【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
関東はすっかり梅雨明けして真夏の陽気です。今年の夏は例年よりも早く到来したようにも感じられますね。
急激な気温の変化に身体はついていかない感覚です。体調にはくれぐれも気をつけて、この夏を乗り越えていきたいものです。
今回はスフィンクスのコインをご紹介します。
スフィンクスと言えばエジプトのギザのピラミッド前に鎮座する巨像が有名ですが、本来スフィンクス(Sphinx, スピンクス)はギリシャ神話に登場する怪獣の名であり、神話の姿とは若干異なるのです。
ギザのスフィンクスは男性像であり、建設年代や本来の呼称は不詳です。後世にエジプトを訪問したギリシャ人が、自分たちの神話に登場する怪獣スフィンクスに似ていることから仮称し、そのまま定着したと云われています。
エジプト 1957年 10ピアストル銀貨
スフィンクスは古代オリエントが起源とされ、エジプトやメソポタミアでも類似の壁画や像が造られました。エジプトでは神殿や聖域の守護像として設置され、東洋の獅子像(狛犬)に似た性質の存在でした。
ギリシャ神話に登場するスフィンクスは上半身が人間の女性、下半身がライオンであり、背には大きな翼がつけられています。これはキメラやグリフィンなどギリシャ神話に登場する他の合成獣に似通った姿であり、一種の様式が確立していたことが窺えます。また、人間と動物を組み合わせた姿は、ケンタウロスやパーン、人魚などを連想させます。
神話に登場するスフィンクスは幼子を餌にするなど、人間に危害を加える恐ろしい怪獣と見做されていました。
最もよく知られた英雄オイディプスの神話では、スフィンクスはテーバイ近くのピキオン山に棲み、山を越えようとする者になぞなぞを出して、解けない者を食い殺してしまう怪獣とされました。
オイディプスはスフィンクスから問われた「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足になり、足の数が多いほど弱いものは何か」という出題に「人間 (*幼児⇒成人⇒杖をつく老人)」と答え、スフィンクスを打ち負かすことに成功したと伝えられます。
こうした印象のためか、古代ギリシャやローマでコインに表現された例は多くありませんでした。
しかし小アジア西部にはスフィンクスを守護獣と見做していた都市もあり、それらの都市ではコインのデザインに取り入れていました。そこに残されている姿は神話に忠実な女性像です。
キジコス 紀元前550年-紀元前450年 スターテル貨
キオス島 紀元前490年-紀元前435年 スターテル銀貨
レスボス島 紀元前412年-紀元前378年頃 1/6スターテル貨
古代ローマ 紀元前46年 デナリウス銀貨
ローマのコインに表現されたスフィンクスも頭部は人間女性ですが、乳房がライオンと同じく腹部に複数あり、より動物に近い姿です。
イベリア カストゥロ 紀元前2世紀初頭 銅貨
ギリシャやローマとも交流があったイベリア(*現在のスペイン)のコインに表現されたスフィンクスは、帽子を被った男性像として表現されています。
翼の形状は麦穂のようになっており、独特な雰囲気を醸し出しています。
現在においてスフィンクスは世界中のコインに表現されていますが、やはりエジプト、ギザのスフィンクス像が用いられる場合が多く、古代ギリシャ・ローマ風の女性スフィンクスが登場する機会はほとんどありません。
エジプト 1986年 5ポンド銀貨
フランス 1998年 10フラン銀貨
「スフィンクス」は猫の品種名としても知られています。見た目や名前から古代エジプトが発祥と誤解されやすいですが、実際にはカナダが原産地です。
この全身無毛の猫は1970年代に繁殖に成功し、新しい品種として認知されるようになりました。この特異な姿が、猫を神聖視した古代エジプトを連想させることや、座る姿勢がスフィンクス像に似ていたことから「スフィンクス」と名付けられたそうです。
バヌアツ 2015年 5バツ
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
4月末になると暖かさが増し、むしろ暑く感じる日も増えてまいりました。初夏の陽気も目の前です。
今年のゴールデンウィーク-大型連休は4月29日(金)の祝日「昭和の日」から始まり、長ければ5月8日(日)までの10日間に及びます。
昨年と一昨年はコロナによる自粛の影響で旅行や外出が控えられましたが、今年は難なく連休を満喫できると良いですね。
皆様にとって充実したゴールデンウィークになることを願っております。
さて、今回は古代エジプト「クレオパトラ」のコインをご紹介します。
とは言っても世界三大美女に数えられるクレオパトラ7世ではなく、彼女より100年以上前の「クレオパトラ1世」に関するコインです。
プトレマイオス朝エジプト 銅貨
(BC163-BC145, アレクサンドリア造幣所製)
クレオパトラ1世は紀元前204年頃に、セレウコス朝シリアの大王アンティオコス3世の娘として生まれ、首都アンティオキアの宮廷で幼少期を過ごしました。
紀元前202年、プトレマイオス朝エジプトで幼いプトレマイオス5世が即位すると、父アンティオコス3世は政変の隙を衝いてエジプト領に侵攻。ユダヤやパレスチナなどを占領して勢力圏を拡大した後、紀元前195年にローマの仲介によって和議が結ばれました。
この和議の一環として、クレオパトラはエジプトのプトレマイオス5世の妃として嫁ぐことが決まり、彼女はアンティオキアからアレクサンドリアの宮廷へ移り住むことになったのです。当初の約束では持参金として占領地の一部が返還されることになっていましたが、あくまで名目上の返還に過ぎず、セレウコス朝は実効支配し続けました。
プトレマイオス朝エジプトの領域
(緑色がセレウコス朝シリアに占領された地域)
また、クレオパトラがプトレマイオス朝に嫁いだことはセレウコス朝との友好関係を象徴するのみならず、婚姻関係を通じてシリアがエジプトに一定の影響力を及ぼすことを意味していました。
この結婚によってエジプト史上では「クレオパトラ1世」と称されることになり、プトレマイオス朝の歴史に登場する女王としては最初のクレオパトラとなったのです。なお、王朝最後の女王となった最も有名なクレオパトラは、正式には「クレオパトラ7世」に数えられています。
クレオパトラ1世が嫁いだプトレマイオス朝は、アレキサンダー大王(マケドニア王 アレクサンドロス3世, 在位:BC336-BC323)の部下 プトレマイオスの系譜を引き継ぐマケドニア系の王朝でしたが、現地エジプトの風習や宗教を尊重し、ギリシャ文化とエジプト文化を融和させた特異な国家を形成していました。
首都アレクサンドリアは地中海世界の経済・学問の拠点となり、ナイル川を中心に肥沃な耕作地にも恵まれ、周辺諸国にも穀物を輸出するほど繁栄していました。
しかしプトレマイオス朝の内部では権力争いが絶えず、また宮廷の浪費や無計画な出費によって財政は悪化の一途を辿っていました。
クレオパトラ1世の夫となったプトレマイオス5世は、外交・軍事・財政面での支援をローマから受け、セレウコス朝の脅威を和らげるべく努めました。
一方で戦争での出費や失った領土からの貢納を補填するため、エジプトの農民たちに重税を課したことから全土で叛乱が勃発。プトレマイオス5世はエジプト人たちの支持を繋ぎとめるため、より一層エジプト宗教への優遇を強めていき、自らを「エピファネス(顕神者)」と称して統治の正統性を示しました。
クレオパトラと結婚する前の紀元前196年、プトレマイオス5世は歴代ファラオたちに倣い古都メンフィスで即位式を催行。エジプトの神々に対する伝統的な儀式を終え、祝儀として神官たちの税を免除する旨を発布しました。
この儀式内容と免税布告が記されたのが、ヒエログリフ解読の糸口となった有名な「ロゼッタ・ストーン」です。
ロゼッタ・ストーン
(大英博物館蔵)
上からヒエログリフ(神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字による文章
プトレマイオスとクレオパトラの間には二男一女が生まれ、アレクサンドリアの宮廷で育てられました。王子たちの母となったクレオパトラの権威は増し、宮廷での影響力をより一層強めていきました。
ちなみに彼女の娘は「クレオパトラ2世」となり、孫娘は「クレオパトラ3世」としてそれぞれ女王となります。
紀元前180年にプトレマイオス5世が崩御すると、クレオパトラは長男を「プトレマイオス6世」としてファラオに即位させ、自らは摂政として後見役になりました。政治の実権を握ったクレオパトラ1世は事実上の女王となり、エジプトを支配することとなったのです。この期間、実家であるセレウコス朝との平和関係は継続され、領土を巡る緊張関係は緩和されました。
しかしクレオパトラ1世の治世は長くは続かず、4年後の紀元前176年に彼女も崩御。長男プトレマイオス6世は母親を神格化しその敬愛を絶やさなかったため、後に「フィロメトル(母愛者)」の称号で呼ばれることになります。
