【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり歳の瀬ですね。今年の年末は例年以上に寒さが厳しいようです。
歴史的な出来事が多く話題に事欠かなかった2022年(おそらくそれ以前もですが・・・)も残すところあと僅か。来る新しい年がどのような一年になるのか注目です。
今年の大きな出来事の一つといえば、以前ブログでもご紹介した英国女王エリザベス2世(在位:1952-2022)の崩御でした。在位70周年を祝うプラチナジュビリーを経て壮麗な国葬と、まさに現代イギリスを代表する君主の治世として偉大な締めくくりでした。ひとつの時代の終焉を目撃したような感慨もあり、他国の人間ですが厳かな気持ちにもなりました。
コインの肖像でお馴染みのエリザベス女王ですが、今年は英連邦以外の人々が女王に思いを馳せた年といえるでしょう。今年はエリザベス女王のお姿が刻まれたコインがいつも以上によく売れたようです。
そして今年は代替わりを経て、英国王となられたチャールズ3世の治世が始まった年でもあります。エリザベス2世は英国史上最も在位期間の長い君主でしたが、チャールズ3世はプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公=皇太子)の地位に最も長く在った人物でした。
今月より国王チャールズ3世としてのコインがイギリスで発行され、大きな話題となりました。今後は全てのコイン肖像を順次切り替えていく模様です。
イギリスのコインに国王が登場するのも70年ぶりとなり、歴史的な瞬間です。
チャールズが初めてイギリスコインに登場したのは、1981年にダイアナ・スペンサー嬢と結婚した際の記念コインでした。
イギリス 1981年 25ペンス銀貨
その後も度々記念貨に登場しましたが、今年ようやく「国王」としてコインに表現されることとなったのです。
CHARLES III・D・G・REX・F・D
(=チャールズ3世 神の恩寵たる王 信仰の守護者)
1948年生まれのチャールズ3世は73歳にして王位を継承したため、コインの肖像も年相応の老紳士らしさを出した風合いになっています。この肖像は彫刻家マーティン・ジェニングス氏によって手掛けられ、チャールズ3世自ら承認したものです。肖像の首部分には彫刻家のイニシャル「MJ」銘が配されています。
周囲の称号は母女王とほぼ同じですが、ラテン語による女王(=REGINA)が王(=REX)になっている点は注目です。英国歌「God save the Queen」が「God save the King」に変更されたことが話題になりましたが、コインでも70年ぶりに王の称号が再登場しています。
イギリスでは君主の代替わりによってコインの肖像を先代の反対にするという慣習があります。エリザベス2世は右向き肖像でしたので、今回のチャールズ3世は左向き肖像となっています。
また、女王がティアラを戴いていたのに対して、国王は王冠を戴かない自然体の姿である点も伝統を踏襲しています。
イギリスでは今月から50ペンス白銅貨が通常貨として発行・一般流通しています。
日本でも天皇陛下の代替わり・元号改元にあたってコインの年号が「平成」から「令和」に切り替わり、これがお釣りの中に混じっていると新しい時代が進んでいることを実感しました。今後はイギリス、英連邦諸国の市中でも同じ現象がみられるでしょう。
今月はイングランド銀行からも新紙幣のデザイン発表がありました。2024年までに現在の紙幣に採用されている女王エリザベス2世の肖像は、国王チャールズ3世の肖像に切り替わるようです。
来年以降はカナダやニュージーランド、オーストラリアのコイン・紙幣の肖像がどのようになるのか注目です。これらの国々ではまだ新しい肖像デザインの発表はありません。長年のエリザベス2世への愛着から、または新国王となるチャールズ3世に対する不支持から、肖像を採用しないのではないかという意見もあります。イギリス本国から遠く離れた国々の英王室に対する世論や信頼度が、新しいコインに現れる点は興味深いですね。
来年には戴冠式も予定されており、その記念コインも発行される模様です。
イギリスと世界にとって大きな節目となる年に発行されたコインは、今後歴史的な記念品として価値を有することでしょう。長いイギリスコインの歴史にも新しい一ページが加わります。
キャッシュレス化が進む昨今ですが、来る2023年もコインの歴史は続いていくようです。来年もコインに関する情報を発信していきたいと思います。
そして今年もこのブログをお読みいただきありがとうございました。来年も古代~現代のコインの魅力をお伝えしていければ幸いです。
来年もよろしくお願い申し上げます。
何卒良い新年をお迎えください。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 13:57 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
この頃はすっかり秋めいてきましたね。肌寒い日が多くなり、段々と冬の気配も感じるようになりました。
昨今は円安によって輸入品の価格が上昇しています。海外オークションで入手するコインについてはその影響が顕著で、計算し直しで入札の手も鈍ります。また、海外でも物価高の影響からか、オークションの手数料も値上げ傾向です。
コインの価値が上がるのは良いことなのですが、仕入れには堪えますね。
今回は古代ギリシャ時代の加刻印コインについてご紹介します。
加刻印(Counter mark)とは既に出来上がっているコインの上に、新たな記号やデザインを加えることを意味します。貴金属の品位を検査した際に打たれたバンカーズマーク(Banker`s mark)とは異なり、法的な通貨として流通させる目的で、政府など発行主体が公式印を加えたものを指します。
具体的には自国通貨の生産・供給が間に合わないため、他国のコインに自国の印を加えることで国内で流通させる例が多く見られます。
日本では幕末にメキシコ8レアル銀貨(=メキシコ銀)に「改三分定」を加刻し、3分通用の銀貨として国内で流通させようとした例が知られています。
グアテマラ 1894年 1ペソ銀貨
1884年銘のペルー1ソル銀貨に1/2レアル銀貨の刻印を表裏に加刻し、グアテマラ国内で1ペソ通用の銀貨として発行。
また、通貨改革によって額面を変更する場合など、古いコインに新しい額面を加える場合もあります。近現代ではインフレーションが進行した際、紙幣や切手に加刷して金額を変更する例が多くみられます。
ブラジル 1835年 40レイス銅貨
1835年9月6日の法令に基づく通貨切り下げ(=1/2のデノミネーション)の一環。1829年に発行された80レイス銅貨に、1835年に「40」印を加刻。
コスタリカ 1923年 1コロン銀貨
1902年発行の50センティモ銀貨に加刻し、二倍の額面に変更
コスタリカ 1923年 50センティモ銀貨
1890年発行の25センタヴォ銀貨に加刻し、二倍の額面に変更
こうした処置は古代ギリシャでもみられました。
紀元前2世紀、地中海東部を版図としたセレウコス朝シリアでは、他地域との交易で得たコインに自国の印を加え、そのまま国内で流通させていたことが分かっています。
パンフィリア シデ 紀元前183年-紀元前175年頃 テトラドラクマ銀貨
アテナ女神像の兜部分に「錨」の加刻印
パンフィリア アスペンドス 紀元前190年-紀元前189年 テトラドラクマ
ゼウス神の右側に「錨」の加刻印
シデとアスペンドスは小アジア南部、パンフィリア地方(*現在のトルコ、アンタルヤ県)の古代都市であり、ヘレニズム時代には経済の中心都市として多くのテトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨を生産していました。
この両都市で発行されたコインは、交易を通じてセレウコス朝シリアの首都アンティオキアへ流入していました。
通常、交易によって得られた域外のコインは退蔵されるか溶解される場合が多いのですが、セレウコス朝は加刻を施して国内で再流通させました。
