【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
1月も終わりに近づいてきました。
お正月気分はあっという間ですが、寒さはまだまだ続きそうです。
今年は「丑年」ということで、古代ギリシャ・ローマ時代のコインに表現された牛たちをご紹介します。
世界中で牛は古くから狩猟の対象になり、やがて家畜化されて人間社会には欠かせない動物になりました。肉や牛乳などのたんぱく質を得るだけでなく、畑を耕したり車を牽いたりするための労働力としても重宝されてきました。
多くのものを産み出す牛は経済動物として取引され、貨幣経済が発達する以前の社会では財産そのものとして認識されていました。
世界最初の銀貨とされるリディアのコインにも、ライオンと対峙する牛が表現されています。ライオンは王の権威を示しているのに対し、牛は国土の肥沃さや富を象徴していると考えられています。
リディア サルデス BC545-BC520 シグロス(1/2スターテル)銀貨
古代ギリシャでも牛は重要視され、儀式での神々への供物として用いられた他、ミノタウロスをはじめゼウス神、ポセイドン神、アポロ神やヘルメス神など、数多くの神話にも登場します。
以下では古代ギリシャの各地で発行された、牛のコインをご紹介します。
【イタリア半島~シチリア島】
ルカニア シバリス BC525-BC510 スターテル銀貨
ルカニア トゥリオイ BC443-BC400 ノモス銀貨
イタリア半島に入植したギリシャ人たちは肥沃な土地を開拓し、豊かな穀倉地帯に発展させました。その過程で牛は開墾に必要な労働力とされ、肉はエネルギー源にされました。
ルカニア ポセイドニア BC470-BC445 スターテル銀貨
牛はポセイドン神の聖獣とされ、儀式での供物としても牛が捧げられていました。
カンパニア ネアポリス BC320-BC275 スターテル銀貨
シチリア島 ゲラ BC420-BC415 テトラドラクマ銀貨
古代ギリシャでは川の神を「男性の顔をした牛」として表現する例が多く見られます。スフィンクスや日本の妖怪「件」とよく似た姿であり、動物と人間が合成した珍しい表現です。
【ギリシャ北部】
テッサリア ラリッサ BC370-BC360 ドラクマ銀貨
テッサリア ファルカドン BC440-BC400 ヘミドラクマ銀貨
テッサリア平原は古くから牧畜が行われ、牛を追うために馬の飼育も盛んに行われました。コインには牛を捕まえるテッサロス(*テッサリアの名祖とされる伝説上の王)が表現されています。
イリュリア デュラキウム BC340-BC280 スターテル銀貨
マケドニア アカントス BC470-BC390 テトロボル銀貨
ポーキス BC354-BC352 トリオボル銀貨
アポロ神は牧畜の神でもあり、牛の世話をしていたところヘルメス神に50頭の牛を盗まれてしまった神話が語られました。この時、ヘルメスは見事な竪琴を作成してアポロに贈り、許しを得たとされています。コインにはアポロ神の肖像の横に、小さな竪琴が確認できます。
【黒海】
トラキア ビザンティオン BC340-BC320 ドラクマ銀貨
ビザンティオンが位置するボスポラス海峡の名は「牝牛の渡渉」を意味し、かつてゼウス神が不倫相手のイオを牝牛に変身させた際、正妻のヘラ女神が虻を放ってこれを追わせ、海峡を渡らせた神話に由来しています。
コインにはイルカに乗るような姿で前足を上げる牝牛が表現され、海峡を渡るイオの姿に重ねられています。
ボスポロス王国 パンティカパイオン BC325-BC310 銅貨
【小アジア】
レスボス島 ミュティレネ BC521-BC478 ヘクテ貨
レスボス島 ミュティレネ BC454-BC427 ヘクテ貨
キリキア タルソス BC361-BC334 スターテル銀貨
小アジアのリディアから始まったコインの文化は、その後各地へと伝播しましたが、小アジアでは牛とライオンの組み合わせが様式を変えながら多く表現されました。
【オリエント~インド】
バクトリア王国 BC180-BC160 ドラクマ銀貨
インド・スキタイ王国 BC58-BC12 ウニット銅貨
アレクサンドロス3世による東方遠征後、ギリシャ文化を継承した諸王国によってオリエント~インドでギリシャ風のコインが発行されました。そこにはインドで広く見られる「コブウシ」が表現されたものが多く見られます。
古代インダス文明の時代からコブウシは南アジアで広く飼育され、バラモン教やヒンドゥー教では神の使いとして神聖視されてきました。ヘレニズム時代に生み出されたこれらのコインは、外来のギリシャ文化と現地のオリエント文化が巧みに融合した例といえるでしょう。
次回は古代の牛コイン第二弾【古代ローマ編】をご紹介します。
投稿情報: 17:42 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。歳の瀬の寒さ厳しくなる今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
今年もあと一週間ですね。今年は世界情勢から身近な日常まで、全てが大きく変化した一年でした。
本日はクリスマスイブですが、昨今の自粛モードで街中も少しは落ち着いている印象を受けます。
当店ワールドコインギャラリーも4月の緊急事態宣言下では営業を自粛しておりましたが、その間もたくさんのお客様からお問い合わせをいただき、本当に有難い限りでした。改めまして、厚く御礼を申し上げます。
来る新しい年は、多少なりとも明るい一年になることを心から願っております。健康で幸多き年になりますように。
さて、本日はクリスマスイブということで、クリスマスに関連したコインをご紹介します。
言うまでもなく12月25日はイエス・キリストが聖母マリアから産まれた日とされ、世界中で「Christmas (クリスマス)」として盛大に祝われています。
実際にイエスが12月25日に生まれたとする正確な記録は残っていませんが、年末の季節の風物詩として定着し、キリスト教圏では特に重要な一日とされています。
キリスト教圏、特にカトリックではイエスを出産した聖母マリアに対する信仰も熱心であり、教会にはキリスト像とともにマリア像が祀られる例が多くみられます。
かつてイタリア半島の中部を包括したローマ・カトリック(ヴァチカン)の領土、通称「ローマ教皇領」では、聖母マリアが表現されたコインが多く発行されていました。ローマ教皇領発行のコインにおいてはイエス・キリストよりも、聖母マリアや聖ペテロが表現される例が多かったようです。一般大衆の間で広く見られた聖母マリア信仰、聖人信奉が反映されているとみられます。
【1708年 グロッソ銀貨 聖パウロ】
【1796年 2.5バイオッチ銅貨 聖ペテロ】
【1815年 1スクド銀貨 雲上の聖母マリア】
【1831年 1スクド銀貨 幼子イエスと聖人たち】
【1753年 グロッソ銀貨 月上の聖母マリア】
紋章は当時の教皇ベネディクト14世を示しており、銀品位91.7%、1.35gの小さな銀貨です。
