、「軍人皇帝」としてのイメージを強調した。
後に「第二帝政」と呼ばれるナポレオン3世の治世下のフランスは、大規模公共事業や鉄道敷設、それに伴う投資ブームにより、バブル景気が到来した時代でもありました。
パリの大改造は、ナポレオン3世時代の目玉政策の一つで、スラムがひしめき、下水道も整備されていなかった不衛生な過密都市パリを、整然とした近代都市に生まれ変わらせました。
現在、パリのエトワール凱旋門を中心に放射状に伸びる街路は、第二帝政期に建設されたものです。
パリのパノラマ
衛生的近代都市の区画整備は、ナポレオン3世時代の知事オスマンによって推進された。
また、消費の拡大は商業を盛んにし、市民生活もより華美なものになってゆきました。
第二帝政期の文化は、「華美」「耽美」「退廃的」といった言葉で評されることもありますが、ナポレオン3世自身、高級娼婦や舞台女優、庶民の娘から閣僚の妻に至るまで、多くの女性と浮名を流したのです。
『ウージェニー皇后と女官たち』
(1855年 ヴィンターハルター 画)
左上、右手に花を持っている女性がナポレオン3世妃ウージェニー。
妻のウージェニー皇后は、もともとスペイン貴族の娘であり、その美しさに惚れ込んだナポレオン3世によって猛烈に求婚され、1853年に結婚しました。
上流階級の「恋愛結婚」がまだ珍しかった時代、周囲はこの「身分違い」の結婚に強く反対しましたが、ナポレオン3世自身の強い意向によって二人は結婚しました。
しかし、結婚後も多くの女性と浮気するナポレオン3世に対し、厳格なカトリック教徒のウージェニー皇后はその都度怒りを顕わにして、母国のスペイン語で夫を罵倒することもあったとか。
私生活は奔放なナポレオン3世でしたが、フランス皇帝として、帝国の国益を邁進させる政策を数多く行いました。
1855年と1867年にはパリで万国博覧会を開催し、英国のヴィクトリア女王一家を招待する等、フランス帝国の国威を内外に示すとともに、王室外交を通じた英仏関係の深化に努めました。
このとき、パリを訪れた英国皇太子エドワード(後のエドワード7世)はナポレオン3世に対し、「フランスは素晴らしい国ですね!私が、あなたの息子ならよかったのに」とまで言わせるほどにフランスを気に入り、その後毎年フランスでバカンスを過ごすようになったようです。
ナポレオン3世と同じく、女性関係が派手だったエドワード7世の気質は、第二帝政期フランスとぴったりだったのかもしれません。
英国王 エドワード7世[在位:1901年~1910年]
洒脱者で女性関係も派手だったエドワードは、皇太子時代に第二帝政期のフランスを訪れ、ナポレオン3世の歓待を受けた。
フランスをたいそう気に入った皇太子エドワードは、愛人とバカンスを過ごす為、王室ヨットで頻繁にフランスへ赴いた。
ナポレオン3世は、偉大な伯父ナポレオン1世が軍事的成果によって国民の支持を得ていた例に倣い、積極的な海外進出を行いました。
クリミア戦争(1854年~1856年)、アロー戦争(1856年~1860年)では英国と歩調を合わせ、フランスの対外的地位を向上させただけでなく、イタリア統一戦争への介入では領土を拡大しています。
また、西アフリカやインドシナ半島、ニューカレドニア等、アフリカ・アジア・大洋州における植民地獲得も実現させました。
シャム(現在のタイ)の使節団を謁見するナポレオン3世一家
フランスの財政的・技術的支援によって、エジプトにスエズ運河が開通したのも、ナポレオン3世時代の海外進出政策によるものです。(スエズ運河は後に英国に買収されてしまいしたが・・・。)
日本との関係でいえば、幕末の日本において、倒幕派の薩長を支援する英国に対し、ナポレオン3世は江戸幕府を支援しています。
最後の将軍、徳川慶喜にフランス式の軍服を贈呈し、幕府軍にフランス軍式の軍事教練を行う等、積極的に援助を行いました。
ちなみに、1867年のパリ万国博覧会には、幕末期の日本(江戸幕府だけでなく、薩摩藩や長州藩も独自のブースを出展した)が初出展しています。
ナポレオン3世から贈られた軍服を着用した徳川慶喜
しかし、1861年~1867年のメキシコ出兵は大失敗に終わりました。
特に、長期間に及んだ軍事介入の末、メキシコ皇帝に即位させたマクシミリアン(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の実弟)の処刑という悲劇的結末は、国内外におけるナポレオン3世の権威失墜につながりました。
欧州外交社会での孤立と、国内での国民の支持喪失は、ナポレオン3世自身を焦らせることになります。
1870年、プロイセン王国宰相、ビスマルクの挑発に乗る形でプロイセンに宣戦を布告。(普仏戦争)
兵士の士気を鼓舞するため、皇帝自ら前線に出陣しましたが、セダン要塞でプロイセン軍に包囲され、敵軍の捕虜になってしまいます。
セダンで降伏するナポレオン3世(中央)
手を差し伸べているのは、プロイセン王ヴィルヘルム1世。その左は宰相ビスマルクと皇太子フリードリヒ。
皇帝が敵軍の捕虜になったというニュースに対し、皇帝に失望し憤慨したパリ市民はナポレオン3世の退位と共和政を要求。
立法議会が帝政の廃止と共和制政府の樹立を宣言したことで、ナポレオン3世の第二帝政は終わりを告げたのです。
その後、ナポレオン3世一家は英国に亡命し、1873年1月9日、64歳で死去しました。