なお「錨」の刻印はセレウコス朝の象徴であり、セレウコス1世ニカトール王(在位:紀元前312年-紀元前281年)時代のコインにも刻まれています。錨を加刻することでセレウコス朝の権威を付与し、公式に認められている通貨として認識させる目的がありました。
セレウコス朝で発行されたテトラドラクマ銀貨は伝統的にアッティカ基準(*アテネのフクロウコインや、マケドニアのアレキサンダーコイン)を継承していたため、同じ基準で造られているコインは同じ価値で流通させることができました。溶解⇒再計量⇒打刻するよりも、ただ錨の印を打ち付けるだけで発行できる方が経済的と判断されたのでしょう。
しかし再流通させる目的から、錨の加刻印は基のデザインを損ねない位置(アテナ神の兜など)に狙って打たれており、一枚一枚丁寧に作業が行われていたとみられます。こうした作業は首都アンティオキアや、最初に造幣所が設置されたセレウキアなどの造幣所内で行われたと考えられています。
基となったコインの発行年代から、こうした加刻印コインは紀元前2世紀前半に生産されていたと推定されます。
同時期、セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:紀元前223年-紀元前187年)は小アジアへ遠征し、シデを含めた地域を勢力下に置いたことから、この地域よりもたらされた戦利品とする見方があります。
また、ローマとの戦いに敗れ多額の賠償金を支払う必要から、正規の銀貨の製造が間に合わず、緊急処置として他地域から得たコインを利用したという説もあります。
いずれにせよ、古代コインの加刻印はほとんど場合誰によって打たれたものか不明ですが、ある程度まで特定できる例は大変珍しい存在です。
こうした加刻印コインは無傷のものに比べると人気は下がりますが、当時の経済状況や歴史的背景を考える上では貴重な史料となります。
後から付け加えられた刻印の意味を自由に推察するだけでも、より楽しさが増すように感じます。
アケメネス朝ペルシア 紀元前450年-紀元前330年 シグロス銀貨
表裏に打たれた刻印は銀品位の検印とも考えられますが、アケメネス朝の権威が及ぶ範囲外(*おそらくインダス方面)でコインとして流通していた痕跡とも推察できます。
キリキア地方 ナギドゥス 紀元前356年-紀元前350年 スターテル銀貨
「牛」の刻印は当地を支配していたアケメネス朝に関係すると考えられます。ギリシャ様式のコインにペルシア文化の印を打つことで、ゾロアスター教神殿への献納に用いたとする説がありますが、推測の域を出ず謎多き印です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月の台風シーズンを経て、少しずつ涼しくなってきましたね。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものです。
今月8日、イギリスの女王エリザベス2世が崩御されました。このニュースは世界中に影響を与え、日本のメディアでも連日のように取り上げられました。それだけ女王の存在感、影響力が大きかったことが窺えます。
在位期間は今年で70年、96歳であり、イギリスの歴史上最長・最高齢の君主として歴史に名を残します。今年は御在位70周年の「プラチナジュビリー」の式典にもお姿を見せ、崩御される2日前には新首相トラス氏への謁見と任命を行っており、最後まで君主としての役割を果たされました。
改めて女王の長きにわたる治世と生涯に敬意を示し、心より哀悼の意を表します。そして王位を継承されたチャールズ3世の御代が永く栄えあることを祈りたいと思います。
国葬は女王の生前から計画されていた通り恙無く挙行され、棺は父王ジョージ6世や母エリザベス王太后、前年に亡くなった夫のエディンバラ公フィリップ殿下と共に、ウィンザー城内の礼拝堂に安置されました。葬儀から葬列までの一連の儀式はイギリスのみならず世界中に中継され、時代の節目をリアルタイムで目撃することになりました。
女王の葬列はヴィクトリア女王(在位:1838-1901)の国葬以来およそ120年ぶりです。当時も60年以上に及んだヴィクトリア朝時代の終焉を見届けようと、多くのロンドン市民がつめかけて女王を追悼しました。
当時イギリスに留学していた夏目漱石も葬列を見送る群集のひとりとして、この歴史的な催行を目撃・記録しました。背の高いイギリス人に囲まれた夏目漱石は通りを見ることができず、下宿の主人に肩車をしてもらって女王の棺を見ることができたそうです。
1952年の即位から2022年の崩御まで、70年に亘って女王として君臨されたエリザベス2世は、現代を生きる人々にとって馴染み深い存在でした。在位中はイギリスと英連邦諸国で発行された数多くの切手と紙幣、そしてコインにそのお姿が表現されていました。直接会ったことがない、地球の裏側の国の人々にとっても、日常生活の中にある身近な人物です。
世界各国で採用されたエリザベス2世の紙幣肖像
70年に及ぶ治世の間に、コインの肖像は年相応のものに変更されていったことはよく知られています。最初は戴冠式が催行された1953年発行の英国コインに採用された、通常「ヤングヘッド」と呼ばれるタイプです。この頃のイギリスは十二進法の時代であり、まだシリングやフローリン、クラウンといったコインが流通していました。
イギリス 1958年 ソヴリン金貨
25歳で即位したエリザベス2世の若々しい姿を表現した肖像。王冠ではなく「月桂冠」を戴く、古代ローマから続く古典的な表現。当時71歳だったロンドン在住の女性彫刻家メアリー・ギリックが手掛け、6つの候補作品の中から女王自らが選びました。
この肖像はイギリスだけでなく、カナダやオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど英連邦諸国のコインにも採用されました。ただしイギリスやニュージーランドに比べ、オーストラリアやカナダ、南アフリカの造幣局で製造されたコインの肖像は打刻が弱く、不鮮明な肖像になっています。
イギリス 1981年 ソヴリン金貨
1971年に従来の十二進法から、1ポンド=100ペンスの十進法に変更されたのに伴い、シリングやフローリンは廃止され、新しいコインが発行されました。それに合せて女王の肖像も刷新され、ローブを纏いティアラを戴いた肖像に変更されました。この肖像は彫刻家アーノルド・マーチンの作品であり、同時期に発行された普通切手の女王肖像も彼の作品です。
この切手肖像は、切手収集家でもあった女王が特に気に入っていたとされ、現在までイギリスの普通切手に使用され続けています。同じくアーノルド・マーチンが手掛けたコインの肖像も、女王本人は気に入っていたのではないでしょうか。
イギリス 1988年 ソヴリン金貨
1985年から採用された第三の肖像は王冠を戴くタイプであり、彫刻家ラファエル・マクルーフによる作品です。頭像はより大きく、これまでより表情がはっきり分かるものです。女王らしい威厳に満ち、イギリスの君主に相応しい彫刻です。
イギリス 2006年 ソヴリン金貨
1998年からはイアン・ランクブロードリーによる肖像となり、老齢に達した女王の写実的な姿を彫刻しています。同時期のメディア等で目にするエリザベス女王の実年齢に合せた見た目になっており、大衆がイメージする女王の肖像そのままです。
イギリス 2019年 5ポンド銀貨
最後のコイン肖像はデザイナー、ジョディ・クラークの作品であり、2015年のデザインコンペで選ばれました。当時33歳のジョディ・クラークは匿名でコンペに応募し、作品は手彫りではなくコンピューター彫刻によって作成されました。
当時90歳になろうとしていた女王の姿を上品に、気品あふれる君主として巧みに表現した作品です。残念ながら他の肖像と比べると世に出ていた期間は短くなってしまいましたが、長期間在位した歴史的女王の最後の肖像として、後世まで根強い人気が保たれるでしょう。
治世当初はイギリスで発行されたコインの肖像⇒世界の英連邦諸国・植民地のコインに使用されるのが通例でしたが、各国の独立性に伴い、女王の肖像も国によって独自のものが採用されるようになりました。
発行国・地域や年代によって異なる女王の肖像を比べてみるのも興味深い収集方法です。
英領バミューダ 1964年 1クラウン銀貨