彼の治世中には複数種類のコインが発行されましたが、その中にクレオパトラ1世を模したものと伝えられるコインが存在します。それが冒頭で紹介した銅貨です。
この肖像は頭部に麦穂を戴いており、豊穣の女神であるイシスを表現したものとされています。エジプトで広く信仰されていたイシス女神は、神格化された王妃や女王と重ねて表現されることも多くありました。ファラオは天空神ホルスの化身とされ、ホルス神の母がイシス女神だったからです。
プトレマイオス6世の時代にも神格化されたクレオパトラ1世をモデルに、イシス女神として表現したと考えられます。かつてアレキサンダー大王がヘラクレスに重ねてコインに表現されたように、ギリシャ・ヘレニズムコインの伝統が引き継がれています。
クレオパトラ1世の彫像や壁画はほとんど残されていないため、彼女の姿を現代に伝える貴重な史料でもあります。
プトレマイオス朝では女性たちの権威が強く、アルシノエやベレニケなどの大型金貨が発行されています。しかしクレオパトラ1世の場合はこの銅貨(*オボル~4オボルと推定されるも正確な額面価値は不祥)しか発行されていないようです。
アルシノエ2世のオクタドラクマ金貨
(BC285-BC246)
プトレマイオス2世&アルシノエ2世/プトレマイオス1世&ベレニケ
(テトラドラクマ金貨,BC272-BC260)
最後の女王であるクレオパトラ7世は、在世中から自らの姿をコインに表現していました。その姿は理想化された女神としてではなく、より写実的な君主として表現されており、クレオパトラ1世の時代から情勢が大きく変化したことが窺えます。絶世の美女と云われたクレオパトラ7世ですが、エジプトで作成された彫像はほとんど現存せず、在世中に作成された肖像として確かであるのはコインのみとされています。
クレオパトラ7世の銅貨
(BC48-BC47)
クレオパトラ7世も、かつてのクレオパオラ1世と同じく金貨は発行されず、主に銀貨と銅貨だけが現存しています。プトレマイオス朝300年の歴史に於いて「クレオパトラ」と名のつく女性は少なくとも7人存在しましたが、その姿が金貨に刻まれることは無かったのです。
クレオパトラの金貨が発行されたのは20世紀になってからのことでした。2000年間培われてきた知名度の高さにより、現在ではモダンコインの中でも特に人気のあるコインになっています。
エジプト 1984年 100ポンド金貨 クレオパトラ7世
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
桜も満開となり、いよいよ春本番。暖かく過ごしやすい日も増えてまいりました。
昨今はコロナだけでなく、ウクライナ情勢が世界中の注目を集めています。日本も他人ごとではなく、物流の変化やエネルギー価格の上昇が物価に影響しています。何より多くの人々が不安定な状況下にあることは心配ですね。
気候だけでなく、人間の社会も早く穏やかになるように願っております。
今回は古代ギリシャ、セレウコス朝シリアの「アンティオコス大王」についてご紹介します。
「大王」としてまず思い浮かぶのはマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)ですが、後世において大王(the Great)と称される偉大な君主は、歴史上でも数少ない稀有な存在です。
古代史上においてアレキサンダーと共に「大王」と称される数少ない人物の一人が、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世(在位:BC223-BC187)です。
彼の治世はかつてのアレキサンダー大王の再来を思わせるほど、征服戦争による領土拡大に費やされました。
アンティオコス3世
(パリ, ルーヴル美術館蔵)
セレウコス朝シリアはアレキサンダー大王の部下だったセレウコス1世(在位:BC305-BC281)が建てた王国であり、大王の東方遠征によって征服された小アジア~ペルシア~バクトリアにいたる広大なアジア部を継承していました。
しかし広大な領域をまとめることは容易ではなく、多様な民族をギリシャ系王朝が統治し続けるのは困難でした。さらに隣国プトレマイオス朝エジプトとの長年の対立や、セレウコス朝内部の権力抗争によってますます衰退が進んでいました。
紀元前223年、18歳で王位を継承したアンティオコスはすぐに困難な状況に直面することとなりました。即位後まもなくメディアの総督であるモロンが王を自称し、セレウコス朝からの離反を宣言したのです。モロンはメソポタミア地方の中心都市であるバビロンを拠点とし、ペルシス総督のアレクサンドロスやアトロパテネ王国、アルサケス朝パルティアなど東方勢力を味方につけていました。
対するアンティオコスはアンティオキア(*現在のトルコ,アンタキヤ)宮廷内の権力闘争のためすぐには動きがとれず、軍を率いてティグリス川を渡ったのは紀元前221年のことでした。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※治世最初期の紀元前223年~紀元前210年頃に首都アンティオキアで製造されたものとみられ、即位当初の若々しい青年像(もみあげが特徴的)として表現されています。
裏面は、世界の中心とされた聖石オンファロスに腰掛けるセレウコス朝の守護神アポロ。
若きアンティオコスはティグリス河畔の主要都市セレウキア近くのアポロニアでモロンの軍勢と対決し、重装歩兵や騎兵、ガラティアやギリシャ、クレタ島から招集した弓兵や傭兵、戦象を投入してこれを打ち破りました。勢いを失った反乱軍は敗走し、モロンは自ら命を絶ったとされています。敗北を知ったペルシスのアレクサンドロスもやがて自決し、アトロパテネ王国の老王アルタバザネスは戦わずしてアンティコスに降伏しました。
アンティオコス3世のテトラドラクマ銀貨
※裏面の一部が磨耗しているため発行年代は定かではありませんが、アンティオコスのダイアデム(王権を示す帯)のうねりの形状からセレウキアの造幣所で造られたとみられます。
緒戦において大戦果をあげたアンティオコスは宮廷内での権威を高め、本国を留守にしても王位を脅かす者がないよう準備を整えると、本格的にセレウコス朝の失地回復に乗り出します。
プトレマイオス朝エジプトに対する攻撃(第四次シリア戦争)は失敗したものの、小アジアで王を宣していた従兄アカイオスを倒すことには成功し、小アジアでの領土回復を成し遂げました。
後方の備えを万全にした紀元前212年、アルメニアへの侵攻を皮切りに本格的な「東方遠征」を開始しました。大軍を率いたアンティオコスは軍事力で小国を圧倒しながらもその独立は認め、セレウコス朝の宗主権を承認させること(=献納と軍役)で次々と服属させてゆきました。
紀元前211年にアルサケス朝パルティアのティリダテス王が没すると、その年の暮れにはアルサケス朝の夏季の首都エクバタナに進軍します。
エクバタナ占領後、アンティオコスは神殿の柱を覆っていた金箔や銀製の瓦を集めさせ、全て溶かして自らの肖像を刻んだ金貨銀貨に作り変えました。その総額は4000タラント相当(*1タラント=6000ドラクマ)に上るとされ、兵士への給与や恩賞としてこの後の進軍で活用されました。
ティリダテスの後継者となったアルサケス2世はアンティオコスと戦いましたが、最終的には和議を結び、再びセレウコス朝に服属することで決着。
紀元前209年、アンティオコスはさらに東へ軍を進め、バクトリア(*現在のアフガニスタン)へと攻め込みました。
バクトリア王エウテュデモスはかつてこの地を征服したアレキサンダー大王の曾孫とされ、王位を簒奪してバクトリアを統治していました。首都バクトラに篭城したエウテュデモスはアンティオコスの軍勢に対して地の利を活かしたゲリラ戦を展開、苦戦したセレウコス朝軍は2年もこの土地に足止めされることとなります。膠着状態の後に両者は和議を結び、バクトリアはセレウコス朝の宗主権を承認することとなったのです。
勢いに乗るアンティオコスはかつてのアレキサンダー大王と自らを重ねるようになり、彼に倣ってそのままインドへと進軍。ヒンドゥークシュ山脈を越えてマウリヤ朝の領域に侵入し、現地で戦象や食糧、金貨を得ました。これは紀元前206年のこととされ、かつて王朝の始祖セレウコス1世がチャンドラグプタ王と和議を結んでから99年後の出来事でした。
紀元前205年、アンティオコスは首都アンティオキアへと凱旋帰国を果たします。東方の失地をほぼ回復し、インドにまで到達したアンティオコスはアレキサンダー大王の再来と云われるようになり、ここから「メガス(大王)」と称されるようになったのです。
アンティオコス大王治世下のセレウコス朝
※紫色がアンティオコスによって征服された領域
名実共についに大王となり権威の頂点を迎えたアンティオコスですが、これ以降、彼の快進撃は勢いを失い始めます。