ナポレオン3世の第二帝政は18年で終焉しましたが、パリの美しい街並みや欧州列強に並び立つ基礎となった資本力、パリで花開いた華美な芸術文化等、その治世下の遺産は今も尚、フランスという国を彩っています。
パリのオペラ座
ナポレオン3世時代のパリ大改造の一環で建設された。第二帝政期を代表する建築物の一つだが、完成したのは皇帝亡き後の1875年であった。
舞台「オペラ座の怪人」は、このオペラ座が舞台となっている。
さて、ナポレオン3世が描かれたコインは大きく分けて「大統領時代」、帝政前期の「無冠タイプ」、帝政後期の「月桂冠(有冠タイプ)」の3種類があります。
ちなみに、100フラン金貨と50フラン金貨といった高額金貨が登場したのは、消費と資本主義が拡大し、バブル景気に沸いたナポレオン3世治世下の第二帝政期においてです。
・大統領時代
クーデターによって絶大な権力を得た1852年にのみ発行されたタイプ。
表面には「ルイ=ナポレオン・ボナパルト」の銘と肖像、裏面は額面と「フランス共和国」の銘がある。
20フラン金貨(1852年)
5フラン銀貨(1852年)
[サイズ:36mm 重量:25g 金性:SV900]
商品No.637505
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1フラン銀貨(1852年)
50サンティーム銀貨(1852年)
・帝政 無冠タイプ
1852年発行の10サンティーム青銅貨から登場。
表面は「皇帝ナポレオン3世」の銘と肖像、裏面にはナポレオン帝室を示す鷲と「フランス帝国」の銘がある。肖像は大統領時代のものとほぼ同じ。
金貨に関しては、100フラン金貨と50フラン金貨の裏面がナポレオン帝室紋章であるのに対し、20フラン以下の金貨に関しては額面表示のみとなっている。
100フラン金貨(1855年~1860年)
写真は1858年銘。[KM786.1 サイズ:35mm 重量:32.19g 金性:K900]
50フラン金貨(1855年~1860年)
写真は1859年銘[サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
20フラン金貨(1853年~1860年)
写真は1858年銘[サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
10フラン金貨(1854年~1855年)※直径17,2mm
10フラン金貨(1855年~1860年)※直径19mm
5フラン金貨(1854年~1855年)※直径14,4mm
写真は1854年銘[サイズ:14.4mm 重量:1.6g 金性:K900]
5フラン金貨(1856年~1860年)※直径16,7mm
写真は1859年銘[サイズ:16.7mm 重量:1.61g 金性:K900]
5フラン銀貨(1854年~1859年)
2フラン銀貨(1853年~1859年)
1フラン銀貨(1853年~1864年)
50サンティーム銀貨(1853年~1863年)
20サンティーム銀貨(1853年~1863年)
10サンティーム青銅貨(1852年~1857年)
5サンティーム青銅貨(1853年~1857年)
2サンティーム青銅貨(1853年~1857年)
1サンティーム青銅貨(1853年~1857年)
・帝政 月桂冠タイプ
ナポレオン3世 有冠タイプは帝政後期の1861年に登場。冠はナポレオン1世のコインの肖像と同じく月桂冠。
口髭は無冠タイプと比べて上を向き、威厳のある顔つきになっている。
また、金貨は100フラン金貨と50フラン金貨に加え、20フラン金貨の裏面もナポレオン帝室紋章となった。
100フラン金貨(1862年~1870年)
写真は1869年銘[KM802.2 サイズ:35mm 重量:32.17g 金性:K900]
商品No.652959
御購入の方はこちらから⇒http://www.tiara-int.co.jp/detail.html?code=652959
50フラン金貨(1862年~1869年)
写真は1865年銘[KM804.1 サイズ:28mm 重量:16.12g 金性:K900]
20フラン金貨(1861年~1870年)
写真は1864年銘[KM801.1 サイズ:21mm 重量:6.45g 金性:K900]
10フラン金貨(1861年~1869年)
写真は1868年銘[サイズ:18.5mm 重量:3.22g 金性:K900]
5フラン金貨(1862年~1869年)
5フラン銀貨(1861年~1870年)
写真は1870年銘[KM799.1 サイズ:37.3mm 重量:24.8g 金性:SV900]
2フラン銀貨(1866年~1870年)
1フラン銀貨(1866年~1870年)
50サンティーム銀貨(1864年~1869年)
20サンティーム銀貨(1864年~1866年)※直径15mm
20サンティーム銀貨(1867年~1869年)※直径16mm
10サンティーム青銅貨(1861年~1865年)
5サンティーム青銅貨(1861年~1865年)
2サンティーム青銅貨(1861年~1863年)
1サンティーム青銅貨(1861年~1863年、1870年)
本日はここまでとさせていただきます。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
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