ゴールデンウィークが始まりました。今年の連休は途中に間を空けるため「大型連休」とはいかないようですが、寒くなく暑過ぎず、お出かけには最適な気候です。
水曜日が定休日のワールドコインギャラリーも、4月30日(水)は通常営業(11:00-19:00)いたします。
連休中は休まず営業いたしますので、都内にお出かけの際はぜひお立ち寄り下さい。
今回は100年前のドイツで発行された磁石にくっ付くコイン、鉄製コインをご紹介します。
古代リディアで本格的なコインが発行されて以降、その素材は金・銀・銅といった貴金属が用いられてきました。ギリシャのスパルタでは他国との交易を制限するため、鉄製の串が貨幣として用いられましたが、大半の国では「貨幣=貴金属」という原則が守られていました。
日本でも江戸時代に鉄製の寛永通宝が製造されたことがありましたが、あくまで銅の代用として発行されたものでした。粗雑で錆びやすいため市中での評判は悪く、鐚銭扱いされ銅銭よりも低い価値で受け取られていたようです。
鉄は先史時代から武器や農耕、建築など工業分野で用いられた金属でしたが、錆びる特徴から貴金属としては扱われず、貨幣の素材としては不向きとされてきました。
1914年に勃発した第一次世界大戦はヨーロッパ諸国の総力戦として知られ、国民生活の隅々に至るまで戦争の影響を受けることになりました。
特にドイツではあらゆる資源が政府の管理下に置かれ戦争に動員されたことにより、物資の不足とインフレーションが顕著に現れていました。
コインの素材である銅やニッケル、銀は軍需材として回収され、代わって紙幣や鉄などの卑金属の貨幣が登場しました。ドイツ西部のルール地方は伝統的に鉄鋼業が盛んな地域であり、良質な鉄を多く生産する基盤があったことから、鉄をコインの素材として利用する研究も進められました。
戦況が厳しさを増した1915年以降、5ペニヒや10ペニヒなど小額のコインが鉄製となり、本格的に流通市場に投入されました。
ドイツ軍東部総司令部発行 1916年 3コペイカ鉄貨
ドイツ軍が占領したロシア帝国領(*現在のポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト三国に相当する地域)で流通させる為に発行。ベルリン造幣局とハンブルク造幣局で製造され、鉄錆による腐食を防ぐためニッケルメッキが施されています。
戦争勃発直後から、資産を守るため銀貨や銅貨が退蔵されるようになりました。そのため慢性的に小銭が不足し、市民の日常取引にも支障が生じるようになりました。
こうして市町村単位で発行される地域通貨「ノートゲルト(Notgeld)」が登場します。
ノートゲルトは帝国銀行(ライヒスバンク)の認可を得て自治体レベルで発行され、各地域内でのみ有効とされました。額面は基軸通貨マルクの補助単位であるペニヒであり、あくまで釣銭不足を解消するための代用品として発行されました。
類似の事例は18世紀末~19世紀初頭のイギリス(トークン=代用貨幣)でもみられましたが、ドイツの場合は紙幣からアルミニウム、鉄、錫、陶土、革、布によるコインなど多種多様な素材で発行された点が特徴です。
1918年に戦争が終結しても経済の混乱は収まりをみせず、国家財政の破滅的状況は通貨マルクの価値を下落させていきました。1919年以降ノートゲルトの発行は企業や商店、個人事業主レベルでも行なわれるようになり、多種多様なノートゲルトが登場するようになります。国家による制約がないため、デザインは地域性とユーモアに溢れ、困難な時代であることを感じさせないほど自由でした。
ヴェストファーレン州立銀行 1921年 5マルク アルミニウム貨
アルテンブルク市 1921 1マルク陶貨
表面にはマイセン窯元のマークが入っています。後に第二次世界大戦末期の日本でも陶貨の製造が計画され、この時代のドイツ陶貨を参考に研究が進められました。
初期に製造されたノートゲルトコインは主に鉄を素材として用いていました。コストと耐久性を考慮すると実用的な素材であり、小額コインとしては有用でした。また戦後は破損した鉄兜や兵器がスクラップされて民間に払い下げられたこともあり、比較的入手しやすい金属でした。鉄錆びを防ぐためのコーティングは戦時中から確立されていたため、各自治体も利用しやすかったと考えられます。