翌年の紀元前204年、エジプトでプトレマイオス5世が5歳で王位を継承すると、かつての雪辱を晴らそうと再びエジプト侵攻を計画。紀元前202年には第五次シリア戦争が勃発し、ユダヤを含めたパレスチナの大半を征服することに成功します。しかしこのことは、第二次ポエニ戦争を経て勢力を拡大していたローマと対立するきっかけになりました。
かつてのアレキサンダー帝国の再現を試みるアンティオコスは、今度はギリシャ本土の征服に乗り出します。紀元前196年に小アジアを経てトラキアへと上陸したアンティオコスは、ギリシャまであとわずかの地点まで迫りました。
これに対しギリシャ諸都市はローマに援軍を求めました。マケドニア戦争によってこの地に進出していたローマは、アンティオコス率いるセレウコス朝との対決姿勢を強めていきました。
対するアンティオコスは、かつての第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めたカルタゴの名将ハンニバルを軍事顧問として迎え入れ、対ローマ戦争への準備を整えていました。ハンニバルはカルタゴ本国での政争に敗れて亡命し、セレウコス朝の庇護を受けていました。
スキピオ・アフリカヌスとハンニバル・バルカ
紀元前192年、アンティオコスはテッサリア平原に軍を進め、これにローマ軍が応戦したことでローマ・シリア戦争が勃発しました。紀元前191年 テルモピュライの戦いでセレウコス朝軍はローマ軍に破れ、アンティオコスは小アジアへと撤退。ローマ軍はこれを追撃し、小アジアへの上陸を開始してアンティオコスを追い詰めました。セレウコス朝軍は海戦ではローマ軍に善戦しましたが、やがて一進一退を繰り返すようになります。ローマ軍はセレウコス朝のハンニバルに対抗してスキピオ・アフリカヌスを戦線に派遣し、第二次ポエニ戦争の延長戦の様相を呈しました。
なお、ハンニバルの活躍がどれほどセレウコス朝軍の戦いに影響を与えたかは定かではなく、アンティオコスや他の指揮官たちに疎まれていたとも云われています。
セレウコス朝軍は小アジアに上陸したローマ軍の拠点を攻略しようとしますが上手くいかず、何度和議を申し入れても交渉は折り合いをつけることができませんでした。
その後、小アジアを舞台にした両軍の戦いは続き、最終的に紀元前188年のアパメイアの和約によって和議が成立。戦争はローマ軍の勝利に終わり、セレウコス朝はタウロス山脈(*現在のトルコ南部)より西のアジア領土を喪失し軍備も縮小、そして莫大な賠償金を課せられることになったのです。
この敗戦によって小アジアから排除されることになったばかりか、軍事的威信が削がれたことで、服属させていたはずのパルティアやバクトリアではすぐさま離反の動きが相次ぎました。わずか一代で王朝の失地を回復したアンティオコスは、自らその功績を無に帰してしまったのです。
ローマから課せられた賠償金を支払うため、アンティオコスはかつてのように征服地の神殿から富を略奪しますが、これが命取りとなり、紀元前187年に暗殺されて波乱の治世を終えました。アレキサンダー大王の再来と云われた「大王」としては悲しい最期だったと言わざるを得ません。
即位当初は脆弱だったセレウコス朝は、彼の活躍によって再び大帝国の威信を回復しつつありましたが、その治世が終わる頃には以前より脆弱な王国になっていました。この後、各地の離反や権力闘争、内乱が相次ぎ、他のヘレニズム王朝と同じく衰退、滅亡してゆくこととなるのです。
もしアンティオコスがエジプト・ギリシャなど西方に侵攻しなければローマと対決することはなく、領土と威信は維持されていたかもしれません。そうすれば王朝を再興した名君として、アレキサンダーに並ぶ正真正銘の「大王」として歴史に名を遺したことでしょう。皮肉にもこの「大王」の尊称が呪縛となり、運命を狂わせて晩節を汚すことになってしまったのです。
似たような事例は古今東西、いくらでもあるように思われます。いつの時代も「歴史は繰り返す」といわれますが、過去の出来事を知識として知っていても、現状の中に置かれた立場になれば、客観視することは難しいのかもしれません。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 13:39 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
暦の上では春ですが、まだまだ寒さは厳しいですね。冬から春への移り変わりを実感できず、衣替えももう少し先のようです。
今月は英国の女王エリザベス2世が即位されて70周年を迎えられました。
英国史上最長であることはもちろん、現在の世界中の君主でも最長在位期間を誇ります。この記録は当面塗り替えられることはないでしょう。世界の歴史上、在位期間が70年を超えた君主は指折りで数えるほどしかいません。
日本で言う銀婚式や金婚式と同じく、イギリスでは25周年をシルバージュビリー、50周年をゴールデンジュビリーと表現しますが、エリザベス女王はさらに超えて60周年=ダイヤモンドジュビリーを過ぎ、70周年となる今年は「プラチナジュビリー(Platinum Jubilee)」を迎えます。
イギリス 2002年 御在位50周年(ゴールデンジュビリー) 5ポンド銀貨
この記念すべき節目の年、イギリスと英連邦諸国では数々の祝賀行事が予定されています。歴史に残るセレモニーとして、大規模なイベントや記念式典、記念コインや切手の発行が計画されているようです。
70年前の1952年2月6日、父王ジョージ6世は56歳で崩御。長女のエリザベス王女は体調不良の父王に代わってケニアを訪問中でした。父王の崩御により、25歳の王女はアフリカの地で英国女王となったのです。
この経緯はNetflixのドラマ『The Crown』(2016~)でも描かれています。
出発する際は王女だったエリザベスが女王としてイギリスに帰国して以降、現在に至るまで君主としての務めを継続しています。1953年6月2日にウェストミンスター寺院で催行された戴冠式はテレビ中継され、英国中の人々が自宅から新時代の幕開けを見守りました。
イギリス 1953年 女王戴冠記念 5シリング白銅貨
20世紀半ばから2022年に至るまで、イギリスと世界はめまぐるしく変化し続けています。その中で常に女王として君臨するエリザベス2世の姿は、多くの人に変わらない秩序を感じさせ、安心感を与えてきました。イギリスをはじめ世界中で発行されるコインや紙幣にエリザベス女王の肖像が表現されていることは、そこに権威と信用、不動の価値が付与されていることを視覚的に示しています。
オーストラリア 1999年 1ドル銀貨
歴代四種類のコイン肖像。1980年代~1990年代に採用されていた三代目の肖像(*←画面の右端)はラファエル・デイヴィッド・マクルーフ氏による作品であり、威厳と気品にあふれた妙齢のエリザベス2世を表現した、女王らしい肖像として人気があります。またイアン・ランク=ブロードリー氏による四代目の肖像も、老齢に達した女王を写実的に表現した作品として高く評価されています。
伝統的で厳格なイメージとは異なり、女王は自ら自動車を運転したり、競馬に親しむなどプライベートな面も広く知られています。人間的な部分が知られていることも、女王が敬愛を集める大きな要因となっています。
毎日多くの人々と接する女王は英国的なユーモアに富んだ人柄も知られています。
かつてスコットランドのバルモラル城に滞在した際にお忍びで散策していたところ、アメリカ人観光客に地元住民と間違われ「あなたは女王に会ったことはありますか?」と問われると、傍らにいた護衛官を指さし「私はないけど、この人は会ったことがあるわよ」と答えたそうです。
(デイリーメール紙, 女王の元警護官リチャード・グリフィン氏の回想)
1926年生まれの女王は今年4月21日に96歳となります。英国の歴史上、最高齢の君主であるエリザベス2世は、過去のエリザベス1世やヴィクトリア女王と同じく英国史に残る偉大な女王として記録されるでしょう。
日本でも今年の6月には、女王の生涯を追ったドキュメンタリー映画『エリザベス 女王陛下の微笑み』が公開される予定です。
昨今は新型コロナウィルスに感染されるなど健康面での不安もみられますが、それでも宮殿内ではできる限りの公務を継続されているようです。どうか末永くお元気で、変わらぬお姿を拝見したいものです。
そして多くの人々と共に、この歴史的な年をお祝いできれば幸いです。
エリザベス2世
(ナショナルポートレイトギャラリー, 1952)
投稿情報: 18:27 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が始まって早一ヶ月が経とうとしています。時が過ぎるのは本当に早いものですね。お正月気分もあっという間に消えてしまいました。
昨今はオミクロン株の影響で感染者が増加し、また以前のような自粛傾向になりつつあります。今年は寒さが例年以上に厳しいこともあり、体調管理には一段と気をつけていきましょう。