王冠を戴く「コロニアルヘッド」タイプは、香港やカリブ海地域など植民地のコインに表現されたタイプです。この伝統はヴィクトリア女王以来、大英帝国のコインに継承されています。
カナダ 2014年 5ドル銀貨
投稿情報: 18:21 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
まだまだ蒸し暑い日が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日が暮れると少し涼しくなったようにも感じますが、やはり日中は暑いですね。まだ夏は続きます。
今回はローマ帝国屈指の暴君として悪名高い「カラカラ」のコインをご紹介します。
ローマ帝国 216年頃 デナリウス銀貨
カラカラは3世紀初頭のローマ帝国に君臨したセウェルス朝の皇帝であり、父は北アフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルス、母はシリア出身のユリア・ドムナです。有名な胸像は日本でも美術室のデッサン見本として置かれており、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。
カラカラ帝胸像
(ナポリ美術館)
188年に生まれたカラカラは当初ルキウス・セプティミウス・バッシアヌスと名付けられ、10歳のときに父親が政敵たちを打ち破って皇帝に即位すると、過去の偉大な皇帝たちにあやかりマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルと改名しました。
現在広く知られている「カラカラ」という呼び名は渾名であり、本人が好んで着用していたフード付きチェニックの名に由来しています。
そのため、当時発行されたコインには「カラカラ」という名は刻まれず、正式名称のアントニヌスが称号銘文として使用されていました。銘文だけでは五賢帝時代のコインと混同してしまいますが、特徴的な肖像によって区別することが可能です。当時発行されていたコインの肖像と上の胸像を見比べると、この個性的で気性の荒そうな外見が見事に表現されていることが判ります。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
カラカラ帝はこの胸像から受ける印象の通り、気性が荒く粗野な人物だったようで、歴史書からは散々な評価がなされています。コインの銘文には「敬虔」を意味する「PIVS (ピウス)」の称号も添えられていますが、その実態は尊い称号には程遠いものでした。
彼には一歳違いの弟ゲタがいましたが、兄弟仲は子供の頃より不仲であり、やがて成長するにつれて帝位継承を巡る確執にまで発展します。両親は兄弟の不仲を長く心配していましたが、周囲の取り巻きたちはそれぞれの側に付いて対立を煽ったため、関係が修復する見込みはありませんでした。
ゲタの肖像が表現されたデナリウス銀貨 (199年-202年)
211年に父帝セプティミウス・セウェルスがカレドニア遠征の最中に没すると、兄弟はさっさと遠征を切り上げてローマに帰還し、共に皇帝として即位しました。かつてマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが兄弟で皇帝に即位したのと同じく、権威を分け合うことでセウェルス朝の安定を図りましたが、両者の対立はすぐに再燃してしまいました。
皇帝に即位したゲタのデナリウス銀貨(210年)
兄カラカラとよく似た印象の肖像。皇帝としての発行貨はわずか一年ほどでした。
カラカラは母親ユリア・ドムナを交えてゲタと会見し、その場で弟を刺殺して葬りました。さらにゲタの支持者や従者、彼に弔意を示したと見做された者まで、数多くの人々が粛清されました。その数はおよそ2万人に及び、中には自らの名の由来となった賢帝マルクス・アウレリウスの娘や、自らの妻プラウティラまで含まれていました。
プラウティラとカラカラの結婚を祝すデナリウス銀貨 (202年)
父セプティミウス・セウェルスによって決められた政略結婚でしたが、カラカラはプラウティラを忌み嫌い、陰謀の嫌疑をかけてカプリ島に追放しました。
そしてゲタの肖像や銘文をあらゆる公共の場から削除したほか、ゲタの姿が刻まれたコインすら回収して溶かしてしまったと云われています。
セプティミウス・セウェルス帝一家の肖像
(ベルリン博物館蔵)
左下の肖像が消されている人物はゲタとみられ、211年の大粛清後に手が加えたとみられています。
血塗られた粛清の嵐の後、単独の皇帝となったカラカラは後世に知られる大浴場(カラカラ浴場)の建設や、帝国内の全自由民にローマ市民権を与える勅令(アントニヌス勅令)を発するなど、絶大な権力を誇示する施策を実施します。
しかしやはりローマは居づらくなったのか、213年にカラカラは東方属州への巡幸へ出発し、以降二度とローマへ戻ることはありませんでした。
カラカラはかつてのアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世, BC336-BC323)を崇拝しており、大王の真似をして東方へ足を延ばすことで現実逃避していたという説もあります。しかしカラカラはアレキサンダー大王と同じく兵士たちと共に行動し、その要望をよく聞きいれたため、結果的に軍団の支持を確固たるものにしてゆきました。
小アジアのペルガモンでは医術の神アスクレピオスの神殿に参詣し、さらに同時期のコインにもアスクレピオス神が表現されていることから、カラカラがこの医神を特に深く崇敬していたことが伺えます。
ローマ帝国 215年 デナリウス銀貨
この点からカラカラは身体に何らかの不調を感じており、そこから精神へ影響し、激しい怒りの感情を抑えられなくなったとみる説もあります。
幼少期のカラカラが熱病に罹った際、父セプティミウス・セウェルスは名医セレヌス・サンモニクスに診せたところ、彼はカラカラの首に呪文が書かれた布を巻き付け、これを治癒したといわれています。この呪文は今日「Abracadabra (アブラカタブラ)」として知られ、サンモニクスはその功績からカラカラとゲタの家庭教師・専属医に取り立てられました。
そのためカラカラ自身も医学に対する関心が高かったと考えられます。
なおサンモニクスはゲタ亡き後の大粛清に巻き込まれたとされ、この点からもカラカラが父の代の忠臣たちを一掃したことが伺えます。
エジプトのアレキサンドリアではアレキサンダー大王の墓を詣でた後、何らかの理由で数千人もの市民を虐殺しています。ローマを離れても医術の神や偉大な大王に詣でても、カラカラの狂気と凶暴性に変化がなかった様子が伺えます。
カラカラによる東方遠征の最大の目的は、父の代から続いていた東方の大国パルティアとの戦争に決着をつけることでした。これはローマのアレキサンダー大王を自認するカラカラにとって、ぜひ自らの手で成し遂げたい偉業でした。
各部隊は対パルティア戦に向けた演習訓練を繰り返し、8個軍団に及ぶ多くの兵力と物資が国境のシリア~メソポタミアへ集められました。
さらにアンティオキアやエデッサ、カルラエなどには兵士に支給するための貨幣を増産するため、新たな造幣所も設けられました。特に215年~217年にかけて多くのテトラドラクマ銀貨が製造され、いまなおシリアやイラクの砂漠地帯でまとまった状態で出土しています。流通痕跡の少ないコインは兵士たちへの給与として造られ、受け取った兵士がその後帰還できず、回収されずに残されたと見做されます。
キュレスティカ地方の都市ベロエア(※現在のシリア北部 アレッポ)で造られたテトラドラクマ銀貨。カラカラ帝の珍しい左向き肖像タイプ。
216年から始まったパルティア侵攻においてカラカラは有利に軍を進め、順調に目的を遂げようとしていた矢先、側近によって暗殺されこの世を去りました。行軍中、用を足していたカラカラは背後から近づいてきた近衛兵に背中を一突きされ、あっけなく治世を終えたのです。
カラカラの名は今日、有名なローマ皇帝の一人として知られていますが、単独の皇帝としての治世は5年ほどであり、そのうちローマに滞在していたのはたった1年でした。暗殺されたときは29歳であり、アレキサンダー大王が亡くなった年齢とほぼ同じでした。