ノートゲルトの多くは国立の造幣局ではなく民間の企業によって製造されていました。鉄貨は金属加工業者が製造を請け負い、発行元の自治体に納入していたようです。
ボン市 1920年 25ペニヒ鉄貨
ボン市出身の音楽家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の生誕150周年を記念して発行。ドイツ西部リューデンシャイトの金属加工クーゲル&フィンク兄弟商会(*主にベルトのバックルや兜を製造)が10ペニヒ、25ペニヒ、50ペニヒの各額面(*各500,000枚)を製造しました。
ベートーヴェンの異なる肖像タイプが他に3種確認されています。鉄錆による腐食を防ぐため、コイン全体にはニッケルメッキが施されています。
流通目的より記念コインとしての性格が強いノートゲルトの一例。この鉄貨は国によって発行されたものではありませんが、歴史上初めて音楽家を表現したコインとされています。
マンハイム市 1919年 25ペニヒ鉄貨
女神が携えている棒はヴォルフスアンゲル(=オオカミ用の罠)と呼ばれる二重鈎であり、マンハイム市の伝統的な象徴として標石や紋章に表現されました。
デューレン市 1919年 1/2マルク鉄貨
炭鉱夫が表現された鉄貨。鉄製のコインに相応しいデザイン。無骨ながらも堂々とした人物像です。対して文字銘は可愛らしいフォントです。
メンデン市 1919年 50ペニヒ鉄貨
メンデン市の紋章が表現された鉄貨。デザイン、刻印と共にコインらしい重厚さと細かさです。
ザクセン州ガルデレーゲン市 1921年 50ペニヒ鉄貨
オットー・ロイター(1870-1931)は当時活躍していた喜劇俳優・歌手でした。存命中のコメディアンが表現された珍しい鉄貨です。流通目的以上に、収集市場を意識して製造されたと考えられます。
ドイツでは古くからコイン収集が行なわれ、食べるものに事欠く状況であっても収集市場は存在しました。収集家たちはドイツ各地で発行されるノートゲルトに早くから注目し、額面以上の付加価値をつけて古銭商や書店を通じて購入しました。
こうした状況は一般市民にも知られ、ノートゲルトは手軽な投機対象としても購入されるようになりました。給与として受け取るライヒスバンク発行のマルク紙幣は日々価値が目減りしていくため、一刻も早く現物に変えておく必要がありました。ノートゲルトは中央銀行発行の紙幣よりもましな資産とみられていたのです。
すると珍しいデザインや素材によって作成されたノートゲルトが続々と登場し、額面以上の価格で販売されるようになったのです。それらは最初から収集家向けに販売する目的で発行されたため、実際に流通したものはほとんどありませんでした。
多種多様なノートゲルト紙幣
マッチ箱のラベルを思わせるカラフルさであり、印刷や文字の装飾、デザインはポスターのイラストのようです。
1923年1月にフランス・ベルギー軍が賠償差し押さえのためルール地方を占領すると、ドイツの物資不足は深刻化し、インフレーションは驚異的なスピードで進行しました。物価は毎日改訂され、人々は札束を抱えて買い物に出なればなりませんでした。ハイパーインフレーションの進行は天文学的指数を示し、マルク紙幣は紙くず同然となったのです。
当初は地域通貨として役割を果たしたノートゲルトは、もはや通貨としての価値を持たなくなっていました。
そして1923年11月に新通貨レンテンマルクが発行されるとノートゲルトは通用禁止となり、新規発行も行われなくなりました。多くのノートゲルト紙幣は古紙として回収され、鉄貨も多くがスクラップにされてしまいました。
鉄貨も発行当初は補助貨幣としての役割を果たしていましたが、社会の劇的な変化によってわずか数年で価値を失いました。鉄で作られたコインは100年を経て錆びつき始めていますが、そのデザインは苦しい社会背景を感じさせないほど多種多様です。困難な時代にあっても、人々が芸術性や文化を大切にしていた証といえるでしょう。
ノートゲルトはドイツのコイン収集家を中心に人気があり、今も数多く取引されています。特に鉄貨は実際に流通したノートゲルトとして、当時の世相を反映する素材として、歴史的な価値も再認識されています。
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