せめて暖かくなる頃にはピークアウトして、落ち着いてくれていれば良いのですが・・・。
今回は「寅年」に因み、古代ギリシャ・ローマ時代のトラについてご紹介します。
古代ギリシャでは地中海や小アジアを通じてライオンやヒョウの存在が広く知られており、神話やそれに付随した芸術作品にも多く登場します。
しかし黒海よりも北方のシベリアや、ペルシア~インドなどに生息するトラは地理的な遠さもあり、その存在はあまり浸透しませんでした。
したがってトラを表現した古代ギリシャコインはほとんど無く、ライオンの地位には遠く及びませんでした。
カスピトラ
1899年ドイツのベルリン動物園で飼育されていた個体。ヨーロッパに最も近い地域に生息していた種であり、かつては黒海の北岸部=現在のウクライナでもみられました。毛皮などは海路を通じてギリシャにも輸出されていたと考えられ、存在そのものはかなり古くから認知されていたとみられます。
カスピトラはシベリアや東南アジアに生息するトラの亜種とされ、巨体と豊かな体毛が特徴です。ペルシアやインド、中央アジア、トルコの草原や山岳地帯にも分布していましたが、牧畜を守るため、毛皮や骨を採取するために乱獲され続け、数を減らしていきました。20世紀末に中央アジアで目撃されたのを最後に野生種は確認されておらず、既に絶滅したと考えられています。
ライオンに対してトラは東方=アジアを象徴する猛獣とされ、インドへ遠征した酒神ディオニソスの従者としても表現されています。ただしあまり馴染みがないせいか、よく似た色合いをしたヒョウが描かれる例が多くみられます。
不思議なことにコイン上に表現されたディオニソス神の象徴はほぼ「ヒョウ」であり、トラを表現したものは皆無である点は興味深く思われます。
この点は当時のギリシャ世界における毛皮の輸入・流通量がヒョウ>トラだった可能性も考えられます。
リュキアのトロスで発行されたスターテル銀貨(BC450-BC380)
表面はライオンの頭部(毛皮)、裏面はヒョウ。狛犬のように対に表現されています。
セレウコス1世のテトラドラクマ銀貨(BC305-BC295)
セレウコスが被る兜には、ヒョウの毛皮が使用されています。また首周りにもヒョウ柄の毛皮が巻きつけられています。
一方ローマ帝国では、拡大した版図と莫大な富を背景に、帝国の内外から多くの珍獣が生きたまま集められました。闘技場では剣闘士試合の他に、闘獣士(ベスティアリイ,動物相手に戦う専門の剣闘士)による動物狩りや罪人の処刑が行われ、観客の好奇心を満足させるため、猛獣たちが各地より連れてこられました。
虎狩りの様子 (5世紀頃のモザイク画)
猛獣を用いた処刑
ここでは俊敏で凶暴なヒョウが罪人を襲っています。
特に巨体で目立つ模様のトラはライオンに次ぐ人気があり、富豪たちの別荘に飾られたモザイク画にも多く登場しています。剣闘士とトラの闘い、異なる猛獣同士の闘いに当時の人々は熱狂しました。現代のような動物園が無い時代、異国の珍しい動物を生きたまま見られる貴重な機会でした。それにインスピレーションを受けた芸術家たちによって、リアルで動きのある作品が生み出されました。
ローマ帝国 シリア属州で作成されたモザイク画
パルミラ遺跡から出土したモザイク画
獰猛なトラを生け捕りにするすることは至難の業でした。しかし需要が高い分、毛皮よりはるかに高値で取引されることは確実です。輸送にかかるコストを差し引いても余りある利益が得られたことでしょう。
当時、熟練の狩人たちはまず子トラを捕らえて囮としました。母トラは我が子を取り返すため、馬に乗った狩人を必死に追いかけますが、そのまま船着場の船に誘導されてしまい、親子ともども捕らえられてしまうという手法です。そのため闘技場で供されるトラの多くはメスであり、子供のうちに飼いならされたトラは富豪のペットとしても売られました。
(出典:Winniczuk Lidia, Ludzie, zwyczaje i obyczaje starożytnej Grecji i Rzymu, PWN, Warszawa)
ロバを襲うトラのモザイク画
腹部にある乳房からメスであることが分かります。
生きたトラは高価な輸入品だったこともあり、簡単に殺されることは無かったと思われますが、それでも数多くのトラが捕獲され、ローマ人の娯楽のために消費されていたことは間違いないようです。闘技場で殺された後は、毛皮も再利用されたと考えられます。
2000年公開の映画『グラディエーター』でもコロッセオでトラが登場するシーンがあり、実際のローマでも似たような光景が繰り広げられていたことでしょう。
映画『グラディエーター』(2000年,アメリカ)
ローマやその属州で発行されたコインにも、トラが表現されている例はやはりみられず、ディオニソス=バッカスの聖獣としてはヒョウが配されました。
多くのモザイク画にも表現され、その姿形が一般化していたにも関わらず、ついにコイン上にお目見えする機会はありませんでした。
バッカス神とヒョウのデナリウス銀貨(BC42)
ミュシア属州のキジコスで発行された8アッサリア銅貨(2世紀末頃)
ディオニソス神の行列が表現されており、車を二頭の猛獣が牽いています。模様からヒョウと判別されますが、手前はトラかライオンのようにも見えます。
トラキア属州のセルディカで発行された5アッサリア銅貨(3世紀初頭)
ヒョウにまたがるディオニソス神が表現されており、独特なヒョウ柄もしっかり再現されています。表面はゲタ。
トラはコインには表現されませんでしたが、派手な毛皮は豪華な衣装として愛されていました。当時のモザイク画には獰猛なトラの姿が表現されており、力強さと東洋の神秘性を象徴するトラは、古代のギリシャ・ローマ文化でも重要な役割を果たしていました。しかし剣闘士試合が禁止されて以降、珍獣に対する需要は急速に衰えてしまい、生きたトラをヨーロッパまで輸出することはほとんどなくなってしまいました。中世のヨーロッパでは、書物や挿絵の中に描かれる、異国の猛獣の一種として認知されるようになったのです。
一方で中国やインド、東南アジアでは近場に生息する猛獣ということもあり、長く文化的影響を与え続けました。トラが生息していない日本でも多くの故事成語や慣用句に登場し、盛んに屏風絵などに描かれ、また干支の「寅年」でもなじみ深い動物になりました。
日本ではトラの逞しいイメージから、寅年生まれは力強く、生命力にあふれた人と云われているそうです。
寅年である今年が、活力に満ちた良い年になることを祈っております。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
長かった今年も残すところあと一週間。今年も一年間、本当にありがとうございました。
2021年は東京オリンピック・パラリンピックをはじめ様々なことがありましたが、常にコロナの心配はつきまとっていました。「毎年恒例」を予定通り毎年実施できるということが、どれだけありがたいことなのかを実感させられました。
どうか来年は健康の心配のない、平穏で健やかな一年になることを願っております。
なお、年末年始のワールドコインギャラリーは12月29日(水)~1月5日(水)の一週間をお休みとさせていただきます。
来年も皆様にお会いできるのを心より楽しみしております。2022年/令和四年も何卒よろしくお願い申し上げます。
本日はクリスマスイブですので、新約聖書に登場する「ピラト総督」にまつわるコインをご紹介します。
イエス・キリストは西暦30年頃(*西暦33年頃とする説もあり)、イェルサレムで十字架に掛けられ殉教したと伝えられています。当時のイェルサレムはローマ帝国の支配下に置かれ、現地のユダヤ人たちはローマ本国から派遣された総督によって統治されていました。しかし一神教を奉ずるユダヤの戒律はそのまま残され、宗教指導者(祭司長)の権威を認めることで彼らの忠誠を得ていました。
1世紀頃のユダヤ属州
当時のユダヤの周辺はサマリアやガリラヤなどの地域があり、各地域を統治する王族や宗教指導者が存在しました。ローマは彼らに特権を与え、子弟をローマに留学させるなどして懐柔し、間接的な統治体制に組み込んでいました。
その時代を扱った映画に1959年のハリウッド大作『ベン・ハー』があります。60年以上前の映画ですが、今も色褪せることの無い圧巻の映像美が繰り広げられています。この時代のユダヤ属州、ローマ帝国を扱った作品としてオススメのエンターテイメント作品です。
この映画にはローマから派遣された総督ポンティウス・ピラトゥスが登場し、ストーリー上でも重要な役割を演じています。日本では「ピラト」の名で知られるピラトゥスはローマ皇帝ティベリウスによってユダヤ総督に任命され、西暦26年から西暦36年までの10年間に亘ってイェルサレムとユダヤ属州を統治しました。
同時代を生きたフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』や、新約聖書の『ルカによる福音書』では、頑迷で融通が利かない性格ゆえユダヤ人たちと対立し、ピラトゥスを解任するようローマ皇帝に陳情が送られたとまで記されています。
