【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
こんにちは。
6月も終わりに近づいていますが、まだ梅雨空は続く模様です。蒸し暑い日も増え、夏本番ももうすぐです。
今年も既に半分が過ぎ、昨年から延期されていたオリンピック・パラリンピックもいよいよ開催されます。時が経つのは本当にあっという間ですね。
コロナと暑さに気をつけて、今年の夏も乗り切っていきましょう。
今回はローマ~ビザンチンで発行された「ソリドゥス金貨」をご紹介します。
ソリドゥス金貨(またはソリダス金貨)はおよそ4.4g、サイズ20mmほどの薄い金貨です。薄手ながらもほぼ純金で造られていたため、地中海世界を中心とした広い地域で流通しました。
312年、当時の皇帝コンスタンティヌス1世は経済的統一を実現するため、強権をふるって貨幣改革を行いました。従来発行されていたアウレウス金貨やアントニニアヌス銀貨、デナリウス銀貨はインフレーションの進行によって量目・純度ともに劣化し、経済に悪影響を及ぼしていました。この時代には兵士への給与すら現物支給であり、貨幣経済への信頼が国家レベルで失墜していた実態が窺えます。
コンスタンティヌスはこの状況を改善するため、新通貨である「ソリドゥス金貨」を発行したのです。
コンスタンティヌス1世のソリドゥス金貨
表面にはコンスタンティヌス1世の横顔肖像、裏面には勝利の女神ウィクトリアとクピドーが表現されています。薄手のコインながら極印の彫刻は非常に細かく、彫金技術の高さが窺えます。なお、裏面の構図は18世紀末~19世紀に発行されたフランスのコインの意匠に影響を与えました。
左:フランス 24リーヴル金貨(1793年)
ソリドゥス(Solidus)はラテン語で「厚い」「強固」「完全」「確実」などの意味を持ち、この金貨が信頼に足る通貨であることを強調しています。その名の通り、ソリドゥスは従来のアウレウス金貨と比べると軽量化された反面、金の純度を高く設定していました。
コンスタンティヌスの改革は金貨を主軸とする貨幣経済を確立することを目標にしていました。そのため、新金貨ソリドゥスは大量に発行され、帝国の隅々に行き渡らせる必要がありました。大量の金を確保するため、金鉱山の開発や各種新税の設立、神殿財産の没収などが大々的に行われ、ローマと新首都コンスタンティノポリスの造幣所に金が集められました。
こうして大量に製造・発行されたソリドゥス金貨はまず兵士へのボーナスや給与として、続いて官吏への給与として支払われ、流通市場に投入されました。さらに納税もソリドゥス金貨で支払われたことにより、国庫の支出・収入は金貨によって循環するようになりました。後に兵士が「ソリドゥスを得る者」としてSoldier(ソルジャー)と呼ばれる由縁になったとさえ云われています。
この後、ソリドゥス金貨はビザンチン(東ローマ)帝国の時代まで700年以上に亘って発行され続け、高い品質と供給量を維持して地中海世界の経済を支えました。コンスタンティヌスが実施した通貨改革は大成功だったといえるでしょう。
なお、同時に発行され始めたシリカ銀貨は供給量が少なく、フォリス貨は材質が低品位銀から銅、青銅へと変わって濫発されるなどし、通用価値を長く保つことはできませんでした。
ウァレンティニアヌス1世 (367年)
テオドシウス帝 (338年-392年)
↓ローマ帝国の東西分裂
※テオドシウス帝の二人の息子であるアルカディウスとホノリウスは、それぞれ帝国の東西を継承しましたが、当初はひとつの帝国を兄弟で分担統治しているという建前でした。したがって同じ造幣所で、兄弟それぞれの名においてコインが製造されていました。
アルカディウス帝 (395年-402年)
ホノリウス帝 (395年-402年)
↓ビザンチン帝国
※西ローマ帝国が滅亡すると、ソリドゥス金貨の発行は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都コンスタンティノポリスが主要生産地となりました。かつての西ローマ帝国領では金貨が発行されなくなったため、ビザンチン帝国からもたらされたソリドゥス金貨が重宝されました。それらはビザンチンの金貨として「ベザント金貨」とも称されました。
アナスタシウス1世 (507年-518年)
ユスティニアヌス1世 (545年-565年)
フォカス帝 (602年-610年)
ヘラクレイオス1世&コンスタンティノス (629年-632年)
コンスタンス2世 (651年-654年)
コンスタンティノス7世&ロマノス2世 (950年-955年)
決済として使用されるばかりではなく、資産保全として甕や壺に貯蔵され、後世になって発見される例は昔から多く、近年もイタリアやイスラエルなどで出土例があります。しかし純度が高く薄い金貨だったため、穴を開けたり一部を切り取るなど、加工されたものも多く出土しています。また流通期間が長いと、細かいデザインが摩滅しやすいという弱点もあります。そのため流通痕跡や加工跡がほとんどなく、デザインが細部まで明瞭に残されているものは大変貴重です。
ソリドゥス金貨は古代ギリシャのスターテル金貨やローマのアウレウス金貨と比べて発行年代が新しく、現存数も多い入手しやすい古代金貨でした。しかし近年の投機傾向によってスターテル金貨、アウレウス金貨が入手しづらくなると、比較的入手しやすいソリドゥス金貨が注目されるようになり、オークションでの落札価格も徐々に上昇しています。
今後の世界的な経済状況、金相場やアンティークコイン市場の動向にも左右される注目の金貨になりつつあり、かつての「中世のドル」が今もなお影響力を有しているようです。
【参考文献】
・バートン・ホブソン『世界の歴史的金貨』泰星スタンプ・コイン 1988年
・久光重平著『西洋貨幣史 上』国書刊行会 1995年
・平木啓一著『新・世界貨幣大辞典』PHP研究所 2010年
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
春らしい陽気になったと思えば、急に気温が下がったりと、三寒四温は継続中です。
それでも梅から桜へと移り変わり、花の咲き加減など、日々の変化を楽しめる時期になりました。今年も四分の一が過ぎ、季節の移ろいを感じます。
今回はコインの歴史を語る上で欠かせないリディアのクロイソス王についてご紹介します。
個々のエピソードは主にヘロドトスの『歴史』を準拠にしています。
高校世界史にも登場するリディア王国は、世界史上初めて金属貨幣=コインを発行した国として知られています。特にクロイソスは初めて金貨・銀貨を発行した王とされています。
リディア王国は現在のトルコ西部、サルデス(*現在のマニサ県サルト)を首都として発展しました。
アッシリア帝国崩壊後のオリエント四大国(エジプト,新バビロニア,メディア,リディア)の一角を占め、紀元前7世紀には小アジアの大半を影響下に置きました。
最盛期のリディア王国版図
(Wikipedia)
ヘロドトスの『歴史』によれば、リディアはサルデスを統治したリュドス王の名に由来しており、その後は神話上の英雄ヘラクレスを始祖とするヘラクレス朝が500年以上にわたって統治したとされています。
ある時、ヘラクレス朝のカンダウレス王は妃の美しさを自慢するため、臣下のギュゲスに寝所に忍んでその裸体を見るよう命じました。しかし妃に見つかってしまい、激怒した妃から今すぐ自死するか、王を殺して王位と自分を我がものにするかを迫られました。こうしてカンダウレス王を殺したギュゲスは妃を妻とし、新たなリディア王になったと語られています。
カンダウレス王と王妃とギュゲス
(ウィリアム・エティ, 1830)
こうして紀元前680年頃から始まったメルムナス朝の時代、リディアは周辺諸国や諸民族との戦いを通じて大国化し、古代オリエントの一角を占める帝国として繁栄しました。その過程でリディアでは交易、商業が盛んになり、莫大な富を蓄えるようになったのです。
首都サルデスを流れるパクトロス川では古くから砂金が採れ「金の砂を運ぶ川」として知られていました。近郊のトモロス山でも金が産出され、これがリディア王国の富の源泉になっていました。集められた砂金は溶かして重量ごとに分けられ、領内での商取引から周辺諸国との交易、神殿への献納、傭兵への報酬として用いられました。
そしてアリュアッテス王治世下の紀元前600年頃、この金塊に発行者である王の象徴としてライオンの刻印が押されるようになりました。これが歴史上における「コイン」の始まりとされ、世界史の教科書でも紹介されています。
表面にはライオンの頭部と太陽、裏面には打刻跡とみられる陰刻印があります。ライオンの頬にはバンカーズマーク(Bnaker's mark)が打たれています。
「スターテル」とは古代ギリシャ語で「重さ」を意味し、ドラクマやオボルが登場する以前の基準となる貨幣単位でした。リディアでは最大のコイン(約14.2g)を1スターテルとし、そこから1/2、1/3、1/6、1/12、1/24、1/48、1/96と重量によって細分化されています。最も小さい1/96スターテルは0.15gほどしかなく、極小の粒のようですが、それでもライオンの刻印はしっかりと打たれています。
ここまで細分化されているのは、市中の小規模な商取引でも用いられたことを示し、貨幣経済が確実に定着していたことを表しています。
ヘロドトスは『歴史』の中で「リディア人は金属貨幣を製造・使用した最初の民族であり、小売制度をはじめたのも彼らであった」と言及しており、コインの発明と貨幣経済の発展を評価していました。
なお、1スターテルは傭兵の一か月分の給与に相当したとされ、相当な価値を有していたことが分かります。
サイズ:7mm 重量:1.13g
発行者を示して信頼性を上げた最初のコインでしたが、流通上で問題もありました。パクトロス川やトモロス山から採れる砂金は琥珀金、エレクトラム(Electrum)と呼ばれる金銀の自然合金であり、その配合割合はおよそ30%~70%程と、大きなばらつきがありました。現存しているエレクトラムコインの表面には、当時の検査跡であるバンカーズマーク(Bnaker's mark)がみられるものが多くあります。
さらに重量によって細分化されているため、小規模な商取引において端数のやりとりには不便も生じていたと考えられます。
アリュアッテスの息子であるクロイソス(在位:BC561-BC547)が王位を受け継ぐと、その支障を解消するため重大な改革が行なわれました。
それまでのエレクトラムから金と銀を分離し、純度98%の金貨と銀貨をそれぞれ発行し始めたのです。
リディア王国 BC553-BC550 スターテル金貨
(サイズ:16mm 重量:10.76g)
クロイソスの時代には金銀を分離する方法が確立され(*塩と一緒に800℃程まで熱し、純度の高い金を採り出したと考えられている)、その重量に対する交換比率も定めたとみられます。
(*スターテル金貨1枚は同重量のスターテル銀貨13枚ほどに相当か)
金属の種類を分けることによって価値の差=額面を明示したことは、流通貨幣体系の基本であり、経済の歴史上画期的な転換点でした。
当時はまだ銅貨は造られず、最も小さい貨幣は1/12スターテル銀貨(約0.9g)でした。それでもエレクトラム貨の時代よりは大きくなっており、使いやすさはわずかに向上しています。