不思議なことにカラカラ以降、パルティアやペルシアなど東方へ親征した皇帝は二度とローマへ帰還することなく、戦地で命を落とす例が続きました。
セプティミウス・セウェルス~アレクサンデル・セウェルスに至るセウェルス朝時代の皇帝たちのコインは比較的多く現存していることから、完集が容易なテーマとして知られています。
特にカラカラのコインは子供時代~単独皇帝時代まで数多くの種類が発行されており、肖像の変化を目で楽しむことが可能です。デナリウス銀貨だけでも豊富な種類があり、財政状況の悪化から銀の純度は50%ほどに下がったものの、その彫刻技術はそれを補って余りあるほどのクオリティです。
また東方属州で造られた属州のコインも、デザイン上興味深いものが多くみられます。
カラカラ 幼少肖像タイプ デナリウス銀貨
父帝セプティミウス・セウェルスによる対パルティア戦役の勝利を記念したタイプ
カラカラ 少年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 青年肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ 皇帝肖像タイプ デナリウス銀貨
カラカラ帝と母親ユリア・ドムナが表現された銅貨
下モエシア属州(*現在のブルガリア)のマルキアノポリスで発行(198年-217年)
カラカラによる軍団への大判振る舞いや、軍事力の肥大化からくる財政支出は、コインの発行量を短期間で増加させました。このことが、現在の我々がカラカラのコインを入手しやすくしている要因でもあります。
215年にカラカラは貨幣の改革を実施し、深刻化する財政状況を改善しようとしました。一枚でデナリウス銀貨二枚の価値に相当すると称された銀貨は、実質的にデナリウス銀貨の1.5倍の重量しかなく、完全な名目貨幣でしたが、その後の軍人皇帝時代にはデナリウス銀貨を駆逐して主要貨幣にとって代わりました。
この銀貨は当時の正式な名称が判明していませんが、現在の貨幣学上ではカラカラの名にちなみ「アントニニアヌス」と呼ばれています。
デナリウスなど他のコインとは異なり、皇帝は月桂冠ではなく放射状の冠を戴いています。この伝統は後の皇帝たちが発行したアントニニアヌス銀貨にも継承され、視覚的にデナリウスとアントニニアヌスを見分ける一助になっています。
若き暴君としてローマ人の夥しい血を流したカラカラですが、短い治世の間に数多くの業績も残し、アレキサンダー大王と同じく様々な方面で語り継がれる皇帝となったのでした。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 11:59 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い陽気が続いていますね。6月後半の猛暑よりはましですが、それでも蒸し暑さは身体に堪えます。
昨今はコロナの感染者数が再び増え始めている様子で、気が休まる暇が全くありません。今回は社会活動を極力止めないそうですが、そうなると必然的に感染は拡大していくので、これまでとは異なる対応が必要です。
コロナと暑さ、両方の対策を心掛けて、自分の身は自分で守る他ないようです。今年の夏も何とか健康で過ごしたいものです。
今回は古代ギリシャで造られた鳩(ハト)のコインをご紹介します。
シキュオーン BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
表面には神話に登場する合成獣キマイラ(キメラ)、裏面には滑空するハトが表現された印象深いデザイン。ギリシャコインの中でもコレクションとして、またジュエリーとしても人気がある一種です。
キマイラはライオンの身体に蛇の尻尾を持ち、肩から山羊の頭が生えた奇妙な姿です。下部には発行都市シキュオーンを示す「ΣI」銘が配されています。
このコインが造られたのはペロポネソス半島北部の都市国家シキュオーン、現在のギリシャ,シキオナにあたる地域です。(*地図の左上)
シキュオーンはコリント湾から3kmほど離れた小高い台地の上に建設され、周辺地域にはオリーヴ畑や果樹園が点在していました。
長らく専制国家体制が続いていましたが、紀元前556年にスパルタが統治者を追放すると民主政に移行し、以降はスパルタや近隣のコリントと同盟関係になりました。
シキュオーンの劇場遺跡
神殿跡
古代ギリシャにおけるシキュオーンは芸術の都であり、数多くの優れた芸術家たちを輩出したことでその名が広く知られていました。シキュオーンの職人が手掛けた陶器や青銅器、木器は遠くエトルリアにまで輸出されたことから、当時より高く評価されていたことが伺えます。また芸術家たちを養成する美術学校も存在し、ギリシャ各地から彫刻家・画家志望の若者たちが集いました。後にアレキサンダー大王のお抱え絵師となるアペレスもシキュオーンで修業した画家の一人でした。
この地で発行されたコインもまた、現在の感性から見ても優れたデザインであることが分かります。
空を飛ぶハトは下から見上げた時の姿そのままであり、極めて写実性の高い表現です。また丸い形状の外枠に合うような構図は収まりがよく、現代の我々が目にしても違和感の無い、デザインとしての完成度も高い意匠です。
発行された年代や型によって細部が異なるのは、当時の彫刻師たちが個性を発揮した、技術の見せ所だったのかもしれません。
BC340-BC335 ドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ(=1/2ドラクマ)銀貨
この姿はシキュオーン(Σικυῶνος)の頭文字である「Σ」を見立てたものと言われ、翼の動きや身体の向きも一致しています。シキュオーンではこのハトが象徴というように、コインには滑空するハトの姿が表現され続けました。
ギリシャ神話におけるハトは美女神アフロディーテの聖鳥であり、また帰巣本能から伝書鳩として飼育されていました。しかし神聖かつ身近な鳥でありながら、シキュオーン以外にハトを大きく取り上げたコインを発行した都市はありませんでした。
当時の人々はハトがデザインされたコインを手にすれば、一目でシキュオーンのコインであることが分かったと思われます。
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC330-BC280 ヘミドラクマ銀貨
BC100-BC60 ヘミドラクマ銀貨
「Σ」とは逆向きに飛ぶハトが表現された珍しいタイプ。嘴でヘビを咥える姿も他には無い表現です。
紀元前3世紀半ば以降、シキュオーンはコリントなどアカイア地方の諸都市から成る「アカイア同盟」に加盟し、統一規格の銀貨の発行・流通に伴って独自のコインは減少し続けました。紀元前1世紀に小さな単位の銀貨が再び発行されましたが、ギリシャを征服したローマの支配が強まるとついに造られなくなり、その後ハトのコインは流通から姿を消していきました。
アカイア同盟規格のヘミドラクマ銀貨 (BC196-BC146)
しかし2000年の時を経た今もなお、シキュオーンで発行されたコインは「芸術の都」に相応しい、優れた美術品として多くの人を魅了しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 14:13 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
関東はすっかり梅雨明けして真夏の陽気です。今年の夏は例年よりも早く到来したようにも感じられますね。
急激な気温の変化に身体はついていかない感覚です。体調にはくれぐれも気をつけて、この夏を乗り越えていきたいものです。
今回はスフィンクスのコインをご紹介します。
スフィンクスと言えばエジプトのギザのピラミッド前に鎮座する巨像が有名ですが、本来スフィンクス(Sphinx, スピンクス)はギリシャ神話に登場する怪獣の名であり、神話の姿とは若干異なるのです。
ギザのスフィンクスは男性像であり、建設年代や本来の呼称は不詳です。後世にエジプトを訪問したギリシャ人が、自分たちの神話に登場する怪獣スフィンクスに似ていることから仮称し、そのまま定着したと云われています。