このマリア像は「無原罪の御宿り」と称される教義を表現し、マリアは現世に誕生したときから一切の原罪を免れていたことを示しています。カトリックの教義では、マリアは生まれた時から神の特別な恵みに与かっており、世俗の人間としての穢れが無い者とされ、そしてイエスを受胎したことにより完全に救われた存在になったとみられています。
このマリア像は古くから祭壇画などに表現され、名高い芸術家たちによる筆で鮮やかに、神々しく彩られた人気のあるスタイルです。
ベラスケス 1618年
スルバラン 1630年
ティエポロ 1767年-1768年
コイン上のマリア像もこれらの絵画と同じく手を合わせて立つ姿で表現され、頭の周りには多数の星が配されています。足を三日月(下弦の月,新月の前)の上に乗せる様子は、マリア(=キリスト教,新約聖書の時代)が前時代(=旧約聖書の時代)を基礎にしながら、それを上回る存在であることを象徴しています。また、マリアの頭上の星は「黄道十二宮」を、下弦の月は「変化しやすい現世」を象徴し、マリア(=キリスト教)がそれらを超越した絶対的な真理であることを示しているとする解釈もあります。
このグロッソ銀貨が発行されてから200年後、ヴァチカン市国では復刻版のコインが発行されました。
【ヴァチカン市国 1941年 1リレ】
紋章はピウス12世の教皇紋章、材質はニッケルに変更されていますが、基本的な形式はそのまま引き継がれています。
今年は一年間、本当にお疲れさまでした。そして忙しい中このブログをご覧いただき、本当にありがとうございました。
来年も少しづつ更新していきますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
皆様にとって良いクリスマス~歳の瀬、そして素晴らしい新年になることを心より願っております。
投稿情報: 11:45 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
すっかり冬らしい気候になりました。
11月も終わりに近づき、今年も残すところあと一ヶ月です。
2020年は世界中が様変わりした年でした。今年の1月から始まった新型コロナウィルスの流行は、結局収束しないまま一年を経ようとしています。国や社会を超えて、共通の話題で一年間も振り回されるのは本当に珍しいことだと思います。
今年の師走も新しい生活様式に沿った、例年にない形になるでしょう。今回の年末年始は穏やかに、そして何より健康に過ごしたいものです。
さて、先月の末にロンドンで行われたコインのオークションで、世界記録となる落札額が叩き出されました。
このニュースはCNNなどのネットニュースでも報じられ、ご存知の方も多いと思われます。
【カエサル暗殺を記念した希少金貨, 3億6500万円で落札 記録更新】
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
https://www.cnn.co.jp/style/luxury/35161772.html
記事ではブルートゥスが発行したアウレウス金貨が270万ポンド(£1=135円で計算・・・3億6500万円)で落札され、古代ローマコインのオークション落札価格では過去最高額だった旨が伝えられています。
このオークションの手数料は落札額に対して20%ですので、落札者が支払う金額は総額324万ポンドとなり、日本円で4億3740万円になる計算です。
一枚で4億円超えのコイン、自宅に置いておくのも不安になる宝物です。
今回落札されたブルートゥスの金貨はこちら↓
紀元前44年3月15日にユリウス・カエサル暗殺を実行した一人として知られるマルクス・ユニウス・ブルートゥス、彼が最後の戦いに挑む直前の時期に発行したアウレウス金貨。紀元前42年の夏~秋頃に製造された一枚です。
8g、19mmの小さな金貨ですが、NGCの鑑定ではMint State(完全未使用)、ファインスタイルの高評価を受けた素晴らしい保存状態です。
表面にはブルートゥス自身の横顔肖像、裏面は自由と解放を示すフリギア帽と二本の短剣、3月15日を示す「EID•MAR (=Eidibus Martiis)」銘が表現されています。
まさしくブルートゥスによるカエサル暗殺を誇示するための意匠であり、古代ローマ史の重要な場面を象徴するかのようなコインです。この金貨はブルートゥスがローマを離れて小アジア~マケドニアへ移った後、軍団を率いていた時期に製造されたものとされ、全く同じデザインのデナリウス銀貨も発行されています。
オークションカタログによるとこの金貨は現在、世界で3枚しか現存が確認されておらず、一枚は大英博物館、もう一枚はドイツ連邦銀行のコレクションに帰属するそうです。特に今回落札されたこの金貨は未使用状態、打ち出しも美しく良好ということもあり、歴史的価値、希少性、状態の良さによって最高額が出たものと思われます。
来歴も詳しく判明しており、かつてオーストリア皇帝フェルディナント1世(在位:1835-1848)の侍従だったスイス人考古学者グスタフ・フォン・ボンシュテッテン男爵(1816-1892)のコレクションにも加えられていた、由緒ある金貨です。
アメリカの貨幣学者ウェイン・G・セイルズ氏の『Ancient Coin Collecting III』(1997)によるとこの金貨はもちろん、デナリウス銀貨ですら大変な希少性があり、現存が確認されているものは60枚に満たないと記されています。
この当時、軍団を率いていた司令官は兵士への給与や物資調達費用を賄う為、自陣営内で独自のコイン(*ほぼデナリウス銀貨)を製造・発行することが慣例となっていました。そのためカエサルやアントニウス、ポンペイウスなどの名が刻まれたコインが多く発行され、地中海の各地で使用されました。
ブルートゥスも例外ではなく、ローマから東方に移った後に独自コインを発行しています。
この時期のブルートゥスの行動や葛藤については、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』で詳しく描写されています。映画化もされているのでそちらもぜひ。
しかしこの「EID•MAR」コインは金貨で3枚、銀貨で60枚未満しか確認されておらず、現存数の少なさが際立っています。通常、兵士への給与や物資調達を目的に製造したならば、短期間の間とはいえ大量に発行、使用されたはずであり、現存数もある程度多いと考えられますが、このタイプに関しては極端に少ないのです。
そもそも、ブルートゥスが自らの肖像をコインに刻ませること自体が極めて異例であり(*カエサル以前は存命中の人物をコインに表現することはタブーとされ、ブルートゥス自身も元老院で反対を表明しました)、あまりにも狙ったような意匠から、本質的に使用や流通を目的としたコインではなく、あくまで「記念品」としての性格が強いコインである可能性があります。ごく近い仲間や支持者たちに対して勲章のように進呈したものだとすれば、大量に発行せずごく少数を生産したのみに留めたと推察できます。