リディア王国 BC561-BC546 1/3スターテル銀貨
(サイズ:13mm 重量:3.44g)
刻印も従来のエレクトラム貨と区別するため、ライオンに加えて牡牛も表現されるようになりました。この牡牛はリディア王国の肥沃=富そのものを象徴していると考えられています。ここに国家の権威(=ライオン)と物質的価値(=牡牛)が一体となった、後世にまで続くコインの形が出来上がったのです。
高純度の金銀素材と、それを保障する王の刻印はリディア国外でも信用を得、通商取引で広く受け入れられました。サルデスはオリエントとエーゲ海域(ギリシャ)を繋ぐ要衝にあり、人と富の交流はより一層盛んになりました。安定した通貨の発行は新たな富を呼び寄せることになり、リディアの国力を高めることになったのです。
クロイソス治世下でリディアは経済大国となり、莫大な富を得ることになります。クロイソス王は大富豪・大金持ちの代名詞となり、現在でも英語やフランス語の慣用句として定着しています。
ヘロドトスの『歴史』で言及されるクロイソス王は金持ちであることを誇示し、デルフォイのアポロ神殿やエフェソスのアルテミス神殿に豪華絢爛な献納を行なってその富を示したことになっています。実際、エフェソスの神殿遺跡からはリディアで発行されたとみられる初期の貨幣が多く出土しています。
一方、各地で出土するコインの中には、ライオン&牡牛の意匠はそのままに、銅素材に金メッキや銀メッキを施したものが発見されています。
貨幣の誕生とほぼ同時に、贋金造りの歴史も始まったことを示しています。
銅素材に銀メッキが施されたスターテル銀貨
一部が剥落して下地の腐食した銅が露出している。
莫大な富を得、権勢を誇ったクロイソスはリディア最盛期の王とされますが、同時にリディア最後の王となりました。
紀元前550年に隣国メディアがアケメネス朝に征服され、大王キュロス2世(在位:BC559-BC529)の下でペルシアが統一されました。キュロス大王がその先にある豊かなリディアに手を伸ばすのは必至でした。
クロイソス王はデルフォイにあるアポロ神殿に多額の献納を行い、神託を受けて戦争の行く末を計ろうとしました。神官の答えは「クロイソス王がハリュス川を越えれば帝国が滅ぶ」というものであり、クロイソス王はペルシアに勝てると信じて戦うことを決意した、と云われています。
しかしこの答えはリディアとペルシアどちらとも解釈でき、結果がどうなっても責任を回避できるものでした。
クロイソス王は豊富な金貨銀貨を用いて傭兵を集め、さらにスパルタとエジプト、新バビロニアにも援軍を要請してペルシアとの戦いに挑みました。
紀元前547年のプテリアの戦いにおいて両軍は甚大な被害を被り、リディア軍は一旦サルデスに引き上げました。クロイソス王は冬になればペルシア軍は進軍を止め、その間にエジプトやスパルタからの援軍が到着すると考えていました。しかしクロイソス王の目論見は外れ、冬が到来しても援軍は来ず、キュロス大王はそのままサルデスに向けて進軍を続けました。
紀元前547年12月、サルデス近郊のテュンブラ平原で行なわれた会戦で、ペルシア軍は兵糧を運んでいたラクダを前面に配置。リディア軍が誇る騎兵の馬はラクダを恐れて混乱し、その隙を突いて弓兵が矢を次々と射掛けました。
テュンブラの戦い
敗れたリディア軍はサルデス城に立て篭もって抵抗を続けましたが、14日間の包囲の後に陥落。こうして神託通り小アジアの「帝国」リディアは滅び、クロイソス王の栄華も終わりを迎えたのでした。
ヘロドトスの『歴史』には、その後のクロイソスについて興味深いエピソードが語られています。
サルデスに入城したキュロス大王はクロイソスを捕らえ、市の中心で火刑に処そうとしました。いざ火が放たれたとき、クロイソスがアポロ神に祈りを捧げると雨が降り出し、火を消し止めました。それを見たキュロス大王はクロイソスの縄を解いて助命したと伝わります。
火刑に処されるクロイソス王
(紀元前5世紀初頭, ルーヴル美術館所蔵)
クロイソス王の肖像は現存せず、全て後世の想像で描かれています。
またペルシア兵に略奪される王宮を見ても動じず、その理由をキュロス大王が尋ねると、「負けた今となっては私の財産ではない。全てあなたのものになった。あの者たちはあなたの財産を奪っているのだ」と答えました。機知に富んだクロイソスに感心したキュロス大王は助命するのみならず、厚遇で迎え入れて相談役に抜擢したとされています。
ヘロドトスが伝えるエピソードはあくまで伝承であり、歴史的な事実とは異なるとみられています。しかしクロイソスが生き延びてキュロス大王の知恵袋となったとする希望も捨てきれません。
事実、リディアを征服したペルシアはサルデスでの金貨、銀貨発行をそのまま継続しています。デザインも変えず、重量もほとんど変化しませんでした。自らの治世の証である金貨・銀貨の恩恵をリディアに残すため、クロイソスが進言したのかもしれません。
この後、アケメネス朝ペルシアはリディアの貨幣制度を基にしたダリック金貨・シグロス銀貨を発行し、強大な中央集権力を背景に帝国全土に行き渡らせました。こうして「貨幣」はオリエント世界に広く普及していきます。
また、リディアの影響下に置かれていたエーゲ海沿岸の経済活動を通じて、ギリシャにも貨幣製造が伝播し、やがて各都市で多種多様なコインが造られるようになります。こうして地中海を通して西方のヨーロッパにも貨幣経済は浸透、発展していきました。
リディアが生み出したコイン、そしてクロイソス王の栄華を支えた金貨・銀貨の登場は、現在を形作る貨幣経済の始まりでした。現存するリディアコインは、人類史の重要な一歩の証拠として大切にされています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:28 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
立春を過ぎて暖かく感じる日もあれば、寒波到来の寒い日もあります。三寒四温といった趣ですが、こういう時期こそ体調を崩しやすくなります。
くれぐれもご自愛いただき、暖かい陽気の春をお迎え下さい。
今月は、アメリカのトランプ政権が1セント硬貨(*通称ペニー)の製造停止を指示したニュースが話題となりました。
(2025年2月10日, NHK)
1枚製造するために額面以上のコストがかかる上、カード決済の普及によって細かい小銭を日常で使用しなくなっていたアメリカ。これまでに何度も廃止案が出ていましたが、素材原料を供給する中西部の鉱山企業が議会に働きかけ、毎年の大量製造を継続していました。
今回の報道では、現在市場に出回っている量が十分として製造・供給を一時的に止めるのか、1セント硬貨の通用価値そのものを廃止し、今後流通市場から消し去ってしまう方針なのか、まだはっきりとは分かりません。
(*日本の一円玉は市場での流通量が充分として、2016年以降はミントセット用以外製造休止中)
また、通貨の発行は連邦議会が大きな権限を有しているため、今回の大統領の指示が永続的なものとして実行されるのかは不透明です。
アメリカでは朝一番にペニーを拾うと、その日は幸運に恵まれるという言い伝えがあります。日本でも「一円を笑う者は一円に泣く」という言葉があり、小さなお金でも大切にするという価値観を表しています。
貨幣誕生以降、小さな額面のコインはそれ一枚では何も買えませんが、貨幣経済の基礎を支える存在でもあります。たとえ製造されることがなくなっても、立派なお金として大切にしたいものです。
今回は、古代ギリシャの植民都市ヘラクレイアで造られたコインをご紹介します。
神話に登場する大英雄ヘラクレスの名を冠した植民都市は各地に存在し、現在では○○のヘラクレイアと言及して区別しています。今回は小アジア西部のエーゲ海沿岸、現在のトルコ西部に存在したヘラクレイアです。
この植民都市はラトモス山の麓に存在したことから「ラトモスのヘラクレイア」とも称されています。
ラトモス山とヘラクレイア遺跡
(*画像:Wikipedia)
ラトモス山はギリシャ神話に登場するエンデュミオンが眠る場所として知られていました。
エンデュミオンはエリスの王であり、絶世の美男子とされています。
ある夜、月の女神セレネが眠るエンデュミオンを見初めました。不死の神と命に限りある人間との恋を悲しんだセレネは大神ゼウスに頼み、エンデュミオンを永遠に眠らせることで不老不死にし、ラトモス山に隠しました。
その後、月がラトモス山の陰に隠れる夜は、セレネがエンデュミオンに会いに来たのだと伝承されるようになりました。
ダイアナとエンデュミオン
(ジェローム=マルタン・ラングロワ, 1822)
この絵画ではセレネと同一視された月の女神ダイアナが眠るエンデュミオンを訪ねる様子で描かれています。
紀元前6世紀より前からエーゲ海につながるラトモス湾内に植民都市が建設され、背後の山からラトモスと呼ばれていました。
紀元前4世紀にカリアのマウソロス王によって征服された後、西隣に新たな都市が建設され「ヘラクレイア」と名付けられました。その後、アレキサンダー大王による東方遠征を経てヘレニズム時代になると、ヘラクレイアはイオニア地方の主要な港湾都市として発展を続けました。
ヘラクレイアとラトモス湾
赤い囲いがヘラクレイア、すぐ背後にはラトモス山が迫っています。薄紫の線が当時の海岸線であり、薄くなっている緑地は現在の陸地です。
天然の入り江に守られた良港には多くの船が風を避けるために停泊し、都市には活気が満ちていました。街路は碁盤の目に沿って計画され、周囲は強固な城壁によって守られた城塞都市でした。台地の上にはアゴラ(公共広場)や神殿が建立されました。
東隣の旧市街ラトモスは墓地として利用されていたことが分かっており、大理石の建築装飾が施された石室墓が発見されています。
エンデュミオンの聖域跡
ラトモス山に眠るエンデュミオンを祀る神殿跡と考えられています。
アテナ神殿跡
ヘラクレイアの守護神は知恵と戦術の女神アテナとされ、コインにもその姿が美しく表現されました。ヘラクレイアはその名の通りヘラクレスをはじめ、アテナ、エンデュミオンを奉ずる植民都市でした。
紀元前2世紀半ば、イオニア地方の各都市では競い合うように素晴らしい大型銀貨(4ドラクマ)が発行されました。ヘレニズム様式の彫刻の影響を受けたコインが各種登場し、貨幣をより芸術作品の域にまで高めていきました。
ヘラクレイアでは都市の守護神であるアテナ女神が表現されました。
そのスタイルは同時期にアテナイ(*現在のギリシャ,アテネ)で発行されたコインのアテナ女神像と類似していますが、より細かく装飾的であり、この時代特有の写実性に満ちています。
テトラドラクマ銀貨 BC140-BC135
アテナ女神像の目は大きく、くっきりと凛々しい印象です。細い首飾りや特徴的な耳飾り、豊かな巻き毛まで表現されています。兜にはペガサスと多頭立ての馬が繊細に表現され、当時の職人の高い技術力が窺えます。
裏面にはヘラクレスの象徴である棍棒と勝利の女神ニケ、ヘラクレイアを示す「HPAKΛEΩTΩN」銘が配されています。周囲を植物のリースで囲む様式は、ヘレニズム時代の銀貨の裏面に多く見られたスタイルです。
ニケは戦術を司る女神アテナの象徴です。アテナイのコインと同じく、ニケの代わりに聖鳥フクロウが配されたパターンも造られました。