ユダヤ教の指導者たちは自分たちの脅威になるイエスを告発し、ピラトゥスに処刑の判断を下すよう迫ります。ピラトゥスはイエスに直接尋問を行いますが、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」(ルカによる福音書)と言って判断を先延ばしします。しかしユダヤ人たちの圧力に押され、不本意ながら最終的には処刑を認めたとされています。
(ムンカーチ・ミハーイ, 1881)
ピラトとイエス
(イグナツォ・ジャコメッティ, 1852)
新約聖書においてイエスが拷問され、茨の冠を被せられた場面。自ら処刑の判断を下すことができなかったピラトゥスは、群集の前に鞭打たれたイエスを引き出してその反応を確かめました。
ピラトゥスはユダヤ教の過越しの祭り(ペサハ)に恩赦を行うと宣言し、イエスと暴漢のバラバ、どちらを赦すかを民衆に問いかけました。群衆はイエスを侮辱し、バラバを赦せ、イエスを処刑しろと叫ぶ中、ピラトゥスはイエスを指して「Ecce homo (*ラテン語で"見よ、この人を"の意)」と問いかけたとされています。最終的な判断をユダヤの民衆に委ねたことで、ピラト=悪役としてのイメージが和らぐ結果となりました。
新約聖書に記されているピラトゥスの複雑な態度は、後世の作家のインスピレーションを掻き立て、様々な派生物語が書かれました。生没年が不詳なことも手伝い、その最期をドラマチックにする例が多いようです。(熱心なキリスト教徒に改心する、皇帝に追放される、自害する等・・・)
軍事力を背景にユダヤを支配した多神教徒であり、イエスの処刑を直接命じた人物であるにも関わらず、後世のキリスト教ではあまり悪役として描かれていない点が特徴的です。
ただしこうした描写の多くは後世に書かれたものが大半であり、どこまでが史実であるかは議論の余地があります。
石碑をはじめローマ側の記録から明らかなのは、ポントゥス・ピラトゥスという騎士階級のローマ人が西暦26年からの10年間、ティベリウス帝の命によりイェルサレムとユダヤ属州を統治したという点のみです。
ピラトゥスの在任期間中、ユダヤ属州ではいくつかのプルタ銅貨が発行されました。それらはイェルサレムの造幣所で製造され、現地のユダヤ人社会で広く一般的に流通したコインでした。
プルタ(*ギリシャ語の聖書では「レプタ」と表記)は大変小さな銅貨ですが、刻まれている銘文や年代は当時を知るうえで貴重な情報源となります。当時のプルタ銅貨にはヘブライ文字は刻まれず、東地中海の共通語であったギリシャ文字が刻まれています。
表面は聖水を汲み取るための柄杓。周囲部には「ΤΙΒΕΡΙΟΥ ΚΑΙCΑΡΟC LIS (ティベリウス・カエサル 治世十六年)」銘。西暦29年~西暦30年に造られたことを示しています。
裏面には三本の麦穂が表現され、周囲部にはティベリウス帝の母親リウィアを示す「ΙΟΥΛΙΑ ΚΑΙCΑΡΟC (ユリア皇太后)」銘があります。
表面にはローマの祭儀でも用いられた曲がり杖(卜占官の象徴)が表現され、周囲部には「TIBEPIOY KAICAPOC (ティベリウス・カエサル)」銘が配されています。
裏面にはティベリウス帝の治世18年目(=AD31-AD32)を示す「L HI」銘があります。イエスが十字架に掛けられたとされる時期にはリウィア皇太后も没したため、ティベリウス帝のみを示す銘文へと変化しています。
これらのプルタ銅貨にはピラトゥス自身の名は刻まれていないものの、ティベリウス帝の名とその治世年によって、それがイェルサレムを監督していたピラトゥスの下で発行されたことが分かります。古代コインの大家デイヴィッド・R・シアー氏が、ローマ帝国属州コインをまとめた著書『Greek Imperial Coins and their values』(1982)においても、上記二種類のプルタ銅貨は「Pontius Pilatus」のカテゴリーに分類されています。
芸術性や技術性、金属的価値は乏しい粗末なコインですが、新約聖書に記された時代を文字通り手にできるコインとして欧米では人気があります。もしかしたらイエス・キリストやその弟子たちが手にしたかもしれないコイン、十字架を背負ったイエスが往くイェルサレムの街道沿いの露店で支払われたコインかもしれないからです。
プルタ銅貨は民衆用の貨幣であることから大量に発行されましたが、そのために安価=保存状態には難があるのが常です。銘文・発行年が明確に残されているものは稀であり、オークションでも高値で取引されています。運よく乾燥地帯の砂によって守られた奇跡的な一枚があれば、ぜひ入手するべき一枚といえるでしょう。
今年も一年間このブログをご覧いただきありがとうございました。来年もコインに関する情報を発信できるよう努めたいと思います。
皆様にとって楽しいクリスマス~年の瀬でありますように・・・。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:28 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月も終わりに近づき、すっかり肌寒くなってまいりました。日が暮れるのもどんどん早くなっていますね。今年は秋がなく、いきなり冬に移り変わったようです。
世間では新型コロナウィルスの感染者が減ったことで、さまざまな経済活動も再始動する流れになっているようです。これから寒くなっていく分、風邪やインフルエンザにも気をつけなければならず、油断は禁物です。すべてが元通りとはいきませんが、せめて今年は楽しい年末を過ごしたいものです。
当店、ワールドコインギャラリーは来週の水曜日(11月3日)「文化の日」は祝日営業として、11時~19時まで通常営業をいたします。
感染症対策も採りながら営業を行いますので、文化の日はぜひともご来店ください。冬に近づきつつ気温ですが、コインで「文化の秋」を愉しみましょう。
【古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店】
11月といえば、新しい500円硬貨がお目見えする予定ですね。11月1日(月)より日本銀行から金融機関に払い出しが始まる為、市中に出回るのは少し遅れてからになると思いますが、今から現物を手にするのが楽しみです。
新500円硬貨 11月1日から発行へ 21年ぶり | NHKニュース
中央部は白銅、周囲はニッケル黄銅になっており、さらに内部には銅がはさまれているバイカラー・クラッド方式です。海外では一般的なバイメタルコイン(二種類の金属を組み合わせた硬貨)ですが、日本では記念の500円硬貨でしか使用されていませんでした。ようやく一般流通貨幣にも活用される為、日本貨幣にとっては画期的な出来事になります。
バイメタルコインでよく知られるのがユーロコインです。ユーロ圏では1ユーロと2ユーロがバイメタルとなっており、材質や重量、大きさは統一されているものの、デザインは発行国によって異なります。アメリカの50州25セントや日本の47都道府県500円のように、額面を統一して発行国ごとに収集するコレクターも多いそうです。
中でも人気のデザインのひとつは、バルト三国のラトビアで発行されているユーロコインです。
1991年にソ連から独立したラトビアは2004年にEU(ヨーロッパ連合)に加盟し、10年後の2014年からユーロを導入しました。その際に発行された1ユーロと2ユーロのデザインには、ラトビアを代表するコインのデザインがそのまま採用されました。
2ユーロコインは中央がニッケル黄銅、周囲が白銅になっており、1ユーロはその逆になっています。
このコインはラトビア人にとって非常に思い入れのあるコインです。
第一次世界大戦が終結した1918年、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国はロシアから独立。第二次世界大戦までのおよそ20年間、小国ラトビアは独立国家として存在していました。
独立後は各国で独自通貨が発行され、ラトビアでは1922年にルーブルに代わって新通貨「ラッツ(*複数形ではラティ)」が発行されました。
1920年代になると、ラトビアは諸外国に劣らない大型銀貨の発行を計画します。クラウンサイズで発行されることが決まった5ラティ銀貨は、独立国家ラトビアの顔となるコインとして品格のある仕上がりが求められました。製造はイギリス、ロンドンのロイヤルミント(英国王立造幣局)が請け負うこととなり、デザインはラトビア独自のものとする方針が定まりました。
共和国だったラトビアは実在の人物ではなく、フランスのマリアンヌやアメリカのリバティのような、不特定の女性像を表現する方針となり、ラトビアを体現するような若い女性像が求められました。デザインはロシア帝国印刷局で20年間勤務していたラトビア人デザイナー リハルツ・ザリヴシュ(1869-1939)が担当することとなり、モデルとなる女性が選定されました。