このコインが発行された同年、紀元前42年10月のフィリッピの戦いにおいてブルートゥスはマルクス・アントニウス、オクタヴィアヌスの連合軍に敗れて自決します。敗者となった軍勢が発行したコインを大切に保管した者は多くなかったと考えられることから、現存数が極端に少なくなったとみられます。
紀元前42年にブルートゥスが発行したデナリウス銀貨
上の金貨とほぼ同時期に造られ、一般兵士に配られたとみられるタイプ。
表面には月桂冠を戴くアポロ神、裏面には武具で作成した戦勝トロフィーと「IMP BRVTVS (最高司令官ブルートゥス)」銘が表現されています。
フィリッピでの戦いに際してブルートゥスは、配下の兵士たちに対して一人当たり1,000デナリウスを配って忠誠を得ようとしたと伝えられています。
対するマルクス・アントニウスは一人当たり5,000デナリウス、百人隊長には25,000デナリウスの破格の報酬を約束し、軍団の士気を盛り上げて勝利を得ました。
しかしこの記念的コインは数が少なくほとんど流通しなかったにも関わらず、当時のローマ人にも知られた存在になりました。2世紀 五賢帝時代の歴史家カッシウス・ディオはブルートゥスについて述べた一文で、「彼が発行したコインには彼自身の肖像とともに、帽子と二本の短剣が表現されていた」と記述しています。
皮肉にも戦いに敗れたブルートゥスは、コインを通して自らの主張を後世にまで宣伝することに成功したのです。
世界で三枚しか存在しないブルートゥスの金貨。ローマ史の、そして人類の歴史にとっても大変重要な宝物となりました。まさに博物館級の、世界遺産と称しても良い一枚です。この貴重な金貨を入手した幸運な落札者は誰なのか?とても気になりますね。
自身のプロパガンダのために発行したコインが2000年後にはこんなに高い評価を受けているとは、ブルートゥス自身が一番驚いていることでしょう。
投稿情報: 12:57 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
10月も終わりに近づき、段々と寒くなってきました。冬の到来はもうすぐですね。
季節の変わり目、そしてこのご時勢ですので、体調管理にはくれぐれも気をつけていただきたいと思います。
最近、国際ニュースではアゼルバイジャンとアルメニアの紛争が話題になっています。先日にはようやく停戦合意が発効しましたが、両国の対立は根深く、まだまだ予断を許さない緊張状態が続いている模様です。
(Yahoo!ニュース 10/18配信)
カフカース(コーカサス)に位置する両国は、かつては共に旧ソ連の構成国でしたが、独立後はナゴルノ・カラバフ地域の帰属を巡って対立し続けています。ロシアやトルコなど、周辺の大国の影響も複雑に絡み合い、地域的な民族紛争という枠には収まらないようです。
こうした国際情勢の構図は現代だけでなく、古代から存在し続けていました。
黒海とカスピ海の間にあり、北にロシア、南にイラン、西にトルコを控えるカフカース地方は、古来より文明文化の十字路として重要視されていました。
特にアルメニアは紀元前6世紀頃からギリシャのコインが流通するなど、経済的にも繁栄していました。紀元前2世紀にアルメニアは統一王国となり、シリアや小アジアにまで勢力を拡大させるほどの大国に成長します。
しかし紀元前1世紀半ば以降、小アジア~シリアに勢力を伸ばしたローマとの戦いに敗れ、征服地を放棄する代わりにローマの同盟国として存続を許されました。
紀元前69年頃のアルメニア王国
その後、アルメニアはローマとパルティアの緩衝国として存続していましたが、国内はローマ派、パルティア派に分かれ権力闘争が相次ぎ、その度にローマとパルティアの戦争に巻き込まれました。ネロ帝の時代にはパルティア派が推戴する王をローマ皇帝が戴冠する形式が生まれ、ローマ・パルティア両国の属国として平和を維持しました。
しかしトラヤヌス帝の時代になるとパルティアはアルメニアへの干渉を強めたため、ローマ軍はアルメニアを占領し属州化します。その後、トラヤヌス帝の死去に伴いローマ軍は撤退し、アルメニアの独立も回復されますが、マルクス・アウレリウス帝の治世初期、再びパルティアがアルメニアへの干渉を始めたため戦端が開かれることになったのです。
国内外に平穏な時代をもたらしたアントニヌス・ピウス帝が崩御した161年、パルティア王ヴォロガセス4世はアルメニアへ侵攻し、配下の将軍アウレリアス・パコルスを王位に就けました。
ローマにとって東方の国境を脅かす深刻な事態であり、即位したばかりの若きマルクス・アウレリウスは対応を迫られました。マルクスは義弟であり共同統治帝のルキウス・ウェルスを司令官として派遣し、アルメニアからパルティアの勢力を軍事力で駆逐する方針を採りました。
マルクス・アウレリウス帝&ルキウス・ウェルス帝
162年にルキウス率いるローマ軍はシリアに到着し、そのままアルメニアへ向けて進軍。163年には首都アルタクサタ(現:アルメニア,アルタシャト)を陥落させ、アウレリアス・パコルスを追放してローマ派のソハエムスを王に就けました。また、メソポタミア方面へ進軍したローマ軍はパルティアの首都クテシフォンを占領し、目覚しい成功を収めました。
ただこうした成功はルキウス帝によってではなく、配下に優秀な将軍たちが揃っていたためと解釈されました。元来享楽的なルキウス帝は司令官としての役割を半ば放棄し、前線から遠く離れたシリアに滞在し続けていたと云われています。楽観的な性格によって軍の指揮を鼓舞することもありましたが、安全な後方でお気に入りの役者や美女に囲まれているルキウス帝を批判的に見る向きも多かったようです。
それでもアルメニアの回復とパルティアに大打撃を加えるという当初の目的は達成されたため、ローマ軍としては大勝利でした。この功績に対し、ローマの元老院はルキウス・ウェルス帝に「アルメニクス(アルメニア征服将軍)」「パルティクス・マクシムス(パルティア征服大将軍)」の称号を授けます。
それに対し、ルキウスはローマで内政を執る義兄マルクス・アウレリウスにも同じ称号を授けるよう要請し、勝利を分かち合う謙虚な姿勢をみせました。
これは兄に対して遠慮したものか、または自らの功績として大々的に宣言するには後ろめたい気持ちがあったのか定かではありませんが、結果的に遠征には参加していないマルクス・アウレリウスにも「アルメニクス」「パルティクス・マクシムス」の称号が与えられました。
そしてアルメニアでの勝利と功績を讃え、ローマでは記念のコインが発行されました。
ルキウス・ウェルス帝 デナリウス銀貨 (163年)
マルクス・アウレリウス帝 デナリウス銀貨 (164年)
表面にはそれぞれ二人の皇帝、裏面にはアルメニアを象徴する捕虜が表現されています。共通して取り上げられた武器が置かれ、独特な形状の帽子を被っています。下部にはアルメニアを示す「ARMEN」銘が配されています。
裏面は共通のデザインであることから、ローマ市内の同じ場所で、ほぼ同じ工程を経て製造していたと推察されます。