テトラドラクマ銀貨 BC150-BC142
裏面のモノグラムは彫刻・製造した職人、または発行者を示すとされ、様々な組み合わせパターンが確認されています。
やがてローマ帝国の時代になると独自のコインは造られなくなり、アシア属州内の一港湾都市として存続。ビザンチン帝国の時代には新たな要塞や修道院が建設され、キリスト教の司教座が置かれるなど、エーゲ海における要衝の一つであり続けました。
しかし、時の経過と共にエーゲ海に流れ込むマイアンドロス川(*現在のメンデレス川)からの堆積物が溜まり、徐々にラトモス湾の入口を小さくしていきました。やがて船の出入りが困難になると、湾内にあるヘラクレイアは港湾都市としての機能を果たせなくなります。かつてエーゲ海の主要港のひとつとして栄えたヘラクレイアはついに放棄され、忘れられた都市はラトモス山の草木に埋もれていったのです。
現在、ラトモス湾は堆積物によって完全にエーゲ海と遮断され、バファ湖としてトルコの自然保護区に指定されています。かつてヘラクレイアがあった地区はカプクル村という小村になっており、周辺には古代からビザンチン時代までの栄光を伝える遺跡群が点在するのみです。その背後にはラトモス山が古代から変わらず聳えています。
現在のバファ湖―かつてのラトモス湾と遺跡
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 17:54 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
新年が明けてあっという間に3週間が経ちました。お正月気分もだいぶ薄れてきました。
寒さは日に日に厳しくなっており、最近はインフルエンザが猛威を振るっています。つい2年ほど前まではコロナ対策一色でしたが、すっかり遠い過去の出来事のようです。
くれぐれも油断せず、新年の最初の月を健やかに過ごしていきましょう。
今年は巳年ということで、蛇が表現された古代ギリシャをご紹介します。
元旦の挨拶でご紹介したコインは、ローマ帝国統治下のエジプトで発行された4ドラクマ貨でした。コインにはアガトダイモンと呼ばれる神話上の大蛇が表現されています。
表面はネルヴァ帝(在位:AD96-AD98)、裏面にはアガトダイモンが表現されています。このコインは属州都市アレクサンドリアで造られた低品位銀貨であり、エジプト属州内で流通しました。
アガトダイモンは幸運と健康の神とされ、ギリシャでは蛇の姿で表現されました。ローマ時代のアレクサンドリアではエジプトの神シャイと同一視されるようになり、豊穣や幸運、富を象徴する持物と共に表現されています。
古来より蛇は神秘性を帯びた生物として特別視され、古代ギリシャでは脱皮する姿から再生の象徴と捉えられていました。しかし地中海地域にもコブラをはじめ、毒性を有した蛇が分布しており、人間にとって恐るべき存在でもありました。
小さいながら人間の生死も左右する足のない生物は、神話世界の物語に度々登場します。旧約聖書の失楽園のエピソードでは狡猾と邪悪の象徴のように描かれていますが、ギリシャ神話では神々の使いとして登場しています。
その姿は、当時各地で発行されていたコインにも多く表現されています。
ローマ帝国 エジプト属州 4ドラクマ
同じくエジプト属州のアレクサンドリアで発行された4ドラクマ貨には、ハドリアヌス帝(在位:AD117-AD138)の肖像と、蛇に牽かせた車に乗るトリプトレモスが表現されています。
トリプトレモスは豊穣の女神デメーテールの使者とされ、二匹の大蛇に牽かせた車に乗って空を飛び、世界中に農業を伝播したとされています。
通常ギリシャ芸術では大蛇に翼がつけられていますが、このコインでは翼は無く、代わりに頭部に冠を戴いています。
この特徴は古代エジプトの女神ハトホルにみられ、ハトホルと同一視されていたレネヌテト女神を示しているとみられます。レネヌテトは穀物と豊穣の女神であり、アレクサンドリアをはじめとするナイル川下流域のデルタ地帯の都市で広く信奉されていました。
またレネヌテト女神はコブラの姿で表現されることから、コイン上の蛇との共通性が指摘されています。
ローマ デナリウス銀貨 バッカス神/セレス女神
紀元前1世紀のローマで発行されたコインには、上の4ドラクマ貨とよく似た構図が表現されています。
バッカス(=ディオニソス)とセレス(=デメ-テール)はそれぞれ豊穣を司る神であり、どちらも蛇が象徴とされています。
デメーテールは地上で娘ペルセフォネを探している途中、エレウシスの王子トリプトレモスに出会い、彼に穀物の種子と蛇のビガ(二頭立て戦車)を与えて世界中に農耕を広めるよう命じたとされています。
リディア トラレス BC166-BC67 キストフォリ銀貨
キストフォリ銀貨は4ドラクマの価値に相当し、表面のCISTAE(籠)に由来する名称。蛇が這い出すこの籠は酒神ディオニソスの秘儀に用いられた神器とされ、周囲部はワインの神を象徴する葡萄の蔦で囲まれています。裏面にも絡み合う二匹の蛇が表現されています。
エフェソス BC39 キストフォリ銀貨
表面は小アジアを統治したマルクス・アントニウスとその妻オクタヴィア、裏面は籠の上に乗るディオニソス神と二匹の蛇。
小アジアを支配したローマはこのキストフォリ銀貨を各都市で大量に発行し、現地に駐屯する兵士への給与支払いに使用、その為ローマ支配下の小アジアではこのキストフォリ銀貨が広く流通しました。
ミュシア ペルガモン 紀元前2世紀半ば 銅貨
表面には医術の神アスクレピオス、裏面は聖石オンファロスに巻きつくクスシヘビ(薬師蛇)が表現されています。
脱皮=再生と捉えられた蛇は医術の象徴としてアスクレピオス神の従者となりました。当時各地に建立されたアスクレピオス神殿では、実際にクスシヘビが大切に飼育されていました。
伝承ではアスクレピオスが杖で蛇を叩いた際、仲間の蛇が打たれた蛇に薬草を与え回復させたことから、その蛇を杖に巻きつけて持物にしたと云われています。現在でもWHO(世界保健機関)をはじめ、多くの医療関係団体のシンボルマークとして、蛇が巻きついたアスクレピオスの杖が採用されています。
ローマ BC64 デナリウス銀貨 ジュノー女神/サルース女神
サルースは健康と衛生の守護女神とされ、アスクレピオスの娘ヒュギエイアと同一視されました。特にローマでは国家安寧の守護神として奉られたこともあり、共和政時代~帝政時代を通してコインに多く表現されています。
その姿は父神の従者であるクスシヘビに餌を与える姿であり、その属性を分かりやすく示しています。構図の違いはありますが、この組み合わせはほぼ全てのコインに共通して見られます。
ローマ帝国 AD74 デナリウス銀貨 ウェスパシアヌス帝/カドゥケウス
アスクレピオスの杖と並んで有名な杖はカドゥケウス(*ケリュケイオン)と呼ばれる伝令使の杖です。
伝令神ヘルメス(*マーキュリー)の持物であり、商業や交通の象徴とされました。アスクレピオスの杖と異なり、蛇は二匹巻きついています。もともとは二本の枝だったとされていますが、それが蛇に変わり、翼が付け足されたと考えられています。
カドゥケウスは通商を象徴していることから、ギリシャやローマのコインにも度々登場します。帝政ローマではウェスパシアヌス帝(在位:AD69-AD79)のコインにみられ、皇帝が帝国内の物流や商業、経済を重視していた表れと捉えられています。
ミュシア パリオン BC350-BC300 1/2ドラクマ銀貨 ゴルゴン
神秘性を有する蛇も、現実世界では恐れの対象であり、危険な生物としても見做されていました。
神話に登場するゴルゴン三姉妹のひとりメデューサは美しい髪を持つ美女でしたが、アテナ女神の怒りを買い、髪の毛を毒蛇に変えられてしまいました。
コインには舌を出して威嚇するメデューサの正面像が表現され、周囲部には多数の蛇がとぐろを巻いています。
怪物となったメデューサの顔を見たものは恐怖で石化するといわれ、英雄ペルセウスによって討ち取られた後は盾(アイギス)に取り付けられました。
この邪視の力は魔除けと捉えられ、古代ギリシャでは盾や鎧などの武具、神殿や家庭内の装飾、コインなどに多く表現されました。こうした正面像はゴルゴネイオンと呼ばれ、シルクロードを通じて日本にも伝わり、鬼瓦に発展したという説もあります。
エウボイア島 BC338-BC308 ドラクマ銀貨
コインには蛇を捕らえる鷲が表現されています。蛇を獲物=敵と捉え、打ち倒す相手として表されています。
よく似た表現は近現代のコインにも見られ、恐ろしい蛇を倒す存在としての勇ましい鷲が強調されています。
ドイツ帝国 プロイセン王国 1913年 3マルク銀貨
1813年 ライプツィヒの戦い100周年を記念して発行。裏面に表現された大蛇は邪悪の象徴、すなわち敵であるナポレオンを象徴し、それを捕えるのはプロイセンの国章である大鷲です。
メキシコ 1968年 25ペソ銀貨
メキシコシティ五輪記念コイン。国章の鷲は古代アステカ人が定住地を決める際、神託によって「サボテンの上で蛇を食べる鷲の土地」と告げられ、テスココ湖に浮かぶ島でその鷲を見つけて新首都テノチティトラン(*現在のメキシコシティ)を建設したという伝説に基く意匠。
ローマ BC49-BC48 デナリウス銀貨
類似の意匠はローマでも見られます。ローマ史上特に有名なこのコインは、内戦期にユリウス・カエサルの軍団によって発行されました。象が前足で蛇を踏みつける印象的な図像です。
象はユリウス・カエサルの軍団を示し、踏みつけられる蛇はその敵であるポンペイウス、および元老院派を象徴しています。カエサル軍はこの銀貨を兵士たちに配ることで、その士気をより一層高めたとみられます。
時に恐れられる蛇ですが、古来より再生や医療、生命力、金運上昇など神聖な力を秘めた生き物として世界中で特別視されてきました。
巳年である今年はどんな一年になるのでしょうか。蛇のように細く長く、新しく脱皮できるような年になると良いですね。
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なお、今月29日にはワールドコインギャラリーがあるJR高架下の商業空間『2k540』にて《特別ご招待会》を開催します。
通常は休館日の水曜日に、特別な時間をお過ごしいただけます。
当日は各店舗にて各店舗でお得なサービスをご用意しております。
ワールドコインギャラリーでは当日ご来店いただいたお客様限定、全商品定価より20%OFFでご提供いたします。
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≪2k540 特別招待会≫
【2025年1月29日(水) 12:00~20:00】
▼場所:2k540 AKI-OKA ARTISAN
東京都台東区上野5-9
JR山手線 秋葉原駅と御徒町駅間の高架下
▼入り口は秋葉原寄り、蔵前橋通り近くの「特別入場門」の一箇所のみです。
※受付終了 19:30
▼ご入場時には「特別ご招待会DMはがき」、または「下の画像を印刷した紙」もしくはスマホやタブレットでこの「ページ画面」を入り口で提示して下さい。
是非とも2k540、そしてワールドコインギャラリーに遊びにいらしてください。
皆様の御来店、心よりお待ちしております!