エジプト 1957年 10ピアストル銀貨
スフィンクスは古代オリエントが起源とされ、エジプトやメソポタミアでも類似の壁画や像が造られました。エジプトでは神殿や聖域の守護像として設置され、東洋の獅子像(狛犬)に似た性質の存在でした。
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは上半身が人間の女性、下半身がライオンであり、背には大きな翼がつけられています。これはキメラやグリフィンなどギリシャ神話に登場する他の合成獣に似通った姿であり、一種の様式が確立していたことが窺えます。また、人間と動物を組み合わせた姿は、ケンタウロスやパーン、人魚などを連想させます。
神話に登場するスフィンクスは幼子を餌にするなど、人間に危害を加える恐ろしい怪獣と見做されていました。
最もよく知られた英雄オイディプスの神話では、スフィンクスはテーバイ近くのピキオン山に棲み、山を越えようとする者になぞなぞを出して、解けない者を食い殺してしまう怪獣とされました。
オイディプスはスフィンクスから問われた「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になり、足の数が多いほど弱いものは何か」という出題に「人間 (*幼児⇒成人⇒杖をつく老人)」と答え、スフィンクスを打ち負かすことに成功したと伝えられます。
こうした印象のためか、古代ギリシャやローマでコインに表現された例は多くありませんでした。
しかし小アジア西部にはスフィンクスを守護獣と見做していた都市もあり、それらの都市ではコインのデザインに取り入れていました。そこに残されている姿は神話に忠実な女性像です。
キジコス 紀元前550年-紀元前450年 スターテル貨
キオス島 紀元前490年-紀元前435年 スターテル銀貨
レスボス島 紀元前412年-紀元前378年頃 1/6スターテル貨
古代ローマ 紀元前46年 デナリウス銀貨
ローマのコインに表現されたスフィンクスも頭部は人間女性ですが、乳房がライオンと同じく腹部に複数あり、より動物に近い姿です。
イベリア カストゥロ 紀元前2世紀初頭 銅貨
ギリシャやローマとも交流があったイベリア(*現在のスペイン)のコインに表現されたスフィンクスは、帽子を被った男性像として表現されています。
翼の形状は麦穂のようになっており、独特な雰囲気を醸し出しています。
現在においてスフィンクスは世界中のコインに表現されていますが、やはりエジプト、ギザのスフィンクス像が用いられる場合が多く、古代ギリシャ・ローマ風の女性スフィンクスが登場する機会はほとんどありません。
エジプト 1986年 5ポンド銀貨
フランス 1998年 10フラン銀貨
「スフィンクス」は猫の品種名としても知られています。見た目や名前から古代エジプトが発祥と誤解されやすいですが、実際にはカナダが原産地です。
この全身無毛の猫は1970年代に繁殖に成功し、新しい品種として認知されるようになりました。この特異な姿が、猫を神聖視した古代エジプトを連想させることや、座る姿勢がスフィンクス像に似ていたことから「スフィンクス」と名付けられたそうです。
バヌアツ 2015年 5バツ
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
4月末になると暖かさが増し、むしろ暑く感じる日も増えてまいりました。初夏の陽気も目の前です。
今年のゴールデンウィーク-大型連休は4月29日(金)の祝日「昭和の日」から始まり、長ければ5月8日(日)までの10日間に及びます。
昨年と一昨年はコロナによる自粛の影響で旅行や外出が控えられましたが、今年は難なく連休を満喫できると良いですね。
皆様にとって充実したゴールデンウィークになることを願っております。
さて、今回は古代エジプト「クレオパトラ」のコインをご紹介します。
とは言っても世界三大美女に数えられるクレオパトラ7世ではなく、彼女より100年以上前の「クレオパトラ1世」に関するコインです。
プトレマイオス朝エジプト 銅貨
(BC163-BC145, アレクサンドリア造幣所製)
クレオパトラ1世は紀元前204年頃に、セレウコス朝シリアの大王アンティオコス3世の娘として生まれ、首都アンティオキアの宮廷で幼少期を過ごしました。
紀元前202年、プトレマイオス朝エジプトで幼いプトレマイオス5世が即位すると、父アンティオコス3世は政変の隙を衝いてエジプト領に侵攻。ユダヤやパレスチナなどを占領して勢力圏を拡大した後、紀元前195年にローマの仲介によって和議が結ばれました。
この和議の一環として、クレオパトラはエジプトのプトレマイオス5世の妃として嫁ぐことが決まり、彼女はアンティオキアからアレクサンドリアの宮廷へ移り住むことになったのです。当初の約束では持参金として占領地の一部が返還されることになっていましたが、あくまで名目上の返還に過ぎず、セレウコス朝は実効支配し続けました。
プトレマイオス朝エジプトの領域
(緑色がセレウコス朝シリアに占領された地域)
また、クレオパトラがプトレマイオス朝に嫁いだことはセレウコス朝との友好関係を象徴するのみならず、婚姻関係を通じてシリアがエジプトに一定の影響力を及ぼすことを意味していました。
この結婚によってエジプト史上では「クレオパトラ1世」と称されることになり、プトレマイオス朝の歴史に登場する女王としては最初のクレオパトラとなったのです。なお、王朝最後の女王となった最も有名なクレオパトラは、正式には「クレオパトラ7世」に数えられています。
クレオパトラ1世が嫁いだプトレマイオス朝は、アレキサンダー大王(マケドニア王 アレクサンドロス3世, 在位:BC336-BC323)の部下 プトレマイオスの系譜を引き継ぐマケドニア系の王朝でしたが、現地エジプトの風習や宗教を尊重し、ギリシャ文化とエジプト文化を融和させた特異な国家を形成していました。
首都アレクサンドリアは地中海世界の経済・学問の拠点となり、ナイル川を中心に肥沃な耕作地にも恵まれ、周辺諸国にも穀物を輸出するほど繁栄していました。
しかしプトレマイオス朝の内部では権力争いが絶えず、また宮廷の浪費や無計画な出費によって財政は悪化の一途を辿っていました。
クレオパトラ1世の夫となったプトレマイオス5世は、外交・軍事・財政面での支援をローマから受け、セレウコス朝の脅威を和らげるべく努めました。
一方で戦争での出費や失った領土からの貢納を補填するため、エジプトの農民たちに重税を課したことから全土で叛乱が勃発。プトレマイオス5世はエジプト人たちの支持を繋ぎとめるため、より一層エジプト宗教への優遇を強めていき、自らを「エピファネス(顕神者)」と称して統治の正統性を示しました。
クレオパトラと結婚する前の紀元前196年、プトレマイオス5世は歴代ファラオたちに倣い古都メンフィスで即位式を催行。エジプトの神々に対する伝統的な儀式を終え、祝儀として神官たちの税を免除する旨を発布しました。
この儀式内容と免税布告が記されたのが、ヒエログリフ解読の糸口となった有名な「ロゼッタ・ストーン」です。
ロゼッタ・ストーン
(大英博物館蔵)
上からヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字による文章
プトレマイオスとクレオパトラの間には二男一女が生まれ、アレクサンドリアの宮廷で育てられました。王子たちの母となったクレオパトラの権威は増し、宮廷での影響力をより一層強めていきました。
ちなみに彼女の娘は「クレオパトラ2世」となり、孫娘は「クレオパトラ3世」としてそれぞれ女王となります。
紀元前180年にプトレマイオス5世が崩御すると、クレオパトラは長男を「プトレマイオス6世」としてファラオに即位させ、自らは摂政として後見役になりました。政治の実権を握ったクレオパトラ1世は事実上の女王となり、エジプトを支配することとなったのです。この期間、実家であるセレウコス朝との平和関係は継続され、領土を巡る緊張関係は緩和されました。
しかしクレオパトラ1世の治世は長くは続かず、4年後の紀元前176年に彼女も崩御。長男プトレマイオス6世は母親を神格化しその敬愛を絶やさなかったため、後に「フィロメトル(母愛者)」の称号で呼ばれることになります。