このコインが発行された後の166年、ルキウス帝はローマへ帰国し、市民達から歓喜の声で迎えられました。10月にはトラヤヌス帝以来50年ぶりとなる盛大な凱旋式が挙行され、マルクス帝とルキウス帝はともに勝利の栄華を享受したのでした。
しかしこのアルメニア遠征は思いもよらない結果を引き起こします。東方から帰還した兵士たちによって多くの戦利品がもたらされましたが、それとともに恐ろしい疫病も運ばれて来たのです。この疫病は天然痘だったとみられており、167年以降、ローマを中心に大流行しました。
民衆を見舞うマルクス・アウレリウス帝 (1765年)
皮肉なことに、この疫病は皇帝の名から「アントニヌスの疫病」と呼ばれ、マルクス・アウレリウス帝の治世に暗い影を落とすことになります。ローマを中心に流行した疫病はたちまち帝国全土に広がり、数百万人の人命が犠牲になったと伝えられています。こうした甚大な人的被害は最盛期にあったローマの活力と軍事力を一気に低下させ、結果的にローマ帝国衰亡への序章になっていったのです。
投稿情報: 18:52 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
10月に入り、すっかり秋らしい日が増えてまいりました。
涼しい秋晴れの日には外出するのも心地良いですね。
スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋など、何をするにも最適な気候です。
何かと気を付けることも多いご時世ですが、楽しい季節にしていただけると幸いです。
さて、今回は古代ギリシャ・ローマ時代に珍重された幻の薬草「シルフィウム」が表現されたコインをご紹介します。
このコインが発行されたのはアフリカ大陸北部、現在のリビア東部に存在した古代都市キュレネです。
キュレネは紀元前7世紀頃にティラ島から移住したギリシャ人たちによって建設されたと云われています。最初の移住団はアポロ神の神託によってこの地を選んだことから、アポロ神と恋人キュレネが逃避行した先をこの土地と設定しました。都市名は恋人の名からそのまま「キュレネ」とし、のちにこの都市を中心とする一帯が「キュレナイカ」と呼ばれるようになりました。
キュレネの位置。近隣にはアポロニアと名付けられた植民都市も建設された。
キュレネの都市はアフダル山地から流れ出る水脈に恵まれた、緑豊かな高台に建設され、周囲にはアフリカ大陸の珍しい動植物がみられました。
やがてこの地に移住したギリシャ人たちは、周辺一帯に自生する不思議な植物を発見します。これが「シルフィウム」と呼ばれる花でした。
古代の記録によると高さ50cmほど、黒い樹皮に覆われた太い根と中が空洞になっている茎、黄色の葉を有すると記されています。キュレネを中心とする地中海沿岸部の狭い地域にしかみられず、採取できる場所は限られていました。
そしてこの草花から採れる樹脂を煎じると、調味料や香料、媚薬になることが発見されました。特に避妊薬、堕胎薬としての効果が広く宣伝され、たちまちキュレネの特産品として輸出されるようになったのです。
現在このシルフィウムが何の種であったかを特定するのは困難ですが、セリ科の多年草であるオオウイキョウの一種だったという説があり、コインの図像とも類似しています。
オオウイキョウとコインのシルフィウム
オオウイキョウも弱毒性があり、家畜が口にすると出血性の中毒症状が現われるとされています。
なお「シルフィウム」の名称は現在、キク科のシルフィウム属として残されています。「ツキヌキオグルマ」とも称される現在のシルフィウムは北米原産であり、形が古代のシルフィウムに似ていることから名づけられました。
現在のシルフィウム=ツキヌキオグルマ
キュレネにとって貴重な輸出品となったシルフィウムは、建設されたばかりの植民都市の経済に潤いをもたらしました。西にカルタゴ、東にエジプト、北にギリシャ本土を配したキュレネは地理的にも恵まれ、周辺の大国にも盛んに輸出されました。
効果的な避妊方法が確立されていなかった時代、飲むだけで避妊効果が得られるシルフィウムは需要が途切れることがなく、遠くギリシャ本土でも高値で取引されました。古代ギリシャの名医ヒポクラテスも、シルフィウムは解熱作用、鎮痛作用があり、咳の緩和や消化不良の改善にも役立つ薬草として推奨したと云われています。
シルフィウムによって富を得たキュレネは大規模な神殿や公共建築物が次々と造営され、北アフリカ有数のギリシャ植民都市として発展してゆきました。
経済的に発展したキュレネは独自のコインを発行しましたが、その裏面には都市に富をもたらしたシルフィウムを刻みました。現代となっては、失われたシルフィウムの姿を記録した貴重な史料になっています。
BC500-BC480 ヘミドラクマ銀貨
ハート形の意匠はシルフィウムの種とされています。
BC435-BC375 テトラドラクマ銀貨
BC322-BC313 1/4スターテル金貨
三本のシルフィウムが放射状に表現されています。
シルフィウムはキュレネの象徴となり、キュレネ=シルフィウムと認知されるほどの産品になりましたが、それはこの植物がキュレナイカ一帯でしか採取できなかったことを意味していました。栽培は試みられましたが、土壌や気候など、生育環境の不一致などから成功しなかったようです。
キュレネは王政や共和政を経験しながらも独立を保っていましたが、紀元前4世紀末からプトレマイオス朝エジプトの支配下に入り、紀元前1世紀半ばにはローマの庇護下に入りました。支配者が代わってもキュレネの自治は保たれ、シルフィウムの輸出によって経済的・文化的な繁栄を享受していました。
しかしその繁栄もやがて終わりを迎えます。建国以来長らく繁栄を支えていたシルフィウムが、ついに絶滅したためでした。
理由には乱獲や砂漠化による環境変化など、様々な理由が考えられていますが、少なくとも紀元前1世紀頃から徐々に減少し始め、紀元1世紀に入るとほとんど採取できなくなっていたようです。もともと自然に自生している植物であったため、経済的な理由から乱獲し続ければ枯渇するのは時間の問題でした。
大変な希少品となったシルフィウムはデナリウス銀貨と同じ重量で取引され、時には金と同じ重さで買われることもあったと伝えられています。
ローマの博物学者プリニウスはキュレナイカ産のシルフィウムの茎が、珍品として皇帝ネロに献上されたことを記録しており、これが古代の文書における最後の記録とされています。
シルフィウムを輸出できなくなったキュレネは交易の中継地として維持されましたが、262年と365年に大地震が襲い壊滅的打撃を受けます。これ以降、都市は完全に打ち捨てられ、巨大な廃墟群が往時の繁栄を物語るのみとなりました。キュレネの都市が遺跡として再発見されるのは18世紀になってのことでした。
キュレネの急速な発展はシルフィウムによってもたらされたため、当時のキュレネ市民たちはアポロ神からの贈り物だと考えていました。しかし皮肉にもキリスト教が伸張し始め、古代ギリシャ・ローマの信仰が終焉を迎えようとする節目にシルフィウムは姿を消し、それに支えられていたキュレネもまた衰退したのでした。