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
こんにちは。
あっという間にクリスマス、年の瀬になりました。
寒さ厳しい日が続きますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。ついこの前まで猛暑、酷暑と言っていたのが遠い昔のようです。
今年は前年に引き続いて地金価格の高騰、ドル高傾向が続きました。純金1gは小売で15,000円超え、1ドルは150円超えが定着してしまったようにも感じられます。
もちろん金や為替の相場は世界の情勢に左右されるため、その先を見通すのは簡単ではありません。来る2025年にはどうなっているのか、なかなか予想がつきませんね。
コインの取引でもそれは反映されており、金と銀の高騰は金貨・銀貨の販売価格上昇に直結しています。昔つけた販売価格よりも、コインが含む地金価値の方が高くなっているなんてこともあるようです。
古代コインは希少性や保存状態など、アンティークとしての価値が価格に大きく反映されているので、地金相場の変動は本来あまり関係ないのですが、それでも徐々に相場が上がっているようにも感じます。
もちろん海外から輸入する場合、円安と関税は避けて通れませんが、それでも海外の市場で品薄傾向・値上がり傾向が続いていることも事実です。
現在はインターネットを通して情報を手に入れやすくなり、若い人も新規参入しやすい環境が整っています。専門的な内容の英語文章も簡単に日本語翻訳でき、その精度も年々上がっているように感じます。AIによる学習の恩恵ですね。
またSNSを通じて収集家同士がつながり、情報交換や共有が24時間できるようになりました。この傾向は分野や国を問わず、世界中どの収集市場でも起こっている現象であり、各分野・市場に変化をもたらしています。
新規参入者が多いと、入手しやすいコインが品薄になって価格が上昇するといった事例も多くなります。それまでは限られた空間で定められていた評価が、新規参入者が増えたことで再評価され、価値が見直されるようになっています。
今年沢山見かけたコインが、来年には姿を消す、といった状況もあるかもしれません。しかしこのトレンド予想もまた、地金相場や為替と同じく、なかなか読めないものです。
結局は現時点で興味のある分野、一目惚れしたコインを手に入れ、その時々で心から満足することが、一番楽しくお得な生活なのかもしれません。
今年も一年間、このブログを御覧いただき本当にありがとうございました。
何とか月一回の更新を続けられたのも、こうして貴重なお時間を割いてまでお読みいただいている方々のおかげです。
改めまして、心より御礼を申し上げます。
どうぞ皆様、素敵なクリスマスを、そして良い御年をお迎え下さい。
なおワールドコインギャラリーは12月25日(水)のクリスマスは通常通り営業しております。
年内の営業は12月28日(土)まで、年末年始はお休みをいただき、1月5日(日)から営業開始予定です。
皆様にとって素晴らしい年末年始になりますことを心から願っております。
マン島 1980年 50ペンス白銅貨
マン島で毎年発行されていた「クリスマス」コインシリーズ。ポブジョイミント社が製造し、世界中のコイン収集家に向けて販売されました。当時クリスマスをテーマにした記念コインはほとんど無く、その珍しさからクリスマスプレゼントとしても購入されました。額面は50ペンスで白銅貨、銀貨、金貨、プラチナ貨がそれぞれ製造されています。
毎年デザインが異なり、マン島の風景に溶け込む伝統的な交通機関がテーマになっています。クリスマスを祝う人々の中には、マン島の象徴であるマンクスキャットが隠れており、毎年その姿を探すのも楽しみのひとつでした。
マン島 1981年 50ペンス銀貨
マン島 1987年 50ペンス白銅貨
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:14 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
すっかり寒くなってきました。秋をすっ飛ばして一気に冬模様です。
今年もあと一ヶ月。時の流れはあっという間です。健康に冬を乗り切るためにも、体調管理にはくれぐれもお気を付けください。
今回はローマ五賢帝の筆頭である「ネルヴァ帝」のご紹介です。
ネルヴァはローマ帝国の最盛期とされる「五賢帝時代」を切り開いた人物でありながら、その治世はわずか16ヶ月の短命な政権でした。
それゆえにローマコイン、五賢帝のコインを揃える上では最も入手し難い皇帝です。
マルクス・コケイウス・ネルヴァは35年11月にイタリア中部のナルニアで生まれました。家は共和政時代から続く由緒あるローマ貴族であり、元老院議員や法律家を輩出していました。
彼自身も法律を修め、ローマの政治中枢へと進んでいきました。ネロ帝の時代には詩の才覚によって皇帝に気に入られたと云われています。
ネロ帝亡き後の権力争いに勝利したウェスパシアヌス帝の治世下でも執政官などを歴任し、ローマ元老院において確固たる地位を築いていきました。
長年の政界での経験はネルヴァの政治能力と名声を高め、次々と代わる皇帝たちとの関係も円滑にしたと推察されます。
転機が訪れたのは96年に起きた皇帝ドミティアヌスの暗殺でした。9月18日、ドミティアヌス帝は粛清を恐れる側近たちの手で刺殺されたのです。
ドミティアヌス帝の独裁的・独善的な統治姿勢は元老院の反発を買い、両者の対立は激化していました。皇帝暗殺未遂事件が度々起こったことにより、猜疑心を強めたドミティアヌス帝は元老院を敵対視し、多くの名士を迫害、粛清していきました。さらには自らを現人神として扱うよう要求し、こうした特徴からネロ帝の再来と見做されました。
そうした最中であっても、ネルヴァ自身は皇帝の同僚執政官に選出されるなど信頼と尊敬を得ていました。父帝の代から信頼されていたことに加え、既に60歳を超えた高齢であったこと、また軍事経験もない文官だったことから、競合相手として警戒されなかったとみられます。
ドミティアヌス帝のデナリウス銀貨
ドミティアヌス帝の近くにありながら恐怖政治の時代を生き抜いたネルヴァでしたが、皇帝暗殺の計画を知っていたという説もあり、皇帝に対する忠誠心があったのかは疑問です。
いずれにせよ、ネロ帝・ドミティアヌス帝といった猜疑心の強い暴君の信頼を勝ち得ていたという点において、老練なネルヴァが優れた政治感覚を持ち合わせていたことは間違いないでしょう。
暗殺の報せに歓喜した元老院は、すぐさまドミティアヌス帝の神格化拒否と記録抹消(ダムナティオ・メモリアエ)を決定。そして元老院議員の中で最も尊敬を集めていたネルヴァを新たな皇帝に推戴しました。斃された暴君に近い存在でありながら、元老院での支持も維持していたネルヴァの人徳評判の高さが覗えます。
即位直後の時期に発行されたネルヴァ帝のデナリウス銀貨
顔の輪郭や鼻の形状から、先帝ドミティアヌスの肖像に手を加えて急遽作成されたとみられます。皇帝暗殺という不測の事態に、ローマの中枢が目まぐるしく変化していたことが覗えます。
当時のローマ人から見れば高齢の域に達していたネルヴァ帝は、ドミティアヌス暗殺によって生じた混乱を収めるという難しい舵取りを任されました。
ドミティアヌス帝によって迫害されていた人々には恩赦や名誉回復がなされた一方、恐怖政治に協力した密告者たちに対する報復が始まったからです。
ネルヴァ帝と元老院は抑圧からの解放と和解を謳い、伝統的なローマ社会の秩序回復を宣伝しました。
解放と自由の女神リベルタスが表現されたデナリウス銀貨
女神は解放奴隷が被るピレウス帽を携えており、左右には「LIBERTAS PVBLICA (=公共の解放)」銘が配されています。
ネルヴァ帝の即位は直ちに帝国属州各地へ伝えられ、総督や軍団には新皇帝への忠誠を求めました。ネロ帝の最期のように政治的空白を生じさせず、反乱を防ぐ方策でもありました。
彼の公式肖像も帝国中に伝達されました。首が長く、特徴的な鷲鼻は高貴さを醸し出す反面、やせ細った神経質そうな老人といった印象も受けます。
この肖像を手本にして、東方の属州では現地発行の新たなコインが製造されました。ローマ本国から遠く離れた属州のコインであってもドミティアヌス帝は追放され、新皇帝ネルヴァに置き換えられたのです。
2000年近く前でありながら、首都ローマから発せられた情報が、迅速に帝国中に伝達されるシステムには驚くばかりです。
シリア属州都市アンティオキアの4ドラクマ銀貨
エジプト属州都市アレクサンドリアの4ドラクマ貨
即位後に発行されたコインを見ると、ネルヴァ帝がどのような治世を志向していたかが分かります。先の恐怖政治時代から転換するため、市民の公正と福祉、そしてローマの伝統を重視する姿勢を示しました。温和で堅実、慎重なネルヴァの性格が表れているような治世であり、元老院では即位後すぐに「元老院議員を殺さぬ誓い」を立てて政治の変化を示しました。
公正の女神アエキタスが表現されたデナリウス銀貨
健康・衛生・国家安寧の守護女神サルースが表現されたデナリウス銀貨
儀式で用いる神器が表現されたデナリウス銀貨
幸運の女神フォルトゥーナが表現されたデュポンディウス貨
しかしそうした政治は軟弱・優柔不断とも批判される危険性がありました。ドミティアヌス帝暗殺の余波はなかなか収束せず、特に軍隊には不穏な空気が付きまとっていました。
ネルヴァ帝自身はドミティアヌス帝の政権に協力したこともあり、支持派・不支持派の対立に肩入れすることはありませんでした。しかし軍隊や近衛隊にはドミティアヌス帝を支持する者が多く、先帝を惜しむ声が日に日に高まっていたのです。
ネルヴァ帝の政治的な弱点は軍隊の支持を得られていない点にありました。文官として出世したネルヴァは軍隊との関係を構築する機会に恵まれず、皇帝になったが故にその溝に悩まされたのです。
軍隊との協調関係を示したデナリウス銀貨
軍旗、握手図と共に「CONCORDIA EXERCITVVM (=軍隊との協調)」銘が配されています。皇帝と軍隊の協調関係を示し、兵士たちに皇帝への忠誠を訴えた意匠です。
97年夏、ついに近衛兵たちの不満が爆発し、皇帝の宮廷に押し入る事件が勃発しました。兵士たちはドミティアヌス帝を暗殺した実行犯二人の身柄を引き渡すよう要求。これに対してネルヴァ帝は自らの首を突き出し、要求を拒否したと伝えられています。
しかし老皇帝の威厳ある行動にも関わらず、兵士たちは実行犯であるペトロニウスとパルテニウスを捕らえて勝手に処刑してしまいます。
ネルヴァ帝自身は無事でしたが、この事件は皇帝が軍隊を制御できておらず、武力の前には為す術が無いことを露見しました。皇帝の権威は大きく傷つけられ、ネルヴァ帝も自らの身の安全を図るために策を講じました。
高齢のネルヴァには息子がおらず、血縁者にも適当な後継者がいませんでした。そこで軍隊内で人望が厚く、軍事行政の両面で能力が高かったマルクス・ウルピウス・トラヤヌスに白羽の矢を立てました。