彼の治世中には複数種類のコインが発行されましたが、その中にクレオパトラ1世を模したものと伝えられるコインが存在します。それが冒頭で紹介した銅貨です。
この肖像は頭部に麦穂を戴いており、豊穣の女神であるイシスを表現したものとされています。エジプトで広く信仰されていたイシス女神は、神格化された王妃や女王と重ねて表現されることも多くありました。ファラオは天空神ホルスの化身とされ、ホルス神の母がイシス女神だったからです。
プトレマイオス6世の時代にも神格化されたクレオパトラ1世をモデルに、イシス女神として表現したと考えられます。かつてアレキサンダー大王がヘラクレスに重ねてコインに表現されたように、ギリシャ・ヘレニズムコインの伝統が引き継がれています。
クレオパトラ1世の彫像や壁画はほとんど残されていないため、彼女の姿を現代に伝える貴重な史料でもあります。
プトレマイオス朝では女性たちの権威が強く、アルシノエやベレニケなどの大型金貨が発行されています。しかしクレオパトラ1世の場合はこの銅貨(*オボル~4オボルと推定されるも正確な額面価値は不祥)しか発行されていないようです。
アルシノエ2世のオクタドラクマ金貨
(BC285-BC246)
プトレマイオス2世&アルシノエ2世/プトレマイオス1世&ベレニケ
(テトラドラクマ金貨,BC272-BC260)
最後の女王であるクレオパトラ7世は、在世中から自らの姿をコインに表現していました。その姿は理想化された女神としてではなく、より写実的な君主として表現されており、クレオパトラ1世の時代から情勢が大きく変化したことが窺えます。絶世の美女と云われたクレオパトラ7世ですが、エジプトで作成された彫像はほとんど現存せず、在世中に作成された肖像として確かであるのはコインのみとされています。
クレオパトラ7世の銅貨
(BC48-BC47)
クレオパトラ7世も、かつてのクレオパオラ1世と同じく金貨は発行されず、主に銀貨と銅貨だけが現存しています。プトレマイオス朝300年の歴史に於いて「クレオパトラ」と名のつく女性は少なくとも7人存在しましたが、その姿が金貨に刻まれることは無かったのです。
クレオパトラの金貨が発行されたのは20世紀になってからのことでした。2000年間培われてきた知名度の高さにより、現在ではモダンコインの中でも特に人気のあるコインになっています。
エジプト 1984年 100ポンド金貨 クレオパトラ7世
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
桜も満開となり、いよいよ春本番。暖かく過ごしやすい日も増えてまいりました。
昨今はコロナだけでなく、ウクライナ情勢が世界中の注目を集めています。日本も他人ごとではなく、物流の変化やエネルギー価格の上昇が物価に影響しています。何より多くの人々が不安定な状況下にあることは心配ですね。
気候だけでなく、人間の社会も早く穏やかになるように願っております。
今回は古代ギリシャ、セレウコス朝シリアの「アンティオコス大王」についてご紹介します。
「大王」としてまず思い浮かぶのはマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)ですが、後世において大王(the Great)と称される偉大な君主は、歴史上でも数少ない稀有な存在です。
古代史上においてアレキサンダーと共に「大王」と称される数少ない人物の一人が、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(在位:BC223-BC187)です。
彼の治世はかつてのアレキサンダー大王の再来を思わせるほど、征服戦争による領土拡大に費やされました。
アンティオコス3世
(パリ, ルーヴル美術館蔵)
セレウコス朝シリアはアレキサンダー大王の部下だったセレウコス1世(在位:BC305-BC281)が建てた王国であり、大王の東方遠征によって征服された小アジア~ペルシア~バクトリアにいたる広大なアジア部を継承していました。
しかし広大な領域をまとめることは容易ではなく、多様な民族をギリシャ系王朝が統治し続けるのは困難でした。さらに隣国プトレマイオス朝エジプトとの長年の対立や、セレウコス朝内部の権力抗争によってますます衰退が進んでいました。
紀元前223年、18歳で王位を継承したアンティオコスはすぐに困難な状況に直面することとなりました。即位後まもなくメディアの総督であるモロンが王を自称し、セレウコス朝からの離反を宣言したのです。モロンはメソポタミア地方の中心都市であるバビロンを拠点とし、ペルシス総督のアレクサンドロスやアトロパテネ王国、アルサケス朝パルティアなど東方勢力を味方につけていました。
対するアンティオコスはアンティオキア(*現在のトルコ,アンタキヤ)宮廷内の権力闘争のためすぐには動きがとれず、軍を率いてティグリス川を渡ったのは紀元前221年のことでした。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※治世最初期の紀元前223年~紀元前210年頃に首都アンティオキアで製造されたものとみられ、即位当初の若々しい青年像(もみあげが特徴的)として表現されています。
裏面は、世界の中心とされた聖石オンファロスに腰掛けるセレウコス朝の守護神アポロ。
若きアンティオコスはティグリス河畔の主要都市セレウキア近くのアポロニアでモロンの軍勢と対決し、重装歩兵や騎兵、ガラティアやギリシャ、クレタ島から招集した弓兵や傭兵、戦象を投入してこれを打ち破りました。勢いを失った反乱軍は敗走し、モロンは自ら命を絶ったとされています。敗北を知ったペルシスのアレクサンドロスもやがて自決し、アトロパテネ王国の老王アルタバザネスは戦わずしてアンティコスに降伏しました。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※裏面の一部が磨耗しているため発行年代は定かではありませんが、アンティオコスのダイアデム(王権を示す帯)のうねりの形状からセレウキアの造幣所で造られたとみられます。
緒戦において大戦果をあげたアンティオコスは宮廷内での権威を高め、本国を留守にしても王位を脅かす者がないよう準備を整えると、本格的にセレウコス朝の失地回復に乗り出します。
プトレマイオス朝エジプトに対する攻撃(第四次シリア戦争)は失敗したものの、小アジアで王を宣していた従兄アカイオスを倒すことには成功し、小アジアでの領土回復を成し遂げました。
後方の備えを万全にした紀元前212年、アルメニアへの侵攻を皮切りに本格的な「東方遠征」を開始しました。大軍を率いたアンティオコスは軍事力で小国を圧倒しながらもその独立は認め、セレウコス朝の宗主権を承認させること(=献納と軍役)で次々と服属させてゆきました。
紀元前211年にアルサケス朝パルティアのティリダテス王が没すると、その年の暮れにはアルサケス朝の夏季の首都エクバタナに進軍します。
エクバタナ占領後、アンティオコスは神殿の柱を覆っていた金箔や銀製の瓦を集めさせ、全て溶かして自らの肖像を刻んだ金貨銀貨に作り変えました。その総額は4000タラント相当(*1タラント=6000ドラクマ)に上るとされ、兵士への給与や恩賞としてこの後の進軍で活用されました。
ティリダテスの後継者となったアルサケス2世はアンティオコスと戦いましたが、最終的には和議を結び、再びセレウコス朝に服属することで決着。
紀元前209年、アンティオコスはさらに東へ軍を進め、バクトリア(*現在のアフガニスタン)へと攻め込みました。
バクトリア王エウテュデモスはかつてこの地を征服したアレキサンダー大王の曾孫とされ、王位を簒奪してバクトリアを統治していました。首都バクトラに篭城したエウテュデモスはアンティオコスの軍勢に対して地の利を活かしたゲリラ戦を展開、苦戦したセレウコス朝軍は2年もこの土地に足止めされることとなります。膠着状態の後に両者は和議を結び、バクトリアはセレウコス朝の宗主権を承認することとなったのです。