現在、キュレネ発行のコインは僅かな種類しか確認されておらず、発行していたのは限られた時期だったとみられています。それらには都市の繁栄を支えた、今はなきシルフィウムが表現されており、キュレネの繁栄とシルフィウムの姿を現代に伝えています。皮肉にもシルフィウムなき今、この花を表現したコインが、珍品として高値で取引されているのです。
こんにちは。
猛暑の日々が続いておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
日中の気温が35度を超える日が続き、身体にも疲れが出始める頃かと思います。
暦の上では秋ですので、夕方以降は涼しく感じる日も増えましたが、屋外・室内での熱中症には充分お気をつけいただきたいと思います。
昨今は金価格の上昇(*8月7日時点で税込小売価格 1g ¥7,769)が大きな話題になっておりますが、一方でそれにつられて銀価格も上昇しています。
6月まで1g 60円台だった銀価格は8月7日には112円に達し、1~2ヶ月で倍近い大幅上昇です。2011年には130円台にまで上昇した銀ですが、その後は60円~70円台を保って静かに推移していました。
コロナ禍の経済不安によって再び銀の価値が見直されたのか、それともあくまで一時的な動きなのか、注視していきたいと思います。
昨今は銀投資の意味も含めて、銀貨の収集を始める方も多いようです。
歴史的に銀は貨幣の素材として世界中で用いられてきました。古来より宝飾品に用いられる希少な金に比べると数量があるため、経済活動に用いるには好都合な貴金属だといえます。
アンティークコインの価値は素材よりも希少性や状態の良し悪し、人気で価値が決まりますが、通常貨としての銀貨は20世紀半ばまで大量に発行されており、100年ほど前の大型銀貨であっても入手は容易です。
今回は大型銀貨の中でも特に有名なコイン、アメリカの「モルガンダラー」をご紹介します。
通称「モルガンダラー」は1878年~1921年まで製造された1ドル銀貨であり、銀品位90%、26.73g、38.1mmの立派な大型銀貨です。
1878年3月11日15時17分にフィラデルフィアの造幣局で最初の一枚が打ち出されて以降、サンフランシスコやニューオーリンズなど全米5都市の造幣局で大量に生産され、アメリカ全土で流通しました。19世紀末~20世紀初頭のアメリカを代表するコインとして、古い西部劇の映画などにも多く登場しました。
なお、最初に打ち出された一枚は当時の大統領ヘイズに、二枚目は財務長官、三枚目は造幣局の局長にそれぞれ贈呈されました。
「モルガンダラー」の通称はこのコインをデザインした彫刻師ジョージ・トーマス・モルガン(1845-1925)の名に因みます。モルガンが手掛けた傑作であるこの1ドル銀貨は、特に自由の女神リバティの横顔像から人気があります。
新興の大国として急成長しつつあったアメリカを象徴するような、美しくもたくましいリバティ像です。
このリバティ像にはモデルとなった女性が存在しました。
当時、フィラデルフィア造幣局に招聘されたばかりのモルガンは様々な試作デザインを考えていましたが、新しい1ドル銀貨のデザインを求めてさらに思案を重ねていました。彼は完全な創作上の女性をリバティとするのではなく、実在のアメリカ人女性をモデルにしたほうが良いと考え至りました。
彼は友人の芸術家トーマス・エイキンズ(1844-1916)に相談し、ある女性を紹介してもらえることになりました。フィラデルフィア在住のアンナ・ウィレス・ウィリアムズ(1857-1926)です。
当時まだ20歳にも満たないアンナはモデルになることを嫌がりましたが、友人たちの説得の末、渋々承諾したと云われています。1876年11月、アンナと対面したモルガンは「完璧なモデル」だとして喜び、彼女を新しい1ドル銀貨の顔にすることを決めました。アンナとモルガンは5回にわたって対面し、様々な角度から構図を決め、美しい彫刻デザインとして形作っていきました。
デザイン案は当時の主任彫刻師ハーバーが作成したものもありましたが、最終的にアンナをモデルとしたモルガンのデザインが選ばれ、実際に製造・発行されることとなったのです。
こうして出来上がった1ドル銀貨は当時のアメリカ人に広く受け入れられ、モルガンの名声は一気に高まることとなりました。後にモルガンは合衆国造幣局の主任彫刻師に昇格します。
アンナはモデルになる条件として、自身がリバティ像のモデルであることを秘密にするよう求めました。ところが新しい1ドル銀貨が広く行き渡り始めると、すぐにそのモデルがアンナだと知られるようになりました。彼女はあっという間に有名人になってしまい、教師である彼女の職場や自宅にまでファンレターが届くようになりました。彼女の姿を見ようと押しかける人まで現われ、当初危惧していた以上に注目されてしまったのです。
トーマス・エイキンズが描いたアンナ・ウィレス・ウィリアムズ
彼女は生涯独身を通し、1924年に引退するまで教師として女子教育、幼児教育の発展に尽力したと云われています。彼女は最期までモルガンダラーのモデルになったことを自ら話さず、あくまで「若い頃のできごと」として多くを語ろうとはしませんでした。
モルガンダラーは1921年を最後に製造が終了し、4年後にはジョージ・トーマス・モルガンが、その翌年にはアンナ・ウィレス・ウィリアムズが世を去りました。
発展期のアメリカを象徴するモルガンダラーは発行枚数の多さから、年号や製造地のミントマークで揃えていくことを楽しむアメリカのコイン収集家に大変人気があります。
通貨としての役割は終えましたが、その芸術性の高さ、背景となる数多くの物語も相まって、現代でもなお世界中で広く愛されています。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
投稿情報: 17:19 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (1)
こんにちは。
7月も末になり、通常ならば夏本番ですが、今年は梅雨が長く、一向に清清しい夏らしさを感じられません。
本来ならば先週から東京オリンピックが開催されているはずなのですが、昨今の情勢により延期になってしまいました。
学校の夏休みは短縮され、海開きや夏祭りも軒並み規模縮小、中止になり、毎年恒例の帰省ラッシュも寂しいものになりそうです。
そうした社会情勢と経済環境を反映してか、現物資産である貴金属の価格が軒並み上昇しております。消費税が10%になったことも関係していますが、7月末時点で金1gの小売価格が7,300円を超えています。それにつられてか、今まで値動きの少なかった銀の価格まで徐々に上昇しています。
今年に入って金価格が1g/6,000円を突破して驚いておりましたが、そうした驚きも遠い過去のものになりそうです・・・。金相場は予測が難しいと云われていますが、社会情勢が不安定化すると人々に求められ、価格が上昇するという理屈は正確だったようです。特に今年前半は今までに無い、予想を裏切るようなスピードで世の中が変化しているため納得です。