リハルツ・ザリヴシュの記念切手(2019年)
ラトビアの象徴として選ばれたのは、首都リガの国家証券印刷局に勤めていたヅェルマ・ブラーレイ(1900-1977)でした。リハルツ・ザリヴシュは外部にモデルを求めず、手近な身内の職員からモデルを選出したのでした。残されている彼女のスケッチから、ザリヴシュがこの仕事に情熱をもって取り組んでいたことが読み取れます。
ヅェルマ・ブラーレイ
1929年2月、ザリヴシュが手掛けた新銀貨の発行が開始されました。実際に多くの人々の手に渡ると、デザインの良さと風格からその評判は上々であり、すぐさまラトビアを代表するコインの地位を得ました。発行されてすぐに「ミルダ(*ラトビア人に多い女性名)」の愛称で呼ばれ、人々から親しまれました。流通コインであるにも関わらず多くのラトビア人は記念品のように大切にし、結婚式や洗礼式でも配られました。
「ミルダ」5ラティ銀貨
Silver83.5%、25g、37mmのクラウンサイズ銀貨。1929年、1931年、1932年の各年銘で合計360万枚が製造されました。裏面の国章もザリヴシュが手掛けています。
エッジ(側縁)にはラトビア語で「DIEVS SVĒTĪ LATVIJU (神はラトビアを祝福する)」銘が刻まれており、現在の2ユーロコインにも再現されています。
民族衣装をまとった乙女が微笑みながら遠くを見つめる姿は、独立して間もない小国ラトビアを体現する理想的な姿でした。このコインを手掛けたザリヴシュの名声も高まり、現在でもラトビアを代表する歴史的文化人のひとりに数えられています。
しかしラトビアの独立は突如終わりを迎えます。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、中立を宣言していたラトビアは1940年にソ連軍の進駐を受け、そのままソ連に併合されることとなったのです。ラトビア共和国は事実上消滅し、ラッツに代わってソ連ルーブルが流通するようになりましたが、しばらくはラッツも並行して使用されていました。戦争の危機が近づいた時期から、ラトビア国内では銀貨が退蔵されるようになり、結果的に多くの「ミルダ」5ラティ銀貨が残されることになりました。
しかし1941年3月25日、ソ連はラッツの完全無効化を突如宣言し、一夜にして通貨ラッツは無価値となりました。紙幣は通用価値を失い、銀貨は金属的価値だけ保証されたものの、額面価値は完全に消滅しました。推定で5000万ラティがルーブルに交換されることなく無価値となり、多くのラトビア市民が損害を被りました。
それでも「ミルダ」5ラティ銀貨はラトビア人にとって思い入れの深いコインであり、多くの市民が手放さず少なくとも一枚は家に保管していました。いつしかこの銀貨は愛国者を象徴するものとなり、シベリアへ送還される人々や西側への亡命者などが手にしていました。ブローチやペンダントしても加工され、幸運のお守りとして子から孫へと引き継がれていきました。
一方で、皮肉にもソ連側もこの見事な銀貨に利用価値を見出していました。
ラッツが無価値なった際、ソ連はルーブルとの交換や接収などで得た大量の5ラティ銀貨を保持していました。1960年代、ソ連国立銀行(コズバンク)は既に無価値となった古い金貨や銀貨の買い入れを行い、5ラティ銀貨は60コペイクで交換されることとなりました。こうして集められたソ連以前のコインは海外、特に西側諸国の貨幣業者へと流され、貴重な外貨獲得手段になっていたのです。特にラトビアの5ラティ銀貨は人気があり、西ドイツでは28マルクで販売されたと云われています。
ソ連による併合から半世紀を経た1991年、バルト三国は再び独立し、ラトビアは独自通貨ラッツを回復しました。その際、人々は自宅に仕舞いこんでいたミルダのコインブローチやコインペンダントを再び身に付け、独立と祖国の復活を喜びました。
独立後新たに発行された紙幣の肖像や、記念コインとしても度々「ミルダ」のデザインが再現され続けました。ソ連による支配を受けていた時代、ラトビアの人々が独立の希望に対する証として持ち続けていたミルダのコインは、独立国家ラトビアの通貨として再び登場したのです。
独立後に発行された500ラティ紙幣
そして2014年のユーロ導入に際し、ついにミルダを通常コインのデザインとして復活させました。ラトビア政府が新しいコインの顔として相応しいデザインを世論調査したところ、圧倒的な人気を得たのが「ミルダ」でした。独自通貨ラッツは再び消滅しましたが、ミルダは生き残ることができたのです。
時代に合わせてバイメタルのコインとして表現されたミルダは、80年以上の時を経て再び人気を得ています。ユーロコインは国境を越えてヨーロッパ中で使用することができるため、ラトビアに留まらずより多くの人々の手に渡ります。
激動の歴史を経てもなお愛されるコインとして、特筆すべき存在と言えるでしょう。
来月から発行される日本の新500円硬貨は、昭和57年(1982年)の発行から3代目になります。最初は白銅貨でしたが、平成12年(2000年)に登場した2代目はニッケル黄銅貨、今回は白銅とニッケル黄銅を組み合わせたバイメタルです。素材とセキュリティ技術は変化していても、基本的なデザインは変わっていません。
昭和・平成・令和と変化している500円硬貨も、時代を経て愛されているコインといえるでしょう。
令和版500円硬貨のお目見えを、心待ちにしたいと思います。
投稿情報: 14:07 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
9月も終わりに近づき、段々と涼しくなり秋らしくなってまいりました。
今回は世界七不思議のひとつ『マウソロスの霊廟』をご紹介します。
世界七不思議とは古代ギリシャ~オリエントに存在した七つの巨大建築物を指し、「ギザの大ピラミッド」「バビロンの空中庭園」「エフェソスのアルテミス神殿」「オリンピアのゼウス神像」「ロードス島のヘリオス神像」「アレクサンドリアの大灯台」などが挙げられています。
それらに並ぶ「マウソロスの霊廟」は紀元前4世紀、小アジアの古代都市ハリカルナッソス(*現在のトルコ,ムーラ県の港湾都市ボドルム)に建立された巨大な霊廟です。
マウソロスの霊廟(16世紀の想像図)
ハリカルナッソスを中心とするカリア地方を統治したマウソロスを祀るこの大霊廟は、名建築家ピュティオスとサテュロスによって設計され、均整の取れた形と豪華なレリーフによって装飾された建築物でした。
この霊廟はハリカルナッソスを見下ろす丘の上に建立され、エーゲ海を航行する船から確認することができたほど壮大な建物でした。近づいて見ると側面部分には、小アジア西部一帯に残る女戦士アマゾネスの伝説が、美しいレリーフ彫刻によって表現されていました。こうしたレリーフはギリシャから招聘された名彫刻家たちによって作成され、莫大な富を費やして建設されたことが分かります。
霊廟を飾ったレリーフ彫刻
(大英博物館蔵)
巨大な規模と高い芸術性から霊廟の評判は広く知られるようになり、ギリシャやローマの知識人たちの興味をかき立てました。様々な書物の記述にも登場し、当地へ赴いた際には訪れるべき場所として紹介されました。そうした古代世界での高い評判から、世界七不思議のひとつにまで数えられるようになったのです。
マウソロスの霊廟を表現したコイン
(キューバ 1997年 10ペソ銀貨-世界七不思議シリーズ)
マウソロスの一族は代々カリア地方を治める家系であり、アケメネス朝ペルシアに従属して同地方のサトラップ(太守)に任じられていました。ペルシアから遠く離れギリシャに近いカリアは、表面上はアケメネス朝の服属下にありましたが、実質的に独立した王国としての地位を確立させていました。
マウソロスの胸像
マウソロスは紀元前377年にカリアの太守となり、以降は国力を高めるため積極的に周辺地域、特にギリシャへの介入を深めていきました。小アジア沿岸部のギリシャ系植民都市を次々に影響下に置いたばかりでなく、ギリシャ本土の戦争に介入してキオス島やコス島、ロードス島などの島々まで属国化し、勢力を拡大させたのです。
マウソロスは西方に勢力圏を拡大させ、島嶼部の都市を従属させました。
マウソロスがハリカルナッソスを新たな首都に定めたのもこの頃であり、入り組んだ港湾都市を難攻不落の城塞都市にして外敵の侵入に備えました。
ハリカルナッソスはドーリア人が建設した植民都市とされ、歴史家ヘロドトスの出身地としても知られたギリシャ系の都市でした。ギリシャ文化に対する強い思い入れがあったマウソロスはハリカルナッソスをさらに壮麗なギリシャ都市に改造し、豪華な宮殿や劇場、神殿や広場を整備していきました。さらに優れた技術者を招聘して造幣所も建設し、カリアの国力を誇示するような、ギリシャ本土に劣らない芸術的コインを生産させました。
テトラドラクマ銀貨 BC377-BC353 アポロ神/ゼウス神
ゼウス神の右側にはマウソロスの名を示す「ΜΑΥΣΣΩΛΛΟ」銘