勢いに乗るアンティオコスはかつてのアレキサンダー大王と自らを重ねるようになり、彼に倣ってそのままインドへと進軍。ヒンドゥークシュ山脈を越えてマウリヤ朝の領域に侵入し、現地で戦象や食糧、金貨を得ました。これは紀元前206年のこととされ、かつて王朝の始祖セレウコス1世がチャンドラグプタ王と和議を結んでから99年後の出来事でした。
紀元前205年、アンティオコスは首都アンティオキアへと凱旋帰国を果たします。東方の失地をほぼ回復し、インドにまで到達したアンティオコスはアレキサンダー大王の再来と云われるようになり、ここから「メガス(大王)」と称されるようになったのです。
アンティオコス大王治世下のセレウコス朝
※紫色がアンティオコスによって征服された領域
名実共についに大王となり権威の頂点を迎えたアンティオコスですが、これ以降、彼の快進撃は勢いを失い始めます。
翌年の紀元前204年、エジプトでプトレマイオス5世が5歳で王位を継承すると、かつての雪辱を晴らそうと再びエジプト侵攻を計画。紀元前202年には第五次シリア戦争が勃発し、ユダヤを含めたパレスチナの大半を征服することに成功します。しかしこのことは、第二次ポエニ戦争を経て勢力を拡大していたローマと対立するきっかけになりました。
かつてのアレキサンダー帝国の再現を試みるアンティオコスは、今度はギリシャ本土の征服に乗り出します。紀元前196年に小アジアを経てトラキアへと上陸したアンティオコスは、ギリシャまであとわずかの地点まで迫りました。
これに対しギリシャ諸都市はローマに援軍を求めました。マケドニア戦争によってこの地に進出していたローマは、アンティオコス率いるセレウコス朝との対決姿勢を強めていきました。
対するアンティオコスは、かつての第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたカルタゴの名将ハンニバルを軍事顧問として迎え入れ、対ローマ戦争への準備を整えていました。ハンニバルはカルタゴ本国での政争に敗れて亡命し、セレウコス朝の庇護を受けていました。
スキピオ・アフリカヌスとハンニバル・バルカ
紀元前192年、アンティオコスはテッサリア平原に軍を進め、これにローマ軍が応戦したことでローマ・シリア戦争が勃発しました。紀元前191年 テルモピュライの戦いでセレウコス朝軍はローマ軍に破れ、アンティオコスは小アジアへと撤退。ローマ軍はこれを追撃し、小アジアへの上陸を開始してアンティオコスを追い詰めました。セレウコス朝軍は海戦ではローマ軍に善戦しましたが、やがて一進一退を繰り返すようになります。ローマ軍はセレウコス朝のハンニバルに対抗してスキピオ・アフリカヌスを戦線に派遣し、第二次ポエニ戦争の延長戦の様相を呈しました。
なお、ハンニバルの活躍がどれほどセレウコス朝軍の戦いに影響を与えたかは定かではなく、アンティオコスや他の指揮官たちに疎まれていたとも云われています。
セレウコス朝軍は小アジアに上陸したローマ軍の拠点を攻略しようとしますが上手くいかず、何度和議を申し入れても交渉は折り合いをつけることができませんでした。
その後、小アジアを舞台にした両軍の戦いは続き、最終的に紀元前188年のアパメイアの和約によって和議が成立。戦争はローマ軍の勝利に終わり、セレウコス朝はタウロス山脈(*現在のトルコ南部)より西のアジア領土を喪失し軍備も縮小、そして莫大な賠償金を課せられることになったのです。
この敗戦によって小アジアから排除されることになったばかりか、軍事的威信が削がれたことで、服属させていたはずのパルティアやバクトリアではすぐさま離反の動きが相次ぎました。わずか一代で王朝の失地を回復したアンティオコスは、自らその功績を無に帰してしまったのです。
ローマから課せられた賠償金を支払うため、アンティオコスはかつてのように征服地の神殿から富を略奪しますが、これが命取りとなり、紀元前187年に暗殺されて波乱の治世を終えました。アレキサンダー大王の再来と云われた「大王」としては悲しい最期だったと言わざるを得ません。
即位当初は脆弱だったセレウコス朝は、彼の活躍によって再び大帝国の威信を回復しつつありましたが、その治世が終わる頃には以前より脆弱な王国になっていました。この後、各地の離反や権力闘争、内乱が相次ぎ、他のヘレニズム王朝と同じく衰退、滅亡してゆくこととなるのです。
もしアンティオコスがエジプト・ギリシャなど西方に侵攻しなければローマと対決することはなく、領土と威信は維持されていたかもしれません。そうすれば王朝を再興した名君として、アレキサンダーに並ぶ正真正銘の「大王」として歴史に名を遺したことでしょう。皮肉にもこの「大王」の尊称が呪縛となり、運命を狂わせて晩節を汚すことになってしまったのです。
似たような事例は古今東西、いくらでもあるように思われます。いつの時代も「歴史は繰り返す」といわれますが、過去の出来事を知識として知っていても、現状の中に置かれた立場になれば、客観視することは難しいのかもしれません。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 13:39 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
暦の上では春ですが、まだまだ寒さは厳しいですね。冬から春への移り変わりを実感できず、衣替えももう少し先のようです。
今月は英国の女王エリザベス2世が即位されて70周年を迎えられました。
英国史上最長であることはもちろん、現在の世界中の君主でも最長在位期間を誇ります。この記録は当面塗り替えられることはないでしょう。世界の歴史上、在位期間が70年を超えた君主は指折りで数えるほどしかいません。
日本で言う銀婚式や金婚式と同じく、イギリスでは25周年をシルバージュビリー、50周年をゴールデンジュビリーと表現しますが、エリザベス女王はさらに超えて60周年=ダイヤモンドジュビリーを過ぎ、70周年となる今年は「プラチナジュビリー(Platinum Jubilee)」を迎えます。
イギリス 2002年 御在位50周年(ゴールデンジュビリー) 5ポンド銀貨
この記念すべき節目の年、イギリスと英連邦諸国では数々の祝賀行事が予定されています。歴史に残るセレモニーとして、大規模なイベントや記念式典、記念コインや切手の発行が計画されているようです。
70年前の1952年2月6日、父王ジョージ6世は56歳で崩御。長女のエリザベス王女は体調不良の父王に代わってケニアを訪問中でした。父王の崩御により、25歳の王女はアフリカの地で英国女王となったのです。
この経緯はNetflixのドラマ『The Crown』(2016~)でも描かれています。
出発する際は王女だったエリザベスが女王としてイギリスに帰国して以降、現在に至るまで君主としての務めを継続しています。1953年6月2日にウェストミンスター寺院で催行された戴冠式はテレビ中継され、英国中の人々が自宅から新時代の幕開けを見守りました。
イギリス 1953年 女王戴冠記念 5シリング白銅貨
20世紀半ばから2022年に至るまで、イギリスと世界はめまぐるしく変化し続けています。その中で常に女王として君臨するエリザベス2世の姿は、多くの人に変わらない秩序を感じさせ、安心感を与えてきました。イギリスをはじめ世界中で発行されるコインや紙幣にエリザベス女王の肖像が表現されていることは、そこに権威と信用、不動の価値が付与されていることを視覚的に示しています。
オーストラリア 1999年 1ドル銀貨
歴代四種類のコイン肖像。1980年代~1990年代に採用されていた三代目の肖像(*←画面の右端)はラファエル・デイヴィッド・マクルーフ氏による作品であり、威厳と気品にあふれた妙齢のエリザベス2世を表現した、女王らしい肖像として人気があります。またイアン・ランク=ブロードリー氏による四代目の肖像も、老齢に達した女王を写実的に表現した作品として高く評価されています。
伝統的で厳格なイメージとは異なり、女王は自ら自動車を運転したり、競馬に親しむなどプライベートな面も広く知られています。人間的な部分が知られていることも、女王が敬愛を集める大きな要因となっています。
毎日多くの人々と接する女王は英国的なユーモアに富んだ人柄も知られています。