97年10月27日、カピトリウム丘のユピテル神殿においてネルヴァ帝はトラヤヌスを養子にすると宣言。事実上の後継者指名であり、次の皇帝が決定した瞬間でした。
この時トラヤヌスは軍を率いてゲルマニアで活動しており、ローマにはいませんでしたが、彼の支持者や友人たちが活発に運動し、根回しを図っていたと考えられています。
複数の軍団を率いていた有力者を後継者に据えることで軍隊内は落ち着き、ネルヴァ帝の延命にも役立ちました。
トラヤヌス帝の治世最初期に発行されたデナリウス銀貨
裏面には握手するトラヤヌスとネルヴァが表現され、平和的かつ正統に帝位が継承されたことを宣伝しています。
この決定によって、有能な人物を養子に迎えて後継者とするローマ五賢帝の性格が特徴づけられました。事実ネルヴァが後継者に指名したトラヤヌスは即位後優れた統治者として能力を発揮し、その治世下でローマ帝国の版図は史上最大となったのです。
後継者指名から3ヵ月後の98年1月28日、皇帝として最大の仕事を果たしたように、ネルヴァ帝は息を引き取りました。熱病とも脳卒中ともいわれています。
すぐさま元老院はネルヴァ帝の神格化を決定。国葬後に遺灰はアウグストゥス廟に安置され、その功績が讃えられました。
ローマから離れたゲルマニアで帝位を継承したトラヤヌスはすぐに帰国せず、一年ほどを任地での後仕事に集中します。その間、トラヤヌスが皇帝として最初に行なった決定は、前年にネルヴァ帝への反乱を扇動した近衛隊長をゲルマニアに呼びつけ、その職を解任(または処刑)したことでした。
ネルヴァ帝の治世はわずか16ヶ月と大変短いものであり、ゆえに彼の皇帝としての功績は「トラヤヌスを後継に指名したこと」と言われるほど、五賢帝の中では影の薄い存在でした。しかしその政治的決断によって、後に続くローマ帝国繁栄の時代を決定付けたことも事実です。
また、短い治世の間にも市民への食糧配給や免税措置、公共施設建設の指示など、市民のための施策を数多く行ないました。こうした事業は後継のトラヤヌス帝にも引き継がれており、ネルヴァ帝が有能な施政者、名君であり賢帝であったことを示しています。
もし彼の治世がもう少し長ければ、後世の評価も変わっていたかもしれません。
トラヤヌス帝時代に発行されたアリメンタ制度を讃えるデナリウス銀貨
アリメンタ(alimenta)は福祉政策の一環であり、孤児をはじめとする子供たちを経済的に援助する制度でした。この公的養育制度はネルヴァ帝によって創設され、トラヤヌス帝に引き継がれました。
コインには食糧供給の女神アンノナと少年像、「ALIM・ITAL」銘が表現され、イタリアにおけるアリメンタ制度を示す意匠です。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:05 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
雨模様の日も多く気温が一気に下がってまいりました。この時期は特に風邪を引きやすいので注意が必要です。
今月はコインにまつわるこんなニュースがありました。目にした方も多いと思います。
読売新聞記事ページ
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Youtube
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太平洋戦争の末期、金属不足に対応するため苦肉の策として登場した「陶製のコイン」は、流通する前に戦争が終結したため世に出回ることはありませんでした。
苦しい戦争の時代を象徴するコインとして、日本貨幣収集界では有名なものでしたが、戦後80年を経ようとしている現在に50万枚も現存していたことは驚きです。
陶製のコインは第一次世界大戦後のドイツに登場し、地域通貨ノートゲルトの一種として各地で盛んに発行されました。多くはマイセンで造られ、デザインや大きさ、色も多種多様でコレクターズアイテムの一種として人気がありました。日本でもドイツの陶貨を参考にし、民間の陶器企業に研究と製造が委託されたのです。
ドイツ アイゼナハ市 1921 1マルク陶貨 マルティン・ルター
陶製のコインは100年前から存在していましたが、近年ではプラスチック製のコインも登場しています。
モルドバとウクライナの間に存在する未承認国家「沿ドニエストル共和国」では2014年にカラフルなプラスチック製コインが発行されました。
同国を支援しているロシアで製造され、半ば実験的に導入されたようです。1ルーブルから10ルーブルまでの四額面が発行され、サイズと重量はほぼ同じながら、形状と色を変えることで混同しないように配慮されています。
このコインは実際に沿ドニエストル国内で流通していたようですが、継続的な発行はされなかったようです。その後ロシアをはじめ他国が導入したという例はなく、現在では外国人向けのお土産のようになっています。コストは金属より安いのかもしれませんが、耐久性や自動販売機での使用など、実用面では問題があったのかもしれません。
コインといえば金属製で完全な円形のイメージが定着していると思います。製造方法や貨幣経済のあり方が代わっても、コイン=円形という固定されたイメージが変わることは無いように見受けられます。
貨幣価値が金属の素材とその重量によって決まる時代では、形状はあまり問題にならなかったといえるでしょう。
ブラジル 1869年 20レイス銅貨
スウェーデン 1939年 2クローナ銀貨
しかし長い貨幣の歴史では様々な素材、形状のコインが存在しました。古代中国では刀銭、ギリシャのスパルタでは針金状の貨幣など、円形の枠に留まらない形で作られていました。こうした形状の違いは価値観の変化もありますが、他額面のコインと区別しやすくするためや、他国のコインとの混同を避けるといった実用的な意味もありました。
《四角形》
2000年以上前のバクトリア王国(*現在のアフガニスタン~パキスタン北部)では四角形のコインが登場しました。四角形のコインは現在まで世界中で度々登場しており、円形に次いで例が多いように思われます。
バクトリア王国 紀元前180年-紀元前160年 ドラクマ銀貨
文字だけのコインの場合、四角形は収まりがよく、スペースを有効に活用できます。そのため偶像が禁じられているイスラーム諸国や、江戸時代の日本などでも四角形のコインが発行されていました。
ムワッヒド朝 1121-1269 ディルハム銀貨
インド ムガール帝国 1580-1581 ルピー銀貨
同じ四角形でも菱形にしたデザインのコインも発行されています。20世紀以降はイギリスの海外植民地で多く見られます。
英領バハマ 1969年 15セント白銅貨
流通用の四角形コインは角があるため、円形に比べて欠けやすいという難点がありました。
近年では流通を目的としない記念コインとして四角形のコインが採用されています。一目で通常のコインとは異なる形状であるため、特別な存在感が際立ちます。
トンガ 1977年 1パアンガ白銅貨
オーストラリア 2002年 50セント銀貨
《六角形》
六角形のコインは例が少なく、エジプトやインド、ビルマなどで発行されています。
エジプト王国 1944 2ピアストル銀貨
《七角形》
イギリスでは十二進法から十進法(1ポンド=100ペンス)に移行した際、新たに発行された50ペンス貨を七角形にしました。以降、イギリス本国とその属領で発行された50ペンスは七角形がトレードマークとして定着しました。1982年に発行された20ペンス貨も七角形です。
かつてイギリス領だった国々でも七角形コインが発行されています。
マン島 1979年 50ペンス銀貨
英領セイシェル 1972 5ルピー銀貨
バルバドス 1979年 1ドル白銅貨
《八角形》
インド アッサム王国 1696 1ルピー銀貨
この形状は中世のアッサムに存在したカーマルーパ王国が、仏教の経典『ヨーギニータントラ』の一節において「八面の地」と表現されていることに由来します。
《十角形》
十角形のコインも比較的例が少なく、マルタやベリーズ、英領香港などで発行されました。
マルタ 1972年 50セント白銅貨
《十二角形》
オーストラリアでは50セントが銀貨から白銅貨に切り替わった際、従来の円形から十二角形にして差別化を図りました。現在に至るまでオーストラリアの50セントは十二角形で統一されています。
またフィジーやアルゼンチン、コロンビアでも十二角形コインが発行されました。
オーストラリア 1988年 50セント銀貨
《楕円形》
楕円形、卵型のコインといえば、日本では小判や天保銭が思い浮かびます。円形に近いですが、世界的には珍しい形状であり、近年では記念コインとして見られる程度です。
特にクック諸島やニウエで発行されている「イースターエッグ」シリーズでは、そのテーマ性にぴったりな形として定着しています。
クック諸島 2013 5ドル銀貨
トルコ 2002年 7,500,000リラ銀貨
《星形》
現代記念コインは流通を目的としていないため、奇抜で珍しい形が多く登場しています。星型は特に人気のある形状ですが、高い技術力がないと製造できません。
オーストラリア 2001 1ドル銀貨&25セント銀貨
オーストラリア連邦100周年記念コイン。中央部の星型がはめ込み式になっており、その部分が25セント、外側が1ドルになっています。
《ホタテ貝型》
縁が波打った形状のコインはインドやイラク、スーダンや香港など旧イギリス領の国々に多く見られます。小額貨幣に多く用いられた形状でしたが、現在では記念コインとしても製造されています。
トンガ 1999年 1パアンガ銀貨
技術の進歩に伴い、多種多様な形のコインを製造できるようになりましたが、自動販売機など扱いにくさの問題や、製造コストの高さなどから結局は「円形」が最もポピュラーなコインの形として落ち着いています。
形を変えて識別しやすくする工夫も、現在は金属の色や大きさを変えることで対応することが一般的です。
形を変えずに中央に穴を開けることで識別しやすくする工夫は古くからあり、現在でも日本をはじめいくつかの国で採用されています。
ベルギー王領コンゴ自由国 1888 10サンティーム銅貨
今後はキャッシュレス化の進展により、日常的に小銭を使う機会は減少するかもしれませんが、記念コインの需要は変わらないように思われます。流通を目的しない貨幣であれば、奇抜な形状のコインもより一層増えていくことでしょう。
従来の枠に囚われない形のコインが次々と登場し、コイン収集の世界も賑やかになっていくことを期待しています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 16:56 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
残暑厳しかった9月も終わり、だんだんと涼しくなってまいりました。曇りや雨模様の日もありますが、この時期は爽やかな秋晴れが一番です。
衣替えの時節、気温の変化で風邪をひかないように気を付けたいです。