彫刻のような立体感。正面像は最も盛り上がった鼻が磨耗しやすいため、コインの意匠としては本来不向きです。
テトラドラクマ銀貨 BC377-BC353
ドラクマ銀貨 BC377-BC353
紀元前353年にマウソロスが亡くなると、カリアの統治権は妻のアルテミシアが引き継ぎました。アルテミシアはマウソロスの妹でしたが、カリアの伝統に基づき形式上の結婚を成立させて一族の権力を保持していました。
霊廟の建設計画は既にマウソロスの存命中に進んでいたとされ、後継者となったアルテミシアは名君である兄の偉業を後世に伝えるため、さらに壮麗な霊廟の建立を推進しました。葬礼ではマウソロスを称えるための追悼演説大会が催され、名だたる弁論家たちが各地から集まりました。時同じくして建築家や彫刻家もギリシャ各地から集められ、霊廟建設を進めたのです。
アルテミシア
(1630年頃, フランチェスコ・フリーニ作)
アルテミシアは兄にも劣らない優れた統治者であり、指導力を発揮してよくカリアを統治しました。ハリカルナッソスに攻め込んできたロードス島の反乱軍を、兄が築いた要塞を巧みに利用して撃退し、逆にロードス島に反撃を仕掛けて反乱を鎮圧するなどの実績を残しています。
しかし兄の死からわずか2年後にアルテミシアも亡くなり、兄と同じく霊廟に葬られることになります。しかしこの時点ではまだ霊廟は完成しておらず、依頼主である兄妹二人の遺灰を納めた数年後に完成したと考えられています。
その後、アケメネス朝がアレキサンダー大王の東方遠征によって滅ぼされ、カリアの統治権が移り変わった後も、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟は都市のランドマークとして存在し続けました。世界七不思議に並べられたことから広く存在が知られ、各地からの訪問者も多かったことでしょう。
時が経てハリカルナッソス自体が衰退してもなお、霊廟は朽ちつつも丘の上に建ち続けていたようです。建設から1800年後の1494年、当地を征服した十字軍、聖ヨハネ騎士団が要塞を建設する際、霊廟の残骸をその資材に転用し、多くの彫刻や石柱は撤去されてしまいました。
現在、マウソロス霊廟は土台だった部分が遺跡として残されるのみとなり、かつて世界七不思議に数えられたほどの壮麗さは見る影もありません。残されたわずかな痕跡と2000年以上前の記述から、ありし日の様子を想像するのみです。
ボドルム城
建設資材としてマウソロス霊廟の大理石が用いられているとされます。
投稿情報: 15:15 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続いていますね。パラリンピックも始まり、選手の皆様は猛暑の中で大変だと思います。どうか気をつけながら力を発揮し、素晴らしいプレーにしていただきたいと思います。
今月はニュースでアフガニスタンの話題が大きく取り上げられています。
20年に及んだ米軍のアフガニスタン駐留は、最終的にタリバンの復権を許す形で終了することになりました。今なおアフガニスタンは混乱の渦中にありますが、米軍が撤退した後も先行きは不透明です。
アフガニスタンの中央銀行にあたる「アフガニスタン銀行」の行章は、かつてこの地で造られていたコインのデザインが取り入れられています。
1939年に設立されたアフガニスタン銀行は日本銀行と同じく発券銀行であり、紙幣の発行と監理を行っています。設立以降、アフガニスタンは王政、共和政、共産主義政権、タリバン政権、米軍による占領とめまぐるしく政府が変わりましたが、アフガニスタン銀行は一貫してその業務を継続しています。
同国で発行された紙幣に共通して配されているこの行章は、かつてアフガニスタンの地に栄えたバクトリア王国最盛期のコインをそのままメインデザインに取り入れています。
バクトリア王国(グレコ=バクトリア王国)は現在のアフガニスタン~パキスタン北部に存在したギリシャ系王朝であり、アレキサンダー大王(マケドニア王アレクサンドロス3世)による東方遠征の後、現地に残留したギリシャ人たちによって建設された植民都市から形成されました。紀元前3世紀の中頃にセレウコス朝から分離独立すると、シルクロード交易の要衝として繁栄し、東西文化の融合と発展が進みました。
基となったコインは紀元前170年~紀元前145年頃、エウクラティデス1世の時代に発行されたテトラドラクマ銀貨です。
エウクラティデスはセレウコス朝の血統を有する名門とされ、隣国パルティアの支援を得て王位に登りました。自ら軍を率いてインド方面への遠征を行い、領土拡大に邁進したことから「大王」の尊称で呼ばれることもあります。
このコインはエウクラティデス1世が建設し自らの名を冠した都市「エウクラティデア」で造られたと考えられています。
最盛期―エウクラティデス1世治世下のグレコ=バクトリア王国版図
エウクラティデス1世は良質なギリシャ式のコインを発行し、自らの権力と富を誇示しました。その多くはギリシャ本土にも劣らない、最盛期にふさわしい見事な造形です。
王の肖像には多数のバラエティが存在しますが、裏面のデザインは一貫して「双子神ディオスクロイの騎馬像」が表現されています。この裏面デザインが、現在のアフガニスタン銀行行章にそのまま取り入れられています。
バクトリア王国のコインはヘレニズム諸王朝のコインと同様に、表面には王の肖像、裏面にはギリシャ神話に登場する神を表現していました。
特にバクトリアの場合、王によって守護神が異なるため、裏面の神も王と共に変化しました。
(*デメトリオス:ヘラクレス、アンティマコス:海神ポセイドン、ヘリオクレス:ゼウス神、メナンドロス:アテナ女神.....)
エウクラティデスの場合は双子神ディオスクロイであり、コインには棕櫚の葉と槍を持って馬を駆ける双子神が表現されています。両者は共にピロス帽(*円錐形の帽子)を被り、互いに顔を向けて意思疎通している様子で表現されています。
上下には発行者を示す「ΒΑΣΙΛΕΩΣ MEΓAΛOY ΕΥΚΡΑΤΙΔΟΥ (大王 エウクラティデス)」銘が配されています。
ディオスクロイはギリシャ神話に登場するカストールとポリュデウケス(ポルクス)の兄弟であり、白鳥に姿を変えた大神ゼウスと交わったレダが生んだ子とされました。この兄弟は戦争と拳闘に優れた能力を発揮し、各地の遠征や戦闘で活躍した神話が語られています。こうした神話は後にローマへ伝わり、独自の解釈が加わりローマ騎士の守護神としても奉られました。
紀元前147年頃 デナリウス銀貨
神話ではポリュデウケスがゼウス神によって不死身にされかけた時、先にカストールが戦死してしまったため自分だけ不死身になっても仕方がないとして固辞しました。兄弟愛に感心したゼウス神は双子を天上に上らせ、夜空の「双子座」にしたと云われています。
このコインに表現された双子神ディオスクロイは勝利・武勇の象徴であると共に、インド方面へ領土を拡大したエウクラティデスによるギリシャ文化圏(バクトリア)とインド文化圏の統合・協調を示唆するものと考えられています。インド=グリーク朝の文化融合を象徴する意匠といえるかもしれません。
現在のアフガニスタン銀行の行章にはコイン内の一部デザインとはいえ、エウクラティデスの名銘が、古代ギリシャ文字で大きく明記されています。
かつてアフガニスタンの地に、ギリシャ文化を有した王国が存在した歴史を明示しています。2000年以上の時を経た今も、現行通貨のデザインとして生き続けている稀有な例といえるでしょう。
バクトリア王国の最盛期を築いた大王エウクラティデスでしたが、遠征からの帰途、息子ヘリオクレスによって殺害され、栄光に満ちた華々しい治世を突然終えることになりました。その遺骸は戦車によって轢かれ、これを埋葬して弔うことすら禁じられたと云われています。
エウクラティデス亡き後、バクトリアは隣国パルティアや匈奴など遊牧民族の介入に悩まされ、内部では豪族たちによる王位争いから群雄割拠の状態になりました。こうしてバクトリア王国は徐々に分裂・衰退し、やがて歴史の中へ埋もれていくことになったのです。
かつてこの地を征服したアレキサンダー大王も複雑な地形と独立心の強い部族たちの抵抗に手を焼き、自らも傷を負い、多くの将兵を失いました。
後にはセレウコス朝、イスラーム帝国、モンゴル帝国、大英帝国、ソ連、そしてアメリカがアフガニスタンに軍を送り込みましたが、これらの大国であっても完全に平定することはついに叶いませんでした。
「帝国の墓場」とも称されるアフガニスタンが今後どのように変化するか定かではありませんが、かつてこの地に存在した豊かな歴史と文化を大切にし、後世に守り伝えて欲しいと思います。長い苦難の歴史を乗り越え、アフガニスタンに平和と安定が定着することを願うばかりです。
こんにちは。
梅雨明けしたとたんに毎日のように厳暑が続き、夏本番の到来ですね。先週から東京オリンピックがついに開幕し、メディアでもメダル獲得の話題一色です。
