古代ローマ人の日常
・貨幣
初期のローマ世界では、アフリカの遊牧民と同じように家畜が家の財産としてみなされていた。
物々交換が経済活動であった時代、家畜は特に有効な交換単位の一つだった。
その後、秤量貨幣(アエス・ルデ)と呼ばれる延べ棒のような貨幣が登場した。この貨幣には当初、物々交換時代の名残から牛などの家畜が刻印されていた。
秤量貨幣はその重さが規格化されていたとはいえ、最大重量が約1.6kgもある、絵柄付きの延べ棒であった。
その後、ギリシャを倣って円形のものも作られたが、あまりに重すぎるそうした貨幣は扱いやすい通貨とは言えず、広く流通することはなかった。後世のラテン語表現の中には、金銭の支払いに関して「gravis(重い)」という表現が存在する (例:重い罰金) が、それは実際に「重い貨幣」を使用していたことに由来している。
現在のコインに近い貨幣がローマに登場するのは、紀元前300年頃であると考えられている。この頃からローマは、カンパーニア(イタリア半島南部)に存在したギリシャの造幣所に青銅貨や銀貨等のコインの鋳造を委託している。
当初は自国での鋳造を行わず、当時のコイン先進地域であったギリシャにコイン鋳造を委ねていたのである。
その後、ローマで初めて貨幣の鋳造が行われたのは紀元前269年といわれている。
古代ローマの通貨体系の基本単位は、帝政期に至るまで約4gのデナリウス銀貨であった。デナリウスは紀元前200年頃から銅貨(アス)12枚に細分化された。
デナリウス銀貨(写真の銀貨は紀元前46年発行)
ユリウス・カエサル時代に鋳造されたデナリウス銀貨であり、表面には農耕神セレス、裏面には壺や杖等が刻印されている。
紀元前89年以降、デナリウス銀貨とアス銅貨の交換比は1:16であった。銀貨と銅貨の間にはセステルティウス貨が存在した。
紀元前216年には金貨の発行が開始された。しかし共和政時代、金貨の発行はさほど多くなく、全体量から考察すると少数だったとみられている。
セステルティウス貨(写真のコインは紀元前208年のもの)
重量は1.03gと超小型である。表面にはローマ神、裏面には双子神ディオスクリが刻印されている。
アウグストゥス帝の時代、アウレウス金貨の価値は25デナリウス銀貨に確定した。
以下はユリウス=クラウディウス朝時代(紀元前31年~紀元68年)のローマ帝国通貨とその相対的価値である。
尚、「アウレウス」とはラテン語で「金」を意味する。
1アウレウス(金貨)=25デナリウス(銀貨)
1デナリウス(銀貨)=16アス(銅貨または青銅貨)
1セステルティウス=4アス
1ドゥポンディウス=2アス
1セーミス(銅貨または青銅貨)=1/2アス
1クァドラーンス(銅貨または青銅貨)=1/4アス
尚、3世紀になると急激なインフレーションが発生し、デナリウス銀貨の銀含率は著しく低下した。以降、ローマ通貨の中心単位はアウレウス金貨になった。
アウレウス金貨(写真は18年~35年鋳造の金貨)
直径19㎜で量目7.79gの帝政ローマ初期の金貨。写真の肖像はティベリウス帝(在位:14年~37年)。裏面にはリウィア坐像が刻印されている。
しかし、庶民の日常の中で銀貨や金貨が登場する機会は少なかった。多くの市民は日常生活において、最も身近なコインとしてはアス銅貨を使用していたからである。
アス銅貨(写真は37年~41年の銅貨)
写真の銅貨表面肖像はアグリッパ(カリギュラ帝の祖父)、裏面の立像は海神ネプチューンである。この銅貨はカリギュラ帝の治世下(37年~41年)で発行された。
富裕層は金貨や銀貨を自宅の金庫に貯め込んでいた。
当時、有産階級の富裕世帯には必ず青銅製、または鉄製の金庫が存在した。金貨、銀貨等の蓄財は人一人が入れる位の鉄製の鍵がついた金庫にしまい込まれ、必要な出費の毎にそこから支払われていた。金貨や品質の良い銀貨(特に1世紀~3世紀初頭のもの)は一般の流通市場には乗らず、資産保護のために大屋敷の金庫の中にしまい込まれていたのである。
