今回で連載5回目を迎えます「アール・クラシック」。
今まで読んでくださった皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。今回で約半分ぐらいになりますので、あともう少しお付き合いください!
さて、今回は「古代コインは歴史と美術と教養のエッセンス」ということで、“グレコ・ローマン・コイン”についてお話しさせていただきます。「グレコ」とはギリシャのこと、「ローマン」とはローマのこと...2000年以上前にそこで造られたコイン、つまり貨幣がどのような背景のもと考案されたのかを今回は追ってみたいと思います。
“古代コインは歴史と美術と教養のエッセンス”
ギリシヤ・ローマのコインのことを“グレコ・ローマン・コイン”ということがあります。ギリシヤ・ローマの影響下にあった地域も含めた、古代ギリシヤ・古代ローマの西洋式古代貨幣の総称です。
ここから、ちょっと掘り下げてお話します。“グレコ・ローマン・コイン”は時代的には、貨幣の創造期の紀元前7世紀ごろから、西ローマ帝国が崩壊する紀元5世紀ごろまで、1100年以上の期間を指します。それ以降のコインは、東ローマ帝国製がビザンチン帝国、ヨーロッパの他地域は中世コインとして国別に分類されています。
地域的には、西はスペインから東は北西インドに存在したバクトリア王国まで、北はブリタニアから南はアフリカ沿岸までを含む地域でした。ギリシヤ、ローマ人がイニシアチブをとった国家はもちろんのこと、ギリシヤ式コイン、つまり打製で、円形の貨幣を製造した地域全般も“グレコ・ローマン・コイン”に含まれます。また、ローマによる併合以前に造られたローマ以外のコインをギリシヤコイン、ローマ幣制の成立から、ローマの支配する地域で造られたすべての貨幣をローマコインと大別することもできます。
民族的には、ギリシヤ、ローマ諸族はもちろんのこと、フェニキア、ケルト、ゴール、ペルシア、スキタイ、エジプト、エチオピア、アラビアなど、この地域で貨幣製造を行ったすべての民族を含み、まさに歴史と美術の宝庫と言えるでしょう。また、ヨーロッパ諸国を含め、この地域に存在する各国の貨幣の原点はすべて“グレコ・ローマンコイン”に帰属するといっても過言ではありません。
人類が社会生活を始めるとともに相互間の交易が必然的に発生し、特に分業の始まりによって、交換のための一般的手段もしくは価値基準としての媒体を必要とするようになりました。まず穀物や布などの自然貨幣(物品貨幣)、続いて、移転・貯蔵・分割に効果的な金属、その中でも貴金属は最も適した媒体として用いられ、秤量貨幣が考案されます。すでにエジプトやメソポタミヤにおいても金・銀が用いられていましたが、金属の素材そのものでは、秤量・品質鑑定の手間がかかるため、商業交易の頻度が高まるにつれて、権威ある刻印を加えることにより、これらの難点を解決しようと試みました。これが定品位貨幣で、第一次世界大戦まで使用されていた本位貨幣と原理はほぼ一緒でした。現在は紙幣全盛の時代ですが、わずか80年前までは、貨幣=コインが通貨の本流であり、蓄財の根源だったのです。
貨幣の発明は、ヘロドトス(484-425BC)の“歴史”によると、小アジア アナトリア地方の西に位置したリディア王国において、アルデュス王の治世下、紀元前650年ごろだったとされています。素材は彼らの首都サルディス周辺の山地に豊かに存在し、パクトロス川の砂金ともなっていた、“エレクトラム”と呼ばれる金・銀の自然合金でした。製法は、計量されたそらまめ型の金属片を、先端に王権を象徴したライオンの頭部を刻印した極印台と呼ばれるものの上に置き、ハンマーで片面を打打刻しました。後に、ギリシヤで、金属片は円形に近い形に改良され、ハンマーにも彫刻を施して、基本的に現代のコインの祖先が完成します。
リディアでは、当時、世界一の富豪と言われたクロイソス王(紀元前546年、ペルシアのダレイオス王に滅ぼされる)の時代に、ほぼ純金に近い98%の純度を誇る金貨および銀貨が造られ、エレクトラム貨にとってかわることになりました。リディア人はギリシヤ人とは別の民族でしたが、歴代の王は、デルフィのアポロン神殿に多くの金額を奉納し、また、その神話を信じていたことからみて、交易を通じて、文化的にギリシヤと同質化しつつあったと考えられます。
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