昨今はイスラエルを中心として中東情勢が緊迫化しています。戦火が広域に拡大すれば被害も相当なものだと思われます。紀元前から文明が栄えた地域である故、21世紀になっても平和とはほど遠いことに虚しさも感じます。
今回はこの地域からローマ皇帝に昇りつめた「フィリップス・アラブス」をご紹介させていただきます。
ローマコイン収集の世界では比較的よく目にする名ではないでしょうか。その治世は5年ほどでしたが、現存するコインが比較的多いため、入手しやすい皇帝でもあるのです。
マルクス・ユリウス・フィリップス
(エルミタージュ美術館収蔵)
フィリップスは204年頃にアラビア属州のシャフバ、現在のシリア南部スワイダー県で生まれたとされています。アラビア属州出身初のローマ皇帝として、そして彼自身もアラブ人の血を受け継いでいたことから「フィリップス・アラブス」の通称で呼ばれています。
現存する肖像は無骨で軍人らしい風格、質実剛健さが際立っており、ローマ帝国社会の気風の変化が見受けられます。
軍人となったフィリップスは皇帝ゴルディアヌス3世(在位:AD238-AD244)の下で急速に頭角を現し、皇帝の親衛隊長にまで出世しました。すでにセウェルス朝を経てローマ帝国中枢では東方属州の出身者が多く活躍しており、そうした時流も彼の出世を後押ししました。
ペルシア遠征で皇帝に付き従ったフィリップスは、兵糧不足と作戦失敗によって兵士たちの不満が高まっていることを察知し、ゴルディアヌス3世に対して反旗を翻す動きを見せ始めました。最前線で皇帝の支持が失われ、軍隊の推挙によって新たな皇帝が立つ前例はマクシミヌス・トラクス帝(在位:AD235-AD238)によって作られていました。
244年2月、ゴルディアヌス3世はユーフラテス河畔のキルケシウム兵営に集まった兵士たちに対し、自分とフィリップスどちらに従うかを問いました。兵士たちは同じ一兵卒出身のフィリップスを選び、歓呼の声によって新たな皇帝として推戴されました。
フィリップスは自身が仕え、さらにまだ19歳だったゴルディアヌスの処遇について逡巡するも、彼を生かしておくことは自身の政権にとって危険と判断し、処刑するよう命じたようです。
フィリップスはペルシアのシャープール王と和議を結び、軍を率いてメソポタミアから引き上げました。
その間にローマの元老院と各属州に対し、ゴルディアヌス3世は病没したため自身がその後継になったと連絡。皇帝即位の追認を得たフィリップスはドナウ河方面に転戦し、国境を脅かすカルピ族やゴート族との戦いに集中しました。
シリア属州で発行されたテトラドラクマ銀貨
(AD246, アンティオキア市)
皇帝になったフィリップスは生まれ故郷に巨大な劇場や神殿、浴場、凱旋門を建設し、ローマ風の植民都市に改造。都市名も「フィリッポポリス(*フィリップス市)」に改称されました。フィリップスの皇帝治世を通じて開発は進み、東方における最も新しいローマ植民都市として整備されました。
フィリッポポリスの劇場遺跡
(Wikipediaより)
247年になってようやくローマへ凱旋したフィリップスは、ローマ市民の支持を集めるためには盛大壮麗な国家行事が必要と考えました。そこでロムルスが新都市ローマを建国してからちょうど千年の節目にあたることを祝し「ローマ建国千年祭」を挙行しました。
もともと先帝ゴルディアヌス3世のペルシア遠征に際して凱旋式典が計画されており、これを転用・拡充して挙行にこぎつけたと云われています。
248年4月21日~23日の間、三日三晩にわたる供犠祭事がローマのテベレ河畔で行われました。マルスの野では音楽や合唱、踊りが繰り広げられ、ローマの神々に対する感謝が捧げられました。
フィリップス帝をはじめ、皇妃オタキラ・セウェラと幼い息子のフィリップス2世(*即位に際して副帝に任じられ、247年には共同統治帝に昇格)を筆頭に、多くの元老院議員や貴族、騎士階級など首都ローマの貴統が参列。多数の市民もその豪華絢爛さに酔いしれ、ローマの歴史の長さと栄光を祝福しました。
さらに帝国各地から集められたライオンやゾウ、カバ、ヘラジカ、キリン、ダチョウといった珍獣猛獣たちがコロッセオに登場し、1000人以上の剣闘士が参加する大試合が連日繰り広げられました。
この建国千年祭に際しては記念コインも発行され、皇帝一家の肖像と共に、コロッセオに集められた猛獣たちが表現されています。このコインはシリーズ化されており、現在でもローマコイン収集のテーマとして人気があります。
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨
248年のローマ建国千年祭を記念して発行されたシリーズのひとつ。ローマ建国神話の重要な場面、幼いロムルスとレムス兄弟に授乳する雌狼が表現されています。
このシリーズは共通して「SAECVLARES AVGG (*千年祭の皇帝たち=フィリップス親子)」銘が配され、デザインごとに「I」「II」「III」といった番号が振られています。
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨 ライオン
フィリップス・アラブス帝 アントニニアヌス銀貨 牡鹿
フィリップス2世 アントニニアヌス銀貨 エルク(ヘラジカ)
オタキラ・セウェラ妃 アントニニアヌス銀貨 カバ
エジプトのナイル川から連れてこられたカバのコイン。カバを表現したローマコインは珍しく、建国千年祭シリーズの中でも特に人気のある一種。
フィリップス帝はさらにローマ西部区域の慢性的な水不足を解消するため貯水池を建設したり、長く続いていたキリスト教徒迫害を緩和するなど、有能な施政者であることも示しました。
しかしドナウ川方面の情勢は相変わらず不安定であり、また自身の出身地である東方地域でも反乱の兆しが現れ始めていました。
エジプトでの蜂起によってローマへの小麦供給が途絶え、深刻な食糧不足が発生。さらに軍事支出、建国千年祭催行による支出増大によって財政は悪化し、アントニニアヌス銀貨の品位を引き下げたためインフレーションが進行しました。
特にアントニニアヌス銀貨(*2デナリウスの価値に相当)の製造数は増大し、現代でも現存数の多さから市場で盛んに取引されています。
経済状況の悪循環により、当初は歓呼の声でフィリップス帝を迎えた軍隊と市民も不満を募らせ、その政権基盤は急速に弱まっていきました。
249年、ドナウ川方面の指揮を任されていたデキウスが軍隊内で皇帝に推戴され、公然とフィリップス帝に叛旗を翻しました。
フィリップス帝はローマに進軍する反乱軍を迎え撃つため軍を率いて北上し、9月に現在のヴェローナ近郊でデキウスの軍勢と対決しました。しかし勢いは既に反乱軍有利であり、戦いの末に皇帝軍は敗北を喫しました。
フィリップス帝は戦闘に伴う傷が原因か、または見限った兵士による裏切りによって命を落としました。皮肉にも自らが裏切り、帝位を奪ったゴルディアヌス3世とよく似た最期を遂げたのです。
「混迷の世紀」と呼ばれた3世紀ローマ帝国にあって、フィリップス・アラブスは典型的な軍人皇帝の一人と評価されています。
属州の異民族出身で元老院の官職を経験しない、ローマの伝統から見れば新参の人物が、軍隊内の支持と武力によって政権を獲得し、また短期間で奪われたのです。
彼の治世は5年ほどでしたが、その間に国境の脅威に対応し、ローマ本国では建国千年祭を催行するなど、明確な業績も残しています。またアラビアにルーツを持つ人物が皇帝になったことは、ローマ社会の多民族化が浸透した証でもありました。
フィリップス・アラブスの出身地であるシリアでは、同国出身のローマ皇帝として英雄視されており、現在でも紙幣のデザインに採用されています。
シリア 1998年 100ポンド紙幣
シリア 2019年 100ポンド紙幣
中央銀行と共にフィリップス・アラブス帝のアントニニアヌス銀貨が表現されています。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:04 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。
毎日暑い日が続きますね。この頃は猛暑に加えて台風や地震があり、なかなか落ち着かないお盆休みになってしまいました。
もう少し暑さが和らいで、過ごしやすい日常になってくれると良いのですが・・・。
夏休みを利用して旅行に行かれた方も多いと思います。昨今は円安の影響で海外に行くのも大変ですね。海外旅行の代名詞だったハワイも、以前ほど気軽に行けなくなってしまいました。
今回はハワイで発行されていた「フラガール・トークン」をご紹介します。
1810年にカメハメハ大王がハワイ諸島を統一して以降、ハワイ王国は独立国として発展しましたが、1893年にアメリカからの入植者たちによるクーデターが勃発し王政は廃止。1898年、アメリカ合衆国に併合されハワイ準州が発足しました。
その後ハワイはアメリカからの投資とアジア太平洋地域からの移民によって開発が進み、オアフ島南部に位置する州都ホノルルは近代的な都市として発展しました。
アメリカはハワイに太平洋艦隊の基地を置き、アジア太平洋における重要な戦略拠点としました。一方でワイキキビーチの整備などリゾート観光開発も積極的に進められ、アメリカ本土からの観光客や太平洋を横断する船舶の寄港地として賑わいをみせました。
ホノルル市内を走る路面電車(1900年代初頭)
人口の急増に伴い都市内の人の移動、交通も整備され、ハワイ準州が発足した1898年にはホノルル・ラピッド・トランジット(HRT)が設立。
1901年に路面電車、1925年にモーターバス、1937年にはトロリーバスの運行を開始し、ホノルルの都市圏交通を担いました。交通の発達によりホノルルは郊外へと拡大し、周辺地域の開発も進められました。
1934年のホノルル市内路線図
1941年12月7日、日本軍がホノルル近くのパールハーバー(真珠湾)を攻撃し太平洋戦争が勃発すると、ハワイは対日戦の前線基地として多くのアメリカ兵が駐留。
戦後、アメリカ本土に帰った兵士たちは温暖なハワイの思い出話を持ち帰り、ハワイ=南国の楽園というイメージを広めました。
日本でも1948年に歌謡曲『憧れのハワイ航路』がヒットし、1950年には岡晴夫、美空ひばり主演による映画(新東宝)が公開され、戦後日本人のハワイに対する羨望感を高めました。
太平洋の前線基地として戦時体制下に置かれていたハワイは多くの規制がありましたが、アメリカ兵が多く駐留したことで戦争特需に沸きました。
そして戦争終結後は軍の特需に代わる産業として、観光事業に力を入れ始めたのです。かつての最前線は平和なリゾート地としてイメージを脱却させ、アメリカ本土からの観光客を呼び込みました。
人口の増加とモータリゼーションの進展によって、ホノルルの都市交通も変化していきました。複数の路線や交通機関への乗り換えをスムーズに行うため、交通トークンが盛んに利用され始めました。
ホノルル市内のトロリーバス(1950年代)。路面電車のように架線から流れる電気を動力にして走るバス。排ガスを生じさせない電気自動車として、かつては世界中の都市で運用されていました。