なにはともあれ、今年は例年とは大きく異なる夏になりそうです。
皆様も何卒、体調管理には十分にお気をつけ下さい。
さて、今回は金銀のテーマに合わせて「古代ローマの銀行」についてお話します。
およそ2000年前の銀行と言っても、現在の銀行とはその性格が大きく異なります。
その業務内容はおおむね「両替商」といってもよいでしょう。現在のように、外貨を両替する仕事、といっても差し支えありませんが、古代ローマではさらに複雑な通貨事情がありました。
ローマが貨幣を発行し始めたのは紀元前3世紀ころ、最初は銅貨や青銅貨ばかりであり、しかもカンパニア地方のギリシャ系都市に製造を委託していたと云われています。
それ以降、徐々にローマ市内でも造幣設備が整備され、時代を経て金貨や銀貨、銅貨等が各種製造されますが、それらには額面価値が明記されておらず、コインの種類が増えるとその交換価値がますます複雑になります。しかもイタリア半島のギリシャ系都市をはじめ、新たに獲得した属州で流通したコインも流入し始めると、銀の含有率を調べてローマの貨幣に換算する必要が生じました。
こうして現われたのがアルゲンタリウス(Argentarius, 銀貨両替)と呼ばれる人々でした。これがローマにおける銀行の始まりとされています。
彼らは市場が開かれる広場の一角に小さなスペースを設けて営業していました。ローマではフォルム・ロマヌム(フォロロマーノ)の東端、商業区域の中に立ち並んでいました。ローマをはじめ、他の都市や属州にもこうした銀行業者が存在し、地域経済に重要な役割を果たしていたことが碑文などに残されています。
一般市民は市中の買物では銀貨をはじめ、黄銅貨や青銅貨を多く利用していた為、両替は必要不可欠でした。また小売業者は釣銭も用意していたはずであり、こうした業者の需要も満たす必要がありました。都市の経済活動が発展する上で、アルゲンタリウスの業務はローマ人の社会生活・経済活動に無くてはならないものでした。
アルゲンタリウスの重要な業務のひとつはその名の通り、銀貨の品位を調べることでした。古代ローマではデナリウス銀貨が貨幣流通の要になっていたことで、銅素材に銀メッキを施した贋物も多く出回っていました。アルゲンタリウスは重量や音、金属品位などを調べ、本物と認めた銀貨は手数料を差し引いた上で、少額貨幣に両替していたとみられます。
この時に貨幣検分者は銀貨がメッキされているかを確かめ、検分したコインと未検分のコインを見分ける為に印を打ったとみられ、これが「バンカーズマーク(Bnaker's mark)」と云われています。こうした小さな刻印は多くのローマコインにみられ、当時実際に流通してアルゲンタリウスに持ち込まれた証でもあります。
こうした業務を経ることで、発見された贋物コインは流通市場から駆逐され、市中での貨幣の信用を維持することができました。当時の銀行業務は単なる両替ではなく、古代ローマ社会の貨幣経済を下支えする役割を果たしていました。
バンカーズマークの一例
オクタヴィアヌス肖像の左側に文字銘のような刻印が打たれている。
本物と認識されたコインは銀行業者が用意した専用の袋に入れられましたが、こうした業務が発展して預金業務を扱うようにもなりました。これは第三者に対する支払いを目的としており、あくまで担保としての無利子預金でした。受領者は印章つき指輪によって承認し、現在の日本の判子のような役割を果たしました。
アルゲンタリウスは徐々に単なる両替商から、金貸しなどの金融にも業務を拡大させました。ポンペイの遺跡から発見された銀行家ユクンドゥスの領収書版によると、驢馬の競売に関して買い手に購入金を前貸しし、仲介手数料として総額の1%を得たことが書き残されています。
市中経済の重要な役割を果たした銀行業務ですが、以外にも国家の規制はほとんどありませんでした。必ず帳簿をつけ、都市執政官などの役人の求めに応じてこれを提出する義務はありましたが、業務を始めるにあたって公的な許可は必要ありませんでした。そのため、金を貯めた解放奴隷が副業としてはじめる例も多かったとされています。
ただ前述のように預金や金貸しを利用する需要があった一方、主に求められた業務はやはりコインの両替でした。1世紀のローマ帝国における貨幣の交換比率は以下の通りです。
=========================================
1アウレウス金貨 = 25デナリウス(銀貨)
1デナリウス銀貨 = 16アス(銅貨)
1セステルティウス黄銅貨 = 4アス(銅貨)
1ドゥポンディウス黄銅貨 = 2アス(銅貨)
=========================================
しかし3世紀、カラカラ帝の時代になるとインフレーションが加速し、コインに使用される貴金属の割合は目に見えて低下しはじめます。「悪貨は良貨を駆逐する」の法則に基づき、市中には大量発行された低品位のコインが溢れました。そのため、この時期の銀行業者は古い貨幣と新しい貨幣の交換比率に日々頭を悩ませていたことでしょう。
コインをカウンターの上に広げ、一枚一枚確認ながら計算している。
3世紀末以降はディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の通貨改革によって貨幣制度が大きく変更され、コインの通用価値は日々変化し続けました。こうした中で、時代が経ても銀行業の役割はますます欠かせないものになったと思われます。
ちなみにローマでは現在のように誰もが銀行に預金していた訳ではなく、現金資産は自宅に保管していました。いわゆる「箪笥預金」です。小さいものでは貯金箱、富裕な資産家は鍵つきの大きな金庫を持ち、その中に財産としての金貨や銀貨、銅貨を保管していました。
古代ローマ時代の金庫
上部な青銅製(または鉄製)の金庫は一人で動かすことができず、しっかりとした鍵が取り付けられていました。富裕な家庭ではこうした金庫(Arca,アルカ)が必ず存在し、人目のつく広間に置かれ、門番が監視できるようになっていました。上流階級ではこうした箱に資産価値の高い、良質な金貨や銀貨を退蔵したため、結果的に貴金属を減少させ、市中には低品質な貨幣しか流通しなくなったとみられます。
ポンペイの富裕層の住宅跡からは、噴火よりはるか以前の共和政期のデナリウス銀貨が多く発見されていることから、当時から古い銀貨や金貨のほうが現行コインより良質であることが認知されていたようです。おそらく銀行業者はこうした古いコインの品位も熟知し、必要に応じてそれを実態レートで両替していたのだと思われます。
ある意味でローマの銀行業者は古代における古銭商であり、コインの専門家だったと言えるかもしれません。
こうした当時の富裕層の資産防衛による貯金や、銀行業者の営業活動によって、2000年を経た現在でも古代ローマのコインが形ある姿で残されました。彼らが大切に取り扱い、保管したコインは時を経て文化的な価値を認められ、現在では新しい形の「資産」として取引されています。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