コロナのワクチン接種も進展していますが、それでも感染の勢いは衰える様子がありません。昨年同様、帰省や夏祭りも中止・延期が相次いでいるようです。
今年の夏はコロナと猛暑を避けて、自宅のテレビでオリンピック観戦する日常になりそうです。
今回はアメリカコイン、ケネディのハーフダラー(1/2ドル=50セント)をご紹介します。
おそらくコインを収集していない方であっても、広く知られているアメリカコインのひとつではないでしょうか。
アメリカ合衆国 1964年 1/2ドル銀貨
周知の通り、ジョン・F・ケネディ(1917-1963)はアメリカ合衆国の第35代大統領であり、1961年~1963年のおよそ3年間在任しました。43歳の若さで大統領に就任したケネディは妻のジャクリーンと共に大衆的人気を博し、幅広い層から支持を得ていました。当時は東西冷戦の真っ只中であり、ソ連との対立が先鋭化した時期に当ります。その任期中に生じたベルリンの壁建設やキューバ危機はその象徴的事件であり、その度にケネディは重大な決断を迫られました。また、米ソの軍拡・宇宙開発競争の過程で「アポロ計画」を打ち立てたことでも有名です。
しかし1963年11月22日、テキサス州ダラスを訪問中に凶弾に倒れ、志半ばで短い任期を終えることとなりました。3年に満たない在任期間だったにも関わらず、若さとカリスマ性を備えた大統領の非業の死は多くのアメリカ国民に記憶され、今なお歴代大統領の中では特に人気の高い人物の一人です。
暗殺事件直後からホワイトハウスと合衆国造幣局には、ケネディを称える記念コインの製造を求める声が多く寄せられました。アメリカでは個人崇拝を防ぐ目的から存命中の人物を通貨デザインに使用することを禁じており、暗殺直後とはいえ亡くなっている以上、コインにすること自体に問題はありませんでした。
そこで造幣局は未亡人となったジャクリーンに、ケネディをコインのデザインにしたい旨を伝え、了承を得ました。この時、コインの候補には1/2ドル銀貨(*従来のデザインはベンジャミン・フランクリン&自由の鐘)と1/4ドル銀貨(*クォーター=25セント。デザインは初代大統領ジョージ・ワシントン)の二種類が挙がっていましたが、ジャクリーンは初代大統領に取って代わるのは夫の望むところではないと考え、1/2ドル銀貨が好ましいと意見表明しました。
早速、後任であるリンドン・ジョンソン大統領は1/2ドル銀貨のデザインを変更する法案を連邦議会下院へ提出し、12月30日には通過しました。
しかし新たなコインの製造は原画の作成や極印彫刻の制作、製造工程の調整など高度な準備があり、法律上可能になったからといってすぐに実施できるものではありません。議会で法案提出と審議が進められている頃、既に造幣局では作業が進められていました。特にこの新コインの打ち初めは1964年1月を目標としており、急ピッチで作業を進める必要がありました。
そこで造幣局は生前のケネディ大統領が自ら承認し、銅メダル用として用意されていたものをベースに準備を進めることにしました。
1/2ドル銀貨の基となったブロンズメダル
表面のケネディ像は造幣局の彫刻師ギルロイ・ロバーツ(1905-1992)、裏面の大統領紋章はロバーツの弟子フランク・ガスパロ(1909-2001)が手掛けました。大統領が就任する度に造幣局で製造されるシリーズのひとつであり、ロバーツはケネディ本人と面会してデザインを提示し、承認を得ています。
メダル→コインへと用途が変わる過程でもロバーツはこだわりを持ってケネディの肖像に修整を加え続け、より良い完成品に仕上げるべく努力しました。試作品ができると妻ジャクリーンと弟のロバート・F・ケネディに提示し、意見を求めました(*この時ジャクリーンは髪形について意見を述べ、彫刻に修整が加えられたと云われています)。
こうして出来上がった1/2ドル銀貨のケネディ像はメダルの肖像より歳を重ねているものの、就任当初の若々しさの面影がありながら、最高指導者としての威厳も加わった見事な仕上がりになりました。実際のケネディの横顔像と比べても遜色がないほどです。
メダルにあったケネディの名銘は取り除かれ、代わりに発行年銘と、全てのアメリカコインに刻むことが義務付けられている「LIBERTY(=自由)」銘と「IN GOD WE TRUST(=我らは神を信じる)」銘が配されています。
ケネディ像の首部分には彫刻師ギルロイ・ロバーツのイニシャルである「GR」銘がモノグラムで刻まれていますが、発行後に共産党のシンボルである「鎌とハンマー」に見えるという苦情が寄せられました。
こうして急ピッチで進められた結果、当初の目標通り1964年1月30日にデンヴァー造幣局で最初のケネディ1/2ドル銀貨が打ち出されました。この時点ではプルーフ貨のみが製造され、本格的な大量生産が開始されたのは2月11日以降でした。
そしてケネディ暗殺からわずか4か月後の1964年3月24日より、新1/2ドル銀貨は一般市場への流通が開始されました。急ピッチで仕上げられたコインであるにも関わらず、ケネディ暗殺の衝撃から間もない時期だったこともあって、アメリカ国民の受け入れは上々でした。当初は追悼の意を込めた記念コインと見なされたためか、初日には交換を求める人々が金融機関の窓口に殺到し、大都市の銀行では翌日までに準備していたコインがなくなってしまいました。
造幣局は国民的な需要にこたえるため生産目標数を引き上げた結果、1964年銘の1/2ドル銀貨はデンヴァー、フィラデルフィア両局合わせて433,460,212枚という膨大な発行数となりました。これは先代のフランクリン1/2ドル銀貨の16年間の発行総数より多い数です。
この大量発行の背景には、人々が記念品として大切に保管し使用しなかったため、ほとんど市場に流通しなかったこと、ディーラーなどが海外でのケネディ人気に便乗して販売するために大量両替したことなどが挙げられます。皮肉にもあまりに良い出来上がりだったため、コイン本来の役割である「流通」に投じられず、退蔵されることになったのです。
さらに1960年代には銀価格が高騰し、投機的な動きもあって今後上昇してゆくという憶測がありました。そのため、銀品位90%、12.5gの1/2ドル銀貨を額面の50セントで両替しておけば、将来的に含まれる銀の価値が額面を上回ると考える人々がいたため、市場流通に乗らなかったという側面もありました。
事実、アメリカ政府は翌年の1965年に新たに法律を制定し、それまで銀で製造されていたダイム(10セント)とクォーター(1/4ドル)をニッケル銅に、1/2ドル銀貨の純度を90%から40%に引き下げる対策を行いました。
造幣局はクラッドによる製造(*表裏面と内側で異なる金属を組み合わせるサンドウィッチ式)でそれまでの銀の輝きを保ちつつ、銀を節約する対策を講じました。
左は1976年の記念1/2ドル銀貨 右は1964年の1/2ドル銀貨
左の淵部分が少し茶色くなっています。面の部分には80%の銀が使用されましたが、内部には79.1%の銅が使用されたため、このように色が異なっているのです。
しかし世界的に流通用コインとしての銀貨が白銅貨に切り替わる中で、1/2ドルも1971年以降はニッケル銅による製造に切り替わりました。
以降、現在に至るまで1/2ドル貨は毎年製造され続けていますが、一般の市中で流通している例は非常に稀です。理由は様々ありますが、30mm、11gの大型コインは財布にもポケットにも入れづらく、額面価値に対して使いづらさがあるようです。また、アメリカの自動販売機はクォーター(25セント)までしか受け付けないケースが多く、最も一般的に使用されてるコインも100円玉サイズのクォーターであるため、50セントを出す際にはクォーターを2枚出しても不便ではないようです。
もしケネディが暗殺された後の打ち合わせでジャクリーンがクォーターを選択していれば、運命は大きく変わっていたでしょう。
そして早くからカード決済が普及したアメリカ社会では、大きなコインが徐々に流通市場から消えていくのも無理はないでしょう。発行当初はケネディに対する人気、銀素材に対する投機狙い需要という積極的な理由から姿を消した1/2ドル貨は、時代の流れとともに消極的な理由で流通市場から消えていきました。日本の二千円札に似た立場なのかもしれません。
それでもケネディの1/2ドルは現代アメリカを代表するコインとして認識され、毎年発行されるミントセットの中央を飾っています。また、今なおアメリカだけでなく世界中のコインコレクターに愛されており、2014年に発行50周年を記念する金貨バージョンが発行された際は発売直後に売り切れ、すぐさまコイン市場やオークションで高値で取引されました。
ケネディの時代から半世紀以上が経過し、暗殺事件自体も歴史になりつつある現在もケネディの人気が衰えていない証であるようです。
投稿情報: 14:29 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
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