しかし、このことによって多くのローマ金貨、銀貨が良い状態で保存され、後世のコインコレクター市場向けに多くのコインが残されたのである。
ローマ帝国時代には物流も交通網も発達し、貨幣は経済活動の根源となっていた。いかなる階層に属する者であっても、貨幣によって生計を営んでいたのである。労働者の報酬も、現金による賃金が基本化していた。
日々の買い物はもちろん、宿から娼家に至るまで、貨幣による支払いが唯一の決済手段だった。
サー・ローレンス・アルマ=タデマ『花市場』(1868年)
ローマ帝国では貨幣経済が末端にまで浸透しており、大都市ローマから地方、属州に至るまで支払いには時の皇帝の肖像が刻まれたコインが日常的に使用された。
ローマ帝国内に暮らす者にとって、コインは生きていく上で欠かせないものうぇすぱしだったのである。
広大な帝国の各地にコインを供給する為、ローマをはじめ属州にも造幣所が設置された。後期には帝国各地20か所に造幣所が存在した他、ギリシャや小アジア(現在のトルコ)の自治都市では、当地のみでの流通に限られていたが、独自貨幣の鋳造も認められていた。
さらに、紀元前2世紀以降、記念コインの発行が頻繁に行われるようになった。記念コインは既にこの頃から存在していたのである。
ユリウス・カエサル発行の戦勝記念デナリウス銀貨
紀元前46年~紀元前45年の発行。勝利のトロフィーを中心に据え、両脇に二人の捕虜を描いている。
広大な帝国全土にローマ皇帝の権威を誇示する為、貨幣という効果的な流通媒体に政治的スローガンやモットー (例:felicitas(幸福)、liberalitas(自由)、concordia(協調)、justitia(公正)等・・・) を刻むことが流行した。
皇帝の対外戦勝記念や文化事業記念も、コイン上に刻まれたことで威厳を高めた。
そして、後世(特にルネサンス期の西欧)にはそうした記念コインが、古代ローマ史研究の一助にもなったのである。
当時から納税も現金(コイン)で行われていた。相続税、人頭税、地税等、ローマ市民から属州民まで、幅広い帝国臣民が様々な課税の対象となっていた。
イエス・キリストはユダヤの律法学者に「ローマ皇帝に重い税を納めなければならないか?」と問われた際、デナリウス銀貨に描かれたローマ皇帝の肖像を指摘し、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」と答えたという逸話が聖書にも残っている。
このことは、当時から辺境の属州にまでローマの貨幣制度と、そこに描かれた皇帝の権威が及んでいたことの証でもある。通貨とそれを発行、流通させる国家権力とは密接な結びつきを帯びており、なおかつ末端の庶民にまで影響をおよぼしていたのである。
強欲でケチな皇帝として知られたウェスパシアヌス帝(在位:69年~79年)は、財政再建の為に増税を行ったが、その中でも印象が強いのは通称「尿税」である。当時、尿は毛織物の染色や皮なめし、洗濯に使用されていたことから、公衆便所の尿にまで税金をかけたのである。
この税によって、当時から後世に至るまで「ウェスパシアヌス帝=ケチ、強欲」という評価が下されることになった。
ウェスパシアヌス帝(左)と息子 ティトゥス帝(右)
左は75年のデナリウス銀貨、右は80年のデナリウス銀貨
息子のティトゥス(次帝 在位:79年~81年)は父帝に対し、尿税はローマ皇帝の権威と尊厳を損なうものであるとして抗議した。
すると父であるウェスパシアヌス帝は、この税によって徴収した金貨を息子に嗅がせ、臭いかどうか尋ねたという。
本日は以上となります。
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