投稿情報: 15:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
梅雨になり蒸し暑い日が多くなってまいりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
緊急事態宣言が解除され、世の中も再び動き出しています。
当店、ワールドコインギャラリーも再開して一ヵ月が経とうとしています。休日には人出も戻りつつありますが、街中を見ると以前とは人の流れが変わっているようにも思います。
多く見られた外国からのお客さんは見かけなくなり、遠くから観光で訪れている方も少ないような印象を受けます。
蒸し暑い中でも大半の人がマスクを着用している光景は、昨年とは大きく異なり、心おきなく遠出するにはまだまだ抵抗があるようです。
これからも油断はできず、すべて元通りとはいきませんが、注意しながら新しい日常を送っていければ良いですね。
今回は、古代ギリシャで発行された「振り返る山羊」のコインをご紹介します。
動物が振り返る構図を表現したコインは、古代ギリシャの各都市で発行されていましたが、振り返る山羊を表現したのはキリキアの古代都市 ケレンデリスでした。
ケレンデリスは現在のトルコ南部、メルスィン県の海沿いにある小さな町アイディンシクにあたります。現在では遠浅の海岸が38kmにわたって続き、穏やかで風光明媚な地中海沿岸の町ですが、古代にはキリキア地方における重要な港湾都市として繁栄を謳歌しました。
かつてのケレンデリス、現在のアイディンシク
伝承ではシリアからやってきたサンドコスが建設した都市とされ、歴史家の見方ではフェニキア人の植民都市として始まったと考えられています。1986年に行われた発掘調査によって、紀元前8世紀より前に既に都市が形成されていたことが分かっています。その後はサモス島から移住したイオニア人やサミア人の植民都市として発展し、東地中海の重要な港町のひとつとして交易の要衝となりました。
ケレンデリスから西はエーゲ海などギリシャ諸都市、南はキプロス島~エジプト、東はシリア~フェニキアへと繋がる要衝として、周辺の勢力関係にも影響を与えていました。ペルシア戦争(BC499-BC449)の際はアテネの艦隊がケレンデリスに寄港し、そこからキプロス島やエジプトのペルシア軍に向けて出航しました。そうした経緯からケレンデリスはアテネ主導のデロス同盟に協力し、デロス同盟の都市の中で最も東に位置する都市として知られました。
ペルシア戦争が終結した後、キリキアはアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれますが、ケレンデリスは主要港のひとつとして自治・独立を守り、アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の東方遠征までそうした状態を継続させました。
この銀貨はアケメネス朝に従属していた時期に発行されたものであり、裸の騎士と振り返る山羊という、ギリシャらしいデザインが表現されています。
スターテル銀貨 BC440-BC350
表面には馬にもたれかかるような、裸の青年像が打ち出されています。完全に跨るのではなくベンチに座るような姿勢であり、珍しい表現です。裸体像はペルシア文化では野蛮の象徴とされ、美術品でもほとんど表現されませんでした。人間の肉体美を表現したギリシャらしい意匠は、この都市が一定の自治権を認められていたことの証でもあります。
裏面には振り返る山羊が表現されています。顎鬚のある山羊が前足をつき、身体を屈めるような姿勢で表現されています。こうした構図は古代ギリシャのコインでは多く見られ、牛やライオン、ガチョウなどあらゆる動物で表現されています。コインという限られた円形スペースで、少しでも対象物を大きく見せるための表現技法、または活き活きとした動物の動きを表現したものなど、様々な理由が考えられています。
いずれにせよ、こうした技法や表現上の工夫は、当時の芸術家・彫刻職人にとって腕の見せ所だったと思われます。
特にこの時代のケレンデリスで発行されたコインは楕円形が多く、山羊はその形に合わせるようにして身を屈めています。当時の製造工程上、コインとなる銀塊をきれいに整形することが難しく、あえて図像の方をコインの形に合わせたのかもしれません。
その後、ケレンデリスはセレウコス朝の支配下に入ると山羊のコインを発行しなくなりました。経済的な重要性、独立を失い、衰退したためとも考えられます。紀元前1世紀にキリキア海賊の被害が深刻化するとローマ軍がこの地を支配し、やがてローマ帝国の統治下に入ります。ローマ時代には治安の安定が図られ、交易都市として機能を再生させました。都市には港を中心にローマ風の別荘や浴場が整備され、かつての繁栄を取り戻しました。
しかしかつてのような銀貨を発行することはついになく、都市と周辺地域だけで流通する、僅かな種類の銅貨が製造されただけで終わりました。
その後は小アジアとキプロス島を繋ぐ港としての機能は維持されましたが、時代の変遷と共に重要性は低下し、現在では落ち着いた港町になっています。なお、ケレンデリスがトルコ風のアイディンシクに改称されたのは20世紀半ば、1965年のことでした。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
「World Coin Gallery」
投稿情報: 16:06 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
4月から発出されていた「緊急事態宣言」がこの度、全国で解除されました。これでとりあえず、ひとつの大きな山を越えたようです。
しかし新型コロナウィルスが完全に消え去った訳ではなく、引き続き警戒と対応策が必要です。
このウィルスに罹患された方々へはお見舞い申し上げますとともに、医療関係者や行政機関をはじめ感染拡大防止に日々尽力されている多くの方々に深く感謝いたします。
営業を縮小・自粛していた当店「ワールドコインギャラリー」は、5月いっぱいは引き続き営業を自粛し、6月1日(月)から通常通りの営業(11:00~19:00 水曜日定休)を再開します。
店舗内での営業再開に当たっては、しばらくの間は消毒液の設置やマスクの着用など、最低限の感染対策を講じ、お客様に安心してご来店いただけるよう努めます。
4月初めから自粛していた店舗での営業も、ようやく再開できそうです。お客様へは長らくご不便・ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。6月以降、通常営業・店舗営業が再開されましたら是非お越しください。皆様方とお会いできるのを心待ちにしております。
海外からの人の動きはいまだ再開の目途が立ちませんが、物流は少しづつ改善されているようです。ドイツやアメリカでは各種制限が緩和されつつあるため、オークションで落札したコインが元通り届くようになりました。