まだ交通系ICが無かった時代、アメリカの地下鉄や市電では切符の代わりにトークンを発行し、乗客の出入場や乗り換えを行っていました。
使用されたトークンは回収され、次の乗客のために再利用されました。こうしたトークンは多種多様であり、アメリカでは収集対象にもなっています。
1951年にホノルル・ラピッド・トランジットが発行したトークンは、楽園ハワイのイメージを体現するようなデザインでした。
両面には踊るフラガールの姿が表現され、ハワイらしさを体現しています。通常、こうしたトークンは文字だけの極めてシンプルなデザインが多く、コインのように図像化された意匠が表現されることは稀でした。当時のホノルル・ラピッド・トランジットがコストをかけてでも観光客を喜ばせようとしていた遊び心と言えるでしょう。
重量は4.1g、サイズは23mm、材質は白銅(Copper Nickel)です。現在の百円玉とほぼ同じ規格で製造されています。通常のコインと混同されないよう、左右には半月状の切込み孔が開けられています。一部は風にあおられたフラガールの腰蓑が重なっており、デザインと技術のこだわりを感じさせます。
このフラガールトークンは大成功となり、ホノルル市民だけでなく観光客にも大好評でした。
しかしあまりにも成功しすぎた故、思わぬ誤算が生じてしまいました。
このトークンを手にした観光客が可愛らしいデザインに惹かれてしまい、お土産として持ち帰ってしまったのです。交通トークンは回収して再利用することを目的としており、紙の切符よりコストが高い金属を使用しているのはそのためです。しかし使用されないトークンは回収されることなく、循環することもありません。ただ高い製造コストがかかる一方では、トークン本来の意味がないのです。
デザインが良すぎるが故の弊害によって、このフラガールトークンはたった一年ほどで製造中止となりました。
しかし使用されなくなったにも関わらず、このフラガールトークンはハワイのお土産品として、またコレクターズアイテムとして、70年以上を経た今もなお人気があります。1950年代のヴィンテージとしてアクセサリーにも多く加工され、ハワイを象徴するアイテムとして定着しています。
発行数や現存数は不明ですが、比較的入手しやすい価格で取引されています。しかし70年前の一年だけ発行され、交通機関でのみ使用されたもののため、入手するのは意外と容易ではありません。
こうした交通トークンをコイン=貨幣のカテゴリに分類していいのかは迷いますが、アメリカ併合によって独自の通貨を発行できなくなったハワイの数少ないオリジナルコインに数えても良いかもしれません。
現在では路面電車もトロリーバスも廃止され、交通トークンを使用する機会もなくなりました。それでもハワイを訪れ、ホノルル市内を走るバスを目にすることがあれば、ぜひ当時の様子にも思いを馳せてみてください。
現在のホノルル市内バス
現在でもバスはホノルル市内の重要な公共交通機関のひとつ。市民と観光客の足として重宝されています。なお2021年に交通系ICカードが導入されたことにより、乗り換えもより一層スムーズになりましたが、導入に伴って紙の乗車券は廃止されました。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 18:50 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅶ えとせとら | 個別ページ | コメント (0)
こんにちは。蒸し暑い雨模様の日が増えてまいりました。梅雨が明ければ夏本番です。
いよいよ来週の7月3日(水)には新紙幣が発行されます。現在の一万円札、五千円札、千円札は2004年から発行されており、20年ぶりの一新となります。今となってはすっかり見慣れてしまいましたが、五千円札の肖像が樋口一葉ということで、女性が紙幣肖像に採用された点が大きな話題になりました。
今回の新紙幣も数字が大きくなったり、英語表記や3Dホログラムが採用されたりと注目点は多いようです。実物を手にするのが今から楽しみです。
今回は古代アルメニア王国の大王ティグラネス2世についてご紹介します。
アルメニアは現在のカフカース(コーカサス)地方に位置する内陸国です。
古代にはアケメネス朝ペルシアの州のひとつであり、その立地からアルメニア商人はカスピ海~黒海~地中海に至るまで活動範囲を広げました。
紀元前189年、セレウコス朝シリアの支配から独立したアルメニアは初代王アルタクシアス1世の下で領土を拡大させ、カフカース地方の要衝国として地位を固めます。
しかし東の大国パルティアは西に向けて勢力を拡大させ、強大な軍事力と経済力を背景にアルメニアにも干渉しました。
パルティアの大王ミトラダテス2世はアルメニアに侵攻し、和平の条件として王子を人質に差し出すよう要求しました。王子だったティグラネスはパルティアへ連行され、その間アルメニアはミトラダテス2世の影響下に置かれることになったのです。
パルティア王 ミトラダテス2世
(在位:紀元前124年-紀元前88年)
紀元前95年にティグラネスは故国アルメニアに返され、アルメニア王ティグラネス2世として即位します。ティグラネス2世は領土の一部を割譲しただけでなく、娘アリヤザデ(アウトマ)をミトラダテス2世に嫁がせるなどしてパルティアとの同盟関係を保ちました。しかし紀元前88年にミトラダテス2世が没するとパルティア内で内紛が勃発し、アルメニアに対するパルティアの影響力は低下しました。
するとティグラネス2世はこの期に乗じて黒海沿岸のポントス王国と同盟を結び、パルティアから自立する動きを見せ始めます。
さらに大軍勢を整えるとパルティアが支配していたメディア地方に侵攻し、メソポタミア北部、小アジアのキリキア地方、さらにはシリアにまで進軍しました。当時のセレウコス朝では王位を巡る内紛が激化しており、混乱に耐えかねた首都アンティオキアの市民たちは安定を期待してティグラネス2世を歓迎しました。その他のシリア諸都市も従属し、弱体化したセレウコス朝に代わる新たな守護者として認めました。
ティグラネス2世時代のアルメニア
国境線は現代のもの。アルメニアを中心に現在のジョージアやアゼルバイジャン、イラン、イラク、トルコ、シリア、レバノンに跨る広大な領域が版図に収まりました。
ティグラネス2世はパルティア王ミトラダテス2世と同じく「大王」「諸王の王」を称し、その力関係が逆転したことを周辺諸国に示しました。
当時のアルメニアはギリシャ、ペルシア両文化の影響を色濃く受け、宮廷ではゾロアスター教が信奉される一方でギリシャ語が公用語のひとつとして採用されていました。
諸王を従えるティグラネス2世
アルメニア周辺の小王国を征服したティグラネス2世は、公の場に赴く際はその王たちを従えていたと伝わります。「諸王の王」として神格化された君主像を演出し、多様な民族からなる征服地の人々の畏怖を集めて統治にあたりました。
短期間にカスピ海から黒海、地中海に跨る大アルメニア帝国を実現させたティグラネス2世はさらに自信をつけ、自らの名を冠した新首都ティグラノセルタをティグリス川上流に建設し始めます。紀元前83年頃から建設が開始され、紀元前77年に旧首都アルタクサタから遷都しました。
新都市は外部の攻撃に耐えられるよう強固な城壁に囲まれ、中には劇場や市場、豪華な神殿が建設されました。手っ取り早く文化的・経済的に充実させるためアルメニア人のみならず、征服した各地からアラブ人やユダヤ人、ペルシャ人、ギリシャ人を半ば強制的に移住させたと伝えられています。そのためアルメニア語の他に様々な言語が入り乱れ、短期間に国際色豊かな都市として発展しました。
この時期には、ティグラネス2世を表現したコインが発行され始めました。新首都ティグラノセルタや商業が盛んなシリアのアンティオキアで製造され、広い範囲で流通していたとみられています。
アルメニア王国 紀元前80年-紀元前68年 テトラドラクマ(=4ドラクマ)銀貨
表面にはティグラネス2世の横顔が表現されています。ティグラネス2世の姿を留めた数少ない例です。耳あてがついたアルメニアの王冠を被り、ギリシャやパルティアとは異なる独自性がうかがえます。王冠にはアルメニア王国の紋章である、輝く星と二羽の鷲(=ゾロアスター教の象徴)が表現されています。
アルメニア王国の紋章
裏面には幸運の女神テュケと泳ぐ河神(=アンティオキアを流れるオロンテス川、またはアルメニアのアルタハタ川)が表現され、左右には「BAΣIΛEΩΣ TIΓPANOY (=王たるティグラネス)」銘が配されています。
この意匠はアンティオキアの象徴となり、後の時代に発行されたコインにも再び表現されています。
アンティオキアのテュケ女神とオロンテス河神像
(ヴァチカン美術館蔵)
ローマ帝国 アウグストゥス帝時代に発行されたテトラドラクマ銀貨
(シリア属州アンティオキア, 紀元前4年-紀元前3年)
我が世の春を謳歌するティグラネス大王でしたが、同盟国ポントスとローマの戦争によって繁栄に翳りが生じ始めます。ポントス王国のミトラダテス6世は小アジアの支配権を巡ってローマと戦うも敗北し、同盟国のアルメニアへ亡命。ローマはミトラダテス6世の引渡しを要求しますが、ティグラネス大王はこれを拒否してローマと戦う意志を示しました。
紀元前69年夏、ローマの将軍ルキウス・リキニウス・ルクッルスはアルメニアの首都ティグラノセルタを目指して進軍を開始。対するティグラネス大王はトロス山脈でこれを迎え撃ちますが別動隊に阻まれ、その隙にルクッルスの本隊はまっすぐティグラノセルタに迫りました。ティグラノセルタを包囲したローマ軍は攻城戦を開始し、攻城兵器を投入して城壁の破壊を試みました。城内のアルメニア軍はナフサと呼ばれる粗製のガソリンを投下して抵抗したため、化学兵器が登場した最初の戦場とも云われています。
(紀元前118年-紀元前56年)
多数の彫像や金銀を戦利品としてローマに持ち帰り、莫大な富を得て悠々自適の余生を送ったといわれています。
ティグラネス大王率いるアルメニア軍とルクッルス将軍率いるローマ軍は郊外の川を挟んで対峙し、一大会戦が行なわれました。騎馬隊と重装歩兵による激しい戦闘の末、ローマ軍が勝利を収め、ティグラネス大王は戦場から離脱して逃走しました。
アルメニア軍の敗北は篭城中のティグラノセルタ市民にも伝わり、やがて強制移住させられた外国人市民の手によって城門が開かれました。なだれ込んだローマ軍は略奪と破壊を行い、ギリシャ風の劇場や神殿に火が放たれました。まだ建設途上にあったティグラノセルタは壊滅的打撃を受け、多くの市民は難を逃れるため都市の外に逃れていきました。
征服地の各地から移住させられていた市民たちは故郷へと戻され、破壊されたティグラノセルタは二度と再建されることはありませんでした。
ルクッルス将軍は逃走したティグラネス大王を追うもアルメニア軍は決戦を拒み、決定的勝利を収めるまでには至りませんでした。