かつてスコットランドのバルモラル城に滞在した際にお忍びで散策していたところ、アメリカ人観光客に地元住民と間違われ「あなたは女王に会ったことはありますか?」と問われると、傍らにいた護衛官を指さし「私はないけど、この人は会ったことがあるわよ」と答えたそうです。
(デイリーメール紙, 女王の元警護官リチャード・グリフィン氏の回想)
1926年生まれの女王は今年4月21日に96歳となります。英国の歴史上、最高齢の君主であるエリザベス2世は、過去のエリザベス1世やヴィクトリア女王と同じく英国史に残る偉大な女王として記録されるでしょう。
日本でも今年の6月には、女王の生涯を追ったドキュメンタリー映画『エリザベス 女王陛下の微笑み』が公開される予定です。
昨今は新型コロナウィルスに感染されるなど健康面での不安もみられますが、それでも宮殿内ではできる限りの公務を継続されているようです。どうか末永くお元気で、変わらぬお姿を拝見したいものです。
そして多くの人々と共に、この歴史的な年をお祝いできれば幸いです。
エリザベス2世
(ナショナルポートレイトギャラリー, 1952)
投稿情報: 18:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が始まって早一ヶ月が経とうとしています。時が過ぎるのは本当に早いものですね。お正月気分もあっという間に消えてしまいました。
昨今はオミクロン株の影響で感染者が増加し、また以前のような自粛傾向になりつつあります。今年は寒さが例年以上に厳しいこともあり、体調管理には一段と気をつけていきましょう。
せめて暖かくなる頃にはピークアウトして、落ち着いてくれていれば良いのですが・・・。
今回は「寅年」に因み、古代ギリシャ・ローマ時代のトラについてご紹介します。
古代ギリシャでは地中海や小アジアを通じてライオンやヒョウの存在が広く知られており、神話やそれに付随した芸術作品にも多く登場します。
しかし黒海よりも北方のシベリアや、ペルシア~インドなどに生息するトラは地理的な遠さもあり、その存在はあまり浸透しませんでした。
したがってトラを表現した古代ギリシャコインはほとんど無く、ライオンの地位には遠く及びませんでした。
カスピトラ
1899年ドイツのベルリン動物園で飼育されていた個体。ヨーロッパに最も近い地域に生息していた種であり、かつては黒海の北岸部=現在のウクライナでもみられました。毛皮などは海路を通じてギリシャにも輸出されていたと考えられ、存在そのものはかなり古くから認知されていたとみられます。
カスピトラはシベリアや東南アジアに生息するトラの亜種とされ、巨体と豊かな体毛が特徴です。ペルシアやインド、中央アジア、トルコの草原や山岳地帯にも分布していましたが、牧畜を守るため、毛皮や骨を採取するために乱獲され続け、数を減らしていきました。20世紀末に中央アジアで目撃されたのを最後に野生種は確認されておらず、既に絶滅したと考えられています。
ライオンに対してトラは東方=アジアを象徴する猛獣とされ、インドへ遠征した酒神ディオニソスの従者としても表現されています。ただしあまり馴染みがないせいか、よく似た色合いをしたヒョウが描かれる例が多くみられます。
不思議なことにコイン上に表現されたディオニソス神の象徴はほぼ「ヒョウ」であり、トラを表現したものは皆無である点は興味深く思われます。
この点は当時のギリシャ世界における毛皮の輸入・流通量がヒョウ>トラだった可能性も考えられます。
リュキアのトロスで発行されたスターテル銀貨(BC450-BC380)
表面はライオンの頭部(毛皮)、裏面はヒョウ。狛犬のように対に表現されています。
セレウコス1世のテトラドラクマ銀貨(BC305-BC295)
セレウコスが被る兜には、ヒョウの毛皮が使用されています。また首周りにもヒョウ柄の毛皮が巻きつけられています。
一方ローマ帝国では、拡大した版図と莫大な富を背景に、帝国の内外から多くの珍獣が生きたまま集められました。闘技場では剣闘士試合の他に、闘獣士(ベスティアリイ,動物相手に戦う専門の剣闘士)による動物狩りや罪人の処刑が行われ、観客の好奇心を満足させるため、猛獣たちが各地より連れてこられました。
虎狩りの様子 (5世紀頃のモザイク画)
猛獣を用いた処刑
ここでは俊敏で凶暴なヒョウが罪人を襲っています。
特に巨体で目立つ模様のトラはライオンに次ぐ人気があり、富豪たちの別荘に飾られたモザイク画にも多く登場しています。剣闘士とトラの闘い、異なる猛獣同士の闘いに当時の人々は熱狂しました。現代のような動物園が無い時代、異国の珍しい動物を生きたまま見られる貴重な機会でした。それにインスピレーションを受けた芸術家たちによって、リアルで動きのある作品が生み出されました。
ローマ帝国 シリア属州で作成されたモザイク画
パルミラ遺跡から出土したモザイク画
獰猛なトラを生け捕りにするすることは至難の業でした。しかし需要が高い分、毛皮よりはるかに高値で取引されることは確実です。輸送にかかるコストを差し引いても余りある利益が得られたことでしょう。
当時、熟練の狩人たちはまず子トラを捕らえて囮としました。母トラは我が子を取り返すため、馬に乗った狩人を必死に追いかけますが、そのまま船着場の船に誘導されてしまい、親子ともども捕らえられてしまうという手法です。そのため闘技場で供されるトラの多くはメスであり、子供のうちに飼いならされたトラは富豪のペットとしても売られました。
(出典:Winniczuk Lidia, Ludzie, zwyczaje i obyczaje starożytnej Grecji i Rzymu, PWN, Warszawa)
ロバを襲うトラのモザイク画
腹部にある乳房からメスであることが分かります。
生きたトラは高価な輸入品だったこともあり、簡単に殺されることは無かったと思われますが、それでも数多くのトラが捕獲され、ローマ人の娯楽のために消費されていたことは間違いないようです。闘技場で殺された後は、毛皮も再利用されたと考えられます。
2000年公開の映画『グラディエーター』でもコロッセオでトラが登場するシーンがあり、実際のローマでも似たような光景が繰り広げられていたことでしょう。
映画『グラディエーター』(2000年,アメリカ)
ローマやその属州で発行されたコインにも、トラが表現されている例はやはりみられず、ディオニソス=バッカスの聖獣としてはヒョウが配されました。
多くのモザイク画にも表現され、その姿形が一般化していたにも関わらず、ついにコイン上にお目見えする機会はありませんでした。
バッカス神とヒョウのデナリウス銀貨(BC42)
ミュシア属州のキジコスで発行された8アッサリア銅貨(2世紀末頃)
ディオニソス神の行列が表現されており、車を二頭の猛獣が牽いています。模様からヒョウと判別されますが、手前はトラかライオンのようにも見えます。
トラキア属州のセルディカで発行された5アッサリア銅貨(3世紀初頭)
ヒョウにまたがるディオニソス神が表現されており、独特なヒョウ柄もしっかり再現されています。表面はゲタ。
トラはコインには表現されませんでしたが、派手な毛皮は豪華な衣装として愛されていました。当時のモザイク画には獰猛なトラの姿が表現されており、力強さと東洋の神秘性を象徴するトラは、古代のギリシャ・ローマ文化でも重要な役割を果たしていました。しかし剣闘士試合が禁止されて以降、珍獣に対する需要は急速に衰えてしまい、生きたトラをヨーロッパまで輸出することはほとんどなくなってしまいました。中世のヨーロッパでは、書物や挿絵の中に描かれる、異国の猛獣の一種として認知されるようになったのです。
一方で中国やインド、東南アジアでは近場に生息する猛獣ということもあり、長く文化的影響を与え続けました。トラが生息していない日本でも多くの故事成語や慣用句に登場し、盛んに屏風絵などに描かれ、また干支の「寅年」でもなじみ深い動物になりました。
日本ではトラの逞しいイメージから、寅年生まれは力強く、生命力にあふれた人と云われているそうです。
寅年である今年が、活力に満ちた良い年になることを祈っております。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
最近のコメント