しかしイギリスなど、まだ段階的に制限が緩和される国もあるため、今まで以上に配送に時間がかかる状態は続きそうです。
今年はこれまで以上に変化の多い一年になりそうですが、健康第一に新しい生活を作っていただければ幸いです。
まだまだ元通りの日常を回復させるのは時間がかかりそうですが、一日も早く平和な日常が戻りますことを心より望んでおります。
今回は今後の見通しが良くなるように、新型コロナウィルスの収束が早まることを願って、古代ギリシャの医術の神アスクレピオスが表現されたコインをひとつご紹介します。
このブログでも度々取り上げてきましたが、改めてアスクレピオスについてご紹介します。
アスクレピオスは光明神アポロとテッサリアの王女コロニスの間に生まれた半神半人でした。ある時、カラスからコロニスが浮気していると報告を受けたアポロ神は、怒りからコロニスに矢を放ち射殺。しかし後からそれが間違いだったことに気付いたアポロ神は、荼毘に付されようとしているコロニスの遺体から子供を取り上げました。この子がアスクレピオスと伝承されています。
(※誤った報告をしたカラスは罰として、美しい白羽を漆黒に変えられたと云われています)
アスクレピオスは半人半馬ケンタウロスのケイロンに託され、彼の教育を受けて成長しました。粗野なケンタウロス族の中にあってケイロンは賢者であり道徳者とされ、この時アスクレピオスには優れた医術が授けられました。
竪琴を持つケイロンが表現されたコイン(ビテュニア王国, BC182-BC149)
さらにメドゥーサの血を用いて蘇生まで行ったことから「死者を蘇らせる名医」として、神話上では多くの英雄たちを蘇らせました。しかし冥界の王ハデスは死者たちが自分の領域から引き戻され、役割がなくなってしまうことを恐れたため、最高神ゼウスに訴え出ます。天界・地上・地下の秩序が乱されることを危惧したゼウス神はアスクレピオスに雷を打ち、天界に召し上げることでこれを解決しました。
それ以降、アスクレピオスは「神々の医師」として活躍し、その功績から医術の神として奉られるようになったとされます。
現在でもクスシヘビが巻き付いたアスクレピオスの杖は、WHO(世界保健機関)や病院の紋章をはじめ、医療のシンボルとして広く認知されています。
古今東西変わらず、古代ギリシャにおいても健康は人々の重要な関心事でした。「治療」という現実的で分かりやすい効用は階級に関係なく人々に求められ、それゆえアスクレピオス信仰はギリシャ世界全体に広まりました。コリントの近くにあったエピダウロスがアスクレピオス神の出身地とされ、医神の聖域として多くの治癒を求める人々が集まりました。
アスクレペイオンの内部(想像図)
人々の求めから、エピダウロスから分祀されたアスクレピオス神殿(アスクレペイオン,聖域)がアテネやコス島、パロス島などギリシャ各地に設けられました。聖域として選ばれる地は清らかな湧き水や温泉に恵まれている場合が多く、清潔さや癒しが重視されていたことが分かります。聖域はさながら病院のようであり、多くの患者は滞在中に安静にすることで病気からの回復を期待しました。周辺には劇場や商店、運動場、大浴場が併設される例もあり、湯治場のような活気があったと推察されます。
アスクレペイオンでは夢の中にアスクレピオス神が現れ治療法を伝授したり、眠っている間に治療を施してくれるとも云われ、信仰=治療が一体となったものでした。
寝ている病人を癒すアスクレピオス神
一方で神官や医師たちによる投薬治療・外科手術もあり、医学的な研究もおこなわれ医学校としての側面も兼ね備えていました。古代ギリシャの名医ヒポクラテス(BC460-BC351?)はコス島の出身であり、現地のアスクレペイオンで学んだとされています。彼はアスクレピオス神から数えて19代目の子孫とされ、現代でも医学の父として尊敬されています。
ただ併設された設備や夢診断などからも分かるように、多くは保養を第一として自然治癒に向かわせる方針だったようです。当時から心身のリラックスが健康にとって最良と認められていたのかもしれません。
アスクレペイオンから出土した浮き彫り
アスクレペイオン跡からはこうした身体の一部を模った浮彫が多く発見されています。多くは患者がアスクレピオス神に治してもらいたい箇所を祈念するため、または治癒した感謝を示すために献納したものと考えられています。大理石やテコラッタ、蝋など様々な材質で作成されていることから、幅広い階層の人々が献納したしたことが分かります。
こうした身体の部位は多岐にわたり、目や口、鼻や耳などの顔から腕や足、乳房や性器などがみられます。こうした出土品から当時のギリシャ人たちの健康上の悩みが窺えます。また献納年代は幅広いですが、献納者の男女比はおおよそ同じ程度であることも判明しています。
ペルガモン 紀元前2世紀後半 (23mm, 9.44g)
この青銅貨はアスクレペイオンで有名だった小アジアの古代都市ペルガモン(現在のトルコ西部、スミルナの北)で発行されました。ペルガモンは劇場や図書館などが完備された、ヘレニズムを代表する文化都市のひとつでした。ペルガモンのアスクレペイオンはローマ時代にも引き続き利用され、カラカラ帝などのローマ皇帝も立ち寄るほどの名所として栄えました。
当時の通用価値ははっきりと分かりませんが、一般市民が日常的に使用していた単位のコインとみられ、治癒を求めて当地を訪れた巡礼者も手にしたものと想像されます。
表面にはゼウス神によく似た姿のアスクレピオス神、裏面にはその象徴であるクスシヘビが、聖石オンファロスに巻き付く姿で表現されています。左右には「ΑΣΚΛΗΠΙΟΥ/ΣΩΤΗΡΟΣ(アスクレピオス 救世主)」銘が配されています。
オンファロスはアポロ神の神託で知られた聖地デルフォイの神殿地下にあったとされる聖石であり、保護のため羊毛で覆われていたと伝わります。コインのオンファロスに刻まれた網模様は、この羊毛を表現しています。オンファロスは「へそ」を意味し、世界の中心を示すものと云われました。伝承ではゼウス神が天空の両端から鷲を飛ばし、ぶつかった地点(=デルフォイ)を世界の中心と定め、記念碑として聖石を置いたともされていますが、その由来は当時から謎とされていました。
聖石オンファロス
デルフォイにあったオンファロスは未発見ですが、当時から複製品が作成され地上の神殿に参拝した人々にも見えるようになっていました。その複製品もまた各都市で作成され、神殿などで祀られていたようです。ペルガモンでも同じような複製品が祀られていたのか、コインではヘビと組み合わせされた興味深い姿で表現されています。
古代ギリシャの人々が願ったのと同じように、医術の神様の加護で現代の疫病も退治できると良いですね。皆様の健康と安心を心から願っております。
・古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店
投稿情報: 12:12 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
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