紀元前68年、ローマ軍は王妃と王子が住む旧首都アルタクサタに迫り、これを阻もうとしたティグラネス大王のアルメニア軍と衝突。ローマ軍の猛攻に対してアルメニア軍は奮戦するも、突き崩され敗北。再びティグラネス大王は逃亡し、かつての宗主国パルティアに支援を求めるも叶いませんでした。
ティグラネス大王に対するパルティアの不信感は強く、逆に王子を支援して王位簒奪をけしかけました。ティグラネスは王子の反乱を押さえ込むも、今度はローマのポンペイウス将軍が王子を支援し、アルメニアは内乱状態に陥りました。
結局ローマの介入によって内乱は収束するも、アルメニアはティグラネスが得た征服地の大半を放棄させられました。さらにローマの同盟国という位置づけで影響下に置かれ、二度と大国として勢力を拡大することは許されなかったのです。
その後もティグラネスはアルメニア王の地位を維持し続け、紀元前55年に85歳で没するまでアルメニアを統治しました。その後のアルメニアはローマとパルティアの干渉を受け続けることになり、両大国の対立に左右される情勢が続きました。
1991年のソ連解体によって独立した現代のアルメニアは、歴史上最も版図を広げたティグラネス2世を神格化し、最盛期を築いた大王として民族国家の象徴に採り入れています。
現存するティグラネス大王の肖像は当時のコインのみであり、様々な場面でコインの肖像が再現されています。
500ドラム紙幣(1993年)
ティグラネス大王勲章
(アルメニア共和国国家勲章)
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 15:28 カテゴリー: Ⅱ コイン&コインジュエリー, Ⅲ ギリシャ, Ⅳ ローマ | 個別ページ | コメント (0)
今年の3月もあっという間に最終日です。今年の春は早いのではないかとも言われていましたが、3月後半は寒い日が続きました。
結果的に桜の開花時期も例年並みとなり、久しぶりに桜咲く4月上旬となりそうです。春爛漫の陽気が楽しみです。
今回はイギリスの小島ランディ島で発行された特殊なコインとその物語についてご紹介します。
ランディ島はイギリスのデボン州、トーリッジの沖合いに位置する小さな島です。イングランドとウェールズを隔てるブリストル海峡(またはブリストル湾)では最大の島でもあります。
面積は4.45平方kmであり、南北に5km、東西に1.2kmの細長い形状をしています。
島の人口は2007年時点で30人ほどであり、その多くが本土から訪れる観光客の対応に従事しています。
海岸線のほとんどは崖になっており、様々な海鳥の繁殖地になっています。島全体が海洋保護区に指定され、希少な海鳥を観察するツアーは人気の観光資源になっています。
本土とは船で結ばれており、日帰りでも訪問することができます。短時間で一周できるほどのコンパクトさから、トレッキングや週末の休暇で訪れる人も多いようです。イギリスのメジャーな観光地とは趣を異にする、素朴な自然を楽しめる島として知られています。
ランディ島南部の桟橋と灯台
この島は歴史上、貴族の所領として受け継がれましたが、度々所有者が変わっていきました。人口と資源に乏しいことから開発や投資も進められず、政府にも重要視されていませんでした。ランディ島はイギリス領内でありながら個人の私有地という、一風変わった地位に置かれ続けました。
1925年にランディ島が売りに出された際、ロンドン在住の実業家マーティン・コールズ・ハーマンが購入しました。
彼はまだ会社員だった1903年、初めてこの島を訪れてからすっかり気に入り、その帰り道に「いつの日かランディ島を買いたい」と口にしました。それ以降度々ランディ島を訪れており、その景観や静かさを気に入り、ますます所有欲を高めていきました。
その後実業家として成功したハーマンはついに念願だったランディ島を購入する機会に恵まれ、迷わず購入を決断。名実共にランディ島はハーマンのものとなりました。
マーティン・コールズ・ハーマン
(1885-1954)
ハーマンは代理人として友人のフェリックス・ゲイドを雇い、島の実際の管理を委託しました。ハーマン自身も休暇には家族と島を訪れ、穏やかなひと時を過ごしました。
フェリックス・ゲイドと妻ルネ
夫妻はランディ島に移住し、小さなホテルを運営しながら島を訪れる観光客を受け入れました。
当初は休暇を家族と過ごす保養地として購入しましたが、当時、島には40人ほどの住民がいました。ハーマンは住民のいる島の「統治」にも関わることになったのです。
1928年、島唯一の郵便局が閉鎖され、郵便物のやり取りに支障が出る恐れがありました。ハーマンは民間郵便として事業の継続を決め、1929年11月にはランディ島独自の切手を発行しました。
イギリスで発行されている切手と異なり、英国王の肖像の代わりにランディ島に生息する海鳥パフィン(ニシツノメドリ)が表現されています。
上部には「Lundy」、さらに額面は「PENNY」ではなく「PUFFIN」となっており、イギリス本国発行の郵便切手とは異なる、私的なラベルであることが強調されています。
このパフィンはイギリスの1ペニーと等価であることが示され、ハーマン氏が独自に導入した通貨単位でした。もともと島の住民たちが物々交換を行なう際、パフィンの羽を用いていたことに由来しています。
パフィン
和名はニシツノメドリ。ウミスズメ科の海鳥で体長は30cmほど。北大西洋の広い範囲に分布する渡り鳥です。その派手な見た目から「海のピエロ」などとも呼ばれています。
そして同年中には、パフィン単位の独自コインも発行しています。
表面にはハーマンの横顔肖像、裏面には岩の上に立つパフィンが表現されています。材質は青銅です。
シンプルなデザインですが、造型は力強く写実的であり、一国家が正式に発行したコインとしても遜色ない出来栄えです。
側面部にはランディ島の灯台からインスピレーションを得たと思われる銘文「LUNDY LIGHTS AND LEADS (=ランディの灯は導く)」が配されています。
このコインはバーミンガムの民間造幣企業ラルフ・ヒートン社によって製造され、デザインと金型作成も含めて100ポンド以上の費用がかかりました。
世界中のコイン製造を請け負う企業ということもあり、偽造防止対策も施された本格的な仕上がりです。
ハーマンは1パフィンと1/2パフィンをそれぞれ50,000枚製造し、それぞれ1ペニーと1/2ペニーに相当するコインとしてランディ島で有効としました。
しかし当時イギリスで流通していた1ペニーが9.45g/30.8mmに対し、1パフィンは10g/29.29mmとサイズに差がありました。あくまでランディ島でのみ有効な代用貨幣(トークン)として発行していたことが覗えます。
しかし人口40人にも満たない小さな島で、果たして50,000枚ものコインが必要なのでしょうか?
19世紀初頭には銅貨が慢性的に不足し、日常の決済に支障が生じたため、イギリス各地で多種多様なトークンが発行されました。しかし20世紀には充分な量の小額貨幣が供給され、国内の隅々まで流通していました。
郵便事業や切手は島の生活を維持するために必要な措置でしたが、その延長線上で発行されたコインはあくまでハーマンの自己満足、記念品のような位置づけで作らせたものと考えられます。それは100ポンドもの費用を投じて、専門の造幣企業に依頼したことからも分かります。もし、あくまで島内での決済上の便宜だけを考えて発行するなら、もっと安価かつ低品質な仕上がりでも良いはずです。
結局は島民の経済活動の為というよりも、島を訪れた観光客へのお土産としての役割があったと見受けられます。
ランディ島を結ぶ本土側の船の発着地ビディフォードの銀行では、パフィンコインをイギリスのペニーに交換することができ、銀行はパフィンコインをまとめてランディ島へ送り返していました。
とはいえ、ハーマンが「ランディ島では有効な貨幣」として発行したことは非常に大きな意味がありました。これは当時のイギリスの通貨法に抵触する恐れがあったからです。
ハーマンはパフィンコインが出来上がると、サンプルを英国王立造幣局に進呈しました。この時、造幣局はこのコインの発行が1870年通貨法第5条に抵触する恐れがあると警告しましたが、ハーマンはランディ島は王室領のマン島やジャージー島などと同じく、イングランドに属していないため問題ないと回答しました。
やがて本土から警察官が視察に訪れ、酒場でイギリスのペニーとハーマンのパフィンコインが混合して使用されている実態を確認します。
アメリカのタイム誌(1930年1月20日付)のランディ島に関する記事は、島民の間でこのパフィンコインが流通し始めている様子を伝えています。
検察は1870年通貨法が個人による私的な代用貨幣(トークン)の発行を禁じているとして、1930年3月5日にハーマンを起訴。ハーマンは罰金とパフィンコインの流通停止を命じられました。
これに対しハーマンは控訴し、1931年1月13日にロンドンの高等法院で控訴審が開かれました。
ここでハーマンは、ランディ島は歴史的に自由港として開かれており、また住民はイングランド王に税を納めたこともない。さらにイギリス本土との往来には税関を通過しなければならない。よってランディ島は高度な自治権を持つ特別な地域であり、イギリスの法は及ばない。この「ポケットサイズの自治領」において、領主である自分は貨幣を発行する権利を有していると主張しました。
しかし控訴審ではランディ島の特別な地位については論点とされず、あくまでイギリスの通貨法に抵触していることが取り上げられました。結局ここでもハーマンは敗訴し、15ギニーの裁判費用、および5ポンドの罰金支払いが確定しました。
その後「パフィンコイン」も一連の騒動を経て通用停止となり、ランディ島の小さな流通市場から回収されていきました。流通していたのはわずか1年ほどと、非常に短命なコインでした。
1954年にハーマンが没するとランディ島は息子に相続されましたが、道路などインフラ設備の維持が徐々に難しくなり、1969年に再び売りに出されます。新たな購入者である富豪ジャック・ヘイワードは15万ポンドで島の所有権を得ると、そのままナショナル・トラストに寄付しました。以降、現在に至るまでランディ島は歴史・自然保護区として公益法人の管理下にあります。
「自分オリジナルのコインを作ってみたい」というのは、コイン収集家なら一度は想像してみる夢ではないでしょうか。ハーマン氏は自らの肖像を刻んだコインを発行し、自分の小さな王国の中で実際に流通させました。
残念ながら法に触れるものでしたが、発行されたコインは興味深い顛末と共に後世に残され、コレクターの間で価値を有し続けています。
ランディ島はハーマン家の所有ではなくなりましたが、この小さな島の歴史を伝える貴重な史料になったのです。
《古代ギリシャ・ローマコイン&コインジュエリー専門店》
投稿情報: 15:40 カテゴリー: Ⅰ 談話室, Ⅱ コイン&コインジュエリー | 個別ページ | コメント (0)
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